例えばセリエルなどがいい例である。
その曲の作曲経緯、構造を理解していなければその複雑さにより、
聴いたときの人間の感覚だけによって曲の構造を理解することは不可能に近い。
アンチ現音の意見でよく「クセナキスなんてグチャグチャなだけ」
などといった意見を目にするが彼の曲の数学的意味合を知らなければそのすごさと芸術性は
とても理解できるわけもない。
が、はたして耳で曲を聴いた感覚だけで彼の曲の作曲語法を見抜ける人間は一体どこにいるというのだろうか。
そういう意味でアンチの指摘は音楽の語法というものがどこまで語法として許容されるのかという一つの問いかけとして興味深い。
何が美しいかではなく何を美しいと感じるかという芸術の根本的原則を理解していればセリエルも構造を理解せずともその響きを純粋に
楽しむことはできるだろう。
しかしその純粋観賞が音楽の本質だとしたら、構造の理解はいったい鑑賞者にとってどれほどの意味をもつのか?
コンポーザーならばそれは大きな意味であり創作であり芸術であるが、鑑賞者にとって語法の構造的理解はどこまでが義務なのか?