フルトヴェングラーのライブ録音が真正であるべき理由を考えてみると
全体の構想のなかでテーマの表情に天才的なひらめきがあり
そこを編集するということが神聖を汚すように思われている。

ホロヴィッツのNYライブがミスタッチを後で修正したと咎められたが
本人の了承のもと長く鑑賞に耐えるように修正したと考えるのが妥当だ。
スケジュール上でゲネプロと録音セッションをぶつけた場合
テープの編集は当然ありえるわけで通常は問題視することではない。
それがフルトヴェングラーの演奏であること自体に何の違いもないのだ。

ただライブで期待されるフルベンの即興的な曲想の流れを考えると
巨匠以上にその是非を判断できる人はいないと誰もが考える。
ここに真正の意味が問われるのだ。

しかしフルベンらしい演奏とは、はたして何か?
私はフルベンの晩年の田園がウィーン、ベルリン共に好きで
第九の3楽章が永遠に続いているような時間の流れがユニークだ。
しかし一般にはフルベンらしい魅力がないと隠避される演奏でもある。