モーツァルトとベートーヴェンはどっちが凄い 19
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
そんな音楽を無理に好きになろうアピール要らない
ってことでいいっすか >>636
聴き専ではない、三流演奏家でもない
あしからず。 クラリネット協奏曲って最後のピアノ協奏曲K.595とよく似た空気を感じるけど3年くらい前の作なんだっけ?
K.595は1991年で間違いない? >>646
同年ですか私のかんちがいだったか異説があったけど否定されたんでしょうかね
この2曲並べるだけで1991年のモーツァルトってのがわかる気がします
その後のことを知っているからまだ35歳のモーツァルトに死の気配というか彼岸の雰囲気を感じてしまうように思ってしまうのですが
モーツァルトに36歳以降があったらどういう方向へ行ったのか… >>647
あ、原曲みたいのがあって、そっちが三年前
クラリネットの曲ではなかったが >>647
モーツァルトにとっての1791年は感染症に罹って死ななければ
復活と転換の年になるはずだったのな
非常に多作だったし、定職も内定していたし
何か新しい方向性を見つけたようだし そういういい加減な軽さが大言壮語と表裏一体
ってことでいいっすか >>650
まあ、そらそうだ
200年まちがっとるw 1791年ですねすんませんでした
18世紀も遠いけど20世紀も遠くなったなぁ… 1791年ですねすんませんでした
18世紀も遠いけど20世紀も遠くなったなぁ… あくまでもテキトーに書いてるだけ っていう設定にしておくわけね
ってことでおkっすか >>647
36歳以降がないから
「レクイエムIntroitus」の響き(小林秀雄の言う「音楽が音楽に袂別する異様な辛い音」)
を、わたしは聴いております。 35歳で死んだんだから死因は殺害、事故、感染症のいづれかだろ。
まさか老衰なんてあり得ないわなw >>645
バセットホルンのための協奏曲がたぶんその頃で
それの編曲なんだな、これが クラリネット協奏曲から 7654322 を探してよ
新しい発見があるはずだよ
大事なことは、一回しか言わない
がヒントだよ。これ、モーツァルトの癖
ベートーベンは、こういうの見つけた人いる?
教えて 俺の読んだ本にはシェーライン・ヘノッホ症候群と書いてあったな
梅毒にかかったのでヴァン・スヴィーテンの指示で水銀療法をした結果の水銀中毒という本もあったな ベートーベンは、大フーガがすきやで
すんごい、嫌われてるけど 血液抜いたり、温泉入ったり、水銀とか、魚に治してもらうとか
大変な時代だったんだろうな。 モーツァルトの音楽は、ちょっと変なんですよ
それが魅力なんです
あえてカチカチ頭で理論書片手に楽譜観てください
ほんと変なんです。
ベートーベンは、普通なことが多いけど 40番と言えばさ、結尾に
タラチャン、タラチャン、タラチャン、さーあ、お出掛けよ
ってあるじゃん?ここって一回目と二回目が全然違う
g B が g だけになってる
もうあの頃には戻れない、って感じで
ほんと切ない プラハの出だしで、いきなり短調の和音が出たり
第二主題に移行するナポリの和音経由の転調とか
ほんと思い付かない D d F A とか、思い付くかよ ホルン協奏曲のあの変な転調は、どないなっとんねん
わかる奴おる?
ぱーぱ、ぱー
ぱーぱぱー
ぱーぱ、ぱーぱぱーの
とこ 時代の違いかなあ
平和な時代と混乱の時代だから、できるものも違うでしょ
次はどんな時代になるのかな?
レニングラードが流行るような時代には
なって欲しくないな(別に嫌いなのではない) ここに来ている全員が老衰で死んでも
モーツァルトは生き続ける おすすめは、交響曲28番
ほんと、どうかしてるし、パッパラパーで
くせになる 41番の演奏では、終楽章で盛り上げようとしてことさらに音を大きくする指揮者が多い
個人的には、それをやられるとうるさいと感じてしまう
具体的にはベーム/BPOとかバーンスタイン/VPOの終楽章がうるさい
あんまり音を大きくしない演奏が聞きたい >>667
しかもその変なのを自然な音楽の流れに溶け込ませるのがモツの特徴 >>667
そんなに変なところある?
和声的にはかなり理論通りだと思うけど 転調がいっぱい、あと調性変えないで経過音の多様。
半音ずつ上がっていったり下がっていったり。
今の一般的な音楽はハ長調ならその中の音だけで
完成させるスタイルが多い。
統一感があるけど、物足りない。 読み仮名を一字一句間違い無くパソコンソフトに読ませてもそれを朗読や音読とは言わない >>680
うん、なかなか良いじゃないか。
二流演奏家の演歌歌手みたいな気持ち悪い演奏より、余程良い。
惜しむらくは、音源自体が歪んだ音なので、コレが楽譜に忠実とは言えない点だな。 どんなのかと思って聞いてみたがこれが良いとはとても言えないわw
20年前のゲーム機よりひどい 関係ないけどドビュッシーが残した月の光のピアノロールむっちゃ良かった
やっぱ楽譜では表現しきれないもんだね 楽譜から読み取れたのが
楽器の指定
音高
音の長さ
(指定があれば 速さ 強弱 スラー、アクセント等の一般的な記号)
だけであり
後はパソコン任せだったということ MIDIにはベロシティという音の強弱の設定があるが、楽譜には書かれていない。
またヒューマナイズ機能というのはジャストタイミングな小節や拍に対し
人間的な微妙なズレを加える機能。これも音符には書かれていない。
つまり演奏とは楽譜通りに弾けば良いよいうものではない。
https://www.youtube.com/watch?v=yIAFIGTta-I あのさベロシティって一音ずつの強弱。
ピアニシモとかの強弱じゃない。 ピアノ協奏曲22番第3楽章ラスト、そのまま華やかに終わってりゃいいのに、木管入れて一瞬短調になるところ
ガチの天才ってこういうことなんだと思う めんどくさい奴だな。
オレは楽譜通りに弾けば巧いという意見に対して
楽譜は音楽の全てを記してはいないということを
MIDIの音との比較で語ってるの。
ピアノにしろバイオリンにしろ楽譜に書かれた通り
では味気ない音の羅列にしかならないのは上の
MIDI音楽で分かっただろ。
それも感じないほど感度悪いのか?
まあこれ以上話す相手じゃないな。 楽譜から読み取れるモノの一部をデータとしてパソコンに移し替えただけで楽譜通りとか笑止 三流音楽家でもパソコンで鳴らされた音を聞いて楽譜通りですねとは言わんだろう
音楽家を冒涜してるんじゃないのか
まさか平均律で鳴らしてはいないだろうな めんどくさいキチガイが100倍も難癖つけてやがる。
楽譜通りとは言葉通り定義された音以外を表現していない。
四分音符はそれ以上の情報を内包なんてしていない。
だから譜面通り弾いても名演奏にはならないんだよ。
単純で当たり前の話し。ウザイから音楽止めてスポーツでも
やったらどうなんだ。 ならなぜスコアの指定通リの楽器を使わなかったのかね >>700
楽譜通りを文字通り解釈しただけだ、ってんだろ?
まずその時点でまちがっとるから 音符は楽譜の構成要素の1つ
楽譜通りという自分の言葉に責任を持ってもらいたいもんだな >>スコアの指定通リの楽器
理由は簡単、あの映像はオレが作ったものじゃなく検索で見つけたものだからだよ。
オレはDTMは90年代に始めて、まあ市販のクラシックのMidiデータも持ってるが
ネットにアップする趣味はないから他人の例としてリンクしたまで。
その買ったMIDIデータではなるべく自然に聴こえるように微調整されているが、
かなり楽譜からは離れている。それでも実際の演奏ほどの感動はないな。
ベロシティとはMIDIで採用された強弱の調整だが、ピアノでならしても
一音ずつ強さを変えないと人間が弾いたふうにはならない。
例えばだが、全体のリズムに合わせて出だしの音は強め、十六分音符の経過音などは
かなり弱めにしないと自然じゃない。そんな事楽譜に指定なんてないから
奏者が勝手に強さを変えてるわけだね。その変え具合いが演奏の巧い下手に
なってるわけ。 楽譜通りにやれと言われたら
まず楽器編成を見て楽器とプレイヤーを揃えるのだが 楽譜通りと演奏しろと言われてパソコン引っ張り出してくる馬鹿がいるかっての 昔クラ板に「クラシックのMIDI作ったから聴いてくれ」的なスレが立った時期があったな
評判は散々だったが 「楽譜通りに演奏すれば良いと言うものでは無い」
という言い草は、得てして
「楽譜通りに演奏出来ない下手クソな演奏家」
に有りがちなエクスキューズだと思われるんだよ。
また、それを鵜呑みにした聞き専ね。 楽譜というものを五線譜上にある音符休符強弱記号速度記号だけだと思っているんでしょ
>全体のリズムに合わせて出だしの音は強め
>十六分音符の経過音などはかなり弱めにしないと自然じゃない
>奏者が勝手に強さを変えてるわけだね
>その変え具合いが演奏の巧い下手になってるわけ
もうね まああの映像はともかくとして楽譜ってのは基本的にデジタルな情報しか乗っからないからまんまデジタルな手法で音にすると人間の感覚的に違和感のあるシロモノになるのは間違いない
逆に人がフツーの感覚で楽譜どおりの演奏をしたつもりのもんをデジタル的に解析したら正確さに欠けるってことになりかねない
名演奏ウンヌンいう以前の話だけど楽譜どおり完璧に演奏したからと言って名演奏になるとは限らない〜なんて言い出した人はそういう当たり前のこともわかってない人だったんでしょう >人がフツーの感覚で楽譜どおりの演奏をしたつもりのもんをデジタル的に解析したら正確さに欠ける
人がキーボードで演奏しながらパソコンに入力するとすさまじく細かい音符や休符、付点音符が記録される
「楽譜通り」に対する受け止め方が様々なレベルにあるので齟齬が生じるのは仕方が無い
楽譜にあるのは音符で、それが長さと音高を示すだけというところで認識が止まっている人が
他人の作ったMIDIを勝手に引っ張ってきて(おそらく楽譜も見ずに)「楽譜通り」とやらかしたんでね >楽譜ってのは基本的にデジタルな情報しか乗っからない
文字による指示もかなりあるよ まあでも楽譜どおりウンヌン言う人はアレグロ・マ・ノントロッポ・ウン・ポコ・マエストーソになってない!とか言わないでしょ
ベートーヴェンの晩年のそういう指示は楽譜ってものの限界に対する苛立ちを感じる 記号なんかをどう受け止めて表現しそんなものを知らない聞き手に何を伝えるかを心がけるのが演奏者なんじゃないの
聞き手が知っていたり曲を演奏する側なら当然それが生かされているかどうか考えるでしょ
作曲者は常に限界との戦いなんじゃないの詳しく知らんけど 楽譜ってモーツァルトの時代から進化してるんですか? >>718
詳しく知らないなら
そこは触れないでよろしい >>717
アレグロ・マ・ノントロッポ・ウン・ポコ・マエストーソを
どう自動演奏に反映させるかはAIが必要だな スーパーコンピュータとかならウイーンとかベルリンを再現できないだろうかね
フルトヴェングラーとかハイレゾ高解像度で聴いてみたいな 各楽器の現代の響きから仮想的な音の補完の技術は近い未来に可能だと思う
それを良しとするかは微妙なところだろうけど >>726
例えばフルトヴェングラーの現存の音源全てとスコアをAIに学ばせて
フルトヴェングラー未録音の曲を演奏させてみたらどうなるのだろう、
というのは興味ある 別の曲の演奏の再現は仮定としてしか無理だから
出来たとしても遊戯でしかない バイアスの掛かっていないフルトヴェングラーは興味がある ほんとなんでこんなに頭悪い奴ばっかなのw
コンピュータの仕組すら分かってないw
>>楽譜というものを五線譜上にある音符休符強弱記号速度記号だけだと思っているんでしょ
作曲者の但し書きとか指示表記の事でも言ってるのかね。それも正確には音には出来ない要素だろ。
指揮者の解釈によって変わるからフルトヴェングラーがどうのとかのバカ話しになる。
てめえの必死の自己弁護はもう破綻してるだろ。程度が低過ぎ。 >>731
パソコンで鳴らしたらお話にならないってんなら100歩譲って分かったつもりになってやるが
パソコンが楽譜通りに出来ない事なんてアンタが力むまでもなく誰でも知ってる >>他ならぬお前が楽譜通りと言い出したんだが
何を書いてるんだか、オレはここで楽譜通りに弾ければ名演奏的なことを言ってる奴に
楽譜通りに弾いても巧い演奏にはならないと言っただけ。勝手に尾ひれを付けて
その尾ひれの部分で個人攻撃。まあ掲示板によくいるくだらない人間だろうが、
相手してやるとこの有様。
>>パソコンが楽譜通りに出来ない事なんてアンタが力むまでもなく誰でも知ってる
言ってることを理解できてないだろ。パソコンは楽譜通りにしか演奏しないと
言ってるんだが。楽譜にある注意書きも含めて全ての情報をコンピュータは
再現する。しかし作曲家の意図を汲み取ったり忖度することはないので
譜面上の情報だけでは機械演奏にしかならない。それは人間が譜面通りに
弾いた時も同じこと。ということだよ。 楽譜通りに演奏するってのはパソコン引っ張り出してくることではないの
やり直し >>731
お前はAIがどういうものかわかってない >>729
もちろん音楽家にとってはお遊びだよ
研究者にとっては真剣勝負だが
リスナーにとっては、、、
音楽聴くこと自体がお遊びw 今日もお疲れさん
モーツァルトを聴いておやすみの準備だ 一拍目だろうと四拍目だろうと四分音符は四分音符って行き方で同じ音にするのが楽譜どおりなのか
いちいち楽譜に指示がなくても一拍目にはアクセントをつけるのが楽譜どおりなのかってのは
楽譜どおりに演奏しても名演奏にならないっていうのとはレベルが違う話だと思うけど まあまあ
パソコン鳴らして楽譜通りという恐るべき低レベルのヒトすらいる訳だから… まあとりあえずハイティンクに振らせてみろということでね モーツァルトを聴いていると荒れた肌がすべすべになっていく ピアノ協21番の2楽章って雰囲気いい
どんな映画に使ったのか知らないけれどそのおかげで
いいって言ったらニワカみたいな感じになるっぽいし
品を落とされて可哀想 いい曲なのにね >>744
あんまりにも甘すぎて胃もたれしそうになる
生クリームの上に粉砂糖ふるだけじゃなくハチミツとメープルシロップもトッピングしました!って感じ
オー人事オー人事っていうCMで有名になったチャイコフスキーの弦楽セレナーデと雰囲気がよく似てる >>749
チャイコフスキーは甘いのがいいんじゃないか
弦楽四重奏なんて甘くて大好きだよ >>751
いや嫌いじゃないですけどね何事もホドってものがある今日はうんと甘いもの食うぞ〜と覚悟して向かわないと10秒くらいで胃もたれっていうか胸やけおこす
オー人事みたいなパロディ路線で使われないと現代人には正面から向き合うのは気恥ずかしいんじゃないかって言ってた人がいた
モーツァルトシューベルトドボルザークが三大メロディー作曲家って言ってた人もいたけどチャイコフスキーを忘れてたんだと思う
モーツァルトシューベルトに比べるとチャイコフスキードボルザークはメロディー以外のもんが足りないから相対的にかえってメロディーが引き立ってる感がある モーツァルトはメロディー作曲家か?
似た趣向の旋律に固執するところがあるから違うだろ
チャイコやドヴォと並べるならハイドンのほうがよっぽどだわ 19c後半からの作曲家のオーケストレーションの巧みさが見落とされてる オーケストレーションは今は作曲家ではなくて編曲家の仕事だしな
ひとりでやったとしても作曲・編曲とわざわざクレジットする >>746
モーツアルトを聞いてるとサラサラ透明のザーメンがたくさん出る ベートーヴェンを聴くと男らしいネバネバの絶対孕む精液が出るよ >>752
>チャイコフスキードボルザークはメロディー以外のもんが足りないから相対的にかえってメロディーが引き立ってる感があるつうより、確信犯的にメロディーに重きを置いている感じ。確かにメロディー製造の能力が弱かったからだろうけど。
>>753
モツの場合は「似た趣向の旋律に固執する」というより
体質的なものまんまストレートに出しての速書きだから似ちゃうんだと思う。
確かに歴史的作曲家の中で見るとメロディーメイカーとは言えない。 ×メロディー製造の能力が弱かったからだろうけど。
〇メロディー製造以外の能力が弱かったからだろうけど。 モツとかブルックナーとかは書けたとしても多様なメロディを書かないタイプだと思う 「似た趣向の旋律に固執する」は裏を返せば主題労作に近い
モーツァルトの音楽ではそういうのは少ない モツは短調のメロディーはヴァラエティに富んでるのに長調は似たり寄ったりの印象。
長調の曲のほうが断然多いのだが。
それとも多いから似たのが多くヴァラエティがないように感じるだけかな? >>764
聴きすぎてるのでは?
ショパンだってひたすら聴いてるとデジャヴ感が出てくる
あと人生が短かすぎるので変化してる暇がない ベートーヴェンが自分の足で歩き出した歳には
モーツァルトはもうフィガロを書いてドンジョバンニを書いてる最中で
ピアノソナタは14番まで書いて
ピアノ協奏曲は22番まで書いてた
変化する時間はもうないよ ベートーヴェンあるいはストラビンスキーのような作風変化はなくても
後期三大交響曲って全部40日間で出来たんでしょ? 39番とジュピターが共に長調だからって似たり寄ったりなんてことは全くない
ベトだって第五と田園を同時平行で作曲したってのは常人の理解を超えてる
いいメロディー書いてりゃメロディーメイカーってことでいいならモーツァルトはもちろんベトも主題労作型の横綱格のブラームスだって十分メロディーメイカーになっちまう
真にメロディーメイカーと呼ばれるためにはメロディーだけで曲全体うめつくすくらいの作風でなきゃいけない? >全部40日間で出来た
それよく言われているけど正確にはそうじゃない。
モツは自己作品のリストを作っていて完成日も書いているのだが、
39番が完成したのが6月24日、41番の完成日が8月10日。
つまり39番が完成されてから41番が完成するまでの間が45日間。
だから三大交響曲の作曲期間となると、39番の作曲期間(2週間くらいかね)を
45日間に足さないといけない。 >>769
なるほどありがとうございます
39番が一番作曲にかけた期間が少ないって聞いたと思うけどどっから出てきた話なんだろう?
それにそんなリストがあるのにケッヘル番号が会議?のたびに変わるのはどうしてでしょうね? >>768
曲というのはメロディとつなぎでできている
つなぎをおろそかにしてるストラヴィンスキーみたいな作曲家もいるが ダラダラと冗長になるくらいなら
つながなくていいよ モーツァルトのCDがなかったら今頃は音楽を聴いてない 自分の魂に刻み込まれてきた音楽ってそうそうないと思うんだけど
モーツァルトの音楽は今まさにそれなんだ
世間や友達に合わせてるわけでもなく自分の為だけに
自分の欲するままに聴いている ほんと出会えてよかった 自分の魂に刻み込まれてきた音楽ってなんだろうと
記憶を手繰り寄せてみたら
何てちんけで愛しい曲ばかりなことw
まあそれはそれでよしだけどね 物心ついたころからずっとクラシックという人もいるとは思うけど
どの作曲家に落ち着くんだろうか
聴くだけの人と演奏するひとでは違うんだろうけど 最後に落ち着くって話になるとバハとモツが多いんじゃないかな
ベトはそこに「落ち着く」って感じじゃねっし 落ち着くという言い方ならバッハかモーツァルトだな
無限に聞ける 聴いてるうちにベートーヴェンなんかも俗化されたモーツァルトのように聞こえてくる モツにつくとベトがすごく見えてくる
ベトにつくとモツがすごく見えてくる モーツァルトは小馬鹿にして食わず嫌いぐらいがちょうどいい 40番聴いたときはこれにかなう音楽なんてねーよって思ったものですw モーツァルトの音楽は、脈々と受け継がれる生命そのもの 名盤と言われるにはそれなりの理由がある
素直に聴いてみたほうがいいね でも名盤と言えども
残響多めは好きじゃないし
楽器の解像度が低いのはダメ
指揮者の位置で聴いてる感じがいい 40はワルターが良かった
多少おどろおどろしいくらいの指揮があう 俺は40番は一気通貫でやってほしいからワルターはダメですわ。
NY盤もコロンビア盤も。
39番の演奏は愛聴してるが。特に最終楽章の展開部の低弦はしびれる。 モーツァルトが書いた楽譜を再現しているのならば
誰が演奏してもハイレベルであり差ほど変わりはないね 後期交響曲は41番だけはアーノンクール、それ以外はレヴァイン、若い番号はマッケラス。 ベームは張りはあるんだが無機的な感じがするのでモツは合わない気がする。
41番の最後のフーガは迫力のある演奏になってるけど。 アマデウスを観たか観ないかによって印象は変わるかも ベームのモーツァルトだとレクイエムは凄いと思う…けどピリオド派と比べちゃうとやっぱ古いね
四半世紀ほど前40番をマッケラスで聴いたのがモーツァルト初めだった記憶…だけどワルター ウィーンを聴いて何これ全然違うじゃん!ってのが演奏の重要性知った最初だった記憶
とりあえず楽譜どおり正確なら大差ないなんてことないよ ゴミ映画?
失礼なやっちゃ
そこそこ、面白かったで カラヤンの1976年録音のベートーヴェン第九はすごい
1楽章は各楽器の音が重なった響きの連続で曲の雰囲気を作ってるし
第九の頃はベートーヴェンの耳はほとんど聴こえなくなっていて、耳が聴こえないことの限界により、各楽器の音量バランスは、指揮者、演奏者の実力に如実に現れる曲だから、カラヤンの耳の良さと、それを実現できる指揮力のすごさを感じる
モーツァルトの曲は、楽器編成の少なさもあるかもしれないが、アマチュアオケが弾いても、曲の響きや雰囲気が出るし 肖像画と伝記よりは生きているモーツァルトを知った気がした
あの映画は価値があったよ 真偽は別として モーツァルトだってベートーヴェンだって
モダン楽器を弾いたら「超スゲー」って喜ぶと思う >>816
モーツァルトもリスト並に凝った曲書くかもな モーツァルトは技巧的な曲作っても情緒溢れるからなあ
リストみたいなそれだけの曲は作らん >>819
流石にリストを表面的に聴きすぎだろう
超絶技巧練習曲とハンガリー狂詩曲しか聴いてないってのならそうだが まあ感じないのは本人の問題だから
とやかく言っても仕方ないがな リストはメロディーメーカー
モーツァルトはジーニアス
ベートーベンはシラネ ベートーヴェンは鬼だろ
室内楽の延長線上みたいなところから自力で九番までたどり着いたのはやばい >>818
8番イケイケノリノリで大好き。
聴きながら身をよじってしまう感じで、ベトもそうしながら作ったんじゃないかと想像。
他のに比べたら全四楽章が一本調子的ではあるがね。 >>826
第7の方がよっぽどイケイケどんどんで一本調子だと思うけど
だからこそ近年人気なんだろうけどね
第8はイケイケだけど一本調子じゃないところがいいと思ってる
昔買った交響曲全集のライナーの第8の解説で第7第8が一緒に再演(おそらくいずれも史上二番目)された際に聴衆が第7の方に熱狂するのを見たベートーヴェンが第8の方がずっと出来がいいのにと不満をこぼしたって話があった
ただこの書き手(無記名だった)は第7の方がいい曲なのは議論の余地がない前提事項であるけれどもそうはいってもこんな話もあるんですよ〜って感じの書きぶりでヒジョーに違和感を覚えた私は今でも第8の方がずっといい曲だと思ってる
同じライナーのエロイカのトコでは第9を書く前のベートーヴェンがあなたの交響曲で一番いいと思うものはどれか?と聴かれてエロイカと答えたって話が乗ってた
しかもそれは意外ですね第5かと思いましたと問い返されていいえエロイカです!と答えたというんだけどその話も第5の方がいい曲なのは常識であるけれども〜と言わんばかりの書きぶりにこれまた違和感ハンパなかった
第8対第7と違って第5対エロイカでエロイカの方がいいとは主張しないけど少なくとも互角でエロイカがフォロー入れてもらわなきゃいけない存在だとは思わない
個人的にベートーヴェンと言えば第5っていうのは年寄りくさいというか古いと思う
逆に第8よりも第7!というのには若いな…と思う
ただ でものだめでちょっと感心しかけたシーンあるよ(嫁が数巻持ってたのだ)
学生オケがエロイカの演奏で高弦が曲芸弾きするところがあるんだ
最初、楽団員はそれをどこかでやりたがっていたんだけど指揮者は却下してた
しかし実演では「(やるならここだろ)」ってことでやらせたんだが、
確かにエロイカには「やるならここだろ」のところがある
第三楽章の終わり、3拍子のスケルツォが突然4拍子になるところ
へえ、この部分、この作者知ってたのかあって思ったよ
まあ偶然だろうけどw 90年代(前世紀だな…)すでにレコ芸かなんかのアンケートで好きな交響曲部門第一位とってた記憶があるぞ第7
誤解を恐れずに言うとノリがいい上にノリが軽いのが現代向きなんだと思う ベトの中では一番聞きやすい交響曲だよな
個人的にはエロイカもそうだと思うけど ショルティ聴いたけど8番イマイチだった
7番の方が面白い ショルティが「私の指揮は、メトロノームのように正確だ」と言った
そんなの自慢してるのが、情けない ショルティはマーラーやシューマンを振ってればいい
精神性の高い音楽には不向きだ ショルティ、ムーティは面白くない
少し面白いのが、サンティ
凄く面白いのが、カルロ・ポンティ(プロデューサー) モダンはこの人で決まりかな
それにしても8番って短いな もう終わり?みたいな 要するに、音を聞くのは耳
耳が付いている生命なら、周波数帯域に違いがあるけど
だいたい同じように聞こえるはず
問題は、こころ
人間には、いいか悪いか別にして、心が発達していて、妄想に次ぐ妄想をするようにできている
だから、感激したり、興奮したりする
クラシック的感動とは、そんな、たわいもないもの マーラーやシューマンは精神性が低く、ベートーヴェンは精神性が高いのか、、
www シャイーいいね
こういうのをピリオドアプローチっていうのかな?
ピリオドとモダンと良いとこ取りみたいな
違ってたらごめんw シャイーはピリオドとか関係なくサクサク振る指揮者だから良くわからん モーツァルトっぽい曲が流れてるなぁって思ったらハイドンの曲だったwってのはよくあるんかな? ハイドンを聴き始めるといつも
モーツァルトを聴いた方がいいなと思ってしまう モーツァルトは作曲がほぼ快楽
ベートーヴェンは結構苦悩 モーツァルトの良さがわかりません
僕の耳は腐ってるのでしょうか? 俺も高校生くらいまでモーツァルトの良さがわからなかった
チャラチャラした軽い音楽しか作れない奴と思っていた
彼の音楽の背後に広がる世界に気づき始めたのは大学にはいってからだった モーツァルト
39→ムラヴィンスキー
40・41→ショルティ/ヨーロッパ室内管
ただし3大ツィクルスとしてはアーノンクール
レクイエムはカラヤン/ウィーンフィルの最晩年のやつ
ベートーヴェンの交響曲はアーノンクールとラトルにしとけば間違いないでしょう 小林秀雄ってなかなかと思うが、多母国語の人たちでかれを褒めているのは聞いたことない
やはり日本だけで通じるポエムなんだろうな 「疾走する哀しみ」なんて今となっては失笑ものでしょう
所詮印象批評、この国の文明開化の後進性だよ 高橋英夫氏は第U章「逃走」の中で、この話をさらに掘り下げ、小林秀雄はゲオンの言葉を誤訳したのではないか書いています。
「小林秀雄が、ゲオンのいう allante を『疾走する』と訳し、『モーツアルトのかなしさは疾走する』といったのは小林秀雄的『誤訳』、一種の創造的誤訳ではなかったのか!?」
「ゲオンは tristesse allante を直接にはニ長調の『フルート四重奏曲K.285』の第1楽章について言っているのである。
もちろんすぐ続けて、その曲が後の傑作、ト短調の『弦楽五重奏曲K.516』の冒頭の『新しい音』を時に響かせていると述べているし、
K.516を語った個所からも、ゲオンがこのト短調の中にやはり tristesse allante を感じていたであろうことは察しがつくのであるのだが」
「しかし、訳語の『疾走する』はもう少し問題にしなければならない。語学的にはそれは誤っているが、
だからといって現行の仏和辞典での allante の訳語『動き回ることの好きな、活動的な』、『元気旺盛な、はつらつとした』、
『活動的な、元気な』を持ってきて、例えば『活動的な悲しみ』、『はつらつとした悲しさ』というふうに言い表せば、的確と言えるだろうか。
それでもまだぴったりしないように思われる。
これは『陽気で軽快』ではあるが、、中には『悲しみ』がたたえられているという二つの矛盾した特性の融合なのである。
アンビヴァレンツを含んでいるのである。ゲオンが言いたかったのはそれであろう。
このように了解した上で、おそらくいかなる訳語も完全には表現しきれないモーツアルト的本質がそこにある、と受け止めるほかない」 うーん、はつらつとした哀しさの方がいいと思うがなあ
疾走すると訳すとモーツァルトの曲が辛気くさいと勘違いされる 今となっては関わるのは無意味な人なんじゃないですかね 久元祐子・演奏に関する「箴言」
https://www.yuko-hisamoto.jp/aph/gheon1.htm
(フルート四重奏曲ニ長調K285)第1楽章(アレグロ)は、1787年の無二の傑作
『弦楽五重奏曲ト短調』K516の冒頭部アレグロの最高の力感のうちに見出される
新しい音を時として響かせている。それはある種の表現しがたい苦悩で、流れゆく
悲しさ(tristesse allante)、言い換えれば、爽快な悲しさ(allegre tristesse)
とも言える《テンポ》の速さと対照をなしている。この晴れやかな陰翳という点か
らみれば、それはモーツァルトにしか存在せず、思うに、彼のアダージオやアンダ
ンテなどのうちのいくつかをよぎる透明な告白よりもずっと特殊なものである。
アンリ・ゲオン まあ文章書かせたら文系はダメってのは常識「理科系の文章技術」って本は文系理系問わずオススメ >>881
それは、小林秀雄の文章が破綻しているという批判なのかな、実際に本を読んでそう思ったのかな? 「国境の長いトンネルを…」「我輩は猫である。名前はまだない。」「春はあけぼの」とか小説や随筆なら読んだことないのにそのフレーズだけは知っているっていうのはある
…けど評論という体裁の文章でそこだけ切り取られて有名なフレーズってのは他に心当たりがないこれはけっこうスゴイことではなかろか
ただし個人的にはモーツァルトに疾走するイメージはまったくない
「おいていかれる」感覚はときどき受けるがこれは疾走するスピードではなく変わり身の早さゆえだモーツァルトは足は速くないが身が軽い 評論は大きく分けて、三つのものがあると思う
1、既存の価値観に照らし合わせて新しいものを評価する
2、新しい価値観に基づいて古いものを再評価する
3、新しい価値観によって新しいものを評価する
疾走するモーツアルトという詩的な表現は、それまで日本人が誰も公きすることがなかったモーツアルト像を提示するとともに、音楽という非言語を言語化する可能性をひろげた
出版から長い時間を経た現代からみると、表現の正確性には様々な異論が出る可能性は否定し得ない
氏を知らねえよというのは、歴史に興味ないのと同じで一つの生き方ではあるが、知らないのに批判するとしたら、ベートーベンをまともに聞いたこともない人間が、あんな退屈な音楽と言い捨てるに等しい てか、小林秀夫よりお前らの方がよっぽどモーツァルト聴いてるだろw 別に音楽についてに限らず小林秀雄は読んだけど、正直古いと思ったな。
でもそれは彼の見方が今じゃ広く一般常識(的)に共有されてるからかなと思う部分もたくさんあった。
「疾走する哀しみ」は個人的にはちょっとキザじゃねと思うw 歌物の良さが全然わからなかったんだけど、モーツァルトのK.108レジーナ・チェリ聴いて初めて歌物を素晴らしいと思った。
それでアーノンクールのモーツァルト宗教音楽全集買って聴いてるんだけど、レクイエムやミサソレムニスやハ短調ミサやら素晴らしいね。
今までベートーヴェンのほうがやや上かと思ったけど、モーツァルトは宗教曲やさらにオペラもあるんだから五分かそれ以上かもね。 そもそもクラシックの起源はグレゴリオ聖歌だと言われるくらいだから歌物聴かないとクラシック好きとは言えない 最も古いクラシックって?〜現存最古のクラシック グレゴリオ聖歌を聴く〜
http://gotamag.com/books/gregorianchant/
この記事でグレゴリオ聖歌の「怒りの日」について
「題名からは想像もつかないような癒しBGMの雰囲気に、思わず笑ってしまいました。」とあるが、
この「怒りの日」はベルリオーズ「幻想交響曲」終楽章などで使われた有名な旋律ですよ というか、ベルリオーズ「幻想交響曲」終楽章を聴いて、金管で「怒りの日」の旋律が奏でられることに気付かないのは魅力半減だと思う ちなみに「幻想交響曲」はベートーヴェンと比較してかなり新しい曲だと思われがちだが、1830年作曲・1832年初演とそこまでではない グレゴリオ聖歌の旋律を交響曲で使うのはベルリオーズが最初ではなくハイドンもその一人で30番「アレルヤ」は有名だね
ハイドンは聖歌に似せた素朴な主題を自作し変奏曲として交響曲によく採用してる
一番好きなのは75番の2楽章で、ヴァイオリンとチェロの二重奏が聞けるところがグッド マーラーが苦手とか言っちゃうクラヲタは
クラ聴くセンスが無い ブルックナーとかマーラーが良い人はテレビの砂嵐とかも好きだと思うんだよ モーツァルトの音楽って意外に脳が疲れるんだよな
ロココ・ギャラント様式の音楽で実はアクが強い
クリエイター系の人で仕事中にモーツァルト聴くって人がいるけど、俺には信じられない
脳をニュートラルな状態にしてくれるのはバッハ でもまあ意外と疲れるっていうのはわかる気がする。
て言うか、いい音楽で仕事中に聴くとか脳をニュートラルにするとかってある?
いい音楽ほど仕事そっちのけで夢中になるし、興奮してニュートラルから程遠い状態になるんじゃない? ピアノ協奏曲の十番代ばかり聴いてるけど疲れたことなんてないよ ピアノ協奏曲の9番を聞いて次に22番を聞くと、木管楽器の扱いが熟達していて驚く 時々弦が沈黙して木管の室内楽とピアノの掛け合いを聴いてるようなピアノ協奏曲といえば17番じゃないだろうか その流れで、久しぶりに23番聞いてみた
陳腐で、色あせたような演奏、途中で止めた
アシュケナージ・フィルハーモニア管 >>907
19番あたりでもすごいんだが24番となるとほとんど
ピアノと木管のための協奏曲って感じ>木管楽器の扱い ベトの音楽は、ああこういうつもりで作ったなってのが分かるのが
聴き手の若いうちは感心、興奮、ひれ伏したりもするんだけど、
そのうち「ああもうわかったよ」ってなるところがある。
まあ全部それじゃないけど。 別に普通の能力でわかるよ
よしそれが誤謬であってもベトの曲はそういうことを考えさせるところがあるのは確かだと思う 「そのうち「ああもうわかったよ」ってなるところがある。 」そうかな?
一流の指揮者やピアニストが、演奏するたびに新しい発見があるって言ってる
俺は、ベートーベンは何回聞いても飽きないよ、特に、ピアノソナタ >>913
分かるよ。
すでに音楽そのものがオワコン化してる現代人の耳には、音楽って素晴らしい!ってやられても白けるだけなんだよなぁ。
ベトの音楽にはとりわけそういう汗臭さというか、説教臭いところがあって、食指が動かない。
モーツァルトはそういう俗っぽさとは無縁で、まったく嫌みがない。
モーツァルトにとって、音楽は自然や世界そのもので不可分のものという気がする。
こんな風に思わせる音楽家はモーツァルト唯一人!…ってのは万人の感慨なんじゃないか。 貴方はそう考えるのは、結構ですが
万人の考えじゃないか、と言うのは、違うと思いますよ
僕は、モーツァルトは飽きたけど、ベートーベンはずっと聞いていくと思います
実際、僕のCDボックスは、ほとんどベートーベンのピアノソナタで、いつも聞いています モーツァルトに飽きるような耳で聞くベートーベンというのも、随分薄っぺらと思われるが、また、それも人生色々 じんせいーーーイロイロ
島倉千代子はいいなあ〜って、圓楽が言ってた モーツァルトに飽きた人は誰のベートーヴェンのピアノソナタが好きなの? キャパシティが小さく感性が歪んでいて根性のひん曲がっている奴がどっちかをけなしているだけなんだがね どれも素晴らしいと思いますが
5、8,9、14、15、17、19,20,21、22、25、29
は、ほとんど聞きません モーツァルトのピアノ協奏曲に29番なんてないなと思ったら
ベートーヴェンのピアノソナタかwww
半分は聴いてないのか それって >>936
あなたを温かい気持ちにするのは、そんなに凄いことなの? 第九はティンパニ交響曲なのでホグウッドがベスト、ただし終楽章を除く 昨今では「モグリでしょ」は通じないのか「ニワカでしょ」これなら通じる? 11月だってのどこもかしこもクリスマスソングばっかでうんざりだ
いくら名曲でもクラシックまで第九ばかりになるのはせめて12月に入ってからにしてくれ
第九はフィナーレだけだと思ってるのは当の合唱団員に多いらしいね
年末の第九ってのはオケ団員の餅代稼ぎに始まったそうな日本じゃ合唱団はふつーアマチュアだから
アマチュアってのは客連れて来るらしい日常業務のオケ団員と違って合唱団員にとっては少なくとも数ヶ月場合によっちゃ一年間の練習の仕上げの晴れ舞台だから;親せき縁者一人が二人連れて来るだけで200人になるからね >>943
でもべーやん自身は第九の終楽章をオケだけのものに置き換える計画持ってたそうよ
となると当然第九の終楽章は大フーガと同じく単独曲だ
(当然あの1〜3楽章の否定部分は削除) もともとは器楽のフィナーレの作曲に詰まって同時に作曲してた幻想合唱曲だったか?と一緒にしちゃったらしいよ
初演はそれがウケたけど再演は不評で器楽のフィナーレ作り直すかと言ってたってのも本当のようだけど
どっちにしろ第九と言えば合唱曲であって器楽だけの楽章なんて余分だ!なんていうニワカというか知ったかには第九の本当の聞きどころは第三楽章までだ!と説教かましてやるべきでしょう >>947
低次元の仮想敵をわざわざ作って、低レベルの仲間で盛り上がらなくても 最終楽章もテノールのあとの器楽だけの長い間奏みたいなところが好きだな。
あそこはいつ聴いても感動する。
最後の最後で声楽にええところ持っていかれちゃったけどやっぱりベーやんは器楽やでって。 >>949
同感!
そのあとのおずおずと助走をつけてのオケトゥッティフルコーラスでの歓喜の歌はなんというかズルイと思う
ここで涙がにじんでこないようであれば演ってる方か聴いてる方か少なくともどっちかに問題ありだ >>950
自分はどっちかつとテノールのマーチに男性合唱が入ってきて
それが頂点に達したあとオケだけが残って疾走し始めるところが抜群にしびれる
コーダ除いて最後の器楽の花道
今まで全9つの交響曲を築いてきた器楽の最後の見せ場
こっちが本当のベートーヴェンだろみたいな >>951
いや私もそこの二重フーガの方が好きだしスゴイと思いますよ
第九のフィナーレは合唱導入という反則というかドーピングみたいなまねしちゃったわけだけど器楽だけでこんだけのことができて
そこはなんとか涙堪えたっていうのにそのタイミングでそれは文字通り反則だろう!って感じですね >>952
シラーの詩を借りてはいるものの結局あの最終楽章はベートーヴェンの音楽思想の
言語化なのだと思いますね。
ベートーヴェンの難聴は楽器より人の声が聞こえないものだったらしいですから、
彼は音楽をというより言葉を奪われていた。
だからこそ音楽は作曲は彼にとって歓喜でありえた。
それを最後に言語化してしまった。
でもやっぱり真骨頂は言葉なしの音楽、すなわち器楽曲のほうにあった。
そういうことで確かにあなたの言っていることも当たっていると思いますよ。 >>957
全ての男たちは乳房から歓喜を飲むという内容 情けない言葉だね
ロリコンみたい
そんな内容なら、ない方がいいわ >>960
それをいうならマザコンでしょう
実際には地母神デーメーテールの乳房という壮大なテーマではあるのだが、言葉はそんなもの 第九終楽章の冒頭部分と声楽の入りの部分を聴いてすぐ「レチタティーヴォだ!」とピンと来ないのはニワカ やっぱり、暮れは第九だね!
楽園の娘で、男達は皆兄弟! ベートーヴェンって本当は物足りないのではなかろうか。だからいろんな演奏をあさってしまう。モーツァルトのような心の満足感を得られない。 イッセルシュテットは昔レコード持ってたなw
第一楽章再現部のティンパニロールはなかなかの迫力だった記憶 ガーディナーは心根が陽というか、健全だからつまらない 第9をピアノ連弾でやってた、BSで
迫力ないなあ
やっぱ、合唱付きの大編成でやるから盛り上がるんだ
あんなの、ピアノでやる意味が分からない オーケストラ曲のピアノ版ってのはご家庭で弾ける&聴けるってことで録音なんてない時代には普及に大いに意味があったんだよ
ロマン派の時代になるとその意味が逆転して俺はピアノ一本でオケ曲弾けるぜ!って感じでご家庭で気軽にではなく名手でないと弾けない超絶技巧のピアノ編曲版なんてのも出てくる
リストはベートーベンの交響曲のピアノ版全て出版してるけど当初は第九の合唱付きのとこをピアノにするのは無理だって言ってフィナーレは抜きだったのを後から合唱はそのまま残してオケ部分だけピアノにしたものを出した
こうなると完全にご家庭で気軽にって意味はなくなっちゃうが テンシュテットでおしまいです
第九には不思議な力があるね チコちゃんに叱られる見てる?
私はつまらねー奴です このスレの総括としてなんだかんだ言っても
やっぱモーツァルトの方が凄い
ということでいいと思うんだ このスレッドは1000を超えました。
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