モーツァルトとハイドンはどっちが凄い K./Hob. 2
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
交響曲とピアノソナタはハイドンの方が好きかもしれない 思うんだが、ハイドンの交響曲第101番『時計』ってベートーヴェンぽい響きあるよな? 交響曲→ハイドン
弦楽四重奏→ハイドン
弦楽五重奏→モーツァルト(不戦勝)
ヴァイオリンソナタ→モーツァルト(不戦勝)
ディヴェルティメント→互角(ハイドン側にバリトン曲を含めれば)
鍵盤協奏曲→モーツァルト
鍵盤ソナタ→互角(ハイドンやや優勢)
ソナタ以外の鍵盤曲→モーツァルト
ヴァイオリン協奏曲→モーツァルト
チエロ協奏曲・トランペット協奏曲→ハイドン(不戦勝)
木管協奏曲→モーツァルト
オペラ→モーツァルト(圧勝)
ミサ曲→ハイドン
レクイエム→モーツァルト(不戦勝)
歌曲→互角(スコットランド歌曲の分だけハイドン優勢)
オラトリオ→ハイドン(不戦勝)
こんな感じ。異論は認める。モーツァルトはやっぱりオペラに始まりオペラに終わる。ハイドンは弦楽四重奏。 >>5
>モーツァルトはオペラに始まり終わる。ハイドンは弦楽四重奏
そんな感じだね、得意分野の性質がまったく異なる ハイドンはヴァイオリン協奏曲も良いよ。
カルミニョーラが演奏しているやつを聴いたが実に楽しい音楽だ。
チェロ協奏曲の方がキャッチーなメロディだが、なかなかどうしてヴァイオリンも素晴らしい。
ハイドンは知れば知るほど全方位的な天才だと感じられる。 ハイドンのヴァイオリン協奏曲は管楽器無しの弦楽のみの編成なので、バロックの協奏曲みたいなもんだよな。
モーツァルトの場合はクラヴィーア協奏曲第1番からすでに楽器編成にオーボエ、ホルン、フルートが入っているから、
モーツァルトこそが「独奏楽器と管弦楽のための協奏曲」を普及させたと言える。 ハイドンとモーツァルトでは格が違いすぎるからなあ… バッハとテレマンではどっちが凄いみたいなもんで好みの問題はあるだろうが本質的に比べられないほどの差があるね モーツァルトこそテレマンの系譜のような気がするが。同工異曲なところとか。 同工異曲ならハイドン
テレマンに同工異曲は感じない ハイドンほど古典派の枠内で驚くほど工夫を凝らした作曲家も珍しいと思うが。 言い古されているが、グレン・グールドの言葉は、ハイドン好きには最強の援軍だね。
『ハイドンの場合、この二つのクッキーは同じ抜き型で作ったな、と思うことがまったくない。ところが、どうも、モーツァルトにはそう思えるときがある。モーツァルトは、自分の調子をつかんでからというもの、すべて同じ抜き型で音楽作りをしていたような気がする。』 工夫って?
それならモーツァルトテレマンを同工異曲としてしまうのはおかしくね ハイドンのピアノソナタに関しては意外にグールドの発言は当てはまるかも
モーツァルトに関しては同意出来ない
またグールドの弾くモーツァルトは余り共感できない ハイドンは「知」の勝った作曲家だったんだよ、ものすごく頭の回転が速い
長々と同じことを話すことをしない、話の展開が速い
また、グールドが言ってる通り、同じパターンで作った曲が2つとしてない
モーツァルトは「情」の作曲家、悪く言えば「白痴美」みたいな感じがする
だから主情的な現代には向いているのだろう(私も好きだけどね)
知的なハイドンは現代には向かないのかも(一部の知的な聴き手以外には) >ハイドンは同じパターンで作った曲が2つとしてない
ハァ?
古典派の中の古典派であるハイドンは同じパターンの宝庫だろうがw ハイドンを聴いている人間は知的というよりは唯物論的
つづめて言えば知的の反対だ ハイドンの曲はぱっと聴いた感じでは似たような曲ばっかのイメージあるけどそうでもない。
実に多種多様だと思う。
古典派の形式を確立した張本人だけど、型にハマってない曲多い気がする。
同じ事はヴィヴァルディやスカルラッティにも言える。
クラシック興味無い人からすれば全部同じような曲に聴こえるけど。 ハイドンの交響曲第31番と第72番はコンセプトがよく似てるが内容がまるで違う 31番は神がかってる 番号は70番代だけど
作曲時期はホルン信号よりほんのすこし前の試作であって、
ホグウッド盤でいうところの3巻と4巻の
間には脅威的な飛躍がある、、、 もちろんモルツィン期からエステルハージ初期が
悪いという意味ではなく古典的な端正さというか
シンプルさが良いと思うよ。
72番は不自然な番号付けから見て、恐らく
当時も出番・演奏回数は少なかったのではないか。 アホスレかと思ったら、なんかみんな難しいこと書いてるなw ハイドンが60才手前でロンドンに行った時って、飛行機がない当時は馬車乗り継いで帆船に乗って2週間以上かかって行ったらしいな。
当時は60と言えば今より高齢扱いだったろうに。 >>29
今で言う70代位の扱いでは?
当時産まれてないからなんとも言えないけどさ >>30
だろうね。
馬車と帆船で長時間の移動とか若者でもまいりそうなのに。 1791-92, 1794-95年の2回の滞在とも約1年半ずつロンドンに住んでいたのはそれが理由なのだよ
現代だったら、金曜にビジネスクラスでヒースローへ飛び、ハノーヴァー・スクウェア・ルームズ
またはヘイマーケットのキングズ・シアターで新作交響曲を指揮して、火曜あたりにヴィーンに帰還する、
というスケジュールだろうに ホグウッド盤・4巻の 1765年に
ハイドンは副楽長から楽長に昇進しているようで
31番が神がかってるのはその心境を自ら
祝賀するかのような作品。
ハイドンの祝の調は通常ハ長調なのだが
その上のニ長調とホルンの倍増がさらにめでたい心境を
醸し出しているようにも聴こえる。
もちろん初期作品も棄てがたい逸品ばかりで
ハイドンは聴くほど知るほどに病みつきになる! 当時、オペラと協奏曲以外の分野でモーツァルトに太刀打ちできた唯一の作曲家だったハイドン。
どちらが優れていたかというよりも、二人の相互作用で古典派音楽が確立されたこと自体が素晴らしい。
両方とも好き。 短調の曲はモーツァルトの方が断然魅力的なのと、ジュピターやクラリネット協奏曲ほどの神曲はハイドンにはないと思う。
それ以外は >>5 に同意。 ハイドンには短調の魅力的な曲がたくさんあると思うよ。思いつくだけでも、
疾風怒涛期の一連の短調交響曲、弦楽四重奏曲(作品64Hob..III:68の最終楽章、
作品76Hob.III:76「五度」)、アンダンテと変奏曲ヘ短調Hob.XVII-6、初期のオペラ
「歌姫」Hob.XXVIII:2にも嵐のような短調のアリアがある。 >>34
それ当時でなく、今でしょ...
今日的な、もしくは
おまいさんの古典派音楽の捉え方だよ ハイドンはインパクトが強い名曲が無いね。
そこがクラシックファン以外にはあまり知られていない理由かな。
(ハイドンという作曲者名だけは有名だけど。)
殆どが水準以上の良い曲ばかりなんだけど、どれか特定の1曲というものがない。
ハイドンは水準以上の良曲が多数ある作曲家だね。
そこを評価すると>>5になるんじゃないかな。 ハイドンはクソくだらない作曲家だしこれから忘れられていくべき存在
モーツァルトの知名度に支えられて生き残ってるだけ お前はこんなとこで煽りかましてないで
薔薇の手入れしてピアノデビューに向けて練習してから
塾講師の代わりの仕事探せよ >>38の続き
つまりハイドンは全集や数枚纏まったセットを聴き込んでいる人が初めて評価できる作曲家だと思う。
交響曲や弦楽四重奏曲をCD1枚、2枚聴いただけではモーツァルトと同等かそれ以上かと言う評価にはなかなかならない。 そりゃ数を聞いた方が良いのかも知れないが
まとめて聞かなきゃ評価できんというのは君だけじゃないの
すきあらばなんとか派レッテル貼らなきゃ安心できないとかさ
一発屋ならともかく普通なら何作品かは聞くもんだがな 当時(1780〜90年代)の評価は、ハイドン=大作曲家、常に革新を追い求める大家
モーツァルト=ぽっと出の新進、何か奇妙な曲を書いてる若僧、だっただろうと思う
ハイドンは2回のイギリス滞在だけでも巨万の富を得たはずだし、最後はイギリス国王に
イギリス定住するよう求められたが断ってウィーンに帰った
ハイドンとモーツァルトの社会的地位には比較できないほどの格差があった
18世紀の評価と21世紀の評価は違っている、どちらかが正しいということはない 所詮商業小説家がモーツァルトと比べられるとでも?w >>42
現実に>>41が当てはまらない人なんてそういないよ。
ハイドンをモーツァルトと同等かそれ以上に評価している人は大抵ハイドンのCDを何枚も聴いている人だよ。 こじつけが過ぎる
たくさん聞く人が多いことと
たくさんきかなければ評価できない事は一致しない
聞いた自慢ほど下らないものはない 現代のクラシック業界はハイドンなしでもやっていけるが、モーツァルトなしではやっていけないという意味で、
モーツァルトは現代ではハイドンよりずっと商業作曲家だ。
だから評論家はモーツァルトを決して批判しない。
しかもそのモーツァルト人気には、生前不遇で商業作曲家でなかったという物語が必要不可欠。
モーツァルトが作品数はそのままで、90まで生きて巨万の富を築いてグルメに走っていたという生涯で、
ハイドンが作品数はそのままで40前に貧困の中死んだという伝記が伝えられていたら、
モーツァルトの人気は3割は減って、ハイドンの人気は3割上がっていただろうね。 世界的には、モーツァルトの大衆的評価はピーター・シェーファーの『アマデウス』(1979年初演)、
というよりむしろミロシュ・フォアマンの『アマデウス』(1984年公開)で定まったと言えるだろう
あの映画のいくつかのシーンで大衆の頭にモーツァルト=天才という観念が刷り込まれた
もちろんこれは大衆からの評価であって、ハイドン・モーツァルトへの音楽学者の評価にはもう少しニュアンスがある
日本では小林秀雄の『モオツァルト』の影響が大きいと思う、この本はいまでも若い人にも読まれているだろう
それから吉田秀和が集中的にモーツァルトについて書いたこと
ハイドンにはこういう有力な代弁者がいなかった 自分の耳で聞いてモーツァルトとハイドンの違いもわからないようなやつが何語っても無駄だろう
ハイドンはくだらん音楽だよ
喩えるなら川柳と俳句だ ロビンズ・ランドンがモーツァルトについて語る時はいつも奥歯に物が挟まったようになってた そりゃそうだ
ハイドンなんか好き好んでるやつにとっては世間のモーツァルトの評価と自分の聞く音楽とが一致しないのは当然だ
んなやつの聴く音楽はなんら精神的事件に繋がりえないだろう ハイドンの生む効果は自動生成された言葉のなかに「I love you」や「I hate you」があるようなもの
モーツァルトのように必然性があって音楽が紡ぎ出されるという精神的過程を経ていない コーホー先生は「僕はモーツァルトのシンフォニーは、よほどすばらしい演奏でないと聴くのがいやなのに、
ハイドンは水準以上の演奏なら十二分に楽しめ、何度耳にしても飽きることがない」と書いてる。
自分もそうで、モーツァルトはもう満足してしまって普段は聴く気にならない。 古典派交響曲(除くベト)は使いようで
ドンは普段使いにいい。勉強、読書、作業、就寝前と
じっくり聴いてもいいが流してもいい。
モツは映画音楽のワンシーンに似合うし実際に使われてる。
精神的どうのという見解がいよいよのお出ましだが
晩年はギャンブルなどの依存症であったことも
深く関係しているだろう。そうなるともはやロマン派の作曲家と
同じ状況であるとゐゑやふ。 モーツァルトはスナック菓子ではないw
消費するがために音楽を聴いているやつにはもったいない音楽だ 音楽の精神性は作曲家の精神性とはそもそも異なる
そんな基本的なことも理解していないのか。 それは原語に壁がある日本人の言い訳だよ
精神性を歌った歌曲、ストーリーのある曲は別として
純粋な器楽曲には精神性などない。
少なくとも古典派にはない。 それは精神性という言葉の意味を理解していない
あるいはできていない ハイドンの交響曲で精神性を感じる曲は記憶にないな。
しかし弦楽四重奏曲には沢山ある。
ハイドンは弦楽四重奏曲を数10曲聴いている人と聴いていない人では評価が全く異なると思う。 まあ確かにそうだな。ハイドンの弦楽四重奏を割と早い段階から聴いていたからなんの苦労もなく凄さを認めることができた。これはベートーヴェンに匹敵するレベルだと。 いまだに「精神性」という言葉を使ってる人がいるんですねw
10年以上前に死語になったと思ってましたが
「呼吸が深い」w(クラ板のお気に入り)と同じくらい意味をなさない言葉だと思います 精神性とか音楽性、芸術性
とかいう言葉を使う人は大抵その音楽を理解してなくて見栄を張ってるだけ
そういう言葉で知識のなさや理解度を誤魔化してるだけだし、そもそも小難しいことを抜きにして本当の意味で楽しめていない
このスレや板に限ったことではないけどね モーツァルトとベートーヴェンからハイドンを聴く場合、大した事のない作曲家とされるのは致し方ないのかも知れないが、バロックとかバッハの息子達からハイドンを聴くとこれは結構びっくり。幾何学的恐竜的なるバロック・前古典派の森に急に哺乳類が出現したという感じだ。 ハイドンの弦楽四重奏曲と後期ミサ曲を聴いて、彼はベートーヴェンに匹敵するレベルのクラシック史上有数の大作曲家だと感じるのは、多くの人に共通することだと思う。
未聴の人はぜひ聴いてほしい。逆に交響曲しか聴いていないと、ベートーヴェンに匹敵すると言われてもさっぱり理解出来ないと思う。
交響曲を聴くのも楽しいし、ピアノソナタやその他のジャンルもいいけどね。 モツは精神年齢は低かったが
音楽性は高いものである。
ハイドンは義理堅く真面目な性格だったが
音楽は意外性やトリックが散りばめられていてふざけてばかり。
真面目な精神性の高いボクちゃんはいつも
はぐらかされて嫌いなの。
ということでオッケい牧場? ハイドン作品の半分が声楽曲であることを思うと、器楽曲だけ聴いているのはもったいない。
オラトリオ「天地創造」、「四季」、ミサ曲(初期作品も含めて傑作の森)、スタバトマーテル、
あたりはハイドン・ファン必聴。 >>65
> 意外性やトリックが散りばめられていてふざけてばかり
ハイドン自身はこういう評価を受けて初めは嫌がっていたが次第に受け入れるようになった
交響曲60番あたりからかな
あれはモーツァルトで言えば「音楽の冗談」に近い
終楽章の冒頭が有名だけど、ユーモアは全楽章にちりばめられている
ただし理解するにはある程度音楽の素養が必要 ここでは交響曲60番の全楽章を指している
この曲を初めて通して聴いた時は出だしから最後まで凄いと感心した 何を以て凄いと思ったのかは分からないがダレるところがなくて面白いのは確か
紋切り型のフレーズが多いのはいつものことだがハイドンは意外にボキャブラリーが豊かな人なんだなといつも感心する
陳腐さから救われている 紋切り型のフレーズの半分はユーモアと紙一重のネタだと思われる というか紋切り型のフレーズをわざと使ってる所がこの曲のユーモアの一部だろ 弦楽四重奏「冗談」はどこらへんが冗談なのか
ちょっと聴いたくらいでは全箇所はわからないかと。 交響曲60番は確かもとが娯楽劇かなんかの付随音楽なので
いまでは一般的になった劇伴を組曲化したようなもの。
人形劇の伴奏音楽などの娯楽作品はほとんど廃棄されたようで
このように交響曲に仕立てることで初めて芸術作品
となり後世に残った。
RVWの南極交響曲などがその手法による。 ●モーツァルトは絹の手触り
●ハイドンは木綿の感触
私には、これが一番しっくりくる それだとちょっと抽象的すぎるな‥‥
例えばハイドンの交響曲を
「独・墺の主流」曲のように演奏しようとすると
まったくシラケてしまって何が
どこがいいのかわからない音楽に出来上がってしまうが
プーランクやヤナーチェクの曲のように、ひいてはファイの演奏のように
メカニカルさを強調するとより効果的だと思う。
交響曲、弦楽四重奏の父と謳われてはいるが
eテレでラトルがしゃべっていた「独・墺の主流」というのは
モツ〜ベトあたりが起源なのかもしれない…。 メカニカルな得そうと言うのは全く理解に苦しむ
プーランクやヤナーチェクがメカニカルとか
奇を衒わないとつまらない曲というのはそもそも駄作では ●モーツァルトは絹の手触り → 流暢なメロディ
●ハイドンは木綿の感触 → デコボコしたリズム感
よし。こう来てこう来た。次の一手どうぞ。 モツのような洗練された曲はそれはそれでいい。
ハイドンの関心はそういう方向性にないというだけ 洗練を目指してないの?
モーツァルトは洗練目指したの?
皮膚感覚に置き換えるとかカオスというか支離滅裂 方向性が違うのだよ。
モツの「音楽の冗談」とハイドンの弦四「冗談」
を比べてみりゃいい。
ハイドンの方はニックネームだが それぞれ作曲の目的が違うんじゃないでしょうか
ハイドンのは後付けニックネームなんじゃないの? へー、葬儀用の曲でもふざけてるように聴こえるのか? >>85
>全編にちりばめられたユーモア
とかやられるとそう書きたくなるのは分かる
何でもかんでもユーモアとか解釈するとかな
機知に富んだ とかならまだしも >とかやられるとそう書きたくなるのは分かる
文章だけで音楽を判断しようというのか
書き込みに対していちゃもんつけてくれるのは、
まあ、ありがたいことだけど、ちゃんと聴いてからに
してほしいね。 ハイドン厨自らハードル上げすぎ
漫才じゃないんだから前編ユーモアとか言い過ぎ >>90
前編ユーモアといってるのは交響曲60番のことだろう
曲も聴かなきゃ文章すらちゃんと読まんのかい・・・
後編につづく。 >文章だけで音楽を判断しようというのか
基本ハイドン厨は読解力と受け取り方にクセあるよな 冗談 と付いただけで同じ俎上に上げ方向性が違うのだよ とか当たり前のことを
バカ貝とバカ鳥を比べるより酷い モツは冗談音楽として書いたものだろうが
ハイドンはそうではないと?
ユーモアの質が違うとなぜ通じない
やはり聴いてないんだな・・・。 冗談 というのが付いただけで単純に比べてんのがどうなの?ってことなんでしょ 運命
英雄
悲愴
皇帝
田園
革命
告別
みんな比較対象なんですね そのなかでは「パストラル」のみが古くからある
テーマ、形式というか「牧歌」を指す素朴な音楽のことです。 >>97
モツとハイドンを単純に比べてるスレやし。 なぜベートーヴェンのop.28がなんで田園と呼ばれるのか分かってなくね? ハイドンの演奏にはリズム(拍感)が重要というのなら分かる。
その辺ベートーヴェンに近い。
メカニカルに演奏してもリズムが死んでいたらつまらなく聴こえてしまう。
モーツァルトとは違う。そもそもモーツァルトは作曲の時にまず和声から作っているんじゃないかと思うときがある。リズムは大して注意を払っていないんじゃないか?と。 どこから作ってもいいけどオペラの大家がリズムに注意を払ってないとかあり得ない リズムがないわけではない。
オペラも協奏曲も歌、旋律に伴奏がついたものに思うけど
モツってすべてのジャンルの楽曲が(例えばオペラも器楽も)
基本そのように聴こえるのだが
現代でも人気なのはそこらへん(旋律美)が明快でしょう? 大した注意を払わなくても
もとからアクセント、イントネーションが
ある。メロディはそこが端を発したものかと。 >大した注意を払わなくても
細心の注意を払うところだがな
歌は何もモーツァルトだけが書いたのでもないし 突然伸びててビックリ!
現代におけるモーツァルト人気は、ポピュラー音楽としてだよ
「ロック・ミー・アマデウス」とかあったでしょ
メロディだけ聴いてても聞けるのがモーツァルト
ハイドンはそういう層にとっては「メロディない」「つまらない」「退屈」だろう 乱暴なのは5ちゃんである。
ヨーロッパ各地の舞曲を採取したという
テレマンと
カンタータを作曲させられまくった
大バッハを比較するとか。
歌って踊れる人にはわからないだろうが
アイドルグループですら歌う人とダンス担当は分けている。 なお、ハイドン交響曲は全編、舞曲だ
といった趣旨を語ったのは
ノリントンである。 シュレーゲルだったか19世紀の初めに
「我々の時代を代表する3つの文化的金字塔」として
・ゲーテの(『ファウスト』ではなく)『ヴィルヘルム・マイスター』
・(ヘーゲルではなく)フィヒテの『全知識学の基礎』
・(ベートーヴェンではなく)モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』
を挙げていたと記憶してる
モーツァルトは音楽史上の位置づけはともかく
ドイツ・ロマン派との相性がよかったという印象があるな むしろドイツロマン派なんて区切りがあてにならない証左だろう 「区切り」が「あてにならない」というのは意味がよくわからないが
念のため補足しておくと>>116の「ドイツ・ロマン派」は
音楽史上のロマン派ではなく文学・思想史上の概念ね >>116
相性いうか
現にromanzaという楽章を書いてるじゃないか… 少ない曲数を深く聴き込むならモーツァルトの方がかなり上だと思う。
ハイドンは沢山の曲を気軽に選曲して聴ける環境だと楽しめる点で、DAP時代だからこそ再評価される作曲家の1人だろう。 モーツァルトを深く聴き込むと飽きる。
ハイドンは心の意味で深い音楽だから飽きない。 ながら聞きでいいのか
NASとかHDDに貯めておくとかでいいだろ
ハイドンよりモーツァルトの方が大作曲家としての認知は後だったんじゃないの
上にもあったけど数を聞かなきゃってのなんか違わないかね 飽きるとか
楽曲の方から聞き手を選ぶこともあるだろうね ハイドンはリズム音痴な人は避けるべき。
どっちかというと、演奏者側。 ハイドンは少なくとも64歳くらいまで常に成長し続けた作曲家だと思う。 ハイドンよりモーツァルトの方が深くて知的な音楽
これは才能の問題だから
秀才は努力しても天才を越えられない 正直に言ってもいい?
モーツァルトは少し知的障害があったと思う、いわゆるidiot savant
勘だけで作曲していたのだろう
あの創意工夫にあふれた知識人ハイドンとは比べるべくもない モーツァルトの凄さは古典派の時代の作曲家にも関わらず、ロマン派の人よりロマン主義を感じさせるところ モーツァルトの鼻歌は誰よりも偉大って事でしょ
モーツァルトはたった4日で歴史に残る交響曲を仕上げてる モーツァルトの凄い所はイタリア語もペラペラだったことで
ご存知のように当時は歌うのに適した言語はイタリア語と言われていた
モーツァルトはイタリア語の発音で細かい区切りを正確に把握したうえで作曲している そんなことは別にすごくないよ(現代日本人にとっては「スゲー」かもしれないが)
18世紀後半のオペラにおけるlingua francaがイタリア語だったわけで、
大多数の独墺仏作曲家はイタリア語を自由に操った
ちなみに、モーツァルトは「作品10」(ハイドン・セット)のハイドン宛献辞を
イタリア語で書いているw そうなのか
現代日本においてかしこまった場面で英語の文章はなんとか書ける人は多いが
英語ペラペラの人は少ない
そんな感じだと思ってた ウィーン宮廷付き作曲家アントニオ・サリエリはイタリア人、
ハイドンもモーツァルトも譜面に書き付けた速度記号・発想記号はすべてイタリア語
ドイツ語による記述は晩年のベートーヴェンがようやく始め、シューマンが習慣化した ちなみに
>>134
> モーツァルトはイタリア語の発音で細かい区切りを正確に把握したうえで作曲している
は、前述ロビンズ・ランドン著「モーツァルト」の記述から
他の独墺仏の作曲家にない特徴として記述してあったと記憶している >>137
速度記号・発想記号の話ではなく、
イタリア語の歌詞についての話だけど 個別の単語のレベルではなく、「この連続した流れではこの母音は発音しない」と言った細かい話のことね 日本人にはなじみがないかもしれないが、母音の無いというか、音節の無い部分に音符を割り当てるのは不自然だからね モーツァルトが今も人気があり高い評価なのは旋律の美しさだろうね
音響とか音色とか色々あるけど
人を惹き付ける力がもっともあるのはやはり旋律だと思うな
個人的に気楽なのはハイドン
本読む時のBGMとしては最高 奥さんへの忍耐力で
Haydn >> Mozart モーツァルトも凄いがハイドンはドイツ国歌作曲家という意味ですごい
またバロックと古典派を繋ぐ作曲家として重要である 国歌として作曲したわけではないが
魔笛第2幕の行進曲はカナダ国歌の原曲みたいなもんだよね >>145
元々は神聖ローマ帝国の「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」というアンセムだったんだよね
それがいつの間にか Deutschland ueber Alles になってしまったというw 作曲動機はイングランドの『神よ国王を護り賜え』のような
国民に愛される歌を作りたかったということなので
事実上の国歌を作りたかったと言っていい モーツァルトのプロシア四重奏2番を聴いたが、ハイドンのop55-1に似ているなあ。第一楽章であれっと思って、第二楽章のメロディに関しては意図的に似せているのかと思った。
そしてプロシアセット自体が至るところにハイドンの雰囲気がある。 >>146
おいおい>>145はカナダ国歌の話だぞ 音楽的才能はともかく経済的に安定した生活を送ったハイドンの方が賢かったのは確か 若き日のベートーヴェンがボンからウィーンに旅立つとき
故郷の友人たちから
「ハイドンの手からモーツァルトの精神を受け継げ」
みたいな寄せ書き贈られたんだよね
そういう姿勢だったからハイドンとベートーヴェンの師弟関係はうまくいかなかったのかな ベートーヴェンの時代にはもうハイドンなんて過去の人ってことじゃね?
しかも当時からウィーン界隈の主流から見たらかなり風変わりで
それが当時のパリやロンドンでウケた理由なのかもしれないが
熱狂がおさまってみたら、みたいな… ベトがモツの音楽を理想としていたことは確かで
そのベトから影響を受けた音楽を聴く人達が
同じようにモツを素晴らしいと感じるわけで。 それにそこで言われる「モーツァルトの精神」というのは
音楽や作曲のことを
言ってるわけではないと思うが。 ヨアヒム・ニコラス・エッゲルトやヨハン・ヴィルヘルム・ヴィルムスの交響曲を聴くと
当時ハイドンの影響力が絶大だったことが分かる ヨーゼフ・マルティン・クラウスは、ハイドンともモーツァルトとも違う独自の世界観がある >>151
本当はモツに師事したかったようだが
先に死んでしまったから、仕方なく
ということでは? もしもモーツァルトが存命でモーツァルトの弟子になってたら
モーツァルトからハイドンの素晴らしさを説かれてモーツァルトからハイドンの精神も受け継いでしまってたりしてw ハイドンとモーツァルトは得意曲種が違うんだよね
モーツァルトの後期交響曲や弦楽四重奏曲はハイドンがいなければ生まれなかったが
その他の曲種に関してはあまり関係が無い モーツァルトの初期のピアノソナタもハイドンの影響があると言われている。
ベートーヴェンがモーツァルトに弟子入りしていたら、うまく行ったとはとても思えないな。
絶対衝突してるだろ。
ハイドンはベートーヴェンにずいぶん寛容だったと思うよ。 >>158
やはりベトには時代的にも「自由音楽家としてのモーツァルト」の存在が
大きかったんだろう
ハイドンのように音楽人生の大半を勤勉なサラリーマンとして
さらにお役御免になってから外国で大ブレークなどという道は
ベトにはなかったということさ >>160
ベトだけではなくすべての人に寛容であり
晩年はパパ・ハイドンなどと皆から慕われたというが
そのイメージからこれまでハイドンをファットに演奏する人が
わりと多かったわけだが、
実のところ音楽自体は極めて無駄のないタイトでスタイリッシュな
音楽であるという。 ハイドンとベートーヴェンは得意な曲種が近い。旋律重視でないのも似ている。 ハイドンとストラヴィンスキーは意外と似ている
どちらも理知的な作曲スタイルを得意とした >>163
ベートーヴェンはハイドンを物凄くライバル視していたことは確か
まあハイドンの死後はハイドンは偉大だったと言っている
何と言っても交響曲・弦楽四重奏曲をメジャーにしたのはハイドンの功績 ハイドンとベートーヴェンの関係を見るとどうしても考えるのが
ニコラ・ポルポラとハイドンの関係
同じように師弟関係でポルポラもハイドンに対してほとんど何も教えていないのにもかかわらず
ハイドンは「作曲の真の原理」を教えてくれたと語っている ハイドンに「プロメテウスの創造物」を褒められたときに「Creationの作曲なんて簡単でした」と答えて「天地創造」に当てこすったらしいね>ベートーヴェン
もっとも両作品はドイツ語の原題が違うから眉唾という気がしないでもないが
(あるいは、そこだけ英語かフランス語にしたとか?) >>166
それも恐らくベト同様、ポルポラ死後の話であろう
ハイドンも若い時はポルポラからは
学ぶべきものはもはや何もなかったと言ったとか言わなかったとかで
基礎なんて独学でなんとかなるし、あとはその人のセンスの問題かと。 >絶対衝突してるだろ
というのは間違いないだろうな。ハイドンにすらそのような
退っ引きならぬガチ・マジ勝負な人であればね >>164
新古典主義とかネオ・バロック様式の作品は
モツ・ベト以降のロマン派音楽に対峙するようなものだからね >>168
ベートーヴェンがハイドンに弟子入りした時、ベートーヴェンがあまりに作曲の
基礎を知らなさ過ぎてハイドンは閉口していたらしい ベートーヴェンもそれを分かってたんだろう
ハイドンに隠れて何人かの別の作曲家に師事して作曲を学んでいる
ベートーヴェンは結局ハイドンの弟子という肩書が目当てだったんだと というか、ハイドンも教科書的な作曲の基礎なんて知らなかったんだろう。
対位法なんて独学だったわけで、ベートーヴェンが望む音楽大学的な対位法は教えられるわけがない。
ハイドンの曲は同時代しばしば評論家に規則の誤りを指摘されていた。
現代になってハイドンが教科書的に考えられているのがおかしい。 対位法なんかバッハの平均律やオルガン曲を譜面で勉強すれば、
すべての理論とその至高で典雅な典型的実例が読み取れるだろ。
モーツアルトはバッハはお手本になるといってた。 ハイドンが参考したと思われる楽譜はバッハでも次男のCPEの楽譜。
それと対位法は書物として出版されていたもの(フックスだっけ?)
バッハといえばもう息子達が生きた音楽であった時代であり
今日のようにバッハやモツのレコードが溢れている時代ではなかった。 ハイドンがバッハと言うとC.P.E.バッハで、モーツァルトがバッハと言うとJ.C.バッハだな
モーツァルトの特徴の一つである「歌うアレグロ」はJ.C.バッハから受け継いだもの 当時、宮廷ではイタリアオペラが大流行した関係で
みんなそういった傾向の曲になってるといっていい。
一方、辺境地でエステルハージ侯がバリトンという楽器を演奏する人
だったことも関係して他とは一味違う作風に。
フリー後はどちらかというと、都の主流に近づこうと努力してるような
そんな印象を受ける。すでに大家であったというのに(!) ハイドンのオックスフォード第二楽章の終わりに近いとこめっちゃ美しい 交響曲第47番ト長調の第2楽章の最後のとこ(変奏曲のコーダ)も好き でもハイドンの交響曲の緩徐楽章なら、第64番イ長調のラルゴ(「時の移ろい」)で決まりかも
https://youtu.be/H3-K3gmRGzE?t=410
それまでの対位法を駆使した作風から心機一転対位法を排除したことと
どこまでも終止形らしい終止形がないまま続いていく不安定さ #49ラ・パッシォーネも神がかってる。
#64もhob番号的に60番台だが
エスターハーズィー期の交響曲ははっきり申し上げるなら
美辞麗句的なモツの諸作品などとはちょっと比べものにならない…。 天地創造の序奏はもっと後の時代の交響曲みたいな響きだな。
書いたのが最晩年でほとんど古典派が終わってる時代ってのもあるだろうけど、高齢でこんな曲書けたのってすごいな。 ハイドンもモーツァルトも好きなんだけど、ずっと飽きずに聴き続けられるのはハイドンだと思う。 モーツァルトはヨーゼフハイドンの弟のミヒャエルハイドンの影響を強く受けていると思う
ミヒャエルハイドンはモーツァルトの子供時代の師匠で両者は密接な関係がある
モーツァルトの交響曲第37番と思われていたものはミヒャエルハイドンの交響曲第25番であったことが20世紀になってから判明した >>173
ハイドンって、あんま曲聞いてない人からのイメージだと古典派の形式作った人だから型にはまった曲ばっか書いた作曲家くらい思われてるけど、案外ぶち壊してる系の側だよなw 若い頃に今のチェコ領やハンガリー付近で創作してたということ
パリやロンドンといった海外でウケたということもヒントになる
3拍子のメヌエットにアクセントをずらして4拍子を形成するなんて
根っからのおかしなことをしたがる人 時計とロンドンに続けてハフナーシンフォニーを聞いたが、全然満足度が違うわ。
ハイドン:ふうん、なかなかいい曲じゃないの
モツ:す、凄え。これは奇跡だ… ロンドンとハフナーならロンドンブーツの方がいいと思うけどな
ハフナーが奇跡ならロンドンも奇跡…と言い切れない両者の作風の差も感じはするけどハフナーはちと弱い
掛け値なしの奇跡ならプラハに大小ト短調…それ以上にロンドンと比べるならジュピターだろう
告別vs小ト短調というのもなかなかいい勝負になると思う
ロンドンvsジュピターでも告別vs小ト短調でもどっちかってーとモーツァルトだとは思うんだけどハイドン聴いてる間はそんなこと思わない
小ト短調はもちろんジュピターでさえハイドンと比べると「若いな」と思うことがあるよくも悪くもだけど
とはいえモーツァルトがあと十年二十年長生きしてたとしてもジュピター以上の交響曲を書いたかどうかは疑問
交響曲だけじゃなく多分晩年のモーツァルトが(器楽では)もっともリキ入れてた曲種であるピアノ協奏曲なんかでも27番の先がまったく想像できないんだけど ハフナー交響曲の白眉は第1楽章だよな。冒頭主題の展開の巧みさは全く舌を巻くほどうまい。
第2主題がないのはハイドンの影響とも言われるが、楽章全体を注意深く聴くと、第2主題が入る余地がないほど、第1主題の動機が圧倒的に全体を支配していることに気付く。
この楽章はジュピター交響曲フィナーレとはまた違った意味で、ソナタ形式に対位法を見事に溶かし込んだモツ音楽の精華だと思うんだ。
ハイドンの交響曲でこれ程興奮させられるものに俺はまだ出会えていない…。 まぁ、初めから演奏会用に作られたロンドンセットと、元曲がセレナードのハフナーを一律に比べるのはムリがあるだろうがね。ロンドンセットに比べて、ハフナーがスケール感で及ばないのは認める みんな口をそろえて凄い凄い言うジュピターも
終楽章なんかはハイドンが3番(3番はれっきとした初期交響曲)で
すでに使用済みのネタなんだよね。
すごく短いし、充実度・完成度ではジュピターかもしれないが だいたいハイドンの交響曲にスケール感を追及したいなら
お門違いも甚だしい
ハイドンはリズム感。そういった意味で
モツ・ベトがロマン派につながろうがハイドンは新古典主義として返り咲く。 もちろん音は異なるが
ベト第9の一楽章で出てくる ”ちゃっちゃっかちゃ、ちゃっちゃっかちゃ”という
2度繰り返すリズム
ハイドンの「ラ・パッシォーネ」の終楽章の冒頭、3度繰り返すリズムと酷似している。
ベトは第9の4楽章でこれまででてきた音をすべて否定するわけで
その流れは完全に古典派と決別しロマン派へとつながってゆく。なーんてね。
いろいろ楽しいわけです。 >>192
モツのリンツ聴いたら後退したと思いそう 小ト短調と告別で比較する発想がようわからんな
ハイドン中期の短調交響曲を告別しか知らなかったんだろうな ウェブスターによる研究では、疾風怒濤の「前期」には
ネームシンフォニーは「火事」のみで
短調は意外にも#39のみ
ということになる。
むろんモツの#25より先に作曲されてる ちなみに疾風怒濤の区分けも様々であり
ウェブスターの区分けは
1765-68年は短調が1曲であることから
「娯楽交響曲群」として1768あたりから
1772あたりまでを疾風怒濤としていますな。 告別以外よー知らないのも本当ですけど一番有名なのも確かでしょ?
告別よりいい(疾風怒濤期の)短調交響曲ある? >>204
45番「告別」って終楽章が変わった構成してるから有名(ハイドンの交響曲は話のネタにしやすい面白い特徴あるものほど有名になりやすい)だけど
39番、44番「悲しみ」、49番「ラ・パッシオーネ」の方が好きだな個人的には 「告別」は離宮から帰郷したい楽団員のために
候へ休暇をほのめかすための仕掛け
なので「さよなら」くらいの日本語訳にした方がいい。
クラシック音楽というとすぐ深刻めいた雰囲気を付加したがる傾向があるが
それがすべての音楽にあてはまるとは限らない。 「びっくり」じゃなく「驚愕」なのはクラシックでびっくりはねーべっていう感覚があったんだろけど今だと「驚愕」の方がギャグっぽく響く気がする 英語では「サプライズ」ですむけどね
独語は確か「太鼓一打」みたいなニックネームで
「太鼓連打」と同じく聴いた感じそのままの名付けだが
ある意味、漢字と雰囲気が似てるのかもね これといった録音も少なくザロモンセットに比べたら知名度が低い
60番などは「迂闊者、愚か者、うつけ者、迂闊な男、うっかり者、うすのろ
など定まってないが
日本なら落語で必ず出てくる「粗忽者」がしっくりくる マイナーどころ(短調じゃなくあんま有名じゃないって意味ね)の交響曲だと「熊」が好き
割りと直球勝負な感じなのにハイドンらしくちゃんと?コミカル 「熊」って親しみやすいハイドンのハ長調の中では
実はわりと演奏が難しいんじゃないかと思うようになった。
ハイドンのハ長調交響曲は祝典・催事向けということで、まず曲が長めなことが多い。
繰り返しを省略する場合、通常は終楽章の最後の繰り返しを省略することが
常だけど
ヴァイル盤は第一楽章の最後部分を省略して終楽章の最後は繰り返す。
偽終止を際立たせるためのロビンスランドンの監修によるものか。
それは好いのだがラッパだけで、どうもホルンの音が居ないように聴こえる…。
これも、ラッパとホルンが同じパートを吹く場合、ラッパはホルンの代わりで
吹かなくてもよいというランドンの指示だろうか?
一方で、わりと好演奏が多いグッドマン盤も
ラッパが入るためホルンをオクターブ下げて演奏させてるので
いつものアッパーな響きがしてないなど満足のいく録音がとても絞られてくる。
11弾めでアントニーニの「熊」もお出まし予定だが、
ぜんぶ繰り返してほしい自分にとっては、望み薄…。 パリセットで一番好きなのは87番だな
次点が86番 #85だな
突如「告別」の第一楽章が鳴り出すくだりにはいつも感動する。
フランスの王妃がお気に入りだったのは
#45だったんじゃないかなと
他の曲でもこのメロディが出てくるが何番かは忘れた。ハイドンのおはこメロディなんかな。 なるほど車大工の血をひいてるから
曲のメカニズムやリズム処理が巧みなんだな ハイドンの親父さんは車大工なの? モーツァルトの親父さんは有名だけど…
時代的に別の分野の職人の子が音楽やるのは大変だったでしょうかね?
半分マジ半分ネタな話 作曲ってのは構築だから建築系と近いとは思う
リズム処理ってのは車だから? 演奏家はスピード狂が多いらしいけどモーツァルトやベートーヴェンは現代に生きてたらカーキチやってた気がする
ハイドンはどうだろう? ローラウという片田舎の職人だったらしく
兄弟そろって美声だったので
少年合唱団に入れられたのが事の発端。 モツは病弱、ベトは短気、
ハイドンは意外にもいたずらっ子で
こっ酷く折檻されたようです。
弟はその点では要領よく兄より先に
作曲家の道を歩み始めたという 心身ともに病弱で早死にさせたが後世に名を遺した息子と
生きているうちに巨万の富を得た息子
あんたならどっちの息子がいいかつう問題やね ハイドンのおやじさんは音楽好きであったようだが車大工
偉大な音楽家の生みの親
いっぽうで、子を衰弱させるまでに育てあげたが
カッサチオという曲から赤の他人が3曲抜粋して
「おもちゃの交響曲byハイドン」として売られていたという
そういった対決内容になりますでしょうか? ミヒャエル・ハイドンは酒乱だったそうだが、できの良い兄貴と比較されてぐれたのかな。
モーツァルトはミヒャエルと仲良かったらしいが。 できの良い兄貴というよりは、先に音楽家として出世したのはミハエルのほうで
本来ならモーツァルトとハイドンときたら
モツおやじの同僚だったミヒャエルの方なんだよな
若いモツに影響を与えたのもJCバッハだし。
レコード史的には完全に闇に葬られてきた作曲家に少しでもスポットを当てたいね。 なのでどちらかといえば、
兄からしたら先を越されたできの良い弟であって、
モツともにエリート組であったはず(!) グレングールドどうたらの奴は各掲示板に現れるモーツァルト解らんコンプレックスの阿呆だから相手せんで善いぞ! >ハイドンの親父さんは車大工なの?
Wagnerは「車大工」 ここもモーツァルト解らんコンプレックスを攻撃に変えたゴミ屑が集うスレッド。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています