アートのぎりぎりを探求したいスレ
プラトンは実は論文は書いていないのだ。ドクトリンは明らかになっているが、
彼は、「対話」でしか哲学を語っていない。
このことから、これらの対話集がどのようにプラトンの考えを示しているのかは
研究が必要だったのだ。
ソクラテスとの対話も、実はソクラテスはプラトンのフィクションではないかとも
言われたが、アリストファネスはキセノフォンなどが喜劇にしていたので、
ソクラテスが実在することは明らかだとされている。
有価証券報告書をネットで読もう。
企業は資金調達のために企業の情報をここで公表しています。
EDINETのリンクつき。法学部レベルでは「読み方の皮膚感覚が分かればいい」とされています。
http://hogakukyoushitu.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-6420.html
寛大さという概念がなければ、人間は「肯定」か「無関心」しかなくなるとされる。
自分が間違っていると思うことに対して寛大であることを言うが、
寛大であることは、他者を簡単に排除することなく、その人の文脈に沿うことができる
というメリットがある。
しかし、そもそも、簡単に「間違っている」と考えること自体寛大ではないという
パラドックスも指摘されている。
しかし、ネガティブな判断ではなく、非常にいい判断が「寛大さ」なのだ。
そのうえで、寛大さにも限界があることを理解しなければならない。
却下する理由が容認する理由を上回ってしまうポイントは誰もが持っているのだ。
寛大さには三つの段階がある。
規範的に容認できない物事への寛大さ。
実践的に容認できない物事への寛大さ。
ただちに却下すべきものへの寛大さ。
の三つである。
ただちに却下すべきものへの寛大さというのは、まさに寛大ではなく
苦しみや忍耐力に化けてしまう。
苦しみや忍耐力を強いられるのはそれを排除する力がないからなのだ。
ただちに却下すべきものからもたらされる心の状態がどのようなものであれ、
それを排除する力がないからその状態が続くのだ。
>>363
自分の宝石騎士団スレが削除されまくりなのと
このスレのスレ立て人への私怨と
自分の美術鑑賞板他での荒らし行為が記録されているのとで
このスレのスレ立てから一年以上経ってから突如運営に削除依頼を出した
神秘の宝石騎士団のラピスラズリーさん
おはようございます
名前欄に fusianasan といれ
スレのタイトルをレスすると削除されます。 マジで7月18日から今日まで入院させられていた。
施錠の奥の写真を隠し撮りするのに成功したので後でアップする。
とにかく自由になれたのでラーメンを食ってきた。
隠し撮りに成功。
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/photos/dayoff/pic_0024.html
昨日は久しぶりにラーメン屋でラーメンと餃子を食ってきたら、
なぜだか涙が止まらなくなって、泣きながらラーメンを食っていたのだが、
店の人も怪しむそぶりもなく、むしろ長期間の拘束に同情していたようだったな。
アパートの保守がまったくなされておらず、電気も電話も止まるし、携帯はどっかいっちゃうし、
入院中に行った研究を公表するのはしばらく先になりそうだ。
本物のストイシズムの世界からいろんなデータが取れたのだ。 「社会システムを変える方法」〜スタンフォードの見解。
まず、社会で尊敬されることだ。そのあと、ある制度を批判して牢屋に入れられるのだ。
これが、社会システムを暴力を使わずに変える方程式だとされている。
牢屋というのはそのように戦術的に使うことが可能なのだ。
スタンフォードがこれを指摘している。
社会で尊敬されている人が牢屋に入れられることそのものが「社会の道徳パラメーター」を
変えてしまうのだ。
社会で尊敬されている人が、政治犯などで法律に抵触して、牢屋にぶち込まれることそのものが、
「法律的に容認できる政治空間」を作るそうだ。
まさに、このような手法は牢屋を活用した高度な技術なのだ。 牢屋でミオブロック(筋弛緩剤)を静脈注射されないためには、強烈な国益の志向と
人々の尊敬が必要だ。
それをもっていないと命の担保はない。
革命は簡単でいて難しいのだ。
道徳パラメーターを変えるという方法は、「深刻さ」「誠実さ」「道徳的確信」を背景に、法を破るのだが、
強烈な自尊心と道徳的一貫性だけでなく、社会の利益を志向していなければならない。
政府がシステムを変えることをもはや拒否できないことを認識するためにはこれらを踏まえていなければならない。
制度を変えようとする人は、自分の練られた思想を公にして、自分が投獄されたことをショーとして
大衆に示さなければならない。
自由で平等な人間が、その政治的アクションによってこのような目に遭ったことをオープンに
しなければならないのだ。 結局は、学問の勝利でした。
天皇サイドはこの私のレポートを読んでおらず、世間のリアクションを意味不明として、
「もう一度精神病院にぶち込め」という反応を示しました。
スタンフォードを踏まえていれば当然わかることなのです。
この分析を終えて深夜の攻撃は急激に収まっています。 神道の「岩戸神話」というのは「沈みかけた太陽を元に戻す力のあるものは万物をつかさどる」
という思想で、その根本は、「あな面白や」といってアマテラスが岩陰から出てきたように、
面白いことを演じたことが基本にある。
日本がこのような思想を持っていたことに列強が注目したのだ。
それ以外の古事記の記述は「楽園の王朝を作る物語」であるとされている。
和歌や神楽はその「あな面白や」のディテールを作る営みであり、
今回の私のクーデター事件もそれと同じ思想に基づくものだ。
天皇もこのような理論構成には一定の理解を示しているようだ。 天皇は、俺の退院後に猛烈な頭痛を仕掛けてきていて、
「皇居の門は開いている」と言って非公式に連絡をしてきた。
しかし、その後、「実は門前で皇宮警察に拘束させて精神病院に再入院させるつもりだった」
と言うことを明らかにしている。 称徳天皇の信任を得た道鏡というのは頭がよくてね、772年に太陽帝国カルトを
作っているんだ。
理論を作ったから権力に近づいているんだ。
871年に「延喜式」というのができて、大嘗祭から僧を排除したのだが、
藤原氏の権力独占の後に「院政」というのが行われただろ。
平清盛でも分かるように、院政をやった上皇は「寺」をパワーベースにしている。
仏教と神祇カルトは互いに武士を味方につけて争ったんだ。
神社というのも「神祇神社」「二十二社」「総社と一宮」「八幡ネットワーク」の
4つがある。 日本が「ジャパニーズ」という概念を確立したのは宋との貿易や元の襲来があって
中国が日本を世界に紹介してからだ。
それを基盤に吉田カネトモが唯一神道を吉田山に作っている。
それを採用したのが後土御門天皇なんだ。
神とは仏陀の本質の足跡であるとされている。
豊臣秀吉も阿弥陀が峰山頂の豊国社に豊国大明神として神道形式で埋葬されている。
徳川家康も最初は静岡県に神道形式で埋葬されたが、これに異論を唱えたのが
天台宗の天海だ。
東照大権現として日光に埋葬したのが天海だ。 幕府の時代に天皇家が何をやっていたかもアメリカ人は明らかにしている。
徳川綱吉の時代に東山天皇が221年ぶりに大嘗祭をやっている。
それまではまったくの空白期間だった。
歴代天皇のうち41名しか大嘗祭はやっていないんだ。
しかも、米や太陽信仰とは無関係に田植えの前にやっていた。
徳川吉宗が大嘗祭を義務付けている。
新井白石が「将軍家の統治は神に由来する」としたのだが、
幕末に相沢セイシサイが英国やロシアの軍艦を目の当たりにして、
「神とは天皇家だろう」としたのだ。
このあたりが今の天皇家の原点だろう。 大嘗祭に関しては、野坂泰司と坂本是丸の対立が知られている。
野坂が「私事」と位置づけているのに対して、坂本は「慣行の実践」としている。
野坂が通説だろうけど、坂本の見解を自由民主党が採用しているのだ。 入院中にこの神道の洋書を読んでいたんだよ。
アホな連中がせっせといじめていて人生を無駄にしている間にね。
「何でもありは世界最強っすねw」と竹部が笑っている間にねw
残るものはこれだけだよ。 よく、テレビなどでは、「性欲を理性で抑えられる」とか言うが、この「理性」という
言葉を明確にしたのがカントだ。
たとえば、理性というのは固定的なものであるという従来の発想を批判し、
ヒュームの理性に関する議論を「純粋理性批判」により批判し、イギリス経験論から
「実践理性批判」を書いている。
理性というのは、美しさや、分析、対話などと言った、解釈を必要とする困難な
探求が必要であるとし、さらには道徳や経験などともかかわるし、その純粋理性と
実践理性の統合という作業も必要とされる。 我々の知識は感受性と理解から得られるし、また、世界は意味不明な議論から
成立していて、目に見えない空間が成立している。
カントはその世界の中で理性の役割を否定しなかった。
理性の限界は認識しながらも、知識の限界とは異なると考えたようだ。
理性と経験的真実との関係はどうなのか。
科学的な探求。
理性の限界を知ることにどんなメリットがあるのか。
などを探求した。
知識を得る作業は無限に続くが、それが理性の形成と関わっているのだ。 我々は、真実の代わりに理性を用いて判断していると考えていたが、
この点に関するカントの記述はあっさりとしている。
むしろ、幻想にもとづく夢によって物事を判断していると考えたのだ。
それは感覚が間違いを起こさないのに判断を間違えることがあることから、
判断の基盤になる感覚が夢にもとづいているのだろうと考えたのだ。
まるで、太陽が地球を回っていると人間が考えるのと同じことだ。 ニュートンが発見した重力や慣性の法則、さらには、ガリレオが「天国を見てみよう」
と思って作った望遠鏡などがあったからこそ、惑星と星を見てわかるんだ。 我々は神を信じることを望んでいるのだ。
なぜならそのような発想が「理性」というものの必要性と利益をもたらすからだ。
神は、天国へ通じるバベルの塔を作ろうとした人間を罰したが、カントはこれを批判した。
カントは理性のバベルの塔を作ろうとしたのだ。 我々は感覚によって知識を得るが、経験と哲学の仮説は対立するものだ。
我々は世界の経験すべてを味わうことはできないのだ。
見聞を広げて、それでも限界があるから仮説を立てるのだ。 「ヘーゲルの右翼と左翼」
ヘーゲルは、カントの理想主義を体系化した人物だが、彼の後継者によって右翼と左翼という概念が
明確になった。
実存主義が右翼で、理想主義が左翼だとされた。
人生にプロジェクトを動かしている人間は右翼で、影響力を求めて理想を求める人間を左翼としたことになる。
東大受験をしようとする人間には「貴様は右翼か」ということになり、学力もないのに目指している奴は左翼だ。
議会で力をもってプロジェクトを動かせる人間は議席を右側にしめることから右翼であり、
少数派で理想を唱えることしかできない人間は左翼ということにもなる。
この、実存主義=右翼、理想主義=左翼という概念は実に切れ味がいい。 「中国共産党の思想は李大が日本から学んだ」
アジア初の近代帝国日本で共産主義思想が発達するのは中国よりも早かった。
川上肇や山川均から李大が学んでいる。
日本語に堪能な李大が日本語の文献を川上や山川から学んだのだ。
歴史は、人間がつくるものではなく、継承されたものや環境に人間が直面して動くものだという
思想が日本のマルクス主義者に共有されており、
必然的に革命は起きるものだという決定論と、人間の行動から革命は起きるものだというアクティビズム
の議論に緊張関係が生じていた。
川上は、経済こそが革命の原動力だとして、マルクスの思想を発展させていた。
自然から革命が起きるのではなく、社会の不正義やプロレタリアートが革命を起こすと考えた。
さらには、経済や決定論だけではなく、ヘーゲルの哲学からも、敵と矛盾に言語を投げ込むという
理論を李大に教えた。
この李大の思想はのちに偉大な思想家である毛沢東に引き継がれることになった。
中国共産党も1910年代に李大が学んだことを基盤に思想をまとめて行ったのだ。 俺の基本思想。左=スタンフォード哲学。右=東京大学。
テーマソング。Three 6 Mafia"It's a Fight."
http://www.youtube.com/watch?v=2kJMH916DS4 「政治犯収容所〜福井記念病院」
俺は7月18日から11月9日まで政治犯収容所〜福井記念病院に入れられていた。
何をされたかは、内部の人間が「外に出たらばらされるのは分かっているけどやってしまうんだ」
と証言するほど凄惨を極めた。
まずは、保護室での拘束が5日間続いた。
閉鎖病棟の貴重な内部の写真をここに公表したい。
衝撃的だ。
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/photos/dayoff/pic_0024.html 閉鎖病棟で俺の頭にあったのは「国益」だけだった。
それだけが命を守る世界だということを知っていたのだ。 俺はこの国が「安い命」でうろつく国ではないことを知った。 「空を見上げよう」
カントは空を見上げることの意味を語っている。
直感的に時間を感じることができて、見知らぬものへの感受性を磨くのに非常にいい営みだとしたのだ。
勉強の息抜きにやってみよう。 空を見上げることはもはや疑いを超えた世界を見ることであり、幻想にもとづく夢を超えた世界を見ることだ。
すべての条件である時間を感じることができる。時間に包まれた物事が見えなくても、
空を見ると時間を感じることができる。
空と時間の関係をカントは指摘したのだ。 空に時間の恐怖を感じたらカントは宗教界を独占するだろう。 空の時間は将来の経験の可能性と結びついていて、現実社会の経験の進歩とも結びついている。
毎日空を見よう。
成績の向上を感じることができる。 メンデルスゾーンは「絶滅」あるいは「消えゆくこと」を拒絶した(カント)。 メンデルスゾーンの作品は「広がり」「量」「激しさ」を示している。
無限の時間を用いずにこんな作品を作ったエゴこそがメンデルスゾーンの「時間」だった。 次にネットから姿を消したらまた政治犯収容所に入ったと思ってくれ。 ヤスパースは「恐怖や不安の限界」を研究した。
恐怖や不安の限界を経験することは自分の心に新しい領域を開拓するのに非常にいいことなのだ。
受験生はそれを踏まえて戦ってくれ。
恐怖や不安を感じたら「他人と話す」ということ以外に解決法はないということは理解しておこう。
東大ブランドは恐怖の前に成り立っているんだ。
スマートフォンで陣営を組めば怖くねえだろ。 深刻な問題において、我々の欲望が行き過ぎる、あるいは阻止するために私たちは泣くのだ。
「深刻さ」と「欲望」を狙えば泣けるのだ。
トイレの神様
http://www.youtube.com/watch?v=Z2VoEN1iooE 死というのは必ずしも害悪ではない。我々の欲望と死は深くかかわっている。
死こそが「落ち着きがいい」とされることがあるのだ。
その落着きは欲望と関わる。
死は欲望の放棄であるし、生きているうちの欲望をそこそこにおさめて死んでいくのが一番いいとされる。
人生の末路「インカルミネーション」
http://www.youtube.com/watch?v=IWTMuY8Ix1w 悲劇というのは「欲望」と「深刻さ」をうまく絡めて「死よりもっとひどい風景」を描くのだ。
そうしたら死の恐怖が緩和されるんですよ。 色というのは「記憶の共有」で区別している。
色は子供のころから記憶が育って覚えると思うのだが、
「色盲」というのを医学書で調べてみると、赤と緑の区別がつかない奴が「男の子供に多い」と書いてあった。
つまり、大人になれば治っちゃうんだよ。
それが色盲の正体なんだ。
「宮中某重大事件」は時代の産物だったのだ。 映画の哲学というのがスタンフォードにある。
基本的に「どのようなフィールドで」「どのような理由で」作られた作品なのかを見るが、
基本的には人々に支持された作品に哲学者は注目する。
人々に支持された作品を分析したいというのが哲学者の本能なのだ。
映画というのは映像技術ではあるが、舞台を撮影するわけでもなければ日常を撮影するわけでもない。
ナレーションを入れて聴衆の共通認識を作ったり、クローズアップを使って何に注目すべきかを作ったり、
編集技術を使って、客観的に明らかにしたいものを表現するのだ。
我々はフィクションから感情を刺激される。
しかし、実際はそのような経験をしたくないけれども、そのようなシチュエーションの感情を味わいたいのだ。
だから映画を見るとされる。
時には我々の行動に勇気を与えて強烈な動機を与えることもある。
映画のキャラクターは美しく、勇敢で、情報に満ちている。
また、女性を美しく描けるのも映画の特徴だ。 映画が終わるとクレジットに大勢の名前が列挙されるだろう。
役者や映像監督、構成作家、いろんな技術者の名前が出てくる。
しかし、どんな表現をするかを全体的に理解しているのは監督だ。
サウンドトラックを作れる映画は強いし、ナレーション、クローズアップ、編集などを駆使して、
あとはいい役者をそろえてお金をかけて映画は作られる。
ハンディカムでいろんなものをとっておくといろんな基本の学習が可能だ。 人間が中世ヨーロッパで復活を信じなくなった時に、市民であることが強く自覚されるようになった。
それまでは、市民であることとクリスチャンであることは同じ意味であったが、復活という概念が
なくなってから、ヒューマニズムと市民であることが共和制を通じて結びついたのだ。
ヒューマニズムは、その人の人生のプロセスを見るのではなく「瞬間のショット」を見ることにした。
今まで生きてきたことと、喜怒哀楽のすべてを瞬間に賭けたのだ。
これがヒューマニズムの基本だと言っていい。
eminem Lose Yourselg
http://www.youtube.com/watch?v=Lp99IGfHIkA 「復活」というキリスト教社会の概念が消えてから、個人というものが自覚されて、今までの古典的学問が
再編された。
これがルネッサンスの「人文主義」の正体なのだ。
アクティブな市民が生まれ、そこからコミュニティーへの愛が生まれ、この個人主義はプロテスタンティズムにまで
向かうことになる。 産業革命前のナポレオンの国民国家から、ヒューマニズムはドイツナショナリズムのヒトラーへと
続くことになった。
他者との理解不能が生じ、急速に近代化が進んだために、政治学が生じたのだ。 「空(くう)」和辻哲郎。
我々はアジア初の近代帝国で理解不能な人間同士の共同体になった。
そんな中で生まれた思想が「空」であった。
基本は「他人の否定を否定する」ことで、人間の「間」を取り去り、ひとつになるという思想だ。
この状態を「空」と呼んだのだ。
日本人は実はこの「空」のつくり方を非常に得意としているのだ。
「分かる」ことと「分ける」ことは違う。
ぼっちにならないためにも「空」のつくり方の学習は必要なのだ。 「板東英二はハインリヒ・ヒムラーの手法を採用している」
板東さんがゆで卵が好きだというのは周知だろう。
実は、これは板東がたまご関連の業界を資金源としていることを意味する。
かつてはナチスドイツのヒムラーもたまごに注目して資金源にしていた。
板東はテレビで「ゆで卵が好き」と言い続けるたびに、株式欄のいろんな業界から
「お小遣い」をもらえるのだ。
政治と利益集団が結び付くのは当然であり、資金力は挑戦者の資格でもある。
食品関連の企業は営業部長が板東への資金の融通を決めることになる。
それほど日本の地上波の影響力は強いし、今の板東英二は日本のヒムラーと呼んでもいい。
非常に頭のいい人なのだ。 君たちの健康を守る黄金の比率。
以前、「脳の疲労は心拍数の高さで測れ」と言ったが、
その時に紹介したのが、手首での血圧測定法だった。
さて、その機械で血圧が測定できるだろう。
その、最低血圧と最高血圧の比率が常に「3:4」であることに気がついただろうか。
これが血管の状態が正常であることを示しているのだ。
多少の誤差は心配いらない。
「1:2」「1:3」1:4」になって人間は死んでいくのだ。
そう覚えてみてみな。 人間が中世ヨーロッパで復活を信じなくなった時に、市民であることが強く自覚されるようになった。
それまでは、市民であることとクリスチャンであることは同じ意味であったが、復活という概念が
なくなってから、ヒューマニズムと市民であることが共和制を通じて結びついたのだ。
ヒューマニズムは、その人の人生のプロセスを見るのではなく「瞬間のショット」を見ることにした。
今まで生きてきたことと、喜怒哀楽のすべてを瞬間に賭けたのだ。
これがヒューマニズムの基本だと言っていい。
eminem Lose Yourselg
http://www.youtube.com/watch?v=Lp99IGfHIkA
「復活」というキリスト教社会の概念が消えてから、個人というものが自覚されて、今までの古典的学問が
再編された。
これがルネッサンスの「人文主義」の正体なのだ。
アクティブな市民が生まれ、そこからコミュニティーへの愛が生まれ、この個人主義はプロテスタンティズムにまで
向かうことになる。
プロテスタンティズムによって再編された個人主義はやがて産業革命を経て資本主義につながる。
そのように生まれたヒューマニズムはかつての意味とは全く内容が変わっていたのだ。
産業革命前のナポレオンの国民国家から、ヒューマニズムはドイツナショナリズムのヒトラーへと
続くことになった。
他者との理解不能が生じ、急速に近代化が進んだために、政治学が生じたのだ。
ワイマール共和国においては、ヒトラーに対する愛国主義レジスタンスがイタリアのミラノの富と結びついた。
命がけの連中こそが、ミラノの富を背景に暴力的推進力で文化を豊かにしたのだ。
これがむしろヒトラーの知的財産となる。
ドイツナショナリズムが確立し、それに抗する愛国心レジスタンスが命がけで「いい生活」を夢見て豊かな文化を
作り出すという構図が、のちに世界の発信源となったのだ。
ドイツのヒューマニズムはその後、ドイツ系のユダヤ人がアメリカに持って行った。
彼らは禁欲主義や信仰への忠実さなどをすでに克服しており、彼らの知的財産を「富」に向けたのだ。
これがアメリカのユダヤ人の正体なのだ。 アメリカに渡ったユダヤの富は、資金力は挑戦者の資格である、という政治コミュニティーを作り上げて、
大西洋をまたいでヨーロッパと共有された。
これが、ナチスナショナリズムと命がけで戦った愛国心レジスタンスが生み出したものだった。
「石屋」と呼ばれるものの正体はこんな感じだろうね。 欧米で共有されたヒューマニズムは、まず、政治コミュニティーがマキャベリとアリストテレスに注目したのだ。
彼らの古典が、人間の命の有限性を語るうえで実に心に響いたのだ。
誰だって一度きりのいい人生を歩みたい。
そんな中で、ユダヤ人の死は現代人にとってはピューリタン革命の二番煎じにしか見えなかった。
マキャベリは「権力の空白」から何が生じるかを語った人だった。
勝手に自分の兵隊を作った連中をどうにかしなければならないことを感じていたのだ。 ユダヤの死から学んだ「一度きりのいい人生を歩みたい」という発想を各家庭はさしたる抵抗もなく受け入れた。
コミュニティーへの愛や、個と公、主観と客観、知識と現実などのいろんな要素が家庭に持ち込まれた。
そうやって「帝国主義段階」は古典を踏まえることで終わりを迎えているのだ。 毛沢東の文化大革命も「劉少奇の追い落としのためにやった」とされているけど、
あれも権力を攻撃するために文化をとりに行ったんだろうね。
文化大革命Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=pBDb79q4zN0 「正当化できないケガ」というのは反戦運動の発信源でね、アウトレイジはこれをうまく描いているね。
平和というのは時には「力に屈して」もたらされるものだ。
アウトレイジは力に屈しない人間を描いたともいえる。
恐怖からお互いに手出しができないという局面は人生に必ずあるんだ。
そういう状態がやがてお互いを疲れさせて感覚が鈍って平和に向かうんだ。
しかし、敵対心は残るとされる。
これが課題だな。
混乱した連中に「満足」を与えて平和をもたらす方法もある。
アウトレイジはまさに平和の学問でもあるんだ。
「連帯」「お互いの尊敬」「必要性の満足」がある身内同士では暴力はないだろう。
これらを失った時に暴力が起きていることも指摘していい。
アウトレイジに平和を求めるのにも「絶対か身内内部か」「最大か最低限か」「全体か一部分か」という観点が
重要だ。
そうやってみんなを治めていくのに非常にいい学問になる。
「絶対的か身内内部か」という平和の問題も、絶対的な平和のためには強烈なモラルが必要で、
みんながしたがうには時には神が必要になる。
ところが人間は「食べる」生き物だ。その「食べる」ことから「やるかやられるか」という基本が存在するのだ。
人間が「食べる」生き物であるから、カネの動かし方やルールを見抜けば平和をもたらすことができるという
発想は当然持っていいだろうな。
タカ派は好戦的だけど、ハト派はカネにうるさい。タカ派だってハト派のお世話にならないと戦えない仕組みだ。 「最大か最低限か」という平和の問題も、しっかりと身内内部の教育を徹底させて行うという発想もあるし、
ヨハネパウロ二世は「罪のあるものもないものも一貫した人生を歩んでいる。まるで縫い目のない私の衣服のようだ」
と言って善人と悪人の区別をしなかった。
寛大さ私大で平和は大きくも小さくもなるのだ。
指導者が「間違った戦争」を始めると、部下も間違った戦いをしなければならなくなる。
背景には強烈な道徳が求められるのだ。
間違った戦いには裏切り者も生まれるし、戦いへの忍耐力もなくなるのだ。
あるいは、「だいたいの平和でいいんじゃないか?」という発想があり、そこから正当防衛を認める発想につながる。
それは暴力を最後の手段とする考えになり、非常に信頼感の置ける指導者が生まれる。
こういう発想は確かに必要だろう。 「つんくさんの作った悲劇」
悲劇の特徴は「欲望」「深刻さ」「出口がない」の三つの要素からできている。
これをうまく作れば人間は死の恐怖すら克服できるとも言われる。
"Indigo Blue Love"
http://www.youtube.com/watch?v=MPvwHg_itCY
”銀色の永遠"
http://www.youtube.com/watch?v=Mrq5ik3IiZU
「つんくさんの、父親の書斎とデカい家の風景」
"涙Girl"
http://www.youtube.com/watch?v=m8Lw5UBvc1Y お金とかいろんなものを大きな規模で回す(色)といろんな人と仲良くなれる(空)。色即是空。
無我夢中で人生に取り組んでいると時間が無になり(空)あとに何かの業績が残る(色)。空即是色。
これが「色即是空。空即是色」だと考えている。 映画が終わるとクレジットに大勢の名前が列挙されるだろう。
役者や映像監督、構成作家、いろんな技術者の名前が出てくる。
しかし、どんな表現をするかを全体的に理解しているのは監督だ。
サウンドトラックを作れる映画は強いし、ナレーション、クローズアップ、編集などを駆使して、
あとはいい役者をそろえてお金をかけて映画は作られる。
ハンディカムでいろんなものをとっておくといろんな基本の学習が可能だ。 「行動主義者の人気の秘密」
行動主義者は「統合失調症患者のような動きをしない」ことを人気の秘密にしている。
統合失調症患者の動きを研究して「そのような動きをしない」ことを研究するのだ。
箸の上げ下ろしなど関係ない。
「このような動きをしない」ということだけが求められるのだ。
ジェラルドの映像
http://www.youtube.com/watch?v=gGnl8dqEoPQ 先日、衆議院が解散され、総選挙が行われたが、これは憲法7条によるものだ。
さて、この「7条解散」が初めて行われたときに、ある問題が起きた。
吉田茂は、いわゆる「抜き打ち解散」と呼ばれるこの選挙を行ったが、進歩党の苫米地義三が、
落選し、7条解散の是非をめぐって争ったのだ。
この時に裁判所はあることを発見した。
吉田茂は、解散において閣議を招集しておらず、6名の閣僚で解散を決め、署名したのは佐藤・池田・山崎
の三名だけだったのだ。
この署名をもって吉田は那須御用邸を訪れ、天皇裕仁の署名をもらい、解散を行ったのだ。
この選挙は結局「高度統治行為」と呼ばれる天皇の権能を良く表現している。 浄土真宗セクトは、明治時代に宗教界独占を狙って「神道は宗教ではない」といったんだけど、
その思想的基盤は「聖徳太子カルト」なんですよ。
聖徳太子崇拝が親鸞の思想的基盤なんです。
浄土真宗セクトは本地垂迹という立場だ。これは聖徳太子を神と位置付けるために唱えられている。
皇室の流れと仏教の流れから生じたものだ。
聖徳太子の研究を深めたのが親鸞であり、天皇の次男の研究と信仰からカリスマとなったのだ。
専修念仏という思想は阿弥陀仏陀の名前を唱えるものだが、この簡素に集約された思想が
末法思想を背景に一気に広まり、比叡山の嫉妬を買った。
比叡山はもともと念仏を唱えるという思想を始めたところだが、この「専修念仏」の弾圧を後鳥羽天皇
とともに行ったのだ。
親鸞はこの専修念仏の弾圧を回避するために聖徳太子に注目したとも言われる。
朝廷とのつながりを必要としていたのだ。
親鸞を語るうえで「末法」は欠かせない。
末法とは仏陀の入滅から時間が経ちすぎると人々が悟れなくなるのではないかという思想だ。
この思想が、比叡山の僧が秘技を用いて資金を得ていることなどの現状から広まり、
親鸞が阿弥陀仏陀に頭を下げる理由になる。
親鸞は、48回頭を下げるときに18回目だけに集中して深く頭を下げることなどを提唱している。 「高度統治行為」という天皇の政治的実践は日本の民主主義の問題点の位置側面でね。
他にも「部落」「在日」「沖縄」などのマイノリティーについて資料から書いていきたい。
私の資料によると、「部落」の最大の特徴は「下水がないこと」なんですよ。
これで判断できます。
日本政府はこれを基盤にした差別の隠ぺいをしているのですよ。
「在日」というのは日露戦争での韓国併合がきっかけで帝国に朝鮮を加えたことが発端なんですよ。
いちばんのトラウマが「関東大震災での大虐殺」なんです。
これを正確に理解しなければならないんだ。
部落民は170万人。在日は100万人。
これらに「ロータススートラによる仏教連合」という法華経の思想が食い込んだために、創価学会員が多い。
大阪は特に部落民が多いね。今回の選挙でも公明党は強かったしな。
差別だ差別だと言って言論を抹殺するのも「問題の隠ぺい」に加担することなんですよ。
問題は「下水が引けない地域」だということだ。
部落の問題は「いろいろな問題があって下水が引けない」ということだと私は考えている。
「沖縄」というのもエスニックグループなんですよ。
琉球王国としてはじまって、江戸時代に薩摩が搾取をしている。
1879年に日本に編入されて、「在日」「部落」「沖縄」「アイヌ」というのが基本的にエスニックグループなんです。
「下水がない」とか「地震が起きたら殺される」という問題の本質を隠ぺいする言論が「差別だ差別だ」という議論なのだ。
87万人の朝鮮人が戦時中に労働力として日本に連れてこられ、
14万人が陸軍に徴兵され、10万人が海軍に徴兵された。
20万人が従軍慰安婦となったのだ。 今の天皇は大嘗祭に20億円の予算措置を政府に要求している。宮内庁がこれを行った。
即位の際に国民に課した負担は合計221億円にも上る。
このファイナンスを担当したのは中曽根康弘元内閣総理大臣だとされる。
大嘗祭においては、社会党・共産党・公明党・社民連が出席を拒否し、16の県知事もこれを拒んだ。
内閣のもとで大嘗祭を行うのか、それとも独自に行うのかで神道の側から天皇は内閣のもとにはないとして
皇室独自に行うべきであるという主張がなされたようだ。
晩餐会にすら共産党の全メンバーと社会党の一部の議員は出席していない。 「右翼の思想」
本来、自由民主党がテキストブックにしたのが右翼の思想だ。
高校の「現代社会」に自由民主党が圧力を加えることでこの思想は展開された。
自衛隊は合憲であるとか、労働時間の短縮などを主張した。
また、外国人の指紋押捺拒否を一方的な議論であるとして、外国人の特定のために必要であるとした。
さらに、女性が男性と対等に働きたいのであれば一定のモラルを求めたりした。
1982年に中国から戦時中の侵略性の指摘を受けた時には「頭を欠いた豚」と官僚を位置付けた。
1988年には高校二年生のテキストに日本軍の残虐性を欠いた記述を「マイフェアレディー」に差し替えたのは
国家基本問題研究所の亀井静香の圧力だとされる。
税制改革を推進することを教育したり、リクルート事件の記述を省いたり、日の丸君が代を推進したり、
北方領土問題を紹介したり、古事記や日本書紀を紹介して日本が「くにつくり」にのっとることを
明確にしたのが平成の始まりであった。
自由民主党の文教族がやったことだ。
教科書は自由民主党文教族が主導して書いたものだが、日本の軍国主義の肯定や天皇カルトを
基盤にするものであった。
これは自由民主党の思想を表現するものであるとして、中国や韓国が批判を加えたのだ。
海部俊樹はこの教科書検定に関して日本の「真の意図」を中国に告げている。
「その方が試験に受かりやすい仕組みである」としたのだ。
教科書にしたがっていれば試験に受かりやすい仕組みを作り、情報力を身につけるには英語を
用意した。 「政治とカネの基本」
資金力は挑戦者の資格だ。日本では公約や人物像などではなく資金力で政治家の力量を見ている。
歳費・寄附・借り入れなどが政治資金になり、お中元・お歳暮に3万円、結婚式の仲人で7万円、
お祝儀に2万円、お香典に1万円を払うなどが行われている。
政党交付金というのがあるが、実は政治家は政党から「お給料」がでていて、金額は年200万円いかない
ともいわれ、あとは講演料や寄付に頼っている。
このメカニズムは、たとえば、所得の低い地域で政治家の影響力が増したり、選挙区内の有権者の
数が少なくても政治家の影響力が増す。
「一票の格差」とは、実は鳥取県の問題で、石破茂氏の強さともかかわる。
これが「政治とカネ」の仕組みなのだ。 フランス革命をドイツから眺めた哲学者がいたのだが、ルイ16世が英国のジョージ三世のように
権力を自制していればこんなことにはならなかったのにな、と思ったそうだ。
つまり、議会があって権力の地位に一般民衆を招き入れていれば革命は起きなかっただろうと
見たのだ。
気まぐれな君主、特権意識に満ちた貴族、ブルジョア階級などが、一般民衆と対立したのだ。
そうでなければ革命なんて起きない。
皇居の半蔵門に行けばわかる。
普通ならだれもあの門をぶち壊そうなどとは思わないほどの恐怖なのだ。 マルクスは、資本主義のもとで労働者が抱く「性格」を議論した。
彼らは「自分で獲得した満足」を得られないことから、悪、臆病、寛大さに欠ける、などの性格をもつとしたのだ。
「より良い意図」よりも「給料」だけを見るようになる。
彼らに美徳をもたらすには、「選ぶ力」「判断する力」「差別する力」「判断力」などが必要だったのだ。
熟練工と非熟練工の違いはここにあった。
マルクスはこの解決法を「団結」に求めたのだ。
「労働者の皆さん団結しましょう」とはこのようなメンタリティーの解決法だった。
上司の悪口も「上司を差別するキャリアシステム」としてまわっているのだ。 「性格」
日本では、明るいとか暗いとかの自然法則のレベルでしか議論されない人間の「性格」であるが、
カントはこれを明確にした。
「ルールを守るか」「人を健康にさせるか」という点に絞ったのだ。
人を健康にさせる性格を「美徳に満ちている」としたのだ。
美徳に満ちているとは「人を助ける」とか「人を否定しない」というようなごく常識的なものであるが、
これこそが人間の感情を豊かにするのだ。
「人を否定する」といのは「罵倒する」という意味ではない。「正しいスピリットで接しない」という意味だ。
人間の性格の魅力とはそういうものだとカントは考えた。
ヒュームはこの「性格」を「人工的」なものと「自然」なものに分けた。
人工的なものはやはり「ルールを守る」ということだが、欲望などを程よく制御してこのルールを守るところに
人間の魅力があると考えた。
また、自然なものは「情熱」に由来すると考えたが、この情熱も、決して暴走せずに「安定して」「程よく制御された」
ものに由来しなければならないだろうと考えた。
安定感とは善悪の区別を明確にするとか、いろいろな議論を行った。 ミルは、性格に関してはもっとリベラルな立場をとり
「物を満たしてくれる人はいい人だ」「他人の関心事を邪魔しない人はいい人だ」
と割り切っていた。 近代の議論では「己が軍人のように自分のマスターであること」がその人の魅力であるとまで割り切る説もある。 「フネさんはマスオさんを抑圧している」
フネは、男性優位の社会を理由に、マスオさんを抑圧している。
彼女はマスオさんが自由になるたびにマスオさんを非難するのだ。
それはサザエさんの自由を守るためだ。
しかし、フネさんは、それを男性優位の社会の性にしてはならない。
自分の責任なのだ。欲望や感情にもとづくものに過ぎない。
この研究を現在進めているところだ。
フネさんは、傲慢さ、自己中心的、無関心、社会的に責任を負っていないこと、などから、
人を抑圧し、自分の人生を繁栄させない。
彼女は「重荷を負った美徳」を肥大化させ、これをマスオさんの抑圧の世界に持ち込む。
マスオさん抑圧の世界を彼女の「重荷を負った美徳」が豊かにしてしまうのだ。
フネさんは、マスオさんに対する優越的地位を受身の形で手に入れているため、
その地位を罪だと考える。
そのためにその地位を繁栄のためではなく、自分の利益のために使うのだ。
フネさんは、彼女のグループ内部の人間でない人への寛大さや同情、協調性を持たずに、開放的ですらない。
フネさんは、男性優位の社会を性的パートナーであるナミヘイから学習している。
道徳的には、フネさんは他者の感情を理解できないし、社会が自分に害を与えないことも知らない。
そのために他人の心も理解できないし、他者を害するし、最終的には悪の権化と化す。
結論から言うと、フネさんに必要だったのは「親の愛情」だったのだ。
あと、自分がマスオさんを抑圧していることと男性優位の社会という構造は全く関係がないということを
理解することが必要だ。 「糖質政治哲学」
法律学的哲学的正確性をもって政治コミュニティーに「W」を打ち込むと、その法律学的哲学的
正確性の精度の高さでエネルギー「E」が決まり、結果としてエントロピー「S」が生まれる。
エントロピー「S」は瞬間的に政治コミュニティーに反応を引き起こすが、リアクションは常にネガティブな
方向に働く。
しかし、「効果はゼロではない」ということを理解して政治活動を行っていくのだ。 外人「日本の地図見たらナチスの施設だらけなんだが……」
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1344056249/
256 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/08/04(土) 15:20:11.49 ID:y/Q1dPal0
>>1
>Chosen by Voters
ほんと何処にでも出てくるな半島の蛆虫は
258 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/08/04(土) 15:23:58.78 ID:aaqqD82b0 (3/4)
>>256
どういうこと?
268 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/08/04(土) 15:36:21.92 ID:2sE7jI2LO
>>258
chosen(選ばれた)をローマ字読みしたんだろ
305 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/08/04(土) 15:59:54.48 ID:yaOTWUAi0
>>268
ワロタw
様式美 法然上人は人間の傲慢さを戒めるために、みんなで同じことをする思想に到達し、南無阿弥陀仏を唱えた。
みんなで同じことをすることに意味があったのだ。
そうでなければ、突出した人間が一気にカオスを引き起こすことを知っていたのだ。
カオスを引き起こす人間には個性がある。
しかし、そのカオスを鎮静化させるのに50年かかっても足りないことも知っていた。
人間はカオスの中から学問を見出すものであるが、突出しないことでカオスを逃れることができるという考えをもった。
人間は自分を愛している。
これを理解しないといかなる人間社会の分析も不可能だ。
日蓮などは、突出することで宗教を作ったが、突出することは人間にとって幸せなのだ。
突出してカオスを引き起こすのか、みんなと同じことをしてカオスを鎮静化させるのか。
それは「殺させる対象」になるか、そうでないかの違いだ。
日本で最も影響力の強い地上波に出ている人間が「1年間限界説」があるのも、社会に戻れば
いろんな政治的技術で殺されているからであると私は考えている。
地上波で長期政権を作り上げている人をむしろ研究したいほどだ。
涅槃というのは「苦のない世界」という意味だ。
しかし、仏教界の中枢はこれについては沈黙している。
人間は突出することで殺しの対象になるが、殺しのない世界が涅槃だとすれば、
苦のない社会とはたった一人で日本にいることを意味する。
いろんな人の感情がぶつかり合い、神話に惑わされて生きているのだ。
そういう社会では、法然は「みんなと同じことをする」ことがより涅槃に近いと考えたのだろう。
苦行がいいか悪いかは見解が分かれるが、結局、「個性が欲しければやるべき方向はおのずから明らかだろう」
という方向で苦行というのは用いられるべきである。
そうでなければ、苦から逃れる道は見つからないのだ。
これが「涅槃」と「苦行」の関係だ。 「命の危険とテトラビブロス」
まず、太陽と月の距離を見て、満月なら最も遠い、新月なら最も近い。
そんな時にそんな時に、東の地平線から5度から25度にある星座の命の危険を表現する。
時間ごとにコロコロ変わるし、一晩でその瞬間の命の危険も変わる。
満月なら命は安全だし、新月なら命は危険だ。
昼間はどうなのだろうと思うだろうが、明るいのなら自分の心配は自分ですればいい。
闇の世界にこそ占いが必要なのだ。
「その日にどのような行動をとるべきか」
夜が明ける前に、太陽が出るポイントにどの惑星が近いかを見れば行動が決まる。
水星が近づいたら知的な職業を行っている人のパフォーマンスは非常にいい。
土星が近づいたらインスピレーションが良くなる。
木星が近づいたらいい証言者に出会える。
水星と金星が太陽に近づいたら芸術の世界にいい影響を与える。
このように、夜が明ける前の惑星を見てその日の行動が決まることもテトラビブロスに書いてある。
トレミーは「月と太陽」を気象に提供を与えるものと考えたが、今の時代は天気予報でも見ておけばいいだろう。 「スーパーエロゲーション」
義務を超えたことを行うという意味だが、カトリックがこれを求めて、人間の復活を信じれなくなったプロテスタントが
これを批判した。
20世紀の中ごろに、「聖者と英雄」という思想でこれが宗教ではない思想としてまとめられている。
道徳というのは価値論と義務論に分かれるが、価値というのは「よいこと」「理想」「美徳」であり、
義務というのは「〜すべき」「義務」「正義」「権利」である。
これらを追求することは幸福を発展させて、それを実現させるのを容易にする。 本物を見極めなと、ただどうやって本物を見極めるのかそれが難題だ。 ひょっとして◆/dRpTBnZTC3yさんって・・・・
ポコリン? 糖質ですがさんは記憶喪失した男さんという、これまた糖質コテのご友人ですよ
二人とも中々読書家です 40代独身撮り鉄が一般女性客を盗撮して鉄道写真ブログで自慢げに披露!
鉄待娘♪
http://blogs.yahoo.co.jp/so_san5016/9424778.html
車内盗撮
http://blogs.yahoo.co.jp/so_san5016/9279183.html
駅ホームで背後から
http://blogs.yahoo.co.jp/so_san5016/9522605.html
<鉄待娘♪について・・・。>
最近、鉄待娘♪に対するコメントが数多く寄せられておりますが、名誉を著しく傷つけるもの が非常に多いので、そういったコメントに関しては、削除させていただく場合がありますのでご了承下さい。
鉄待娘♪〜列車、電車を待つ時の「携帯娘」を中心に鉄道の風景をアートとして撮っているモ ノです。
もしこの企画に疑問や不快感をもたれる方のご訪問はご遠慮いただければと思います。ちょっと強い言い方になってしまいますが、何卒宜しくお願いいたします。
http://blogs.yahoo.co.jp/so_san5016/9534928.html >大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて廃人になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。僕のほかにも、イジメが原因で精神病になったりひきこもりになったりした子が何人もおる。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。イジメに加担する教師すらおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメはなかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな。
>島本町って町は暴力とイジメと口裏合わせと口封じと泣き寝入りの町なんだなあ
子供の時に受けた酷いイジメの体験は、一生癒えない深い傷になる
暴力とイジメの町に巣食うヤクザ・チンピラ・ゴロツキ・不良・ いじめっ子・殺人鬼・ダニ・
ノミ・シラミなどを監視して非難するのは暮らしやすい町を作るのに必要だ https://twitter.com/MIHO_OKUDA/status/576249674794864641
色んなところを紹介しますよ
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紹介なんぞは さも色んな
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◯◯には売り込みに行きました?
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名刺を貰ったが駅の便所に棄てた
22:13 - 2015年3月12日 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、☆
@ 公的年金と生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、
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公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる