モーツァルトとハイドンはどっちが凄い
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どちらも好きだが2人のうちどちらかを選べと言われたらモーツァルト
日頃良く聞くのもモーツァルト
といいつつハイドンも捨てがたいし聞くこともある
それだけのこと >>850
どっちも聴いているけど、op50-4の方がいいと思う。
アウリンカルテットの演奏を薦めるよ。
ただ、ハイドンの場合は第一楽章から順番に聴かないと魅力が感じられないと思う。終楽章単品では二分ぐらいの曲だし。
終楽章同士だったらop50-2の方が充実していると思うが。 終楽章だけをとるなら、op.33は全部素晴らしいよ
よくあれだけ多様な内容・形式の終楽章を6つも書けたなと感嘆する
才気煥発なop.33に比べて、op.50はやや落ち着いた感じがする
ハイドンはつまらない、美しくないと言う人にぜひ聴いてもらいたいのが
op.76-5(「ラルゴ」)の終楽章、65歳の作曲家にこんなに機知にあふれた音楽が書けたとは! ハイドンあるいはモーツァルトを美しくないなんて言うのは愚か者
どちらも美しい
ハイドンはやや乾いた感じがするがそれがいいという人がいても何ら不思議ではない ちょっとクラシック音楽を聴き込み出すと、モーツァルトを低く評価することがイケてるみたいな感覚になる年頃というか時期が来るんだよな。
モーツァルト反抗期とでも言いますか。
そういう年頃、時期を過ぎて大人に成長するんですよ。 op.50はモーツァルトのハイドン四重奏を踏まえて書かれている。
本に書いてあったが、op.50の1番の第一楽章の始まりは、モーツァルトの「不協和音」の出だしと似ているが、ハイドンはモーツァルトを意識しつつ、それを微妙な色合いに変化させ、自分の音楽を展開している。
こういう天才同士の語り合いを聴かないで、下々の人間が不毛な争いして何か意味あるのかな。 op50-1が不協和音の出だしに似ている?全然似ていないと思うが。
あの曲はむしろ冒頭のモチーフを延々と繰り返し、展開させていくというベートーヴェンの第5交響曲を思わせる作品と言われる方がしっくりくる。 op.17-6
太陽よりも前の作品なのでかなり軽視されるけど聞いてて楽しい >>858
>本に書いてあったが
ってw ソースを明示しないとね
また、音楽学者や評論家の説>>857
がすべて正しいとは限らないよ
それはともかく、ハイドンのop.50がモーツァルトの「ハイドンセット」から
影響を受けている、というのはほぼ定説化しているらしい
op.33 (1782)→ハイドンセット (1785)→op.50 (1787)(数字は初版出版年)
という美しき影響の連鎖が見られるのだ、と…
ハイドンセット→op.50の影響としては、半音階多用、曲の規模の長大化などを
Richard Wigmore (The London Haydn Qt (Hyperion)のライナーノーツ)は
挙げていたな ごめん、上の>>857はミスったw 無視してください op50自体は第一番のみならず、シンプルなモチーフを展開させていくタイプの曲が多く、メロディとしては地味な印象を受ける曲が多いと思う。自分はop33と並ぶぐらい好きな曲集だが。
半音階は確かに使われている曲もあるが、これがモーツァルトの影響と言われているのは初耳だった。 「作品50の他の作品もそのこと(モーツァルトがハイドンに衝撃を与えたこと)を示しているように思う。
例えば第1番変ロ長調の第1楽章の出だしは、チェロのみがB音を八回繰り返すが、これはモーツァルトの「不協和音」の冒頭を誰にも想い起こさせる。
モーツァルトより若干早いテンポで現れたチェロに乗ってくる第一ヴァイオリンの旋律はハイドンそのものではあるが、
その和音はチェロから言うとB、C、A、Esという不協和音でもって始まる。
音楽全体の与える印象は明朗なものであるが、ハイドンは、モーツァルトの「不協和音」冒頭のチエロの八分音符に触発されて、
まったく別のハイドン流の音楽を発想した感じだ」(井上和雄『ハイドン ロマンの軌跡』より)
このスレの住人はモーツァルトの不協和音は聞き取れてもハイドンの不協和音は聴き取れないらしい。
井上氏はアマチュアカルテットで長年弦四を弾いてきた人だし間違いないだろう。
ハイドンについて語るならこの本ぐらいは読んでほしいね。絶版だけど。 ハイドン派は弦楽四重奏のことしか語らないなw
まあそれしかモーツァルトに勝てるものがないからな(^O^) >>864
op50-1についてはそんな見方があるのかと思ったのと、冒頭の旋律を和音として見ると不協和音を使っているから モーツァルトの不協和音に影響を受けている、というのはなあ…。しかもチェロのリズムは冒頭だけじゃなく最初から最後まで続くし。
モーツァルトの影響というのは自分が考えているものとは違うのかもしれないな。
所で、あなたは実際聴き比べてみて影響を感じた?純粋に聞いてみたい。 >モーツァルトのように深まる方法で
それはモツの初期作品は子供の頃の習作だから
深まらなかったら只のアホ。 モーツァルトの室内楽における傑作は、クラリネット五重奏曲KV581と
ディヴェルティメント(弦楽三重奏曲)KV563だと思う
弦楽四重奏曲はこの2作品に比べると少し劣る
なぜそうなのか、は面白い問題だ それ、あなた個人の趣味ななけでしょ。
自分の好き嫌いと作品の出来を勘違いしている人って結構いるw >867
この本読むまでは気づかなかったが、読んでからは聴くたびに「不協和音」を連想するようになったよ。
モーツァルトは序奏の後、全然関係のない明るい音楽に移って行くが、
ハイドンはこの「不協和音」の冒頭部分だけを取り出し執拗に反復して一つの楽章を作ってしまう。
それは「影響」というより「パロディ」という感じがする。
ハイドンは「不協和音」の序奏から受けた驚き、とまどい、好奇心などを混ぜ合わせた感情を、
ユーモラスにまとめあげて自分の音楽を作ったということかな。
まあ一つの聴き方だけどね。
ハイドンはそんなことを一般の聴衆にわかる必要があるとは思っていなかったろうし。
モーツァルトと一緒にこの曲を演奏したことがあったとしたら、モーツァルトは感じ取ったと思うけど。 >>872
当時の聴衆は音楽作品の構成とか形式上のわずかな逸脱に関して
(現代の聴衆よりもはるかに)識別能力があったと思うよ
ここでいう聴衆は、ハプスブルク帝国の王侯貴族と、ロンドンなど
大都市を中心とする新興市民階級の両方を含む
ハイドンの12曲の「ロンドン交響曲」(「ザロモンセット」)を聴いていると
ハイドンの聴衆の趣味へのそうした信頼が感じとれるし、
op.33やop.50の微細な「ずらし」はそういう聴衆の存在なしには理解できない ハイドンのモツ風、ベト風に感じ取れる響きって
「パロディ」や「返歌」の類だと感じる。
交#98の終盤に鍵盤が鳴り出す部分は
早世したモツへの思い出、彼がどこかで弾いてる…
そんな演出に聴こえるんだよな >>875
No.98の第2楽章(アダージョ)はどこかモーツァルト風だし、
「ジュピター」からの引用が含まれているらしいね >>870
k563を聴いたことがあるが、後期の弦楽五重奏っぼい音楽と思った。
五重奏と比べて優れている点とはどんな所なのかな? >>877
五重奏と比べてないよ、クァルテットと比べている
ディヴェルティメントはもう素晴らしすぎてどこがいいのか
説明できないけど、「これぞモーツァルト!」と言えよう
あと、6楽章あるから、その点でも四重奏曲に勝ってるw モーツァルトの弦楽五重奏の五番と六番はハイドン風のシンプルな主題を展開させていく作風に見える。昔は大して良い曲と思わなかったが、改めて聴いてみて展開の妙や各楽器のフレーズの絡まりなど面白い曲だと思った。 さすがのハイドンとモーツァルトでも、ピアノソロ曲だけはなあ。
ハイドン・モーツァルト共に、バッハより後退していると思う。
音楽史で後退したなんて、他に例がないんじゃないだろうか。 バッハが対位法を突き詰めた上に、時代の流れで音楽の流行も変わってるから一概に比べられないんじゃね?
ハイドン、モーツァルトレベルの才能なら、もし依頼主がバッハの作曲技巧を完全に模倣した曲を頼むと要求してばっかりの環境だったらそれに応じた作品を沢山書けたと思うし。 バッハはバロックと古典派という枠組みとは超越していると感じる
バロックと言えばヴィヴァルディの弦楽合奏においてもすでに時々通奏低音をなくして
ヴァイオリン・ヴィオラのみで軽快な古典派風に聞こえる場面もある テーレマンにもそう感じる曲がある。
ムジカアルタ・リーパの第一巻の一曲目とか。
リコーダーではやはり表現に限界があるのだろう
弦楽合奏でやるといつものテレマンとは違う雰囲気。 バッハの様式に立ち返ってまで曲を作る必要がなかったんでしょ
自分の作りたいようにしただけでさ
例外ってのはどんな時にもあるわけでしてそれをもってして時代を超越とか大げさかな
昨日まではバロック今日からは古典派などという便宜的な区切りは当時は無いんだし ハイドン・モーツァルトのスレなら
バッハの息子たちの作品を
もっと参考にしてほしいよ。
息子達への練習曲はやがてどんな作品を生む作曲家を
育てたのかとか気にならないのかな >息子達への練習曲はやがてどんな作品を生む作曲家を育てたのかとか
根拠もなしに言わないことだな バッハはもともと18世紀に17世紀の音楽をやっていたわけで。
だから初期バロックと比較しないと。
その上で鍵盤曲に関しては同時代のラモーなどのフランスものを無視してバッハが集大成というのも変だ。そして古典のソナタ形式とは全く別なので、前進後退とは比べられない。
実際バッハの鍵盤曲を長時間聞聴いていると飽きるが、ハイドンは飽きない。 バッハの鍵盤曲は飽きてハイドンのは飽きない?そんな耳で良くのうのうと語れるな どんどん語っちゃうよ。バッハを神格化せずに虚心に鍵盤曲を聴いていたら、つまらない曲もあるし形式も似通っている曲も多いと感じられる。
ハイドンはソナタ形式の曲が多く、メロディは素朴だが曲の展開の面白さなど飽きない曲が多い。
バッハは途中で音楽を止めたくなるが、ハイドンは何時間でも聴いてられる。 ハイドンはアイデアマンタイプだが、モーツァルトは他人のアイデアを借用して上等に仕上げるタイプ ハイドン派はモーツァルト相手だと勝てないからバッハを相手にして勝とうとしてるのか
ダサい奴だ バッハはヴィヴァルディ、ハイドンやモーツァルト等とは超越してる存在なのでもうこれ以上言うつもりはないが
>>896ですべて言い尽くしたつもり 何だろう「超越してる」という日本語をわざわざ説明する必要があるのか
「超越してる」は、ぶっちゃけ「世界は無関係に回っている」というような意味 だから「超越してる」は、良くも悪くも「世間一般の認識とかけ離れている」の意味でよく使われる ハイドン好きだけど、このスレのハイドン狂信者の主張見てるとハイドンの人気がなくなっていったのは当然の結果に思えてしまう 華が無いのだよハイドンには。
ベトの様な苦難の物語も弱い、順風満帆のサラリーマンみたい。 >>899
「世界は無関係に回っている」(意味不明)のはお前だけだ 後年ベートーヴェンはハイドンの生家の絵を壁にかけて「こんなに粗末な家の中であれほどに偉大な人間が生まれたんだ」と感慨に浸るわけだが バッハとハイドンの間には深い歴史的断層があるように思いますね
形式や様式の点で、全く別々の時代の音楽家たちでしょう
組曲・舞曲→ソナタ形式
ハイドンは巧みにフーガ・フガートを作品内で利用しているにせよ タイトルを「モーツァルトとハイドンとバッハでは誰が凄い 」に変えますか 余り断絶とか超越とか言って歴史の不自然な歪曲に走らない方が 歴史的断層はおまいらの中にあるだけで
バッハとハイドンの間には
「CPEバッハ キーボード作品全集 by BIS」
というものも最近は入手できる。
往年のレコ芸的な「名曲名盤xxx」もいいが、このくらいは聴いた方がいい。 C.P.Eバッハなんて名前ばかり有名なだけで作品自体はハイドン以上に凡庸じゃねーか 煽りではなく、ハイドンが「凡庸」に聞こえるのは、その人の音楽経験が浅いからだと思いますよ
昔、吉田秀和が第2次大戦間もない頃にヨーロッパへ渡った時のこと
ブルックナーを演奏会で聴いた後、「いやぁ、ブルックナーには閉口した」と言ったら、
ヨーロッパ人音楽評論家に「日本人にブルックナーはまだ無理だろうw」とdisられたそうな
そのひそみに倣えば、「日本人にハイドンはまだ無理」なのかもしれませんね メジャーレーベルが
お馴染みの作曲家や曲をファイナリストに演奏・録音させてるのは
自分の好みではなく評判で聴く日本人をターゲットにしてるからと
ちっとは気付いてほしいもんだが それすら意味不明な事かもな…。 ハイドンさえロクに聴きもしないでバッハ、モーツァルトよりも格下扱いしている人間が、それよりマイナーな作曲家の作品なんて聴くわけ無いだろう?
自分の耳で聴いた感想よりも、誰々が評価しているとか権威と自己同一化する方が重要なのだから。 >>914
でも、楽器も素人でアナリーゼもまともに出来ないヤツの話よりかは、好きな音楽家の言葉を信じるよ。 ハイドンろくに聴いてないやつに、権威ある音楽評論家が「これモーツァルトの未発表曲だよ」と嘘ついてハイドンの曲聞かせても「先生、やっぱりモーツァルトは素晴らしいですね!」とか言いそう。 一頃流行った「親しみやすい」音楽評論家たちってまだ読まれてるんですか?
うんざりするほど品のない文章だなぁと思って見てたけど…
クラ板にも言葉遣いを真似する人たちがいますよね、「呼吸が深い」とかw
彼ら(評論家)も多分アナリーゼ(楽曲分析)はできないと思う
ああいう評論家が流行るのは多分日本だけでしょうね >>916
確か知恵袋かなんかにモーツァルトのマイナー曲をミヒャエル・ハイドンの曲だと言って訊かせて「どう?ミヒャエル・ハイドンもいい曲作るでしょう?」って聞いたら、駄作扱いされたという話があったなあ。 モーツァルトの没後200年番組で、モーツァルトとサリエリの曲を聴き比べさせるのやってて、評論家がモーツァルトの曲はやはり天才の曲だ、サリエリの曲は駄作と言ってたけど、他の彫刻家みたいな人は「どっちも似たような曲と思いますけど」とあっさり答えてたな モーツァルトにも「モーツァルト作だから」聴かれてる(録音されてる)作品は
沢山あると思いますけどね…セレナーデのいくつかとか初期交響曲とかね それらも「この曲も天才モーツァルトにしか書けない曲だな!」とかありがたがって聴いてんじゃね? ハイドン派はまともに勝負したら勝てないからってあの手この手でモーツァルト下げに必死だな
まあそれだけモーツァルトのほうが凄いってことだけどな 俺はハイドンもモーツァルトもどっちも好きだけど、モーツァルトしか聴いてないくせにモーツァルトばかり祭り上げるやつが嫌いなだけ ハイドンが好きで曲を高く評価しているからといっても神格化の対象ではない。実際最近はハイドンよりもモーツァルトのピアノソナタな方を聴くことが多い。モーツァルトは特に好きな作曲家でもないが、良い曲であれば聴く。 モーツァルト派がハイドンの曲を全く聞いてないとでも思ってるのか
聞いてみてつまらないからダメだこりゃと思ってるに決まってるだろ 優劣をつけても仕方ないでしょう
ゆえにこのスレッドタイトルそのままだとクソスレ
私はむしろハイドン/モーツァルトの「違い」を考えたいですね
並べられることが多いが全く違う、ドビュッシーとラヴェル、ブルックナーとマーラーのように H.C.ロビンズ・ランドンの「モーツァルト」(中公新書)を読めば、
大人の事情で「天才」という言葉でごまかしているとはいえ、
ロビンズ・ランドンがモーツァルトをそれほど評価していないことが分かる モーツァルト派という人は
他に好きな古典派の作曲家は
いるのかい?
たぶんいない。 >>911
クラシック歴半年の頃からハイドン大好きな俺から言わせたら音楽経験なんて関係ないね 全くその通り
○○も××もよく聞いたと経験を誇る人こそ信用ならない 作者の名前で評価が左右されるのは昔も変わらない。
例えばモーツァルトはギロヴェッツの交響曲を作者の名を明かさずに上演し、演奏後の拍手喝采ですかさず真の作者の名を明かして
ギロヴェッツを紹介するといった粋な計らいもおこなった。
まさにこれはモーツァルトの時代も無名作者の名前では誰も興味を持ってくれない、客は入らないことを物語っている。 モーツァルトって人はそんな感じで、ただ単純に自分自身の演奏や新曲を発表していくだけじゃなくて、
人材を育てる能力なんかもあったんだなと感じる次第。 普通にどっちの作品も聴き込んでる人にすれば、結局どっちも凄いが答え >>934
それはここで語られていることと違うんじゃ…
ギロヴェッツの作品をモーツァルト作と偽った上で演奏した訳ではなく、演奏が終わるまで作曲者名を明かさなかっただけだろう。
むしろ当時の聴衆は無名作曲家でも曲そのものをきちんと評価していたことになる。 そもそも演奏会の背景がはっきりしていないからなんとも言えんが、分かるのは当時の聴衆が作曲者名が分からなくても実際に聴いた音楽を評価する耳は持っていたという事だけだな。
聴く前の段階、無名作曲家のコンサートにわざわざ足を運ぶかはまた別の問題。 youtubeに上がっているニ長調の交響曲を聴いたが、中々良い曲だよ。どちらかというとハイドンっぽい感じ。 人違いだよ。私はリンクを貼ったことはない。
それにしても…モーツァルト信者というのはどうしてこうも傲慢なのか。音楽自体に敬意を払っているように見えて、モーツァルトの名前を崇めているだけに見える。
作曲家の名前にモーツァルトがついているかどうかが重要なのだろう。古典派には他にも良い曲が沢山あるのに。 モーツァルト信者が傲慢だというのはどの辺のレスからそう思うのかな?
自分にはそんなレスは見当たらないが
根拠もなく偏見でモーツァルト信者はこういうものなんだと勝手に決め付けてるだけだろ モーツァルト絡みでそこそこの拍手はもらえるでしょうという程度の曲
少なくともブーイングはもらわんでしょうが
名前を伏せてモーツァルト指揮でという時点でお察し
名前を明らかにしてソコソコの人の指揮では拍手喝采にならないというのが実情だということ >中々良い曲
なんと傲慢な
名曲にでも駄作にでも 中々良い曲 は使えるからな
むしろ駄曲の部類だと思う と傲慢に決めてつけておく モツはギロヴェッツを大衆に紹介したりしたりしたり、CPEバッハの宗教曲の初演で指揮したり、ヘンデルのメサイアを
古典派オケ用に編曲して指揮したりと自分の作品だけでなくもっと広い世界、音楽界を考えていたんじゃないかな。
35歳で死んだにしては音楽活動の幅が広いね。 したり3つ続いてるのには意味ありませんw
ただのミスです。 よく見たら、上の方の書き込みで、ギロヴェッツの曲がパリでハイドン作と言って演奏されていたようだな。確かに余程注意深く聴かなければ信じてしまうかも。
>>948
中々良い曲というのは佳作位と受け取ってくれ。
駄曲ではない。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。