アートのぎりぎりを探求したいスレ
このスレは、某荒らしスレの内部で行われた議論とコミュをもとに
新規にスレたてしたものです。
「これってほんとにアートなん?」
「そもそもアートってなんなん?」
「うんこって綺麗なん?」
こんな素朴な疑問を酒の肴にしながら、あーだこーだ話をするというアバウトなスレです。
(あと、ラピスラズリーという荒らしに対する牽制かつ警備員の詰め所でもあります。)
では、皆さま、どうぞよろしうに。
前スレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1308382790/
受験生は何が幸せなんだろう?と考えたことがあるだろうか。
「自分は確実に学習している」「周囲と良好な関係を築いている」「自分で判断している」「いい競争をしている」
これらが自分の心にポジティブなスピンを与えていれば人間というのは幸せなのだ。
「自分を偽ることこそが高度な学習につながる。時には倒錯してまで人間は自分を偽る」
音楽を聴いてタバコを吸って倒錯して高度な学習をしている男。
http://hogakukyoushitu.cocolog-nifty.com/photos/shiryoukann/m1150001.html
宗教で重要なのは「時間の使い方」なんですよ。
将来の運命を予測するのもまさに宗教の核心を形成するし、過去の我々には経験できない
時間を「俺のものだ」と独占しているのが天皇家なんです。
宗教と時間というのは密接にかかわっているんです。
プラトンやニュートンが「時間への尊敬の絶対性」という考えをもっていたようだ。
天皇家のイデオロギーはプラトンやニュートンを基盤にしていて、
それに対抗する宗教は「将来」を標的にするしかなかったのです。
「時間を止める」ということを考えてみよう。
「ゾーンA」「ゾーンB」「ゾーンC]というように、時間を止める空間が異なっていなければ
「スタープラチナ」は成立しない。
相手が止まっていてこちらだけ動いているというのは「ゾーン」が異なるからだ。
これを「ローカルフリーズ」と呼ぼう。
もし、すべてのゾーンが一斉に止まるのならば「空虚な時間のパーティー」に祝福されるだけだ
とされていて、時間を止めることに意味がなくなるのだ。
これがスタープラチナという技術だ。
時間というものを位相幾何学で考えると「一本のライン」であることは明らかであるが、
一本のラインのタイムストリームがあると考えると、出来事との関係が説明できるし、
「始まりはいつだったのだろう」という疑問もわいてくる。
さらには、ラインをゆがめてタイムスリップするという発想も生まれる。
すべて、時間を幾何学的に一本のラインであると考えるから生まれる発想だ。
しかし、タイムスリップというのは「自然法則に反するだろう」というのがスタンフォードの
見解のようだ。
一方で、「時間というのは一時的な秩序に過ぎないのではないか」という強烈な主張がある。
人間はそれぞれの物語をもっており、「Aシリーズ」」「Bシリーズ」というような物語に
時間が関わっている。
そのようなシリーズに、比較可能な共通項として時間が秩序として存在するとしたのだ。
これはかなり有力な主張だった。
「Aシリーズ」には「A神学」が生まれる。これと「Bシリーズ」「B神学」はどう関わるのかが問題だ。
「伊豆の踊子」の学生さんと踊り子は俳優と女優がのちに「シリーズ」「神学」を作ることになるが、
それらのシリーズを作った人たちも実はセックスをしているのが現実だ。
結局、3次元(3Dビュー)と4次元(4Dビュー)というのは物の見方なんだよね。
空間と時間を感じるのは同じだけど、それを「同じ空間」と考えるのが3Dビューで、
「違う空間」と考えるのが4Dビューなんだよ。
ひきこもりでも、ムチャクチャ勉強して学習すれば、3Dビューで同じ空間で見るよりも、
4Dビューでその成長ぶりを眺めたほうがいいことがある。
時間と空間という発想から、「時間が違えばその空間も違う」という発想をとるのが4Dビュー
なんだよ。
その方が物事の見方がうまく行くという概念なんだよ。
心と宗教板の救世の提案で世界が平和。(本当に)3を見て下さい。
見るだけでいいです。本当の美術がここにある。すごすぎる。 ぴったり一年前ではないよね
「一年前」の方は厚着だし・・ 許しとは「関係の再構築」をすることで、相互の悪い感情を解消することができる。
一方で、DVのように「構造が残っているうちは許してはならない」という側面がある。
許しの研究はまさに「サルベーション」にもつながる研究だ。
許しの基本は「何も知らない人間たちがやったことを、全知全能の神が許す」ということだ。
「人を許す」のは実は簡単なのだ。しかし、簡単に人を許しまくる人は自尊心に欠けるし、厳しさもない、
道徳心も確立していないとされる。
怒りや憎しみの炎は自尊心を基盤にしている。
「許せない。許せるはずがない」というのは強烈な自尊心を基盤にしているのだ。
「償い」さだまさし
http://www.youtube.com/watch?v=9KGro0gAZAE
この曲で踏まえなければならないのは、遺族の奥さんが貧乏人への復讐を
成功させて、自尊心が満たされたから許されたということを基盤にしているということだ。
この研究はスタンフォードのものだが、「絶対に許されないこと」をした人間も
「相手の自尊心」さえ狙って行けば許されるということを明らかにしているのだ。
その人が何を嫌っているのかをしっかりと理解しないといけない。
政治闘争でこいつらに手を焼かされた。こんな皇室政治は二度と起こしてはならない。
「死ね死ね団のテーマ」
http://www.youtube.com/watch?v=Mj7U9Je0w5w
ゴルゴ13「キャサワリー」より。
プロは一瞬のチャンスも逃さないものだぜ。お前があの瞬間に引き金を引けなかったのを見て
お前の銃が海水でダメージを受けたのが分かった。
イランとサウジアラビアはライバル国家であり、イランの体制転覆をアメリカが狙っている。
イスラエルは議会の4分の3の連立政権を組み、イランの核施設攻撃を用意している。
イランへの経済制裁は止まらず、イランはもはや「力の均衡」を維持するためには核を持つしかない。
そんななかで、世界最高の国民監視システムをもつイランが、
「瞬間的にサウジアラビアの皇太子をロックオンして殺害した」のが真相だ。
瞬間的にロックオンして殺さないのならもはやプロの世界では「殺さない」ということだ。
「今日をこえて」岡林信康
人間は、他人に心をかき乱されながら生きていくものだし、他者に自分の位置を教えてもらいながら
生きていく宿命だ。しかし、他者からの「戦術的・劇的攻撃」から身を守るためには時には
「俺だけは特別だ」という意識が必要になる。
http://www.youtube.com/watch?v=6qkMTYO9NS4
3次元(3Dビュー)と4次元(4Dビュー)というのは物の見方なんだよね。
空間と時間を感じるのは同じだけど、それを「同じ空間」と考えるのが3Dビューで、
「違う空間」と考えるのが4Dビューなんだよ。
ひきこもりでも、ムチャクチャ勉強して学習すれば、3Dビューで同じ空間で見るよりも、
4Dビューでその成長ぶりを眺めたほうがいいことがある。
時間と空間という発想から、「時間が違えばその空間も違う」という発想をとるのが4Dビュー
なんだよ。
その方が物事の見方がうまく行くという概念なんだよ。
「光太郎は天皇制とともに死ぬ」
聖書に「士誌記」というのがあるが、ここで出てくる「サムソン」という男が
死ぬときに宮殿を破壊して敵とともに死んだという記述を、イスラエルは
採用し、1960年代に「サムソンオピニオン」というのを採用した。
イスラエルは、自国が滅亡するときには核兵器を使用して敵とともに滅亡することを
政策としてまとめあげたのだ。
皇后美智子は、光太郎の死を願っており、もはや、私がノーベル文学賞を
受賞したことから、打つ手を失い、いつまでもぐずぐずと対応が取れない状態だ。
ノーベル賞ほどすべての区切りになる時期はないのに、いつまでも動かず、
薬物攻撃で自体の長期化をはかり、私の自殺を待っているのだ。
美智子は矢う物攻撃で事態を長期化させているために、私は決断を迫った。
「光太郎が死ぬときは天皇制が終わるときである」
という認識を国民で共有するように求めたのだ。
天皇は「ノーベル賞など欲しくはなかった」と事態の混乱にイラついており、
君主としてノーベル賞の権威を否定している。
何度もいうが「光太郎が死ぬときは天皇制が終わるときである」
という認識を国民で共有してもらいたい。
サムソンオピニオン発動のときだ。
皇后美智子は久しぶりに「聖書勉強会」を開き「士誌記」の朗読を
始めている。
ノーベル賞のプリンスと天皇はもはや「イコールフッティング」が完了しており、
決断力のない天皇の機能不全にまず私が「サムソンオピニオン」
の存在を明らかにしたい。
「光太郎が死ぬときは天皇制が終わるときだ」
スタンフォードのようなアメリカの大学のエリートの姿を知りたければ、
ゴルゴ13の「デッドアングル」に出てくるカッツ・ドーベルという
人物を見るといい。
カッツはゴルゴのライバルだ。
「プラトンのドクトリン」
我々の世界の認識方法は誤解や間違いに満ちている。しかし、プラトンは
そういう世界にも真実や完璧さが実はあるのだろうと考えたのだ。
我々の誤解や間違いによって見える世界の中にある「真実や完璧さ」を
プラトンは「イデア」と呼んだのだ。
これがプラトンをアリストテレスやカント以外に並ぶものはない哲学者と
位置づけさせた理由であった。
「ぶおーとした世界」の中で「空気が悪いな」としか感じない我々の感覚
の中にある真実に哲学があるという意味だろう。
へげぞさんのタイトルだけ見てみると面白い。
デカルトの「コギトエルゴスム」(われ思うゆえにわれあり)という議論の中で、
人間というのは「心に自然に湧き出てくるもの」を「価値に頼らずに」感じれば
全知全能だとされているのだ。
つまり、この「二つの直接性」さえ守れば人間は「おれはぜんぶだ」という
気分になるようだ。
このへんはデータ不足なので皆さん試してみてください。
「おれはぜんぶだ」へげぞ
http://ssstory.net/ssstory/story_luv/index.php?search_data=20100908044223583&page_num=4&anthology_name=&poetname=&count=97
「プラトンのパズル」
結局、ぶおーとした世界においては、いろんな仮説を立てるし、不明確さの中で
いろんな理論を立ててみるけど、それらの仮説が有効であるかはなかなか
証明は難しい。
アリストテレスやアクィナス、カントもこれらを試みたけど、
もっとも大胆な形で仮説を立てなのがプラトンだったのだ。
プラトンは実は論文は書いていないのだ。ドクトリンは明らかになっているが、
彼は、「対話」でしか哲学を語っていない。
このことから、これらの対話集がどのようにプラトンの考えを示しているのかは
研究が必要だったのだ。
ソクラテスとの対話も、実はソクラテスはプラトンのフィクションではないかとも
言われたが、アリストファネスはキセノフォンなどが喜劇にしていたので、
ソクラテスが実在することは明らかだとされている。
有価証券報告書をネットで読もう。
企業は資金調達のために企業の情報をここで公表しています。
EDINETのリンクつき。法学部レベルでは「読み方の皮膚感覚が分かればいい」とされています。
http://hogakukyoushitu.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-6420.html
寛大さという概念がなければ、人間は「肯定」か「無関心」しかなくなるとされる。
自分が間違っていると思うことに対して寛大であることを言うが、
寛大であることは、他者を簡単に排除することなく、その人の文脈に沿うことができる
というメリットがある。
しかし、そもそも、簡単に「間違っている」と考えること自体寛大ではないという
パラドックスも指摘されている。
しかし、ネガティブな判断ではなく、非常にいい判断が「寛大さ」なのだ。
そのうえで、寛大さにも限界があることを理解しなければならない。
却下する理由が容認する理由を上回ってしまうポイントは誰もが持っているのだ。
寛大さには三つの段階がある。
規範的に容認できない物事への寛大さ。
実践的に容認できない物事への寛大さ。
ただちに却下すべきものへの寛大さ。
の三つである。
ただちに却下すべきものへの寛大さというのは、まさに寛大ではなく
苦しみや忍耐力に化けてしまう。
苦しみや忍耐力を強いられるのはそれを排除する力がないからなのだ。
ただちに却下すべきものからもたらされる心の状態がどのようなものであれ、
それを排除する力がないからその状態が続くのだ。
>>363
自分の宝石騎士団スレが削除されまくりなのと
このスレのスレ立て人への私怨と
自分の美術鑑賞板他での荒らし行為が記録されているのとで
このスレのスレ立てから一年以上経ってから突如運営に削除依頼を出した
神秘の宝石騎士団のラピスラズリーさん
おはようございます
名前欄に fusianasan といれ
スレのタイトルをレスすると削除されます。 マジで7月18日から今日まで入院させられていた。
施錠の奥の写真を隠し撮りするのに成功したので後でアップする。
とにかく自由になれたのでラーメンを食ってきた。
隠し撮りに成功。
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/photos/dayoff/pic_0024.html
昨日は久しぶりにラーメン屋でラーメンと餃子を食ってきたら、
なぜだか涙が止まらなくなって、泣きながらラーメンを食っていたのだが、
店の人も怪しむそぶりもなく、むしろ長期間の拘束に同情していたようだったな。
アパートの保守がまったくなされておらず、電気も電話も止まるし、携帯はどっかいっちゃうし、
入院中に行った研究を公表するのはしばらく先になりそうだ。
本物のストイシズムの世界からいろんなデータが取れたのだ。 「社会システムを変える方法」〜スタンフォードの見解。
まず、社会で尊敬されることだ。そのあと、ある制度を批判して牢屋に入れられるのだ。
これが、社会システムを暴力を使わずに変える方程式だとされている。
牢屋というのはそのように戦術的に使うことが可能なのだ。
スタンフォードがこれを指摘している。
社会で尊敬されている人が牢屋に入れられることそのものが「社会の道徳パラメーター」を
変えてしまうのだ。
社会で尊敬されている人が、政治犯などで法律に抵触して、牢屋にぶち込まれることそのものが、
「法律的に容認できる政治空間」を作るそうだ。
まさに、このような手法は牢屋を活用した高度な技術なのだ。 牢屋でミオブロック(筋弛緩剤)を静脈注射されないためには、強烈な国益の志向と
人々の尊敬が必要だ。
それをもっていないと命の担保はない。
革命は簡単でいて難しいのだ。
道徳パラメーターを変えるという方法は、「深刻さ」「誠実さ」「道徳的確信」を背景に、法を破るのだが、
強烈な自尊心と道徳的一貫性だけでなく、社会の利益を志向していなければならない。
政府がシステムを変えることをもはや拒否できないことを認識するためにはこれらを踏まえていなければならない。
制度を変えようとする人は、自分の練られた思想を公にして、自分が投獄されたことをショーとして
大衆に示さなければならない。
自由で平等な人間が、その政治的アクションによってこのような目に遭ったことをオープンに
しなければならないのだ。 結局は、学問の勝利でした。
天皇サイドはこの私のレポートを読んでおらず、世間のリアクションを意味不明として、
「もう一度精神病院にぶち込め」という反応を示しました。
スタンフォードを踏まえていれば当然わかることなのです。
この分析を終えて深夜の攻撃は急激に収まっています。 神道の「岩戸神話」というのは「沈みかけた太陽を元に戻す力のあるものは万物をつかさどる」
という思想で、その根本は、「あな面白や」といってアマテラスが岩陰から出てきたように、
面白いことを演じたことが基本にある。
日本がこのような思想を持っていたことに列強が注目したのだ。
それ以外の古事記の記述は「楽園の王朝を作る物語」であるとされている。
和歌や神楽はその「あな面白や」のディテールを作る営みであり、
今回の私のクーデター事件もそれと同じ思想に基づくものだ。
天皇もこのような理論構成には一定の理解を示しているようだ。 天皇は、俺の退院後に猛烈な頭痛を仕掛けてきていて、
「皇居の門は開いている」と言って非公式に連絡をしてきた。
しかし、その後、「実は門前で皇宮警察に拘束させて精神病院に再入院させるつもりだった」
と言うことを明らかにしている。 称徳天皇の信任を得た道鏡というのは頭がよくてね、772年に太陽帝国カルトを
作っているんだ。
理論を作ったから権力に近づいているんだ。
871年に「延喜式」というのができて、大嘗祭から僧を排除したのだが、
藤原氏の権力独占の後に「院政」というのが行われただろ。
平清盛でも分かるように、院政をやった上皇は「寺」をパワーベースにしている。
仏教と神祇カルトは互いに武士を味方につけて争ったんだ。
神社というのも「神祇神社」「二十二社」「総社と一宮」「八幡ネットワーク」の
4つがある。 日本が「ジャパニーズ」という概念を確立したのは宋との貿易や元の襲来があって
中国が日本を世界に紹介してからだ。
それを基盤に吉田カネトモが唯一神道を吉田山に作っている。
それを採用したのが後土御門天皇なんだ。
神とは仏陀の本質の足跡であるとされている。
豊臣秀吉も阿弥陀が峰山頂の豊国社に豊国大明神として神道形式で埋葬されている。
徳川家康も最初は静岡県に神道形式で埋葬されたが、これに異論を唱えたのが
天台宗の天海だ。
東照大権現として日光に埋葬したのが天海だ。 幕府の時代に天皇家が何をやっていたかもアメリカ人は明らかにしている。
徳川綱吉の時代に東山天皇が221年ぶりに大嘗祭をやっている。
それまではまったくの空白期間だった。
歴代天皇のうち41名しか大嘗祭はやっていないんだ。
しかも、米や太陽信仰とは無関係に田植えの前にやっていた。
徳川吉宗が大嘗祭を義務付けている。
新井白石が「将軍家の統治は神に由来する」としたのだが、
幕末に相沢セイシサイが英国やロシアの軍艦を目の当たりにして、
「神とは天皇家だろう」としたのだ。
このあたりが今の天皇家の原点だろう。 大嘗祭に関しては、野坂泰司と坂本是丸の対立が知られている。
野坂が「私事」と位置づけているのに対して、坂本は「慣行の実践」としている。
野坂が通説だろうけど、坂本の見解を自由民主党が採用しているのだ。 入院中にこの神道の洋書を読んでいたんだよ。
アホな連中がせっせといじめていて人生を無駄にしている間にね。
「何でもありは世界最強っすねw」と竹部が笑っている間にねw
残るものはこれだけだよ。 よく、テレビなどでは、「性欲を理性で抑えられる」とか言うが、この「理性」という
言葉を明確にしたのがカントだ。
たとえば、理性というのは固定的なものであるという従来の発想を批判し、
ヒュームの理性に関する議論を「純粋理性批判」により批判し、イギリス経験論から
「実践理性批判」を書いている。
理性というのは、美しさや、分析、対話などと言った、解釈を必要とする困難な
探求が必要であるとし、さらには道徳や経験などともかかわるし、その純粋理性と
実践理性の統合という作業も必要とされる。 我々の知識は感受性と理解から得られるし、また、世界は意味不明な議論から
成立していて、目に見えない空間が成立している。
カントはその世界の中で理性の役割を否定しなかった。
理性の限界は認識しながらも、知識の限界とは異なると考えたようだ。
理性と経験的真実との関係はどうなのか。
科学的な探求。
理性の限界を知ることにどんなメリットがあるのか。
などを探求した。
知識を得る作業は無限に続くが、それが理性の形成と関わっているのだ。 我々は、真実の代わりに理性を用いて判断していると考えていたが、
この点に関するカントの記述はあっさりとしている。
むしろ、幻想にもとづく夢によって物事を判断していると考えたのだ。
それは感覚が間違いを起こさないのに判断を間違えることがあることから、
判断の基盤になる感覚が夢にもとづいているのだろうと考えたのだ。
まるで、太陽が地球を回っていると人間が考えるのと同じことだ。 ニュートンが発見した重力や慣性の法則、さらには、ガリレオが「天国を見てみよう」
と思って作った望遠鏡などがあったからこそ、惑星と星を見てわかるんだ。 我々は神を信じることを望んでいるのだ。
なぜならそのような発想が「理性」というものの必要性と利益をもたらすからだ。
神は、天国へ通じるバベルの塔を作ろうとした人間を罰したが、カントはこれを批判した。
カントは理性のバベルの塔を作ろうとしたのだ。 我々は感覚によって知識を得るが、経験と哲学の仮説は対立するものだ。
我々は世界の経験すべてを味わうことはできないのだ。
見聞を広げて、それでも限界があるから仮説を立てるのだ。 「ヘーゲルの右翼と左翼」
ヘーゲルは、カントの理想主義を体系化した人物だが、彼の後継者によって右翼と左翼という概念が
明確になった。
実存主義が右翼で、理想主義が左翼だとされた。
人生にプロジェクトを動かしている人間は右翼で、影響力を求めて理想を求める人間を左翼としたことになる。
東大受験をしようとする人間には「貴様は右翼か」ということになり、学力もないのに目指している奴は左翼だ。
議会で力をもってプロジェクトを動かせる人間は議席を右側にしめることから右翼であり、
少数派で理想を唱えることしかできない人間は左翼ということにもなる。
この、実存主義=右翼、理想主義=左翼という概念は実に切れ味がいい。 「中国共産党の思想は李大が日本から学んだ」
アジア初の近代帝国日本で共産主義思想が発達するのは中国よりも早かった。
川上肇や山川均から李大が学んでいる。
日本語に堪能な李大が日本語の文献を川上や山川から学んだのだ。
歴史は、人間がつくるものではなく、継承されたものや環境に人間が直面して動くものだという
思想が日本のマルクス主義者に共有されており、
必然的に革命は起きるものだという決定論と、人間の行動から革命は起きるものだというアクティビズム
の議論に緊張関係が生じていた。
川上は、経済こそが革命の原動力だとして、マルクスの思想を発展させていた。
自然から革命が起きるのではなく、社会の不正義やプロレタリアートが革命を起こすと考えた。
さらには、経済や決定論だけではなく、ヘーゲルの哲学からも、敵と矛盾に言語を投げ込むという
理論を李大に教えた。
この李大の思想はのちに偉大な思想家である毛沢東に引き継がれることになった。
中国共産党も1910年代に李大が学んだことを基盤に思想をまとめて行ったのだ。 俺の基本思想。左=スタンフォード哲学。右=東京大学。
テーマソング。Three 6 Mafia"It's a Fight."
http://www.youtube.com/watch?v=2kJMH916DS4 「政治犯収容所〜福井記念病院」
俺は7月18日から11月9日まで政治犯収容所〜福井記念病院に入れられていた。
何をされたかは、内部の人間が「外に出たらばらされるのは分かっているけどやってしまうんだ」
と証言するほど凄惨を極めた。
まずは、保護室での拘束が5日間続いた。
閉鎖病棟の貴重な内部の写真をここに公表したい。
衝撃的だ。
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/photos/dayoff/pic_0024.html 閉鎖病棟で俺の頭にあったのは「国益」だけだった。
それだけが命を守る世界だということを知っていたのだ。 俺はこの国が「安い命」でうろつく国ではないことを知った。 「空を見上げよう」
カントは空を見上げることの意味を語っている。
直感的に時間を感じることができて、見知らぬものへの感受性を磨くのに非常にいい営みだとしたのだ。
勉強の息抜きにやってみよう。 空を見上げることはもはや疑いを超えた世界を見ることであり、幻想にもとづく夢を超えた世界を見ることだ。
すべての条件である時間を感じることができる。時間に包まれた物事が見えなくても、
空を見ると時間を感じることができる。
空と時間の関係をカントは指摘したのだ。 空に時間の恐怖を感じたらカントは宗教界を独占するだろう。 空の時間は将来の経験の可能性と結びついていて、現実社会の経験の進歩とも結びついている。
毎日空を見よう。
成績の向上を感じることができる。 メンデルスゾーンは「絶滅」あるいは「消えゆくこと」を拒絶した(カント)。 メンデルスゾーンの作品は「広がり」「量」「激しさ」を示している。
無限の時間を用いずにこんな作品を作ったエゴこそがメンデルスゾーンの「時間」だった。 次にネットから姿を消したらまた政治犯収容所に入ったと思ってくれ。 ヤスパースは「恐怖や不安の限界」を研究した。
恐怖や不安の限界を経験することは自分の心に新しい領域を開拓するのに非常にいいことなのだ。
受験生はそれを踏まえて戦ってくれ。
恐怖や不安を感じたら「他人と話す」ということ以外に解決法はないということは理解しておこう。
東大ブランドは恐怖の前に成り立っているんだ。
スマートフォンで陣営を組めば怖くねえだろ。 深刻な問題において、我々の欲望が行き過ぎる、あるいは阻止するために私たちは泣くのだ。
「深刻さ」と「欲望」を狙えば泣けるのだ。
トイレの神様
http://www.youtube.com/watch?v=Z2VoEN1iooE 死というのは必ずしも害悪ではない。我々の欲望と死は深くかかわっている。
死こそが「落ち着きがいい」とされることがあるのだ。
その落着きは欲望と関わる。
死は欲望の放棄であるし、生きているうちの欲望をそこそこにおさめて死んでいくのが一番いいとされる。
人生の末路「インカルミネーション」
http://www.youtube.com/watch?v=IWTMuY8Ix1w 悲劇というのは「欲望」と「深刻さ」をうまく絡めて「死よりもっとひどい風景」を描くのだ。
そうしたら死の恐怖が緩和されるんですよ。 色というのは「記憶の共有」で区別している。
色は子供のころから記憶が育って覚えると思うのだが、
「色盲」というのを医学書で調べてみると、赤と緑の区別がつかない奴が「男の子供に多い」と書いてあった。
つまり、大人になれば治っちゃうんだよ。
それが色盲の正体なんだ。
「宮中某重大事件」は時代の産物だったのだ。 映画の哲学というのがスタンフォードにある。
基本的に「どのようなフィールドで」「どのような理由で」作られた作品なのかを見るが、
基本的には人々に支持された作品に哲学者は注目する。
人々に支持された作品を分析したいというのが哲学者の本能なのだ。
映画というのは映像技術ではあるが、舞台を撮影するわけでもなければ日常を撮影するわけでもない。
ナレーションを入れて聴衆の共通認識を作ったり、クローズアップを使って何に注目すべきかを作ったり、
編集技術を使って、客観的に明らかにしたいものを表現するのだ。
我々はフィクションから感情を刺激される。
しかし、実際はそのような経験をしたくないけれども、そのようなシチュエーションの感情を味わいたいのだ。
だから映画を見るとされる。
時には我々の行動に勇気を与えて強烈な動機を与えることもある。
映画のキャラクターは美しく、勇敢で、情報に満ちている。
また、女性を美しく描けるのも映画の特徴だ。 映画が終わるとクレジットに大勢の名前が列挙されるだろう。
役者や映像監督、構成作家、いろんな技術者の名前が出てくる。
しかし、どんな表現をするかを全体的に理解しているのは監督だ。
サウンドトラックを作れる映画は強いし、ナレーション、クローズアップ、編集などを駆使して、
あとはいい役者をそろえてお金をかけて映画は作られる。
ハンディカムでいろんなものをとっておくといろんな基本の学習が可能だ。 人間が中世ヨーロッパで復活を信じなくなった時に、市民であることが強く自覚されるようになった。
それまでは、市民であることとクリスチャンであることは同じ意味であったが、復活という概念が
なくなってから、ヒューマニズムと市民であることが共和制を通じて結びついたのだ。
ヒューマニズムは、その人の人生のプロセスを見るのではなく「瞬間のショット」を見ることにした。
今まで生きてきたことと、喜怒哀楽のすべてを瞬間に賭けたのだ。
これがヒューマニズムの基本だと言っていい。
eminem Lose Yourselg
http://www.youtube.com/watch?v=Lp99IGfHIkA 「復活」というキリスト教社会の概念が消えてから、個人というものが自覚されて、今までの古典的学問が
再編された。
これがルネッサンスの「人文主義」の正体なのだ。
アクティブな市民が生まれ、そこからコミュニティーへの愛が生まれ、この個人主義はプロテスタンティズムにまで
向かうことになる。 産業革命前のナポレオンの国民国家から、ヒューマニズムはドイツナショナリズムのヒトラーへと
続くことになった。
他者との理解不能が生じ、急速に近代化が進んだために、政治学が生じたのだ。 「空(くう)」和辻哲郎。
我々はアジア初の近代帝国で理解不能な人間同士の共同体になった。
そんな中で生まれた思想が「空」であった。
基本は「他人の否定を否定する」ことで、人間の「間」を取り去り、ひとつになるという思想だ。
この状態を「空」と呼んだのだ。
日本人は実はこの「空」のつくり方を非常に得意としているのだ。
「分かる」ことと「分ける」ことは違う。
ぼっちにならないためにも「空」のつくり方の学習は必要なのだ。 「板東英二はハインリヒ・ヒムラーの手法を採用している」
板東さんがゆで卵が好きだというのは周知だろう。
実は、これは板東がたまご関連の業界を資金源としていることを意味する。
かつてはナチスドイツのヒムラーもたまごに注目して資金源にしていた。
板東はテレビで「ゆで卵が好き」と言い続けるたびに、株式欄のいろんな業界から
「お小遣い」をもらえるのだ。
政治と利益集団が結び付くのは当然であり、資金力は挑戦者の資格でもある。
食品関連の企業は営業部長が板東への資金の融通を決めることになる。
それほど日本の地上波の影響力は強いし、今の板東英二は日本のヒムラーと呼んでもいい。
非常に頭のいい人なのだ。