アートのぎりぎりを探求したいスレ
このスレは、某荒らしスレの内部で行われた議論とコミュをもとに
新規にスレたてしたものです。
「これってほんとにアートなん?」
「そもそもアートってなんなん?」
「うんこって綺麗なん?」
こんな素朴な疑問を酒の肴にしながら、あーだこーだ話をするというアバウトなスレです。
(あと、ラピスラズリーという荒らしに対する牽制かつ警備員の詰め所でもあります。)
では、皆さま、どうぞよろしうに。
前スレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1308382790/
この「写真の著作権」に関しては、廃墟を好んで撮影する写真家の撮った写真を見て、
感銘を受け、その写真のデッドコピーではなく、同じ廃墟を同じアングルから
自分で撮影した行為が「物の配置などをオリジナルの撮影家が決めたわけではない」
として、著作権を侵害しないとした判例があるのだ。
ここ、今や2ch随一の荒らしになったラピスをヲチするスレでいんじゃね? なんか難しい話だなぁ
結局どこからどこまでがアートなの?
素材なんかは何でもいいの?
音楽の研究もしたのだが、歌詞のつくり方は「現実を抽象的に表現するのが主流」と
スタンフォードの研究に書いてあって、確かにウォークマンを聞いたらそんな感じだった。
難しい話ではないよ。
アートってたんに、いままでなかったものってことじゃないの?
今までの文脈上なかったものとか、なかった視点とか。
あったものを時代に合わせて料理して
DJのように提供するのはデザイナー。
俺はこれで説明付くと考えてるけど。 自然の中に突然現れる無機質な人工物ってアートだよね
新しくてまだ綺麗な砂防ダムとか見ると「スゲー」って思う >>136
じゃ、地動説はアートかね?
ニュートリノの粒子が光速を越えたという「いままでになかった」論文は文学か?
ちょっと違うような気がするんだよね。頭が悪いから自分でも分からないけど。 >>138
アートの文脈に乗せてないからアートではないのでは?
学問という文脈の上で発見された、今までになかったものなので。
「論文」という形式で発表されていること自体が、学問のフォーマット。
コペルニクスやOPERAがそれを「作品」というフォーマットで
展覧会で発表していればアートとなりうる。
アートの文脈って何?
てか、アートを定義するために「アート」という言葉を持ち出しちゃ、蛇が自分のしっぽを咥えているよ >>140
アートの文脈って要するにアートシーンってこと。
日々進化しているから明確な定義はできないけど
シーンは確実にあるでしょ。
たとえば日本でアートの文脈といえば
展覧会やフェスに出すことだったり、パフォーマンスをすることだったり。
芸術的評価というのは非常に面白いのです。
ベニスの商人で有名な「シャイロックのセリフ」というのがありますね。
「肉を何ポンド」がどうこうという。
あれはなぜ歴史に残るセリフになったのでしょうか。
答えは「あれほど憎しみの込められたセリフはいまだかつて表現されたことはない」
と当時の人々に受け止められたからです。
私の学生時代の民法の先生、米倉明もその本質はご理解されていませんでした。
一部の知識人だけが理解していたのです。
ピカソのキュービズムにせよ、印象派にせよ、いろんな画風はありましたが、
「12トーンシステム」に支配されていたとされています。
つまり、12トーンの絵の具しかなかったということなのです。
それを混ぜ合わせることはできますが、分類としては「12トーンシステム」と
呼ばれていたのです。
現代の画像処理技術はどうなんでしょうね。
ご存知の方がいらしたら教えてもらいたいですね。
クラシック音楽というのも、作曲家は昔の人ばかりですね。
なぜ現代にベートーベンに匹敵する作曲家は現れないのでしょうか。
基本的な構図は「ハイドン・ベートーベン・ストラビンスキー・バルトーク」という「ハイドンカルテットと83人の後継者」
が室内音楽の楽曲を作っています。
当時の国家レベルの資金を投入してこれらの作曲家が音楽を作り上げたのです。
そのため、「室内音楽において、同じ環境ならば、もはやこれ以上の作品は生まれない」
と呼ばれる世界がクラシック音楽なのです。
おカネの問題になってしまいます。
>>142
12トーンって、すごい広いよね。
12色なら分かるが、12トーンは全色じゃないか。
シャイロックのセリフ、かつてなかったということ、
こういうことだよね。アートはこういう知的ゲームだよ。
その時点で、今までになかったものが、アート史に残るからね。
数学と一緒だよ。新しい公式の発見が、積み重なっていく感じ。
誰かが発見した公式の、2番煎じは何の意味も無い、無価値。
なぜベートーベンに匹敵するうんぬんってのも、
こんなの簡単な理屈だよ。
どんな分野にも先行者メリットというのがあるの。
歴史が浅いほど、新しいものを生み出すのは簡単。
今もベートーベン級の天才はいるよ。
でもやりつくされている分、
新しいものを生み出すのが難しくなっている。
ただそれだけの話。 新しいのがいいのはみんな知ってるよ
どういう条件なら新しさを認められるかの方が問題なわけで。 もちろん新しいだけじゃだめだよ。
文脈にのせた知的ゲームってことだよ。
解釈と一緒に提案されることが重要。 大事なのは「その業界への誠実さ」「技術のあくなき探求」だということです。
「なにか新しいもの」を狙うよりもそちらをまず固めないといけないですね。
たとえば「ブレダの開城」という絵がありますね。
あれは「強い相手に勝って最後に相手の忍耐強さをたたえ合うような勝負を美徳とする。
そういう勝負がしたい」というスペイン愛国主義を示しています。
この絵画に関する洋書を購入したのですが、ナッソー将軍の生い立ちから記述があります。
業界への愛がなければできませんよ。
「ブレダの開城」
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2011/11/post-bb03.html
芸術は歴史の上に成り立っており、それらを踏まえていないと「新しい」ではなく、「珍しい」ものになる。 「性欲の研究」ハリソンの医学書。
まずは「リビドー」というものが性欲の発信源である。映像、音声、感触、想像などからリビドーは
生じる。ペニスに血液が流れ込み勃起する。これが射精を経て元に戻れば健康であると言える。
これを出発点に「性欲」は医学の研究の対象になるのだ。
医学書から凄い情報が入りましたよ。
男の性欲は「リビドー」が発信源ですが、
女の性欲は「子供を産みたい」という感情が発信源だそうだ。
重大機密ですよ。
これは。
みなさんも私のブログのアフィリエイトを踏んでハリソンの医学書を買うべし。
今後もブログで情報は出してやるからよ。
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2012/02/post-1f5c.html
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2012/02/post-2d70.html
紫の方の医学書を私は情報源にしている。
確かになあ。
ドグラマグラは永遠の名作じゃなく永遠の奇書だ。
歴史踏まえてないからwww アメリカが軍事目的で研究した”SHINTO”という洋書を取り寄せたのですが、
「太陽信仰」「地蔵信仰」「コミュニティーで神社を支える」という三つが柱だとされ、
今では10万の神社のうち2万人しか神職はおらず、5つの神社を一人で担当するのが
平均だそうだ。
国家の資金で支えることはもはやできないので、「初詣」の賽銭が重視される。
あとは「町内会」「崇敬会」「奉賛会」もコミュニティーの神社を支えている。
明治政府の庇護によって神社は資金力を確保したけど、敗戦と高度成長により、
8万の神社を統括する神社本庁は「皇室崇拝」を資金源にするようになっている。
日本人に「宗教」と「真摯な気持ち」は区別されており、年中行事があることから、
この神社本庁が皇室崇拝を資金源としていることを理解しないといけないのだ。
神社本庁を見るということは「2万人の神職とその家族の生活」をみるということだ。
それ以外にも「町内会」「奉賛会」「崇敬会」にまで広がりをもつものだ。
敗戦による打撃を受けた日本の神社の生き残りを決めたのは三名の論客だ。
葦津珍彦、柳田國男、折口信夫。
この三名が神道の生き残りを決定づける論陣を張った。
1915年に明治神宮ができた時に、多くの日本人は神道が「発明された」と受け止めているのだ。
神武天皇という話もこれを理解しないといけない。
廃仏毀釈というのがあったが、明治維新において、日本人は「純粋な国家」としての新たなスタートを
望んでおり、この時に、すべての寺が糞尿にまみれて破壊されている。
この時に、神道と仏教の明確な区別が生じている。
新国家の幕開けが神道の背景にあるのだ。
日本は明治維新において新国家としてのスタートをするにあたって「過去の批判」を行わなければならなかった。
それがまさに「仏教ブランド」だったのだ。
これが廃仏毀釈だった。
「プリンス」
マキャヴェリは、君主に徳がなければ自分の子孫に権力を譲り渡す資格はないとした。
民衆は非常に卑怯な存在であり、醜い連中だとマキャヴェリは考えていたが、
彼らがしたがうのは「怖い」ものに対してであり、愛情にはしたがわない。
マキャヴェリは「武器の炸裂音」よりも「法律の力」に人々をしたがえる力があると考えた。
そういう国を治める基本から彼は「プリンス」に関して論じている。
統治作用がうまく行っていて、人々に安全が保障されていれば、君主には徳があり、
「プリンス」は世の中のいろいろなものを学習して、「時代の体現者」となれるのだ。
しかし、君主に徳がなく、世の中が殺伐としていれば、「プリンス」への権力の承継は
行われず、その威光も地に堕ちる。
時代の体現者は「国王」ではなく「プリンス」だとマキャヴェリは見ていたのだ。
時代を体現する「プリンス」が多様化するのはいいことだと思う。
権力を批判するプリンスがいてもいいし、権力に従順なプリンスがいてもいい。
女性宮家はしょせんは「男のため」の仕組みなんです。
あまりにも反撃がキツかったから、城一つじゃ足りなかったよw
>>164加筆しました。
戦後の神道を論じた学者に井上順孝がいるが、神道が純粋さを求めたのは近代であり、
中世の仏教や儒教が混合して出来上がったものだと明確に論じた。
国体概念に依拠するにせよ、柳田のようなフォークロアに依拠するにせよ、神社を利用する人が
どのような意識で利用しているかに関しては、神道は明確な立場をとっておらず、
神社を利用する人も明確な立場にはもとづいていない。
神道というのは明らかに「近代の定義だ」とされたのだ。
国体概念・民俗学・神道セクトの三つがうまく合流しているのだ。
さらに、黒田俊雄は「神道は仏教が形を変えた」と主張した。これも「純粋な神道は近代の産物」
とする立場であり、日本古来から続くものであるとされたのは近代の産物としたのだ。
黒田は一方で、6世紀の仏教伝来以前にも神・神話というのがあることを論じた。
8世紀編纂の古事記と日本書紀にそれが記述されているのだ。
実際に、現在残っている神社はこれらの書物に記されている地にあることが多く、
しかし、建物の歴史は書物の記述より新しい。
だが、仏教伝来以前の信仰を基盤に神社が配置されていることは無視できないとする。
とはいえ、近代に神道が「再編された」という前提にそれらの事実があるとしたのだ。
神道は、神話や仏教や陰陽道といったものから何らかの発展を遂げたわけではなく、
これらと共存しており、古代思想を包摂するものであるという説明は近代になされたのであり、
神話のようなものも「近代社会に適合するように」ディストーションを経ているとされる。
神道の最大の問題は、「神、神話、儀式」などが、近代以前に既に存在したということだ。
このことが、近代の再編を経てしまったために、歴史研究を極めて困難にしている。
再編を経た神道が「昔からあるもの」とされてしまう陥穽が存在するということなのだ。
「キャサワリーは病気だった」
ゴルゴ13に「キャサワリー」という作品がある。女暗殺者である「キャサワリー」はレズビアン
であり、ゴルゴが、それを見抜き、下半身をキャサワリーに露出し、
「見ろ。これがレスボスの女が怯えるロッドだ。」といって「ズイズイ」と前にでる。
キャサワリーは逃げ出すのだ。
医学書で「レズの女がロッド(ペニス)を怖がることがあるのか」と調べてみたところ、
「膣けい」という病気があった。「痛みをともなう膣の痙攣性収縮」なのだ。
キャサワリーは「レスボスの女」だからゴルゴの「ロッド」に怯えたのではなかった。
「痛みをともなう」という現実的な理由から、ロッドに怯えたレズビアンだったのだ。
医学書で明らかになったのだ。
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2012/03/post-890a.html
「長征」
長征というのは、毛沢東主義の経験基盤であり、英雄体験と冒険が結果的に勝利に終わったという
物語であることから、非常に魅力的なストーリーだ。
1934年から35年にかけて敢行されたものだ。
しかし、この長征に関する資料が共産党のチェックを経ていて、実はその全貌はあまり明確ではない。
反毛沢東の立場から書かれた資料すら共産党のチェックを経てしまった。
基本的に、長征は3人から5人のリーダーがそれぞれのキャンプに分かれながら同一行動を
とったとされ、そのリーダーの一人が毛沢東だったのだ。
彼らは土地を支配する理論やあらゆる理論に関する議論を戦わせている。
イデオロギー的には単一の「毛沢東主義」というものを長征が生み出したわけではない。
しかし、壊滅的打撃を負ったはずの共産党がよみがえったという物語であることは事実のようだ。
1980年代に中国共産党が長征に関する見解を決定してしまい、その全貌を明らかにすることが
非常に困難になった。
基本的には「左翼」対「毛沢東主義」の戦いであったとされるが、たとえば、「28ボルシェヴィキ」
と呼ばれるソビエト派のグループが実在しないのではないか、あるいは、ソビエトは当時は
毛沢東という人物に興味がなかったのではないかなどと指摘されている。
このことから、長征に関する出版物はいろいろあるけど、長征を「讃える」文献よりも、
「神話」に対して冷静な姿勢をとる記述の方が、より豊かな情報源になると考えられいる。
中国共産党は、長征を敢行する過程でリーダーを生み出していったが、ここで注目すべきなのは、
みんなを率いた人間を指導者としたわけではないということだ。
「成功を生み出す判断をした人」を、「その結果に敬意を払い」あとからリーダーであると承認したということだ。
「脂肪吸引の技術」
実は、超音波器具やマッサージなども有効な手段として認知されているのだ。
しかし、「吸引する」という発想が持ち込まれたのは1976年だ。
重要なポイントは「医者が筋肉の繊維をしっかりと把握している」ということと、
「筋繊維にしたがって体にマジックでラインが引ける」という技術を持っていることが必要だ。
そのうえで「脂肪はどちらからどちらに移動するのか」を理解していること。
それさえ分かれば「吸引するポイント」を一点に絞ることが可能になる。
施術中に患者の姿勢を変えながら、その一点で全部吸い取る技術が脂肪吸引だ。
重要な点は「筋繊維を把握している」ことであり、体にラインを引かせてみれば技術は分かるだろう。
なお、日本の技術では「患者の姿勢を変えないのが主流」とされていて、それではすべての脂肪はとれない。
関係者は「アメリカの技術には学ぶべきことが多い」と語っている。
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2012/03/post-890a.html
「サディズムの研究」
我々は紳士の世界に住んでいるのではない。ボクシングを観ては興奮し、刑務所二は囚人がいる。
ディナーテーブルでも目に見えない言葉のやり取りが行われている。
これは日常の風景だ。
しかし、暴力的な衝動が「性的な快感」と結びつくことをサディズムという。
19世紀に、警察官を多く担当した医者が「奇妙な性的慣習の噂」を本にしたことが歴史的な業績とされている。
これを、「歪曲された天才」が文学にしたのだ。
それがマルキド・サドだ。
マルキド・サドは「暴力とセックスで使って快感を試したが、かろうじてノーマルだった」とも言われている。
彼は「望んでいない結婚」をしていた。
これが彼の出発点だったのだ。
売春婦に高額の報酬を払って暴力を行っていた。
さらに、家政婦を丸裸にして、暴力をふるい、窓から逃げた家政婦は大怪我をして裁判になった。
また、売春婦に「チョコレート」をプレゼントしたが、「スパニッシュフライ」という昆虫の粉を
混ぜていた。これを飲むと人間は激しい下痢をしたり、さまざまな精神症状を引き起こすのだ。
このようなことを実践して、それを文学にする才能が彼にはあった。
「天才的記憶力の秘密」
@覚えた時と思い出すときの条件を同じにする。
A感情を常に刺激する。
B意味のあるものを覚える。
この三つをスタンフォード大学が明らかにしている。
「俺が東大文Tに受かった理由」
@試験の時の条件と同じ時間空間を大量に確保した(机に座った)
Aウォークマンを聴きながら心に軽い刺激を与え続けてリラックスしていた。
B集中して教科書の意味を読んだ。
これだけ。これで人生絶好調モテモテ。
「私が証明です〜東大法学部学生証」
http://www.youtube.com/watch?v=dlayLROvR-A
「奇跡の肖像〜東大法学部学生証」
http://www.youtube.com/watch?v=abiLEw-EWo0
小論文のテーマはほかにも「命」「人生」などがありそうなので機会があったら加筆しておきます。
たとえば「人生の意味」というテーマでも、
@超自然主義(神様が決めてくれた。魂が決めてくれた)
A自然主義(私が決めた。環境が決めた)
Bニヒリズム
の三つの人生があるとされます。
そういう情報を載せていきたいと思います。
人生は意味に満ちた空間だ。アリストテレスは人間の行動を、アクィナスは美しさを、カントは最高の善を
人生に見出そうとした。
幸福や道徳をともないながらも、人間は最終的には「傑出した存在」として人生を終えたいと思っている。
どの人間もそう思っていると割り切って考えると、人間の行動が実に説明しやすくなるのだ。
戦場に行く軍人だって、病気にかかった年寄りだって、平凡な年寄りだって、平凡な主婦だって
「傑出した存在」として人生を終えたがっている、と説明してみよう。
今まで見えなかったものが見えてくるのではないだろうか。
人々が「傑出した存在」として人生を終えようとしているという分析は、小説などの研究から
明らかになったそうだ。
これを語る理由は、人間が徳を積もうとする動機や、家族の複雑な関係を説明するのに
非常に有意義だからである。
それを踏まえて、人々は人生を「意味に満ちた」ものにしようとするし、それに敗れたものは
ニヒリストとして「傑出した存在」になろうとするのだろうとされる。
同じ生き物でも人間というのは「意味に満ちた」量が異なるのは明らかだろう。
意味の少ない人もいるし多い人もいる。これは現実だ。
彼らには徳があったから意味があったわけではない。同じ徳をもっていても意味のあるなしは生じる。
結局、「自分で選択したものの規範的価値」が違うのだとされる。
これが人生の意味を決めている。
正確には、「自主的な選択をする度量によって生じる美徳の価値への評価」が異なる。
人間は「自主的な選択をする度量」があれば幸せでも金持ちでもなくても意味はあると考える。
また、道徳的に正しくなくても「意味はある」と考えるのだ。
このことを理解することは、他の人間の行動を理解するのに非常に意味がある。
「環境の美しさ」
環境に美しさが哲学の議論の対象になったのは1970年代以降だ。
なぜかというと「環境の美しさ」を強調する人が現れたからだ。
結局、環境とは人間が整備したものも含むのであり、広い意味では「日々の生活」について
語ることである。
21世紀に入ってからは、芸術とは独立した領域で「人間活動」を語ることを意味している。
@18世紀の自然の美しさ。
A19世紀の自然の美しさ。
B20世紀の自然破壊と環境問題の緊急性。
C現代の環境問題〜知的な見方・一般的な見方。
D環境の研究の発展。
自然というものは、昔の人にとっては「風景」であり、あまり関心がなかった。
ここに、まず哲学が生まれたのが18世紀だ。
自然を満喫しようという発想を考えた人や、自然が人間に心の平穏をもたらすと考えた人が
現れたのだ。
カントが、それを「美しいもの」として、宗教や経済の領域のみならずさまざまな領域で
芸術に勝るものであるとしたのだ。
18世紀にはむしろ「自然に興味のない人」がいることが自然の研究に役に立ったのだ。
ヨーロッパ庭園やランドスケープがなぜ美しいのかも、大自然の荒々しさや危険も、
自然が「絵になる」という研究も、なぜこれらに興味のない人がいるのだろうという
ことから研究が深まっているのだ。
複雑で、不規則で、豊かで、力に満ちている自然という「絵になるもの」が発見された。
「キリスト教の宗教画」や「女性の裸体」の世界だった絵画の世界に、「絵になる自然」というものが
一気に流れ込んでいくのは自然なことだった。
そういう自然が美しいと認識されたのならば、当然「美学」の対象になるのだ。
それが18世紀の自然だった。
19世紀に入っても、さらには20世紀においても、哲学が問題にしたのは「絵になる自然」
というテーマだった。
カレンダーやポストカードに自然の風景が採用された。
これらの美学をカントから引き継いだのがヘーゲルであり、ヘーゲルは「芸術とは絶対的スピリットの表現である」
として、その基盤を自然の美しさに求めたのだ。
この「自然には絶対的スピリットがある」というヘーゲルの議論で哲学的探求はいったん確立し、
それ以降の研究は進まなかったようだ。
ヨーロッパでは「自然の美しさ」の探求はいったん止まったが、アメリカの方でこの分野の
研究が一気に開けたのだ。
文学作品や、絵画だけでなく、自然科学の分野も開拓された。
地理という学問が発達したのも19世紀のアメリカだったし、地震や洪水のような自然の荒々しさ
から地質学などの分野も発達した。
アメリカでは「美しさ」だけにとどまらない研究がなされ、また、自然への人間の侵略という発想も
生まれた。
20世紀には「自然の美」の哲学は完全に停滞してしまった。アメリカでは様々な活動が
なされていたが、自然に関しては完全に哲学ではなく芸術の分野に議論のメインステージを
奪われていたのだ。
芸術の分野では「人工的につくられたものの美しさこそを追求すべきだ」とも議論されたし、
「自然をどのように二次元で表現すべきか」も議論された。
しかし、哲学と芸術の世界は対話を着実に進めていたとされる。
20世紀に「自然を感じる」ことを率直に表現したのは「朝日の光の中で小鳥のさえずりを感じる」
ことの感動を語った日本ぐらいだろうとも言われていた。
「意思の自由」
哲学者が意思の自由について議論したのは、多くの選択肢の中からなぜ人はこの選択を
したのだろうか、あるいは、この混乱はどのようにもたらされたのだろう、という問題意識から
始まっている。
基本的に「道徳」と意思の自由の関わりから議論したのだが、その後、責任とのかかわり、
自分で決めたかったという発想、人の尊厳、何かを成し遂げたかった、あるいは愛や友情
なども含めて議論した。
結局、「そうしたかった」というのが意思の自由の出発点になったが、それが「現実」と
どう関わるかが大事だ。
@現実とは無関係に人間は意思の自由を持つことができる。
A現実と意思の自由は共存している。
B現実こそが重要であり、意思の自由はない。
この三つの立場が議論された。
この研究に役に立ったのは、タレントがもつ意思の自由に多くの人が注目するという現象だ。
どのような意思の自由が魅力的なのだろうか。
なぜなら、それを観ている聴衆も意思の自由をもっているからだ。
そういう現象を見ることは「意思の自由」の研究を大いに深めてくれたのだ。