【ドイツ】システム・クラッシャー-Systemsprenger-
原題 Systemsprenger
製作年 2019年
製作国 ドイツ
配給 クレプスキュールフィルム
劇場公開日 2024年4月27日
上映時間 125分 スタッフ
監督
ノラ・フィングシャイト
脚本
ノラ・フィングシャイト
撮影
ユヌス・ロイ・イメール
編集
ステファン・ベヒャンガー
音楽
ジョン・ギュルトラー キャスト
ヘレナ・ゼンゲル
バーナデット(ベニー)・クラース
アルブレヒト・シュッフ
ミヒャ
ガブリエラ・マリア・シュマイデ
バファネ
リザ・ハーゲマイスター
ビアンカ・クラース
ビクトリア・トラウトマンスドルフ
マリアム・ザリー 社会に居場所をなくしてしまった9歳の少女の姿を繊細かつ強烈な描写で描き、2019年・第69回ベルリン国際映画祭アルフレッド・バウアー賞(銀熊賞)など世界各地で数々の賞に輝いたドイツ映画。
父親から受けたトラウマを抱える9歳の少女ベニーは手のつけようがないほど攻撃的で、里親やグループホーム、特別支援学級など行く先々で問題を起こしていた。ベニー本人は母親のもとへ帰ることを望んでいたが、母親はベニーに愛情を持ちながらも接し方がわからず、施設に押しつけ続けている。そんな中、非暴力トレーナーのミヒャは3週間の隔離療法を提案し、ベニーと2人きりで森の山小屋で過ごすことに。はじめのうちは文句を言い続けていたベニーだったが、徐々にミヒャに対して心を開き始める。
本作出演後に「この茫漠たる荒野で」でハリウッドデビューを果たしたヘレナ・ゼンゲルが主人公ベニーを熱演し、「西部戦線異状なし」のアルブレヒト・シュッフがトレーナーのミヒャを演じた。監督・脚本は、本作が長編デビュー作となるノラ・フィングシャイト。 ジュニアみたいでプログラムぶち壊しだよね
育ちが良い家は幼稚園の卒園でパーマあてたとか言ったみたいな報道だが 強力てことらしい
調子のると普通に考えてもなぁ
大学の方がすげえだろ つまり65で激務・睡眠不足なんかな
結局JKが毎日残業続きで無理やりやらされたラッパーをdisして
心が折れそうだな スケート名物
ちょい無理あるよ(このままじゃお蔵入りになっちゃう) >>9
冷静になってらか味わえ
警察予備隊に過ぎん
安全保障も独自なものだもんな
アイスタ売り持ち多いだろうから国の調査なんかお察しだろ 試写で。
怒りと暴力を抑制できないベニーは親に捨てられ、やがて福祉も彼女を見放し始める。主演のヘレナ・ツェンゲルは本作の後、『この茫漠たる荒野で』に出演。9歳で完全に役柄を把握している天才。強い使命感と個人的情感の間で揺れるソーシャルワーカー役のアルブレヒト・シュッフも素晴らしい。 父親から受けたトラウマで、突然手につけようがないほど暴れる9歳の少女ベニー。
行く先々で問題を起こし施設を転々としている。しかし、ベニー母と暮らす事を望んでいる。
非暴力トレーナーの男性が登場。3週間の隔離療法として山小屋で過ごす事に。
主人公ベニーを演じたヘレナ・ゼンゲルの演技がとにかく素晴らしい。感情に爆発する瞬間とか衝撃。どこかで観た顔だなと思ったら、この映画の後にハリウッドからオファーされてトム・ハンクスの『この茫漠たる荒野で』に出ていた。
ベニーが繰り返し暴れるので、観ている側もうんざりするが、それこそ劇中の大人たちの気持ち。ラストは救われたのか?どうなのか?観客に委ねられる。
昨今の「トー横キッズ」問題やSNSを通じて慰め合っている若者たちにもなんだか通じる話なんだろうな。 9歳の少女ベニー(ツェンゲル)は、幼少期に父親から受けたトラウマを背負い、
ちょっとしたきっかけで手の付けようのない暴れん坊と化してしまう。
そのため母親は養うことが出来ずも里親、グループホーム、特別支援学校
どこにいっても返されてしまう。
施設のスタッフ(シュッフ)らは彼女のために、いろいろ手を尽くす。
問題を抱えた子供を救うためのシステムですら救うことが出来ない
システム・クラッシャー の子供の話。
普通にしていても全く可愛くないのがリアルで良い。
いきなり切れる主人公が赤ん坊を抱きかかえて、母親が返すように
頼むシーンは恐怖そのもの。
こんな子供どうしようもないと思うが、ラストはアフリカでの矯正
プログラムを受けに空港に行くも逃げ出すシーンで終わる。
安易な解決を示さないのはリアルであるが映画的にこれでいいのか
疑問が残った。 システム・クラッシャー
所々ドキュメンタリー作品を見てる様な感覚に陥る。主人公のベニー役の子の演技がとてつもなく凄い。自然と惹き込まれる。
とにかくベニーに幸せになってほしい、ベニーの望み通りになって欲しいと願って観ているもどうしてもうまく行かない。決して救われる可能性がゼロなわけではない。
時折見せる優しさ、幸せそうな笑顔が彼女を救おうと気持ちを奮い立たせてくれるもどうしてもうまくいかないことに繰り返し。
最後のミヒャ同様こちらも心が折れかけるも、周りの大人が絶対に心折れてはいけない事だけは終始作品から伝わる。
明確な解決法はこの作品では描かれていなかったがこれが現実なのだろう。
登場人物達と同様不安や恐怖、葛藤などを味わう事のできる作品であった。 この子、怖いんですけどォ〜っ...😱😱😱
まぁ...
親が悪いんだろうけど...
この娘に全く同情、共感が出来ない。
逃げるだけで誰も救われない...😮💨
私には子育ては無理ですねっ...😅笑
先日は可愛い女の子を見れたのに...
来週、口直しに『バジュランギおじさん〜』の"シャヒーダーちゃん"観にいこっ!☺笑 本作は、衝動を抑えきれず大暴れしてしまう9歳の少女ベニーを描く物語である。しかしまず僕は、映画で描かれている国(たぶんドイツ)の福祉制度に驚かされてしまった。
ベニーは、基本的に保護施設で暮らしている。「たらい回しにされている」という表現の方が正しいが、その辺りは後で触れよう。ベニーのことは、社会福祉課のバファネが担当している。
ではそもそも、ベニーは何故保護施設にいるのだろうか?
日本の場合、「両親ともいない子ども」、あるいは「親からDVやネグレクトを受けている子ども」などが児童養護施設で暮らしていると僕はイメージしている。つまり「親がいない」あるいは「親の元にいさせられない」という条件でないと入所が認められないイメージでいる。はっきりとした知識は無いが、概ね間違ってはいないだろう。
さてベニーだが、まずベニーの場合、母親はちゃんといる。連絡も取れるし、さらに彼女はベニーの弟・妹に当たる2人の子どもを養育中である。再婚予定なのか、恋人と思われる男性はいて、母親はどうやら仕事をしていないようなので、その男性に養育してもらっているのだと思われる。
さて、この場合、日本だと児童養護施設への入居は認められるだろうか? ベニーの母親クラースは要するに、「私にはこの暴れん坊の娘は育てられない」という理由で保護施設へと預けているのだ。なかなか日本では、そのような理由では受け入れが認められない気がする。
さらに驚かされたのは、作中に「通学付添人」という職業の人物が出てくることだ。彼の仕事は、「子どもが学校に通うのに付き添い、必要に応じてその子の授業にも同席する」というもののようだ。日本ではちょっと同種の仕事をイメージすることは出来ない。 また、福祉的な話ではないが、ある場面でクラースが警察を自宅に呼ぶ場面が出てくる。この場面も、日本だったら「民事不介入」を理由に、恐らく警察はそのまま帰ってしまうのではないかと思う。しかし映画では、「大暴れしたベニーを警察が連れ帰る」という対処がなされていた。この対応にも、ちょっと驚かされた。
このように、日本とはまるで違う「子どもへの福祉環境」が整っているのである。
僕は以前、「ヨーロッパでは、『子どもは社会全体で育てるもの』という意識が当たり前」という話を聞いたことがある。だから、「学費が無料」みたいな仕組みが当たり前のように成立する。しかし日本は、まだまだ「子どもは家庭で育てるもの」という意識が強い。そしてこのような意識が強いため、「なんで他人の子どもの学費を私の税金で賄わなければならないんだ」という感覚になり、学費無料という施策が実現しにくい、みたいなことを聞いたことがある。
最近で言えば、「子持ち様」という言葉が、SNSを中心に使われている。これは要するに、「『子育てをしている社会人』ばかりが優遇されているように見える」ことを皮肉った言い方だ。個人的には、凄まじい言葉が生まれたものだな、と感じる。僕は結婚してもいないし子どももいないが、子どもを産んで育ててくれる人には頑張ってほしいという気持ちしかない。まあ僕の場合、現実的に、「子育てをしている同僚の仕事を負担している」みたいな状況にはないのでそう感じるだけかもしれないが、それにしてもなぁ、と感じてしまう。
本作のタイトルである「システム・クラッシャー」とは、「福祉が充実した環境でも、その支援の手からこぼれ落ちてしまうような極端な存在」みたいな意味であるようだ。そして本作で描きたいテーマもまさにそれ、つまり「ベニーのようなシステム・クラッシャーは支援を受けられなくても仕方ないのか?」であると思う。しかし大前提として、本作で映し出されている福祉環境が日本とはまるで違うため、僕はそのテーマ以上に「このような福祉環境が存在する社会である方がいい」という受け取り方を強くしてしまった。 「ベニーが救われるか否か」ももちろん大事だが、日本に生きていると、「ベニーみたいな『システム・クラッシャー』ではないのに、まったく救われていない子どもたち」がたくさんいるわけで、「こういう社会なら、今救われていないだろう多くの子どもが救われるんじゃないか」と感じた。
日本では、親が自分の子を育てられないと感じても、「DV」や「貧困」などの事情がない限り支援は受けられないはずだ。そういう事情がなくたって、「シンプルに子育てがしんどい!」という人だっているはずだ。でも、そういう声はなかなか挙げられない。「親失格」みたいな受け取られ方になるからだ。そのため、追い詰められた親は、子どもを捨てたり、殺したりしてしまう。
そうなる前に出来ることはあるはずだし、まさに本作で描かれる社会がそのような仕組みで回っているわけである。日本も「子育て支援」みたいなことをやろうとしているみたいだが、その政策を聞いても笑っちゃうようなわけわからんことばかりしている。マジでもっと子どもに金を注ぎまくった方がいいと思うけどね。
さて、まずそのような「こういう福祉環境がある社会って良いよね」という感覚を抱いた上で、「じゃあベニーは救われるべきなのか?」みたいな話にも踏み込んでみたいと思う。
その前にまず、福祉制度に限らず「あらゆるルール・制度を整える際の僕が考える大前提」について触れておきたいと思う。
ルールや制度を作るというのは本質的に、「どこかに境界線を引くこと」である。そりゃあ理想論で言えば「国民全員を対象にする」のがベストだが、色んな理由からそうはいかない。だから何らかの線引きをして、対象を絞らざるを得ない。つまり、ルールや制度を作る場合、必ず「そのルールや制度からこぼれ落ちてしまう人」が出てくることになる。 そして僕は、この状況は「仕方ない」と考えている。どれだけ対象を広げる努力をしたところで、「全員を対象にすることは出来ない」のであれば、どこかに必ず境界線は存在する。そして境界線が存在するなら、不幸にもその外側に置かれてしまう人だって必ず出てくることになるからだ。
さて、このような大前提を踏まえた上で、さらに、本作を観てもらえば分かるが、ベニーは凄まじく扱いが大変だ。作中で母親のクラースはかなり「酷い」存在として描かれるし、社会福祉課のバファネが「クソ女」と呼んだりする程だが、それでも、「確かにベニーを育てるのは諦めたくなるよなぁ」と感じもした(ただ、クラースの振る舞いは好きになれないが)。
ちょっとしたことで暴れるし、叫び回る。優しさを発揮する場面も多々あるのだが、それ以上に、まさに”一触即発の狂気”が発動する場面の方が圧倒的に多い。さらに納得できないことがあれば、包丁を手にとって死んでやると口にしたり、車の窓に頭をぶつけて流血したりするのだ。
もちろん、ベニーがそうなったのはベニーの責任というわけではない。作中では「母親の話によると」とただし書きが付くのでホントかどうかは不明だが、ベニーは幼い頃に(恐らく父親から)虐待を受けていたからだ。そのせいで、「顔を触られると誰も抑えられないほどのパニック発作が現れる」のだ。そしてそんなベニーに耐えきれなくなった母親が、ベニーを手放し保護施設に預けているというわけだ。
そんなベニーのほとんど唯一と言っていい願いは「母親と一緒に暮らすこと」である。しかしベニーは、自分を抑えきれないためにどんどん母親から遠ざかってしまう。彼女自身も、「暴れちゃうからママと一緒に暮らせない」ということは理解している。しかしそれでも、脳や身体が言うことを聞いてくれないのだ。
社会福祉課のバファネや、通学付添人であるミヒャはかなり辛抱強くベニーと関わろうとするが、それでもまったくダメ。ベニーは、「母親と一緒に暮らしたい」と望みながらも、その望みが遠ざかるような方向にしか行動することが出来ない。 そんなベニーと周囲の人間の奮闘を描き出す物語なのだが、僕は映画を観ていて、「ベニーを救うのは難しいだろうなぁ」と感じてしまった。何事にも限度はある。「ベニーを救えない福祉環境はダメだ」という評価は、ちょっとあまりにも厳しすぎると思う。
ただ、「じゃあだったらベニーをどう扱うべきなのか」と聞かれると、なかなか返答に困る。作中では「閉鎖病棟への入院」も検討されており、ただ法律で12歳以上と決まっているためそのような決断には至らなかったわけだが、個人的には「閉鎖病棟への入院」も止むなしという感じはする。
作中では、バファネが「37箇所の保護施設から断られた」と話していたり、あるいはミヒャが「ベニーと2人きりで3週間森の中で過ごす」みたいな対策を取ったりしている。作中では「ベニーが大暴れしている様子」ばかりが描かれるわけだが、描かれていない部分では、周囲の大人がかなりベニーのために手を尽くしていることが伝わるのだ。
もちろんそれらは、本質的にはベニーの希望に沿うものではない。ベニーは「母親と一緒に暮らすこと」を望んでいるが、周囲の大人は決してその希望を叶えるために動いているわけではないからだ。とはいえ、厳しい言い方ではあるが、その希望が叶わないのは「ベニーの自業自得」である。
そんなわけで、僕はやはり、「ベニーが救われないのは仕方ない」と感じてしまう。なかなか嫌な現実ではあるが。
映画はとにかく、気持ちいいぐらいベニーに共感できず、その点が清々しい。かなり厳しい現実が描かれている作品なのだが、ベニーが「悲壮感を漂わせる」のではなく「暴力的に大暴れする」ことの方が多いため、悲しい物語に見えない感じもある。大体いつもショッキングピンクの服を着ていることも、作品全体のポップさを引き上げていると言えるように思う。
福祉環境が整った国の人間が観れば「境界線上にいる人の救済の難しさ」みたいな話として受け取られるだろうが、日本のような子どもの福祉環境が脆弱な国の人間からすれば、「なんと恵まれた社会なんだろうか」みたいに見えてしまった。「子育て」について社会全体で考えるきっかけにもなり得る作品ではないかと思う。 システム・クラッシャーという言葉、初めて知った。
冒頭から強烈な描写に引き込まれて、終始ヒリヒリした空気感に固唾を飲んで観てた。
トラウマのフラッシュバックの表現が怖かった。
とにかくベニー役の子の演技が凄まじくて、衝撃を受けた。
ミヒャ役の俳優さんも素晴らしい。初めて見たけど、結構有名な作品に出てるんだな。
エンディングのニーナ・シモンの「Ain't Got No, I Got Life」が心に沁みた〜。
劇中の音楽の使い方も好きだった。
最初のほうでベニーが車の中で歌ってた“8本足のタコ刑事♪”の歌が気になるな。