https://blogs.yahoo.co.jp/sangsyu/3529185.html
 翠軒の遅筆は石川作品と別の意味で、天来の古法追究姿勢を裏返した(川谷尚亭碑〜二
段階クリックで画像拡大↑)。この点は飛燕速度の翠軒作品ばかり見ていると感受できな
い。書家の書を作品だけで判断してはいけない。手本学習は古典であれ師匠の肉筆であれ
総て臨書であり、作品とは別の観点で相対化する必要がある。それを稽古と云う。その上
で自運(手本執筆など)をも稽古スタイルで遂げるから尚更ややこしい。
 しかし或る意味、この「芸術的」遅筆こそが書道を書字の実用速度から切り離したと云
えなくもない。むろん翠軒も実用書は結構な速度で書いていた。だが手本/教科書となる
と話は別である。そこに書家の桎梏が宿る。教科書が実用的でないのは、実用が教科書的
でないのと同じ宿命に起因する。実用は家庭教育や経験一般の領分に近しい。