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抽象絵画を鑑賞するスレ
0001わたしはダリ?名無しさん?
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2013/05/05(日) 12:11:55.76
解釈、感じ方が人によって大きく異る抽象絵画
感想を勝手に書き込んでってください
0553わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/13(木) 01:43:13.39
昭和歌謡〜
0554わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/13(木) 02:06:48.12
青い山脈、城ヶ島の雨、四十八茶百鼠という繋がりがあるね。
0555わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/13(木) 02:09:32.38
四十八茶百鼠こそ真理である。
0556わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/13(木) 02:21:45.68
久しぶりに見てきた母校の新校舎、まあまあかな。
0557わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/13(木) 02:43:56.85
まあ校舎も変わる。生きるとは局在的配置を繰り返すことである。
死ぬとはその作用から離れ全体に回帰することであり、認知症や統合失調はちょうどその中間の過程である。
0558わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/13(木) 02:53:09.02
メイヤスーの、この世界には根本的《理由》がない、というのは、
「自然法則レベルですべてはやってる感である」と言い換えられる。
デュシャンの本質もやってる感。ー千葉雅也

局在的配置とは、この「やってる感」のことである。
0559わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/13(木) 02:58:25.85
人間は衣食住が足りているだけでは生きていけない。いや、生きてはいける。
だが、人間は、十分な生活だとしても、こんな生活なら死んだほうがマシだと思うことがある。
それは意味が足りないということだ。ならば、人間において「意味」と「死」は関係している、ということになる。ー千葉雅也

局在的配置とは、この「意味」のことである。
0560わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/13(木) 17:40:18.95
「綏芬河小唄」「国境の町」つながりでいえば、昔、虎頭要塞跡に行ったりもしましたね。
41ミリ榴弾砲の砲座跡がありましたよ。宗教施設以上の強い場所性が魅力ですな。
0561わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/13(木) 18:01:34.46
エランバレーダム群とバーミンガムの関係も同じ。
0562わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/13(木) 23:23:00.61
抽象絵画をはじめとする諸々の芸術が、軍事・土木インフラの完成度と存在感に及ばないのには理由がある。
0563わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/14(金) 13:17:08.52
単に質量の差だけが理由なのではない。
0564わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/14(金) 16:51:06.33
土木と宗教、土地と風化、近代とニヒリズム。
0565わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/14(金) 16:59:42.20
ディーター・キエナストやピーター・ウォーカーらにも抽象画・現代美術同様に欠けているものがある。
近年においては、土木インフラのコンセプトが彼らのような方向に流れているのも事実だが、
隆起と流水侵食が釣り合うことで構成物質と降雨強度を反映しながら安定するヒマラヤの地形のように、
風雨への抵抗と劣化によって、はじめて概念的なインフラは物質化するのである。
最近の例では首都圏外郭放水路を一つの傑作に挙げることができる。
0566わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/14(金) 17:44:48.53
エジプト古王国時代のピラミッドはモニュメンタルなマッス(量塊)であるが、
新王国時代になると量塊にすき間を穿って柱で埋めつくした神殿がつくられる。
ペルシャのペルセポリス、アテネのパルテノンにおける柱主体の建築を経て、
パンテオンを始めとしたローマ古代アーチが出現する。造られた当時は力学や
エンジニアリングは未発達なので、やはりマッス(量塊)で抵抗させている。
西洋美術におけるマッスの起源は、土木由来のものである。
0567わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/14(金) 18:06:00.45
ギリシャ・ローマ建築からラウレンツィアーナ図書館の玄関ホール、シーグラム壁画への流れも膨大な例の一部に過ぎない。
0568わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/14(金) 19:03:56.90
逆に抽象画が土木インフラに影響を与えたことなど皆無に等しい。
0569わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/14(金) 21:21:58.42
まあ近代以降の絵画やアートなんてその程度のもの。
しかし、中世古代となると話は別なんだなこれが。
0570わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/15(土) 01:07:11.76
、、

高速道路や水力発電所のダイナミックな光景は日本中どこでも観ることができる。

あるいは、その気になればアメリカの軍艦すらも観ることができる。

なのに、美術館やら画廊やらに足を運んで、チマチマとした抽象絵画とやらを鑑賞したり、

あるいは、画家になろうとしたり、
何故?

オロカメンのようだ。
0571わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/15(土) 02:44:29.27
そうね〜
0572わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/16(日) 19:17:38.52
チマチマは言い得て妙ですね。

鑑賞したり画家になったりというのは、ただただ依然として絵の力を信じているということだが、
しかしその力を取り戻す道は、今では全くと言ってよいほど閉ざされている。
0573わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/16(日) 19:18:51.16
モダニズム以降発展を続けてきた巨大インフラと、その中のチマチマとした個の表現との乖離、
それはそのまま社会の状況の反映である。近代は産業における技術革新と同時に、
権利と称して表現を個の枠の中へ押しやった。個の枠、それは文字通り、額縁の歴史とも関係するものである。
0574わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/16(日) 19:23:57.37
額縁は元々キリスト教会の壁画や祭壇画のための縁取りであり、神聖なものへの差別化の役割があった。
西洋における額縁の発祥地イタリアでは、額縁をコルニーチェと呼ぶ。
これは屋根のすぐ下にある「軒」のことであり、建築様式から発生した語である。
古代・中世からルネサンスにかけて、額縁は建築様式を反映して柱·梁などの形態のものが多かった。
サンピエトロ寺院ではアーチに沿って、大量に額状のレリーフが施されている。

16世紀、ヴェネツィアの芸術家たちが油彩の支持体としてキャンバスを使い始め、
また神の分祀や布教の目的で壁画は持ち運びができるタブロー形式へと発展、
額縁も壁面から独立して、絵画とともに移動可能なものに変化した。
17世紀に入ると、一般市民の間でも壁に額縁付きの絵をかけて楽しむようになった。 
0575わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/16(日) 19:28:17.75
そのような近代市民社会形成過程における「個のめざめとその枠」は、
額縁自体を取り払ったり、変形キャンバスを用いる現代もなお、そこに存在し続けているものである。
技巧的に優れた抽象絵画などはたくさんあるが、それが個の枠内の表現である以上、
面的な文化景観を醸成することはない。前衛〇〇、現代〇〇と言ってもそれは17世紀からの巨大な慣習であり、
けし粒のような個の表現とその間にあるチマチマしたコミュニケーションの起源もその時代にある。
0576わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/16(日) 19:31:40.22
本来、絵は土木建築と一体でなければその真価を発揮しない。
先史・古代における岩壁・洞窟の岩絵や寺院を埋め尽くす壁画の迫力は、
絵の背後に巨大なマッスを背負うことによって生み出される力である。

量塊と絵は相反しつつ調和するよう役割が考えられており、
絵は入れ墨のようにマッスを打ち消し空間を再構成するように描かれる。
古代の神殿は総じてカラフルなものであり、そのサイケデリックな効果は
背後の量塊の大きさと密接に関係するものである。
0577わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/16(日) 19:35:17.25
といっても、現代における壁画、バンクシーや、だまし絵のような壁画アーティストらの仕事、
フェリペ・パントーンのようにややスケールの大きい仕事も、所詮近代的個の枠を出る表現ではなく、
ある意味、巨大インフラやガード下へ施されたスプレーによる作者不明の落書き群のほうが、
その没個性性を含めて古代絵画に類似した在り方と力を継承しているともいえる。
ただストリートアートに対する世間の評価は芳しいものではない。
0578わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/16(日) 19:43:29.70
2005年に水戸芸術館で「X-COLOR/グラフィティ in Japan」展があり、さまざまな取組みや提案があったらしいが、
その時以上に今の世の中は厳しい状況のような気がする。落書き自由のマッシブで真っ白な建造物が、
誰かまたは共同で提案されればよいのだろうが、世間的にいらないという声が多いのなら、まあ別にいらないだろう。
絵の本質には事物の廃墟化という側面があって、それはなかなか扱うのが難しい性格のものではある。
0581わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/16(日) 21:42:56.20
本来というのは、歴史的経緯において、という意味ですが、
では絵の価値とは無関係かといえば、「タブローでいいや」とはならないので、
そこは自分の中では関係してきますね。ちなみに断定口調なのはひとり言だからです。
感動しないのは、自分もそうですね。
今のグラフィティアートの内容にも別に興味はない。それは抽象画も同じですね。
技巧的には似たり寄ったりですから。なので、絵の中身ではなく場所について考えることが多くなりますね。
0582わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/17(月) 01:30:51.81
美術館や画廊に展示された作品間の細かな技巧的差異を珍重したい、とするのが保守なら、
美術館や画廊での展示という因習的な制度自体を受け付けない、とするストリートアートは革新である。
ただストリートアートは美術館以前の方法へと回帰しているのだから、結局はどちらもカビ臭い保守である。
ということで、やはり芸術は、革新も前衛もない、ただ保守が徘徊するだけのカビ臭い廃墟である。
そこで、「本来」の廃墟に立ち返る。
0583わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/17(月) 01:55:50.95
現実に生き生きと稼働しているように見せかけているものは、すべて廃墟である。
全ては、忘れられた時に息を吹き返し、光るともなく、光る。しかしそれは現実でない。
0584わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/17(月) 15:26:52.50
普通に考えて、

神殿やら教会やらにしか画像がなかった社会における、その価値と、

ありとあらゆるところに、画像や映像が溢れている社会における、画像の価値を比較したり、

あわよくば、
維持しようとしたりすること自体無理。

誰か資産を守るためのばか騒ぎに過ぎないと考えるならば、関わらないことだと。
0586わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/17(月) 18:07:29.52
素材と結びついているのが絵画。画像は光学的情報。
なんにせよ普通に考えて、その類の比較自体はよくあるものですよ。
単線的歴史過程で考えるから比較できないとなっちゃうだけで、
実のところ絶対主義と相対主義の話。
また相対主義は自己言及のパラドックスを含んでいるので、
必ずしも絶対主義に対して優位性を持つものでもない。
いくら科学が発達しても社会はこの両者の間を揺れ動く。
あと、維持とか復古とかしなくていいんですよ。
廃墟になればいいと言ってるのです。要は、ハイキョの管理の仕方。
あと、場所は存在論のハナシです。
0587わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/17(月) 18:12:19.82
感動ということについていえば、そもそも感動する実体がないということが
絵画もしくは芸術における感動の性質である。
そこには支持体、塗膜、色の間の仏教的な意味での関係性しかない。
また石や板、紙は古来より宗教的伝統を持つ素材であり、
それらが支持体になっている作品からは塗膜との間に宗教的な意味と関係性が生じるが、
支持体が俗な量産品としてのキャンバスやベニヤ(近世のヴェネツィア人が帆布を選んだ理由は
聖性ではなくその軽さや機能であり、現代のメーカーが追及するのもそうした面である。)
であれば塗膜との間にキッチュな意味と関係性が生じる。フォンタナはキャンバスを美しく見せたが、
抽象界隈が習慣的に絵の具塊でキャンバス上を覆うような作業は
グラフィティ界隈の仕事と大差ない。もちろん相対的な意味でも。
0588わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/17(月) 19:00:56.15
だから、現代でも抽象の伝統をチマチマと守っている連中は
一度グラフィティ界隈と一緒に落書きでもしに行けばいい。
0589わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/17(月) 19:22:28.09
初期フランドルと国際ゴシック、板、フレスコ、紙。
ヴェネツィア派、キャンバス。
この辺の境界は面白いくらいはっきりしてる。
0590わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/17(月) 23:39:48.10
既に、
廃墟かもしれませんね。

尤もらしく“構想を練る時代”というひともいますが“廃墟の管理”でも問題なさそう。
0591わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/18(火) 00:23:26.22
お、そこは同意下さったようで、ありがとうございます。。
0592わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/19(水) 21:51:46.97
http://www.kristaharris.com/

ペインタリーな抽象絵画。
若干深めな空間、
筆あとや線が斜めに流れていることと、明度対比があるからか。
絵の具の滴りが、上から下に垂直に落ちていることも斜線を斜線として見せているのかもれない。
団体展的といって嫌う人も居そう。
0593わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/21(金) 19:20:22.40
クーニングぽいが、全体に女性的な印象。女性的印象というのは、なぜかジョアン・ミッチェルや
セシリー・ブラウンからも共通して受ける種類のものなのだが、その感覚が何に由来するのかはわからない。
0594わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/21(金) 19:23:11.33
Jack B Yeats(アイルランド 1871〜1957)
Cleve Gray(アメリカ 1918〜2004)
Freddie Timms(オーストラリア 1946〜2017)
Richard Aldrich(アメリカ 1975〜)
Liza Lacroix(カナダ 1988〜)
0595わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/21(金) 19:41:06.53
ヴェルフリンの定義も、不必要というか何かが間違っている感じ。
「閉じられた部屋の中に光が一つの光源だけから流れ込む時、それはまさしく本来的にバロック的テーマにちがいない。」 
「顔の各部分の形は古典主義では等価だが、バロックでは独立性を失って、主たる部分に従属する―」

ここでいわれる「古典的」な壁画も、採光によって十分バロック的な統一を見せる。
平面的な壁画が場所と一体となっている理由のひとつである。
古典主義的な壁画は建築的効果の中に光も闇も絵も存在するのに対し、
一枚の絵の中に光と闇が仮構されているのがバロックであるとも言えるが、
ルネサンスにおける古典主義様式とバロックにおける様式には、実のところ見た目ほどの対立はない。
カラヴァッジオの師ペテルツァーノがティツィアーノ の弟子だったことから分かるように、
初期フランドル・国際ゴシックとヴェネツィア派の間に、
様式以上の、素材レベルでの境界があったことの方がより重要である。
0596わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/22(土) 14:05:14.04
様式を抽象的な公式のように捕らえるとのではなく、ベクトルのはなしであって
同じ様な話が繰り返されてた。

個←   →類
古典   バロク
新古典  ロマン
0597わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/22(土) 19:13:03.91
そもそも、「五つの対概念」自体が、怪しい。

クラシック様式↔バロック様式
・ 線的なもの↔絵画的なもの
・ 平面↔深奥
・ 閉じられた形式↔開かれた形式
・ 多数性↔統一性
・ 明瞭性↔不明瞭性

これらのたいして自明ではない対概念とその傾向が、
あらゆる国や時代を通して見られるとヴェルフリンはいう。
これを真に受けたグリーンバーグが、ペインタリーという言葉を
より硬直した対立軸の中へ閉じ込めていく。

まず、これらのことを絵のスタイルだけで切り分けてその変遷を考えると
肝心な点が見えない。重要なのはマッスをどう扱っているかである。
古代壁画においては、マッスは建築的属性として外部化されている。
また着色されたレリーフも建築との一体化を指向する。
ところが近世以降、壁から切り離された絵画はその中ですべてを自足する方向へ向かう。
それがマッスを内在化する根拠となる。
この事から、新古典とロマンはクラシックとバロックの分類には当てはまらない。
マッスを画面の中へ内在化させている時点で両者ともバロック、というか近世・近代の系譜である。
その証拠に、アングルの「ユピテルとテティス」はグラネ美術館に所蔵されているが
絵画と展示室に統一的な構成は見られない。「新古典」はロマン主義同様、建築から離れているのである。
建築から離れる、ということが古典↔近世近代のより根源的な境界である。
古代ギリシアの画家ゼウクシスの絵画は、当時としては革新的な写実表現が
用いられていたが、その彼が壁画よりも小さい板絵を好んだ、ということは
ヴェネツィア派と新古典主義の各事例との奇妙な類似である。
0598わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/22(土) 19:39:43.00
ある意味、クリムトら初期ウィーン分離派の活動内容が、
近代においてみられる、最も古典主義に近い形態である。
古典主義とは、総合芸術なのである。
0600わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/22(土) 23:56:15.92
ヴェルフリンは、晩餐について文章の最後に付け加えるように、片側に窓のある食堂に云々かいているけど、どうかな。
0601わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/23(日) 04:39:05.09
そう、だからダヴィンチはクラシックですよね。
ヴェルフリンはルネサンスを古代とは異なる意味でのクラシックに分類しているのだが、
ダヴィンチとラファエロ、ミケランジェロは過渡期的な性格を多分に含んでいるものの、
三人とも建築、彫刻、壁画を一体のものと見做す点で、本来的な意味での古典主義者だといえる。
ただラファエロとミケランジェロはギリシャ・ローマへの回帰願望が強いのだが、ダヴィンチはそこまでではない。
0603わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/25(火) 01:58:38.06
ヴェルフリンの分類は現代でも異論が多くそのまま受け取ることは出来ないのと、
「美術史の基礎概念」でのヴェルフリンの分析は、あくまでもルネサンスとバロックの様式から
抽出した五つの対概念による絵の様式の変遷と比較が主な内容であり、
原始期(古代)美術とその建築との関係についてはあまり多くを語っていない。

>古代美術は、水平、垂直、正面 側面
確かに彼はキリスト教的な水平、垂直の世界観に基づいた言及が多い。
しかし古代(ルネサンス以前)の世界において最も重要な概念は円である。
ストーンヘンジ、ハルシュタット文化、ラ・テーヌ文化、
古代ギリシャにおける盾、円柱、壺絵、古代ローマにおけるアーチ、ドーム、円形闘技場。
アッバース朝におけるバグダッド(この時期のイスラム文明がルネサンスの母胎である)、
仏教・ヒンズー教におけるマンダラ(円の意味)、古代インドのチャクラム(輪)、
チャトラ(傘)、スタンバ(柱)。
ボガナンディシュワラ寺院にそれが一体となった石柱がある。
https://gops.org/wp-content/uploads/2015/08/bhogaumbr_1024.jpg
古代美術の明快な平面性、それは円と関係するものである。
0604わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/25(火) 02:42:43.44
Richard Roth(アメリカ 1946年〜)
Katharina Grosse(ドイツ 1961年〜)

建築・彫刻・絵画の統合、現代ではグロスあたりか。
0605わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/25(火) 16:10:10.08
草にまで吹き付けているところに、グロスのペイントへの欲望が表れているのだが、
ここで塗装の不毛さに思い当って無害さや機能性を求めると、
その瞬間にすべてはレフィーク・アナドールやチームラボのようなプロジェクションマッピングに置き換わる。
それはロマネスク教会における壁画が、ゴシックの大聖堂におけるステンドグラスに置き換わったのと相似的な現象である。
マティスやカルロ・スカルパによる総合にもその要素は読み取れる。
0606わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/26(水) 00:09:48.49
グロスの、絵のなかにフレームがでてくるところが、
マティスやホフマンを思い出させますね。
内側と外側があるということが、とても大事なことなのでしょうかね。
0608わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/26(水) 19:29:36.24
内側と外側というのは面白いですね。
グロスがそれをどれほど表現しているかは分からないですが、
そのことをちゃんと扱える作家はすばらしいでしょうね。
色んな色使ってますが、白はたぶん彼女の好きな色でしょう。
0609わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/27(木) 23:13:03.59
ボナールの色は、色んな夕焼けの色のヴァリエーション。
0610わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/27(木) 23:29:52.98
ルノワールは虹色の夕焼け
ブラックは砂漠の空
マティスは昼と世紀末の空
0611わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/28(金) 22:13:34.16
ロスコは記憶と終末の空
ホフマンは田舎者の色
0612わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/28(金) 22:53:46.99
グロスは田舎の嵐の空
ドラクロワは戦場の空
ミケランジェロは玲瓏の空
クーニングは白夜の夕焼け
ターナーは空の影
0613わたしはダリ?名無しさん?
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2020/08/29(土) 19:00:09.55
写真原理による色彩の形容。
イマイチ形容しづらいのが
セザンヌ、モネ、ウォーホル。
物語性がないのが原因か。
0614わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/29(土) 20:02:30.61
エイブリーは丘陵と海の空
ゴッホは穀倉地帯の空
岡崎乾二郎は湖の空
山田正亮は平原の空
カンディンスキーは幻想の空
シャガールは氷の空
クレーは散乱する地平線
バルテュスは薄曇りの夕空

色彩感覚は生まれた場所の風土気候を
なんとなく反映しているようにも思える。
0615わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/30(日) 00:09:54.29
山田正亮の評価が始まった頃の“みずえ”で、あの色彩に、オリジナリティを見いだしたかのような発言をしている批評家がいたような気がします。
そんななかで、中村功のような画家が登場してきたりもして、バブルの頃は花盛りの状態だったのではないだろうかと。
0616わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/30(日) 00:41:54.65
みづゑの歴史も長いですね。
中村功は素晴らしいですが、これまた形容しづらい色彩ですね。
同じ形容法でいけば恒星表面、ガス星雲といったところでしょうか。
0617わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/30(日) 01:06:49.63
セザンヌとモネの色が形容しづらい理由は、
光が空と地の色にすぐさま集約されない、多重露光性にあった。
0618わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/30(日) 01:19:43.10
天と地の明暗が光源の原風景である。
0619わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/30(日) 20:00:25.19
中村功の名前を、あげましたが、
あの辺りの画家は非対象絵画でありながら、色彩の扱い方、塗り方や並べ方や重ね方を色々と工夫しているうちに、
植物やら鉱物やらを想起させるような何かが出てくる感じが興味深かったです。
0620わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/08/30(日) 22:54:49.95
なるほどですね。
非対象絵画といえども色を扱う限り具象へのフォーカスが生じる。
色は像、つまり対象だから。
0621わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/01(火) 04:00:21.93
ttps://instagram.com/sugiyamadaisuke_
絵描きごっこ、凡庸の極み
0623わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/12(土) 05:12:27.75
フリードも、グリーンバーグとは少し違うけどやっぱり頑固だね。
千葉雅也のジャズに関するツイートに、
「ドミナントモーション、ツーファイブによるその遅延とかって万有引力みたいな話で、
その一元論を相対化してポリモーダルな宇宙に解放されていく過程が実はビパップの複雑化に内在しており、
で、それはファルス中心的ラカンからの離脱で・・」というものがあるが、
この一元論がそのまんまフリードにも当てはまるように思える。
この場合、フリードは原理主義、リテラリズムは相対主義となるのだが、
一方通行のフリードの方向性は、言ってみれば「絶対的→無時間的→静的→平面的→ステイニング
→イリュージョニズム→プロジェクション・マッピング」という具合にしか着地し得ないものであり、
その意味では、彼は絵画はかくあるべきと言ってはいても、結局は非絵画的なものを指向しているに過ぎないともいえる。
0624わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/12(土) 15:58:16.12
批評の対象を参照せずに文章だけ読んでると、グリーバークと同様に、ちんけなものち至るということはあるかもしれませんね。
0626わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/12(土) 16:46:17.89
例えは、様式を作品に外在化させてしまうというというの単純なミスリードではないのかな。

現象学をよんで、
筆触並べをはじめてみたりとかするケース同様。
0627わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/12(土) 17:57:09.59
モダニズム(mode)とはそういうことだから。
フリードは写真批評をしても当然、個別の写真や被写体の意味についてあまり考えることをしない。
0628わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/12(土) 19:09:52.24
「どんなにひとりの作家が思い込んでいい作品を撮ったからといっても、
それはどうあれ、見る人によって解体されていくわけでしょう。写真は。」森山大道

フリードの逆を考えずとも、普通はこうなる。カロの作品についても同じことがいえる。
0629わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/12(土) 19:37:26.45
そもそも作品と様式に主従関係を見出すこと自体がファルス中心的である。
0630わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/13(日) 00:48:48.15
そもそもイリュージョニズムというのは絵画だけの言葉ではない。
むしろ写真や映像、CGにこそ相応しい言葉であり、
普通に立体にも拡張できる概念である。
つまり絵画の実質は、図像というより素材である。
0631わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/13(日) 00:58:35.54
フリードは図像に興味があるから写真批評にいったのである。
0632わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/13(日) 01:30:09.29
つまり、もうプロジェクション・マッピングの目と鼻の先まできているのだが、
彼は動かないものがお好みなので、写真の段階で文字通り止まっているわけである。
まあもう81だし。
0635わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/13(日) 17:23:16.52
まあギャラリーからも、肌感覚として、誰が有名か、誰が今数字が出ているかだけを美術人は気にしている、という
いわばYoutube的世界を感じますね。「鑑賞」「作品」ということは、形だけのものになりつつある。
「批評」は言うまでもないことですが。その他は、まあギャラリストと学芸員の狭い情報交換だけで成り立っている世界、
ということを感じますね。
0636わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/13(日) 18:08:50.05
今日、書店にいったら、“没入と演劇性”は売れてしまったみたいで、なくなっていた。

どんな人が購入したのかな、

絵を描く人?それとも、美術史の勉強をしている人?
0639わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/14(月) 13:00:34.69
フリードは最終的にオノヨーコの脳内絵画みたいなものに行き着くと思ってた
カロの話も視覚というより脳内現象みたいに読めたんだけど
0641わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/15(火) 01:13:56.61
>>637>>638
何を作品の成立と見るかは鑑賞次第なので、仮に新しく作品が制作されなくなった後も、
鑑賞する側が勝手にあれこれを作品と呼んでいくでしょう。
鑑賞という行為は限りなく制作に近く、また制作という行為は限りなく鑑賞に近い。
その場合、人為的に虚ろな箱を提案するコンテンポラリーな美術館の側と
実物のさまざまな廃墟の虚ろさや崩壊の中のクオリティを再発見する側とが
SNS的に併存する状況になっていくでしょうね。もうなってるけど。
フリードも劇場型ということを渋々認めてますが、そりゃ当然のことでしょうね。
カロの作品をフリードがどう見るかは相対的なものだとしか言いようがない。

>>639
オノヨーコのコンセプチュアルな作品も、ミニマルと方向が違うとはいえ、
見る人間が介入することで成立する点ではフリードの嫌う劇場型だといえる。言いたいことは何となくわかるけど。
というかフリード自身、矛盾だらけなのが悪い。その無茶さ加減は浅田も昔からよく批判している。
0642わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/15(火) 01:52:53.86
現実は言語で言い表せないとよくいわれるが、言語は現実である。
現実の前景に言語がレイヤー化しているのではない。
認知と想起と言語化はすべて癒着して切り離せない一つの現実である。
そういえばオノヨーコは幻覚型認知症だった。
0643わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/15(火) 12:30:02.67
https://www.youtube.com/watch?v=UyyjU8fzEYU

左脳が一時的に停止した脳科学者の話

修行をすれば左脳の働きを弱められるのかもしれない
それを悟りと言うのかも?
右脳左脳正常に働いてる状態を現実というのならそうかもしれない
0644わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/15(火) 20:32:23.11
>>643
面白かったです。右脳が全的溶融への、左脳が局在的分離への働きを持っている。
これは、東洋では主体を身体や外部と連続したものとして意識させる(瞑想・鍼灸など)のに対し、
西洋の精神分析では主体の構造を主に言語で離散的に整理する、ということに対応しているように見える。
あと、「現実」は変性意識を含むすべての意識状態を指す言葉で、
重要なのは現実なるものが、万人にとって右脳や左脳が壊れた世界へとシームレスに繋がっているものだということ。
この脳科学者の体験談は左脳が働かなくなった状態の話だが、死ぬときは右脳も停止するのでその先の話は分からない。
認知症患者や精神病患者だとまたいくらか違うヴァリエーションがあるのだろう。
0646わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/15(火) 21:00:23.88
つまり歴史記述とは左脳の働きによるもので、左脳が壊れた人間はもはや自分の人生を、
幼児期から死に向かって直線的に進行するものとは感じないかもしれない。
「かつて仏陀だった」とか「デュオニソスだった」とか言った晩年のニーチェについては、
脳のどの部位がダメだったのかは知らないが。
0648わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/16(水) 00:38:04.09
平林薫さんのはいいですね。すこしクエバ・デ・ラス・マノスを連想しました。
そういえば平安時代、相手勢力への失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道が利用されたりしましたね。
言語を利用して人の心理に介入する呪術みたいなことはある程度可能で、その毒を薄めると営業トークになる。
新しい宗教の設計もでき、言葉は使いようで危険な(現実を読み替える)力を持つ。
0650わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2020/09/20(日) 20:02:06.38
文脈を考えると精神分析は言葉を過大評価していた例になるのかな、
しかし、上に上がっている他の例ももしかしたら、そうなのかもしれない。

しかしコロナ禍下で精神分析は可能なのか、
いや、イメージを使った心理療法も同様か。
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