モーツァルトとハイドンはどっちが凄い K./Hob. 2
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交響曲とピアノソナタはハイドンの方が好きかもしれない 思うんだが、ハイドンの交響曲第101番『時計』ってベートーヴェンぽい響きあるよな? 交響曲→ハイドン
弦楽四重奏→ハイドン
弦楽五重奏→モーツァルト(不戦勝)
ヴァイオリンソナタ→モーツァルト(不戦勝)
ディヴェルティメント→互角(ハイドン側にバリトン曲を含めれば)
鍵盤協奏曲→モーツァルト
鍵盤ソナタ→互角(ハイドンやや優勢)
ソナタ以外の鍵盤曲→モーツァルト
ヴァイオリン協奏曲→モーツァルト
チエロ協奏曲・トランペット協奏曲→ハイドン(不戦勝)
木管協奏曲→モーツァルト
オペラ→モーツァルト(圧勝)
ミサ曲→ハイドン
レクイエム→モーツァルト(不戦勝)
歌曲→互角(スコットランド歌曲の分だけハイドン優勢)
オラトリオ→ハイドン(不戦勝)
こんな感じ。異論は認める。モーツァルトはやっぱりオペラに始まりオペラに終わる。ハイドンは弦楽四重奏。 >>5
>モーツァルトはオペラに始まり終わる。ハイドンは弦楽四重奏
そんな感じだね、得意分野の性質がまったく異なる ハイドンはヴァイオリン協奏曲も良いよ。
カルミニョーラが演奏しているやつを聴いたが実に楽しい音楽だ。
チェロ協奏曲の方がキャッチーなメロディだが、なかなかどうしてヴァイオリンも素晴らしい。
ハイドンは知れば知るほど全方位的な天才だと感じられる。 ハイドンのヴァイオリン協奏曲は管楽器無しの弦楽のみの編成なので、バロックの協奏曲みたいなもんだよな。
モーツァルトの場合はクラヴィーア協奏曲第1番からすでに楽器編成にオーボエ、ホルン、フルートが入っているから、
モーツァルトこそが「独奏楽器と管弦楽のための協奏曲」を普及させたと言える。 ハイドンとモーツァルトでは格が違いすぎるからなあ… バッハとテレマンではどっちが凄いみたいなもんで好みの問題はあるだろうが本質的に比べられないほどの差があるね モーツァルトこそテレマンの系譜のような気がするが。同工異曲なところとか。 同工異曲ならハイドン
テレマンに同工異曲は感じない ハイドンほど古典派の枠内で驚くほど工夫を凝らした作曲家も珍しいと思うが。 言い古されているが、グレン・グールドの言葉は、ハイドン好きには最強の援軍だね。
『ハイドンの場合、この二つのクッキーは同じ抜き型で作ったな、と思うことがまったくない。ところが、どうも、モーツァルトにはそう思えるときがある。モーツァルトは、自分の調子をつかんでからというもの、すべて同じ抜き型で音楽作りをしていたような気がする。』 工夫って?
それならモーツァルトテレマンを同工異曲としてしまうのはおかしくね ハイドンのピアノソナタに関しては意外にグールドの発言は当てはまるかも
モーツァルトに関しては同意出来ない
またグールドの弾くモーツァルトは余り共感できない ハイドンは「知」の勝った作曲家だったんだよ、ものすごく頭の回転が速い
長々と同じことを話すことをしない、話の展開が速い
また、グールドが言ってる通り、同じパターンで作った曲が2つとしてない
モーツァルトは「情」の作曲家、悪く言えば「白痴美」みたいな感じがする
だから主情的な現代には向いているのだろう(私も好きだけどね)
知的なハイドンは現代には向かないのかも(一部の知的な聴き手以外には) >ハイドンは同じパターンで作った曲が2つとしてない
ハァ?
古典派の中の古典派であるハイドンは同じパターンの宝庫だろうがw ハイドンを聴いている人間は知的というよりは唯物論的
つづめて言えば知的の反対だ ハイドンの曲はぱっと聴いた感じでは似たような曲ばっかのイメージあるけどそうでもない。
実に多種多様だと思う。
古典派の形式を確立した張本人だけど、型にハマってない曲多い気がする。
同じ事はヴィヴァルディやスカルラッティにも言える。
クラシック興味無い人からすれば全部同じような曲に聴こえるけど。 ハイドンの交響曲第31番と第72番はコンセプトがよく似てるが内容がまるで違う 31番は神がかってる 番号は70番代だけど
作曲時期はホルン信号よりほんのすこし前の試作であって、
ホグウッド盤でいうところの3巻と4巻の
間には脅威的な飛躍がある、、、 もちろんモルツィン期からエステルハージ初期が
悪いという意味ではなく古典的な端正さというか
シンプルさが良いと思うよ。
72番は不自然な番号付けから見て、恐らく
当時も出番・演奏回数は少なかったのではないか。 アホスレかと思ったら、なんかみんな難しいこと書いてるなw ハイドンが60才手前でロンドンに行った時って、飛行機がない当時は馬車乗り継いで帆船に乗って2週間以上かかって行ったらしいな。
当時は60と言えば今より高齢扱いだったろうに。 >>29
今で言う70代位の扱いでは?
当時産まれてないからなんとも言えないけどさ >>30
だろうね。
馬車と帆船で長時間の移動とか若者でもまいりそうなのに。 1791-92, 1794-95年の2回の滞在とも約1年半ずつロンドンに住んでいたのはそれが理由なのだよ
現代だったら、金曜にビジネスクラスでヒースローへ飛び、ハノーヴァー・スクウェア・ルームズ
またはヘイマーケットのキングズ・シアターで新作交響曲を指揮して、火曜あたりにヴィーンに帰還する、
というスケジュールだろうに ホグウッド盤・4巻の 1765年に
ハイドンは副楽長から楽長に昇進しているようで
31番が神がかってるのはその心境を自ら
祝賀するかのような作品。
ハイドンの祝の調は通常ハ長調なのだが
その上のニ長調とホルンの倍増がさらにめでたい心境を
醸し出しているようにも聴こえる。
もちろん初期作品も棄てがたい逸品ばかりで
ハイドンは聴くほど知るほどに病みつきになる! 当時、オペラと協奏曲以外の分野でモーツァルトに太刀打ちできた唯一の作曲家だったハイドン。
どちらが優れていたかというよりも、二人の相互作用で古典派音楽が確立されたこと自体が素晴らしい。
両方とも好き。 短調の曲はモーツァルトの方が断然魅力的なのと、ジュピターやクラリネット協奏曲ほどの神曲はハイドンにはないと思う。
それ以外は >>5 に同意。 ハイドンには短調の魅力的な曲がたくさんあると思うよ。思いつくだけでも、
疾風怒涛期の一連の短調交響曲、弦楽四重奏曲(作品64Hob..III:68の最終楽章、
作品76Hob.III:76「五度」)、アンダンテと変奏曲ヘ短調Hob.XVII-6、初期のオペラ
「歌姫」Hob.XXVIII:2にも嵐のような短調のアリアがある。 >>34
それ当時でなく、今でしょ...
今日的な、もしくは
おまいさんの古典派音楽の捉え方だよ ハイドンはインパクトが強い名曲が無いね。
そこがクラシックファン以外にはあまり知られていない理由かな。
(ハイドンという作曲者名だけは有名だけど。)
殆どが水準以上の良い曲ばかりなんだけど、どれか特定の1曲というものがない。
ハイドンは水準以上の良曲が多数ある作曲家だね。
そこを評価すると>>5になるんじゃないかな。 ハイドンはクソくだらない作曲家だしこれから忘れられていくべき存在
モーツァルトの知名度に支えられて生き残ってるだけ お前はこんなとこで煽りかましてないで
薔薇の手入れしてピアノデビューに向けて練習してから
塾講師の代わりの仕事探せよ >>38の続き
つまりハイドンは全集や数枚纏まったセットを聴き込んでいる人が初めて評価できる作曲家だと思う。
交響曲や弦楽四重奏曲をCD1枚、2枚聴いただけではモーツァルトと同等かそれ以上かと言う評価にはなかなかならない。 そりゃ数を聞いた方が良いのかも知れないが
まとめて聞かなきゃ評価できんというのは君だけじゃないの
すきあらばなんとか派レッテル貼らなきゃ安心できないとかさ
一発屋ならともかく普通なら何作品かは聞くもんだがな 当時(1780〜90年代)の評価は、ハイドン=大作曲家、常に革新を追い求める大家
モーツァルト=ぽっと出の新進、何か奇妙な曲を書いてる若僧、だっただろうと思う
ハイドンは2回のイギリス滞在だけでも巨万の富を得たはずだし、最後はイギリス国王に
イギリス定住するよう求められたが断ってウィーンに帰った
ハイドンとモーツァルトの社会的地位には比較できないほどの格差があった
18世紀の評価と21世紀の評価は違っている、どちらかが正しいということはない 所詮商業小説家がモーツァルトと比べられるとでも?w >>42
現実に>>41が当てはまらない人なんてそういないよ。
ハイドンをモーツァルトと同等かそれ以上に評価している人は大抵ハイドンのCDを何枚も聴いている人だよ。 こじつけが過ぎる
たくさん聞く人が多いことと
たくさんきかなければ評価できない事は一致しない
聞いた自慢ほど下らないものはない 現代のクラシック業界はハイドンなしでもやっていけるが、モーツァルトなしではやっていけないという意味で、
モーツァルトは現代ではハイドンよりずっと商業作曲家だ。
だから評論家はモーツァルトを決して批判しない。
しかもそのモーツァルト人気には、生前不遇で商業作曲家でなかったという物語が必要不可欠。
モーツァルトが作品数はそのままで、90まで生きて巨万の富を築いてグルメに走っていたという生涯で、
ハイドンが作品数はそのままで40前に貧困の中死んだという伝記が伝えられていたら、
モーツァルトの人気は3割は減って、ハイドンの人気は3割上がっていただろうね。 世界的には、モーツァルトの大衆的評価はピーター・シェーファーの『アマデウス』(1979年初演)、
というよりむしろミロシュ・フォアマンの『アマデウス』(1984年公開)で定まったと言えるだろう
あの映画のいくつかのシーンで大衆の頭にモーツァルト=天才という観念が刷り込まれた
もちろんこれは大衆からの評価であって、ハイドン・モーツァルトへの音楽学者の評価にはもう少しニュアンスがある
日本では小林秀雄の『モオツァルト』の影響が大きいと思う、この本はいまでも若い人にも読まれているだろう
それから吉田秀和が集中的にモーツァルトについて書いたこと
ハイドンにはこういう有力な代弁者がいなかった 自分の耳で聞いてモーツァルトとハイドンの違いもわからないようなやつが何語っても無駄だろう
ハイドンはくだらん音楽だよ
喩えるなら川柳と俳句だ ロビンズ・ランドンがモーツァルトについて語る時はいつも奥歯に物が挟まったようになってた そりゃそうだ
ハイドンなんか好き好んでるやつにとっては世間のモーツァルトの評価と自分の聞く音楽とが一致しないのは当然だ
んなやつの聴く音楽はなんら精神的事件に繋がりえないだろう ハイドンの生む効果は自動生成された言葉のなかに「I love you」や「I hate you」があるようなもの
モーツァルトのように必然性があって音楽が紡ぎ出されるという精神的過程を経ていない コーホー先生は「僕はモーツァルトのシンフォニーは、よほどすばらしい演奏でないと聴くのがいやなのに、
ハイドンは水準以上の演奏なら十二分に楽しめ、何度耳にしても飽きることがない」と書いてる。
自分もそうで、モーツァルトはもう満足してしまって普段は聴く気にならない。 古典派交響曲(除くベト)は使いようで
ドンは普段使いにいい。勉強、読書、作業、就寝前と
じっくり聴いてもいいが流してもいい。
モツは映画音楽のワンシーンに似合うし実際に使われてる。
精神的どうのという見解がいよいよのお出ましだが
晩年はギャンブルなどの依存症であったことも
深く関係しているだろう。そうなるともはやロマン派の作曲家と
同じ状況であるとゐゑやふ。 モーツァルトはスナック菓子ではないw
消費するがために音楽を聴いているやつにはもったいない音楽だ 音楽の精神性は作曲家の精神性とはそもそも異なる
そんな基本的なことも理解していないのか。 それは原語に壁がある日本人の言い訳だよ
精神性を歌った歌曲、ストーリーのある曲は別として
純粋な器楽曲には精神性などない。
少なくとも古典派にはない。 それは精神性という言葉の意味を理解していない
あるいはできていない ハイドンの交響曲で精神性を感じる曲は記憶にないな。
しかし弦楽四重奏曲には沢山ある。
ハイドンは弦楽四重奏曲を数10曲聴いている人と聴いていない人では評価が全く異なると思う。 まあ確かにそうだな。ハイドンの弦楽四重奏を割と早い段階から聴いていたからなんの苦労もなく凄さを認めることができた。これはベートーヴェンに匹敵するレベルだと。 いまだに「精神性」という言葉を使ってる人がいるんですねw
10年以上前に死語になったと思ってましたが
「呼吸が深い」w(クラ板のお気に入り)と同じくらい意味をなさない言葉だと思います 精神性とか音楽性、芸術性
とかいう言葉を使う人は大抵その音楽を理解してなくて見栄を張ってるだけ
そういう言葉で知識のなさや理解度を誤魔化してるだけだし、そもそも小難しいことを抜きにして本当の意味で楽しめていない
このスレや板に限ったことではないけどね モーツァルトとベートーヴェンからハイドンを聴く場合、大した事のない作曲家とされるのは致し方ないのかも知れないが、バロックとかバッハの息子達からハイドンを聴くとこれは結構びっくり。幾何学的恐竜的なるバロック・前古典派の森に急に哺乳類が出現したという感じだ。 ハイドンの弦楽四重奏曲と後期ミサ曲を聴いて、彼はベートーヴェンに匹敵するレベルのクラシック史上有数の大作曲家だと感じるのは、多くの人に共通することだと思う。
未聴の人はぜひ聴いてほしい。逆に交響曲しか聴いていないと、ベートーヴェンに匹敵すると言われてもさっぱり理解出来ないと思う。
交響曲を聴くのも楽しいし、ピアノソナタやその他のジャンルもいいけどね。 モツは精神年齢は低かったが
音楽性は高いものである。
ハイドンは義理堅く真面目な性格だったが
音楽は意外性やトリックが散りばめられていてふざけてばかり。
真面目な精神性の高いボクちゃんはいつも
はぐらかされて嫌いなの。
ということでオッケい牧場? ハイドン作品の半分が声楽曲であることを思うと、器楽曲だけ聴いているのはもったいない。
オラトリオ「天地創造」、「四季」、ミサ曲(初期作品も含めて傑作の森)、スタバトマーテル、
あたりはハイドン・ファン必聴。 >>65
> 意外性やトリックが散りばめられていてふざけてばかり
ハイドン自身はこういう評価を受けて初めは嫌がっていたが次第に受け入れるようになった
交響曲60番あたりからかな
あれはモーツァルトで言えば「音楽の冗談」に近い
終楽章の冒頭が有名だけど、ユーモアは全楽章にちりばめられている
ただし理解するにはある程度音楽の素養が必要 ここでは交響曲60番の全楽章を指している
この曲を初めて通して聴いた時は出だしから最後まで凄いと感心した 何を以て凄いと思ったのかは分からないがダレるところがなくて面白いのは確か
紋切り型のフレーズが多いのはいつものことだがハイドンは意外にボキャブラリーが豊かな人なんだなといつも感心する
陳腐さから救われている 紋切り型のフレーズの半分はユーモアと紙一重のネタだと思われる というか紋切り型のフレーズをわざと使ってる所がこの曲のユーモアの一部だろ 弦楽四重奏「冗談」はどこらへんが冗談なのか
ちょっと聴いたくらいでは全箇所はわからないかと。 交響曲60番は確かもとが娯楽劇かなんかの付随音楽なので
いまでは一般的になった劇伴を組曲化したようなもの。
人形劇の伴奏音楽などの娯楽作品はほとんど廃棄されたようで
このように交響曲に仕立てることで初めて芸術作品
となり後世に残った。
RVWの南極交響曲などがその手法による。 ●モーツァルトは絹の手触り
●ハイドンは木綿の感触
私には、これが一番しっくりくる それだとちょっと抽象的すぎるな‥‥
例えばハイドンの交響曲を
「独・墺の主流」曲のように演奏しようとすると
まったくシラケてしまって何が
どこがいいのかわからない音楽に出来上がってしまうが
プーランクやヤナーチェクの曲のように、ひいてはファイの演奏のように
メカニカルさを強調するとより効果的だと思う。
交響曲、弦楽四重奏の父と謳われてはいるが
eテレでラトルがしゃべっていた「独・墺の主流」というのは
モツ〜ベトあたりが起源なのかもしれない…。 メカニカルな得そうと言うのは全く理解に苦しむ
プーランクやヤナーチェクがメカニカルとか
奇を衒わないとつまらない曲というのはそもそも駄作では ●モーツァルトは絹の手触り → 流暢なメロディ
●ハイドンは木綿の感触 → デコボコしたリズム感
よし。こう来てこう来た。次の一手どうぞ。 モツのような洗練された曲はそれはそれでいい。
ハイドンの関心はそういう方向性にないというだけ 洗練を目指してないの?
モーツァルトは洗練目指したの?
皮膚感覚に置き換えるとかカオスというか支離滅裂 方向性が違うのだよ。
モツの「音楽の冗談」とハイドンの弦四「冗談」
を比べてみりゃいい。
ハイドンの方はニックネームだが それぞれ作曲の目的が違うんじゃないでしょうか
ハイドンのは後付けニックネームなんじゃないの? へー、葬儀用の曲でもふざけてるように聴こえるのか? >>85
>全編にちりばめられたユーモア
とかやられるとそう書きたくなるのは分かる
何でもかんでもユーモアとか解釈するとかな
機知に富んだ とかならまだしも >とかやられるとそう書きたくなるのは分かる
文章だけで音楽を判断しようというのか
書き込みに対していちゃもんつけてくれるのは、
まあ、ありがたいことだけど、ちゃんと聴いてからに
してほしいね。 ハイドン厨自らハードル上げすぎ
漫才じゃないんだから前編ユーモアとか言い過ぎ >>90
前編ユーモアといってるのは交響曲60番のことだろう
曲も聴かなきゃ文章すらちゃんと読まんのかい・・・
後編につづく。 >文章だけで音楽を判断しようというのか
基本ハイドン厨は読解力と受け取り方にクセあるよな 冗談 と付いただけで同じ俎上に上げ方向性が違うのだよ とか当たり前のことを
バカ貝とバカ鳥を比べるより酷い モツは冗談音楽として書いたものだろうが
ハイドンはそうではないと?
ユーモアの質が違うとなぜ通じない
やはり聴いてないんだな・・・。 冗談 というのが付いただけで単純に比べてんのがどうなの?ってことなんでしょ 運命
英雄
悲愴
皇帝
田園
革命
告別
みんな比較対象なんですね そのなかでは「パストラル」のみが古くからある
テーマ、形式というか「牧歌」を指す素朴な音楽のことです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています