シューベルト 交響曲第8番「未完成」ロ短調 [転載禁止]©2ch.net
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>>173
シューベルトよりメジャーなクラシックの作曲家なんて三人しかいないんだが >>171
モーツァルトは再現部を書くとき、記憶に頼って書いたから、アーティキュレーションに食い違いが見られる、と言う話を聞いた事が有る。
シューベルトは如何だったんだろう。
切り取った人には、第2楽章が完結している必要があったと言う事だろう。
アンゼルムの作品として発表しようとしていた、なんてことはないか? シューベルトのメインは歌曲であり、交響曲などは余興にすぎない。 >>172
真実が謎である以上、そのフィクションが自然か不自然かは、
資料や史実にどれだけ適合するかどうかにかかっている。
ただ、その資料や史実の理解度から人によって差は出て来るけどね。
たとえば、あの映画は史実に全く適合しない荒唐無稽な話なので
不自然の極みだということだ。
だから、不自然さを史実によって指摘していただければよいわけである。
>>176
<シューベルトは如何だったんだろう。 >
それはどんな作曲家にも見られる現象であって、原典版校訂者の
腕の見せどころでもあるわけですがねえ・・・。
<アンゼルムの作品として発表しようとしていた、なんてことはないか?>
そこまで悪人だったということではなかったんだろうね(笑)
とにかく自分の作品を演奏してもらう餌として《未完成》を提供したということだ。
実際、手紙でやり取りしていた時に約束した通り、《未完成》のヘルベックによる初演
の時にはアンゼルム作曲の《序曲ハ短調》が演奏されたことがプログラムから分かる。
また、ヘルベックが直接《未完成》の自筆譜を貰いに行ったとき、アンゼルムの他の
序曲2曲も渡されて演奏の約束をしている(それらが実際に演奏されたかどうかは
知らないけどね)。 >真実が謎である以上、そのフィクションが自然か不自然かは、
>資料や史実にどれだけ適合するかどうかにかかっている。
適合するかどうかというよりも、不適合で無ければ自然という主張な印象ですけどw one ok rock未完成交響曲はTaka自身の歌?歌詞と和訳を徹底解明!
ttps://www.youtube.com/watch?v=bqJadSSOZ50 >>178
自筆譜の切り取られた位置は、切り離した人にとって、第2楽章が完結して居る事に意味が有り、第3楽章が破棄される事さを意味している。そこで、こう考えてみた。
アンゼルムはシューベルトにとって赤子同然の存在で、グラーツなどと言うど田舎の音楽協会如きには二楽章までで十分、と言う事だった。
この時期、交響曲は「大きいことはいい事だ」と言う風潮でロ短調も完成されていれば一時間近い長大な交響曲になるはずだから。
認めてもらいたいのはウィーンの楽友協会であって、そこで、力作大ハ長調を提出した、しかし演奏不可能とにべもなかった。
ウィーンでは未完成がお蔵入りになった1823年の翌年1824年にベートヴェンの長大な交響曲ニ短調が初演されている。
その翌年1825年に大ハ長調に着手、1826年に楽友協会へ提出。1827年ベートーヴェン死去、1828年大ハ長調再提出。 >>181
<不適合で無ければ自然という主張な印象ですけどw>
仰るように、その印象の通りです。
3つの一次資料(自筆譜)を見る限り、日付以外は単なる状態なのだから
その状態に適合するかどうかによって、ほぼ自然か不自然かの2つに色分け
できるように思います。しかし、そこから出発した様々な考察、推論には、
周辺状況からグレー状態の濃い主張や薄い主張が出て来るということです。
あの映画などは、まず一次資料の状態に合致しないし、その他の周辺状況も
無理だらけで真っ黒だということですが。
>>184
をみてみると、
<自筆譜の切り取られた位置は、切り離した人にとって、
第2楽章が完結して居る事に意味が有り、
第3楽章が破棄される事を意味している。>
は、誰が切り離したか、とその理由が証明されない以上、
自然な考察だと思います。
しかし、それ以下の推論は、他の様々な周辺状況から、
かなりグレーっぽいですねえ。 >3つの一次資料(自筆譜)を見る限り、日付以外は単なる状態なのだから
>その状態に適合するかどうかによって、ほぼ自然か不自然かの2つに色分けできるように思います。
>しかし、そこから出発した様々な考察、推論には、
>周辺状況からグレー状態の濃い主張や薄い主張が出て来るということです。
う〜ん、どういうことを言いたいのか分からない。
直筆譜の状態から不自然では無い推論をすれば、なぜそれが自然な推論になるのかと。 シューベルトが死体として発見されたときには
ノミ、シラミ、ダニがうじゃうじゃ生息していたという
よほど不潔な生活をしていたんだな >>189
一人暮らしで誰にも見つけられずに孤独死したとか思っちゃってるの? でも彼の肖像画は綺麗に描いてもらってるよね。
貧乏というイメージがあの絵からは想像出来ない。 「未完成交響曲」はシューベルト臭くない。
シューベルトにしてはさっぱりしすぎというか、ハ長調のグレイトにもあるような香ばしさがない。 >>186
最低限そこから出発しないと話にならないということである。
そこから推論を進めて行く上で、さまざまな周辺状況と辻褄が合うかどうか
でグレー度が様々になるということだ。
ただ、周辺状況というのは人によって意見が違ったり、認識度が違うからねえ・・・
>>187
自説を語っているのではなく、持論を語っているのです。
その持論も賛成するレスにはお目にかからないので
説得力が不足しているということだろうね(笑い)
自説を語ってくれているのは >>184 くらいかな。 >>193
>そこから推論を進めて行く上で、さまざまな周辺状況と辻褄が合うかどうかでグレー度が様々になるということだ。
だから、最初から自分の推論を「自然」と思う根拠を聞いてるんだけど・・・
今のところ「黒じゃ無いから白」というレベルの話しかしてないよ。説得力の欠片でおあると思ってるなら本当に驚く。 >>196
だからね、そう言うのやめませんか?
そんなら、未完成の話ね。
自筆譜の切り取られ方からは、その動機はどうあれ、二楽章で作曲が中止され、
その後継続されなかったのは、ハッキリした理由がありそうだ。
この曲の特徴として、余り語られない事実として、演奏の難易度の低さがある。
演奏の困難な部分はほぼ無いといえる。調性もロ短調というのは、弦楽器には最も容易なニ長調の平行調、
管楽器にも無理な所はほぼ無いと言っていい。
ところが、大ハ長調の方は平易なハ長調とは言え、難所も見られ、オーケストラに要求する技量はかなり高い。
演奏不可能の烙印を押されたりしている。 >>193
>>194
どうも歯車がかみ合っていない。
>>115を書いてる人はそれを事実だと思ってるようだけど
次の人は推論を事実だと主張するのはおかしいと言ってるようだ。
>>115の中で事実に反することを指摘してあげるのが一番簡単なんだろうけどねえ。 >>200
違うでしょ。
事実に反することが無かったとしても、それは推測の一つでしか無いという話。 >>201
だから堂々巡りをするんですよ。
事実だと信じている奴を黙らすには反証の事実を突きつけるのが一番!
健康食品の怪しげな効能を吹聴する奴には、
事実のデータを突きつけるのが一番というのと同じ。 そもそも「反証が無いからこの推測は事実という主張」が正しいかどうかの問題であって、
分かりやすく言えば物的な証拠が無い状況証拠だけで犯人を特定できるかという話。 論理学的に考えれば堂々巡りをする要素は全く無いと思う。
無実の人を犯人にして平気かどうかの精神性の問題。 《未完成》の謎は、保険金殺人事件や後妻業不審死事件と同じような臭いがするんだけどなあ。 どうも歯車がかみ合っていない。
ここはシーベルトスレじゃなく未完成スレだぞ >>206
はいはい、確かにシーベルトスレでは無いよ。 どうも歯車がかみ合っていない。
ここはシーボルトスレじゃなく未完成スレだぞ どうも歯車がかみ合っていない。
ここは、はしだのりひことシーベルツスレじゃなく未完成スレだぞ シューベルトの交響曲はどれも聞いていて眠たくなる作品ばかり
眠れないときに聞くのがいちばんだ 中川右介という人が書いた「未完成」という本がある。
角川新書で2013年発行だから、読まれた人もいるだろう。
著者の肩書は「クラシックジャーナル編集長」ということで
受容関係、売るための方策という視点で書かれているのが
ユニークで興味深い。
内容は6人の作曲家の未完成作品について書かれたもので、
マーラー以下の4人については良いブレーンを得たのか
内容の濃いものであった。シューベルトとブルックナーに
ついては本人の思い入れが大きいのか原資料(自筆譜)の状態
を無視、あるいは勝手な理解をしている点でいささか残念である。
ブルックナーの副題に<完成しながらも未完成にされた曲>
と記しているのなど、全集版の写真版やフィリップス版を見たことが
無いから言えることだろう。 で、まず資料関係の記述に触れてみよう。P34〜35:
<「ピアノスケッチ」は・・・第1楽章は途中からで、249小節から終わりまで、
第2楽章は全部あり、第3楽章は16小節目まで、第4楽章は何もない。>
正:第3楽章のスケルツォ部分は全部あり、トリオは16小節目まで
<アンゼルムとヨーゼフの兄弟には、なんといっても40年近く手許に
あったのだから、切り取る機会は充分にあるが、>
この見解は?マークである。断片の発見者ランドンは『シューベルトが
所有していて、彼の死後家族の手によって残されてきたものと思われる』
との見解を示しているからである。しかしランドンは、シューベルトの草稿群
の中にアンゼルムの《未完成》のピアノ連弾編曲も含まれている
と述べていることから、一連の草稿がどこからヴィーン男声合唱団へ
渡ったのか?確実なところが解明される必要があるだろう。
<それでも20小節までなので、とても全貌は分らない。>
著者はこの『全貌』という語を「交響曲全体の姿」と捉えているようだが、
謎を探る我々にとって必要なものは「未完成状態の全貌」であり、
その『全貌』はランドンの発見で確定した。ありもしない4楽章までを
詮索しても無意味だということが解ったのである。
それは20小節以降にも五線紙は続いており、それらには音符は
記載されていないという事実から確定したものである。 著者がミスをしたり、ランドン以前の見解を敷衍したりする
原因は、ノートン版>>131を読んでいないからだろう。
巻末の【参考文献】に、これが入っていない。
P20
<ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーなる人物が兄のアンゼルム
の蔵書の書庫から楽譜を「発見」し、ヘルベックに「シューベルト
の交響曲を発見した」と手紙で伝えた。>
これは、著者の誤った理解である。実際は、ノートン版に
『アンゼルムはシューベルトの《交響曲ロ短調》という1つの
財宝を持っている。それを我々は《大ハ長調》にもベートーヴェン
のどの交響曲にも比肩し得るものと考えている』
と述べられているとおり。
ヨーゼフがシューベルトから入手したのだから『発見』
などという筋違いのことは言っていないし、兄弟は
《未完成》を非常に素晴らしい作品であると、初演前から
認識していたということである。
<ヘルベックはヨーゼフと共にアンゼルムの書庫にあった
《未完成》の自筆譜を発見する。>
グラーツ近郊のアンゼルムの家へは、ヘルベックが
単独で行った。発見という様な形ではなく、アンゼルムが
ヘルベックに提示したというわけである。
この間の駆け引きが面白い!
<第2楽章のみが翌1866年11月4日に演奏され>
この時演奏されたのは、第1楽章、第2楽章である。
というのは、初演ではそれに《第3交響曲》の4楽章が
追加で演奏されたのに対して、今回は《未完成》だけが
単独で演奏されたというわけである。 次に著者の見解について
P29
<交響曲という大曲を、どこからの依頼もなしに、つまりは発表の
あてもなく書くとは思えないのだ。>
これは逆でしょ。交響曲だからこそ依頼もなく、自分の意志だけで
書くのだ。シューベルトはベートーヴェンがやったような分野で
有名になることを目指していた。それは、1824年3月31日付の
クーペルウィザー宛ての手紙で自身が告白している:
「器楽をたくさん作曲したよ、弦楽四重奏曲2曲、八重奏曲を1曲。
それに四重奏曲をもう1曲作ろうと思っている。こういう風にして、
ともかく僕は、大きな交響曲への道を切り拓いていこうと思っている。」
(ここには《未完成》については一言も述べられていない)
《未完成》についての、何らかの記録はまったく存在しないが、
唯一それらしいシューベルトの手紙が1つ残されている。それは
この本にも引用されている。P30シュタイアーマルク音楽協会が
彼を名誉会員に任命したという栄誉に対する礼状である。
<「また、音によっても私の生きた感謝の念を表したく、
賞賛すべき貴協会に対し、可及的速やかに私のシンフォニー
の1つを、総譜によってお贈りしようと、不躾ながら思っております。」
(『シューベルトの手紙』實吉晴夫訳・解説、メタモル出版)>
もし、協会が交響曲の作曲を依頼し、協会がそれを演奏することを
提案していたのなら、このような書き方はしないのではないだろうか。
そして、もしそうならば、シューベルトは交響曲を1曲完成していただろう。
<不躾ながら>という言葉からは、作曲中の交響曲が完成したら
協会に贈るから是非演奏していただきたいという淡い願いが
込められていたのではないかと私は思う。そして、それは
ヨーゼフあたりの推測からの甘い願望に過ぎなかったように思う。
少なくとも、この手紙からは何の進展もなかったのだから。 未完成か。
たまに聴きたくなるなぁ。
うちにあるCD
カラヤン、ムーティ、シノーポリ
どれにしようかな 「未完成」ってシューベルトが作曲したんじゃなくね?
他のシューベルトの曲と全然作風が違うじゃん
それこそ「運命」がモーツァルトの曲だよって言われるくらいの違和感がある >>224
アルペジョーネ聴く限り、
未完成はシューベルトだと確信するけど 私が今、最も知りたいのは、スケルツォの残りの部分がどこから
ヴィーン男声合唱団へ渡ったのか?ということである。
それが分れば誰が切り離したかも解るかもしれないからである。
しかし、スケルツォ自体演奏されることがごく稀で、解説で取り
上げられることもほとんどない。
金子建志著《こだわり派のための名曲徹底分析:交響曲の名曲・1》
(音楽之友社、1997年)という本では、謎についてを題材にしては
いないが、スコアや資料関係については詳しく述べられている。
自筆資料も明示されていて、1978年のカッツビッヒラー版
(自筆譜ファクシミリ版)が資料として挙げられている。
そして問題のページの自筆写真もノートン版の印刷譜もコピーで
見ることが出来る。
金子氏は、こう述べているP32:
<シューベルトがアンゼルムに自筆スコアを寄贈する際に、
手元に残しておいた部分で、遺族の手から、他の楽譜と共に
ウィーン男声合唱協会に委ねられたままになっていた。
これを発見したのは、音楽学者のクリスタ・ランドンで、
今世紀の1968年になってからのことである。> したがって、発見から10年たっても見解は変わっていない
ということだ。金子氏の本には、この本の趣旨から外れた
アンゼルムのピアノ編曲譜が同じところに存在することに
ついてのコメントはない。
ノートン版の和訳では、あやふやであった自筆譜の概観
が、金子氏の本ではっきりしたのでここで紹介しておこう。
6枚の紙を2つに折った新聞紙をイメージしていただきたい。
全体は24ページになる。
6枚の紙(バイフォリオ):
A−B−C−D−E−F
片面づつだと12枚(フォリオ):
a-b-c-d-e-f-f’-e’-d’-c’-b’-a’
1つの片面には表裏があるので2ページ:
a(1,2)−b(3,4)・・・f’(13,14)/e’(15,16)・・・a’(23,24)
f’13ページまでが第2楽章自筆譜、その裏の14ページは
第3楽章1ページ目、e’15ページは第3楽章2ページ目、
その裏の16ページから24ページまでの9ページは空白。
分離したのはf’とe’の間である。
金子本からも20年近く経つので、もし新しい研究成果が
現れていればご教示頂ければ幸いである。 未だ完成して居ない曲のスコアを寄贈すると言うのはどう言う事だったんだろうね。
その時点でもう行き詰まって居たか、先を作曲する意志がなくなって居た可能性が有ると思うんだが、どうだろう。
スコアの切断箇所は、この曲はココでおしまい、と言っている様に思えるのだが。 >>233
<未だ完成して居ない曲のスコアを寄贈するすると言うのはどう言う事だったんだろうね。>
仰る通り、寄贈というのは、単にヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの証言に過ぎず、
他の人はこの件に関して何も語っていないので、
真実は他にあるという可能性を捨てることは出来ない。
カレー事件の犯人が「私はやっていない」というのとほとんど同じ。
また、単に「長年の交友の記念に破棄した交響曲の断片を貰った」
というのなら理解できるが、「寄贈」という言葉からは完成するという
意思があるように感じられる。
『雉も鳴かずば撃たれまい』といったところだろう。 >>233
そもそも当時はまだ「全楽章並べて演奏するのが常識」なんて認識も無かったので
別に2楽章だけで贈ったこと自体にそんな違和感は無いよ。
その時点ではまだ後から書くつもりだったかもしれないけど、その点の時間的前後関係は誰にも分からない。 実は完成され、死後発見されていたが、3,4楽章だけだったので、放置され行方不明になっている、何て事は無いのかな。 書きかけの3楽章が、しかも自筆譜の2楽章の後のページにあるから、それはない 一説には書きかけた第3楽章が気に入らなかった.確かに余り良い出来とは思えない。
第3楽章が1ページ目と2ページ目で切断された。第3楽章を放棄した。
1,2楽章は寄贈(?)した、つまり2つの楽章は価値が有ると考えた。
→新しく、別の3,4楽章を書こう
と考えても不思議では無いかな?と思った。
もしこの未開始交響曲が発見されたら大発見だね。 シューベルトは書きかけで放棄するを何度も繰り返してる
「新しく3、4楽章を書こう」より
新しく1から交響曲を書こう
がシューベルトの考え方 >>240
どのレスに対して「つまらん」と言ってるのかな? >>239に対してだろう
わかってるならなぜ
>>238
のような書き込みを行ったんだか・・・ セルの未完成は期待が大き過ぎたからか
残念ながら今一だった >>243
なるほど。
ちょっと「未開始交響曲」と言ってみたかっただけなのか・・・
もし、第3楽章をシューベルトがキャンセルしたのなら、
第2楽章の最後のページの裏に大きなX印を入れて
「無効」であることをはっきり示すのが普通だと思うけどねえ。
まあ、ブルックナーのように「無効」と書きながら、Xを入れたり
燃やしてしまわなかった《0番》のようなケースもあるからねえ。
とにかくランドンは、切り取られた10ページを加えて
《未完成交響曲》の資料関係は全てであると言い切っている。 ロ短調のフィナーレはやはりロ短調になる筈だけど、普通は長調になって華々しく終わるのがこの頃の交響曲だろうから、ロ長調で終わる事になるんだろうか?
第四番も、ベートヴェンの短調の交響曲も同主調で終わっている。
平行調のニ長調への転調は安易だが、変だし、さてどうしたものかと、
ロ短調で始めたこの曲の終わらせ方が行き詰まっちゃったんじゃ無かろうか。
で、ハ長調のD944を書き、一方ニ長調のフィナーレを考えているうちにD936Aを書き始めたけど完成しなかった、なんて。 イェンガーという人は、この交響曲の存在をどの程度知っていたんだろうか?
ヒュッテンブレンナー兄弟と何らかの情報交換は無かったのだろうか? D936A買ってみたけど、スケッチの寄せ集め感が強い 第3楽章、第4楽章を補完したCDが去年出てたんだな
さっそく塔で注文したぜ 未完成もブル9も
最後浄化を受けつつ昇天していく感が強い
この後に何かが続く感じがしない >>253
両曲に共通するホ長調の魔力かな?
《くるみ割り人形》の天国の世界もホ長調で表現されている。 人は歴史に残る偉人を神格化し、といろいろ憶測をしたがる傾向がある。
まだ若き作曲家が途中まで書いたものの、他の作品の方に気がうつってしまったり、
とりあえずこんな曲書いてみました、とかそういった類の話だと思う。 >>255
「とりあえず」で書いてるなら最後まで完成させてる。 完成していたが3楽章、4楽章が劇音楽「ロザムンデ」に転用された説 第一楽章冒頭のメロディーがobとclのユニゾンなんだが
これは通常タブーとされる組み合わで、
完璧なバランスで演奏するのが困難らしい いや三行目は想像なんだが
だれか理由教えてくだだい。
でも不気味な雰囲気ですよねここ。 シューベルトは、ベートーヴェンの後をおって、死んだのよね
この曲、自分の才能を吐き出して、作ったんでしょうね ここがピークで、後は駄作オペラ量産して晩節を汚しに汚してたかも知れんしな。 なんかこの作品を最後に死んだみたいな話し方ですね。 >>254
ヴォーンウイリアムスの交響曲第9番は? 未完成は有名なわりには人気のない交響曲
質が悪いということだよな
内容が古臭くてつまらないもの 第1第2楽章が三拍子で続くこと。4本のトロンボーンはシューベルトも初めて。このあたりが未完成になった理由かと。
ザグレイトを先に完成させて仕切り直しをしたかったんだよ。しかし・・・ それで3楽章も3拍子で始めちゃったら、まあ行き詰まるよな これは自分の説ではなく、招き猫で誰かが発言してる。トロンボーンの件ね。
もし、シューベルトがもう少し長生きしていたら未完成は破棄して新たに作曲し直したと思う。 というかロ短調と大ハ長調の後にも交響曲書いて未完成で終わってるので。 >.268
当時の交響曲は第3楽章はメヌエットで3拍子と決まっとるがな 推理小説的妄想?
ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーは、自身のヴィーン男声合唱団での
地位を確立するために、彼が持っていた《未完成》を含むシューベルト
の遺稿群や兄のアンゼルム・ヒュッテンブレンナーが編曲した
《未完成》のピアノ編曲譜を同団に贈った。
その後、ヨーゼフは兄の作品を演奏させるための餌として《未完成》
を利用しようと考え、それを取り戻そうとしたが、すでに文書番号
が付けられていたので、文書庫の記録の整合性を保つため、
不要の部分(未完のスケルツォの10小節以降)を切り離して残し、
本体を兄に送った。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています