【BLUE GIANT】大の音を想像するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
ジョージコールマンがリンクのラバーでコルトレーン系のアドリブとってる感じと思うのだが 音数がすごくて音量がでかいというのがイマイチ想像しにくいんだよなぁ ジャズ素人の俺が真っ先に思い浮かべたのはファラオ・サンダース いずれにしても多くの人に受け入れられる音ではないと思う。カマシだのファラオだので名声と富を得るというのはなしだと思う。チグハグなんですよねこの物語。3ボーンとかケニーじいならわかります。熱い音だからグリフィン。60年代か。ライブ成功したから欧米か。プロはそれを毎月、毎年やるわけです。ギャラだけで食えません。周りが全員協力的。奇跡です。大の目指す音が不明のまま絵面でなんとなく頑張っている風。ライブは一部分で音を考えうる、聞く、人間を磨く。そこに10年以上かかります。聴衆も大人だからです。演奏家も成長しないと聞いてもらえません。ハリボテの中身の感じられない音です。非難でなく普通そうだと思います。作者はそれでいいと思いますが、演奏家でさえも夢物語に感動したということが心配です。 この物語は権威主義に陥っています。
ライブハウスのオーナーがダメ出しします。そこが基準なんでしょうか。私の知人のオーナー
は親がビル持っていてひまつぶしにライブハウスやってて知ったかぶりしているだけです。
オーナーに認められたらすごい、ヨーロッパで認められたらすごい、次はアメリカ。自分を
掘り下げずにどこか権威に認められることで物語が進行します。人間承認欲求はあります。
しかし権威によるものだけでなく、自己を見つめる作業を通じて他社との承認を得たい
という承認欲求も大事です。ジャズの発祥がそうでした。農園で街角で発生したうたが
ありました。欧米が日本より上。そんな劣等感も垣間見えます。これはいくらでも金がほしい
名誉を得たい。そうしたメッセージばかりしか感じないんですが。権威という強さを求める
人間の弱さ。それをテーマにしているのでしょうか。わからないんですよ。 東京で一ヶ月生活する生活費を演奏のギャラだけで稼ぎ出すのは不可能。ツアーなど場所を変える
ことで新規のお客さんに聞いてもらえるが告知や移動でさらに金がかかる。金銭面が不明。
アメリカなど新しい土地に行けば最初はチヤホヤされるが続くものではない。才能があるからと
周りが後押しするが、それ程までに音楽に理解力ある人ばかりなのか。無責任なのか。アメリカで
たくさんの聴衆が集まることが世界一なのか。現代のネット社会では考えられない。むしろ
逆に仙台にいても音楽を追求できるのが現代だ。大の音がどんどん凄くなってゆく、という
ことも具体的に説明がされていない。行間から読めない。謎だらけだ。 音楽性、人間性はおよそ10代前半で決定してしまう。それまでにどのくらい音楽体験
があったかで相当違う。大は練習するのはいいとして、何を聴いたのか、それをどう理解
したのか不明。練習時間より長いくらいそれが必要だ。頑張って練習したら周りが感動した。
それには深い人間的な共感があるはずだが、それも不明だ。絵では汗をかいているが、その原動力が僕には
それが何なのかわからない。文句つけるのでなく内面、原動力が謎だ。 1巻で閉店後のスーパーで家族に聞かせて涙するということから、アルバートアイラー
的な音と推察した。この間まではスポーツを愛する普通の少年だったのに、ジャズだか
世界一、だか言っておかしくなってしまった。この状態では隔離されてもう会えないと
皆が泣いた。だからアイラーだね。 ジャズをスポーツとみなすのか否定するのか。クラシックでも似た命題がある。
スポーツ化するのであれば一定の基準を作り、そこに多くの賛同する人を集め、競わせる
。そうなれば自ずと順位が確定し優劣が他にも明確になる。それは他を支配するための資本主義的
システムだろう。組織は機能し外部とは折衝しやすいなど利点もある。しかし音楽とは個、それのみ
が持つ唯一普遍のものであり、他者と共存はするが上下関係はないとする革命的アナーキーな
表現手法とするもの。それは単純、純粋であるがゆえに摩耗し刹那的でさえある。 大は常に自己の評価者を求め、権威づけするための旅、ロードだった。世界一になるため
には世界一を宣言してくれる他者が必要だったわけである。そこには全く個が自立してお
らず自らの音楽性を他者に求め、その評価軸が自己であると錯覚する。青年まんがとしては
あまりに他動的、自己欺瞞性、などが見えて痛々しい。それらを隠蔽するかのごとくの成功
という名のもとの世界一に向けての装飾。音楽を愛する者なら気づいてほしい。他者に認められる
以前に自己が自己を認める必要性を。 blue giant が山田洋次監督がメガホンをとり実写化か。題して大はつらいよ 葛飾立志編
大 「こう見えてもね 俺は 世界一になるんだよ。」
父 「ばかなこと言ってねえで 市場に仕入れに行ってこい。」
ゆきのり 「だから大は40過ぎても独り身なんだよ。」
妹 「おにいちゃんが世界一っていうんなら応援してあげったっていいじゃない」
大 「いいこと言うねえ 結構けだらけ猫灰だらけ 大したもんだよ蛙の小便
見上げたもんだよ屋根やのふんどし」
一同 「ははははあ 大にはかなわねえや」 ババババーと吹いたら学校中、が感動する。ババババーと吹いたら、東京のトップに立つ
その繰り返しでついにアメリカまで。どこまでいくねん。課長島耕作か。 武田 真治の音に近いのではないのかな。熱い感じがするけど。 大に対するアドバイスが自分をさらけ出すことがソロだろうと戒めのように語る先達。
これが何か身振りを伴わないジャズに対する観念の押し付けと見えてしまう。概念として
のジャズ、現象してのジャズ、それらを解体させ我々のうちに帝国主義を打倒しファシズム
へと振幅する秩序性の解体、それからの自己開放、再組織化へと向かう戦いこそが我々に
求められるジャズだと思う。大きくなりすぎた我々が抱く内なる情動体系、観念体系の否定
それに連なる制度と強制からの開放そのものがメチエとしての作業、ジャズというべきではないか。 これまであまりにも多くのミュージシャンが自己のコンプレックスによって方向づけられる
音楽を自己のアイデンティティとすり替えて演奏してきたのではないか。そうではなく人間が
より自由により開放するため、自己を開き、生命力に満ちた音楽を目指すことこそがありうべき
音楽の地平としてあるのではないだろうか。
さらけ出すとは何を意味するのか。演奏の場、聴衆も含めその作業は単に対価としての金銭と
してのお客さんではなく共同作業、アンサンブルとしての音楽であるべきである。 ライブの現場においては互いが会話しひとつの共同体として進行すべき作業、である。この
とき一人が自分だけの意見を主張しまた虚栄に満ちたことをしゃべりはじめたらどうだろう。
会話は維持されず壊れてしまう。そのさなかにあってだまり込む者もいるだろう。そこで大事
なことは互いの自主性、その会話の主体者であるという認識、具体的な働きかけなしにその
会話はないとの自覚がなければいけない。 大にとって自己とは何か。それを人生としての立ち位置から見た場合、八百屋で育ちバスケット
をやるスポーツ少年とだけしか描かれていない。ジャズはそれ自体の歴史性と出自リネージが
黒人文化アメリカにおける戦いと相克によって負っている。ことを知らなければならない。
音楽はその意識と無意識さのなかの相克、自らの戦い、それらが現場における音楽と社会への
参加、音楽を開放するひとつの戦線、フロント、反体制的な闘争集団として認知されるほど
の葛藤のなかにあるものである。 自己をさらけ出すことがジャズ。このあまりにも感情移入のみが音楽であるとの認識が
我々をある、狭さのなかに閉じ込めてきたことを知るべきである。音楽は近似性や同似性
だけにあるものでなく、ましてや安上がりの感動、感傷を見出すだけのものではないはずである。
だからこそ幻想的な観念、情動を放棄し真の共同体、開かれた個のスポンティニアスな発現を目指すべき
ものと思う。その場がライブとしてあるわけだから。 ジャズは即興音楽であり
用いる材料は変わらぬが角度を少し変えるだけで風景が変わる万華鏡のような音楽
演奏者は膨大な即興音楽的知識を蓄え、独自の回答を作り出していく作業を行う
曲が始まれば回答のない問題を秒単位で解いていかねばならない
音の表情付けにいたるまで回答が全て譜面に記されているクラシック音楽とは別物であるが
逆に言えば、沸き立つ感情のみでジャズはできない
視聴者はプレイヤーが作り出す「回答」を聴いて、なぜその瞬間そうなったのか
なぜそうすべきなのかを連想し解いていくことが本来の聴き方であり楽しみ方である 大がソーブルーのマスターに自分をさらけ出せというサジェッションを与えられたが、い
わゆる有名どころ、老舗といわれるジャズクラブほど保守的であり1970年代当時は進歩
的、革新的ミュージシャンは東京の老舗クラブは拒否されることが多かった。自分をさらけ
出すなどもっての他というオーナーも多かった。商業的成功に根ざすよりポップなミュージ
シャンが歓迎されたという事実がある。そのため東京から地方へと流出し、地方の小さなクラブ
で録音された革新的バンドの録音が多い。 その理由は大きなクラブほど利益優先であるし、元が金持ちの二代目などが多く、あまり
ジャズは好きではないというオーナーが多かったせいもある。対して地方では音楽が好きで
始めたオーナーが多く、ソロサックス、ソロドラム、フリージャズなどのライブが多く開催
された。その観点から言えば東京の老舗のクラブオーナーがジャズを正しく理解しアドバイス
することが、音楽の基準的、絶対的な価値とは言えないことが多々ある。 それに関して言えば、地方の豆腐屋が金も知識もなく、善良な市民であり音楽好きという
設定も安易極まりない。「そんな」市民に対してサインを断ったことが心を痛めた、という
市民を見下した描写は違和感を感じる。そこに聴衆に対する演奏者の優位性、階級制を感じる
。私の知人で元プロだがカラオケの普及でビッグバンドの仕事がなくなり、実家の八百屋を
やっている方がいて、いわゆる業界の大先輩である。 だからこの作品は非常にステレオタイプであり、ハリウッド映画的に善人、悪人は最初の
10分で顔つきで判るような安易さに溢れている。音楽が極めて底の浅い勧善懲悪的物語
に終始している。それを支持する音楽家に危惧を感じざるを得ない。 セッションのルールやマナーを説く者がいる。そこで勝利したものが音楽で勝利する者で
あるという偽り。その人間の個、全体が見失われたまま細部が浮き上がり、細部のこだわ
りから全体を見出そうとし回復しようとし技法、論理、手法のカオスとして結果奏法が
たち現れてくる。その作業は全体回復のためのあからさまな企てである。それは戦略的
具体化であり変容し、続けながら追い求めるもの。奪い返しの葛藤から実現へ向かうこと。 あらゆるレベルの曖昧さへ侵入してゆく手立て、根拠へと向かう方途としてある。
音楽は勝利するもの、東京、アメリカで前に出るためのもの。昭和40年ころそうした
論議はあった。ジャズがアメリカにおける黒人音楽と西洋音楽の文化の戦いの相克、反
資本主義体制へのアンチテーゼの中で変容、イノベート。意識と下意識のせめぎあいに
より個人、民族においてもジャズは音楽を開放する戦線として所在していた。 演奏が演奏によって許されることはない。演奏に身を挺しその不可能性に照射されあらゆ
る危機と困難に向かうものでしか本質的にはあり得ないということ。その場合、演奏は決
して栄光の行為ではないということ。自ら、社会の、負性を負いつづけ立ち向かうこと。
演奏は保証されない。感性でも情念でもテクニックでもないのです。即興演奏はその存在
の地獄にのめり込んでいくことなのである。 奏者の体験、フィーリングを与えるものでもなくそこに生起するものを聴衆とともに体験
しなくてはならないもの。一方的に演奏者優位から聴衆へ授受するものではないのです。
難しい曲は演奏者優位の発想ではないし、あり得ないことです。エゴイスティックである
ということです。それは演奏者によって閉じられた狭い考えです。そうではなく演奏は働き
かけも在り方も自由でアナーキーなものです。開きあった個が直立しながら混じり合うの
でもなく、見つめるしかない荒野への地平の進入なのです。 音楽で前に出る。世界一になる。ライブハウスのオーナーに認められる。一流のライブ
ハウスに出ることがひとつの目標。大観衆に迎えられること。資本主義体制の枠に自ら
収まり、その枠が自分のアイデンティティであるかのように思うこと。ジャズはかつて
生きるためにあった。今は趣味、娯楽として生き延びるしかない。そこに50年代の熱
気を描こうとするのは無理である。 そうなんだ。なんかこんな過疎板の便所の落書きにしておくのはもったいないね。 大の仙台の師匠は、「俺は咲かなかった、つぼみだ。」と発言したが思わずのけぞりました。
あまりにセンチメンタル、自己愛、ニヒリズム、悲劇のヒーロー気取り。東京で成功する
とはどういう事を指しているのだろうか。音楽への探求は地域差、年齢差もない。仙台で
50歳過ぎてもコツコツ練習すればいいだけの話。ガキのころから吹きまくったなんて、あ
たり前、誰でもそれくらいやるんだよ。 自称ジャズギタリスト山内雄介(43)は
息を吐くように嘘をつきまくる
素行不良で誰からも嫌われるクズ
どこの大学にも会社にも入れない
35までコンビニバイトしかした事ないバカ 大が自分をさらけ出すのがジャズって言ったな。人間の本性なんて汚くて見てられないぞ。
そこがかっこつけてるんだよ。言葉に酔ってるんだよ。わかりやすく言えばどれだけバカに
なれるかだ。バカ同士が共感を生んでるのさ。クラシックはどれだけかっこつけるかだ。だから
クラシックとは逆なのさ。由井が自分は咲かなかった花とか。ばかじゃねえの。大が他人を踏み台に
してのし上がるのがジャズとか。あほか。お前ひとりで生きてるわけじゃねえんだよ。バカ同士だと
しても助けあって進むしかやりようねえだろ。咲かないけど生きてるしかないのがジャズだ。 30歳過ぎまでコンビニバイトしかした事がない
偏差値30台底辺下層のゴミジャズギタリスト山内雄介(43) スポコン、出世物語の世界じゃないもんジャズなんて。
裏社会、麻薬中毒、事故死、早死、人種問題。 このまんが。
全体的におこちゃまなんだよね。すべてがうまくいき過ぎる。いい人ばかり。
バンドメンバーを選ぶのなんか切り捨てだからね。下手なのを外すのはへとも思ってない
よ。全力を出し切るとか思わないし。陸上競技じゃないからね。ニュートラルに感情を
コントロールするのが普通だし。クラシックなんか必ず嫉妬が最大のテーマだしな。 人の上にのし上がりカッコいいことがジャズ。そんな感じのするまんが。
このまんがを批判するのが目的ではない。宣伝に左右されるのでなく自分の考えを
持ってほしい。
100人いれば勝者は一人だけ。99人が敗者だ。
ジャズは勝者のためでなく敗者のためにあるといって過言でない。
カフカは言った。ぼくは歩いていくことはできない。つまずくことはできる。
ほとんどの人間は敗者であることに気づいていないか、勝者に憧れるだけの人間。
カッコよさを求めているとき、人は自分しか見ていない。
カッコ悪さに気づいたとき、他人もわかることができる。
どうかカッコいいこと、上手いこと、成り上がることがジャズではないということに
気づいて欲しい。 音楽担当はルパンの大野雄二にテーマを作曲してもらったらよかった。サックスは鈴木央紹で。
たぶんジャズからヒット曲が生まれるチャンスだったのに惜しかった。
上原ひろみはパフォーマーとしては評価するけど彼女の曲は魅力がない。 ジャズをここまで凋落させたのは、凝り固まった老害ジャズファンだということがよくわかるスレである。 ∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
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/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / <こいつガチで最高にアホ♥(ゲラゲラゲラゲラwwwwwwwwww
\ ` ー'´ //
/ __ /
(___) / ブルジャンを読んだとき、時代設定は高度成長期の日本なのだと思った。
頑張れば報われる、報われなければいけない。そんな圧力を画から感じた。
男らしい、まっすぐと評する意見もあるが必ず成功する、という安心感からくる全体主義
予定調和だと思う。その設定では最早ジャズは小道具でしかない。ジャズはアドリブパート
では自由で開かれた音、精神が表出されるのがいいところだ。上原ひろみの音も強圧的だが
それ以上に、俺を認めろという意識が伝わってくるし音が全然見えない。
僕が言いたいのはそれがいけないことではなく、その一方に意見が傾くことだ。
反対意見があり自由に言えることが大事だ。プーチン政権で経済がよくなったから全て言う
ことを聞いていればいいという安直な態度が問題だ。個人の意識が戦争をも引き起こすこと
になりうるということだ。このまんがでそんな危機感を覚えた。 ブルージャイアンツの衝撃的なシーンは物語冒頭から展開される。
主人公のソロ、素人のサックスの音に家族はおろか通行人、あるいは学園祭の生徒までが
一瞬にして感動してしまうところだ。凄い、でかい、などまさに秒殺である。
これはイチモツを見た際の女性の反応なら理解できる。
宗教、催眠商法、ヒトラーの演説にしても準備段階、説得時間が必要である。
しかし音楽は自己のアイデンティティに基づくセンシティブなものである。
主人公はどのようなマジックを使ったのであろうか。彼が高級羽毛布団のセールスをやれ
ば大富豪は間違いないと思われる。ジャズは特殊能力なのか。1年程度の自主練で身につ
けたというのか。その特殊能力の持ち主がライブハウスで地道に活動するのはなぜなの
か。金やセックスにも困らないはずだ。今後も研究を続けていきたいと思う。 楽器をもってすぐ学園祭のヒーローになるとかすべてぬるま湯なんだよ ドラムの経験ない友達を巻き込むとか、一人じゃ何もできない
ぬるま湯なんだよ 家族も従業員もみんな応援してくれるなんてぬるま湯なんだよ バイトと練習どっちもやるなんて普通身体がもたない
やれるってことはぬるま湯なんだよ 俺は 咲かなかったツボミ だとか乙女チックでぬるま湯なんだよ とうふ屋ごときがジャズファンで衝撃を受けた とかぬるま湯なんだよ これの音源ネットで聴いたけど
原作を虚仮にしてるの?
原作で主人公のだしたであろう
音の欠片も感じさせない
生温い演奏シーンだった。。。
だからマンガで名作でも映像化
した瞬間にクソになる典型 ジャズが好きで、アンビエントやスペースも好きというハイセンスで
ハイグレードな人いますか?笑
これの良さわかった人は、音楽偏差値77以上です。
://youtu.be/f0og1UrDFy0 読んでたまげた。設定が昭和だ。東京目指して、アメリカ目指す。そんな奴いるのか。
今はいくらでも発信できるだろうに。 悲しいくらいに憧れた 花の都 大東京
ボストンバッグひとつもって夜汽車に乗ったんじゃねえだろうな
ほんといいがげんにしろよ 配信で戦えてるジャズ奏者っているの?
ただでさえ配信金にならんいわれてるのに
メジャーな人は結局聞きに行く人がいるから活動できてるんでしょ
同人ヴォーカル配信とごっちゃにしてない?
配信でジャズ本当に聴いてるの?
配信する機材もただじゃないよ?
無知なワシにイケてる配信者おせーて 学校教育が悪いのか、日本人の気質なのか。幸せの青い鳥は探したって捕まらないんだし。
これだけ努力した、成功した、凄いだろ。すごいから称賛を受けるはずだ。これは違う。
世界一と呼ばれるだろう、他人に求めるもんじゃない。自分が思うことでもないし。
なんかおもてなしの日本というのと似てる。おもてなしやっときゃ外人は褒めてくれるはず
だっていう、思い込み。強制する雰囲気。ステレオタイプは全体主義につながるし、思考停止
なんですよね。 >>86
ゆうこりんってジャズピアニストがストリートピアノ叩きの動画配信で視聴数あげてる
一歩間違えたらガーシーみたいになりそうだが
本人のピアノが相当いけてるから今のところ
説得力はある 時代を昭和(1960年代)とかにして、こういう歴史線もあって現代に至るみたいなSF的設定でもあれば良かったんじゃないかね
そうじゃないと流石に荒唐無稽すぎて、真面目にジャズやってる(考えてる)人が長文発狂しても不思議ではない ジャズで聴衆が熱狂する図がいまの日本人の感性からしたら違和感あり
巨人阪神戦が中止になりカバディの試合にさしかえされたら5万の観衆が興奮してしまったような無理な押し付けがましさがある オレはベストテントップテン世代なんで
結局昭和のあの頃の芸能界がボーカル売りやりたかったのをそのまま令和までひきずってるんだよな
という結論だなあ オーディションでなんか馬場智章の色っぽいサックスがいいって満場一致で選んでいつもより倍は大きい音出すのを映画では作ってみたっていってたお 玉田は、やらされてるんじゃねえ俺がやるんだよ と言ったのは実際はやらされてる自分を隠すためです。
大の熱さに憧れて好きでもないのにドラムを始めた、という負い目を隠すためです。自分も熱くなりたい、それだけの理由です。
だから3人の関係ありきです。大がいなくなるとやる意味がない、というモチベーションの低さです。
音楽をやるのでなく大やユキの前で対等に扱ってもらいたい、それだけです。大はそれがわかっていながら玉をほったらかし米国へ行くという行動。
結局みな自分さえ良ければいいというバラバラなトリオだということを露呈しています。 今年最高に抜ける映画っつーからティッシュ用意して待ってたけど、抜きどころはひとつもなかったぞ。
おい、いいかげんにしろよ。 大が 君の音はうるさいんだよ と言われたことは重要です。クラシックを学ぶと先生に自分が
いいと思うだけでなく、客観的な目を持てと注意されます。つまり意見に対して落ち込むのでな
く冷静に分析、判断しなければなりません。これを屁でもないとやり過ごすことはひとりよがり
を肯定することです。こうした場面をどう読み解くかでその人の音楽的資質が問われるのです。 ゆきがサインを断った後に謝りに行く場面は重要です。相手が早朝から働く庶民、そこに衝撃を
受けます。これは職業的偏見、差別です。大学教授だろうと労働者だろうと聴衆の一人、人間で
あることに変わりはありません。軽重があるのでしょうか。またそれを謝罪して一件落着させま
す。これは青年誌としては感心できません。世の中には謝って済まない事は多々あります。謝って
本人だけが気が済んだ。にしてはだめだと思います。それはゆきが今後どのような生活態度をする
のかで示すべきです。他人の感情を傷つけたのならそれは長い年月をかけて修復するしかないので
す。 クラブのマスター、店主、師匠。少し甘すぎると思う。師匠は特に支障がある。
大の演奏に涙を流すのは青春のノルタルジーなのか。大の大人が。気持ちはわかるが50歳には
50歳の青春がある。過ぎてみれば20歳ころはいかに恵まれていたか、また歳を重ねるほど人生
は困難さを増す。ああしたエピソードは取るに足らない出来事、困難とはいえないものだったと。 確かにほとんど苦労がないんだよな。練習を毎日やるのは当たり前だし。でも雪の中でやるのは
クレイジーだよ。スポーツと同じだから指の筋肉を痛めるよ。それより熱くなってる理由がわか
らないんだよな。各キャラが単純な人間ばかりだし。小学館の担当が悪いんじゃないのか。 ここでもテーマは勝つこと、アメリカを目指すこと。という上昇傾向に設定されている。
日本の音楽教育、または吹奏楽コンクールなどでもそれは顕著に示されている。コンクール関連
が音楽産業の主要な部分を占めている。中高生で消費した層が大人になるとポップス関連にお金
を消費する。全米ヒットチャート、グラミー賞など 順位、評価 が大事だと教育されているよ
うなものだからだ。コンクールで頑張りすぎて楽しむことより、勝つことを優先してしまったと
いう笑えない状況だと思う。 映画館で見て感動したって言う人。爆音で画像を見ながら。
そんなシチュエーションが日常あるわけないだろ。 女性マスターが ジャズが好きなの? って訊くところ。すごくムカつきました。あのなんでも
私はわかってる、みたいな態度。余裕を見せつけてくるところ。たぶん名前はよっちゃんだと思う。 シュプリームの方はそこそこ読ませてくれるけど
無印ははっきり言って駄作だよ バスケットボールには身長、ジャンプ力で一流への限界があるけど。音楽もあるよ。
主に性格のことだけど。音楽は無理っていう人いるね。 バスケは無理だけど、ジャズならいけるって考えはやめてほしい。
1〜2年でトップアマになれるってのもやめてほしい。それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。 漫画のストーリーに現実的なはなしをもってくるなよ。荒唐無稽だから面白いわけで。 荒唐無稽、それを言うのはあまりに無責任、傍観者的立場でありジャズを志向するものとして情けない。
この漫画にはブルデユーが指し示す、構造が全てを決定し大衆はそれを再生産するという図式があてはまるのではないのか。
いうところの象徴的支配。これにアンチであり闘争してきたのがジャズではなかったのか。
地方の上には東京、欧州、アメリカが存在する。こうした白人文化至上主義。そして雪のなかでの練習は、労働力を売った者だけが社会に貢献しうるもの、そうすべきという望ましさ。
それが社会構造を産み、価値体系を決定づけるものだと言えるだろう。これらは戦中の満州開拓団の奨励に見るプロパガンダ行為と似ているといえる。
折しもロシアで戦争が続けられているようにその異常性すらも日常化し、象徴的支配下にある人間を思考停止に陥れる行為である。それを見過ごす行為である。
私は非常に危険な状態であると感じ、恐れを抱いた映画であった。 それはいえるな。キャラにひねりがないんだよな。定型化してる。 性格が機械のようであのCGだからSF映画かと思った。 ドラムの玉のモチベーションって他の二人の仲間になりたい、ってだけなんだよね。だからやらされちゃってるんだよ。 ラストでけがをしているのを無理してまで演奏するということはいかがなものか。
身体的無理をすることを感動シーンにすることは間違いだ。病院を抜け出すこと、医者の指示を守らないことをカッコいいことのように描く。
病院や看護師の責任を問われることになるかもしれない。子供が真似をするかもしれない。 ピアノが自信なさすぎ。子供の頃からやってるやつは絶対的な自信をもつのが普通。ライブバーのマスターごときに批判されて動じるやついないよ。
人間を否定されるのと同じと思ってるからね。 ピアノの人は最初高慢だったけど次第に大の言うとおりに動くようになる。違和感がある。 ライブに家族が応援団のように来るって過保護じゃね。
新入社員の初出勤に親が付き添うみたいな 感覚がわからん そうだな。親離れ子離れしていないなってのが印象に残った。すごく仲間内感が強いんだよな全体的に。
すぐちょっとしたことで感傷的になるし。うーん どうなんだろう。