マルクス経済学 第5章
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◇前スレ
マルクス経済学 第4章
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/economics/1521623540/
◇資本論の主な翻訳
岡崎次郎訳『資本論』(大月書店、1972年)
資本論翻訳委員会訳『資本論』(新日本出版社、1982年) ※分担訳
中山元訳『資本論』(日経BP、2011年) ※第1部のみを訳出したもの
今村仁司ら訳『資本論』(筑摩書房、2005年) ※第1部のみを訳出したもの
なお、向坂逸郎訳『資本論』(岩波文庫、1969年)がよく読まれているが、これは上述した岡崎次郎が翻訳したものを、向坂逸郎の名で出版したもの。
マルクス経済学 - 新・金融経済まとめwiki - アットウィキ
https://www65.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/75.html
マルクス・左翼リンク - 新・金融経済まとめwiki - アットウィキ
https://www65.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/76.html
確かに物的価値をもたらすのを労働力とするのですが
知的価値となると
労働力という範囲に押しとどめてはいけないのです
とりわけ量的労働力で知的価値を図ることはできないのです >>234
派遣業者は総労働者失業になるとおまんま食い上げだから技術革新を阻害。
勿論それなりのことは解っているのだろうが
それでもなお
価値の重心を物的価値に置いているのである
これは知的労働をその価値の源泉とするという観点があいまいな「マルクス経済学」を用いているから手ある
もちろんマルクス自身は当時としての価値観を述べただけであり
今日的に
知的価値・意識的価値などが多くを占める経済を語ってはいないのです
にもかかわらず過去の経済的成果をそのまま用いようとする教条主義・機械主義・坊主主義の者たちが中国では支配的だという事です
マルクス自身そのようなマルクスの成果を用いられることは拒否するのです
彼は彼の成果を弁証法的に発展転化させることこそ求めているのです サンマルクズってラグビーチーム ノータッチの ランゲーム パスゲーム
中心に経済応援しようかな。 商品を選ぶとき製作者や栽培者連のルックスや能力趣味やあらゆる情報が今にも後にも先んじてわかればいいのに。 >>235
派遣業者がどういう権力をもって技術革新を阻害できるんでしょう? 消費者としてボイコットするしかない
残念ながら労働の場での変革には時間がかかる
もちろんマルクス自身は後世の「学者」なるものの飯のタネとして
租の学説を構築したのではないのです
労働者階級と人々の未来のための戦いの武器としてその理論を構築したのです
戦わず思弁としてその理論を振りかざす輩を「女学生」と揶揄したのはゴーリキィでした
ヘーゲル額とそして弁証法に基づくマルクスは
前提としての資本主義に対する
アンチテーゼとしてその理論を構築したのであり
マルクスらが目指す更なる高みとしての経済学を目指したのですね
つまりは止揚ということですね
その為のアンチテーゼとしてのマルクス経済学なのですね
勿論それをそのまま使って経済社会構造体なるものを目指したとしたなら破たんするのですね
20世紀社会主義がまさにその実例です
要はマルクは経済学の更なるアンチテーゼとしての経済社会共同体を目指さねばならないという事です
子のアンチテーゼこそがマルクス経済学の神髄であり、マルクスの求めるところだという事ですね
ソ連のネップや中国の改革開放、そしてベトナムのドイモイなどは、目指すところかもしれませんね 技術革新により資本主義から社会主義の移行はマルクス型よりシュンペーター型により達成される。 マルクスは反省から誤謬を正すときに経験差がなくごまかしが多いな。反省して
間違いは間違いと認める失敗自覚型の経済学者を生もう。
マルクスは当然のこととして
資本主義を否定しそしてそれがさらに否定されることによって新たな発展をもたらすという事を理念として持っていたのです
無論それを止揚というのです
弁証法に関してもやはりプルードンの以下の指摘が決定的だ。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスを
とる」
(プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html
矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html
De la justice dans la Revolution et dans l’Eglise - Tome I 1858
この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ベンヤミンが参照したのは、
CUVILLIER, Armand "Marx et Proudhon" in A la Lumiere du marxisme, obra colectiva
(Tomo II), Paris, Editions sociales interna¬tionales, 1937, 240 p.
