本質的にちょっと違うのは、昭和のエロシーンは
興行的になどの理由で、男社会の男の脚本家、男の映画監督、男のプロデューサーが
女優を、映画のために脱がせて、乳を晒させて、性行為を見せることを強いてきた(自発的だというのはまあまあ言い訳)

だがこの映画の性的シーンは、自分の家を使うような監督の自己の投影であり
自分の愛の表現として必然的と考えて自分と同性の俳優たちにさせているわけで

どちらが構造としてよりキモいかは前者だと思う