ジョン・ケージ John Cage
>現代美術の連中も現代音楽なんてまるで問題にしてないからなあ。
おっと言葉足らず。これは日本でのことですから、念のため。
ヨーロッパやカナダ、アメリカではいろいろあるみたいですね。
最近ウオッチしてないからよくわかんだいですが。
>>98
(とりあえず、そのコピペについては同感。)
イデオロギーについて、、、
辞書的な意味は調べればよいが、僕が言ってるのは、君が想定しているよりマクロな意味かもね。
ともかく、常にイデオロギー的に規定されている音楽の境界、
あえてカントでいえば「批判=クリネイン=分離する」を
どこに照準を合わせて行うか。ケージがそれを問題にしているのは認めよう。
しかしながら、その純粋な成果物に対しては、
トリビアの泉に晒される程度の見世物だ、と決めております(あれで知った)。
アイロニーというなら、
まずもってそのアイロニーが前景化した状態を前にして、
僕が感じたことこそ、最初の書き込みだった(・・・なんだこれ、と言った)。
>>97氏のいうとおり、勿論それは個人の嗜好だね・・・2chだし。
ナルホド、アイロニーとしての笑いは確かに浮かんできそう。
でだ。僕はそのアイロニカルな態度を攻撃したいのだよ。今さら・・て思っちゃったぞ。
後、「逸脱」を「拡大」に訂正されつつあるとしたら、それも納得いかない。
単純に、実物をみよ、だ。
逆に、言葉通りの意味での拡大なら「現代」と「音楽」の間に「の」が入る。普通だ。
そりゃ、それ批判したらおれiPodに何入れればいいんだ。
いや、HPSCHDは入れません。
最後。僕は勿論詳しくないが、ちょろっと文献学してみた。
一度に書けないが、ケージ自身は、「何も失っていない」「むしろ獲得している」と言っている。
アイロニーでもあるだろうけど、少なくとも彼の文字通り「前衛的」な態度を理解すべき。
ケージを聴くというとき、はっきり言って、その程度では甘いと思う。
そこまでで終わりなら、僕が一番非難したかった相手だ、君は。 >>102
>あえてカントでいえば「批判=クリネイン=分離する」を
>どこに照準を合わせて行うか。ケージがそれを問題にしているのは認めよう。
ふむふむ。
まず、「なぜいまさらにケージなのか?」っていう問題がある。君のいうように、
たしかにケージは前衛であったし、あろうとしていた。それはよく知っています。
しかし、ジョン・ケージを「現代音楽/現代の音楽」のカテゴリーに入れるのは
適当だとは思えない。すでにノスタルジーだよ。だからトリビアに入るし、
現在においてはケージを語ることはせいぜいがアイロニーどまりになるとしか
思えない。
ケージがもっとも前衛的、つまりラディカルな作品を発表していたのは
1940年代の終わり。今から60年以上前の話だ。それを「現代音楽/現代の
音楽」っていうのにはかなり無理がある。
彼の音楽行為を現在の問題としてとりあげることに価値があると
思えない。もちろん、「ある!」って意見があるなら聞いてみたいけどね。
もちろん、僕もipodにHPSCDはいれない。
「プリペアド・ピアノの為のソナタとインターリュード」だったらいいけど。
でもその「いいけど」っていうのはケージがあの曲で本来意図した前衛さに
準じて聞いているわけではない。むしろ、ふつーのポップ・ミュージックの
範疇に入れて聞いている。きれいだからね、あの曲。
僕が反応したのは、
>音楽じゃないね。やっぱり音楽はイデオロギーで、建築なんだ。
>がっしりした建築があって初めて、ちょろっと逸脱できたらいい
>という感じ。
というくだり。ケージは明らかに「音楽」(その結果を好むか好まざるかに
かかわらず)だし、音楽は「イデオロギーで建築」であるべきという考えにはいまいち納得で
きないから。
ただ、ケージの行為や結果が現在のわれわれにとってアクチュアルかというとまた別。
そもそも録音物でケージの音楽を聞くっていう時点で、「それ違う」
ってことになるし。当時からレコードは出ていたけど、それは当時の彼は前衛であった
からわざわざレコードにすることに意味があったわけであって、今、ケージを
ipodで聞くっていう行為はオレンジレンジを聞くのとまるで変わらない。あとは
嗜好のオハナシに回収されると思われる。
さて?
う〜ン、このところの展開は、そこらの三文学者の書いたケージ論読むよりタメになりますナ。
どうせ過疎ってる現音板です。長文書込みいいじゃないか、ここはじっくり論戦していただきたい。
自分はてんで学が無いので、とても論戦には加われませんが、今後の展開を楽しみにしてイマス。 >>音楽学の限界や、個人の立場の問題にまでなるので、積極的に
>>議論は避けているところです
>これがネタなのかコピペなのかよく知らないけど、もし本来がマジなカキコなら
>日本の音楽界は相当腐ってると思っていいでしょうね。
日本の音楽界ではなく、この発言者は相当腐ってると思っていいでしょうね。 >ケージがもっとも前衛的、つまりラディカルな作品を発表していたのは
1940年代の終わり。今から60年以上前の話だ。
50、60年代のケージもラジカルな側面を持つし
晩年のケージのナンバーピースは大変素晴らしく前衛的な作品もあるし
これがなければヴァンデルヴァイザー楽派は存在しない。
釣り師のレヴェルが低いね。 …半分被ってないかい?
仕事終ったら参加しる
↑のきみ、どういいんだ、て聞いてやろうか?
>>105
>日本の音楽界ではなく、この発言者は相当腐ってると思っていいでしょうね。
どこがどのように腐っているのか? もし僕の発言が不適当なら、芸大なりで
現代音楽(作曲でも演奏でも)やってるやつら(教授も学生もふくめて)が
現代の社会とどのようなスタンスをとった活動をしているのか、現代美術の
活動と比較しながら批判してくれないか。他のジャンルでもよい。もちろん、
比較ではなく、音楽だけの話でもよい。
>>106
>50、60年代のケージもラジカルな側面を持つし
>晩年のケージのナンバーピースは大変素晴らしく前衛的な作品もあるし
>これがなければヴァンデルヴァイザー楽派は存在しない。
たしかにそうだけど、いずれにしても過去の話。晩年の作品は評価が
かなり分かれるというか、「まだあんなことやってるの?」って
感じだったけどね。その意味で、いつまでもいつまでも、作曲をすることに
こだわり続けたあの姿勢は、ケージ信奉者へのアイロニーだったと
いえるかもしれない。アイロニー、アイロニーってうるさいかもしれないけれどさw
それに、たとえ60年代にまでケージの全盛期を拡大したとしても、
40年以上前の話だ。そんな時代の音楽を「現代の音楽」として
聞いているなら、ちょっと能天気にすぎないか? たしかに学ぶべき
ところはあるだろうけど、あくまでも過去のものだ。
価値はある、しかし、現在の問題じゃないんだ。現代の視点から
ケージ解釈をするって言うなら別だけどね。
>釣り師のレヴェルが低いね。
そういうつっこみこそ、君のレベルの低さを露呈していると思うな。
釣り師とか、そういう話じゃない。
さて、「逸脱」と「拡大」についてだが、「逸脱」というのは「逸れられる
ライン」というものがあることを前提としている。それがいわゆる、
「建築」なり「イデオロギー」なんだろうけど、僕はそもそも、
「本来の音楽があるべきあり方」なんてないと思っているから、
「音楽から逸脱した音楽」なんていうのはありえないという立場だ。
ケージの場合は「チャンス・オペレーション」そのほかの「新しい」
(前衛的な)イディオムを開発した、つまり、作曲なり演奏なり、聴取なりの
新しいイディオムを作ったわけだから、それは音楽の思考の領域を
拡大した、といえる。歴史的にね。
さて?
>>108 耳を疑う。ケージは当たり外れの大きい奴だったが
「まだあんなことやってるの?」レヴェルでは絶対にない。>>108はなんだ?評論家なのか?
素人ならしかたがない。
ナンバーピースを何曲聴いたの?チェロとオーケストラの傑作があるよね。あれとか聴いたの?
>「音楽から逸脱した音楽」なんていうのはありえないという立場だ。
逸脱したと考えるかどうかは聴き手がそう思うかどうかだけ
音楽について言及する音楽を、メタ音楽というが
それを逸脱と錯覚する人はいるかも あと、>>79の考え方はディヴィッド・ダンの考えとほとんど一緒
ダンも「ケージはえらそーなくせして、できあがりがそれかよ」ってコメントがある。 このスレッドに限らず
聴いてもいないのにあてずっぽを言って、大恥をかく人間が特に美術系の日本人に多い。
足立智美に至っては「ファニホウのその楽譜を読んだことがない」と言った。読んでないのにどう批評できるのか。
まぁファニホウを弾く人間があまりいないから被害も少ないが
弾く人間がいたら速攻でバレる。で、バレても多くの場合反省しない。
日本ではなく音楽領域でもないが、ソーカル事件もこれにちかい。 要約するとだ
音大生は聴きもしないし勉強もしない
美大生は聴きもしないが、知ったかぶる
これはどっちもどっちではないのか >>110 アンカーミスった。>>78の考え方は、だね。 さらに付け加えると
ケージの音楽は見て、聴いて、なおかつ自分で演奏しないと、解らないように出来ている。
結局は彼も西洋の伝統に忠実だったといえる。
で>>78>>98>>100>>101>>103>>108のように、ほとんど聴いたことがない、あまり演奏した経験もない、素人の耳で聞いてるだと
解らないわけだ
理解や修練が必要な音楽に対する嫌悪はわかる。
じゃぁ嫌悪する暇があったらケージの曲を一曲でも人前で弾いたほうがいいんじゃないか?
それでも彼の作品が「まだあんなことやってるの?」に聴こえるのなら
この人はただの素人で、このスレッドには相応しくはないな。 君、長いなーw
拡大か逸脱か。ここが君の標的になる訳がわかった。
で、既に言ったことの変奏だけど、
前衛という文字が、僕にはどうしても「前提」に見えてしまう。
(目が悪い、とか言う奴いる?w)
例えば、「プリペイド・ピアノ」と「ベートーヴェンの難聴は重症だ」は
僕の中で大して差がない。
或いはこんな例。そのヴァンデルヴァイザー楽派関連者の日本人はセミナーを開き、
「客にあるタイミングで箸を割らせる」音楽を行った・・・
或いはこんな例。「30分に5回しか音の鳴らない曲」・・・
絶句。
こういうエピソード的なイメージが取り敢えず強い。
僕がなんだこれ、と言いそうな作品は花火だ、ということでいいのだろうか??
で、そうじゃない、イディオム的評価に値するもの・・は、
僕たちのiPodにエンコードされてあるもの。楽曲として、手馴れたイデオロギーの元で
聞かれるもの。でもって、退屈しない様に「ちょろっと逸脱」を含んでいるもの。
>…半分被ってないかい?
といったけど、さっき携帯からざっと見てこう思ったのは、つまるところお互いのiPodのあり方だった。
僕が「四季」を気に入ったとしても、矛盾しないということは言うまでもない。(大していいとは思わんが。)
なお感性的所与(例えば「痛ーなコラ」)は真理だけど、極めて貧しい真理であると言ったのも、カントですね。
ここからは議論は発生しない。
・・それはそうと、
その僕のiPodの中身は、アメリカ実験音楽というビッグバンがあってのことなのか?
だとしたら、軽はずみに否定はできなくなる??確かに、僕は自分のレベルが低いと思ったよw
でもね、そのビッグバンを作品と見做すかどうか、は今もって問題な訳です。
次。アイロニーについて。
僕は、アイロニーは、それ自体は本質的でないと思っている。
>>98では強調されていることだが・・
と思えば、長い文中、さりげなく「ケージ信奉者へのアイロニー」と入れてるところが・・油断できんなw
取り敢えず最後。
モートン・フェルドマンは図形楽譜の発案者にして、演奏家に失意を抱いて楽譜の破棄を余儀なくされるのだった。
マルクスの如く、ケージと「ケージ主義」に大きな隔たりがあるとしたら?
マルクスは退廃した資本主義から、その彼方に共産主義を見出した。
しかしマルキストは誤り、ファシズムに傾倒したんでした。僕はこれを論じられるスキルはないけど、面白いかもね。
あとは、後期ケージの賛否議論、か。えへ、どっちも一緒だと思うなー。
ごめん、リロードミスってた。
>>109-114をすっかり飛ばして恥かいてますよ;
で、これから読むよ。あいつ長いんだもんw >>115
>絶句。
>こういうエピソード的なイメージが取り敢えず強い。
この人はヴァンデルヴァイザー楽派の作品を何曲聴いたの?
私は可能な限りCDは全部押えた。自分でも弾いた。しかし>>115はヴァンデルヴァイザー楽派の初期も中期も後期も知らない。
全部違う。脱退者の裏切りなども含めて。
知らない人間とは、好き嫌いはともかく、議論が進まない! ヴァンデルヴァイザー楽派は毎日ラジオで流しているので
参考に聴くと良い
ttp://www.wandelweiser.de ‥d。箸割ったりするのばっかじゃないだろうな・・
・・>>108の意見は聞きたかったんだが、どうやら時間だな。
しかし>>119、僕にナイチシキネダリなんかしてないで、
レベルが低い僕なんか、ちゃちゃっとやっつければ宜しかろう。
ヴァンデルヴァイザーしか読んでないだろ?
情報量スクネは分かったけどさー、君もそんだけ聴いてるならそれ以外何か言えんのか?
で何、議論が進まないって。何の議論したいんだ?
上のほうでやってる、あれいい、これ悪いってやつ?〜ゃればぁ
・・あれはあれで、当事者には感性のテストになってて意味あるよね。
それはともかく。僕と>>108は、
前衛音楽を[モノホンの逸脱/イディオム(拡大か?逸脱か?)]という二つの面に分けた。
換言すれば、[iPodに入らないもの/iPodに入るもの]。
あるいは君の言葉でいうなら、[メタ音楽/音楽]になるまいか。
(ただ、「音楽について言及する音楽を、メタ音楽というが」というくだりは、
変な日本語だ。揚げ足を取られたくなくば、直したまい)
こうして分けておけば、あとは程度の問題じゃないか、と思っている。
そうやって並べられるもののうち、
前者の極み、アメリカ実験音楽の始原に対して、僕は、ビッグバンであると仮定してみた。
その意味でなら価値があり、(僕のiPodは)その恩恵を受けている可能性があると思ったから。
でも、作品としてはどうか、という最初の疑問が無効になる訳じゃない。
勿論、Yukinomoerer氏の、練達が必要、という意見は疎かにできないものがある。
但し、詐欺師とも言われたケージに対して、練達が必要なんだ・・と無批判に傾倒するのはかなりリスキーだな。
・・レンジは、平和だな。
>プリペイド・ピアノ
プリペアド、なのか。道理でよく分からん名前だと思った。
みんな、いじわるだな。
ふてねしよう。 >>114
たまには良いこというねw
ほぼ同意だけど、演奏しなくても“解る”人もいるよ。
ケージのような存在は、議論自体を目的とした烏合を呼び寄せてしまうんだよ。
議論自体が目的の場合、曲を聴いたことがあるかどうかではなく、
他人の評を引いて論ずれば十分なわけで、そういうのを否定はしないが激しくつまらん。
ケージはコンセプチュアルに過ぎないという評をどこかで聞いたが、
彼は実際に実践していたということが重要。
単なる思いつきや思考のこねくり回しを弄んでいる連中とは別格。
まぁ、実践の結果の質がどうであったかはともかくw つーか、そろそろケージはそんなにアナーキストだったのか?って疑問が出る頃だ 123の人、どう重要で、別格なの?
やったかどうかが重要、なら目の前の演奏は重要じゃないの?
そんなのを114は買い集めている、て言うのか?
114はそれで褒められた気になるのか?
君の中での「実践」の成功例は1個も挙げられないのか?
君と114も別格みたいだな。何だ偉そうに「たまにはいいこという」ってw たしかにあんまり長く書くとどこに返答したらいいかわからなくなるな、
自分が書いたことも忘れるし。レスもつけにくい。だから手短に。
ちなみにあっしは美術関係者ではない。プロと素人についてケージをめぐって
云々するのはまさにアイロニカル(しつこいね、おれも)だけど、まあ、そこそこの
量は聞いてるとだけ言っておこう。キリがないからね、こーゆー「俺は知ってるぞ!」
戦争は。そういうんじゃなくて。
>前衛という文字が、僕にはどうしても「前提」に見えてしまう。
このあたり、罠か?w というか、というかこれで決まり、かも。
まさに、前衛というのは後衛があって成り立つ言葉。
詐欺師…の匂いするね。どういうつもりでレコード出してたのか。
このあたりはベンヤミンの「複製技術時代の芸術」あたりをからめると
いいんだろうけど、手元にないし時間もない。ipodあたりもここらあたりにつらなるか?
反権威主義者だった自分が権威になり、それをありがたく聞きに来る聴衆。
詐欺師、かね。最後の来日コンサートに行けなかったのが残念。ダダイズムってなんでしたか?
って、聞いてみたかった気もする。「ダダイズムと素人考え」とかさw
っていうか、僕はケージを全否定してるわけじゃないのに、「素人がうるさい」み
たいな発言ってなに?っていうか、そもそも音楽に素人もプロもないよねーみ
たいなフレームがかつてのケージの作品のフレームのひとつでもあったような気
がするだけどさあ。
なんか映画における小津に近い? ケージの扱いってw
>他人の評を引いて論ずれば十分なわけで、そういうのを否定はしないが激しくつまらん。
いかに他人の評をひかずに自分の言葉で語るか?の方が大事だと思うけどね。
もっと自分の頭と言葉でモノを考えようよ。そうやってマッピングしなきゃあ
ほんとにただの消費者だ。
聞くこと、演奏することも大事だが、思考することがもっとも重要。
「演奏しなきゃわからない」という人は小林秀雄でも読み直してください。
「大文字音楽=イデオロギー」を飲み込むっていうか、
「社会」(っていうのがどのようにあるかを考えつつ)の中でマッピング
し続けることが、そのジャンル(それを享受している自分も含めて)をスポイル
することから逃走しようする(いつまでも追っかけてくるけど)ことが大事
なんじゃないかね。人間の端末化に抵抗すべきなんですよ。ちょっとずれるか。
ケージについては「素人考え」だけど、ライブ・エレクトロニクスにおける
コンピューターの取り扱い方と演奏のブラックボックス化ってのが僕的には
いまちょっと問題で、そのあたりに参考になるかも、と思っている。
>音大生は聴きもしないし勉強もしない
>美大生は聴きもしないが、知ったかぶる
>これはどっちもどっちではないのか
じゃあ、いったい、誰が聴いているのか?
>つーか、そろそろケージはそんなにアナーキストだったのか?って疑問が出る頃だ
アナーキストじゃないでしょう。せいぜいダダイスト。結局はジャンルを補強
している。だから「拡大」といったわけ。「破壊」じゃない。 あれれ、また長くなってしまった。
>ヴァンデルヴァイザー楽派は毎日ラジオで流しているので
>参考に聴くと良い
>ttp://www.wandelweiser.de
これはいいサイトを教えてもらった。d。 僕は 地図帳ひろげて ongaku
君は ピアノにのぼって ongaku
ああ まってる いっしょに 歌うとき
ああ まってる いっしょに 踊るとき いや、ダダイストでもないって。
ケージは普通に作品を書いて、普通に出品していただけだと思うな
例えばグランドピアノの足を切り落としたヴェリンとか
ピアノを宙釣りにしたハイン
ピアノにハイキックを食らわせたパイク、その後パイクはケージのネクタイを切る。
こういう人たちほど反権威ではなかっただろうに。 >いや、ダダイストでもないって。
うむ。たしかにネオ・ダダに影響を与えていたけど、イコールダダイスト
ではないね。むしろ、ケージを参照しながら、といった感じだったのだろう。
重なり合っている部分はある。その重なり合いの方にばかり目がいって
しまうと、ケージ=ダダイスト=音楽の権威性を破壊することを目的に
していた人、という構図が生まれてしまう。
ケージがやっていたのはあくまでも「音楽」、そしてしつこいけど、
「音楽を拡大しようとする試み」だと思う。「試み」ね。
パイクとかボイスとかは「パフォーマンス=美術」だよね。このあたりをあんまり厳密に切断するのも
難しいけど、いっしょくたにするのも間違いの元になるな。
パフォーマンスって音楽でも使われたりするけど、もともとは
美術の概念。そこは押さえておかないと。 (・・割り込んだら勿体無さそうだが)
>>129
>ケージは普通に作品を書いて、普通に出品していただけだと思うな
>>130
>ケージがやっていたのはあくまでも「音楽」、そしてしつこいけど、
「音楽を拡大しようとする試み」だと思う。「試み」ね。
どういう整理なんだ?僕は前に[メタ音楽/音楽]と書いたけれど、上の言葉でいえば
「試み/音楽」という分け方になるだろ。
メタ音楽であっても、それは聴かれた途端「音楽」に引き摺り下ろされる。
そもそもケージの詐術というのはそれだったんじゃないの?
・・まあ、重要だと思って言ってみるけど、飛ばしてもらっていいです。
>>129のは笑えるからな。美術というかコントに見えるがな。
>>126・・長ーよw
一方僕は完全に「アンチ」です。
「大文字音楽=イデオロギー」をキープしつつ、反権力を唄いながら「音楽に素人もプロもないよね」と優しい声色で
製作・過程に目を向けさせる。パティシエが客をキッチンに連れてくようなもんだ。
マッピングというけど、それは地図の裏っ側で根茎的に行われるべき。で、その端末たる地上の花は美しくあるべき。
関係することでしか生きられない有機体。イデオロギーないし建築は宿命なんだ。
花は苦渋に絶えても、花であることを振舞っている訳。
それは「社会」でもそうなのだから、アイロニカルな態度には厭らしさしか感じない。
現代音楽は根っこが根っこを咲かせてるみたい。
音楽は関係の芸術、横に見れば民族的時間的フレーズ、縦に見れば建築だ。
僕は依然「ちょろっと逸脱」をキープするが、いきなりブツッと関係を切ってしまうというイメージが現代音楽にはある。
論理的にいえば、文脈が切れすぎなんだよ。
花を咲かせる意思のなさ、というのを感じる。あるいは、関係しようとする意思が薄弱。
概念に住み着いてスピードがない。「よーい」があって「ドン」がない。
と思うんだが・・それは作品としての評価です。
抽象論しか持ってないから、突き詰めるためには色々聴くしかない。
それにしても、アンチ文献学に寄せられた、聴いたり弾かないと分からない、てのは実際どうなんだろうか。
ピアノはそこそこ弾けるけどな。そりゃ、大変だな。
ほぼ独り言になったがな。
・・上の整理では僕の方では支障があるんでな。
またメタがオブジェクトに化けてくるのか、と思うとぞっとする。
けどまあ、この人たちの情報は参考になるな。
30分に5回しか音が鳴らないよりは、パフォーマンスの方がよいな。 >>131 ピアノが弾けるんだったら、まず「易の音楽」を練習してみると良い
あれはアンチ・ケージにすら評判がよい。 133トン
タイトルとしての「cage」にはアンチだけど、
いい曲なら摂取しる。
今日は誰もいないのか。
ふう。易の音楽をTudorで聴いた。iPodには入れていないが、一番だけはエンコードした。
その他、ryoanji、VariationsII、VariationsIV。苛々しながら、最後の1秒まで聴いた。
どれも二度と聴かないだろう。
音響的には綺麗な面もあった。(VariationsIVは最悪。この手のものだと事前に分かるものは今後一切聴かない。
ryoanjiは比較的ナラティヴな音列ともいえるが、それだけだった。)
それでも最後まで苛々したのは、それが遂に「作品」の境地に達していなかったから。
音で成された論文。論文は詩でも文学でもない。
少なくとも、彼は音楽的にアナーキーだ。
しかし政治となると、最低限スピーチが出来なければ話にならない。
彼の対談『小鳥たちのために』を読み飛ばした限りでは、
とてもではないが彼にその何がしかの能力があるとは思えない。余りに杜撰な理論。
彼に何を言わせてもよい様な環境を、誰が整えたのか。
差し当たり特に象徴的な発言を挙げれば、「音楽とあなたがいうようにそれは言葉でしかない」
というシャルルへの応答。言うまでもなくそれはアナーキストにありがちな疎外論的諦観だ。
音楽という言葉、言葉が引くパラダイムの領域に、音が従属「させられている」という誤謬。
「要素が全体に先立つ」という考え方。そんなものはモダニズムですらない。
彼の時代はシュルレアリスムがダダを乗り越え、
モダンでいえば、グッドデザインがキッチュを疎外する、というような現象に取り巻かれていた。
別の所では、バウハウスはナチスに閉鎖される。
そんなことばかり起こっていた。表も裏も奇怪な世界。人間の姿をしているのは兵隊くらいか。
(それはそうと、ネオダダなどただの露悪趣味以外の何だ、ケージと何が被るってんだ?!)
従って、本来彼は大して特別なことを行っていない。
しかし、音楽でそれを行ったことが彼を異端にした。それだけに、音楽はプラトニックだったのだろう。
もちろん、図形楽譜ならフェルドマンが先行しており、偶然性は古くからモーツァルトも使用している。
(偶然性について言えば、ある意味偶然の介入は芸術にとって必然なのだ。だからこそ、簡単には咲かないんである。
偶然性は必然かに見えてその実無根拠な音の中に、作家の実存的な審美のプロセスに見出されるべき。)
しかしながら音楽史上のスキャンダルはやはり彼の名に収斂する。
・・・・・・それは今後も変わらないだろう。
誰に何を言いたいというレスにはなっていないがな。
誰もいないのか。上の方にはちらっと僕以外のアンチがいたようだがな。進行の緩急があるのかな。
とりあえず最後。
混沌の20世紀、その60年代。ダダを倒したのは遠い星からやってきたウルトラマンだった。
チャックが背中から出ているのは、みんなには内緒だ。
だーかーらー、ケージはアナーキストでもダダイストでもないって
アナーキーなのは機械の使い方もよく解らんかったのにエンジニアをこき使い倒したノーノとか いたのか。ソーカルっぽく3週間後に現れるつもりだったのに。
だから、政治的にはだろ?そのノーノは無能なんだろ。
形式的に考えると反イデオロギーという意味で徹底したアナーキーだと思うがな。
音が主役なんだろ?
いやいや、ノーノのアナーキズムは誰もがやめたセリエルを、死ぬまでやめなかったことにある。
これは楽壇に対する挑戦状のようなものだった。で、ちゃんと成功した作品も、いくつかは出した。 ・・僕は腑分けが好きなもんで、悪いんだが。
そのどこにアナーキーについての説明があるんだい?
アナーキズム概念が齟齬ってるのかも知れんな。まあ、彼の論文というか
対談はとんだトンチキズムだったな。シャルルも悪いな。 やれやれ。あいつ相変らず一箇所しか読まない奴だな。
もっとあいつを批判した事になる箇所だってあるのにさ。
しょうがない。アナーキーか否かという問題は、ケージ自身に聞くとしよう。
彼自身がアナーキーに傾倒してることについては、
既出『小鳥たちのために』青土社30ページ下段「アナーキーと有用なもの」以降を参照。
当然彼がそう言うからと言って、アナーキーの称号に耐えるかは別の話。
もう書いたように、僕から見ればそれほどの役者じゃない。歴史は役者にしてしまったがな。
その所は音楽がネンネだったんだろう。
まあでも政治方面でも、彼のユニバーシティに対する考え方辺りはそこそこ該当するかもね。
まあ彼が作品のみならず文献にも通暁していたとして(してなければ到底聴けたものではないと思うが)、
敢えてそんなにアナーキーじゃないと言っている可能性に賭けたいもんだ。
P.S.
易の音楽はテクスチャそのものはよかったよ。2楽章は蛇足だったけど。
137で僕が「形式的〜」と言ったのを
やつはノーノについて言ったと思ったんかな。
んなもん、言えるか。ノーノー知らんもん。
まいいや。 亀。
ソーカルってw
まあ、僕もそんなもんだけどな。
>どういう整理なんだ?僕は前に[メタ音楽/音楽]と書いたけれど、上の言葉でいえば
>「試み/音楽」という分け方になるだろ。
>メタ音楽であっても、それは聴かれた途端「音楽」に引き摺り下ろされる。
>そもそもケージの詐術というのはそれだったんじゃないの?
もちろん、そうだよ。引き摺り下ろされるというか、回収される。美術における「実験」
と同じ意味で「試み」と使っている。決して音楽をやりながら音楽の
外部を捏造しようとしているわけではない。
「詐術」に関しては、びみょー。たしかにケージってけっこういい加減なことを
言ってるし、それがわざとである可能性も高い。「小鳥」だって、本気で言ってるのか、
こいつって部分も多いし。
しかし、「あったりまえ」だと思われていたことを「あったりまえじゃないよね」
と提示してみせたのは事実。その評価はそれぞれの立場によって違うだろうけどね。
フェルドマンの図形、モーツァルトの偶然なんかを言い出すとキリがない。
最初にやったかどうかじゃなくて、どうしてケージという神話(っていうか寓話かね)が
今でも有効である、もしくは有効であるかのように見えるのかが問題…でもないか。
どうでもいいっていえば、どうでもいい。
>その所は音楽がネンネだったんだろう。
まあ、それを言っては…っていうか音楽だけじゃなくて美術も文学も。
なんせ数十年前の話だしね。今からつっこもうと思えばいくらでも
つっこめるでしょう。
僕はケージの作品を録音物で、現在手に入るものはおそらく一通り聴いていると
思うけど、もう一回聴きたいと思うものはないね。っていうかケージは二度聴く
必要があるのか?ってのがあるし、どういう理論で作曲されているのかを
知らずに聴いても意味あるのか?って気もする。もちろん、「きれいだなー」
的に聴くのはいいよ。前にも書いたように「ソナタ」なんて「きれいだなー」
(演奏者によるけど)だから、ヒーリング系として聴いてるしねw
っていうかね、そもそも音楽は二度聴く必要あるのか?って俺は思うね。
一度目と二度目の違いって、なに?とかね。 二度以上聴かれる音楽作品が
よい作品で、一度しか聴かれない作品はダメな作品って考え方はどうかと思うぜ。
このあたりになるともう嗜好のオハナシになってくるけどな。
美術を見るのは一瞬だけど、音楽はな、時間かかるんだ。
で、元をとりたいとか、大事な時間を返せとか、思うんだね。
でも、美術では思わないだろ?
まあ、このあたりは何を音楽に期待するか、によるけどね。 Yukinomoererもhazuだった頃は生硬な音楽論で
大風呂敷を広げていたものだったが・・・
三十路を前にして、有象無象の雑学のみが増えて
思考に関してはフリーズしてしまった感があるな。 おっと忘れてた。「ケージは二度聴く必要云々」というのはその作品の作曲の
され方とか演奏のされ方とかによります。全部を言ってるわけじゃないからね。
たとえばシアター系(美術/パフォーマンス系)の総合的(っていうかね、
まあミクスト・メディアというかさ)な作品の音楽だけ録音物で聴いても
どうかってのはある。目ぇつぶって映画見てるようなっていうか。
もちろんそれがレコードなりCDなりで出版されている
んだから、オレンジレンジなりと同じカテゴリーで議論できるんだけどさ。
目的とされた結果だろうが痕跡だろうが音楽といえば音楽なんだけど、
あんまりそこに固執するとディテールをべったり塗りつぶしてしまう危険もある。
自戒をこめて、だが。
僕的には「ケージをいかにして自分が使うか?」ってことの方が興味あるな。
実は僕もエレクトロニクスを使った音楽やってるんだけど、それを「上演」
する場合の方法とかね。CDとは何か?とか考えるときに、やっぱりケージの
行ったことを知らん振りしてはできない、ってのはある。
まあ、たぶんに美術的発想ではあるが。しかし、美術的発想に無関心な
音楽家があまりにも多くてですね、そこらあたりがどうかなと。そういう意味では
まだまだ「使える」作家ではある。あんまり書くとばれちゃうんだけどさ。
彼が自分のアイディアをどこまでロジカルに総合してたかどうかは別にして。
しょせん(良くも悪くも)芸術家だしなってのもある。まあ、逃げっていえば
逃げかもだけど。 携帯からチラリ
長w
時代だからなのかな。
小鳥はこれから読む人には徹底して批判的に読む事を薦めたいw
面白いよw前に書いたが、批判は分離、再画定のメタファー。
粗は多いけど、パーソナリティは一貫してるから、その分、線は引きやすい、かな。
>長w
またやってもたよw
戦後〜60年代までのアート全般を今一度総括する必要があるな。
美術音楽文学映画ダンス建築まあいろいろ。
たとえばビートルズとブラックパンサーとかな、あんまり語られてないし。
関係ないか。
ジェイムズ・エルロイあたりが書いてくれると面白いんだがな。 >>144 いや私の音楽観は年とともに過激になった
音楽は耳で把握する知覚モデルの稼動状況に過ぎない ふぅ。書き込めてたな。送信中電源切れんだが。今日はsageとこうかな。
>>145
>最初にやったかどうかじゃなくて、どうしてケージという神話(っていうか寓話かね)が
>今でも有効である、もしくは有効であるかのように見えるのかが問題…でもないか。
>どうでもいいっていえば、どうでもいい。
その意味で、>>135においては
「しかしながら音楽史上のスキャンダルはやはり彼の名に収斂する。 」
の一文を配置した。問題意識としては合ってるのでは。
なお「スキャンダル」には、今更特に感情的な意味はないです。
>なんせ数十年前の話だしね。今からつっこもうと思えばいくらでも
>つっこめるでしょう。
この辺通常言う古典との決定的な違いではないかね?研究家も客観的に距離を取りにくいというかさ。
皮肉にも主観的に関わらなければならない訳だw
ニーチェで言えばさ、「永劫回帰」を悟った奴の通知表に「5」を上げよう、とか??
短絡的に宗教パターン、と言ったら怒り出すかね。でも布石しとかないとな。
まあけど、引用箇所は千日手っぽいな。
では音楽作品の1回性について。
>よい作品で、一度しか聴かれない作品はダメな作品って考え方はどうかと思うぜ。
むぅ。「音響的には綺麗な面もあった」のなら、それも一つの鑑賞の成果、てことか?
いかにも倫理的発言のようだが、ここは微妙、と言っておこう。
嗜好の話で済まなくなったとき、その倫理性も無効になる予感がする。
>彼が自分のアイディアをどこまでロジカルに総合してたかどうかは別にして。
確かに、芸術家としてはテクスト的思考より、実存的な審美のプロセス
(これは僕の言い方だが、言えてるかは不明です。どう?)
を稼動させることを優先させるだろうから、彼以前(?)のアーティストならばそれでよく。
で聞き手はある程度自由に「いい/悪い」について語ることが出来る。
けれども、彼は概念的な思考が先行している(と、未だ思う)から、
その逃げ方は非常にまずいと思うのだが。
まだ、「会話中、音で話し出す奴なんだよ」とかw・・まあ、訳分からんのだがorz
彼自身は音楽史のある符丁として選ばれたけど、それ以上突っ込むな、てことなら
上二つの引用箇所は、FAかもね。ちょっと権威的だけど。
(権威的といえば、「アート全般を今一度総括」ってある意味この上なき権威主義?!)
>で、元をとりたいとか、大事な時間を返せとか、思うんだね。
>でも、美術では思わないだろ?
街角のオブジェにはな。喫茶店でVariationsIVが流れてたら店の中もそれに見合う状態にしてやりたいが。
で、「いや、落ち着いた内装になっただろ?w」とかw
>実は僕もエレクトロニクスを使った音楽やってるんだけど、それを「上演」
>する場合の方法とかね。CDとは何か?とか考えるときに、やっぱりケージの
>行ったことを知らん振りしてはできない、ってのはある。
あらら、エライ男に物を言ってるかwいや、出してこうよ。楽しみにしる。
とりあえず最後。
今日は単車の調子が悪いため、一心同体である僕の調子も悪い。
一心同体の単車がそのまま廃車になってくれることを願う ちなみに。
VariationsIVは作者自身、
その録音物を批判したが、
その瞬間、批判を「録音」の批判にずらすあたりも、
ペテン的と言える。
つまるところ、彼は何でもリリースしてしまうのだ。
そしてくどいが、
概念に住み着いてスピードがない、ため、
易〜の製作には9ヶ月、
HPSCHDに至っては1年以上を要する。
それらが全て作家の生理的任意的
タイミングにより決定づけられる、
死に至る、寸前の病でしかなかったとしたら?
ダダの系譜と影を重ねうる照らし方も
その点ではあるかも知れない。
ただ、曲解というか、
それはどちらかと言えばアンチの理論だろう。
むしろ僕の問題意識は依然、そこにあるような気がする。
>あらら、エライ男に物を言ってるかwいや、出してこうよ。楽しみにしる。
いや、ぜんぜんエラクないですよ。いっぱいいますよ、エレクトロニクス使って
音楽やってるやつら。ノイズ・音響系も含めてね。
>この辺通常言う古典との決定的な違いではないかね?研究家も客観的に距離を取りにくいというかさ。
うむ、古典ではないですね。っていうかまともに批評されたことあるのかどうかさえ
も微妙だね。
あの時代の芸術については一度がっちりと総括する必要があるけど、誰もやらない
だろうなあ…というよりもできないだろうな、広範すぎて。椹木野衣あたりが
やってるかもしれないけど、あいつ胡散臭いからな。
>けれども、彼は概念的な思考が先行している(と、未だ思う)から、
>その逃げ方は非常にまずいと思うのだが。
うん、たしかにね。そのあたりのツメの甘さが彼を詐欺師と言わせている原因だろうし、
また、その後の音楽家が「なんとなく、まあ、いいか」みたいになって、
本当にロジカルに思考しなくなった原因でもあるような気もするな。
>権威的といえば、「アート全般を今一度総括」ってある意味この上なき権威主義?!)
いや、そういうのはやっぱり必要なんよ。固定した視点から総括するってのはね。
それを信じるかどうかは別だよ。共有するステージを仮設にでももつってことです。
じゃあないと、議論できないしね。まあ、するつもりもないんだろうけどさ、大学
なんかで音楽やってるやつらは。あいつらの関心事は音楽だけだから。
僕の知り合いにもいるけど、自分の専門分野についてはべらべらしゃべるけど、
そのほかについてはまるでだめってやつが大杉。せめてベンヤミンやらボードリャール
くらい嫁よなと。音楽と権力についてくらい考えろよと。だったらフーコー
くらい嫁よなと。アフォーダンスってなに?とかさ、真顔で聞くやつとかいるから。
無惨だ。それで「現代におけるある特定の芸術の専門家/研究者」だなんて、笑わせるなってこと。
ただの「奇妙な音楽職人」じゃんか、それじゃあ。
まあ、基本的に日本の音大って「楽器馬鹿」が入るところだからしょうがな
いんだけどね。本来なら楽器なんて弾けなくたっていいのにさ、音楽を思考することに
ついてはね。
>あらら、エライ男に物を言ってるかwいや、出してこうよ。楽しみにしる。
ぜんぜんエラクないよ。エレクトロニクスやってるやつはノイズ/音響系ふくめて
うじゃうじゃいますよ。ただ僕の場合、ダンスやらパフォーマンスやらの人たちと
一緒にやることが多いので、彼らの言葉を聞いてるとどうしても、「上演とは何か?」
ってことをリジッドに(っていうのかな)考えなくてはならない機会が多いだけ。
「音楽だから演奏してればいいじゃん、はらり〜」みたいな顔してると馬鹿に
されるんだよw
でも、そのあたりについてここで開陳するとどんどんケージから離れていくから、
僕はこれくらいにしておきやす。
アステラヴィスタ!
あれ、文章の頭と尻尾あたりがだぶったな。推敲しないて書いてるからな。
まあ、気にしないでくれ。
やはりケージ=一柳ショックのインパクトは大きかったな。
ケージは死んだが一柳って今何をしているんだ? toとんちきくん
携帯からチラリ
長、かったねw
戦えてラッキーだった。
そっか。
大学についてはどの学部も、
既存社会のプレステージに過ぎる。
処世術が身につけばまだ良いが、
原理が既に鬱製造機である、社会的機関として見るに。
健康管理は困難を極めるとw
仮設のステージ。それもそうか。
とにかくも人が行き来できる地図だね。
ふぅ。弁証法なりね。
Xとは何か、といったのは、アリストテレスでした。
じゃ、僕もおいとまするか。
エレクトロニクスも聴いてみるよ。ありがてう
>>159
ウィーンフィルコンサートや湯浅譲二の新作発表会で出くわしたけど。
フォーウォールズ、高橋アキのコンサートに言ったなぁ。 一柳さんのディスクって全然見かけないんですけど、方向性が方向性だから
仕方ないとしても、何とかならないかw ケージフォロワーとしての過去は封印したいのかな?トシさん >>159
一柳は現在、13年の刑期を終えた後チベットかインドかでヒンズー教関連の
コミューン施設でボランティア活動をしている。
事件のあった宮前平の自宅も現在は更地になり、地元でも事件は風化しつつある。
やがて本人の口から事件の真相について語られる日が来ることを願ってやまないが。 フルクサスのイヴェントだよ
金属バットで親の頭を叩き割るっていう作品。
いくらなんでもあれはやりすぎだった。 >>168
J・ケージの『第1コンストラクション(金属で)』へのオマージュとして
一柳が作曲しケージに献呈したのが『第2コンストラクション(金属バットで)』で、
1980年11月29日に神奈川県川崎市高津区で初演されたんだ。
確かにあの曲(イヴェント)はいくら何でもやりすぎだった。
当日はマスコミの取材ヘリが川崎上空を飛び交っていたなあ。
後にこのイヴェントを「ケージ=一柳ショック」 と人は呼んでいる。
>>172
「いちやなぎ」じゃなくて「いちりゅう」らしいよ。ケージと何にも関係ないんだけど。
ttp://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/yobikousei.htm
1980年(昭和55年)11月29日午前2時半ころ、川崎市高津区の自宅で、受験浪人2年目の予備校生の一柳展也(いちりゅうのぶや/当時20歳)が就寝中の両親を金属バットで殴打して殺害した。 しかしみんなうまいね、座布団3枚
あぁ昭和崩御のジャケは晴れ渡っていたなぁ・・ >173
オマエだけスレの空気が読めてないな。
>171,175
「昭和崩御」じゃなくて「昭和大赦」ね。 オリジナル盤→昭和崩御
再プレス盤→ 昭和大赦
だと思った プログレッシブとアヴァンギャルドはどう違うのだね? プログレッシヴ=もっとも時代の進歩に乗り遅れた音楽
アヴァンギャルト=もっとも保守的な態度で創作される音楽 君の定義の違いすらわからん
プログレッシヴでもアヴァンギャルトでもありうるじゃないか
そりじゃ 「プログレッシブ」というのはロックのあるジャンルにだけ冠せられる
言葉であって、「アヴァンギャルド」とは無関係っていうか比べるのは
無理。「アヴァンギャルド」は主にファイン・アートで使われる概念。
しいて言えばプログレッシブ・ロックは「従前のロックのスタイルを
拡張しよう(つまり、ロックのスタイルを保全している)とするロック」だが、
「アヴァンギャルド・ロック」(そんなの聞いたことないけど)があるならば、
「従前のロックのスタイルを踏襲せずに(つまり、ロックのスタイルを保全しない)、
従前にないロックを行おう」とする音楽といえるか。
しかし、「ロック」とはスタイルのことだから、そんなの無理っていうか
ロックじゃなくなるんだけどね。だから、「プログレッシブ・ロック」
はあっても、「アヴァンギャルド・ロック」はないんだろう。
もっといえば、「プログレッシブ」は「前衛的・進歩的」、「アヴァンギャルド」
は「前衛・進歩」って感じ。
>182
何ちんけなマジレスしてんだこいつ?
空気読めてねーなアホか? >182
や、分かった。トン
最後の行はわらかんが。
上の長文対決みたいな感じだが、cageはどっち金
>>186
cageはどっちでもない
彼は「アカデミズム」だろ。 >>186
ケージは「前衛音楽」。
上に書いたように、「プログレッシブ」はあくまでもロックでのスタイルの
概念。
で、プログレッシブ・ロックはロックのカテゴリーにおいては前衛っぽ
いように聞こえただけで、前衛音楽ではないです。
>>184 知性も教養もないバカはロックでもきいとけ。鳥のウンコみたいな
1行スレつけるな、低脳。
>>187 お前もバカ。アカデミズムかどうかっていうのと、前衛、プログレッシブ
という議論は無縁。わかったようなこというな。
わかってもいないのにわかってふりをするバカが多すぎるな、この板は。
ちっとは勉強しろや、お前らw >>191
>で、プログレッシブ・ロックはロックのカテゴリーにおいては前衛っぽ
いように聞こえただけで、前衛音楽ではないです。
d。こりゃすっきりしました。というかロックで出てくるのは
大抵プログレッシブ・ロックになるですね多分。
でcage→前衛ならアヴァンギャルドなんかねぇ。
はい、どこまで読んだ蟹 >お前もバカ。アカデミズムかどうかっていうのと、前衛、プログレッシブ
>という議論は無縁。わかったようなこというな。
だから前衛とかプログレとか、そんな安っぽいカテゴリには分類不可能だと思っただけ。
cageが。