ヘーゲルの欠点、つまり弁証法への過信をマルクスも受け継いでしまった… ポール・ミルグロム『組織の経済学』#9.2-邦訳341頁にプルードンに関する記述。
《私有財産の倫理学 …19世紀の社会主義者プルードン(P.J.Proudhon)は端的に「財産は盗品だ」と
言った。今日でもこの見解は広く受容されている。…》
マルクスは上のプルードンの言葉に反発して再生産表式を編み出して行った。
ただしあくまでもプルードンからの書簡にあったプログラムに則って ヘーゲルとか言い出してる時点で胡散臭いんだよな。
どっちかと言えば法哲学のひとだろヘーゲルって。
知ってる言葉適当に並べただけじゃんw マルクス「資本論」は失敗した草稿を死後に友人が遺稿として発表したもので
それは失敗作だった、これでいいんだよ。そうではなく、19世紀に進展した
歴史法学、古典派経済学、進化論、および還元主義(機械的世界観=唯物論)で
読み解けばよいだけで、マルクスをみるのではなく、マルクスが見ていたものを
丁寧に見て行けば、けっきょくこのヤカマシイおっさんが何が言いたかったかが
読み取れるということだろ。そしてその読み解いてる人物はまちがいなく
マルクスよりも優秀な人物なんだよ(/・ω・)/ サルトルは弁証法を信じていたから正確なプルードン評価は出来ていないが、大筋の状況論として正しい。
「マルキシスムもまた競争相手の理論を吸収し、消化して、開かれたままでいなければならなかったにちが
いない。ところが人も知るように実際につくり出されたのは、百の理論の代りに二つの革命的イデオロジー
にすぎなかった。ブルードン主義者は、一八七〇年以前の労働者インターナショナルでは多数を占めていた
が、パリ・コンミューンの失敗によっておしつぶされた。マルキシスムは敵対者に打勝ったが、その勝利
は、マルキシスムがのり越えながらそのなかに含んでいたヘーゲル的否定の力によるものではなく、純粋に
単純に二律背反の一方の項を押えた外力によるものであった。その光栄のない勝利がマルキシスムにとって
どういう代価を意味したかは、何度いってもいい過ぎない。すなわち矛盾する相手が欠けたときに、マルキ
シスムは生命を失った。もしマルキシスムが最もよい状態にあり、絶えず戦い、征服するために自己を変革
し、敵の武器を奪って己れのものにしていたとすれば、それは精神そのものとなっていたであろう。しか
し、作家貴族がマルキシスムから千里もはなれたところで抽象的な精神性の番人になっている間に、マルキ
シスムは教会になったのである。」
サルトル『文学とは何か』第三章「誰ために書くか」(『シチュアシオン2』人文書院p141.加藤周一訳)より 「「根本的な改革」から「決定的な改革」へ ―カレツキにおける史的唯物論」山本英司 2001
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/45393/1/10167104.pdf
《「計量経済学モデルと史的唯物論とは,社会の発展にたいするふたつの相異なるアプローチをなす。
前者は,考察される期間における計量経済学的変数相互の,およびこれらの変数と過去の諸期間にお
ける同一変数のあいだの関数関係を基礎としている。この関係は所与であり,また変化しないものと
仮定される。かくして,特定の動態過程が措定されるが,それは,上記の関数関係の不変性という基本
的な仮定が満足される場合にのみ現実の発展に対応する。
史的唯物論は,社会の発展過程をすべての他の社会現象,たとえば政府,文化,科学,技術など(上部
構造)をかたちづくる生産力と生産関係(土台)のそれとして考える。ここには上部構造もまた土台
に影響をおよぼすというフィードバック効果が包合されている」(Kalecki[1965],邦訳*154ページ)。》
結局カレツキは経済に自足する計量経済学と土台から上部構造への一方的な影響関係を強調した史的
唯物論の両方を批判している。
《マルクスの再生産表式は、結局のところ、単純な計量経済学モデルにほかならない。》
自然資源、生産関係、上部構造の影響を受けるので関数fは安定していない。だから、
Bt=f(Bt,Bt-1, ……,Bt-r) (1)
ではなく[Btはひとつのベクトル]
Bt=ft(Bt,Bt-1, ……,Bt-r) (2)
関数fが安定しているときのみ上の式(1)が当てはまる。関数f自体が変化することを下の式(2)(=一般化された
計量経済学モデル)は表す。
カレツキが史的唯物論を「上部構造もまた土台に影響をおよぼすというフィードバック効果」と再定義したことは今も新鮮だ。
マルクスを再評価するとしたらカレツキ経由以外あり得ない
少しでもマルクスのことを知ったものならば
マルクス経済「学者」なるものが
如何にマルクスの成果を冒涜しているのかと考えるのです
マルクスは経済学者の飯のタネのために
その「学説」を構築したのではないのです
むしろ「学者」なる者たちのお利口な思弁に対して
労働者をはじめとする圧倒的な人々が
戦い勝利する道具としてその資本主義に対するアンチテーゼを構築くしたのです
レーニンはマルクス学者としての高名なプレハーノフと戦い
マルクスの革命の教条をもてあそぶトロツキーを放逐したのです
そして新たな展開としてネップを試みたのでした
勿論その途上での彼の死でした
我々はマルクスの資本主義に対するアンチテーゼとともに
そこにとどまるのではなく
さらなる新たな展開を求めそれを人々に提示する責任があるのです
否定の否定を通じてさらなる発展こそ
マルクスの求めるところです マルクスはただの失敗した革命家で、キリストはただのお話し好きのおっさん。
それでいいだろ。まわりが神格化しすぎなんだよ。 【30日、東海村で放射能漏れ事故】 鼻から出血ツイート多いな、こんな症状出てもまだ気がつかないのか
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1549162998/l50
インフルエンザの特効薬は、原発の全廃だけ!
確かにプレハーノフはマルクスに忠実だったのです
それに反してマルクスをロシア的に「改竄」したのがレーニンです
確かにマルクスは革命はドイツイギリスなど先進資本主義国から起こるとしたのですが
レーニンはロシアにおいて起こしたのです
そしてネップなる「反社会主義」経済政策を導入しようとしたのです
大切なのは理論やそれに基づく教条ではないのです
人々のために何が必要なのかという事です
その為に理論や教条は利用すべき道具ではあっても
その理論や教条に現実を縛りつけるのは誤りです
まして現実を理論・教条で評価すべきではないのです
特にマルクスの唯物弁証法は、理論教条が現実の中で発展変化することを求めているのです
教室的に言うならば
マルクスの理論教条を解釈したにとどまるのでは、赤点です
マルクスの理論教条を現実の中で発展転化して理解してこそそれなりの評価があるのです マルクスはイギリスを中心とした西欧の歴史に限定して資本論を書いたようだ。
だからロシアや中国で何が起こるかまでを彼は予測しなかった。
プレハーノフはマルクスよりも一歩踏み込み、
マルクスがイギリスを基準にして考えた限定モデルを
ロシアにも歴史の段階論を使って適用できると考えたのかもしれない。
つまり、ロシアも西欧と同じ道を歩むことになるが、ロシアはまだ後進的なだけだというわけ。
それに反論したのがロシアのナロードニキの論客だったようだね。
当時のロシアの時代的現実をそのまま民衆革命の必要性に結びつけたのがナロードニキだった。
プレハーノフをはじめとしたメンシェヴィキはロシア革命はブルジョア革命であるはずだと考えていた。
ロシアに必要なのはまず資本主義化であってブルジョア社会だというわけ。
ところがレーニンやトロツキーらのボリシェヴィキ側の言い分からすれば
ロシア革命の現実はそのモデルからはずれていた。
ロシアの革命はマルクスが西欧においてモデル化したのとは違うものに動かされていた。
プレハーノフが考えたのが西欧を基準にしたマルクスの教条的モデルだとすれば
ボリシェヴィキはロシアに見合ったモデルを使った。
それはナロードニキとマルキストの妥協の産物とでも呼べるものだろうか?
プレハーノフは早産の社会主義革命は専制国家的なものになってしまうと警告したが、
その予想どおりになってしまった。
ネップは国家資本主義とレーニンが呼んだように、中国の走資派路線に近いのでは?
それがうまくいかなかったのはなぜだろう。中国ではそれが経済的には成功したようだが。 マルクスの社会進化論によればロシアや中国、中南米やアフリカみたいな
発展途上国で社会主義革命が起きるというのが説明できないものな。 けっきょく所得と資本の再分配とか資本家との交渉(闘争)モデルとか
都合のよいところだけ評価してる感じになるんよね。で、これはべつに
マルクスが世界で初めて新規に提案した社会運動でもなんでもない。
当然マルクスは資本主義に対してのアンチテーゼとしてその経済学の研究をしたのであり、
だからこそ彼の学説なるものが新たな経済社会構造体にそのままなりえないことは言うまでもないのです。
むしろさらにそれを否定止揚してこそ
マルクス理論の発展となり、
新たな経済社会構造体を展望できるのです 神経内科の収益震災募金にしようよ。日経じゃないけど。 >>262
説明できないわけじゃない。
そういうところで起きる革命はマルクスとエンゲルスが考えた唯物論的条件を
満たさない革命であって共産革命やプロレタリア革命には経済的発展段階として
成り得ない、とだけはいえる。
そしてそのことはプレハーノフはもちろん、レーニンもトロツキーもスターリンでさえ
認識していたということもどうやら事実だった。 イギリスの発展モデル、または西欧の発展モデルを他の諸国にそのまま当てはめられるとか、
当てはめるべきだとか、マルクスが必ずしも考えていなかったということ。
例えばロシアでは西欧とは別の経路で共産社会に向かう道があるのではないかというナロードニキの
考え方をマルクスはどうやら否定しなかったということ。
しかし当時のロシアのマルクス主義者たちはロシアで共産革命が起きる唯物論的条件が整っていないと
考えていたということ。そしてそのことはどうやらトロツキーはもちろん、レーニンもスターリンでさえ
認識していたということ。トロツキーの永続革命論ではその問題が論じられていたはず。 ホテルのベッド病院もそんなのに適合する民族なんて
幻想だよね。ライトも建築もマスのインフラでおかしいよな。旅館民泊押し。
好事故魔多し。 喫茶店もバリアフリーにしてアンティークのユニヴェルソー障碍者用の食品タバコオン。 マルクス主義唯物史観のオーソドックスなモデルはこうでしょう?
つまり、
資本家に属する生産様式が支配的な社会=資本主義社会では、
最初、労働力が不可欠な生産要素になって労働者階級を生み出すが、
同時に技術革新が半ば必然化される。
技術革新は労働力を少しずつ代替する傾向があり、
一定の需要に対する労働力の節約をもたらす。
要するに、ロボットや人工知能が生産を代替してくれるようになる。
資本主義社会は労働者階級を生み出し、それを必要としていたが、
やがては労働者階級は消滅の道を歩むことになるだろう。
そうならなくても、人類にとって新たな選択肢が生まれる。
前者なら、労働者階級は窮乏する。後者の選択肢は共産社会を実現すること。
したがって資本主義はその発展のある段階で共産社会を実現可能にする。
これがマルクス主義の唯物史観だったはず。 何かを当てはめることは強制的だ。暴力加害のカテゴリー。 【ヘイトスピーチ】5ちゃんねるで在日韓国人男性にヘイト投稿、名誉棄損で2人に罰金10万円の略式命令 沖縄で初★6
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1549443287/
もちろんマルクスは
資本論などにおいて
資本主義の正体を暴露し、その否定を目指したのです
ただマルクス自身は、その否定がそれで完結などという事ではなく
さらにそれを否定して、次の発展を志向していたのです。
いうところの否定の否定による発展という事です
正しくマルクスは形式論理を否定し
形而上学に反したのです
そして機械的に社会が発展するものではないことも知っていました
ただ世界は否定の否定を通じて発展してゆくという事であり、現段階の諸条件が次の発展への条件となりうることは言うまでもないことです。 弁証法は圏論と関係あるそうですが、難しくてわかりません。 俺一応旧帝大の法学部だけど弁証法ってのがいろいろ本読んでんだけど全然理解できねぇ
ていうか人によって言ってること違いすぎだし
もうこれダメだな、弁証法を理解するのは一生無理だ 弁証法とは一体なんなんですか?どういうことなんですか?詳しい人教えてください
僕も全く理解できません ヘーゲルの体系と圏論ならまだわかるが
その弁証法はあくまでレトリックだから圏論を当てはめるのは違う
ライプニッツと圏論なら本質的だが
ヘーゲル弁証法はレトリックだからヘーゲルにとっても本質ではないということ
レトリックが大事ではないとは言わないが
無論マルクスの弁証法もマルクスの本質ではない
つまりマルクスの本質はその弁証法を除去しないと見えてこない
弁証法の問題点は例えば2×3=6で
6という結論で
2と3という過程が消えてしまうこと
ただし解決策はある
素数同士の掛け算ということに限定すればいい…
スピノザの並行論こそ本質
例えば国家と資本も並行関係にある
弁証法ではない
参考:
フランシス・ウィリアム・ローヴェア
Francis William Lawvere,1937~
Grassmann’s Dialectics and Category Theory 1996
https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-94-015-8753-2_21
グラスマン(1809- 1877)はドイツの数学者・物理学者・言語学者
以下は圏論を音階で解説しているが(英語)、
https://youtu.be/4fggq5U3Khg
圏論のイメージはこんな感じ
望月新一推薦のそっくりハウス
https://i.imgur.com/aqzlzL4.gif
https://video.twimg.com/ext_tw_video/1068148419133239296/pu/vid/640x480/FKZAEa43LzAEZrgd.mp4 弁証法とはある意味知覚の働き哲学者の血統特有のだから庶民は知らないでいい。
資本主義分析にも認知のバイアスがあるし、確かに試みは良いけど危険な問題作
となって読み続けられることも怖かったでしょう。
マルクスはどのような人達のために
著述をしたのでしょう
彼の業績を研究して生活する人達のためでしょうか
彼はそのようなことを夢にも考えなかったでしょう
自らの生活を守りより良い世界を目指して戦う人々の
その戦いの理論的思想的武器として
幾多の著述をしたのです
少しでもマルクスとその著作を理解するならば
それをひねくり回して「学者」ぶったり、ましてお金儲けをすることはないはずですね >>288さんが何をおっしゃっているんだか、さっぱりわからん。゚゚( ゚д゚)ポカーン >>294
ヘーゲルの弁証法は実は弁証法ではない
アンチノミーは揚棄されていないし、される必要もない
正しくマルクスは「学者」のために残したのではないのです
彼は労働者をはじめとする働く多くの人々とその未来のために、その戦いの道具として書き続けたのです
道具はいかに理解するかではなく、使うという事でなければならないのです
「学者」たちはどのように使っているのでしょうか
解説書を書きお金儲けする「学者」もいます
「講演会」と称してマルクスの解説をしてお金儲けをする日「学者」もいます
時には「教授」などとその席にあずかる人もいます
マルクスはそのような「学者」をどのように罵倒するでしょう
理解しているのなら「戦え」と >>297
向坂逸郎氏の「資本論入門」(岩波新書)は三池争議に参加した労働者に経済学を講義したものを土台にしてできあがっている。
資本論は労働者には難しすぎで大部。労働者にわからせるにはあれくらいにしなければならない。 ケインズが一般理論を刊行した時「この本はわからん人が多いだろうな。」と呟いたのはその通りだな。 土地所有を制限するだの労働組合を合法化するだのは数理の問題じゃなくて
社会規範、道徳の問題。そういう社会インフラを所与のものとして数理的にあつかう
ことに慣れてしまっている現代の学生には前提を疑くことの大切さを教えてくれる
教訓になるだろう。 >>295
アンチノミーが廃棄されない、というのがヘーゲル弁証法のミソ。 『賃労働と資本・賃金、価格および利潤』(新日本出版社)
『賃労働と資本/賃金・価格・利潤』(光文社)
あたりは労働者向けに書かれたものらしいね。
『資本論』よりはたしかに読みやすい。 >>302
馬鹿にするようで悪いけど三池の労働者は低学歴で向坂氏は「資本論入門」の内容を講義するのに聴講者に「わかりますか?」と何度も語りかけていた。
それに比して林直道氏の「経済学入門」は関西勤労者教育協会での講義をもとに書かれたものだが低学歴の労働者には難解。
マルクスはあくまでも
人々ととその未来とその戦いのために
資本論などを著述したのですね
いうところの戦いの武器として
つまりは「戦え」とマルクスは主張しているのですね マルクスが世界に浸透するのには思いのほか時間がかかるだろう。絶望的に。
マルクスらの生きた時代は
物的価値が圧倒的であり、また知的価値もそのもの的価値に依存していた部分も大きかったのですね
ただ現代では
物的価値とともに時には知的価値のほうが大きい場合もあるのですね >>299
あんな脱線だらけの本は誰も理解できないし
近経の学者はもう誰も読んでないだろ ケインズの著作としては出来はよくないね。
大々的に叩かれることを想定して
予防線を張りすぎてるんだとおもうよ。
けっきょくソレは杞憂におわったんだけど。 なにしろ金融資本家や産業資本家に蛇蝎のごとく
嫌われてたマルクスを称揚してんだもの
勿論当然のことだが
マルクス自身の認識に気に時間的空間的制限があったことは否めないのですね
わかりやすい例が日本の徳川時代の金融資本の発達とかその信用制度などですね
明治政府が破たんしなかった恐るべき当時の金融政策ですね
もちろん今も日本の為政者たちはこの手法の優位性を使っているのですね
尤も明治政府は帝国主義的解決策を持っていたのですが
今の政権にはなさそうなのが恐怖ですね >>308
根井京都大学教授なんかは読んでるだろう。 >>308
連投すまん。
丸山徹慶応大名誉教授も世界書院の経済原論と価値と資本と経済分析の基礎とともに一般理論を学部時代何十周と読んだという。 研究者は特殊なことしないと博士号とれないからなw
しかしプログラムのOSを書く人が数名いたとしても
すべてのプログラマーがOSの基礎を徹底的に学習
しなければならないわけではない。学術はすでに
緻密な分業の世界にあるのだから。 >>308
連連投すまん1984年度の慶応大浜田文雅ゼミで一般理論を読んでいる。
ゼミOBの千田亮吉国際商科大(現東京国際大)非常勤講師と修士課程の前多康男氏が参加していた。
千田亮吉は現明治大学教授前多康男氏は慶応大教授。
浜田慶応大名誉教授は研究を引退している。 >>312
イの一番に経済思想史家の名前が挙がってくる時点でお察しだな >>316
近経の学者じゃないけど飯田裕康慶大名誉教授はゼミで一般理論を読んでたな。 >>316
連投すまん。根井さんは伊東光晴京大名誉教授のお弟子さんだから近経筋だろう。 >>319
根井さんって何か理論で論文書いてたっけ? >>320
西村周三先生と共著の「現代経済学の再検討」というのがある。 くろしろー だけど多分来年の発表の群像新人文学賞と芥川賞をとるから
よろしくな
ノーベル文学賞平和賞をとる。 >>321
それ伊藤光晴先生の退官記念論文集だけど読んだの?
確かにマルクスは発展を志向し
それが内部矛盾を原動力とした存在の形式であり、また発展の原動力と考えていた
それは時に否定の否定という形式を表すという弁証法的なものという事でもあった
マルクスは資本論を通じて
資本主義内部における矛盾をあぶりだし、それが新た発展をもたらすものでも売ることを主張した
勿論その形式の一つが労働者階級と資本家との対立というものでもあった。 矛盾が出来たのは後からだろう。矛盾を解消しても影響力は微細か。 マルクスを読んでマルクスと同じ見解じゃなくて何かしら新しい洞察を思いつき
書き留めておくといいと思う。
もちろんマルクスは思弁かではなく
ラディカルな自らの学説の更なる発展転化を求めています。
それは言うまでもなく彼の対象として実態と現在の実態とが本質的には同じでありながらも形式的には大きく異なっているからに他ならないのです。
マル径を学ぶということ自体
マルクスの時代と今日の相違を知ることを求められるという事です。
いうところ坊主主義者のように「経典」なるものの解釈に勤しんでいるものなどは
マルクスの嫌悪する者たちだという事です。
マルクス的原点に立てばその者たちこそマルクスの仮面をかぶった半丸ルクス主義者だという事です
マルクスは求めているのでは
マルクスの業績の発展転化を 自然つまり人間という自然と資本主義文明との軋轢が書いてあるから、
お互いに間違っているだろう。
正しくマルクスはその思考の根底に
発展転化を求めているのです
マルクスの著述を一言半句理解するのではなく
それを実在世界の中でいかに発展変化させるのかという事を求めているのです
「正しい」なることはその実在世界の長手の発展転化の中で
発展てかで存在することであり、その発展転化こそが正しいという事です 日本のネトウヨは経営者や官僚や知識階級にその中核を担っているので、
つまり保守派の中にかなりその根っこがあるので、
若年失業者を中心とした欧州のネオナチとはかなり傾向が違っている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています