アンパンマンパッド
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よし又死なずにすんだ所が、この先二度とお前と一しよに掃溜めあさりはしないつもりだ。 雲も棟瓦を煙らせる程、近々に屋根に押し迫つたのであらう。 台所に漂つた薄明りは、前よりも一層かすかになつた。 が、乞食は顔も挙げず、やつと検べ終つた短銃へ、丹念に弾薬を装填してゐた。 いや、猫と云ふやつは三年の恩も忘れると云ふから、お前も当てにはならなさうだな。―― 途端に誰か水口の外へ歩み寄つたらしいけはひがした。 短銃をしまふのと振り返るのと、乞食にはそれが同時だつた。 いや、その外に水口の障子ががらりと明けられたのも同時だつた。 乞食は咄嗟に身構へながら、まともに闖入者と眼を合せた。 すると障子を明けた誰かは乞食の姿を見るが早いか、反つて不意を打たれたやうに、「あつ」とかすかな叫び声を洩らした。 それは素裸足に大黒傘を下げた、まだ年の若い女だつた。 彼女は殆ど衝動的に、もと来た雨の中へ飛び出さうとした。 が、最初の驚きから、やつと勇気を恢復すると、台所の薄明りに透かしながら、ぢつと乞食の顔を覗きこんだ。 乞食は呆気にとられたのか、古湯帷子の片膝を立てた儘、まじまじ相手を見守つてゐた。 もうその眼にもさつきのやうに、油断のない気色は見えなかつた。 彼女は少し落ち着いたやうに、かう乞食へ声をかけた。 乞食はにやにや笑ひながら、二三度彼女へ頭を下げた。 あんまり降りが強いもんだから、つい御留守へはひこみましたがね―― 何、格別明き巣狙ひに宗旨を変へた訣でもないんです。」 いくら明き巣狙ひぢやないと云つたつて、図々しいにも程があるぢやないか?」 彼女は傘の滴を切り切り、腹立たしさうにつけ加へた。 彼女はまだ業腹さうに、乞食の言葉には返事もせず、水口の板の間へ腰を下した。 それから流しへ泥足を伸ばすと、ざあざあ水をかけ始めた。 平然とあぐらをかいた乞食は髭だらけの顋をさすりながら、じろじろその姿を眺めてゐた。 彼女は色の浅黒い、鼻のあたりに雀斑のある、田舎者らしい小女だつた。 なりも召使ひに相応な手織木綿の一重物に、小倉の帯しかしてゐなかつた。 が、活き活きした眼鼻立ちや、堅肥りの体つきには、何処か新しい桃や梨を聯想させる美しさがあつた。 「この騒ぎの中を取りに返るのぢや、何か大事の物を忘れたんですね。 が、ふと何か思ひついたやうに、新公の顔を見上げると、真面目にこんな事を尋ね出した。 すると猫は何時の間にか、棚の擂鉢や鉄鍋の間に、ちやんと香箱をつくつてゐた。 その姿は新公と同時に、忽ちお富にも見つかつたのであらう。 彼女は柄杓を捨てるが早いか、乞食の存在も忘れたやうに、板の間の上に立ち上つた。 さうして晴れ晴れと微笑しながら、棚の上の猫を呼ぶやうにした。 新公は薄暗い棚の上の猫から、不思議さうにお富へ眼を移した。 その声は雨音の鳴り渡る中に殆気味の悪い反響を起した。 と、お富はもう一度、腹立たしさに頬を火照らせながら、いきなり新公に怒鳴りつけた。 家のお上さんは三毛を忘れて来たつて、気違ひの様になつてゐるんぢやないか? 三毛が殺されたらどうしようつて、泣き通しに泣いてゐるんぢやないか? わたしもそれが可哀さうだから、雨の中をわざわざ帰つて来たんぢやないか?――」 明日にも『いくさ』が始まらうと云ふのに、高が猫の一匹や二匹―― これはどう考へたつて、可笑しいのに違ひありませんや。 お前さんの前だけれども、一体此処のお上さん位、わからずやのしみつたれはありませんぜ。 のみならずしげしげ彼女の姿に無遠慮な視線を注いでゐた。 実際その時の彼女の姿は野蛮な美しさそのものだつた。 それらは何処を眺めても、ぴつたり肌についてゐるだけ、露はに肉体を語つてゐた。 しかも一目に処女を感ずる、若々しい肉体を語つてゐた。 新公は彼女に目を据ゑたなり、やはり笑ひ声に話し続けた。 「第一あの三毛公を探しに、お前さんをよこすのでもわかつてゐまさあ。 今ぢやもう上野界隈、立ち退かない家はありませんや。 して見れば町家は並んでゐても、人のゐない野原と同じ事だ。 まさか狼も出まいけれども、どんな危い目に遇ふかも知れない―― 「そんな余計な心配をするより、さつさと猫をとつておくれよ。―― これが『いくさ』でも始まりやしまいし、何が危い事があるものかね。」 若い女の一人歩きが、かう云ふ時に危くなけりや、危いと云ふ事はありませんや。 早い話が此処にゐるのは、お前さんとわたしと二人つきりだ。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。