アートのぎりぎりを探求したいスレ
このスレは、某荒らしスレの内部で行われた議論とコミュをもとに 新規にスレたてしたものです。 「これってほんとにアートなん?」 「そもそもアートってなんなん?」 「うんこって綺麗なん?」 こんな素朴な疑問を酒の肴にしながら、あーだこーだ話をするというアバウトなスレです。 (あと、ラピスラズリーという荒らしに対する牽制かつ警備員の詰め所でもあります。) では、皆さま、どうぞよろしうに。 前スレ http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1308382790/ 姉さん。世界ランキング第四位のスタンフォード大学が出す情報に、いまだに日本国内は 脆弱さをもっているようです。私の「美の概念」のコピーは25ページまであるのですが、 今のところ翻訳を終えたのは4ページだけです。 専門家の方々は独自の手段で全訳を所持していると思いますが、このスレを利用して 25ページの全訳を行っていいでしょうか。 「美の概念」スタンフォード哲学百科事典。 http://plato.stanford.edu/entries/aesthetic-concept/ 「美の概念の要約」 とにかく、人間が「美しい」と感じるのは「直接的」である。他人に薦められてとかいうもの ではない。しかし、「その道」の探求をした者しかわからない「美しさ」もあり、とにかく 「興味がある」という点も重要だ。 「美しいもの」「美しいふるまい」「美しい判断」「美しい経験」 この4つについてまとめた論稿がこれである。 女性の美しさから始まって、三島由紀夫の自殺の美しさまで、幅広い議論の基礎にある 研究だと言っていい。 序文:人々が「美」の概念と「特別なもの」の概念を明確に区別したのは18世紀末だとされる。 「美しいもの」をどのように評論するのか、どのように賛否が分かれるのか。 あるいは「美しいふるまい」と「合理的なふるまい」はどう異なるのか。 「美しい経験」とは、何かの型にはまったことを意味するのか、それともある現象に直面 したことを意味するのか。 「特別なもの」と「美しいもの」を区別する議論のたたき台になったのは西洋の絵画であった。 しかし、いろんな方面に発展した哲学的議論である。 美術鑑賞を自分の様々な美意識まで発展させるのにふさわしい研究です。 英語のできる方の協力を求めています。 「合理性」と「美しさ」の比較、 「エゴイズム」と「美徳」との比較、 こういったものが「美術鑑賞」の研究と深くかかわっています。 「合理主義」は「美しさに説明を求める」という特徴がある。これはデカルトが 数学こそがあらゆる言語よりも説得力がある、とした考えに由来するもので、 18世紀には完全に人々はこの考えに支配されたと言っていい。 しかし、これはヨーロッパ大陸系の考えであり、イギリスでは次第に批判が出るようになった。 「美」とは「味わうもの」であり、原理や概念を超えているのではないか、とされたのだ。 つまり、イギリスで「美しさとは直接感じるものである」という発想が生まれたのだ。 イギリスでは、良いものは直接判断できるだろうという主張があり、たとえば、 コックが、肉や野菜をごたまぜにしたシチュー(ラグー)を、独自のレシピで 作っても、それをおいしいというかマズイというかは我々にまかせられているだろう、 とされた。ずいぶんイギリスでは大雑把な議論がなされたが、大陸の方では カントがこれを引き継いだ。詩人が作った詩に誰も共感しなくて、批判が浴びせられたら、詩人は布団を 頭からかぶって黙っているしかない。どんな芸術も人々がどう感じるかに 委ねられているという意味で、イギリス側の「美の直接性」という説明に同意する、 としたのだ。カントは、そのような場合、その詩人の寄って立つ立場より優れたものが存在する というものを認めるか、批判こそが間違いであるとして、より良いものを作るしかない とした。しかし、このような「美の直接性」という議論に対して、さらに「合理主義」の側からの 批判がなされた。ラグーに比べて、詩や絵画は複雑性をもっているとし、先人の業績や法則性に 満ちた世界であり、その評価もすぐには分からないことが多い、としたのだ。 「美は直接味わうものなのか」という論点は、デカルトの合理主義に、イギリスが 提示したものであり、それにカントが同調し、さまざまな論者を呼び込んだのだ。 「美の直接性」という議論は結局、ヒュームが結論をつけたと言ってよい。 芸術作品の評価は、その手法が確立していなければならず、その対象を いかに適切に評価するかは、理論の発展を待つほかはないだろう。 他の作品との比較や、多くの先人の業績の蓄積、その複雑さの解明が必要だ。 もちろん、大自然の美しさの表現にまで合理性を求めることはできないが、 「ファインアート」の世界では、やはり合理性が必要であり、また、その一環として 我々の感性が用いられるのである、としたのだ。 注)女性の「美しさ」も、自然に由来するものならば「直接感じる」ものであろうが、 「ファッション」「化粧」などの「ファインアート」ならば「合理的な説明が可能」 ということだろうか。しかし、美容整形も「ファインアート」だと言える。 どこまでを「自然」とみなし、どこまでを「ファインアート」とみなすかは性別や・その人 によってさまざまであり、俺は「ファインアート」すら「自然」に分類しているので 女性に付け込まれることが明らかになった。 (続き) 「美の概念」には、エゴイズムと美徳という観点からのアプローチがある。 たとえば、人々のエゴイズムは周囲に不利益をもたらすが、美徳は人々に安心を もたらす。そういう美徳にしたがった表現に人々は喜びを感じるのではないか、 という説が唱えられた。美徳の中に喜びを見出すのが「美」であるとするのなら、 それは「自分の利益だけを考えたものではない、私心のなさ」が「美」の根拠に あることになる。エゴイズムと美徳の観点の導入は「私心のなさ」こそが人々を 喜ばせるという観点を生み出したのだ。 芸術における「私心のなさ、公平中立」という観点も18世紀に一大論争を引き起こしている。 「私心のなさ」というのは感じるものなのかもしれないし、技術の探求の中に見出せる ものなのかもしれない。しかし、「私心のなさ」というのはモラルの問題でもあり、 モラルと美がどのように関わるのかが問題になってしまう。 モラルと美の関係が「美の根拠は私心のなさにある」という仮説におけるテーマとなった。 人々が「美を堪能したい」「喜びを感じたい」というのは自分の利益を求めているし、 アーティストが創作活動というアクションを起こすのも「表現したい」という自分の 利益を求めている。しかし、作品から喜びを見出し、美を見出すことの根拠は 「私心のなさ」にあるという仮説は、人々のふるまいや判断をその方向にもっていく効果が あるとされる。人々は芸術作品を見て「美しいふるまい」「美しい判断」がしたいと願うのであり、 そこにはやはり「私心のなさ」があるのではないかとカントは主張したのだ。 カントが「美の概念」の先陣を切る形で「私心のなさ」という仮説を打ち立てたが、 この主張は「概念として狭すぎるのではないか」と批判された。 美には「判断」「感情」「質」などが含まれており、感じたり、言葉で表現したり、 自分の内面や外部のいろいろなものから感じるものであり、ときに人々に「希望」 すら与えるものであることが明らかになり、「私心のなさ」だけで果たして説明可能なのか が議論された。しかし、今日にいたるまでこの仮説は根強く残る強さをもっていたのだ。 注)美容整形のCMで「世界平和」という言葉が流れるが、美は「私心」がないのであろうか・・・。 以下、この論稿は「美しいもの」「美しい判断」「美しい態度」「美しい経験」に関する 考察をして論稿を終える予定です。 実は、スタンフォードの「美の概念」の総論はこれで終わりなのです。 ブログにまとめておきました。 あとはみなさんそれぞれ専門をお持ちだと思いますので、各自で「美の探求」を なされてみてはいかがでしょうか。 「糖質〜趣味のブログ」 http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2011/07/post-dc72.html 私も自分の仕事があるもので、続きはかなりスローペースになると思います。 ご容赦ください。 ラピスの次は糖質かよ・・・ ほんと、学芸員さんがかわいそう。 >>13 おい、基地外。少しは迷惑考えろ。 誰もお前の公開オナニーなんか見たかねーんだよ。 >>13 糖質せんせい、たいへん素晴らしいダイジェストですね。 しかし、ここはナイーヴなスレ民が若干おりまして、 こちらの廃墟で討議を行いましょう。 特にアメリカの観念史や美学の展開は、ひじょうにおもしろいのですよ。 お待ちしております。 http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1311036640/ >>1 スレ立ておつです っていきなり糖質教授に占拠されたと思いきや、素直に誘導に従っている…素晴らしい 学芸員さん、 新スレたて、お疲れさまです! もうしばらくお話ができるかと思うとうれしいです。 よろしくおねがいします! >>18 いえいえ、スレを立てるのにそれほどの労力は必要としませんよw これからもよろしくお願いします。 その前に前スレの埋め立てをしないといけないんですけどねw 芸術=美の追求ではないところが難しいですよね。美しいものだけが芸術ならばわかりやすいけれど、一義的ではない。(もちろん、そうでなければつまらないですが)。 ある時期までは、だいたい芸術=美でよかったように思います(宗教画が美しくなかったら信者増えませんしね)が、デュシャンあたで崩壊したみたいに思う。 もともとアートの様式自体は、反旧態の繰り返しだったけれど、デュシャン以降はアートという概念そのものに反旧態の姿勢を取りはじめて、訳がわからなくなったような。 私はやっぱり、新しい思想云々よりも、美しいこと、他人には真似できないことが大切だと思うんですがね。 おい、俺が法律雑誌を読む時間も犠牲にして英文資料にあたったのに、 スタンフォードの情報を止めようとしたのは学芸員か? 随分ひどい裏切りだな。 お前のコテ生命が終わるぞ? 世界ランキング四位のスタンフォードがそんなに怖いか? 東大は26位だが、いずれはスタンフォードを抜くだろうと言われている。 これからは翻訳という形ではなく、理解したものを大雑把に書こうと思いますが、 総論で提示した「美しさとは直接感じるもの」「私心がない」という二つの観点を 我々は「極端までに推し進めたらどうなるだろう」という実験をすでに終えている ということが大事だ。フォーマリズムがこれを終えている。 我々は、科学の進歩などの時代背景の異なる時代に描かれた作品を 見ているのだから、その時代背景も考慮するのか、あるいはその必要はないとするのか という視点もある。 フォーマリズムは「過去の作品のデータの蓄積は必要ない」とまで言い切って この「二つの視点」を究極まで追求するという実験を行い、人類に経験を もたらしてその役割を終えている。 美術館に行ったら「係員にことばで説明してもらう」のが正解なのか、見ればわかる というフォーマリズムに立つのかの違いがあった。 20世紀の中ごろまでにはこの実験は終了したと考えられている。 それから芸術の世界は新時代に入ったのだ。 ケンドール・ウォルトンが「カテゴリー・オブ・アート」という有名な著書で、フォーマリズムを 批判した。彼は、ピカソのゲルニカをどう評価するつもりか、と論じたのだ。 「暴力的で、ダイナミックで、躍動感があり、破壊的だ」というのと、ただ「ゲルニカである」 というほど意味が違うではないかという点を指摘したのだ。 ただ「ゲルニカである」というのではそこいらの壁紙と何も変わらないとした。 フォーマリズムの時代に生きながら、ピカソは時代に全く異なるものを発信していたのではないか、 とウォルトンは論じだのだ。 ウォルトンは「美しいものを美しいと感じるという意味ではフォーマリズムは正しいが、 共通了解をもたなければ意味がない」としたのだ。 アレン・カールソンは「美術を鑑賞する際には、美術ソサエティの共通了解を知るべきである」とした。 クジラを見て、なぜアメリカ人はあれほど愛着を持つのかというと、ナチュラルサイエンスの 知識があるからであり、そうでなければ魚と哺乳類の区別はしないだろうとした。 アイゼンバーグは言った。たしかに、芸術作品がどのような基盤に立脚し、どのような 要素に分解できるかを評論するかは可能であるが、しかし、もしそれらに完全な法則が あるとするなら、私の仕事はもっと簡単になるのだが、現実の「美」はそんなに単純な ものではない、と。 >>21 たいへん申し訳ありません。 ラピスラズリーのスレ【美術館5】の削除を申請したのですが、【美術館5】だけでなく 糖質さんとお話をしていた【美術館4】まで運営がスレ立て荒らしだと認定し削除してしまったようです。 約束守れませんでした。 ごめんなさい。 しかし、芸術家にも「ランキング」があるだろう。これを評論家はどのように判断しているのだろうか。 アイゼンバーグは「一定の方向性を示している」とするにとどめている。 細部を分析し、パーツの構成を考え、対象のパターンをグループ分けするなどしている としているのだ。 >>28 まあ、いいですよ。おかげで英語文献に触れるいいきっかけになりました。 >>30 ほんとうにごめんなさい。 しかし糖質さんの翻訳はたいへん勉強になります。 >>29 などは、現在の美学のやってる様式分析の簡潔で的確な定義ですし。 美の評論と価値の評価の手法を詳細に展開したのは21世紀に入ってからフランク・シブレー が著書で明らかにしてからである。 かなり詳細な著書があるようだ。 >>1 スレ立て乙です! 目まぐるしくスレが立ったり落ちたり削除されたりで ちょっと迷子になってしまいましたw また楽しいお話よろしくお願いします! レイハラカミが亡くなりました。 日本を代表する電子音楽家のひとりでした。 残念です。 Rei Harakami - Come Here Go There http://www.youtube.com/watch?v=98FbCdnO7m0 フランク・シブレーに関しては、「シブレイ」と表記する人もいるようです。 英語表記は"Frank Sibley"となっています。 >>35 Frank Sibleyですね。 そのひとはあんまり日本では知られていなんじゃないかな。 美学やってるひとでも知ってる人は少ないと思う。 分析哲学の流れで「美とは何か」を研究してたひとです。 60年代から70年代くらいでしょうか。もう亡くなってるかな? 分析哲学の流れで美学をやるってのは、日本では少ないですねぇ。 観念史とか解釈学から美学へ、というルートはあるんだけど。 ちょっとボクにもよくわかりません。 たぶん「言語ゲームの対象としての美」とかって感じなんだと思うけど。 こんばんは、お邪魔します。 先ほど、クソバカラピスの乱立スレでやりとりをさせて頂きましたが、 あのスレッドの削除依頼が先ほどどなたかによって提出されました。 ですのでボケナスラピスの乱立スレが、さっくりと消される可能性が出ましたので、 先ほどの学芸員氏とのやりとりを、こちらのスレの方に再度貼らせて頂いても良いでしょうか? 学芸員氏の先ほどの書き込みを惜しむ声が、オカ板でも聞かれました。 自分も同意見です。 ラピスの阿呆の残滓と共に消すには、全く持って惜しいです。 というわけで、学芸員氏さえよければ、先ほどのレスをこちらに転載させて下さいませ。 よろしくお願いします。 69 :とある美術館の学芸員:2011/07/28(木) 20:06:43.04 なんでラピスみたいなやつが死なんのか。 才能のある人間が先に死んでいくのか。 つまらん。 70 :道化:2011/07/28(木) 20:18:07.59 >>69 アーティストというのは、大衆あってのアートでしょう? ラピスのような無能者は、大衆に飲み込まれる、その他大勢の一人です。 こんなクズバカだって、大きな目線で見れば、立派なアートの支えとなっているように思います。 つってもまあ、ラピスのような新興宗教の信奉者は往々にしてアートの迫害者ですけどね。 岡田茂吉なんて黴の生えた骨董品を持ち出して、偉そうにふんぞり返ってますから、 こういう輩が自分に理解の無いアートを殺そうとするのでしょうね。 まあ、そういう意味ではラピスは死んでも良いかもw あれ? 擁護できなかったw 71 :道化:2011/07/28(木) 20:18:54.19 ×自分に理解の無いアートを殺そうとするのでしょうね ○自分が理解できないアートを殺そうとするのでしょうね 77 :とある美術館の学芸員:2011/07/28(木) 20:57:18.53 >>70 ボク個人は「大衆」という言葉は好みません(もう大衆は存在しないと思っているので)。 しかし、いまでは良くも悪くもアートは、社会を構成する「個」が綜体として支えるものであり、 それを自明として成り立っていることはまず間違いないです。 しかし、ボクは、ボクの師ともどもに、もう少し自立/自律した表現を夢想してきました。 レイハラカミなどは、その自立/自律を果たしえた芸術家だったと思う。 ボクらがいなくたって、彼は、美しい音楽を生み出せたはずなのです。 (それは彼が学生時代に作っていたというデモテープを聴いたときに確信しました。) こんなうんこスレだけど、ひっそりリンクを貼っておきませう。 魂だけでも遠くまで行けるでせう。 yanokami - 終りの季節 http://www.youtube.com/watch?v=rMVebkaaZ84 yanokami - 気球にのって http://www.youtube.com/watch?v=IGtE5hAYeAM 小松左京さんも残念でした。 梅原猛せんせいより、よっぽどリアリスティックな文明批判をされていたんだけど。 『首都消失』も好きだった。 78 :道化:2011/07/28(木) 21:01:32.55 >>77 >ボクらがいなくたって、彼は、美しい音楽を生み出せたはずなのです。 んー。。。 聴衆無くして、音楽が成り立つとは思えないですが・・・ 経済的な意味では無く、根源的な部分で、全くの他者は必要では無いかなあと。 赤の他人がいなくて、音楽が成り立つんでしょうか? 79 :道化:2011/07/28(木) 21:05:55.68 作家が特にそうなんですが。 職業作家を成り立たせるという経済的意味では無く、 読者がというのは作家にとって無くては成らない存在だと思います。 読者が存在しない物語って、作家にとってどれほどの意味があるのかな、と。 って、此処まで来ると哲学的ですね。 ああ、なるほど。 こうしてスレの中で話題が広がり、他板への派生スレが生じるのもノなのかな。 ラピスの場合、騎士団ひとりという孤独な胸の中で、次々と話題が広がったようだけれどw 80 :とある美術館の学芸員:2011/07/28(木) 21:09:58.29 >>78 そうですね、それは「音楽」ではないかもしれません。 金の鉱脈のようなもので、誰かに見出されないとそれは「商品としての音楽」にはなりません。 アートはいつしかロジスティクス(物流)の上にしか成立しなくなった。 むかしはそうじゃなかったんですけどね。 それが誰かの眼に触れようが触れまいが、そんなこととは関係ないアートも存在した。 たとえば、多くの仏像なんかはそうですね。 衆目に浴するのはごく一部の仏さまで、ほかは秘仏とされていた。 ではそれが人目に触れないからアートではなかったのかというと、ボクはそうは思わない。 そこになにがしかの機能が存在すれば、それでいいのです。 アートをロジ(つまり「大衆」への商品化)だけで論じるのは、 ボクはアートの可能性を狭めるように思います。 村上隆てんてーなどは、ボクのような意見は徹底的に反駁するでしょうがw 81 :道化:2011/07/28(木) 21:13:06.68 >>80 ああ、なるほど。 誰の目にも触れられる事を目的としたわけでも無く、 自分の中から吹き出したモノを形にしたモノがアートであると。 とすれば、アートってその人の魂の具象化そのものですね。 そうなってくると、他者との比較って微妙な話になりますね。 その人だけが出せるユニークやオリジナリティに評価をつける事と、 アートの価値ってのは違うっていうか。 って、脱線、脱線w。 82 :とある美術館の学芸員:2011/07/28(木) 21:13:54.64 >>79 アートが他者を必要とするというのはたしかなことです。 しかし、それはなにも具体的に生身の他者である必要はない。 1000年前、100年前、100年後、1000年後の、まだ見ぬ誰かにあてたものであってもいい。 ということは、それは仮想上の、決して出現しない他者へ向けたものでもいい。 アウシュビッツのガス室で死んでいった無辜の人々への芸術は存在しうる。 しかもそれはきちんとこの世界で一定の機能を果たす。 他者とは誰のことか。 すぐれたアートはいつでもそれを問いかける。 目の前にいる誰かに向けたものだけがアートとは限らないのです。 アールブリュットなどはそのようなアートですね。 83 :とある美術館の学芸員:2011/07/28(木) 21:17:07.12 だからね、レイハラカミの無垢な電子音が、 これからこのしょうもない世界にどう響くのかを知りたかった。 フクシマでのライヴ配信をほんとに楽しみにしていたのに。 84 :道化:2011/07/28(木) 21:17:26.69 >>82 無名の仏師達の話じゃありませんが、 彼らが向き合った他者とはその心の内にある「仏」であったり、 その仏に手を合わせようとする、誰ともしれぬ人々であったのかもしれないですね。 85 :とある美術館の学芸員:2011/07/28(木) 21:25:38.54 >>84 そう。 アートが必要としている他者を、目の前にいる誰かに限定する必要はない。 カフカなどは、自身の創作の動機についておそらく書いた奇妙な短編のなかで、 それを「〈誰でもない者〉とのピクニック」と喩えています。 〈誰でもない者〉という他者をカフカはあの時代にすでに想定していた。 それが大戦後の、つまり「アウシュビッツ後の」文学者たちに衝撃を与えたんです。 もちろん目の前にいる他者も大事です。 でもアートは、いつもそれを超えようとする。 アートである条件はいつでもそこに「拡張」があるかだと思っています。 いろんなものを超えて超えて、その先でどんな他者と出会うか、アートは問いかける術です。 86 :道化:2011/07/28(木) 21:34:21.48 >>85 時代を超えてゆく術、ですか。 それがアートなのか。凄いなあ。 てか「見いだされることすら必要としていない」ってのが、凄い。 完成されたモノとしてただ存在し続ける有様は、超越者みたいだわ。 一種の悟り? 87 :とある美術館の学芸員:2011/07/28(木) 21:47:09.48 >>86 悟りではないかもしれないなあ・・・(悟りというものをよく知らないんですけどw) 人間はいろんなところにボーダーを引くでしょう? 時間を区切ったり、自然と人工を区別したり、国境線を引いたり、観念を厳密化させたり、 男/女・子ども/大人を区別したり、善いことと悪いことを分別して裁いたり、 野菜やお肉やお魚を陳列して、本は本棚に並べて、CDやレコードをアーティスト順に並べてみたりする。 アートはそういうボーダーを越えてようとする意志を表現する術です。 むかし秘仏で20年に一度しか御開帳されなかったけど、いまは美術展で全国を巡回する。 それは仏さまもアートだからです(その機能が変わったのです)。 資本主義も拡張という点では同じ運動なのですが、その運動原理が違う。 資本主義は本質的に倫理的です。 しかしアートは反倫理すら含む点でアナーキーだし自由な運動です。 資本主義は生身の他者を相手とし、そこに干渉しますが、 アートは生身の他者を超えていく。 こういうことを考えながら、音楽聴いたり映画を観たり本を読んだり美術館に行ったりすると すごく楽しいかもしれませんw http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1311802390/69-87 どういたまして! あの逆上具合だと、ここもバカに爆撃されるかもしれません。 が、いつでもお越しくだしあ。 お待ちしておりましあ。 絵画も結局は形而上学よりもスポーツに近いと思うね。 道化は難しく考えすぎなんだよ。 ピアノを弾いてみればアルゲリッチの速度についていけないことは分かる。 絵画だってこのレベルにはついていけないというのがあるだろう。 スポーツ以外の何物でもない。 法律学だってスポーツだからな。 >>48 芸術と技巧の問題はいろいろと複雑なんですが、 スポーツと同じ部分はあるにしろ、スポーツとまったく同じものではないと思っています。 社会的機能の根っこが異なりますから。 でもおもしろい観点だと思いますw 専修大学文学部の伊吹克己教授って、松戸に詳しすぎ。 「ジャック・デリダ」 ワケわからないけど殺し文句として使われる著名な哲学者だと思うだろう。 実際に、戦後のフランスでは哲学の猛者が8人ぐらいいて、そのモンスターたちの 洗礼を受けているのがデリダなのだ。 彼は、人々が同じ出来事に同じリアクションをするのは「機械とどう違うのだろう」と 考えたり、以前経験したことの蓄積から今後が予測できるのはなぜだろうなどと 探求した。また、秘密を共有するというのは仲間の証であり、宇多田ヒカルの "Can you keep a secret."もデリダの聞きかじりから作品ができている。 俺は、民主制は広がりをもつことを志向していて、情報の共有から始まり、 決定するのに時間がかかるが、君主制は、秘密裏に事が運び、判断が非常に速い というデリダの指摘を受けて、俺の行動方針を決定したくらいだ。 君主ファクターがおのずと定まるのだ。 デリダについて日本のわけのわからん議論をスルーしたい人はスタンフォード哲学を読みましょう。 「ジャック・デリダ」スタンフォード哲学百科事典 http://plato.stanford.edu/entries/derrida/ デリダにとって「最悪」とは、他人が自分の示した方向を見ている、自分の考え以上のことを 言わない、満足いく答えしか返ってこないことである、とする。 つまり、「大勢」であることを抹殺する「単一性」を「暴力」と呼んだのだ。 デリダの言う「最悪」とは「純粋な現実」であり、神であり、地球であり、とにかく「一つ」であることだった。 デリダは2004年に亡くなっているが、2001年の9・11テロは目撃していた。 彼は「グローバリゼーション」というものが「単一性」を志向していて、これ自体が 暴力であるとし、テロリズムはこの文脈で起こったものだと説明したのだ。 デリダは「グローバリゼーションには人々は、まるで機械のように、遺伝子が自動的に 拒絶するだろう」と言ったのだ。 彼は「自分自身」に大勢の他人をも含めてしまうことを「単なる自分だけの自殺にとどまらない 集団自殺」と呼んだのだ。 現在の国際情勢を最近まで注視していた哲学者だった。 デリダは、「忠誠心や知識」「宗教」といったものを、この「最悪」である単一性から どのように解決したらいいのかを探求した。人はもっと他人と距離を置いて対話を すべきであり、神とすら距離を適切に置くべきであるとしたのだ。 そのうえで、彼は他者とのかかわりは「手厚いもてなし」(ホスピタリティー)によって 行うべきではないかとした。 デリダは、プラトンを徹底攻撃することから「脱構築」の議論を始めている。 プラトンは「見えないものや記述されたもの」を「見えるものや感じるもの」よりも すぐれたものとして「対になっている」としたのだが、同様に「本質と外見」「霊魂と魂」 「生き生きとした記憶とうすれゆく記憶」「声と文字」「究極の善と悪」などと「1対1」で 対置している。 一つのものに対して「一つのもの」しか対置できなかったプラトンを攻撃したのだ。 デリダは、法に正義を求めるうえでも、あくまでも「今」の正義か正義でないかしか 判断できないとした。その判断も批判にさらされて新たな正義を探求しなければならないとしたのだ。 人間は判断できないことを判断しなければならない。そもそも「地平」というものが 夜明けを待つものであり、まだ夜明けの来ない暗い中で限られた知識で判断をせかされている。 それが人間の「判断」であるとするのだ。 法律の世界にデリダはそれを見出している。 それはあらゆる分野に広がりをもつ考えだったのだ。 ラピスくんの狂気がなにげにおそろしいわけですが、 あんなのとはとりあえずえんがちょして しばらく放置していたこのスレに、ひっそりレスを残しておきます。 Martin Beckaという写真家がカロタイプで撮影した現代ドバイの写真です。 たいへんすばらしい。 レトロフューチャーというのはこういうものをいうのであります。 Martin Becka photographies http://martin.becka.pagesperso-orange.fr/page1/page4/page4.html カロタイプというのは、いまではほとんど忘れ去られた19世紀半ばの写真技術で、 ダゲレオタイプと湿版写真の過渡期に現れたものです。 よく炎熱のドバイで撮影できたな、とか思います。 薬剤的に問題はなかったんだろうか。 古いテクノロジーを用いることで、この特殊な美が生まれたということは示唆的ではありますね。 >>55 かっこいいな。 ドバイがかっこいいのか、写真がかっこいいのかw >>55 ほわー すごいねえ。 昔の写真みたいだ。 だけど、これ、現代のドバイなんでしょう? すげえな。 >>56-57 ある意味「昔の写真」です。 18世紀半ばのカロタイプというカメラの一種で撮影したものです。 フィルム(にあたるもの)も印画紙(にあたるもの)も、 Martin Becka氏の手作りだと思います。 (市販されてないし。) まるで地球の光景に見えませんね、異星の街を撮った写真のような・・・ 「目」を変えると、普段の光景が変わって見えてくる。 カメラというのはそういう技術でありますね。 >>36 姉さん。フランク・シブレイの洋書を注文しました。そもそも「美は言葉で説明可能か」 ということは、「言語学は心理学を基盤にしているのか」という議論ともかかわってきます。 フッサールは、人間の心は「言語学の三段論法のように明確ではない」として、 人間の心が抽象的である以上、言語学は心理学を基盤にはしていないとしています。 いろいろ議論のある論争ですが、「美をどこまで言語化できるのか」という評論集 みたいなものでしょうか。 とにかく、シブレイの本が届いたら読んでみようと思います。 あと、ギャラリーの方に「水彩画」に関する資料集を送らせていただきました。 シブレイの本が届きました。目次と序文だけ読みましたが、彼が残した論文集を 本にしたもののようです。「色について」「独創性と価値について」「形容詞の研究」 などが議論されていますが、シブレイの「モナリザ論」を簡単に書きたいと思う。 作品というのは、やはり誰が書いたか、いつの時代か、どういう背景があったか、 を論じなければならないという視点が重要だ。モナリザはいろんな意味で時代に 新しいものをもたらしている。 色の配置や奥行、形、ラインだけでなく、背景にはダヴィンチの修練や技術が 詰まっているのだ。たとえば、彼は、ブラシやパレットナイフというものをこの作品で 絵画の世界に持ち込んでいる。 そういう歴史的意義を研究するからこそ、模写とはエックス線を使ってまで 区別しなければならないとするのだ。 シブレイは「色」についても詳細に論じている。まず、「あれは緑色だ」という証言が あるとする。多くの哺乳類は色を認識しないとされているが、人間は「色」という パラダイムをもっており、これが重要な情報として扱われている。 自然に存在するものとしては「エメラルド」があるが、人間はあくまでも「色」という パラダイムで「緑」という概念をもっているのだ。 これが彼の議論の出発点だ。 「色」に関しては、人類をさかのぼれば、最初はグレースケールで世界を認識していたと思われる。 明るい、暗いなどだ。しかし、人間は光が当たると色を認識する。他の人が同じ色を見ているかは 分からないだろう。しかし「赤」はルビー、「緑」はエメラルド、というように、いろんなものを 識別する必要性から「色」というパラダイムが生じたのだろう。 たとえば「グループAの経験」「グループBの経験」というものが「色」によってジャンル分け されたとされる。こうやってパラダイムは生まれた。若い女性がピンク色を好むというのも、 そういう「グループ分けされた経験」で何らかの位置づけがなされるからだと思われる。 興味のある方は"Frank Sibley""Approach to Aesthetics"をアマゾンで注文すると いいですよ。オックスフォードが出している本です。 (´・ω・)去年、東京都現代美術館でやったマシュー・バーニーのクレマスターシリーズがええな カントは「ファインアートは天才がつくるものだ」としたが、「オリジナリティ(独創性)」に 関しては、シブレイは「今の時代においては価値の一つの判断要素となっているに過ぎない」 としているようだ。 絵画の評論に関しては、その感受性やたくみな表現力でその深度を深めたのは モンロー・ビアズリー(Monroe Beardsley)だとされる。 評論の手法に関してはシブレイの本の第八章に書かれている。 ビアズリーは、評論をするうえで3つの観点の重要性を指摘した。 「作品の統一性」「複雑性」「その業界の価値が凝縮されていること」 この3つを常に頭に入れていたとされる。 シブレイはこれに対して「ドラマティックさの凝縮」も存在するのではないかとした。 たとえ単純なモチーフを描いたとしても、その業界での「誠実さ」「良心」「幅広い見識」 を示すことは「ドラマティックさの凝縮」であり、なにも歴史的瞬間などを 描くことのみを意味するのではないとしたのだ。 >>83 はじめてこのスレッドに来ましたが、たいへん参考になります。 今日からあなたの書き込みを楽しみにしています。 「写真が著作物とされる要件」 写真によって何を表現しようとするかの意思決定、被写体人物にポーズをとらせるための指示、 被写体風景の中からどういう構図を切り取るかという判断、あるいはシャッターチャンスをいかにうまくとらえるかの勘、 絞り等の工夫 が写真に著作権があるとされるための条件だ。 つまり、写真家にはこれらの要素に卓越した能力を有することを意味する。 デジタル技術の発達に伴い、従来写真の著作物の創作性を基礎づけた要素のうち、 露出、焦点などの撮影技法の点については、機械への依存が高まり、 個性発揮の余地が少なくなっていることも事実であるが、写真家は「これらの技術も把握している」 という指摘は可能であろう。 この「写真の著作権」に関しては、廃墟を好んで撮影する写真家の撮った写真を見て、 感銘を受け、その写真のデッドコピーではなく、同じ廃墟を同じアングルから 自分で撮影した行為が「物の配置などをオリジナルの撮影家が決めたわけではない」 として、著作権を侵害しないとした判例があるのだ。 ここ、今や2ch随一の荒らしになったラピスをヲチするスレでいんじゃね? なんか難しい話だなぁ 結局どこからどこまでがアートなの? 素材なんかは何でもいいの? 音楽の研究もしたのだが、歌詞のつくり方は「現実を抽象的に表現するのが主流」と スタンフォードの研究に書いてあって、確かにウォークマンを聞いたらそんな感じだった。 難しい話ではないよ。 アートってたんに、いままでなかったものってことじゃないの? 今までの文脈上なかったものとか、なかった視点とか。 あったものを時代に合わせて料理して DJのように提供するのはデザイナー。 俺はこれで説明付くと考えてるけど。 自然の中に突然現れる無機質な人工物ってアートだよね 新しくてまだ綺麗な砂防ダムとか見ると「スゲー」って思う >>136 じゃ、地動説はアートかね? ニュートリノの粒子が光速を越えたという「いままでになかった」論文は文学か? ちょっと違うような気がするんだよね。頭が悪いから自分でも分からないけど。 >>138 アートの文脈に乗せてないからアートではないのでは? 学問という文脈の上で発見された、今までになかったものなので。 「論文」という形式で発表されていること自体が、学問のフォーマット。 コペルニクスやOPERAがそれを「作品」というフォーマットで 展覧会で発表していればアートとなりうる。 アートの文脈って何? てか、アートを定義するために「アート」という言葉を持ち出しちゃ、蛇が自分のしっぽを咥えているよ >>140 アートの文脈って要するにアートシーンってこと。 日々進化しているから明確な定義はできないけど シーンは確実にあるでしょ。 たとえば日本でアートの文脈といえば 展覧会やフェスに出すことだったり、パフォーマンスをすることだったり。 芸術的評価というのは非常に面白いのです。 ベニスの商人で有名な「シャイロックのセリフ」というのがありますね。 「肉を何ポンド」がどうこうという。 あれはなぜ歴史に残るセリフになったのでしょうか。 答えは「あれほど憎しみの込められたセリフはいまだかつて表現されたことはない」 と当時の人々に受け止められたからです。 私の学生時代の民法の先生、米倉明もその本質はご理解されていませんでした。 一部の知識人だけが理解していたのです。 ピカソのキュービズムにせよ、印象派にせよ、いろんな画風はありましたが、 「12トーンシステム」に支配されていたとされています。 つまり、12トーンの絵の具しかなかったということなのです。 それを混ぜ合わせることはできますが、分類としては「12トーンシステム」と 呼ばれていたのです。 現代の画像処理技術はどうなんでしょうね。 ご存知の方がいらしたら教えてもらいたいですね。 クラシック音楽というのも、作曲家は昔の人ばかりですね。 なぜ現代にベートーベンに匹敵する作曲家は現れないのでしょうか。 基本的な構図は「ハイドン・ベートーベン・ストラビンスキー・バルトーク」という「ハイドンカルテットと83人の後継者」 が室内音楽の楽曲を作っています。 当時の国家レベルの資金を投入してこれらの作曲家が音楽を作り上げたのです。 そのため、「室内音楽において、同じ環境ならば、もはやこれ以上の作品は生まれない」 と呼ばれる世界がクラシック音楽なのです。 おカネの問題になってしまいます。 >>142 12トーンって、すごい広いよね。 12色なら分かるが、12トーンは全色じゃないか。 シャイロックのセリフ、かつてなかったということ、 こういうことだよね。アートはこういう知的ゲームだよ。 その時点で、今までになかったものが、アート史に残るからね。 数学と一緒だよ。新しい公式の発見が、積み重なっていく感じ。 誰かが発見した公式の、2番煎じは何の意味も無い、無価値。 なぜベートーベンに匹敵するうんぬんってのも、 こんなの簡単な理屈だよ。 どんな分野にも先行者メリットというのがあるの。 歴史が浅いほど、新しいものを生み出すのは簡単。 今もベートーベン級の天才はいるよ。 でもやりつくされている分、 新しいものを生み出すのが難しくなっている。 ただそれだけの話。 新しいのがいいのはみんな知ってるよ どういう条件なら新しさを認められるかの方が問題なわけで。 もちろん新しいだけじゃだめだよ。 文脈にのせた知的ゲームってことだよ。 解釈と一緒に提案されることが重要。 大事なのは「その業界への誠実さ」「技術のあくなき探求」だということです。 「なにか新しいもの」を狙うよりもそちらをまず固めないといけないですね。 たとえば「ブレダの開城」という絵がありますね。 あれは「強い相手に勝って最後に相手の忍耐強さをたたえ合うような勝負を美徳とする。 そういう勝負がしたい」というスペイン愛国主義を示しています。 この絵画に関する洋書を購入したのですが、ナッソー将軍の生い立ちから記述があります。 業界への愛がなければできませんよ。 「ブレダの開城」 http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2011/11/post-bb03.html 芸術は歴史の上に成り立っており、それらを踏まえていないと「新しい」ではなく、「珍しい」ものになる。 「性欲の研究」ハリソンの医学書。 まずは「リビドー」というものが性欲の発信源である。映像、音声、感触、想像などからリビドーは 生じる。ペニスに血液が流れ込み勃起する。これが射精を経て元に戻れば健康であると言える。 これを出発点に「性欲」は医学の研究の対象になるのだ。 医学書から凄い情報が入りましたよ。 男の性欲は「リビドー」が発信源ですが、 女の性欲は「子供を産みたい」という感情が発信源だそうだ。 重大機密ですよ。 これは。 みなさんも私のブログのアフィリエイトを踏んでハリソンの医学書を買うべし。 今後もブログで情報は出してやるからよ。 http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2012/02/post-1f5c.html http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2012/02/post-2d70.html 紫の方の医学書を私は情報源にしている。 確かになあ。 ドグラマグラは永遠の名作じゃなく永遠の奇書だ。 歴史踏まえてないからwww アメリカが軍事目的で研究した”SHINTO”という洋書を取り寄せたのですが、 「太陽信仰」「地蔵信仰」「コミュニティーで神社を支える」という三つが柱だとされ、 今では10万の神社のうち2万人しか神職はおらず、5つの神社を一人で担当するのが 平均だそうだ。 国家の資金で支えることはもはやできないので、「初詣」の賽銭が重視される。 あとは「町内会」「崇敬会」「奉賛会」もコミュニティーの神社を支えている。 明治政府の庇護によって神社は資金力を確保したけど、敗戦と高度成長により、 8万の神社を統括する神社本庁は「皇室崇拝」を資金源にするようになっている。 日本人に「宗教」と「真摯な気持ち」は区別されており、年中行事があることから、 この神社本庁が皇室崇拝を資金源としていることを理解しないといけないのだ。 神社本庁を見るということは「2万人の神職とその家族の生活」をみるということだ。 それ以外にも「町内会」「奉賛会」「崇敬会」にまで広がりをもつものだ。 敗戦による打撃を受けた日本の神社の生き残りを決めたのは三名の論客だ。 葦津珍彦、柳田國男、折口信夫。 この三名が神道の生き残りを決定づける論陣を張った。 1915年に明治神宮ができた時に、多くの日本人は神道が「発明された」と受け止めているのだ。 神武天皇という話もこれを理解しないといけない。 廃仏毀釈というのがあったが、明治維新において、日本人は「純粋な国家」としての新たなスタートを 望んでおり、この時に、すべての寺が糞尿にまみれて破壊されている。 この時に、神道と仏教の明確な区別が生じている。 新国家の幕開けが神道の背景にあるのだ。 日本は明治維新において新国家としてのスタートをするにあたって「過去の批判」を行わなければならなかった。 それがまさに「仏教ブランド」だったのだ。 これが廃仏毀釈だった。 「プリンス」 マキャヴェリは、君主に徳がなければ自分の子孫に権力を譲り渡す資格はないとした。 民衆は非常に卑怯な存在であり、醜い連中だとマキャヴェリは考えていたが、 彼らがしたがうのは「怖い」ものに対してであり、愛情にはしたがわない。 マキャヴェリは「武器の炸裂音」よりも「法律の力」に人々をしたがえる力があると考えた。 そういう国を治める基本から彼は「プリンス」に関して論じている。 統治作用がうまく行っていて、人々に安全が保障されていれば、君主には徳があり、 「プリンス」は世の中のいろいろなものを学習して、「時代の体現者」となれるのだ。 しかし、君主に徳がなく、世の中が殺伐としていれば、「プリンス」への権力の承継は 行われず、その威光も地に堕ちる。 時代の体現者は「国王」ではなく「プリンス」だとマキャヴェリは見ていたのだ。 時代を体現する「プリンス」が多様化するのはいいことだと思う。 権力を批判するプリンスがいてもいいし、権力に従順なプリンスがいてもいい。 女性宮家はしょせんは「男のため」の仕組みなんです。 あまりにも反撃がキツかったから、城一つじゃ足りなかったよw >>164 加筆しました。 戦後の神道を論じた学者に井上順孝がいるが、神道が純粋さを求めたのは近代であり、 中世の仏教や儒教が混合して出来上がったものだと明確に論じた。 国体概念に依拠するにせよ、柳田のようなフォークロアに依拠するにせよ、神社を利用する人が どのような意識で利用しているかに関しては、神道は明確な立場をとっておらず、 神社を利用する人も明確な立場にはもとづいていない。 神道というのは明らかに「近代の定義だ」とされたのだ。 国体概念・民俗学・神道セクトの三つがうまく合流しているのだ。 さらに、黒田俊雄は「神道は仏教が形を変えた」と主張した。これも「純粋な神道は近代の産物」 とする立場であり、日本古来から続くものであるとされたのは近代の産物としたのだ。 黒田は一方で、6世紀の仏教伝来以前にも神・神話というのがあることを論じた。 8世紀編纂の古事記と日本書紀にそれが記述されているのだ。 実際に、現在残っている神社はこれらの書物に記されている地にあることが多く、 しかし、建物の歴史は書物の記述より新しい。 だが、仏教伝来以前の信仰を基盤に神社が配置されていることは無視できないとする。 とはいえ、近代に神道が「再編された」という前提にそれらの事実があるとしたのだ。 神道は、神話や仏教や陰陽道といったものから何らかの発展を遂げたわけではなく、 これらと共存しており、古代思想を包摂するものであるという説明は近代になされたのであり、 神話のようなものも「近代社会に適合するように」ディストーションを経ているとされる。 神道の最大の問題は、「神、神話、儀式」などが、近代以前に既に存在したということだ。 このことが、近代の再編を経てしまったために、歴史研究を極めて困難にしている。 再編を経た神道が「昔からあるもの」とされてしまう陥穽が存在するということなのだ。 「キャサワリーは病気だった」 ゴルゴ13に「キャサワリー」という作品がある。女暗殺者である「キャサワリー」はレズビアン であり、ゴルゴが、それを見抜き、下半身をキャサワリーに露出し、 「見ろ。これがレスボスの女が怯えるロッドだ。」といって「ズイズイ」と前にでる。 キャサワリーは逃げ出すのだ。 医学書で「レズの女がロッド(ペニス)を怖がることがあるのか」と調べてみたところ、 「膣けい」という病気があった。「痛みをともなう膣の痙攣性収縮」なのだ。 キャサワリーは「レスボスの女」だからゴルゴの「ロッド」に怯えたのではなかった。 「痛みをともなう」という現実的な理由から、ロッドに怯えたレズビアンだったのだ。 医学書で明らかになったのだ。 http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2012/03/post-890a.html 「長征」 長征というのは、毛沢東主義の経験基盤であり、英雄体験と冒険が結果的に勝利に終わったという 物語であることから、非常に魅力的なストーリーだ。 1934年から35年にかけて敢行されたものだ。 しかし、この長征に関する資料が共産党のチェックを経ていて、実はその全貌はあまり明確ではない。 反毛沢東の立場から書かれた資料すら共産党のチェックを経てしまった。 基本的に、長征は3人から5人のリーダーがそれぞれのキャンプに分かれながら同一行動を とったとされ、そのリーダーの一人が毛沢東だったのだ。 彼らは土地を支配する理論やあらゆる理論に関する議論を戦わせている。 イデオロギー的には単一の「毛沢東主義」というものを長征が生み出したわけではない。 しかし、壊滅的打撃を負ったはずの共産党がよみがえったという物語であることは事実のようだ。 1980年代に中国共産党が長征に関する見解を決定してしまい、その全貌を明らかにすることが 非常に困難になった。 基本的には「左翼」対「毛沢東主義」の戦いであったとされるが、たとえば、「28ボルシェヴィキ」 と呼ばれるソビエト派のグループが実在しないのではないか、あるいは、ソビエトは当時は 毛沢東という人物に興味がなかったのではないかなどと指摘されている。 このことから、長征に関する出版物はいろいろあるけど、長征を「讃える」文献よりも、 「神話」に対して冷静な姿勢をとる記述の方が、より豊かな情報源になると考えられいる。 中国共産党は、長征を敢行する過程でリーダーを生み出していったが、ここで注目すべきなのは、 みんなを率いた人間を指導者としたわけではないということだ。 「成功を生み出す判断をした人」を、「その結果に敬意を払い」あとからリーダーであると承認したということだ。 「脂肪吸引の技術」 実は、超音波器具やマッサージなども有効な手段として認知されているのだ。 しかし、「吸引する」という発想が持ち込まれたのは1976年だ。 重要なポイントは「医者が筋肉の繊維をしっかりと把握している」ということと、 「筋繊維にしたがって体にマジックでラインが引ける」という技術を持っていることが必要だ。 そのうえで「脂肪はどちらからどちらに移動するのか」を理解していること。 それさえ分かれば「吸引するポイント」を一点に絞ることが可能になる。 施術中に患者の姿勢を変えながら、その一点で全部吸い取る技術が脂肪吸引だ。 重要な点は「筋繊維を把握している」ことであり、体にラインを引かせてみれば技術は分かるだろう。 なお、日本の技術では「患者の姿勢を変えないのが主流」とされていて、それではすべての脂肪はとれない。 関係者は「アメリカの技術には学ぶべきことが多い」と語っている。 http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2012/03/post-890a.html 「サディズムの研究」 我々は紳士の世界に住んでいるのではない。ボクシングを観ては興奮し、刑務所二は囚人がいる。 ディナーテーブルでも目に見えない言葉のやり取りが行われている。 これは日常の風景だ。 しかし、暴力的な衝動が「性的な快感」と結びつくことをサディズムという。 19世紀に、警察官を多く担当した医者が「奇妙な性的慣習の噂」を本にしたことが歴史的な業績とされている。 これを、「歪曲された天才」が文学にしたのだ。 それがマルキド・サドだ。 マルキド・サドは「暴力とセックスで使って快感を試したが、かろうじてノーマルだった」とも言われている。 彼は「望んでいない結婚」をしていた。 これが彼の出発点だったのだ。 売春婦に高額の報酬を払って暴力を行っていた。 さらに、家政婦を丸裸にして、暴力をふるい、窓から逃げた家政婦は大怪我をして裁判になった。 また、売春婦に「チョコレート」をプレゼントしたが、「スパニッシュフライ」という昆虫の粉を 混ぜていた。これを飲むと人間は激しい下痢をしたり、さまざまな精神症状を引き起こすのだ。 このようなことを実践して、それを文学にする才能が彼にはあった。 「天才的記憶力の秘密」 @覚えた時と思い出すときの条件を同じにする。 A感情を常に刺激する。 B意味のあるものを覚える。 この三つをスタンフォード大学が明らかにしている。 「俺が東大文Tに受かった理由」 @試験の時の条件と同じ時間空間を大量に確保した(机に座った) Aウォークマンを聴きながら心に軽い刺激を与え続けてリラックスしていた。 B集中して教科書の意味を読んだ。 これだけ。これで人生絶好調モテモテ。 「私が証明です〜東大法学部学生証」 http://www.youtube.com/watch?v=dlayLROvR-A 「奇跡の肖像〜東大法学部学生証」 http://www.youtube.com/watch?v=abiLEw-EWo0 小論文のテーマはほかにも「命」「人生」などがありそうなので機会があったら加筆しておきます。 たとえば「人生の意味」というテーマでも、 @超自然主義(神様が決めてくれた。魂が決めてくれた) A自然主義(私が決めた。環境が決めた) Bニヒリズム の三つの人生があるとされます。 そういう情報を載せていきたいと思います。 人生は意味に満ちた空間だ。アリストテレスは人間の行動を、アクィナスは美しさを、カントは最高の善を 人生に見出そうとした。 幸福や道徳をともないながらも、人間は最終的には「傑出した存在」として人生を終えたいと思っている。 どの人間もそう思っていると割り切って考えると、人間の行動が実に説明しやすくなるのだ。 戦場に行く軍人だって、病気にかかった年寄りだって、平凡な年寄りだって、平凡な主婦だって 「傑出した存在」として人生を終えたがっている、と説明してみよう。 今まで見えなかったものが見えてくるのではないだろうか。 人々が「傑出した存在」として人生を終えようとしているという分析は、小説などの研究から 明らかになったそうだ。 これを語る理由は、人間が徳を積もうとする動機や、家族の複雑な関係を説明するのに 非常に有意義だからである。 それを踏まえて、人々は人生を「意味に満ちた」ものにしようとするし、それに敗れたものは ニヒリストとして「傑出した存在」になろうとするのだろうとされる。 同じ生き物でも人間というのは「意味に満ちた」量が異なるのは明らかだろう。 意味の少ない人もいるし多い人もいる。これは現実だ。 彼らには徳があったから意味があったわけではない。同じ徳をもっていても意味のあるなしは生じる。 結局、「自分で選択したものの規範的価値」が違うのだとされる。 これが人生の意味を決めている。 正確には、「自主的な選択をする度量によって生じる美徳の価値への評価」が異なる。 人間は「自主的な選択をする度量」があれば幸せでも金持ちでもなくても意味はあると考える。 また、道徳的に正しくなくても「意味はある」と考えるのだ。 このことを理解することは、他の人間の行動を理解するのに非常に意味がある。 「環境の美しさ」 環境に美しさが哲学の議論の対象になったのは1970年代以降だ。 なぜかというと「環境の美しさ」を強調する人が現れたからだ。 結局、環境とは人間が整備したものも含むのであり、広い意味では「日々の生活」について 語ることである。 21世紀に入ってからは、芸術とは独立した領域で「人間活動」を語ることを意味している。 @18世紀の自然の美しさ。 A19世紀の自然の美しさ。 B20世紀の自然破壊と環境問題の緊急性。 C現代の環境問題〜知的な見方・一般的な見方。 D環境の研究の発展。 自然というものは、昔の人にとっては「風景」であり、あまり関心がなかった。 ここに、まず哲学が生まれたのが18世紀だ。 自然を満喫しようという発想を考えた人や、自然が人間に心の平穏をもたらすと考えた人が 現れたのだ。 カントが、それを「美しいもの」として、宗教や経済の領域のみならずさまざまな領域で 芸術に勝るものであるとしたのだ。 18世紀にはむしろ「自然に興味のない人」がいることが自然の研究に役に立ったのだ。 ヨーロッパ庭園やランドスケープがなぜ美しいのかも、大自然の荒々しさや危険も、 自然が「絵になる」という研究も、なぜこれらに興味のない人がいるのだろうという ことから研究が深まっているのだ。 複雑で、不規則で、豊かで、力に満ちている自然という「絵になるもの」が発見された。 「キリスト教の宗教画」や「女性の裸体」の世界だった絵画の世界に、「絵になる自然」というものが 一気に流れ込んでいくのは自然なことだった。 そういう自然が美しいと認識されたのならば、当然「美学」の対象になるのだ。 それが18世紀の自然だった。 19世紀に入っても、さらには20世紀においても、哲学が問題にしたのは「絵になる自然」 というテーマだった。 カレンダーやポストカードに自然の風景が採用された。 これらの美学をカントから引き継いだのがヘーゲルであり、ヘーゲルは「芸術とは絶対的スピリットの表現である」 として、その基盤を自然の美しさに求めたのだ。 この「自然には絶対的スピリットがある」というヘーゲルの議論で哲学的探求はいったん確立し、 それ以降の研究は進まなかったようだ。 ヨーロッパでは「自然の美しさ」の探求はいったん止まったが、アメリカの方でこの分野の 研究が一気に開けたのだ。 文学作品や、絵画だけでなく、自然科学の分野も開拓された。 地理という学問が発達したのも19世紀のアメリカだったし、地震や洪水のような自然の荒々しさ から地質学などの分野も発達した。 アメリカでは「美しさ」だけにとどまらない研究がなされ、また、自然への人間の侵略という発想も 生まれた。 20世紀には「自然の美」の哲学は完全に停滞してしまった。アメリカでは様々な活動が なされていたが、自然に関しては完全に哲学ではなく芸術の分野に議論のメインステージを 奪われていたのだ。 芸術の分野では「人工的につくられたものの美しさこそを追求すべきだ」とも議論されたし、 「自然をどのように二次元で表現すべきか」も議論された。 しかし、哲学と芸術の世界は対話を着実に進めていたとされる。 20世紀に「自然を感じる」ことを率直に表現したのは「朝日の光の中で小鳥のさえずりを感じる」 ことの感動を語った日本ぐらいだろうとも言われていた。 「意思の自由」 哲学者が意思の自由について議論したのは、多くの選択肢の中からなぜ人はこの選択を したのだろうか、あるいは、この混乱はどのようにもたらされたのだろう、という問題意識から 始まっている。 基本的に「道徳」と意思の自由の関わりから議論したのだが、その後、責任とのかかわり、 自分で決めたかったという発想、人の尊厳、何かを成し遂げたかった、あるいは愛や友情 なども含めて議論した。 結局、「そうしたかった」というのが意思の自由の出発点になったが、それが「現実」と どう関わるかが大事だ。 @現実とは無関係に人間は意思の自由を持つことができる。 A現実と意思の自由は共存している。 B現実こそが重要であり、意思の自由はない。 この三つの立場が議論された。 この研究に役に立ったのは、タレントがもつ意思の自由に多くの人が注目するという現象だ。 どのような意思の自由が魅力的なのだろうか。 なぜなら、それを観ている聴衆も意思の自由をもっているからだ。 そういう現象を見ることは「意思の自由」の研究を大いに深めてくれたのだ。 ミニマリスト(最小限の期待しかしない論者)は、人間は欲望にしたがって物事を 決めているとして、道徳的な責任についても考えていないし、他の選択肢の検討や 長期的な展望も持っていないとする。 さらには、過去の事実を踏まえることも、計画性も、将来の目的もなく物事を決めている としている。 「意思の自由」の議論はいきなりこの指摘から入っているのだ。 これに対して、プラトンは、人間は判断能力や自我があり、動物とは異なり理性があるとし、 「価値」を求めて判断しているのではないかとしたのだ。 人間は、動物的欲望を持ちながらも「今の環境でできる最も良いこと」を選択している としている。 アクィナスも、人間は「よいもの」のために判断しているとしたが、人間の「衝動」や、 精神活動に介入するあらゆる要素を精密には分析していないと批判された。 さらに、自由と責任に基づいて人間は判断している、というモデルが示されたことがある。 しかし、このような議論は、人間の衝動や他の外部の要素を考慮しておらず、 キリスト教社会において、「こういう人は尊敬に値する」という神学論・理想論として 提示されたものに過ぎないのではないかとされている。 自分が自分の主人であること、という議論がある。 欲望や信念を人間は、洗練された形で「自分の欲望」と整理することができるし、判断もできる とする。 たとえば「お菓子が食べたい」という「第一の命令」があるとしよう。 人間は「しかし、食べると太るから」と言って、お菓子を食べないことにすることができる(第二の命令)。 第二の命令にしたがった人間には「意思の自由があった」といえるだろうとしたのだ。 この「第二の命令」ができるかどうかは人間の「度量」や「容量」「余裕」に関わっていて、 第二の命令をどれだけ行う能力があるかが人間の高度さを表現するとしている。 また、人間には物事を受け止める「法則」があるが、それにどのように反応するかは 「リアクションをしてしまう弱さ」があるのではないかと分析した人もいる。 さらには、弱さがある以上、情熱によって物事を成し遂げる「強さ」もあるだろうとされた。 この、一般論で言う「意思の弱さ」「強さ」が人間にはあることが「意思の自由」と どのように関係しているのかが探求されたのだ。 さらに、「洗練された人間」は、外部のファクターや、形而上学を多用して、ストラテジックに 「原因と結果」を引き起こすことができるのではないかとも議論された。 結局、人間に「意思の自由」があるのかどうかという問題を考えるにあたっては、 人間の脳に「絶対にゆずれない領域」と「妥協の余地のある領域」があると考えると分かりやすい。 それを踏まえるといろんな説明が可能になるのだ。 この「絶対にゆずれない領域」にさまざまな形で「神」が関わっているのは明らかだろう。 「 糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y 」に告ぐ You は多分に精神を病んでいる。 早々に該当医療機関で診察加療する事を勧める。 このままではYou は重大犯罪を起す恐れが充分に窺える。 手遅れにならないうちに是非、絶対。 日本の大半のアートの認識の仕方って、 街で馬鹿がケンカしてるのをみて、したり顔で 「いまのは空手だった、いやボクシングだった。いや少林寺?」 みたいな議論してるのと同レベルだよ 昨日アーツ千代田で開かれた「アートと科学の方程式」(講義だと!)に 行ってきたんだが、なんだありゃぁ?出てきたのはアーティストでも サイエンティストでもない、専門のキュレーターでもない「自称エディタw」! これが延々2時間何の専門的内容もない「俺語り」を垂れ流すだけ! 「あたしってきれい?」「これっておもしろぉ〜い、ね?違う?」だけ。 クズ中のクズだったわ。深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く 失望し、激しく怒った。怒りが収まらないのは、こんな自称エディタの 俺語りに2000円も取られたこと。内容のあるものならいくらでも払うが、 ここまで酷いものに2000円も払ってしまったことに嘔吐感すら感じて 酷く落ち込んでしまった。サイエンスアゴラとかもそうだが、素人が 「サイエンス面白ぉ〜い」なんてやるのにロクなものはない。というか クズばっか。ケミストリだかなんだか知らんが、バカは結局バカなこと しかできないことを証明するだけ。少なくとも内容のないことで金を 取るな!詐欺っていうんだこういうのは。クズは死ね死ね死ね死ね死ね! 俺としても文章を出すのは簡単なんだけど、読みやすくデザインしたり、権利関係をまとめてもらうには やっぱり出版社の力は必要なんだよ。 コンテンツ力は作家にあるけど、エディタもバカにはできない仕事だな。 「スタンフォード大学に忠実なAKB論」 モーニング娘。までは興味あったから「恋愛レボリューション21」の解釈を発展させることができたけど、 AKBはついていけない。そもそも関わると火だるまになる世界だ。下から見上げる目線でないとアイドルは研究できないことが分かった。 AKBを見ていて思うのは「身内では女言葉は使わない」ということだ。つまり「父親を去勢させるための言葉を使う必要のない世界」 ということだ。秋元氏は非常に哲学にはなるんだ。 「できないこと」が女らしさのアイデンティティーだとされるのに対して、AKBのPVは女同士のコミュニティーでは 「女らしさを表現していない」「できない」ということだ。いきなりAKBってなんだよと思ってPVを見ると「キツイな」と思う。でも、 いろんな技術の一つの側面なんだろう。 児童文学は「ストーリーしか追いかける能力のない子供にいかに哲学的問いかけを混ぜ込むか」が生命線だ。 さらに「女性のライフスタイルの提示」は20世紀にはじまったことだ。「ストーリーを追いかける」「ライフスタイルの提示」などが AKBのPVにはあるのだろう。俺には関係のない世界だ。 子供は高校生あたりで「社会に認められたい」という段階を迎える。 そういうときに俺はクラシック音楽を聴いている。「認められたければこの水準だ」という事実をぶつけられているのだ。 肉体的に劣った男性障害者の前では女性は「女らしさを表現できない」とされる。 発展途上国は「先進国を映す鏡」とも言われ、 女児が生まれることは「脳に障害を持った子供が生まれたのと同じリアクションを親がとる」とされる。 そういう意味でAKBのPVは実に興味深い研究ができた。 「学校」というものは「世代を超えたセックスの防止」という機能を果たす場所であり、 そういう壁の向こうの風景を描くのが面白いという側面はあるだろうね。 いろいろな哲学にはなるんだよ。 いろいろと続編を書きたいのだが、皇室サイドが妨害行為をやってきている。 申し訳ないですが中断です。 俺が「政策と正義のリリースの実験」を繰り返すと言ったところ、 内田は敗北を認め、全財産を俺にゆずることを約束している。 「タバコを吸う理由」 答えは:落ち着くから。幸福感が得られるから。 だとされる。 つまり、タバコが吸いたくなるときは「心が落ち着かず、幸福ではない」ことを意味する。 俺は英語文献のこの情報をもとに禁煙をしたい。 タバコを吸いたい自分が「落ち着かないのか。幸せではないのか」と考えると、 英語情報信者の俺としてはタバコを捨てざるを得ないのだ。 「孤独」「卓越」「真実」と向き合ったKlamath Union High Schoolのプロモーションビデオ。 俺の実存主義の原点。 「Our Days」鈴木亜美 http://www.youtube.com/watch?v=s-aYUmpZ5Yw 「人を選ぶ技術」 まずは、いずれの観点に立つにせよ、ナチュラルセレクションの立場を頭に入れておかなければならない。 つまり「役に立つ」「デザインがいい」というファクターだ。 この二つは、結果の予測もしやすいし、強烈な理由になる。 しかし、それだけではないのだ。 五感の作用で分かる要素で選ぶのが普通だろうが、外見や、声、文字、いろんなものが考えられる。 これらを「経験」で判断し、また「方法」も考え、「説明」しなければならない。 さらには、「長期的」に考えるか「短期的」に考えるかという観点もある。 さらには「バックグラウンド」も考える。 そのうえで「いつピークを迎えるのか」という観点も必要になる。 また「禁止事項」も当然あるだろう。 これらの要素を踏まえて人間を選ぶが、見えない要素があることや、不確実性があること、 また、判断する側も選抜能力は絶対的ではないということも考えなければならない。 つまり、人を選ぶというのは、絶対的基準はないのだ。 「試験」「オーディション」「進化」などのいろんな場面で頭に入れておかなければならないことだ。 今日は、「孤独」「卓越」「真実」とどう向き合い、「不安」に満ち溢れた世界にどうアプローチしたか をまとめて、東大閥理論「なぜ俺たちは一馬身抜けたのか」という理論をまとめようと思う。 午前中にやる。 「卓越」というものは、優れるというものだが、「可能」と「偶然」の世界で突出することを「卓越」と呼ぶ。 実践の世界で優れることを言うのだ。 「成功の切り口」というのはどのように現状を認識し、科学的にアプローチするかを意味する。 己をコントロールし、戦術を構築している。 東大に受かる人間は無意識のうちにこれを完成させているのだ。 人間は決して常に居心地のいい環境にはいないものだ。その中で、自分の利益を追求する動物 として、存在する。その居心地の悪さを己に向けるか、他人に向けるかで「卓越」とのアプローチは 異なってくるのだ。 我々は、体重も背の高さも、肌の色も、人種も階級も、国籍も異なる世界にいる。 さらには心も信念も欲望も、性格も、家族のバックグラウンドも兄弟との関係も異なる。 そういうものに案外本人は気がつかないのだ。 他人の目線がそういうものを自分に教えてくれると考えたほうがいい。 そういう他人の目線が事実であるにせよそうでないにせよ、そうやって自分の現在地を知る。 そのような中で、ある「決断」を生じさせているということが「卓越」をもたらすのだ。 「俺はいったい何者か」と考えるのは他人の目線からもたらされる。 学歴やキャリアというものは抽象的な概念ではない。 選択や決断が行われていることを意味する。 選択は葛藤の中で行われているし、世界が「私」の前にどのように現れるか、どのような意味を持つかという 「プロジェクト」が組まれた結果、キャリアが生まれている。 「私は誰なのか」という問題を不透明な空間で考え抜いているのだ。 自分のアイデンティティを求めた結果として世界が自分の前に現れるのだ。 これを「ファンダメンタルプロジェクト」と呼ぶ。 「孤独」について語りたい。 「私は誰なのか」という問題は、他人が決めているということが重要だ。 自分の偏差値や世界ランキングは他人が決めている。 意味に満ちた世の中で他人が評価していることだ。 それは認めなければならない。 その環境の中で日常生活を送りながら「ファンダメンタルプロジェクト」は進行していくのだ。 集団の中において「私」はこれを行っていく。 ここに孤独の空間があるのだろう。 「真実」については、私が「なりたい」というものに対して向かっているファンダメンタルプロジェクトにおいて、 「何をやったのか」というものを「真実」と呼ぶのだ。 真実がなければ何者にもなれないという発想は理解しなければならない。 「やらなければお母さんや上司に怒られるから」という義務としてやったのでもいい。 どのような真実があったのかは義務であっても何でも構わないのだ。 義務でやったのならば孤独はあまりないだろうが統制はとれているはずだ。 孤独に遂行したのであれば強烈な統制を自分でとっているはずだ。 いずれにせよ、ファンダメンタルプロジェクトには真実がともなわなければ達成はないのだ。 どのようなプロジェクトを組むかは「自由と価値」を議論しなければならない。 快楽というのは「現在の」「いいこと」が続くことを意味する。 痛みというのは「現在の」「悪いこと」が続くことを意味する。 欲望というのは「将来」「いいこと」が起こることを目指す。 恐怖というのは「将来」「悪いこと」が起こることを怖れる。 この四つの「感情」の中で非合理的に道を切り開こうと志向するのが「怒り」である。 セネカは「なぜ人は怒るのか」という問題からこのように分析したようだ。 ストイシズムというのは「感情のない世界」を想定した。 ストイシズムの世界には怒りはない。 しかし、感情の世界とストイシズムの対比から「怒り」を分析したのがセネカだったのだ。 怒りで突破できなければ「恐怖」と「落胆」が待っている。 人間はどのみち「死」と向き合う。 全人類の宿命だ。 快楽、痛み、欲望、恐怖、すべてが死から逃れられない。 怒りでも突破できないのが「死」であり、そこに「落胆」がある。 不老不死があれば人間は怒りですべてを突破しようとするが、 「死」があるから人間には「落胆」がある。 このような分析から、セネカは「心の平穏」へのアプローチをしたのだ。 怒りというのは、周囲に非合理をまき散らすが、本人にとっては「適切」で「制御された」感情だ。 その場を強引に突破しようとしているのだ。 この研究で分かったのは、ボクサーも「うまく行かない時に怒る」ということだ。 「相手を怒らせる」というのがいかに合理的かが分かる。 怒りは「死」=「敗北」を前にやがて「落胆」に変わっていくのだ。 プロレスもバカにはできないね。「全能」という概念と深くかかわっている。 プロレスが好きな奴は全能を信じているし、そういう奴だという割り切りが哲学的には必要だ。 「全能」という概念は道徳的な完璧さと関わっている。 墨子の「迷信深い人は悪いことはしない」というような発想みたいな割り切りが必要な世界だよ。 プロレスというのは「不可能を可能にする」というパフォーマンスを表現して発信する世界だね。 そういう世界を信じるかどうかだ。 「全能」というストーリーをもった奴が「力で相手に勝った」「こういうことができた」という情報を 発信し、リリースし続けるのがプロレスなんだよ。 「俺のGold Skin(玉体)をモスリム(日本国共同体)のためにサクリファイス(犠牲)できる」(プリンス・ナジーム・ハメド・糖質) http://www.youtube.com/watch?v=fL7JNQg5eU0 「天皇とは何か」〜息子に送るメッセージ はじめに イスラム教においては、信仰というのは「世俗にもまれる」というのを第一ステージとして、 次に「己の肉体を鍛える」さらに「学問をする」そのうえで「再び世俗に帰っていく」という手法が信仰者の道とされている。 厳密には「学問」ではなく「神学」とされているが、日本国においてこれを受け入れるためには、 あえて学問であるとして、これを「天皇への道の基本」と呼びたい。 天皇という地位は人生のゴールではない。天皇には国家の情報が集まる。法律・政令・条約に玉璽を押す地位にある運用から 天皇は国家の情報センターとしての役割を果たす。 彼の鍛え上げられた肉体と頭脳はこのことから大勢の警備や要塞にまもられた「玉体」と呼ばれるのだ。 しかし、時代の主役はそのような天皇のもとで育った「プリンス」であるということは決して忘れてはならない。 天皇は国家の情報センターであるが、天皇になるものは必ず「プリンス」の時期を過ごす。 この時期に何を学習し、どのように時代と関わったかが重要なのである。 プリンスの時代が充実していればいるほど優れた天皇になる。 このことから時代の寵児はプリンスであり、天皇は情報センターという立場で国と関わる。 天皇の役割は「徳」をもつということであり、天皇に徳があれば彼は後継指名権を持つ。 通常子供は複数想定されているために、天皇の「徳」が時代によりよく適合したプリンスを選ぶ自由を保障するのだ。 詩と言うのは「誰にどういう居場所を与えたか」という観点が重要だ。 基本は「現実を抽象的に表現するリアリズム」が主流とされている。 この詩は「自分の心情」を表現するために、表現者の「神聖さ」が強く求められる。 神聖でなければ誰も自分語りは聞いてくれない。 さらに「表現の抽象性」が「普遍性」を目指す。 そのうえで「他人が理解できること」という要素が必要だ。 「居場所を他人に与える」「神聖」「抽象「理解」という要素を表現に与え、 その文字を適正に切り詰めてクリアに仕上げるのが詩だ。 普遍性を指向するのは学問であり、教育である。 「特殊なムラ」の表現者か、「普遍性」の表現者か。 「他人の理解」を目指しているか。 などのアプローチが詩の分析に必要だ。 ウォークマンを聴くときに、歌詞が「どんなキャラクターが」「どんなアクションをとっているか」を 聴いてみるといい。 その「キャラクター」と「アクション」が、生活や心を反映しているのが分かる。 それを踏まえて聴いてみれば上達すると思う。 俺もまだ研究中だけどな。 歌詞が「恋愛ドラマ」なのか「コメディ」なのか「悲劇」なのかを考える。 そのあとに「構成が統一されている」ことを知る。 そういうのを踏まえたうえで、詩のフレーズを出来るだけ「クリーン」にするのだ。 フレーズを選び「すべての情報は乗せない」という技術を使う。 そうやってテキストはまとめられていくのだ。 詩といのは世界のカタチや重要性を変えてしまうものであり、心に浮かんだ美の表現である。 その観点から言えば、自分のメッセージを和歌に託すという天皇への詩の献上は スタンフォードの見地とは相違するものだ。 詩では「妻や子への愛」のような神聖なものは直接的にはテーマにならない。 レトリックを駆使して悲しみを表現するトラジックポエトなどが知られている。 Fat Ugly Beer(糖質100%)〜どこに目をつけてんだ女。 http://www.youtube.com/watch?v=eDBywYtI04Q この男の可能性を見抜けない女はアホ。 ホメロスの詩は卓越している。ホメロスは人生の道と意思表示の方法を詩で示した。 知的基盤はプラトンにあったし、知識に求めた。 いかに賢く生きるかをあらゆるテーマで示したのだ。 戦争をする将軍、道案内、魚釣り、動物の育て方、ゲームの方法、その他、いろんなテーマで 「主観」をどのように置くべきかを、美しく、説得力があり、頭でイメージが動く方法で 詩にしたのだ。 戦争をいつ始めるかの主観も、運転をするときのルートの選び方の発想も、釣りをするときの頭の発想も、 ホメロスがすべて詩にしたのだ。 ホメロスより優れた詩はないとされた。 http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2012/05/post-20c1.html 神聖さと普遍性について訂正しておきました。 まず、詩の魅力は「神聖さ」にある。これは、健康で曇りのない目で見て広く共有されてきた物事を、 その伝統の共有を踏まえて、絶対的単純さで何をとらえるかを基本とし、それを、魅力的に表現する 技術を使うことによって生じるものだ。 この「神聖さ」は、その世界のことをよく知っていて、その表現力の的確さを人々に証明してきた人が、 新しい出来事に解釈を加えることによっても生じる。 人々は経験を基盤にしながらも、このような「神聖な」見解と自分の経験を統一させることで高度な学習をする。 これがほとんどベストだな。 http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/photos/boxing/m1270001.html アメリカ人の説明によれば、19歳の時の俺のフィジカルトレーニングが今の学問の力量に つながっているとされている。 今ならどう見ても原発放射能関連でのぶち抜けたアートだろ この論文の意味が分かる奴は「訓練されたベトコン」であり、分からない奴は「訓練されてないベトコン」である。 「動物園で注目すべきこと」 まず、動物に「言語と記憶のメカニズム」があるかどうかを見ると面白い。旭山動物園では 動物の性質を利用した面白い仕組みがいろいろ研究されているが、動物はなんの学習も せずに人々を楽しむパフォーマンスを繰り返している。 そういうのを見て、「こいつらは言語も記憶も学習もねえな」と思って見てみると面白い。 あと、もう一つは、本能が動物に出す「第一の命令」にしたがって動物は動くが、より高度な命令 にどのようにしたがっているかを見ると面白い。 餌がもらえるから高度な命令にしたがっていることがほとんどだと思うが、それ以外に より高度な命令にしたがうことはあるのか、本能以外の何かの命令にしたがうことはあるのか、 そういう観点から動物を見てみると面白い。 目的は餌だけなのか。「より高度な命令」という発想が動物観察を面白くする。 これらの発想は人間にも言えることだからである。 「小説の書き方の奥義〜大岡昇平と夏目漱石」 大岡昇平の言うところによれば、書き手はモチーフとプロットはコントロールできるが、 ストーリはコントロールできない。書いているうちに動き出してしまう。そして、 読み手はストーリを読むが、プロットは最後まで分からない。 たとえば夏目漱石も「三四郎」の予告(東京朝日新聞。明治41年8月19日)の中でこう言っている。 「田舎の高等学校を卒業して東京の大学に入った三四郎が新しい空気に触れる。 そうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触していろいろに動いてくる。 手間はこの空気のうちにこれらの人間を放すだけである、あとは人間が勝手に泳いで、 自ずから波瀾ができるだろうと思う。そうこうしているうちに読者も作者もこの空気にかぶれて これらの人間を知るようになることと信ずる。もしかぶれ甲斐のしない空気で、 しりばえのしない人間であったらお互いに不運と諦めるより仕方がない。ただ尋常である。 摩訶不思議は書けない。」 インターネットという空間を人々は「価値と利益」を低コストで得るために利用している。 ここで「価値と利益」を得ようとしていると割り切ってみると、 それを見事に提供したものが勝つことが明らかになる。 逆に言うと、このネット空間の参加者すべてが「価値と利益」を求めているわけだから 「こいつはどんな価値と利益を求めているんだろう」と思って参加者一人一人を見てみると この「価値と利益」という発想はものすごい切れ味のいい切り口だということが分かる。 聖書:新改訳 ルカ1:46 マリヤは言った。 わがたましいは主をあがめ 我が霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。 主はこの卑しいはしために 目を留めてくださったからです。 ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、 私をしあわせ者と思うでしょう。 力ある方が、 私に大きなことをしてくださいました。 その御名は聖く、 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、 代々にわたって及びます。 主は、御腕をも負って力強いわざをなし、 心の思いの高ぶっていj者を追い散らし、 権力あるものを王位から引き降ろされます。 低いものを高く引き上げ、 飢えたものを良いもので満ち足らせ、 富むものを何も持たせないで追い返されました。 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、 そのしもべイスラエルをお助けになりました。 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に 語られたとおりです。 「ほのめかし」の哲学〜確実さはないけど衝突もない。 http://plato.stanford.edu/entries/implicature/ この論文を翻訳して学習院大学の愚か者を動物観察しよう。 ほのめかしというのは、その言葉に対する相手の返事を求めるものだが、相手に嘘をつかせるか、 あるいは自分が嘘をつかなくて済む技術であるとされる。 自分より頭のいい人間に、プラグマティックに「〜すべき」ということを伝えるために、 非常に有効に「ほのめかし」は使われるとされる。 また、常に自分の発言に退路を確保しているとされる。 スタンフォードの論文は「ほのめかしの技術」まで研究しているが、そこまで立ち入らなくても、 「俺クラスの奴が入ってきたら他の連中はほのめかしを使ってごまかすしかねえな」 という世界が作られるということさえ理解していればいいだろう。 学習院大学の女は、不愉快な話し相手に「あ、鳥が横切ったからまた」と言って相手に嫌悪感を 伝えるそうだ。 そういうコミュニティでそのような言葉が用いられるのは「仲間としての一体感」を高める。 そのコミュニケーションの条件は、 @話の内容に真実を含むこと。 A情報が含まれていること。 B双方向であること。 Cあいまいさがなく、命令を含んでいること。 であるとされているようだ。 重要な点は「自分は嘘をつかずに」「相手が嘘をつくかどうかで」情報を得る技術として ほのめかしが使われていることをギリシャ哲学が認識していたことだ。 そして、これは相手に物事を命令することに活用されるのだ。 この、ほのめかしが「仲間作りのために使われていた」ということだけ理解しておけばいいだろう。 こういう技術はもちろん「永田町用語」などでも挙げられるが、自分は嘘をつかなくて済む、 退路を確保できる、相手に命令することができる。 というメリットを理解しておけばいいだろう。 女性の「オーガズム」というのは、哲学においては「痛み」に分類されているね。 「痛み」に関しては「痛い場所」と「主観」の二つの方面からアプローチするそうだ。 麻酔の哲学だそうだ。「痛い場所」を抑えるのか「主観」を抑えるかはまさに麻酔の基本哲学だ。 痛みの「場所」は量と激しさを発生させ、「主観」は痛みの経験として表現される。 これを研究するのが麻酔の研究でもあるし、場合によってはオーガズムの研究にも発展するのだ。 フィジカルなダメージやトラウマを細胞に与えることによって「場所」の痛みは発生する。 この痛みのメカニズムがオーガズムと同じだとされているようだ。あとは主観=経験の分析が必要だ。 主観が「場所のフィジカルなダメージやトラウマ」を「不快である」と感じるのが痛みの本質なのだ。 つまり、女性はオーガズムを「不快である」と感じているのが真相なのだ。哲学ではそのように分析されている。 痛みの「場所」と「主観」は緊張関係にある。周りから見えるものと本人にしかわからないものがあるからだ。 オーガズムという「不快なもの」も、他人が見てわかるものなのか、本人にしかわからない不快なものなのか というところまでスタンフォードは研究を進めているのだ。 精神病というのは「思考や経験、感情が混乱して仕事ができない。他者との関係が確立できない」人 であると定義されている。 これがスタンフォードの見解であり、知っておく必要があるだろう。 「仕事ができるか」「他者との関係が確立できるか」で病気のラインを切ろうとするスタンフォードの 姿勢はいいと思うけどね。 /::::::::::::: ─- ::::::| [`r' q i :::::::::::::: ].十[ ::::::| | :::| |ミヽ::::::::: _,,、----、{ ゝ ::::| (6`r'`ー'''´ -━- i^ f二イ ,r--───-----'^ニニユ;; 《;・;.》 |──-、....,,,,,r' | ( (_,,.r..三三)/f・・)、~~ i i| ~`=-''/ t. | `ー---─f''''' |:::...... イエエエフ|:: | i| | `ノ `--{ i| |:::::::f |fェェェェノ:: f ‖ レヲ-'´ `t i| ヽ.::::::`====':丿 r-''''' ̄ |  ̄ ̄ ̄ ̄ .i 糸冬 | H A N S H I N | 製作・著作NHK あなたが嘘をつくから. bobomaria: http://youtu.be/DbObDy5Se9k さんから この曲、エレガントで夏らしい曲です♪ 20代の頃に戻った様な感じです・・ 日本の一番良い時を想い出させてくれるメロディですね〜☆ 「案山子」さだまさし。 この歌は、大学に合格して上京した男と実家の「情報」の問題を扱っている。 家族というコミュニティーのどちらに正統性があるのか、便りをよこさなければカネも送らない。 実家としては、共同体のコンセンサスを作ることを要求しており、相互交流を求めて、 共同体の力の最大化と普遍性への志向を男に求めているのだ。 大学に合格して上京した人は、実家に普遍性を与えるために連絡はするように。 じゃなければカネはもらえなくなる。ファミリーの強さに関わるからだ。 http://www.youtube.com/watch?v=aeRWeAtvGj0 野田政権の大型プロジェクト「久里浜の夜明け作戦(オペレーション)」 GDPを糖質先生の思想を言論市場に投げ込むことによってあらゆる思想の世界に嵐を巻き起こし、 経済規模を発展させる作戦。 作戦司令部は久里浜御用邸にあります。 「スーパースター」マドンナ http://www.youtube.com/watch?v=vUZqg1mwBuA ブランド(糖質先生) マイケル・ジョーダン(DeNA) アルカポネ(右翼や中核派) アブラハム・リンカーン(野田内閣総理大臣) ブルース・リー(ボクシング界) トラボルタ(タモリ) ジェームス・ディーン(キムタク) すべてを制圧した次世代君主。 モンスター・マッチ・ポンプ 解説)タイガー・ウッズが、ガッツポーズをするともはやだれも止められないことから、 彼のガッツポーズは「モンスター・フィスト・ポンプ」と呼ばれている。 この糖質版が、「モンスター・マッチ・ポンプ」と呼ばれている。 これが起きるともはやだれも止められないのだ。 後方支援はスタンフォード大学と東大法学部。 「コミュニティーの力の最大化とフリーライド」〜くれそうでくれぬものなりの解決法。 コミュニティーがあるとすれば、特定の人物が優れたパフォーマンスを公的空間で 行う。周囲はその力の最大化に協力するのが正解だ。 そのキーパーソンの足を引っ張る奴はコミュニティーにとって有害でしかない。 そのうえで、ベストのパフォーマンスを行う人間を輩出する。 それがうまく行けばコミュニティーは、キーパーソンが行ったパフォーマンスから得たものを 自分たちがもっているものとうまく「交換」することでそのコミュニティーは安全が守られる。 その「交換」を行う手段は「民主的であること」に求めるしかないようだ。 その交換がうまく行くことを保障するのがうまくできたルールであり、それがなければならない。 他のコミュニティーに貢献しないメンバーだって自分の利益を求めて行動するが、 うまくそれをルールに織り込んでいかなければ交換はうまく行かない。 反則をやって交換を求めたならば道徳の問題と直面する。 道徳やルールにしたがって一部のメンバーが獲得したものと交換するのがそのコミュニティーの 安定と繁栄をもたらす。 必要なのは道徳とルール、そして民主的であることだ。 それなくして、分け前にあずかろうするのならば、その交換はうまく行かないし、 まさに「くれそうでくれぬものなり」で終わるのがコミュニティーというものだ。 うまく、道徳やルール、民主的であることを理解すれば、コミュニティーは繁栄するが、 高度な学問を踏まえなければならないし、いかにコミュニティーの力を最大化するかを 考えるリーダーが必要になる。 それがなければ自分の利益しか求めない他のファクターには失敗だけが残る。 道徳とルール、民主的であることを踏まえないと、突出した人間の分け前にはあずかれないのだ。 不満が残れば、いろんな意味でコミュニティーの失敗が待っている。 http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2012/05/post-ed91.html 「かもめはかもめ」は「死」や「敗北」がなければ人間の感情は何もかも乗り越えようとする哲学をうたっています。 「死」「敗北」があるから人間の「怒り」は「落胆」に変わる。自分で敗北をしっかりと設定して落胆している情景が鮮やかに描かれています。 http://www.youtube.com/watch?v=tYUCDfCj3c4 「夏をあきらめて」はいいですね。ゾロアスター教では「火と水は人を純粋にする」とされていますが、 水によって感情が純粋になった人間の情景をうまく表現しています。ゾロアスター教の普遍的な部分なのでしょうね。 http://www.youtube.com/watch?v=6EW-ULHepuY 「未来の思い出に」人生のピークに舞い上がらずに「魂と肉体の同居」を心掛けてこの曲を聞くと、 その人はおそらくモンスターに化けるでしょう。 http://www.youtube.com/watch?v=-R2ZLGv1GEA 「空も飛べるはず」「われ思うゆえにわれあり」(コギトエルゴスム)というのは、 自分の心の探求は「誰にも知られない安全な作業である」という意味です。 ヨーガはまさにデカルトのコギトエルゴスムの全知全能を感じる世界なのです。 人間が全知全能でいられる「内省」という作業は二つの「直接性」があります。 @心に自然にわき出てくる。A価値に頼らない。という作業です。 記憶はいい記憶も悪い記憶もあるので「内省」の作業では用いません。 この作業が人間を全知全能にします。ヨガで全知全能になれる http://www.youtube.com/watch?v=l7RSwnxathQ 「精神病」 思考や経験、感情などの混乱によって仕事ができないか、他者とのコミュニケーションができない 状態の人を言う。 このラインで精神病を切ることは非常に有意義であり、相手の悪口で「キチガイ」と安易に言うことは できないのではないかということになる。正確な理解が必要だ。 統合失調症や躁うつ病、うつ病などの病気が挙げられるが、時には自傷行為は自殺など、 自分に危害を加えることもある。 これらの病気の研究は西洋医学によって研究が洗練されたものであり、それ以外の地域では 別の説明がなされていた。 西洋医学でも、超自然的力によって引き起こされると考えられたようであるが、他の地域では 何かに憑りつかれてトランス状態になったのではないかと考えられたようだ。 西洋医学が翻訳されてから病名が定着するようになったのが正確な理解だ。 昔は、薬の効果も明確ではなかったために、精神医学なんて錬金術だという指摘もあった。 精神病という外部からは分からないトランス状態の人を「治療する」といったら、医者は まさに錬金術のように金儲けをしているだけだという指摘がなされたのだ。 この指摘は極めて重要だ。 治せないのに薬を投与したり高額な施設に閉じ込めたりするのならばまさに精神医療は 錬金術と同じだとされたのだ。 心は、肉体とは異なるものであるとして「病気ではない」とする見解はしかし共通認識には ならなかった。 なぜなら、精神病患者は、ホモセクシュアルや幼児愛、反社会的人格障害のように 「文化の一員になれずに道徳的判断もできない」という意味では、健常な状態ではない という意味では見解は一致していたからだ。 また、ディスチミアのように「低いレベルでのうつ病」という中間状態が精神病患者と健常者 の間に存在することも指摘された。 精神病を研究するうえで、まず一つの方法は「肉体的病気を比べてみる」という方法がある。 統合失調症や躁うつ病、うつ病、反社会性人格障害などを、ガンや骨折、インフルエンザ、 ケガなどと比べてみると、「プロフェッショナルの競争力を落とす」という点で共通している。 これは極めて重要な指摘だ。 ピアニストが統合失調症になったらもはや天才ではない。「プロフェッショナルとしての競争力を落とす」 という現実を知らないといけない。 精神病の患者にプロフェッショナルの天才はいないという事実は理解しないといけないのだ。 精神病を分析・分類するうえでは二つのアプローチが考えられている。 @健常者と比べて何が違うのか。 A患者が本当にやりたいことがどのようにできなくなるのか。 この二つのアプローチが詳細になされるのが精神病の分析・分類の方法だ。 精神病の分類はいろんな観点からなされている。 @原因の探求が薬への依存を少なくするのか。 A症状の探求。 B神学を排除してトランス状態を説明する。 Cサイエンスからどこまで探求できるのか。 この四つの観点からいろんな病名が分類されてきた。素人には「トランス状態」としか分からないのだ。 フィジカルな病気だって「健常者と比べてみる」ことから病気であるかそうでないかが明らかになる。 その上で「仕事ができない」「他者とのコミュニケーションができない」というあたりで限界線を 切って行ったらいいのではないかと考えている。 また、やりたいことがないのならば健常者も病人も同じではないかという指摘も重要だ。 この研究で明らかになったのは、「プロフェッショナルとしてのパフォーマンスを落としていないのなら 精神病でも何でもねえな」ということを正確に理解しない人は言論界の弱者だということだ。 病気に関しては端的に「その人の力」で判断しようという発想もあるし、価値中立的に探求して行こう という発想もあるのだ。 いろんなアプローチが可能なのが精神病なのだ。 このジャブに対応できる奴は精神病院にはいない。 「スーパーハーンズ〜右の世界観」 http://www.youtube.com/watch?v=D6JZZ3UGzmI これ以上俺を通院させることは「病人観察データ収集」を俺に続けさせるだけだ。 病人と仮病の見分け方は分かっています。 「夢だけ見てる」CoCo 本来、病人とは「力のない人間」であり、うつ病の人間には何も実現する力はない。 そういう力のない世代に、一定の支持を受けた「むなしさだけがともなう曲」である。 人生には積み重ねた真実がなければ目的の達成はなく、自分の位置を正確に他人に 発信させるという作業を行いながらプロジェクトは進行していく。 そういう基本を完全に喪失していた時代の若者がこの曲を「CoCoのベストソング」に 選出している。ニーチェの「ツァラツストラはこう語った」を完全に忘れた時代に 若者はこの曲を聴いてしまった。 http://www.youtube.com/watch?v=uIe5rS7itUk 精神病を「力の強弱」で判断するという見解には異論もある。強さという価値とは中立的に 病気というものを見て行こうという見解だ。 そこでは「寿命」と「生殖能力」、「人間の本質」などをにらみながら、病名を発見していこう という発想がある。 精神病院をなぜかうろついているチンピラ連中の「寿命」「生殖能力」「人間の本質」などを 見ていくといい動物観察にはなるだろう。 病気というものをどのように考えるかはいろいろな価値と関わる。 「寿命」「生殖機能」「人間の本質」をにらみながら病名を分類してみてもいろいろな問題がある。 子供のマスターベーションへの依存は「生殖機能」という意味では極めて健全であるが価値を 持ち込むと好ましくないものと考えられるだろう。 逆に、ホモセクシュアルというものは「生殖」にはつながらないけど、「弱者狩り」という発想は ハンティングが行われていた時代には「価値」があったのだ。 時代の価値に依存してしまうのが病名であることになる。 このことから、やはり、病気は「力の強弱」で判断して行こうという方向性にも向かうわけである。 「妄想」 この言葉を正確に理解する人間が政治的強者だ。大きく分けて二つある。 @ハイソサエティの人に愛されているのではないかという妄想。 A自分はすでに死んでいるのではないかという妄想。 この二つに絞るのが妄想の研究なのだ。 ハイソサエティの人に愛されているのではないかという妄想は、街で見かけた車のナンバープレート や、紫の色からすら人は感じるとされるのだ。 架空請求で「松潤からメールが来た」というのはこのポイントを標的にビジネスをしている。 さらに、自分はすでに死んでいるのではないかという妄想もある。風邪をひいたりしてひどい目に遭った後に、 自分はすでに死んでいるという妄想に憑りつかれる人がいて、彼とキスをしても愛されているとは思いながらも リアリティがなく、自分がすでに死んでいるのではないかという妄想から抜け出せないそうだ。 この二つの妄想は「それを否定する証拠を突きつけるのが非常に困難」であるとされ、 この二つの妄想を基盤に研究は進んだのだ。 妄想というのは、非合理的なものであるが、いろんな研究が可能である。 ハイソサエティの人に愛されているために、他の街の住民で自分に敵対する者は 街を出ていかなければならなくなるだろうなどという妄想まで生じるそうだ。 いろんな興味深い研究がなされている。 以下で書いていきたい。 妄想の研究は、「心」の哲学と、神経の研究である「精神医学」の哲学の二つの方向からアプローチされた。 どのように妄想は生じるのか。 一風変わった経験から生じているのか。 理性的に何かが欠落しているという苦痛からその妄想を信じているのか。 非病理学的に信じているものからそのディテールの新鮮さが形作られているのか。 妄想はなかなか精神病のような「人間の力の強弱」とどのようにつなげていいのかは明確ではない。 タモリ氏も「趣味は妄想」と冗談めかして言っている。 妄想を精神医学の見地から分析しようとする手法もある。 精神分裂病などで妄想という言葉が使われるが、これらの妄想と健常者の妄想は、価値中立的に 考えると、区別は明確ではない。 このことから、病人の妄想というものを病理学的に追及してみる発想がある。 「現在そこにないものを非合理的な発想で信じている」 「彼らの経験や環境を不確かな発想で理解している」 「病理学的には混乱しており落ち着かない物事の解釈をしている」 「発想そのものが社会人としては弱者の発想であり、ネガティブな存在である」 「脳の機能が歪曲されており、何かが欠落している」 このあたりで、妄想というものを病気なのではないかと精神医学の方面からは説明するしかないようだ。 この、妄想とは病気なのではないかという問題には批判がなされている。 たとえば、宇宙人に誘拐されたというような類の話は多くの人に共有されていて、 非合理的ではあるものの、「そこにないもの」とは言い切れないという視点がある。 さらには、彼らの経験や環境から理解したことを案外正確に述べることがあり、 「不確かな発想」とは言い切れないものがある。 「混乱して落ち着かない」という点も同様である。 また、妄想を信じることをやめたら自己評価が一気に低下して自殺してしまう人もいて、 必ずしも妄想をネガティブな発想とは言い切れない部分がある。 また、脳の機能の歪曲なども、物事の理解の核心部分に生じているとは 必ずしも言い切れず、どのように「病気である」とするかは非常に困難な部分がある。 つまり、精神医学の世界から、妄想を病気であるとは必ずしも位置づけられないのだ。 妄想は「道徳」と関わる。有名人に愛されていると考える人は、自分が社会でそのように 扱われないことからモラルに反した行いや犯罪を起こしかねないし、 自分は二人いると考える人も「自治」をその人に委ねられるのかという問題が生じる。 そういうあたりは冷静にそのような妄想をする人と道徳の問題として考えていかなければならないだろう。 なお、私の知り合いの精神科医にお話を伺ったところ、いくら経験豊富であったとしても そんな患者がいたら見てみたいものだというぐらいサンプルの数は少ないそうだ。 「社会システムを変える方法」〜スタンフォードの見解。 まず、社会で尊敬されることだ。そのあと、ある制度を批判して牢屋に入れられるのだ。 これが、社会システムを暴力を使わずに変える方程式だとされている。 牢屋というのはそのように戦術的に使うことが可能なのだ。 スタンフォードがこれを指摘している。 社会で尊敬されている人が牢屋に入れられることそのものが「社会の道徳パラメーター」を 変えてしまうのだ。 社会で尊敬されている人が、政治犯などで法律に抵触して、牢屋にぶち込まれることそのものが、 「法律的に容認できる政治空間」を作るそうだ。 まさに、このような手法は牢屋を活用した高度な技術なのだ。 牢屋でミオブロック(筋弛緩剤)を静脈注射されないためには、強烈な国益の志向と 人々の尊敬が必要だ。 それをもっていないと命の担保はない。 革命は簡単でいて難しいのだ。 いろんな人の和解のために「許し」の研究をしている。 基本的に、間違った行いをした人に対してポジティブな効果をもたらすのが「許し」であるが、 基本思想は「全知全能の神が、自分たちが何をしているか分からない人間を許す」 というものなのだ。 人間の無知が許しにつながるのであって、「知らなかった」ということが基本になる。 意図的にやったものはなかなか許しにつながらない。 また、能力で劣ることは許しにはつながらない。 たとえば、下手くそなピアノの演奏を客は許さないだろう。 そういうことから研究していかなければならないのだ。 プライバシーと名誉棄損は「のぞき見」と「人気を下げる」のどちらかで区別されるけど、 プライバシーに関しても「暴露されると人気が下がる」という発想がある。 さらには、プライバシーを暴露されると「他人がもっている自分の一貫性が崩れる」という考えも スタンフォードが指摘している。 他人の個人情報を適当に扱うと「その人の周囲の一貫性を崩す」という攻撃になってしまうのだ。 復讐は「私はそう欲した」しかし「時間はもう戻らない」ということを経験した人間が発信源に なるようだ。 こいつらの出す「戦術的劇的電波攻撃(頭の混乱を引き起こす攻撃)」をうまく回避しないといけない。 年寄りの言葉は特に危険だし、70歳を超えて「もはや刑務所にぶち込まれない年齢」になったら もっと発信源は危険になる。 下層のゾーンからはタランティラが毒を発信してくる。 40代から60代の国家統治を担うものはこの発信源の危険地帯と向き合っている。 天皇皇后両陛下はもはやこの毒を発信し始めている。 それがあのファミリーの実質的コンセンサスを作っていて、他の下層タランティラと同盟を組んでいるのだ。 俺の戦いはまさに毒にやられる戦いだ。 「プラグマティズム」〜民主党凌雲会の意思決定の哲学。 プラグマティズムとは、二つの流れがあるグループでどのように意思決定をするかの研究だ。 基本的に「タフな感情」と「柔らかい感情」がつねにあるとされ、 タフな感情は「現実的」「悲観的」「非宗教的」な感情を基盤にしている。 一方、柔らかい感情は「理想主義的」「楽観的」「宗教的」な感情を基盤にしているのだ。 柔らかい感情は意思の自由を認め、教条主義的であり、タフな感情は運命論的であり、懐疑的だとされる。 この視点を基盤に、組織の意思決定の研究を進めていきたい。 プラグマティズムは、たとえば「ほとんど子供は科学的に生まれている」というように、 経験主義にとられることができる側面と、宗教的側面を持つ領域での判断に用いられるのだ。 物事の判断は完全なサイエンスではないことからプラグマティズムが生じるのだ。 真実への忠誠心と、ロマンティックな心の和解の試みであるともいえる。 1 :ラピスラズリーKoD KoM ◆qEXC5T91OM3i :2012/06/06(水) ィ,-' __ _ _ ヾ_ , ,ィ \ 、_,/ /,.イ `ヾト、 、_ゝ,イ!,.イ!/ノ \ ィァ'_,..ィ´ |/ア 、,ヽ ! _`! | ヾ - /イ \ \ ,ィ,. / !/_,r'゙´´ ` '´ ゙!イ _,.ゞ`` \ ヽ、 !' 'イ! イ ,.' 了 ,. - ト、,.ヽ、_,、ーZ \ ゝ,、_ ト!iヽ! !'ヽ{ ´ ̄,.` ー' !` ̄ 、i ,ヽ!゙i \ i,! /7゙'Tー-ゞ,ヽ' 、 ゙ ̄ , / ィ-!ノ´!|' !' \!| !i ! | `0、!.ヽ、 ー ' ,イ!'゙'` `ヾ,!__ ヽ、 ヽ 、 ,ニ、ァ`,ニ ´! ` >^ヽ,、ヽ.゙'Lノ- ‐ '´_,.ゝ、 /ー ,、 ゙> ○=ーニ二、`ヽ`ヽ ,.イ∠__ノ / !/`7´,.∠-、 ヽ-、ヾト、 / _,,.. イ ヽ! ,. ゚__/ /___ トヽ ト、 | / ,.イ! { !イ'´ ,!ィ'´ ゙̄!i リ_ / |ヽ !' / ハ;:.. .. .: ,. ´ !|_,./' / | O | / ト、::,/ ,.ノイ=ヲ\ ! !' !/ ,..イ____,./ ヽ ,..、 O / ,ハ i「 ̄ア゙ O ! ヽ、 ∠ニ -‐ `) / ヽiL ,.' ヽ. ヾー- ‐'' ´ _,.. イ / O{ `ヽ '' " ト―--- 、 '´ ヽ、 ヽ. ! ー 、--― ' ヽ ★明主様の水晶世界を語るスレッド 17 ``ヽ. ヘ ヽ;:... ,.○ 神秘の宝石騎士団 `ー、 !、 \::... ;.:..,..イ|{i|ハ http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1338987157/l50 「ブッダ」 ゴータマは、仏教の教祖と位置付けられているが、哲学者として見てみると興味深い。 彼は、人間の「苦痛からの開放」を探求した人物であり、その苦痛の原因を探れば 苦痛から解放されると考えたのだ。 しかし、その苦痛の原因を探るのはまさに高度な学問であり、仏教への道を高度な 学問にした人物だ。 「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味であり、苦痛からの開放の方法を知っている人だと される。 仏教においては、ゴータマ以外にもブッダはいるとされる。 問題は「苦痛からの開放」であり、ゴータマだけがブッダではないとされたのだ。 しかし、高度な学問が要求され、それが仏教であるとしたという意味ではまさに教祖であった。 苦痛のない場所を涅槃と呼ぶが、ブッダというのは涅槃への道を知っている人という意味だ。 では、ブッダの生涯から振り返ってみよう。 80歳まで生きた人だが、560BC〜480BCまでだとされているものの、最近の研究では、 405BCに亡くなっているのではないかとも言われている。 ネパールとインドの国境付近のシャカ族という裕福な家庭で妻子とともに暮らしていたが、 苦痛から修行生活に入った。 彼は最初は苦痛から悟りへの道を求めたが、やがて瞑想から苦痛の開放の手法を学習し、 45年間の間、弟子を指導した。 ブッダは、自分をあくまでも苦行者と位置付けていた。その方がその地域で人々の理解が 得られたからだ。 しかし、ヴェーダやウパニサッドの描くような、「いい行いにはいい果実を、悪い行いには悪い果実を」 という発想が人間の輪廻転生を描く世界観では、苦行というものがどのように説明できるのか という不満があったのだ。この不満を「ヘテロドクス」と呼ぶようだ。 ブッダは「私」「私のもの」という発想を捨てなければ、これらの伝統的考えを抜け出すことは できないと考えたのだ。 そういう意味では、現代の哲学から見ればブッダは明らかに哲学者としての合理性は 失っていたのだ。 しかし、「最期に人間を救うのはこの境地なのだろう」と位置付けられ、ブッダをスタンフォードは 高く評価しているのだ。 あらゆる哲学は実践がなければならないが、ブッダの場合は「私」「私のもの」という発想を 捨てるということがどのように苦痛からの開放につながるかの実践がないという批判を 受けた。 単なる形而上学であってはならないとされたのだ。 しかし、のちの世代の弟子たちによってその教義は洗練されていったのだ。 ブッダは没後一世紀ほどの間は、彼に関する記述は書かれていない。 しかし、その後、パーリ語やサンスクリット語となって書かれるようになった。 文献がないということも問題であったし、彼の語る言葉が超人のごとき人物像を求めていること も問題であった。さらには、口伝で伝わる間に多くの仏教徒によってセクトが分かれて、 いろいろな解釈の対立が生じていたことも問題であった。 しかし、ブッダの影響がそれほどまでに大きかったからこそ、没後も語り継がれたというのが 真相なのだ。 のちの仏教の発展は後継者の業績に委ねるとして、スタンフォードはブッダの実際の 業績の分析を試みている。 ブッダの教えの核心は以下のものであると言っていい。 @苦しみがある。 A苦しみには原因がある。 B苦しみは止まるではないか。 Cそれならば苦しみを止める道を探求しよう。 これがまさにブッダの探求の核心なのだ。 ブッダの探求は、「私」「私のもの」という発想を捨てることに始まり、さらに「カルマと輪廻転生」 にまで発展しているようだ。 しかし、現代の哲学からの評価を与えてこの論文は終える予定だ。 ブッダにとって「カルマ」というものがそれまでの「いい行いにはいい果実を、悪い行いには悪い果実を」 という輪廻転生の教えを脱するカギとなる概念として発展している。 発想としては「我々の一族は伝説からの教えを受けている」として輪廻転生を説明するセクトもあり、 また、いろんな概念の再編を行うセクトもあったが、 ブッダの場合は「伝説からの教えを受けた」という発想が主流としてメインストリームに なったようだ。 輪廻転生とカルマの研究をスタンフォードはこのようにとらえている。 仏教において「苦」とは、痛みだけではない。フラストレーションや孤独、さらには移り変わる世の中で 何かを望むことすら苦とされた。 これらを高いレベルでまとめて「苦」という言葉にしたのだ。 人生の状況や出来事の中で満足ができないことがある場合に生じるのだろうとブッダは考えた。 人生において「満足できない」ということはかなり普遍的なことであり、そのために「苦」という概念が かなりオープンな議論を可能としたのだ。 ブッダは、苦に原因があり、それを止められることを知った。 その仕組みさえ分かれば、将来の「苦」もなくせるだろうと考えたのだ。 その「苦」の仕組みを「十二縁起」として明らかにした。 十二縁起という物事のつながりが苦をもたらしているのであり、それさえ理解すれば 将来の苦をなくせるとしたのだ。 最後には「病気と死」があるが、これはもはや「輪廻転生」をうまく説明するしかなかった。 受験生は何が幸せなんだろう?と考えたことがあるだろうか。 「自分は確実に学習している」「周囲と良好な関係を築いている」「自分で判断している」「いい競争をしている」 これらが自分の心にポジティブなスピンを与えていれば人間というのは幸せなのだ。 「自分を偽ることこそが高度な学習につながる。時には倒錯してまで人間は自分を偽る」 音楽を聴いてタバコを吸って倒錯して高度な学習をしている男。 http://hogakukyoushitu.cocolog-nifty.com/photos/shiryoukann/m1150001.html 宗教で重要なのは「時間の使い方」なんですよ。 将来の運命を予測するのもまさに宗教の核心を形成するし、過去の我々には経験できない 時間を「俺のものだ」と独占しているのが天皇家なんです。 宗教と時間というのは密接にかかわっているんです。 プラトンやニュートンが「時間への尊敬の絶対性」という考えをもっていたようだ。 天皇家のイデオロギーはプラトンやニュートンを基盤にしていて、 それに対抗する宗教は「将来」を標的にするしかなかったのです。 「時間を止める」ということを考えてみよう。 「ゾーンA」「ゾーンB」「ゾーンC]というように、時間を止める空間が異なっていなければ 「スタープラチナ」は成立しない。 相手が止まっていてこちらだけ動いているというのは「ゾーン」が異なるからだ。 これを「ローカルフリーズ」と呼ぼう。 もし、すべてのゾーンが一斉に止まるのならば「空虚な時間のパーティー」に祝福されるだけだ とされていて、時間を止めることに意味がなくなるのだ。 これがスタープラチナという技術だ。 時間というものを位相幾何学で考えると「一本のライン」であることは明らかであるが、 一本のラインのタイムストリームがあると考えると、出来事との関係が説明できるし、 「始まりはいつだったのだろう」という疑問もわいてくる。 さらには、ラインをゆがめてタイムスリップするという発想も生まれる。 すべて、時間を幾何学的に一本のラインであると考えるから生まれる発想だ。 しかし、タイムスリップというのは「自然法則に反するだろう」というのがスタンフォードの 見解のようだ。 一方で、「時間というのは一時的な秩序に過ぎないのではないか」という強烈な主張がある。 人間はそれぞれの物語をもっており、「Aシリーズ」」「Bシリーズ」というような物語に 時間が関わっている。 そのようなシリーズに、比較可能な共通項として時間が秩序として存在するとしたのだ。 これはかなり有力な主張だった。 「Aシリーズ」には「A神学」が生まれる。これと「Bシリーズ」「B神学」はどう関わるのかが問題だ。 「伊豆の踊子」の学生さんと踊り子は俳優と女優がのちに「シリーズ」「神学」を作ることになるが、 それらのシリーズを作った人たちも実はセックスをしているのが現実だ。 結局、3次元(3Dビュー)と4次元(4Dビュー)というのは物の見方なんだよね。 空間と時間を感じるのは同じだけど、それを「同じ空間」と考えるのが3Dビューで、 「違う空間」と考えるのが4Dビューなんだよ。 ひきこもりでも、ムチャクチャ勉強して学習すれば、3Dビューで同じ空間で見るよりも、 4Dビューでその成長ぶりを眺めたほうがいいことがある。 時間と空間という発想から、「時間が違えばその空間も違う」という発想をとるのが4Dビュー なんだよ。 その方が物事の見方がうまく行くという概念なんだよ。 心と宗教板の救世の提案で世界が平和。(本当に)3を見て下さい。 見るだけでいいです。本当の美術がここにある。すごすぎる。 ぴったり一年前ではないよね 「一年前」の方は厚着だし・・ 許しとは「関係の再構築」をすることで、相互の悪い感情を解消することができる。 一方で、DVのように「構造が残っているうちは許してはならない」という側面がある。 許しの研究はまさに「サルベーション」にもつながる研究だ。 許しの基本は「何も知らない人間たちがやったことを、全知全能の神が許す」ということだ。 「人を許す」のは実は簡単なのだ。しかし、簡単に人を許しまくる人は自尊心に欠けるし、厳しさもない、 道徳心も確立していないとされる。 怒りや憎しみの炎は自尊心を基盤にしている。 「許せない。許せるはずがない」というのは強烈な自尊心を基盤にしているのだ。 「償い」さだまさし http://www.youtube.com/watch?v=9KGro0gAZAE この曲で踏まえなければならないのは、遺族の奥さんが貧乏人への復讐を 成功させて、自尊心が満たされたから許されたということを基盤にしているということだ。 この研究はスタンフォードのものだが、「絶対に許されないこと」をした人間も 「相手の自尊心」さえ狙って行けば許されるということを明らかにしているのだ。 その人が何を嫌っているのかをしっかりと理解しないといけない。 政治闘争でこいつらに手を焼かされた。こんな皇室政治は二度と起こしてはならない。 「死ね死ね団のテーマ」 http://www.youtube.com/watch?v=Mj7U9Je0w5w ゴルゴ13「キャサワリー」より。 プロは一瞬のチャンスも逃さないものだぜ。お前があの瞬間に引き金を引けなかったのを見て お前の銃が海水でダメージを受けたのが分かった。 イランとサウジアラビアはライバル国家であり、イランの体制転覆をアメリカが狙っている。 イスラエルは議会の4分の3の連立政権を組み、イランの核施設攻撃を用意している。 イランへの経済制裁は止まらず、イランはもはや「力の均衡」を維持するためには核を持つしかない。 そんななかで、世界最高の国民監視システムをもつイランが、 「瞬間的にサウジアラビアの皇太子をロックオンして殺害した」のが真相だ。 瞬間的にロックオンして殺さないのならもはやプロの世界では「殺さない」ということだ。 「今日をこえて」岡林信康 人間は、他人に心をかき乱されながら生きていくものだし、他者に自分の位置を教えてもらいながら 生きていく宿命だ。しかし、他者からの「戦術的・劇的攻撃」から身を守るためには時には 「俺だけは特別だ」という意識が必要になる。 http://www.youtube.com/watch?v=6qkMTYO9NS4 3次元(3Dビュー)と4次元(4Dビュー)というのは物の見方なんだよね。 空間と時間を感じるのは同じだけど、それを「同じ空間」と考えるのが3Dビューで、 「違う空間」と考えるのが4Dビューなんだよ。 ひきこもりでも、ムチャクチャ勉強して学習すれば、3Dビューで同じ空間で見るよりも、 4Dビューでその成長ぶりを眺めたほうがいいことがある。 時間と空間という発想から、「時間が違えばその空間も違う」という発想をとるのが4Dビュー なんだよ。 その方が物事の見方がうまく行くという概念なんだよ。 「光太郎は天皇制とともに死ぬ」 聖書に「士誌記」というのがあるが、ここで出てくる「サムソン」という男が 死ぬときに宮殿を破壊して敵とともに死んだという記述を、イスラエルは 採用し、1960年代に「サムソンオピニオン」というのを採用した。 イスラエルは、自国が滅亡するときには核兵器を使用して敵とともに滅亡することを 政策としてまとめあげたのだ。 皇后美智子は、光太郎の死を願っており、もはや、私がノーベル文学賞を 受賞したことから、打つ手を失い、いつまでもぐずぐずと対応が取れない状態だ。 ノーベル賞ほどすべての区切りになる時期はないのに、いつまでも動かず、 薬物攻撃で自体の長期化をはかり、私の自殺を待っているのだ。 美智子は矢う物攻撃で事態を長期化させているために、私は決断を迫った。 「光太郎が死ぬときは天皇制が終わるときである」 という認識を国民で共有するように求めたのだ。 天皇は「ノーベル賞など欲しくはなかった」と事態の混乱にイラついており、 君主としてノーベル賞の権威を否定している。 何度もいうが「光太郎が死ぬときは天皇制が終わるときである」 という認識を国民で共有してもらいたい。 サムソンオピニオン発動のときだ。 皇后美智子は久しぶりに「聖書勉強会」を開き「士誌記」の朗読を 始めている。 ノーベル賞のプリンスと天皇はもはや「イコールフッティング」が完了しており、 決断力のない天皇の機能不全にまず私が「サムソンオピニオン」 の存在を明らかにしたい。 「光太郎が死ぬときは天皇制が終わるときだ」 スタンフォードのようなアメリカの大学のエリートの姿を知りたければ、 ゴルゴ13の「デッドアングル」に出てくるカッツ・ドーベルという 人物を見るといい。 カッツはゴルゴのライバルだ。 「プラトンのドクトリン」 我々の世界の認識方法は誤解や間違いに満ちている。しかし、プラトンは そういう世界にも真実や完璧さが実はあるのだろうと考えたのだ。 我々の誤解や間違いによって見える世界の中にある「真実や完璧さ」を プラトンは「イデア」と呼んだのだ。 これがプラトンをアリストテレスやカント以外に並ぶものはない哲学者と 位置づけさせた理由であった。 「ぶおーとした世界」の中で「空気が悪いな」としか感じない我々の感覚 の中にある真実に哲学があるという意味だろう。 へげぞさんのタイトルだけ見てみると面白い。 デカルトの「コギトエルゴスム」(われ思うゆえにわれあり)という議論の中で、 人間というのは「心に自然に湧き出てくるもの」を「価値に頼らずに」感じれば 全知全能だとされているのだ。 つまり、この「二つの直接性」さえ守れば人間は「おれはぜんぶだ」という 気分になるようだ。 このへんはデータ不足なので皆さん試してみてください。 「おれはぜんぶだ」へげぞ http://ssstory.net/ssstory/story_luv/index.php?search_data=20100908044223583&page_num=4&anthology_name=&poetname=&count=97 「プラトンのパズル」 結局、ぶおーとした世界においては、いろんな仮説を立てるし、不明確さの中で いろんな理論を立ててみるけど、それらの仮説が有効であるかはなかなか 証明は難しい。 アリストテレスやアクィナス、カントもこれらを試みたけど、 もっとも大胆な形で仮説を立てなのがプラトンだったのだ。 プラトンは実は論文は書いていないのだ。ドクトリンは明らかになっているが、 彼は、「対話」でしか哲学を語っていない。 このことから、これらの対話集がどのようにプラトンの考えを示しているのかは 研究が必要だったのだ。 ソクラテスとの対話も、実はソクラテスはプラトンのフィクションではないかとも 言われたが、アリストファネスはキセノフォンなどが喜劇にしていたので、 ソクラテスが実在することは明らかだとされている。 有価証券報告書をネットで読もう。 企業は資金調達のために企業の情報をここで公表しています。 EDINETのリンクつき。法学部レベルでは「読み方の皮膚感覚が分かればいい」とされています。 http://hogakukyoushitu.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-6420.html 寛大さという概念がなければ、人間は「肯定」か「無関心」しかなくなるとされる。 自分が間違っていると思うことに対して寛大であることを言うが、 寛大であることは、他者を簡単に排除することなく、その人の文脈に沿うことができる というメリットがある。 しかし、そもそも、簡単に「間違っている」と考えること自体寛大ではないという パラドックスも指摘されている。 しかし、ネガティブな判断ではなく、非常にいい判断が「寛大さ」なのだ。 そのうえで、寛大さにも限界があることを理解しなければならない。 却下する理由が容認する理由を上回ってしまうポイントは誰もが持っているのだ。 寛大さには三つの段階がある。 規範的に容認できない物事への寛大さ。 実践的に容認できない物事への寛大さ。 ただちに却下すべきものへの寛大さ。 の三つである。 ただちに却下すべきものへの寛大さというのは、まさに寛大ではなく 苦しみや忍耐力に化けてしまう。 苦しみや忍耐力を強いられるのはそれを排除する力がないからなのだ。 ただちに却下すべきものからもたらされる心の状態がどのようなものであれ、 それを排除する力がないからその状態が続くのだ。 >>363 自分の宝石騎士団スレが削除されまくりなのと このスレのスレ立て人への私怨と 自分の美術鑑賞板他での荒らし行為が記録されているのとで このスレのスレ立てから一年以上経ってから突如運営に削除依頼を出した 神秘の宝石騎士団のラピスラズリーさん おはようございます 名前欄に fusianasan といれ スレのタイトルをレスすると削除されます。 マジで7月18日から今日まで入院させられていた。 施錠の奥の写真を隠し撮りするのに成功したので後でアップする。 とにかく自由になれたのでラーメンを食ってきた。 隠し撮りに成功。 http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/photos/dayoff/pic_0024.html 昨日は久しぶりにラーメン屋でラーメンと餃子を食ってきたら、 なぜだか涙が止まらなくなって、泣きながらラーメンを食っていたのだが、 店の人も怪しむそぶりもなく、むしろ長期間の拘束に同情していたようだったな。 アパートの保守がまったくなされておらず、電気も電話も止まるし、携帯はどっかいっちゃうし、 入院中に行った研究を公表するのはしばらく先になりそうだ。 本物のストイシズムの世界からいろんなデータが取れたのだ。 「社会システムを変える方法」〜スタンフォードの見解。 まず、社会で尊敬されることだ。そのあと、ある制度を批判して牢屋に入れられるのだ。 これが、社会システムを暴力を使わずに変える方程式だとされている。 牢屋というのはそのように戦術的に使うことが可能なのだ。 スタンフォードがこれを指摘している。 社会で尊敬されている人が牢屋に入れられることそのものが「社会の道徳パラメーター」を 変えてしまうのだ。 社会で尊敬されている人が、政治犯などで法律に抵触して、牢屋にぶち込まれることそのものが、 「法律的に容認できる政治空間」を作るそうだ。 まさに、このような手法は牢屋を活用した高度な技術なのだ。 牢屋でミオブロック(筋弛緩剤)を静脈注射されないためには、強烈な国益の志向と 人々の尊敬が必要だ。 それをもっていないと命の担保はない。 革命は簡単でいて難しいのだ。 道徳パラメーターを変えるという方法は、「深刻さ」「誠実さ」「道徳的確信」を背景に、法を破るのだが、 強烈な自尊心と道徳的一貫性だけでなく、社会の利益を志向していなければならない。 政府がシステムを変えることをもはや拒否できないことを認識するためにはこれらを踏まえていなければならない。 制度を変えようとする人は、自分の練られた思想を公にして、自分が投獄されたことをショーとして 大衆に示さなければならない。 自由で平等な人間が、その政治的アクションによってこのような目に遭ったことをオープンに しなければならないのだ。 結局は、学問の勝利でした。 天皇サイドはこの私のレポートを読んでおらず、世間のリアクションを意味不明として、 「もう一度精神病院にぶち込め」という反応を示しました。 スタンフォードを踏まえていれば当然わかることなのです。 この分析を終えて深夜の攻撃は急激に収まっています。 神道の「岩戸神話」というのは「沈みかけた太陽を元に戻す力のあるものは万物をつかさどる」 という思想で、その根本は、「あな面白や」といってアマテラスが岩陰から出てきたように、 面白いことを演じたことが基本にある。 日本がこのような思想を持っていたことに列強が注目したのだ。 それ以外の古事記の記述は「楽園の王朝を作る物語」であるとされている。 和歌や神楽はその「あな面白や」のディテールを作る営みであり、 今回の私のクーデター事件もそれと同じ思想に基づくものだ。 天皇もこのような理論構成には一定の理解を示しているようだ。 天皇は、俺の退院後に猛烈な頭痛を仕掛けてきていて、 「皇居の門は開いている」と言って非公式に連絡をしてきた。 しかし、その後、「実は門前で皇宮警察に拘束させて精神病院に再入院させるつもりだった」 と言うことを明らかにしている。 称徳天皇の信任を得た道鏡というのは頭がよくてね、772年に太陽帝国カルトを 作っているんだ。 理論を作ったから権力に近づいているんだ。 871年に「延喜式」というのができて、大嘗祭から僧を排除したのだが、 藤原氏の権力独占の後に「院政」というのが行われただろ。 平清盛でも分かるように、院政をやった上皇は「寺」をパワーベースにしている。 仏教と神祇カルトは互いに武士を味方につけて争ったんだ。 神社というのも「神祇神社」「二十二社」「総社と一宮」「八幡ネットワーク」の 4つがある。 日本が「ジャパニーズ」という概念を確立したのは宋との貿易や元の襲来があって 中国が日本を世界に紹介してからだ。 それを基盤に吉田カネトモが唯一神道を吉田山に作っている。 それを採用したのが後土御門天皇なんだ。 神とは仏陀の本質の足跡であるとされている。 豊臣秀吉も阿弥陀が峰山頂の豊国社に豊国大明神として神道形式で埋葬されている。 徳川家康も最初は静岡県に神道形式で埋葬されたが、これに異論を唱えたのが 天台宗の天海だ。 東照大権現として日光に埋葬したのが天海だ。 幕府の時代に天皇家が何をやっていたかもアメリカ人は明らかにしている。 徳川綱吉の時代に東山天皇が221年ぶりに大嘗祭をやっている。 それまではまったくの空白期間だった。 歴代天皇のうち41名しか大嘗祭はやっていないんだ。 しかも、米や太陽信仰とは無関係に田植えの前にやっていた。 徳川吉宗が大嘗祭を義務付けている。 新井白石が「将軍家の統治は神に由来する」としたのだが、 幕末に相沢セイシサイが英国やロシアの軍艦を目の当たりにして、 「神とは天皇家だろう」としたのだ。 このあたりが今の天皇家の原点だろう。 大嘗祭に関しては、野坂泰司と坂本是丸の対立が知られている。 野坂が「私事」と位置づけているのに対して、坂本は「慣行の実践」としている。 野坂が通説だろうけど、坂本の見解を自由民主党が採用しているのだ。 入院中にこの神道の洋書を読んでいたんだよ。 アホな連中がせっせといじめていて人生を無駄にしている間にね。 「何でもありは世界最強っすねw」と竹部が笑っている間にねw 残るものはこれだけだよ。 よく、テレビなどでは、「性欲を理性で抑えられる」とか言うが、この「理性」という 言葉を明確にしたのがカントだ。 たとえば、理性というのは固定的なものであるという従来の発想を批判し、 ヒュームの理性に関する議論を「純粋理性批判」により批判し、イギリス経験論から 「実践理性批判」を書いている。 理性というのは、美しさや、分析、対話などと言った、解釈を必要とする困難な 探求が必要であるとし、さらには道徳や経験などともかかわるし、その純粋理性と 実践理性の統合という作業も必要とされる。 我々の知識は感受性と理解から得られるし、また、世界は意味不明な議論から 成立していて、目に見えない空間が成立している。 カントはその世界の中で理性の役割を否定しなかった。 理性の限界は認識しながらも、知識の限界とは異なると考えたようだ。 理性と経験的真実との関係はどうなのか。 科学的な探求。 理性の限界を知ることにどんなメリットがあるのか。 などを探求した。 知識を得る作業は無限に続くが、それが理性の形成と関わっているのだ。 我々は、真実の代わりに理性を用いて判断していると考えていたが、 この点に関するカントの記述はあっさりとしている。 むしろ、幻想にもとづく夢によって物事を判断していると考えたのだ。 それは感覚が間違いを起こさないのに判断を間違えることがあることから、 判断の基盤になる感覚が夢にもとづいているのだろうと考えたのだ。 まるで、太陽が地球を回っていると人間が考えるのと同じことだ。 ニュートンが発見した重力や慣性の法則、さらには、ガリレオが「天国を見てみよう」 と思って作った望遠鏡などがあったからこそ、惑星と星を見てわかるんだ。 我々は神を信じることを望んでいるのだ。 なぜならそのような発想が「理性」というものの必要性と利益をもたらすからだ。 神は、天国へ通じるバベルの塔を作ろうとした人間を罰したが、カントはこれを批判した。 カントは理性のバベルの塔を作ろうとしたのだ。 我々は感覚によって知識を得るが、経験と哲学の仮説は対立するものだ。 我々は世界の経験すべてを味わうことはできないのだ。 見聞を広げて、それでも限界があるから仮説を立てるのだ。 「ヘーゲルの右翼と左翼」 ヘーゲルは、カントの理想主義を体系化した人物だが、彼の後継者によって右翼と左翼という概念が 明確になった。 実存主義が右翼で、理想主義が左翼だとされた。 人生にプロジェクトを動かしている人間は右翼で、影響力を求めて理想を求める人間を左翼としたことになる。 東大受験をしようとする人間には「貴様は右翼か」ということになり、学力もないのに目指している奴は左翼だ。 議会で力をもってプロジェクトを動かせる人間は議席を右側にしめることから右翼であり、 少数派で理想を唱えることしかできない人間は左翼ということにもなる。 この、実存主義=右翼、理想主義=左翼という概念は実に切れ味がいい。 「中国共産党の思想は李大が日本から学んだ」 アジア初の近代帝国日本で共産主義思想が発達するのは中国よりも早かった。 川上肇や山川均から李大が学んでいる。 日本語に堪能な李大が日本語の文献を川上や山川から学んだのだ。 歴史は、人間がつくるものではなく、継承されたものや環境に人間が直面して動くものだという 思想が日本のマルクス主義者に共有されており、 必然的に革命は起きるものだという決定論と、人間の行動から革命は起きるものだというアクティビズム の議論に緊張関係が生じていた。 川上は、経済こそが革命の原動力だとして、マルクスの思想を発展させていた。 自然から革命が起きるのではなく、社会の不正義やプロレタリアートが革命を起こすと考えた。 さらには、経済や決定論だけではなく、ヘーゲルの哲学からも、敵と矛盾に言語を投げ込むという 理論を李大に教えた。 この李大の思想はのちに偉大な思想家である毛沢東に引き継がれることになった。 中国共産党も1910年代に李大が学んだことを基盤に思想をまとめて行ったのだ。 俺の基本思想。左=スタンフォード哲学。右=東京大学。 テーマソング。Three 6 Mafia"It's a Fight." http://www.youtube.com/watch?v=2kJMH916DS4 「政治犯収容所〜福井記念病院」 俺は7月18日から11月9日まで政治犯収容所〜福井記念病院に入れられていた。 何をされたかは、内部の人間が「外に出たらばらされるのは分かっているけどやってしまうんだ」 と証言するほど凄惨を極めた。 まずは、保護室での拘束が5日間続いた。 閉鎖病棟の貴重な内部の写真をここに公表したい。 衝撃的だ。 http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/photos/dayoff/pic_0024.html 閉鎖病棟で俺の頭にあったのは「国益」だけだった。 それだけが命を守る世界だということを知っていたのだ。 俺はこの国が「安い命」でうろつく国ではないことを知った。 「空を見上げよう」 カントは空を見上げることの意味を語っている。 直感的に時間を感じることができて、見知らぬものへの感受性を磨くのに非常にいい営みだとしたのだ。 勉強の息抜きにやってみよう。 空を見上げることはもはや疑いを超えた世界を見ることであり、幻想にもとづく夢を超えた世界を見ることだ。 すべての条件である時間を感じることができる。時間に包まれた物事が見えなくても、 空を見ると時間を感じることができる。 空と時間の関係をカントは指摘したのだ。 空に時間の恐怖を感じたらカントは宗教界を独占するだろう。 空の時間は将来の経験の可能性と結びついていて、現実社会の経験の進歩とも結びついている。 毎日空を見よう。 成績の向上を感じることができる。 メンデルスゾーンは「絶滅」あるいは「消えゆくこと」を拒絶した(カント)。 メンデルスゾーンの作品は「広がり」「量」「激しさ」を示している。 無限の時間を用いずにこんな作品を作ったエゴこそがメンデルスゾーンの「時間」だった。 次にネットから姿を消したらまた政治犯収容所に入ったと思ってくれ。 ヤスパースは「恐怖や不安の限界」を研究した。 恐怖や不安の限界を経験することは自分の心に新しい領域を開拓するのに非常にいいことなのだ。 受験生はそれを踏まえて戦ってくれ。 恐怖や不安を感じたら「他人と話す」ということ以外に解決法はないということは理解しておこう。 東大ブランドは恐怖の前に成り立っているんだ。 スマートフォンで陣営を組めば怖くねえだろ。 深刻な問題において、我々の欲望が行き過ぎる、あるいは阻止するために私たちは泣くのだ。 「深刻さ」と「欲望」を狙えば泣けるのだ。 トイレの神様 http://www.youtube.com/watch?v=Z2VoEN1iooE 死というのは必ずしも害悪ではない。我々の欲望と死は深くかかわっている。 死こそが「落ち着きがいい」とされることがあるのだ。 その落着きは欲望と関わる。 死は欲望の放棄であるし、生きているうちの欲望をそこそこにおさめて死んでいくのが一番いいとされる。 人生の末路「インカルミネーション」 http://www.youtube.com/watch?v=IWTMuY8Ix1w 悲劇というのは「欲望」と「深刻さ」をうまく絡めて「死よりもっとひどい風景」を描くのだ。 そうしたら死の恐怖が緩和されるんですよ。 色というのは「記憶の共有」で区別している。 色は子供のころから記憶が育って覚えると思うのだが、 「色盲」というのを医学書で調べてみると、赤と緑の区別がつかない奴が「男の子供に多い」と書いてあった。 つまり、大人になれば治っちゃうんだよ。 それが色盲の正体なんだ。 「宮中某重大事件」は時代の産物だったのだ。 映画の哲学というのがスタンフォードにある。 基本的に「どのようなフィールドで」「どのような理由で」作られた作品なのかを見るが、 基本的には人々に支持された作品に哲学者は注目する。 人々に支持された作品を分析したいというのが哲学者の本能なのだ。 映画というのは映像技術ではあるが、舞台を撮影するわけでもなければ日常を撮影するわけでもない。 ナレーションを入れて聴衆の共通認識を作ったり、クローズアップを使って何に注目すべきかを作ったり、 編集技術を使って、客観的に明らかにしたいものを表現するのだ。 我々はフィクションから感情を刺激される。 しかし、実際はそのような経験をしたくないけれども、そのようなシチュエーションの感情を味わいたいのだ。 だから映画を見るとされる。 時には我々の行動に勇気を与えて強烈な動機を与えることもある。 映画のキャラクターは美しく、勇敢で、情報に満ちている。 また、女性を美しく描けるのも映画の特徴だ。 映画が終わるとクレジットに大勢の名前が列挙されるだろう。 役者や映像監督、構成作家、いろんな技術者の名前が出てくる。 しかし、どんな表現をするかを全体的に理解しているのは監督だ。 サウンドトラックを作れる映画は強いし、ナレーション、クローズアップ、編集などを駆使して、 あとはいい役者をそろえてお金をかけて映画は作られる。 ハンディカムでいろんなものをとっておくといろんな基本の学習が可能だ。 人間が中世ヨーロッパで復活を信じなくなった時に、市民であることが強く自覚されるようになった。 それまでは、市民であることとクリスチャンであることは同じ意味であったが、復活という概念が なくなってから、ヒューマニズムと市民であることが共和制を通じて結びついたのだ。 ヒューマニズムは、その人の人生のプロセスを見るのではなく「瞬間のショット」を見ることにした。 今まで生きてきたことと、喜怒哀楽のすべてを瞬間に賭けたのだ。 これがヒューマニズムの基本だと言っていい。 eminem Lose Yourselg http://www.youtube.com/watch?v=Lp99IGfHIkA 「復活」というキリスト教社会の概念が消えてから、個人というものが自覚されて、今までの古典的学問が 再編された。 これがルネッサンスの「人文主義」の正体なのだ。 アクティブな市民が生まれ、そこからコミュニティーへの愛が生まれ、この個人主義はプロテスタンティズムにまで 向かうことになる。 産業革命前のナポレオンの国民国家から、ヒューマニズムはドイツナショナリズムのヒトラーへと 続くことになった。 他者との理解不能が生じ、急速に近代化が進んだために、政治学が生じたのだ。 「空(くう)」和辻哲郎。 我々はアジア初の近代帝国で理解不能な人間同士の共同体になった。 そんな中で生まれた思想が「空」であった。 基本は「他人の否定を否定する」ことで、人間の「間」を取り去り、ひとつになるという思想だ。 この状態を「空」と呼んだのだ。 日本人は実はこの「空」のつくり方を非常に得意としているのだ。 「分かる」ことと「分ける」ことは違う。 ぼっちにならないためにも「空」のつくり方の学習は必要なのだ。 「板東英二はハインリヒ・ヒムラーの手法を採用している」 板東さんがゆで卵が好きだというのは周知だろう。 実は、これは板東がたまご関連の業界を資金源としていることを意味する。 かつてはナチスドイツのヒムラーもたまごに注目して資金源にしていた。 板東はテレビで「ゆで卵が好き」と言い続けるたびに、株式欄のいろんな業界から 「お小遣い」をもらえるのだ。 政治と利益集団が結び付くのは当然であり、資金力は挑戦者の資格でもある。 食品関連の企業は営業部長が板東への資金の融通を決めることになる。 それほど日本の地上波の影響力は強いし、今の板東英二は日本のヒムラーと呼んでもいい。 非常に頭のいい人なのだ。 君たちの健康を守る黄金の比率。 以前、「脳の疲労は心拍数の高さで測れ」と言ったが、 その時に紹介したのが、手首での血圧測定法だった。 さて、その機械で血圧が測定できるだろう。 その、最低血圧と最高血圧の比率が常に「3:4」であることに気がついただろうか。 これが血管の状態が正常であることを示しているのだ。 多少の誤差は心配いらない。 「1:2」「1:3」1:4」になって人間は死んでいくのだ。 そう覚えてみてみな。 人間が中世ヨーロッパで復活を信じなくなった時に、市民であることが強く自覚されるようになった。 それまでは、市民であることとクリスチャンであることは同じ意味であったが、復活という概念が なくなってから、ヒューマニズムと市民であることが共和制を通じて結びついたのだ。 ヒューマニズムは、その人の人生のプロセスを見るのではなく「瞬間のショット」を見ることにした。 今まで生きてきたことと、喜怒哀楽のすべてを瞬間に賭けたのだ。 これがヒューマニズムの基本だと言っていい。 eminem Lose Yourselg http://www.youtube.com/watch?v=Lp99IGfHIkA 「復活」というキリスト教社会の概念が消えてから、個人というものが自覚されて、今までの古典的学問が 再編された。 これがルネッサンスの「人文主義」の正体なのだ。 アクティブな市民が生まれ、そこからコミュニティーへの愛が生まれ、この個人主義はプロテスタンティズムにまで 向かうことになる。 プロテスタンティズムによって再編された個人主義はやがて産業革命を経て資本主義につながる。 そのように生まれたヒューマニズムはかつての意味とは全く内容が変わっていたのだ。 産業革命前のナポレオンの国民国家から、ヒューマニズムはドイツナショナリズムのヒトラーへと 続くことになった。 他者との理解不能が生じ、急速に近代化が進んだために、政治学が生じたのだ。 ワイマール共和国においては、ヒトラーに対する愛国主義レジスタンスがイタリアのミラノの富と結びついた。 命がけの連中こそが、ミラノの富を背景に暴力的推進力で文化を豊かにしたのだ。 これがむしろヒトラーの知的財産となる。 ドイツナショナリズムが確立し、それに抗する愛国心レジスタンスが命がけで「いい生活」を夢見て豊かな文化を 作り出すという構図が、のちに世界の発信源となったのだ。 ドイツのヒューマニズムはその後、ドイツ系のユダヤ人がアメリカに持って行った。 彼らは禁欲主義や信仰への忠実さなどをすでに克服しており、彼らの知的財産を「富」に向けたのだ。 これがアメリカのユダヤ人の正体なのだ。 アメリカに渡ったユダヤの富は、資金力は挑戦者の資格である、という政治コミュニティーを作り上げて、 大西洋をまたいでヨーロッパと共有された。 これが、ナチスナショナリズムと命がけで戦った愛国心レジスタンスが生み出したものだった。 「石屋」と呼ばれるものの正体はこんな感じだろうね。 欧米で共有されたヒューマニズムは、まず、政治コミュニティーがマキャベリとアリストテレスに注目したのだ。 彼らの古典が、人間の命の有限性を語るうえで実に心に響いたのだ。 誰だって一度きりのいい人生を歩みたい。 そんな中で、ユダヤ人の死は現代人にとってはピューリタン革命の二番煎じにしか見えなかった。 マキャベリは「権力の空白」から何が生じるかを語った人だった。 勝手に自分の兵隊を作った連中をどうにかしなければならないことを感じていたのだ。 ユダヤの死から学んだ「一度きりのいい人生を歩みたい」という発想を各家庭はさしたる抵抗もなく受け入れた。 コミュニティーへの愛や、個と公、主観と客観、知識と現実などのいろんな要素が家庭に持ち込まれた。 そうやって「帝国主義段階」は古典を踏まえることで終わりを迎えているのだ。 毛沢東の文化大革命も「劉少奇の追い落としのためにやった」とされているけど、 あれも権力を攻撃するために文化をとりに行ったんだろうね。 文化大革命Youtube http://www.youtube.com/watch?v=pBDb79q4zN0 「正当化できないケガ」というのは反戦運動の発信源でね、アウトレイジはこれをうまく描いているね。 平和というのは時には「力に屈して」もたらされるものだ。 アウトレイジは力に屈しない人間を描いたともいえる。 恐怖からお互いに手出しができないという局面は人生に必ずあるんだ。 そういう状態がやがてお互いを疲れさせて感覚が鈍って平和に向かうんだ。 しかし、敵対心は残るとされる。 これが課題だな。 混乱した連中に「満足」を与えて平和をもたらす方法もある。 アウトレイジはまさに平和の学問でもあるんだ。 「連帯」「お互いの尊敬」「必要性の満足」がある身内同士では暴力はないだろう。 これらを失った時に暴力が起きていることも指摘していい。 アウトレイジに平和を求めるのにも「絶対か身内内部か」「最大か最低限か」「全体か一部分か」という観点が 重要だ。 そうやってみんなを治めていくのに非常にいい学問になる。 「絶対的か身内内部か」という平和の問題も、絶対的な平和のためには強烈なモラルが必要で、 みんながしたがうには時には神が必要になる。 ところが人間は「食べる」生き物だ。その「食べる」ことから「やるかやられるか」という基本が存在するのだ。 人間が「食べる」生き物であるから、カネの動かし方やルールを見抜けば平和をもたらすことができるという 発想は当然持っていいだろうな。 タカ派は好戦的だけど、ハト派はカネにうるさい。タカ派だってハト派のお世話にならないと戦えない仕組みだ。 「最大か最低限か」という平和の問題も、しっかりと身内内部の教育を徹底させて行うという発想もあるし、 ヨハネパウロ二世は「罪のあるものもないものも一貫した人生を歩んでいる。まるで縫い目のない私の衣服のようだ」 と言って善人と悪人の区別をしなかった。 寛大さ私大で平和は大きくも小さくもなるのだ。 指導者が「間違った戦争」を始めると、部下も間違った戦いをしなければならなくなる。 背景には強烈な道徳が求められるのだ。 間違った戦いには裏切り者も生まれるし、戦いへの忍耐力もなくなるのだ。 あるいは、「だいたいの平和でいいんじゃないか?」という発想があり、そこから正当防衛を認める発想につながる。 それは暴力を最後の手段とする考えになり、非常に信頼感の置ける指導者が生まれる。 こういう発想は確かに必要だろう。 「つんくさんの作った悲劇」 悲劇の特徴は「欲望」「深刻さ」「出口がない」の三つの要素からできている。 これをうまく作れば人間は死の恐怖すら克服できるとも言われる。 "Indigo Blue Love" http://www.youtube.com/watch?v=MPvwHg_itCY ”銀色の永遠" http://www.youtube.com/watch?v=Mrq5ik3IiZU 「つんくさんの、父親の書斎とデカい家の風景」 "涙Girl" http://www.youtube.com/watch?v=m8Lw5UBvc1Y お金とかいろんなものを大きな規模で回す(色)といろんな人と仲良くなれる(空)。色即是空。 無我夢中で人生に取り組んでいると時間が無になり(空)あとに何かの業績が残る(色)。空即是色。 これが「色即是空。空即是色」だと考えている。 映画が終わるとクレジットに大勢の名前が列挙されるだろう。 役者や映像監督、構成作家、いろんな技術者の名前が出てくる。 しかし、どんな表現をするかを全体的に理解しているのは監督だ。 サウンドトラックを作れる映画は強いし、ナレーション、クローズアップ、編集などを駆使して、 あとはいい役者をそろえてお金をかけて映画は作られる。 ハンディカムでいろんなものをとっておくといろんな基本の学習が可能だ。 「行動主義者の人気の秘密」 行動主義者は「統合失調症患者のような動きをしない」ことを人気の秘密にしている。 統合失調症患者の動きを研究して「そのような動きをしない」ことを研究するのだ。 箸の上げ下ろしなど関係ない。 「このような動きをしない」ということだけが求められるのだ。 ジェラルドの映像 http://www.youtube.com/watch?v=gGnl8dqEoPQ 先日、衆議院が解散され、総選挙が行われたが、これは憲法7条によるものだ。 さて、この「7条解散」が初めて行われたときに、ある問題が起きた。 吉田茂は、いわゆる「抜き打ち解散」と呼ばれるこの選挙を行ったが、進歩党の苫米地義三が、 落選し、7条解散の是非をめぐって争ったのだ。 この時に裁判所はあることを発見した。 吉田茂は、解散において閣議を招集しておらず、6名の閣僚で解散を決め、署名したのは佐藤・池田・山崎 の三名だけだったのだ。 この署名をもって吉田は那須御用邸を訪れ、天皇裕仁の署名をもらい、解散を行ったのだ。 この選挙は結局「高度統治行為」と呼ばれる天皇の権能を良く表現している。 浄土真宗セクトは、明治時代に宗教界独占を狙って「神道は宗教ではない」といったんだけど、 その思想的基盤は「聖徳太子カルト」なんですよ。 聖徳太子崇拝が親鸞の思想的基盤なんです。 浄土真宗セクトは本地垂迹という立場だ。これは聖徳太子を神と位置付けるために唱えられている。 皇室の流れと仏教の流れから生じたものだ。 聖徳太子の研究を深めたのが親鸞であり、天皇の次男の研究と信仰からカリスマとなったのだ。 専修念仏という思想は阿弥陀仏陀の名前を唱えるものだが、この簡素に集約された思想が 末法思想を背景に一気に広まり、比叡山の嫉妬を買った。 比叡山はもともと念仏を唱えるという思想を始めたところだが、この「専修念仏」の弾圧を後鳥羽天皇 とともに行ったのだ。 親鸞はこの専修念仏の弾圧を回避するために聖徳太子に注目したとも言われる。 朝廷とのつながりを必要としていたのだ。 親鸞を語るうえで「末法」は欠かせない。 末法とは仏陀の入滅から時間が経ちすぎると人々が悟れなくなるのではないかという思想だ。 この思想が、比叡山の僧が秘技を用いて資金を得ていることなどの現状から広まり、 親鸞が阿弥陀仏陀に頭を下げる理由になる。 親鸞は、48回頭を下げるときに18回目だけに集中して深く頭を下げることなどを提唱している。 「高度統治行為」という天皇の政治的実践は日本の民主主義の問題点の位置側面でね。 他にも「部落」「在日」「沖縄」などのマイノリティーについて資料から書いていきたい。 私の資料によると、「部落」の最大の特徴は「下水がないこと」なんですよ。 これで判断できます。 日本政府はこれを基盤にした差別の隠ぺいをしているのですよ。 「在日」というのは日露戦争での韓国併合がきっかけで帝国に朝鮮を加えたことが発端なんですよ。 いちばんのトラウマが「関東大震災での大虐殺」なんです。 これを正確に理解しなければならないんだ。 部落民は170万人。在日は100万人。 これらに「ロータススートラによる仏教連合」という法華経の思想が食い込んだために、創価学会員が多い。 大阪は特に部落民が多いね。今回の選挙でも公明党は強かったしな。 差別だ差別だと言って言論を抹殺するのも「問題の隠ぺい」に加担することなんですよ。 問題は「下水が引けない地域」だということだ。 部落の問題は「いろいろな問題があって下水が引けない」ということだと私は考えている。 「沖縄」というのもエスニックグループなんですよ。 琉球王国としてはじまって、江戸時代に薩摩が搾取をしている。 1879年に日本に編入されて、「在日」「部落」「沖縄」「アイヌ」というのが基本的にエスニックグループなんです。 「下水がない」とか「地震が起きたら殺される」という問題の本質を隠ぺいする言論が「差別だ差別だ」という議論なのだ。 87万人の朝鮮人が戦時中に労働力として日本に連れてこられ、 14万人が陸軍に徴兵され、10万人が海軍に徴兵された。 20万人が従軍慰安婦となったのだ。 今の天皇は大嘗祭に20億円の予算措置を政府に要求している。宮内庁がこれを行った。 即位の際に国民に課した負担は合計221億円にも上る。 このファイナンスを担当したのは中曽根康弘元内閣総理大臣だとされる。 大嘗祭においては、社会党・共産党・公明党・社民連が出席を拒否し、16の県知事もこれを拒んだ。 内閣のもとで大嘗祭を行うのか、それとも独自に行うのかで神道の側から天皇は内閣のもとにはないとして 皇室独自に行うべきであるという主張がなされたようだ。 晩餐会にすら共産党の全メンバーと社会党の一部の議員は出席していない。 「右翼の思想」 本来、自由民主党がテキストブックにしたのが右翼の思想だ。 高校の「現代社会」に自由民主党が圧力を加えることでこの思想は展開された。 自衛隊は合憲であるとか、労働時間の短縮などを主張した。 また、外国人の指紋押捺拒否を一方的な議論であるとして、外国人の特定のために必要であるとした。 さらに、女性が男性と対等に働きたいのであれば一定のモラルを求めたりした。 1982年に中国から戦時中の侵略性の指摘を受けた時には「頭を欠いた豚」と官僚を位置付けた。 1988年には高校二年生のテキストに日本軍の残虐性を欠いた記述を「マイフェアレディー」に差し替えたのは 国家基本問題研究所の亀井静香の圧力だとされる。 税制改革を推進することを教育したり、リクルート事件の記述を省いたり、日の丸君が代を推進したり、 北方領土問題を紹介したり、古事記や日本書紀を紹介して日本が「くにつくり」にのっとることを 明確にしたのが平成の始まりであった。 自由民主党の文教族がやったことだ。 教科書は自由民主党文教族が主導して書いたものだが、日本の軍国主義の肯定や天皇カルトを 基盤にするものであった。 これは自由民主党の思想を表現するものであるとして、中国や韓国が批判を加えたのだ。 海部俊樹はこの教科書検定に関して日本の「真の意図」を中国に告げている。 「その方が試験に受かりやすい仕組みである」としたのだ。 教科書にしたがっていれば試験に受かりやすい仕組みを作り、情報力を身につけるには英語を 用意した。 「政治とカネの基本」 資金力は挑戦者の資格だ。日本では公約や人物像などではなく資金力で政治家の力量を見ている。 歳費・寄附・借り入れなどが政治資金になり、お中元・お歳暮に3万円、結婚式の仲人で7万円、 お祝儀に2万円、お香典に1万円を払うなどが行われている。 政党交付金というのがあるが、実は政治家は政党から「お給料」がでていて、金額は年200万円いかない ともいわれ、あとは講演料や寄付に頼っている。 このメカニズムは、たとえば、所得の低い地域で政治家の影響力が増したり、選挙区内の有権者の 数が少なくても政治家の影響力が増す。 「一票の格差」とは、実は鳥取県の問題で、石破茂氏の強さともかかわる。 これが「政治とカネ」の仕組みなのだ。 フランス革命をドイツから眺めた哲学者がいたのだが、ルイ16世が英国のジョージ三世のように 権力を自制していればこんなことにはならなかったのにな、と思ったそうだ。 つまり、議会があって権力の地位に一般民衆を招き入れていれば革命は起きなかっただろうと 見たのだ。 気まぐれな君主、特権意識に満ちた貴族、ブルジョア階級などが、一般民衆と対立したのだ。 そうでなければ革命なんて起きない。 皇居の半蔵門に行けばわかる。 普通ならだれもあの門をぶち壊そうなどとは思わないほどの恐怖なのだ。 マルクスは、資本主義のもとで労働者が抱く「性格」を議論した。 彼らは「自分で獲得した満足」を得られないことから、悪、臆病、寛大さに欠ける、などの性格をもつとしたのだ。 「より良い意図」よりも「給料」だけを見るようになる。 彼らに美徳をもたらすには、「選ぶ力」「判断する力」「差別する力」「判断力」などが必要だったのだ。 熟練工と非熟練工の違いはここにあった。 マルクスはこの解決法を「団結」に求めたのだ。 「労働者の皆さん団結しましょう」とはこのようなメンタリティーの解決法だった。 上司の悪口も「上司を差別するキャリアシステム」としてまわっているのだ。 「性格」 日本では、明るいとか暗いとかの自然法則のレベルでしか議論されない人間の「性格」であるが、 カントはこれを明確にした。 「ルールを守るか」「人を健康にさせるか」という点に絞ったのだ。 人を健康にさせる性格を「美徳に満ちている」としたのだ。 美徳に満ちているとは「人を助ける」とか「人を否定しない」というようなごく常識的なものであるが、 これこそが人間の感情を豊かにするのだ。 「人を否定する」といのは「罵倒する」という意味ではない。「正しいスピリットで接しない」という意味だ。 人間の性格の魅力とはそういうものだとカントは考えた。 ヒュームはこの「性格」を「人工的」なものと「自然」なものに分けた。 人工的なものはやはり「ルールを守る」ということだが、欲望などを程よく制御してこのルールを守るところに 人間の魅力があると考えた。 また、自然なものは「情熱」に由来すると考えたが、この情熱も、決して暴走せずに「安定して」「程よく制御された」 ものに由来しなければならないだろうと考えた。 安定感とは善悪の区別を明確にするとか、いろいろな議論を行った。 ミルは、性格に関してはもっとリベラルな立場をとり 「物を満たしてくれる人はいい人だ」「他人の関心事を邪魔しない人はいい人だ」 と割り切っていた。 近代の議論では「己が軍人のように自分のマスターであること」がその人の魅力であるとまで割り切る説もある。 「フネさんはマスオさんを抑圧している」 フネは、男性優位の社会を理由に、マスオさんを抑圧している。 彼女はマスオさんが自由になるたびにマスオさんを非難するのだ。 それはサザエさんの自由を守るためだ。 しかし、フネさんは、それを男性優位の社会の性にしてはならない。 自分の責任なのだ。欲望や感情にもとづくものに過ぎない。 この研究を現在進めているところだ。 フネさんは、傲慢さ、自己中心的、無関心、社会的に責任を負っていないこと、などから、 人を抑圧し、自分の人生を繁栄させない。 彼女は「重荷を負った美徳」を肥大化させ、これをマスオさんの抑圧の世界に持ち込む。 マスオさん抑圧の世界を彼女の「重荷を負った美徳」が豊かにしてしまうのだ。 フネさんは、マスオさんに対する優越的地位を受身の形で手に入れているため、 その地位を罪だと考える。 そのためにその地位を繁栄のためではなく、自分の利益のために使うのだ。 フネさんは、彼女のグループ内部の人間でない人への寛大さや同情、協調性を持たずに、開放的ですらない。 フネさんは、男性優位の社会を性的パートナーであるナミヘイから学習している。 道徳的には、フネさんは他者の感情を理解できないし、社会が自分に害を与えないことも知らない。 そのために他人の心も理解できないし、他者を害するし、最終的には悪の権化と化す。 結論から言うと、フネさんに必要だったのは「親の愛情」だったのだ。 あと、自分がマスオさんを抑圧していることと男性優位の社会という構造は全く関係がないということを 理解することが必要だ。 「糖質政治哲学」 法律学的哲学的正確性をもって政治コミュニティーに「W」を打ち込むと、その法律学的哲学的 正確性の精度の高さでエネルギー「E」が決まり、結果としてエントロピー「S」が生まれる。 エントロピー「S」は瞬間的に政治コミュニティーに反応を引き起こすが、リアクションは常にネガティブな 方向に働く。 しかし、「効果はゼロではない」ということを理解して政治活動を行っていくのだ。 外人「日本の地図見たらナチスの施設だらけなんだが……」 http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1344056249/ 256 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/08/04(土) 15:20:11.49 ID:y/Q1dPal0 >>1 >Chosen by Voters ほんと何処にでも出てくるな半島の蛆虫は 258 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/08/04(土) 15:23:58.78 ID:aaqqD82b0 (3/4) >>256 どういうこと? 268 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/08/04(土) 15:36:21.92 ID:2sE7jI2LO >>258 chosen(選ばれた)をローマ字読みしたんだろ 305 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/08/04(土) 15:59:54.48 ID:yaOTWUAi0 >>268 ワロタw 様式美 法然上人は人間の傲慢さを戒めるために、みんなで同じことをする思想に到達し、南無阿弥陀仏を唱えた。 みんなで同じことをすることに意味があったのだ。 そうでなければ、突出した人間が一気にカオスを引き起こすことを知っていたのだ。 カオスを引き起こす人間には個性がある。 しかし、そのカオスを鎮静化させるのに50年かかっても足りないことも知っていた。 人間はカオスの中から学問を見出すものであるが、突出しないことでカオスを逃れることができるという考えをもった。 人間は自分を愛している。 これを理解しないといかなる人間社会の分析も不可能だ。 日蓮などは、突出することで宗教を作ったが、突出することは人間にとって幸せなのだ。 突出してカオスを引き起こすのか、みんなと同じことをしてカオスを鎮静化させるのか。 それは「殺させる対象」になるか、そうでないかの違いだ。 日本で最も影響力の強い地上波に出ている人間が「1年間限界説」があるのも、社会に戻れば いろんな政治的技術で殺されているからであると私は考えている。 地上波で長期政権を作り上げている人をむしろ研究したいほどだ。 涅槃というのは「苦のない世界」という意味だ。 しかし、仏教界の中枢はこれについては沈黙している。 人間は突出することで殺しの対象になるが、殺しのない世界が涅槃だとすれば、 苦のない社会とはたった一人で日本にいることを意味する。 いろんな人の感情がぶつかり合い、神話に惑わされて生きているのだ。 そういう社会では、法然は「みんなと同じことをする」ことがより涅槃に近いと考えたのだろう。 苦行がいいか悪いかは見解が分かれるが、結局、「個性が欲しければやるべき方向はおのずから明らかだろう」 という方向で苦行というのは用いられるべきである。 そうでなければ、苦から逃れる道は見つからないのだ。 これが「涅槃」と「苦行」の関係だ。 「命の危険とテトラビブロス」 まず、太陽と月の距離を見て、満月なら最も遠い、新月なら最も近い。 そんな時にそんな時に、東の地平線から5度から25度にある星座の命の危険を表現する。 時間ごとにコロコロ変わるし、一晩でその瞬間の命の危険も変わる。 満月なら命は安全だし、新月なら命は危険だ。 昼間はどうなのだろうと思うだろうが、明るいのなら自分の心配は自分ですればいい。 闇の世界にこそ占いが必要なのだ。 「その日にどのような行動をとるべきか」 夜が明ける前に、太陽が出るポイントにどの惑星が近いかを見れば行動が決まる。 水星が近づいたら知的な職業を行っている人のパフォーマンスは非常にいい。 土星が近づいたらインスピレーションが良くなる。 木星が近づいたらいい証言者に出会える。 水星と金星が太陽に近づいたら芸術の世界にいい影響を与える。 このように、夜が明ける前の惑星を見てその日の行動が決まることもテトラビブロスに書いてある。 トレミーは「月と太陽」を気象に提供を与えるものと考えたが、今の時代は天気予報でも見ておけばいいだろう。 「スーパーエロゲーション」 義務を超えたことを行うという意味だが、カトリックがこれを求めて、人間の復活を信じれなくなったプロテスタントが これを批判した。 20世紀の中ごろに、「聖者と英雄」という思想でこれが宗教ではない思想としてまとめられている。 道徳というのは価値論と義務論に分かれるが、価値というのは「よいこと」「理想」「美徳」であり、 義務というのは「〜すべき」「義務」「正義」「権利」である。 これらを追求することは幸福を発展させて、それを実現させるのを容易にする。 本物を見極めなと、ただどうやって本物を見極めるのかそれが難題だ。 ひょっとして◆/dRpTBnZTC3yさんって・・・・ ポコリン? 糖質ですがさんは記憶喪失した男さんという、これまた糖質コテのご友人ですよ 二人とも中々読書家です 40代独身撮り鉄が一般女性客を盗撮して鉄道写真ブログで自慢げに披露! 鉄待娘♪ http://blogs.yahoo.co.jp/so_san5016/9424778.html 車内盗撮 http://blogs.yahoo.co.jp/so_san5016/9279183.html 駅ホームで背後から http://blogs.yahoo.co.jp/so_san5016/9522605.html <鉄待娘♪について・・・。> 最近、鉄待娘♪に対するコメントが数多く寄せられておりますが、名誉を著しく傷つけるもの が非常に多いので、そういったコメントに関しては、削除させていただく場合がありますのでご了承下さい。 鉄待娘♪〜列車、電車を待つ時の「携帯娘」を中心に鉄道の風景をアートとして撮っているモ ノです。 もしこの企画に疑問や不快感をもたれる方のご訪問はご遠慮いただければと思います。ちょっと強い言い方になってしまいますが、何卒宜しくお願いいたします。 http://blogs.yahoo.co.jp/so_san5016/9534928.html >大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。 島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて廃人になってしもうた僕が言うんやから、 まちがいないで。僕のほかにも、イジメが原因で精神病になったりひきこもりになったりした子が何人もおる。 教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。イジメに加担する教師すらおった。 誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメはなかった」と言うて逃げるんやろうなあ。 島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな。 >島本町って町は暴力とイジメと口裏合わせと口封じと泣き寝入りの町なんだなあ 子供の時に受けた酷いイジメの体験は、一生癒えない深い傷になる 暴力とイジメの町に巣食うヤクザ・チンピラ・ゴロツキ・不良・ いじめっ子・殺人鬼・ダニ・ ノミ・シラミなどを監視して非難するのは暮らしやすい町を作るのに必要だ https://twitter.com/MIHO_OKUDA/status/576249674794864641 色んなところを紹介しますよ だとさ 否結構ですあなたの 紹介なんぞは さも色んな コネクションを持っています という云い方 ◯◯には売り込みに行きました? 否とっくに行ったって で 梨の礫だったって 趣味の悪いDMやらショップカード 名刺を貰ったが駅の便所に棄てた 22:13 - 2015年3月12日 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、☆ @ 公的年金と生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、 ベーシックインカムの導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば 財源的には可能です。ベーシックインカム、でぜひググってみてください。 A 人工子宮は、既に完成しています。独身でも自分の赤ちゃんが欲しい方々へ。 人工子宮、でぜひググってみてください。日本のために、お願い致します。☆☆ 掲示板で話題のPCを使って稼げる方法とか ⇒ 『山中のムロロモノス』 というブログで見ることができるらしいです。 グーグル等で検索⇒『山中のムロロモノス』 B44TI5GQ2N 友達から教えてもらった嘘みたいに金の生る木を作れる方法 知りたい方だけみるといいかもしれません グーグルで検索するといいかも『ネットで稼ぐ方法 モニアレフヌノ』 JUT75 彦坂様は善人、いじめる悪人たち 【天才彦坂尚嘉様の被虐人生1】 https://youtu.be/luNX7PviUlg 日本国憲法第36条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる