抽象絵画を鑑賞するスレ
解釈、感じ方が人によって大きく異る抽象絵画
感想を勝手に書き込んでってください >>202
室内装飾品というインテリアというか、
家具屋で販売されている額装されたポスターという存在を考えました。
しかしながら、ファインアートにおける批評では装飾という言葉は否定的に使われることがあります。
ファインアートに限定しなければヴォーリンガーのように肯定的な用いられる例もあります。 変形パネルの作品とかになると、立体作品やインスタレーションらしさも合わさって絵画特有のアウラみたいな存在感を感じにくいからか室内装飾品やインテリアぽいのかなと思う。 絵画のアウラっていいね。
美術館にいきたくなっちゃったけど、
今は閉まってるのかな。
ギャラリーも大変だろうな。
オリザ@劇作家の叩かれ方をみてると、
アート関係が目立つことをすると貴族呼ばわりされて憎悪の対象になりそう。 >絵画特有のアウラ
今時の漫画のハンコ絵、ピクシブやSNS上のCGイラストは、
なぜか絵であるにも関わらずアウラが希薄なものが多いように感じる。
工業製品とアウラが反発する概念だとすると、
製作工程が画一化され量産可能なCGイラストというものは、
まさに工業製品的であるがゆえにアウラが希薄なのだといえる。
その意味では、アウラのないCGイラストやハンコ絵は
ミニマルな変形パネル作品の近縁なのだろう。 ただ、工業製品とアウラについてベンヤミンが言ったことが本当に正しいことなのかどうかは分からない。
例えば日本刀などの工芸やベンツやフェラーリなど高級車の洗練された工業技術の中に、ある種のアウラを見る向きもある。
というか日本においては職人魂という形で工芸的洗練を貴ぶ風潮は前近代から強い。
漱石も草枕で「日本は巾着切りの態度(小手先の器用な態度)で美術品を作る」と描写しているように、
これは江戸期以前からの日本美術の特徴で、昨今のCGイラストやフィギュア造型もまたその傾向を示している。
ミニマリストが筆痕を消したり直線や曲線を機械的に加工したりするのも、工業的洗練の中に
ある種のアウラを見ている点では同じである。そこからは洗練するほどアウラが増幅し
手作業の痕が出るほどアウラが減退するという逆転した思考さえ感じることができる。 >>210
> 手作業の痕が出るほどアウラが減退するという逆転した思考さえ感じることができる。
うん、
ありがちだね。 このスレッドには、ミニマリズムという言葉が度々でてくるのだけど、
美術だと、ミニマリズムって結構古くからあったよね。
1960年代くらいからかな。
代替わりをしてそれらしい作品をつくってる人がいるの? >>211
>ありがちだね。
どちらが良いとか悪いとかいうことではなく、
アウラは時代やスタイルによって在処を変えるもので
絵画の筆触にのみ宿る類の概念でもなく、
また前近代の芸術にのみあって工業化された社会から消えたものでもない。 >>212
変形パネルなどの作品がミニマルアートの流れを汲んでいることは確かだろう。
まず純化し、時が経って俗化した消費物になり、日常的なスタイルとして定着した。 どうかな
おうおうにして、
絵を描くことに自信のない人や
絵を観ることに自信のない人は、
筆跡の目立たないを好む傾向があるような、
写真を模した具象画とか、
塗りもののような抽象画とか、
思い込みかな。 >>215
そういう人が多いという印象は、自分も受けるかな。
ジャッドは絵を描くことに自信がなかったので、あの方向に行ったと草間は書いている。
本当かどうか知らんけど。ただ変形パネルで製作しているようなのは一応美術を見る目はあるだろう。
写真を模した具象画、塗りもののような抽象画、これも全部がダメとは言い切れない。 絵画の筆触の何処にアウラが宿るか。
作者がその筆触を形として操作すればフォーマリズムに接近し、アウラは希薄化する。
また作者が筆触を情動や即興、一期一会の動作として認識するなら、それがアウラの根源になるかもしれない。
筆触の形式がアウラを抑え込み現しもする。ただ、後者のみでは美術作品としての体を成さない。 >>215
例えばリヒターやタイマンス、アド ラインハート
写真を模した具象画、塗りもののような抽象画といっても
彼らがそんなネガティブな理由で製作しているとは全く思わないが リヒター、タイマンス、何れも作品を、まとめて観る機会がありました。
色彩は混濁してましたね、
リヒターは油絵の具という素材の扱いにひかれました。
混乱のなかでその質量性に圧倒される感じでした。
ラインハート本人かあるいは同世代の作家か何れかがラインハートの黒い作品の日本での人気に驚いたとインタビューで言っていてのを読んだ覚えがあります。
ぼくは彼のなかでは筆跡が残っている作品の方がひかれます。 リヒターの油絵の具の質量感は確かに大きい。
スキージは筆痕より無機的な印象。でも彫刻的な量を生み出す。
ジェームス・オースティン・マレーやジェイソン・マーティンの作品は
その質量性や金属的質感が強調されたものだろうね。
カラム・インズは筆で描いてるが、ラインハートと共通する技法なのかが少し気になる。 >>216
自信のなさと書いたけど、必ずしもネガティブな意味でもなくて、
混乱のなかに置かれた人は自信の持ちようがないし、そんな人が悶々と悩みながら訳のわからないことしている表現でもひかれるものはありますよ。 >>221
でも215の書き方だと、
筆跡が目立つ作品を描く人は絵を描くのも観るのも自信がある、という風に読めてしまう。
そこは関係ないんじゃない。まあ221を見ると、そういうことが言いたかったんじゃないとは思うけど。 自分は筆痕のあるものも、手作業の痕跡を消したものも、どちらも好きだけど。
どちらか片側から美術を見るということもない。 リヒターの絵の具の質量性といっても、それを感じるのは彼が
絵の具の工業製品としての存在感を前に押し出していることに拠る。
彼の絵もまたアウラ云々とは関係がない。括弧付きの筆痕、スキージ痕だからね。 >>210
> 工業的洗練の中に
ある種のアウラを見ている点では同じである。そこからは洗練するほどアウラが増幅し
手作業の痕が出るほどアウラが減退する
これを感じたことがあるのは、ドイツの名前はド忘れしてしまったが大きな美術館の体育館ほどの室内にジャッドやロバートモリス、カールアンドレたちのデカイ作品たちに囲まれて、静謐ながらどこか穏やかじゃない暴力性を体感した時かなと。
自分(個々)の感受性の差異か、これらを日本でまとまった大きな作品達を見る機会がないからか、あっても狭くて雑音もあってとなると感じ得るのは難しいかもしれない。 >>225
周囲の環境の違いは大きいよね。
一人で山登ったりすると、山塊の存在感をイヤでも感じるのに似てる。 もしかするとアウラの強さは作品そのものではなく周辺空間の大きさと純度に比例するのかも 絵とよばれる制作物では、作品のなかに虚構の空間をこしられていたのではなかったのかな。
虚の空間を廃したもの、
平たいオブジェというもの、
古い美術教育をうけていると対処に困るけど、今となっては普通にある表現なのかな。 >>220
ジェイソン・マーティン、調べてみてあの金属みたいな絵の具をごてーと置くように塗ってるみたいな作品の人かと、イメージと作家名が同定できた、ありがたい。
メタリックペイント系を少しまとめたものです。
https://m.imgur.com/gallery/ifMEHX1
日本にもごてっと金属絵の具を塗ったような絵があったと思いましたが、忘れてしまった。 オブジェとイリュージョンの関係は分けて考えられがちだが
両者は、人間の認知においては不可分ともいえる関係にある。
オブジェとしての立体感は、それを上回る平面上のコントラストがあると容易に消失する。
例としては生物の擬態、ネオンサインなど。映像は光の強さから絵の具以上の奥行効果がある。
リヒターがシャインと呼んだ概念も平面と立体の間を行き来するものを指している。 >>229
メタリック系は、人気がありそうでなさそうなところがよく分からないね。
こういう感じとか。
Peter Krauskopf
Joe Reihsen
ジョーライぜンは盛った上からブラシ吹き付けてる。これが妙に金属的なんだな。
金属系じゃないけど岡崎乾二郎のも嫌いじゃない。 金属でないものを金属的に見せる
これは古来から美術の彩色観にある
そういえば山も川も砂漠も海も航空写真でみると金属的に見える 色彩も形も質量
そういえば相対論の重要な点は時間と距離が同じ量だと言い出したこと
ブラックホールの周囲では時間と長さが混じり合う >>231
確かに2人とも作品によっては金属的なテクスチャがある。
吹き付けの色と角度でそう見えるのかもしれない。
自分はメッキみたいな絵の具の二層構造(それ以上も)を軽微に清々しくないように感じるんだけど、それは偽装のような騙くらかしや隠されていると無意識に感じているからなのかなと思った。
自分もまとめてて岡崎乾二郎はよぎった。 >>235
メッキ的塗装については似た感想、でもそれが絵画の本質かもしれないと思うとちょっと考えてしまうね。 そういえば、芸大の先生もひしゃげた木わくに金属系の塗装を施した布をはってたことがあった。 下地であったり、薄塗りで絵の具を透過させたり、山田正亮の絵が後の研究で塗り重ねの層でもストライプになっているのがわかったりとか、塗り重ねが一見わからない場合やそれが当たり前であると認識している場合には勿論違和感は感じない。
メッキがメッキであるとわかったり剥がれたりした時に
モノマネなんだと改めて認識をして、そこにモノマネ特有の良さを感じ得ることもある。 本場の文化を田舎である日本に紹介するのが意識的美術だったのだから仕方ない。
美術だけではなく純文学や思想だってそんなもの。 >>238
山田正亮は自分も好きだな。
結局塗るという行為は、薄塗りにしろ盛り付けるにしろ削るにしろ、本質的には彫塑的・彫刻的作業ということだね。
つまり全ての絵画作品は、イリュージョンではなく立体に分類されると言ってもいい。
その意味で本当にイリュージョンなのは映像のみなのだが、
知覚の段階ですべてが等価となる(リヒターのシャイン)ので話がややこしい。 ttps://blog.goo.ne.jp/alsun21/e/2b1d981f61351d370655afd0109f39a5
勝手にリンクを貼ったら怒られるかな。
ちょっと削っておく、
この人の絵が好きなんだよな。 >>241
リンク先の作品以外にも見てみると多少雰囲気の異なる作品もあって面白い。暖色が多めで柔らかい感じだ。
岡崎乾二郎に似てるなとと思った。 団塊の10才下、
浅田彰とかとの世代か
しかし、絵を描いてる人って政治運動とか思想被れとかしないよね。 いや結構いるよ。自分の感覚ではそれが全くない絵描きのほうが少ない。
自分も一応あるが、最も尊敬する画家が自分と真逆の思想だったりするので笑
そこはもう度外視して見るようにしている。 今ドイグ展やってるのか。
風景画と、ポスターをモチーフにした絵の並べ方の違いで、少し作品の見え方が補強されてる感じ。
甘ったるい絵だが、ある程度の大きさで水平線が並ぶとそこそこ強度があるようにも見える。
3DVRで十分だな。 抽象以降の具象絵画は実在を描かないのがルールみたいな感じだ。
リキテンシュタインなら、まだ理解できたのだけど、意味や物語によりすぎてないかな。 >>249
こっちのほうがステイニング寄りな感じ、
ドイグの何をそんなに真似たいのかは分からんが。
>>250
実在から仮象への流れだね。
確かに仮象として、反射したものや複製物、映像やVR・ARなんかから題材を取る必然性は別にないね。
そのまま実在を描いても、結局仮象を描いてることになるのだから。
おそらく、ほっとけばまたバカみたいに目の前のものを描きだすだろう。 ただ美術史において、実在に基づいた具象絵画というものは、
近代より少し前にようやく描かれ出したもので、描かれた時期も意外に短い。
よって美術史の大半を空想画、宗教画が占める。
例えばドラクロワの絵画も実在に基づいた具象絵画ではない。が、彼はスケッチに多くの写生画を
残しており、それは空想画を描くための下準備のような役割のものである。
東西を問わず、古代からそういう写生画の方が多く描かれてきた。
それが絵画の主題となったのは近代前後の一期間。その意味では今後も、
何度もリバイバルする可能性が残されているテーマではある。 近代以前の絵画なら、作品の意味は図像学的解釈の段階を経て構成されもしただろうが、
現代においては、個人の内的・心理的イメージをそのような方法で一般化することは出来ない。
ただ、パノフスキーの「知覚的な出来事のすべてが自然に意味を持つ」という指摘、
これは、些末な寓意や意味ばかりが溢れる現代の作品の制作過程にも当てはまる有効な指摘である。 現在、古画をみて喜んでいる人たちが、宗教会議の取り決め通りに観ているかな。
その分野の研究者なら、当然おさえてるのだろうけど、そうでもなければコード化できない細部の集積として観ているのでしょう?
ぼくだってそんなものだし。 フランク・ステラのグシャグシャでは事足りないのだろう。 ステラでは事足りないといっても、
ドイグらみたいなのがそこを埋めているとは思えないが。
この類の作家の方法論は、結局の所シュルレアリスムと大差ない。
加えて、小山ギャラリーが扱っているような甘い色彩の絵が好まれるのは
それがエロティックだから、というだけの話に思える。 そういえば、トム・ウェッセルマンの本当に機械的に塗装されたヌードやオレンジが官能的にみえたことがあった。
刺激的な色彩をやたらと筆跡を残して描いた巨大な抽象画よりも、ウェッセルマンのヌード方が官能的なのは何故かと、結局、意味に反応してしまうということは、もしかしたらあるかもしれない。 意味に反応しないと日常生活が送れないしね。
ウェッセルマンは好きだな。すこしマチスっぽい。 jean-baptiste-besancon
センスが良さそうと思ったらフランス人 トム・ウェッセルマンのはオピーみたいな輪郭線を強調した人物や静物画は好き。
ジーン・デイビスが縦だったからリヒターは横だったのだろうか。(リヒターの方が13歳若いみたい)
リヒターのストライプのやつで縦のはないのかな。 ロバート・スウェインとサンフォード・ワームフェルド
https://m.imgur.com/gallery/6u8G6Cf
共にアメリカ生まれの40年生と42年生
これをストリートとエッジーにアップデートしているのがフェリペ・パントーンだなと思う。
スクエアなカラーブロック、パッチ的な作品も変わらずずっと人気だけど、更新されていると言うのか隙間を取って作り続けられているような。
イーサン・クックの作品は素材もスッキリしててかなり好きだ。 https://www.g-fineart.co.jp/ryaku_MH.html
色見本みたいな作品、不思議と長続きしてるみたいだな。
創造性とか批評性とか独創性とか、そんな言葉とは無縁なように思われるのだけど、
日本だと百瀬寿かな、1944年生まれ。 オピーよりウェッセルマンのほうがエッジが効いてるな。
何でも最初に始めた人というのはかなり確かな感じがある。
その後真似だらけになっていくとどうでもよくなるが。 百瀬は美しいと思う。岡田は、少しテクスチャが残ったものの方が透明感がある気がする。
ヒルマ・アフ・クリント、同じスペクトルを用いてもフェリペ・パントーンなどとは趣きが違う・・、
と言いたいところだが、結局同じような場所を描いているような気もする。 >>262
>>263
ジーン・デイビスとリヒターなら、
ジーン・デイビスの方が横画面に縦ストライプで落ち着いて観られる感じがする。山田正亮もその逆で観やすい。
リヒターのは横画面に横ストライプでキツい感じ。ジーン・デイビスも縦画面ならキツいかもしれない。
イーサン・クックと百瀬は似てるね。どちらもいい。 https://www.wikiart.org/en/milton-avery
ミルトン・エイブリー って雑多な展覧会に混ざってることあるけど、いい絵を描いてると思う。 リキテンスタイン、ウェッセルマン、エイブリー、ロスコ、ホフマン、クラズナー、
マティスから、色々繋がっているのがいい。
ヘムルート・ドーナー、アクリル板に描いたり、ケリーやマチスを想起させるものがあったり、多彩だね。
ギュンター・フォルグ、イミ・クネーベル、ヨゼフ・アルバース、
この辺りのドイツ系作家からは、なぜか共通の色彩感覚を感じる。 ホフマンはマチスに被れていたらしいね。
抽象表現主義の他の作家はシュールレアリズムみたいな方向だったのかな。
ホフマンはドイツ出身のせいか色感もなまっていてマチスっぽくないけど。 >>280
この手の抽象画海外だと結構見るけど
向こうではどう受け取られてるんだろう?
今更〜とか、今更でも良ければいいね!とかかな
描き続けてる人が多いみたいだしある程度は肯定的には捉えられてるみたいだけど、批評家やビッグギャラリーオーナーとかはどう思っているんだろう。 >>280
この人の絵いいね。
彫刻と絵が並んでるのをいくつも見ていると、その間に共通しているものをやっぱり感じるね。 >>279
なんだかんだ言って、シュルレアリスムは幅が広いというか、根が深いというか。 >>284
すごく立体的だな。たまに紛れ込んでる風景画みたいなのも、似た空間性を持っていて面白い。 >>287
明度対比で絵作りしてるから奥行き感じさせるのかな、色使いも綺麗というか慎重だよね。 >>288
そこに絞ってるのはたしかに大きいよね。
あと、エッジが出てる部分は消失点が強く感じられるものだが、
この人のは、そのエッジに、より空間が収斂・拡散して見えるよう、
複層的なボケやブレを(リヒター以上に)コントロールしているように感じられる。 リー・クラズナーはたしかに上手い。
木炭のボカシがマティスのドローイングを思い起こさせるね。 https://twitter.com/richardwhadcock/status/1252914247417413632?s=19
イギリスの画家らしいけど、
ターナーみたいな作風で風景と抽象の間で揺れてるみたいな絵、日本でも似たような作風の人がポツポツいる。
彩度が低めかな、実物を観てみたい。
、ターナーって実物を、みて失望することが何度かあったから。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>294
綺麗だね。ボケとエッジの対比がターナーより極端な感じ。
ターナーはコンスタブルなどに比べると硬質な形態感はないのだが、
それでも膜のような色彩の奥行きは捉えていると思う。 一点透視図法というフィクションに基づいて作画されているのであれば、像はスタティックな一続きの面にならんでいるのかな。
スキージや大きな筆の一刷毛で、まばたきするように、或いはシャッターを落とすように、絵の具を擦り付けられたキャンバスを見せられると、逆に、ルネサンス以降近世までの絵画そこから派生した写真までのなにか想起してしまう。
もしかして、仕掛けとしては、安易なのかもしれないという疑いもある。 古代から現代まであらゆる芸術の中心に幾何学がある。
透視図法やキュビスムはそうした幾何学から派生した考えのほんの一部に過ぎないのだが、
それが安易な仕掛けだと観る向きは昔からあって、実際美術家は幾何学に支配された画面から逃げようと何度も試みている。
しかしこれは否定しようにもすることの出来ない宿命であり、そのことから
美術家にとって幾何学は数学的側面以上に、哲学的宗教的側面を色濃く持つものとして表現されてきた。これは現代美術家も同様だね。 一点透視図法自体を安易といっているのではなくて、
スキージの引き跡や大きな筆の一刷毛が、
が容易く、
瞼やシャッターか、あるいは、眼球網膜への思い込みかからか、
一点透視図法で描かれた絵画空間を想起させることが出来るとすれば、
それは安いというか物足りない。
ということ。 ああ、墨絵なんかにも見られる、ある種の曲芸じみた安っぽさのこと?
ターナー見てガッカリってもしかしてそういう部分? ターナーは、画集でみてるときは、想像でいろいろ補ってたのだと思う。
実作見たら、なんか干からびた感じだし、
密度も感じさせないし。 なるほど。
>>302の人、油彩の透明感はありそうだね。それがなかなか画集では出ないんだけど。