バルド、偽りの記録と一握りの真実-Bardo, falsa cronica de unas cuantas verdades-
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原題 Bardo, falsa cronica de unas cuantas verdades
製作年 2022年
製作国 メキシコ
上映時間 174分 監督
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
ニコラス・ヒアコボーネ
スタッフの続きを見る
撮影
ダリウス・コンジ
美術
エウヘニオ・カバレロ
衣装
アンナ・テラサス
編集
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
モニカ・サラザール
音楽
ブライス・デスナー
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ キャスト
ダニエル・ヒメネス・カチョ/シルベリオ・ガマ
グリセルダ・シチリアニ
ヒメナ・ラマドリッド 2022年・第79回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品作品。Netflixで2022年12月16日から配信。 『バルド、偽りの記録と一握りの真実』11月18日劇場公開決定!
本年度ベネチア国際映画祭のコンペティション部門に選出されたアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督によるNetflix映画『バルド、偽りの記録と一握りの真実』が、12月16日(金)のNetflix独占配信に先駆け、11月18日(金)より一部劇場にて公開することが決定しました。
5度に渡ってアカデミー賞受賞に輝いたイニャリトゥ監督にとって『レヴェナント:蘇えりし者』(16年)以来となる長編映画『バルド、偽りの記録と一握りの真実』は、ある男の壮大な心の旅路をテーマにしたノスタルジックコメディ。世界的センセーションを巻き起こした『アモーレス・ペロス』(00年)以降、イニャリトゥ監督が初めてメキシコで撮影した映画であり、さらに自身の体験も反映したとされる集大成的な作品です。
主人公のシルベリオ・ガマを演じるのは、ギレルモ・デル・トロ、アルフォンソ・キュアロン、ペドロ・アルモドバルらヒスパニック系大御所監督から愛されるメキシコ人俳優のダニエル・ヒメネス・カチョ。アイデンティティ、成功、死の必然性、メキシコの歴史、そして妻や子どもたちとの心揺さぶる家族の絆など、普遍的でありながら本質的な疑問に対して、シルベリオは感情豊かに、たくさんの笑いとともに向き合っていきます。 『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』でアカデミー賞脚本賞を獲得したニコラス・ヒアコボーネが共同脚本を手掛け、アカデミー賞ノミネート経験を持つ撮影監督のダリウス・コンジ(『セブン』『ミッドナイト・イン・パリ』)が65mmフィルムで撮影しました。
本作は今年の東京国際映画祭ガラ・セレクション部門での上映も決定しており、イニャリトゥ監督には14年ぶりに復活した同映画祭の“黒澤明賞”が授与されることが発表されています。 上映劇場リスト
宮城県
イオンシネマ名取
チネ・ラヴィータ ※12/9(金)~上映予定
山形県
イオンシネマ天童
埼玉県
イオンシネマ浦和美園
イオンシネマ春日部
イオンシネマ川口
千葉県
キネマ旬報シアター ※11/19(土)〜上映予定
東京都
ヒューマントラストシネマ渋谷
シネ・リーブル池袋
キネカ大森
イオンシネマむさし村山
新潟県
イオンシネマ新潟西
富山県
ほとり座 ※12/17(土)〜上映予定
長野県
長野ロキシー ※順次公開
静岡県
静岡シネギャラリー ※12/16(金)〜上映予定
愛知県
伏見ミリオン座
イオンシネマ名古屋茶屋
イオンシネマ豊田KiTARA
イオンシネマ長久手
三重県
イオンシネマ東員
京都府
イオンシネマ久御山
アップリンク京都
大阪府
イオンシネマシアタス心斎橋
イオンシネマりんくう泉南
和歌山県
イオンシネマ和歌山
福岡県
イオンシネマ戸畑
佐賀県
イオンシネマ佐賀大和
熊本県
イオンシネマ熊本 Netflix映画『バルド、偽りの記録と一握りの真実』
ロサンゼルスを拠点に活動する、メキシコの著名なジャーナリスト兼ドキュメンタリー映画製作者のシルベリオは、権威ある国際的な賞の受賞が決まったことで母国への帰郷を迫られ、メキシコへと旅立つ。まさかこの何でもない旅行をきっかけに、生きる意味すら見失うことになろうとは知らずに──。
2022年11月18日(金)一部劇場にてより公開、12月16日(金)独占配信
公式サイト 東京国際映画祭ガラセレクション。
イニャリトゥ監督最新作。
「バルド」という言葉の意味を知らずに鑑賞したので、後半のこり30分くらいで自分が気づいた時に衝撃がすごかった。(本編ラストくらいにしっかり説明カットあり。)
監督が登壇の時に「何も考えずに感じ取ってほしい」的なことを言っていたので、頭を空っぽにしてみたけど、どんどん身体の中に入り込んできた。
鑑賞して振り返るとドンドンとんでもないことに気付いたりします。
「人生は全て自分が感じ取ったままの記録である」という主題からして
おそらく、主人公は本当はメキシコ系の先住民系黒人。しかし、劇中はヨーロッパ系の俳優さんが演じている。(最後まで暴かれないので想像の域だが)
土地や人種を超越して空に憧れる主人公を圧倒的な映像美で描いている。
「LA(ロサンゼルス)って天使がたくさんいるの?(スペイン語の直訳で)」というセリフは痺れた。
作品を通して常に自由を求めて旅をする主人公。
自由=死語の象徴たる天使をこのセリフに込めたのは、ハリウッドかアカデミーへの警鐘か。
映画の聖地たるLAが、出身や人種を参加条項に加えるなど、囚われ続ける事態を暗喩しているようだった。1番自由なはずの場所で認められたはずの自分が「メキシコ人監督」という看板に囚われ続けていることへの葛藤を感じた。
他にもブラックユーモア含め、喪失を余すことなく描いた大傑作。
絶対に映画館で見てください 東京国際映画祭の舞台挨拶にて、イニャリトゥ監督は「理論スイッチをOFFにして、感じてみてください」と語った。
その言葉の通り、本作は理解しよう、分かろうとする映画ではない。本作の主人公はジャーナリストであり映画製作者。現実と夢の世界を往来する様子は“映像の魔術師”フェデリコ・フェリーニ監督の『8 1/2』を考えずにはいられない。
米国が誇るアカデミー賞で2度監督賞を受賞したメキシコ出身のイニャリトゥ監督にしか描けない内省的で半自伝的ともいえる本作。言ってしまえば、万人向けの映画ではなく、理解しようとすると退屈に感じてしまうのは間違いない。(実際、睡魔に敗れた人も少なからずいた)
しかし、制作まで6年を費やし、65mmフィルムで撮影された映像の美しさは言うまでもなく素晴らしい。(撮影監督は『愛、アムール』『ミッドナイト・イン・パリ』のダリウス・コンジ)
『バードマン』のワンカットのシームレスな映像、『レヴェナント』の自然光のみの撮影、それらを組み合わせたような『バルド』のルックは、浮遊感のある独創的で美しい映像体験をもたらしている。夢と現実を行き来する様子は、さながら監督の記憶の中を旅している感覚だ。
チベット仏教の教典「チベット死者の書(バルド・トゥ・ドル・チェンモ)」に由来すると言われるタイトル。「バルド」とは、死んだあと輪廻転生して新しい命が宿るまでの「中有(日本でいう四十九日)」のこと。まさにその精神世界を映像で表現していると考えると、一人の人間の魂と同化したような感覚だ。
「成功が私の最大の失敗だった」
偽りの記録からみえる一握りの真実。人生はままならない。フェデリコ・フェリーニは『8 1/2』で「人生は祭りだ。共に生きよう」と締めくくった。後悔に満ちた『バルド』だが、そんな人生でも「あなたがいなくなったら寂しい」と言われたようなイニャリトゥ監督の人間讃歌を感じた。
余談だが、会場となった有楽町よみうりホール、非常灯が煌々と輝き、暗い場面の多い本作のため、非常に見づらい環境で残念だった。本作、一部劇場公開でNetflix配信がメインだが、ドルビーシネマなどの環境でこそ観たい映画。公開は一部劇場のみだが、Netflixで本作を楽しむのは厳しい気もするのが本音だ。 こうゆうのまじで勘弁してほしい。フェニーリを意識しすぎてるからか、ただただ遺作臭がやばかった。やはりイメージの洪水は白黒だから観ていられるんだなと確信。自己批判をしているようで自己模倣の枠を出ない感じもいけすかない。成功が私の最大の失敗だったってクセェよ。また画でいえば逆にルビツキーの凄さを改めて感じた笑 監督好みの広角レンズのショットはやっぱり彼しかキメられないね。せっかくの65mm、ダリウスコンジならANIMAみたいな撮り方したほうがよかったかもと。とてもじゃないが174分椅子に座って集中して観ていられなかった。作家性をとことん追求できるのがNetflixマネーの強みであるけれども、果たしてそれをやり続けて収支が取れるのかは甚だ疑問。こんなんスマホで見ていられるわけがないし。メヒコ三銃士の中ではやはり私は断トツにキュアロン派です。ROMAが画でメキシコ史を炙り出したのに対しこちらはあからさまな記号と台詞で全部説明してしまった点が残念。黒澤明賞の金でこんなんは作ってほしくないなあ次作に期待。 約3時間、イニャリトゥの夢を観てたな。『バルド、偽りの記録と一握りの真実』良い夢だった。
夢って、寝てる時に周囲で流れる音とかに影響されるけど、監督が、まさしく「夢演出」って話をしていて、なるほど、新たな映像表現を模索し続けている映像作家が、Netflixに大規模な予算を渡されて好きな映画を撮って良いよって言われたら、こんな夢映画になるかと。『ROMA』と違うベクトルの贅沢さ。
表現的には、カラックスやホドロフスキーを観た時の感覚に近いかな。自由さで言えば、ミシェル・ゴンドリー。作品のテーマ的にも、彼らのように観客を喜ばそうというサービス精神よりは、監督自身の脳内で観たシーンを実写映像化した感じに近いんだろうけど、たまに、こういう映画を観れると興奮する。
#バルド 東京だと、
ヒュートラ渋谷、リーブル池袋、キネカ大森、イオンむさし村山か…。あの規模感の映画やるならIMAXでも良いくらいだと思うけど…。グランドシネマサンシャインとかも頑張れ! 明日への行進⓷
我々は何処から来て、、、何処へ行こうとしているのか???
ちょっと言葉を失う大傑作でした!!🤓この映画との出逢いは例のトレイラーでした。。。
ⓐThe Beatles「I Am the Walrus」という大ナタを振るう!ドキドキ ⓑThe Big Moon「Wide Eyes」のMVの最高のダンスに近いものが映っている!!ゾクゾク ⓒ子どもが前へ前へ走るのをカメラが追いかけるという息をのむショットの存在!!! cf Stanley Kubrick『The Shining』ポロポロ✅
今年ベストの映画になることを期待して観に行きました。160分。「え?…長いヨ…大丈夫?」☑
人生を余す事なく、描く、ハハー…時間足りないすぎますよね?😋フェリーニやベルイマン、イニャリトゥ監督自身のフィルモグラフィを引用・参照することで、400分かけてもいい内容を160分に纏めてしまったのだ!!! メキシコ生まれのジャーナリストのシルベリオがメキシコシティとロサンゼルスで幻想を彷徨うお話。バルドとは中陰とありましたが、メキシコで通じるの…?
いきなり魅力的な映像ですが、影とカメラの動きが全然合ってないのが残念。カメラがヌルヌル動き長回しも多くとも、そこへの執着はない。劇伴も音響も素晴らしく、CGの使い方も上手いです。
シルベリオの体験や願望が時空を超えて錯綜しているのか、その逃れざる反復性なのか。そこにメキシコの歴史と記憶と現在が加わっていきます。
シルベリオは端的にありがちな自家撞着的中年で、加齢に依拠した尊大さが内省を凌駕しつつ同居している、というさまがよく表されていました。
パーソナリティの表現とメキシコの現状の把握の合わせ方が抜群に上手い。相当な思索の跡が見えますが、家族性に終着させられるほどシルベリオが家族愛に寄り添う人格とは到底思えませんでした。
技術的には申し分なく、示唆の表現も出色でしたが、如何せん愛すべき人物が一人もおらず、また映像にインパクトはあっても美しさが感じられず、心には強く響かなかった作品でした。 イニャリトゥ本人とイニャリトゥのファンに向けたノベルティグッズみたいな作品で、それ以外の人が楽しむのはかなり難しかった。
ビジュアルは「バードマン」や「レヴェナント」で確立した見せ方を結構踏襲するので、「カメラがグリグリ動く〜」とか「マジックリアリズムが幻惑的〜」みたいな感想は言いやすいけど、逆に言うと二匹目のドジョウを集めて福袋にしたようなルックスが続くので、「ルベツキがいなくてもルベツキっぽい映像は作れるんだな」程度の感想しか抱かなかった。
監督本人がどれくらい意識しているか分からないけど、メキシコ版の「8 1/2」をやろうとした挙げ句に失敗した感じはする。監督本人のエゴが強すぎて、人生を省みるよりも先に自己弁護と自己憐憫が前面に出過ぎてしまった。その結果、全てのセリフが監督自身の言葉に聞こえるし、さらにそれが「お前の中ではな」で片付いてしまうような自己満精神に溢れていて、最後まで見通すのがかなり苦痛。 この「バルド 偽りの記録と一握りの真実は」は、今の社会のありようや、宗教も含めて、その背景にあるもの、そして、その中で蠢く人々を風刺した作品だが、それでも僕たちは前に進み続けなければならないという、人々に対するエールのようなメッセージも感じられる。
今、カタールで開催中のサッカー・ワールド・カップ2022の開催をめぐって、欧州を中心に、カタールやFIFAの姿勢を批判する動きが強まっている。
イスラム教国家でもあるカタールの女性差別や、過酷な建設現場で命を落としたとされる6000千人以上の低賃金外国人労働者労働者への補償未払い、そして、こうしたことが起きそうなことは予め予想がついていたにもかかわらず黙認し、開催を決めたFIFAに対する批判だ。
EU議会は、カタールに補償を求め、FIFAに開催決定に至るプロセスの開示、更に、今後こうした国でワールド・カップ開催がないよう決議までしている。
カタールは謂れのない批判だと、そして、FIFAインティファーノ会長は、現在批判を強めている国々も、過去には同様のことをしていてのだから批判する資格はないし、まず、自分たちが反省しろと強弁を振り撒いている。
この映画にも似たようなことを批判的に綴る場面があるが、僕たちの生きる世界は、往々にして同じような状況だ。
メキシコもアメリカも先住民を駆逐して成立した国家だ。
自分たちの都合で遡る時代を決めて批判しているに過ぎないのだ。
ヨーロッパだって、アジアだって太古から、あのような区割で国家があったわけじゃない。 宗教だって同じだ。
神がフィクションであることは、ほとんどの人が知るところだ。
ユダヤ教国家イスラエルの世界的な歴史学者で同性愛者でもあるユヴァル・ノア・ハラリにわざわざ言われるまでもなく、ほとんどの人は、多かれ少なかれ、そう思っていたはずだ。
宗教が相対主義に陥ると自己崩壊すると考えている原理主義者は少なくない。
しかし、果たしてそうだろうか。
地球が丸いと知っても、人間は猿から進化したと知っても、神がフィクションだと薄々勘付いても、共同体として宗教は滅んでなんかいないし、変化する価値観と共に人々に対する寄り添い方を変えてずっと続いているではないか。
生命が海から生まれたとしても、いかなる宗教も人は海に帰れとは言わないはずだ。
それは、僕たちの社会も同じだ。
人権を重要視することも、障がい者も含め社会的弱者に寄り添うことも、マイノリティを排除しないことも、搾取や貧困をなくそうと考えることも、ジェノサイドや紛争・戦争をなくさないといけないと考えることも、これらを達成しようとする行動も、過去がどうだったかと関係なく、人々がやり続けなくてはならない重要なことのはずだ。
揚げ足取りやご都合主義の批判は無くならないだろう。
だが、僕たちは不都合な真実が背景にあったとしても、それが矛盾を孕んでいるとしても、前に進み続けなくてはならないのだ。
Netflixでは12月中旬からの配信とのことだが、多くの人に観て欲しいし、様々なことを考えて欲しいと思う。
秀逸な作品だ。 生と死、現と夢、メキシコとアメリカの狭間を彷徨する男の物語。
主人公はアメリカで評価されているメキシコ出身・アメリカ在住のジャーナリスト兼映画監督。米国の大きな賞を受賞したことをきっかけにメキシコに戻るが、おかしなことばかりが起こる……。
『インフル病みのペトロフ家』ばりに冒頭から非現実的なシーンの連続。翻弄されるのを楽しみつつ、最後には辻褄が合う。タイトル「バルド(中陰)」については劇中で一度言及されるのみだが、観賞後に調べてみると膝を打つ。まさかの仏教用語。
文脈のおかしい、目まぐるしい映像の濁流にあわせて、アメリカ(人)およびメキシコ(人)への痛烈な批判が繰り広げられるが、どう考えても主人公と重なる監督自身もその対象となる。
しかし、そうした社会批評や自己批判だけではなく、映像としての快楽と真摯な人生のメッセージもあった。恍惚のダンスシーン。メキシコの荒野による殺伐とした肯定。2022年新作ベスト候補。単純に大画面でメキシコが見られるだけでも嬉しいです。現実と物語(記憶)の混合が著しい現在だからこそ価値がある作品だとも思う。
エルナン・コルテスとかオクタビオ・パスとかの単語がポロポロ出てくるので、メキシコについてある程度知っている方以外は文脈を汲むしかないかも。 劇場でこの映画をみていて、それぞれのシーンで自分の周囲に質感のある空気がたちあらわれる感覚があった。
「場」の空気を映像の中に丸ごと取り込むっていうのは、きっと映画製作においてはとても難しいことだと思う。
当たり前だけど、現実というものは、カメラで撮影され劇場でスクリーンに投影されることで、否応なく全てフィクションとして固定された性格をあてがわれるから。
例えば体感型の映画、没入感のある映画と殊更にうたわれるものは往々にして開き直って人工的であって、そこでは現実の空気は完全に取り払われている(ア〇ターとか)。それは別に悪いこととかではなくて、エンタメの神髄っていうのはむしろそこの割り切りを追求することにあるんだろうけど。
ただ、A・G・イニャリトゥは愚直に難題にこだわり続けていた。
近作、バードマンでは全編ワンカットで編集による文法を排し、レヴェナントでは自然光での撮影にこだわり、照明による恣意性をしりぞけていた。(それでいてドキュメンタリーとは異なる強いドラマを核においていた)
そしてとうとう今回、映像と音響が持つ本来的な体感性を究め、主体と客体あるいは現世と冥土の境界線上にある一人の男の現実としての「場」をまるっとつかまえることで、逆に、アバ〇ーよりも精神的に遠く光年を隔てた夢幻世界へ観客を(少なくとも俺を)誘うことに成功した。
テーマとしてはフェリーニやベルイマンのあれやこれやの焼き直しとも言えてしまうだろうし、ブラックコメディとしての現代批評が肝としてあるのかもしれないけど、
個人的には、現代技術の粋を集めてつくりだされたこの白昼夢の魅力は、確実に体感として無二のものであることであって、作品そのものの題材は全く異なれど、存在としてはもはやSFじみたものになっていると思う。
そんな体験としてのアトラクティブと、イニャリトゥ節の身につまされる切実さが入り混じって、経験として大きな満足を覚えた映画鑑賞でございました。 生と死、現と夢、メキシコとアメリカの狭間を彷徨する男の物語。
主人公はアメリカで評価されているメキシコ出身・アメリカ在住のジャーナリスト兼映画監督。米国の大きな賞を受賞したことをきっかけにメキシコに戻るが、おかしなことばかりが起こる……。
『インフル病みのペトロフ家』ばりに冒頭から非現実的なシーンの連続。翻弄されるのを楽しみつつ、最後には辻褄が合う。タイトル「バルド(中陰)」については劇中で一度言及されるのみだが、観賞後に調べてみると膝を打つ。まさかの仏教用語。
文脈のおかしい、目まぐるしい映像の濁流にあわせて、アメリカ(人)およびメキシコ(人)への痛烈な批判が繰り広げられるが、どう考えても主人公と重なる監督自身もその対象となる。
しかし、そうした社会批評や自己批判だけではなく、映像としての快楽と真摯な人生のメッセージもあった。恍惚のダンスシーン。メキシコの荒野による殺伐とした肯定。2022年新作ベスト候補。単純に大画面でメキシコが見られるだけでも嬉しいです。現実と物語(記憶)の混合が著しい現在だからこそ価値がある作品だとも思う。
エルナン・コルテスとかオクタビオ・パスとかの単語がポロポロ出てくるので、メキシコについてある程度知っている方以外は文脈を汲むしかないかも。 >>19
夢演出ってよく分かったし観ながらそう思ってた。
ちゃんと現実的なところに着地して回収したところが良かった。
上に分かろうとする映画ではない的な事が書いてあるけど、台詞は明らかに意味があってテキスト疲れしたけど、主人公の思想≒イニャリトゥ監督の文学性や哲学、志向性はよく分かったし、体感させるために敢えて鋭角なカメラワークを使って最近ならVRや3D映画の様な志向性も感じられたからなんならいっそそっちで作れば良かったのかも。
バードマンみたいなあからさまなワンカットとファンタジー回収劇よりもこっちの方がずっと好きだったわ。レヴェナントが勿論一番の傑作には違いないけど。
どうしても撮りたかったのがよく分かった。これは若者や経験の浅い人間向けでは無い。かといってシネフィル向けかも微妙だけど(わざわざ批評家出て来てたしw)
俺は>26が言う様な感想は的外れだと思ってる。カメラワークや手法は類似点もあるけど、フレーミングはまるで違う。8 1/2は視聴中に想起したけどそれをやろうとしたのでは無いと思う。単に似たような境涯に達しただけだと。 長い月日を掛けて心に蟠っていたものを死の間際に消化するかのような、受け入れていく人間の深みを感じさせる作品だと自分は感じた。
なぜ死者の書からタイトルを取ったのかも分からなければ理解は難しいとも感じた。だから敢えて「体感して欲しかった」んだろう。
映画も最後は理屈じゃないよ。ゴダールも亡くなったけど、日本の批評家はその半分も分かってない。この世の中の権威主義とそれに伴った地位名声と金がその素晴らしさを狂わせている。
それでも嘗てはお世話になったから感謝してるけどね。
とにかくどんな人にも訪れる悲しみや苦しみ、それらを受け入れるのは辛いね。
だからこんな場所でも自分は祈っておく。Blessings。 この「バルド 偽りの記録と一握りの真実は」は、今の社会のありようや、宗教も含めて、その背景にあるもの、そして、その中で蠢く人々を風刺した作品だが、それでも僕たちは前に進み続けなければならないという、人々に対するエールのようなメッセージも感じられる。
昨年のカタールで開催中のサッカー・ワールド・カップ2022の開催をめぐって、欧州を中心に、カタールやFIFAの姿勢を批判する動きが強まっている。
イスラム教国家でもあるカタールの女性差別や、過酷な建設現場で命を落としたとされる6000千人以上の低賃金外国人労働者労働者への補償未払い、そして、こうしたことが起きそうなことは予め予想がついていたにもかかわらず黙認し、開催を決めたFIFAに対する批判だ。
EU議会は、カタールに補償を求め、FIFAに開催決定に至るプロセスの開示、更に、今後こうした国でワールド・カップ開催がないよう決議までしている。
カタールは謂れのない批判だと、そして、FIFAインティファーノ会長は、現在批判を強めている国々も、過去には同様のことをしていてのだから批判する資格はないし、まず、自分たちが反省しろと強弁を振り撒いている。
この映画にも似たようなことを批判的に綴る場面があるが、僕たちの生きる世界は、往々にして同じような状況だ。
メキシコもアメリカも先住民を駆逐して成立した国家だ。
自分たちの都合で遡る時代を決めて批判しているに過ぎないのだ。
ヨーロッパだって、アジアだって太古から、あのような区割で国家があったわけじゃない。
宗教だって同じだ。
神がフィクションであることは、ほとんどの人が知るところだ。
ユダヤ教国家イスラエルの世界的な歴史学者で同性愛者でもあるユヴァル・ノア・ハラリにわざわざ言われるまでもなく、ほとんどの人は、多かれ少なかれ、そう思っていたはずだ。 宗教が相対主義に陥ると自己崩壊すると考えている原理主義者は少なくない。
しかし、果たしてそうだろうか。
地球が丸いと知っても、人間は猿から進化したと知っても、神がフィクションだと薄々勘付いても、共同体として宗教は滅んでなんかいないし、変化する価値観と共に人々に対する寄り添い方を変えてずっと続いているではないか。
生命が海から生まれたとしても、いかなる宗教も人は海に帰れとは言わないはずだ。
それは、僕たちの社会も同じだ。
人権を重要視することも、障がい者も含め社会的弱者に寄り添うことも、マイノリティを排除しないことも、搾取や貧困をなくそうと考えることも、ジェノサイドや紛争・戦争をなくさないといけないと考えることも、これらを達成しようとする行動も、過去がどうだったかと関係なく、人々がやり続けなくてはならない重要なことのはずだ。
揚げ足取りやご都合主義の批判は無くならないだろう。
だが、僕たちは不都合な真実が背景にあったとしても、それが矛盾を孕んでいるとしても、前に進み続けなくてはならないのだ。
秀逸な作品だ。 シーンの編集がとても分かりづらい。現実と幻想が境界線もなしに入り組んでいて、過去と現在の区別もないから、本作品を起承転結で理解しようとすると、混乱するだけである。おまけに時間軸も定まっておらず、流れる時間さえ速かったり遅かったりだから、ますます混乱に拍車をかける。
主人公シルベリオが自分の映画について語る通り、考えではなく感情を描いた作品なのかもしれないが、それにしては登場人物の哲学的な議論や社会的な発言が多い。
それはそうだろう。思索も感情も同じ脳のはたらきであり、密接に関係している。感情、特に怒りや罪悪感といった負の感情は価値観やパラダイムに左右されやすい。考えと感情を分けろというのは無理な話なのだ。
アメリカ人をカネのことしか考えないと貶めたり、メキシコは危険な場所だと自嘲してみせたりと、シルベリオの精神性はかなりややこしい。しかし整合性のなさも人間性のひとつだ。シルベリオにも性欲や名誉欲は人並みにあり、人間を信じるところと信じないところがある。友人は自分を映す鏡であり、自分のことのように友人を大切にするが、同時に自分のことのように友人を蔑ろにする。子どもたちの自由を重んじるかと思えば、パターナリズムの発言もする。精神性は大人であり子供でもある。感情に素直だが、自制心もある。意外に愛国者であり、差別主義者の面もある。メスチソ系のアメリカの役人がメキシコ人を軽く扱うのが許せない。
行ったり来たりのシーンや劇中映画のシーン、家族や友人やその他の人々とのシーンなどがコラージュのようになって、シルベリオという人間の等身大の姿を浮かび上がらせる。息子が飼っていたウーパールーパーのニュートラルな生命のありように対して、シルベリオの人生のなんとややこしいことか。
しかしそんなややこしい人生を、本作品はややこしいままに力強く肯定しているように思えた。どうしようもないおっさんだが、悪気はないよね、こういうおっさんが生きていてもいいよねと、そういうふうな暖かさが感じられる。そんな作品だった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています