感覚で判断できるものだけが音楽語法なのか?
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例えばセリエルなどがいい例である。
その曲の作曲経緯、構造を理解していなければその複雑さにより、
聴いたときの人間の感覚だけによって曲の構造を理解することは不可能に近い。
アンチ現音の意見でよく「クセナキスなんてグチャグチャなだけ」
などといった意見を目にするが彼の曲の数学的意味合を知らなければそのすごさと芸術性は
とても理解できるわけもない。
が、はたして耳で曲を聴いた感覚だけで彼の曲の作曲語法を見抜ける人間は一体どこにいるというのだろうか。
そういう意味でアンチの指摘は音楽の語法というものがどこまで語法として許容されるのかという一つの問いかけとして興味深い。
何が美しいかではなく何を美しいと感じるかという芸術の根本的原則を理解していればセリエルも構造を理解せずともその響きを純粋に
楽しむことはできるだろう。
しかしその純粋観賞が音楽の本質だとしたら、構造の理解はいったい鑑賞者にとってどれほどの意味をもつのか?
コンポーザーならばそれは大きな意味であり創作であり芸術であるが、鑑賞者にとって語法の構造的理解はどこまでが義務なのか?
逆にいえば「クセナキスってぐちゃぐちゃでかっこいい」っていう聴き方をする人だっているわけだ
その音楽が聴きたければ聴けばいいし、聴きたくない人は聴かなくてもいい。ブーレーズの理屈が知りたけりゃ知ろうとすればいいし、知りたくなけりゃ知りたくないで構わない。無調風よりもセリエルが偉いも偉くないもない。 コードの理論や対位法を知らなくても浜崎あゆみを聴けるだろ
メソッドなんて作り手が必要なだけで,それによって出た結果が
聴き手に面白ければそれでいいのだと思う >>4
このスレのコテやROM常連はそう思ってない。 俺は>>4に同意なんだ。
実際>>3の言うとおり「クセナキスカオスみたいでカッコいい」
って純粋観賞で思うんだ。で、聴いたあとで作曲語法などを知ってさらに楽しむ、みたいな。
ところがたまにアンチの中でも特に偏見の人が
「あんなものを純粋観賞で良いと思うのが間違っている、おかしい。」みたいなことを言ったりする。
そりゃ違うだろうと。だったら例えば
「モーツァルトは同じような音をうまいこと音型変えてつまらない。あんなもん面白くない」
なんて偏見な物言いも通用してしまうではないか。
実際問題この世の中にはゴキブリを見て「気持ち悪い」と思う人間と「よく見ると綺麗な色してるな」と思う人間とがいるんだ。
後者の感性を否定しないでほしいね。わかりやすくゴキちゃんを出したけど現音=ゴキって意味ではないんで勘違いしないように。 >>1
の意見を俺なりに解釈して、先に進めると、
「作曲者(プレイヤー含む発信側)と聴取者の間に構造に関する共通理解(あるいは前提)が必要か?」
という話になってしまうと思うんだけど、
ぶっちゃけ、どうでもいいと言うか、そんな合意が出来る訳は無いと思うのね。
曲の構造だったり、一瞬の響きだったり、「なんだかわからねえ」感じだったり、聴取者の興味の糸口足り得る物さえ内包してれば、
それで音楽としては成り立っていると思うんです。
音楽として成り立っているという事は、なんらかの語法が成立している訳で、
それに興味を持った人が、まとめたり、引用したりして、継承、淘汰されて行く、と。
で、その集合がいわゆる「音楽語法」だと思うのだけれど、どうかね?
俺の結論としては、構造は音楽語法のごく一部に過ぎないと思うので、
構造についての聴取側との合意は必ずしも必要ではないと思います。 >>1
感覚=純粋=本質 というつなげ方を思いもよらずしている自身を一度考えてみることをお勧めする。
そもそも現代音楽とは無縁のタイトルだし、スレタイがすでに感覚と意識を混同していて整理できていないままになっている。
そうそう、そういう指摘と議論、つっこみ、それが目的のスレです。 >>10
スレタイ=現代音楽とは無縁 というつなげ方を思いもよらずしている自身を一度考えてみることをお勧めする。 音楽語法は本来、純粋観賞へと帰結するものであった。
それが今日、純粋観賞へと帰結しない、語法が語法であることがすでに目的である、
というひとつの語法の概念が確立された。
だが純粋観賞と言えどもそれは実に主観的なもので、どこまでが純粋観賞なのかは曖昧なものである。
例えばここに、極めて複雑なセリエルで構成された楽曲と、完全なランダムで構成された楽曲があるとする。
前者は文字通りセリエル、後者は偶然性を作曲語法に使っている。
この2つの楽曲がそれぞれ非常に密度の高い複雑なピアノ独奏曲だとする。
ここで鑑賞者がそれぞれの楽曲を聴いて、純粋に 音を楽しんだとする。
これは純粋観賞だ。鑑賞者は「音のカオス」を観賞し、その「カオス」を美しいと感じた。
この場合、鑑賞者は決して「セリエル」を観賞したわけでもないし、「偶然性」を観賞したわけでもない。
要は「複雑な響き」を観賞したわけだ。
つまりこのときの純粋観賞はあくまで「複雑な響き」であって、語法にまでは及ばない。
だとすれば、偶然性だろうが数学的作曲法だろうがセリエルだろうが純粋観賞としては同じようなものではないか?
こんな疑問がある。
もちろん事前に作曲語法を知れば、それぞれの楽曲の意味、聴いたときのイメージ、理解、すべてが深まる。
単なるカオスに聴こえたものも、違って聴こえてくるかもしれない。
だがそれは、純粋観賞と言えるのか?完全な純粋でないことは言うまでもない。
しかしこれは我々が音楽を聴くときに、常に行っている関連付け、意味づけでもある。
ショパンのワルツ9番が「恋人との別れに書いた」と知っていてそれに感情移入して聴いたのならば、
やはりそれも純粋観賞とは言い切れないのではないか?
いや、「ショパンが作曲した曲」と知っているだけで、もはや完全な純粋観賞などありえない。
つまり、純粋観賞などはどう考えてもありえないことなのだ。
ある種の認知障害やサヴァン症候群みたいな人々は、もしかしたら語法を純粋鑑賞してるかもしれないがな。 それはおもしろい。
複雑な技法ならともかく、調性音楽程度ならば努力で真の純粋観賞も可能だろう。
だがそれもかなり難しい。固定観念を捨てるということは無理に等しく難しい。
サヴァンでもいいのだが、例えば人間よりもはるかに高度な知能を持つ異性人がいたとして、
その異性人が人類の音楽を理解できるとして、彼らにはどのように聴こえるのだろう。
あらゆる作曲家の語法、特徴、すべて1回聴いただけで完全に理解し、自在に模倣できるのだろうか。
以前クラ板かどこかで
「無調でもセリエルでもその響きを純粋に楽しもうと思えば美しくも聴こえてくる。固定観念をなくして頭を柔らかくしよう。」
と言ったところ、アンチがこんなことを言ってきた。
「頭が固いのはおまえのほう。偉い作曲家が作っているから美しいはずだ、と思い込んでいるだろう?」
半分、「そっちも人のこと言えたもんじゃないじゃないか。」とも思ったが、
半分「たしかに、それは少しあったかもしれない。盲点だった。」とも思った。 >>16
そういや、サヴァン症候群のカップルの話をテレビでやってて、
女性の方が、作曲してた様な。。。
弦四を人とおしゃべりしながら、いきなりペンでスコア書いてたよ。 >14
音楽は「ショパン」と言う名前を先に聞くことからだけではなく、その音楽がショパンを浮かび上がらせることがある。ショパンに限ったことではないが。
ある音楽には、いつもショパンが佇んでいる。つまり、それはショパンが作った曲だった。
例えばラジオなんかで、それまでに聴いたことが無い曲を「誰〜っぽい曲だな」と思っていると正解な場合が多々あるよね。
もしくは〜楽派っぽいとか。 その、「あ、っぽいなあ」っていう特徴が強くて、なおかつどこにでもある
なにかと似ているものではない光った特徴を持つ作曲家が一流なのではないかと。 >>14
純粋の定義をしろよ
滅茶苦茶だよお前らの議論は いや、議論段階なんだからむちゃくちゃでいいんですよ。
むしろむちゃくちゃだ!と見抜くことができた人にだけむちゃくちゃでない
論理を提示できるんだから、あなたが定義を出すべきです。
むちゃくちゃに陥っている人よりも正しい定義ができる可能性が高い。 >>21
>>14の言っている純粋とは厳密な意味でのアプリオリな観賞と言ったところでしょう。 >>21
>>14の文脈で言うと、
音と音の関係性を認識しない、それに象徴的な意味を与えない、あらゆる感情を持たない
というような、データとしてただ、音楽を受け取ると言うか、
PCに音源を取り込んで、PCが拡張子から、「これは音楽だ」と認識している状態
みたいなのを想像する。とても人間業とは思えないw
もし議論を進めるなら、人間の音楽認識の限界点について話すのが主旨にあってる鴨 そうなると議論というより物語の創造だな
言葉と知識は持ってても論理や創造とは無縁のおまえらには無理だろ 議論の流れを断ち切ってしまうが、
音楽語法というのは、まず規定され、作品に導入されるのではなく、
そもそも作品があらゆる読み取りの可能性を持つことを前提として、
その上で聴衆やスコア鑑賞者や演奏者が発見していくものなのだと思う。
芸術は科学ではないから、対象(作品)の範囲を厳密に定義しないし、
読み取り方(鑑賞=観察、観測)も必ずしも客観的に理解できるものだけである必要が無い。
ならば原理的には最初から「いまだ発見されていない音楽語法」がどんな作品の中にも
無限に存在すると考えても違和感無いはず。 >>23
そういうのならあなたも定義すればいい。
このスレに書き込んでいる人たちは、スレを立てた人の手の中で泳いでいるように見えて仕方ない
一緒に議論したら良いのに
>>23=>>1と決め付けているけれど >>1の時点で議論は破綻している。議論にならない。
がんばって書いたのだろうけどw 論理が破綻している人間は自分の論理が破綻していることに気がついていない。
だから破綻している。
すなわち論理が破綻している人に「論理が破綻している」と指摘した人は、少なくともどこがどう、なぜ破綻しているのかを言ってやる必要がある。
それをうまく言葉にできないのならば、その人のその「論理が破綻している」と判断した論理も実に曖昧で疑わしいものだと言ってよい。
ふと思ったんだが、普通のクラシック(バロックから印象派まで)については >>1の
言うような「音楽語法」の問題は無い、ってことでおk?
演奏会に出かけたりCD買ったりする人の大部分は和声や対位法がわかって聴いてる
わけじゃなかろう、と思うんだが、セリエルやらクセナキスやらの問題はそれとは異質
なのか?
異質であるはず(あるべき)と思い込んでるのがゲソヲタ脳ですから。 思い込みは芸術にとって大切な要素だけどね。
芸術家は人間的にはなんとやら、ってここらへんにも関係あるんでないの。 >>33
と、思い込んでいるそなたも実は同じようなものだったりする。 音楽語法は理性というアナリーゼで全部判断できるよ。
感覚で判断するのは素人の証拠。
ちゃんと無調の聴音やりたまえ。
楽器の弾けないと駄目だな。 >>39
音楽語法は全部判断できる、というのは誰にでもできるという意味ではなく、
あなたの言う「理性」を持つ人ならばできるというですか?
さて、まずここまでの流れとして「音楽語法」であるとか「聴取者」であるとか様々な単語が出てきています。
しかし、それらは厳密に定義されていない、かつ、多義語であるため、そのままでは綿密な議論をすることができません。
そこで議論の対象を限定するためには、まずこれらの単語を定義する必要があるでしょう。
ただし、その定義はあくまでこのスレッドでの議論のためのアドホック(こういう学術で使われる用語が嫌いな人は「一時的なもの」と読み替えて下さい)なものであって、
普遍的な定義ではありません。
なぜなら、「音楽語法」という単語に普遍的で一義的な定義は存在しないからです。
例えば、「偶然性」は音楽語法か、というとどちらとも言えません。
しかし、それと同様に「和声法」も音楽語法とは言い切れません。
したがって、ここでは「音楽語法という単語の中には和声法も含む。」ということで、初めて和声法は音楽語法の定義の中に含まれることになります。
ただし、その瞬間に「では和声法とは何か。」という問題が提起されますので、次にそれを定義する必要があります。
「聴取者」も同様です。
例えば、コンサートホールで客席に座っている人は必ず「聴取者」と言えるでしょうか?
その中には眠っている人もいるでしょう。その人は通常の定義においては「聴取者」とは言えないでしょうから、定義をする際に除外する必要があります。
起きている人はどうでしょうか。その人は指揮者の動きを見て楽しんでいるかもしれません。その人を「聴取者」と呼びたくないのであれば、やはり定義から除外する必要があります。
そこで仮に、聴取者とは「ある人物が自己の聴覚経験を意識している時の、その人物」と定義してみましょう。
すると、コンサートホール事例においてはだいたい通常の意識に妥当する定義ができたと思われるかもしれません。
しかし、この定義によると、森林浴に出かけて行って鳥のさえずりに耳を澄ましている人も「聴取者」であることになってしまいます。
そこで「聴取」の対象を「音楽」に限定する必要が出てくるかもしれません。
すると今度は「音楽」の定義が必要でしょう。
こうして、議論の前提になる単語の(仮の)定義を最初に共通了解として持っておく必要があります。
掲示板という形式だと中々難しいですね。誰が定義をするかがまず問題になるでしょうから。
一つの提案としては、この議論を提示した人物が定義をするのがわかりよいのではないかと思われますがいかがでしょうか? >>39のような理性万能主義な選民思想丸出しの奴に限って、>>40のようなマトモな意見を「単なる言葉遊び」と排除すんだよな。
頭が弱いから > 楽器の弾けないと駄目だな。
ひどい「てにをは」だな。w
頭が弱すぎて、幼稚園年長組を落第しそうだ。
理性万能主義なのに、理性ゼロって、
どうやって自分の尊厳を保ってるんだ?奇跡だな。
カンノシェンセーは独逸在住の大作曲家だから
調音アナリーゼーもできない人間と口をきくのもつらいことなんだよ なるほど。このキチガイは理性万能主義なのに理性0だが、そうやって他人を見下して自分の尊厳保ってるのか
つか現代音楽板にくるような奴は、それなりに音楽教育受けてきてる奴多いだろ。
人様はお前が思ってる程バカじゃないぞ。 つか、今更だが「理性というアナリーゼ」ってなに?
アナリーゼの意味知ってる?
理性という分析、ってなんだよ。
あと>>43で、一段目と二段目の文章繋がってないし。
ドイツ在住の大作曲家だから、聴音アナリーゼ出来ないと会話するのも辛い?
はああああ?
是非自分の文章を、理性というアナリーゼしてみて下さいよ。 >>43
あ、ごめん勘違いした。>>46の下の文は無かったことにしてくれ
しかもカンノシェンシェー菅野の事か。 せめて>>1 とかをかまってあげたら?
ここのところの高慢な奴は馬鹿すぎる。
>>48
作曲や指揮の国際コンクールや音楽賞・奨学金56回受賞を始め、1986年以降のWVE-番号だけでも269曲の自作のオリジナル作品
12曲の電子音楽、3曲のライブ・エレクトロニック作品,20曲の編曲作品、200曲を超える自作の編曲、200曲の即興曲の録音、また150曲を超えるオペラや
700曲のコンサートのレパートリー等があり、世界各地で交響楽団やオペラ・現代音楽-アンサンブル-合唱・映画音楽等を指揮し
即興演奏、教会音楽、21枚のCDプロダクションや自己のオリジナル作品が演奏されているカンノ大先生こんばんわ
雨の音とか電車の音が好きなのと現音はどう違うのですか? 雨の音とか電車の音も同じように現代音楽の素材になるということです。
どこが悪いの? 李利器(40)のスレッド上げは全部悪いってことですよ。 感覚、知覚(音の集合体が作りだすイメージ、音のテクスチャーも含めて)そして、パターン認知だろうな。特にリズムが重要視される(踊ることを目的とした)
リピーティブなHipHopやミニマル音楽は。
感情へのアプローチは聴き手によって捉え方が大きく異なるだろうし。
聴き手が意味や、何らかの感動をその楽曲に持てれば、アートかどうかは別として、良い曲として成立する。
クセナキスの表現を数学的アプローチとして、音楽語法として理解出来る人はそういった意味で彼の音楽を好きになるかもしれないし、
規則性や法則性を知覚出来なくても、訳が分からないところが好きになるかもしれない。
例えば、外国語にしても意味や文法が分からなくても単に音の響きが好きな人もいるわけだし。
文法的知識に乏しくても母国語は理解出来るわけだし。
別に隠し味に何が入っていようが、調理法がどうであれ、美味けりゃその料理を食うわけだし。
複雑な数学的手法を使った料理って言われても、どうなんだろう。
鑑賞者に義務は無いが、構造に理解を示せばより楽しめるといった感じか。 >>59
ナショナリズムは小児病
リベラルは厨二病
社会に出れば人間誰しもコンサバティブ(真の保守)な考え方を持つに至るものだ
もっともそれはその者が人間であるに足る知能を持つ場合に限られるのではあるが 久石はかつてガチガチの机上理論作曲していたが、今や崩れ切った感覚判断語法しかしない。 ハンガリーで施行されたポテトチップス税
たばこ税も似たり寄ったり
でも個人輸入すれば大丈夫。日本語の輸入代行も多数。?
「タバコ 輸入代行」とかで検索するとあるある、、、?
送料込みで1箱90円とかの激安サイトもある。"?
音でニンゲンのあらゆる病気は治療できる日がくるであろう 感覚以前に、現代音楽は精神的内容をないがしろにしている。
尚、ラヴェルによれば、「偉大な音楽は常に心によって生まれるもので
あって、単なる頭脳と知識だけで作られたものはそれが書かれた紙以上の
価値はない」だが、「聴いた感じが良ければそれが良い」なんていうのは、
本当の意味で音楽を理解していない。実際、、某教育学部でピアノを
教えていた某教授がそうだったが、これが指導してい優秀な音楽教師が
出来るわけが無いと思った。尚、それはたとえ大作曲家の作品で良い作品
(例えばベルリオーズの葬送と勝利の交響曲など)が書かれていても、
吹奏楽を過度に蔑視したクラシック板の腐オタも同様。本当に音楽がわかる
人間は、表面的なジャンルだけでは独り善がりで偏狭な見方はしない。
あくまで本質を理解出来て本物。 でもサルトルによれば
実存は本質に先立つ
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