日本語は助詞だけの言語
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名詞や各単語はすべて支那語かサンスクリットからの転用で、
それを補うように助詞がある。日本語は助詞だけでなりたつ
不思議な言語なのでは
ないだろうか? >>118
>>101-102あたりじゃないか。英和辞書を引けばいいじゃんみたいなマヌケなレスしていた。
>>98が調べた上であえてしている質問だとは思わなかったんだろう。 >>121
>>98 の文から辞書を引いたかどうか判定できたのなら、結構超能力あるよw
だから >>101-102 は「辞書を引いてないのか?」と問うたのであって、
それを見て「英和辞書を引けばで解決できる」と解釈したおたくも >>117 もかなりの超能力者だね。 「……なんで辞書を引こうとしないの?」を
辞書を引いたかどうか質問したと解釈するのは
かなり無理があるけどなw
どう読んでも、「辞書を引かない(で質問する)理由はなぜ?」
としか解釈しようがない。 まあ、辞書を引いて考えることをすすめているけど、解決できるという保証はしてないな。 >>98が答えを予期して↓ここまではっきり書いているのにね。
> 「後置詞」とか「接尾辞」の一種かとも思いますが、後置詞なのか接尾辞なのか?
>
> 日本語の正書法がそもそも分かち書きをしないので、どっちか区別がつかないです。
けっきょく>>98の書くとおり、後置詞(postposition)なのか接頭/尾辞(particles)なのか、
ってところで、いまのところ誰も答えられないじゃないか。>>98に逆戻りってことになっている。
まあ、最初に質問を書くと、後に続く文はちゃんと読まない人が多いんだよな。
逆に、途中で疑問を書くと、最初に書かれた結論は忘れ去られるから不思議。 >>98が訊きたいのは結局のところ日本語の助詞は接辞なのか(後置)詞なのかってことだよね?
仮名の綴りだと分かち書きをしない。
しかしローマ字書きの場合は助詞は独立の単語として分かち書きされることが多い。
ところが、仮名で綴った場合に分かち書きをあえてするとローマ字書きとは違って、
「私 は 日本語 を 話します」とは書かず「私は 日本語を 話します」と書く人が多い。
つまり、綴りを見ても結論が出そうにない。
英和辞書を引けば引いたで、接辞という意味をもつparticleと訳されているかと思えば、
別の資料では後置詞と直訳できるpostpositionとも説明されたりしている。
だから英語訳を参照しても、この疑問には簡単に答えが出そうにない。
とすると、言語学的(専門的)には実際のところどう考えられているのですか?と。
>>128
カナ での ワカチガキ も ジョシ を クベツ する タンゴ シキ が イッパンテキ。
ニホンゴ でも ジョシ と セツジ は メイカク に クベツ して いる だ から、
ニホンゴ の ジョシ は コウチシ と みて おけば マチガイ ない の では ない か。 >>129
>タンゴ シキ が イッパンテキ。
「タンゴ シキ」ガイミフナンダガ。
ちゃんとかんじでかいてくれよ。 この ブンミャク に おいて タンゴ シキ の イミ が わからない の で あれば、
チュウゴク モジ を つかおう と わからない の では ない か。 わかりますよ、いとも簡単単純にわかる
やってみればいい どう わかる の か グタイテキ に いえない ヤツ の セットクリョク は カイム。 >>129
◆KoZTgemFLMさんのような分かち書きをする人はそういない気がするんだけど、そうなのかな?
国語の文法書とかを見ると、あくまでも文法的な分かち書きだけど、「ぞうは はなが ながい」
としてある場合が多く、「ぞう は はな が ながい」というのは珍しいように思います。
しかも、「ぞうは、はなが、ながい」とは書けても「ぞう、は、はな、が、ながい」とは書けない。
名詞と格助詞または係助詞との間に読点を入れることができないことから考えると・・・ >>136
タンゴ シキ は めずらしく ない。
むしろ カナガキ を シュチョウ して いる モノ は タイハン が タンゴ シキ で かいて いる。
ブンセツ シキ は きわめて まれ。 >>133
「この」「の で」「では」は、それぞれ「こ の」「ので」「で は」と書くべきではないの?
そのへんの統一規則はどうなっているんでしょう? >>136
「どう」わかるかなど無関係w
やってみればいいでしょ
やってみるより具体的なことはないでしょw
どうなの? >>138
「この」 は レンタイシ。
「ので」 は ジョシ と ジョドウシ だ から つづけない。
「では」 は ジョシ ドウシ の レンゴ だ から つづける。
>>139
わかる の が ジジツ なら グタイテキ に セツメイ できる だろ。
カンカクテキ な もの だ から セツメイ できない わけ だ。 やれるのかやれないのかやりたくないのか知らないが、いっけんにしかずってことだが? >>140
やれるのかやれないのか?それともやりたくないのか? >>140
なぜ >>142 の トイ に こたえない? アルファベット表示ではモンゴル語・トルコ語の助詞はだいたい接尾語として扱っているな。
>>140
連体詞というのは国文法でも不要な品詞だという見解があるらしいな。 >>140
やれるのかやれないのか?それともやりたくないのか?
なぜこたえない? 他の板がキャップ・削除パス漏れで大変な騒ぎになっているので、
万が一この板にも被害が及んだときに備えて避難所のアドレスを貼っておきます。
言語学・日本語・方言
http://jbbs.livedoor.jp/study/10958/ >>145
ヤクワリ が はっきり して いる から なくす ヒツヨウ は ない と おもう が な。
コレ が フヨウ なら フクシ も フヨウ と なる。
メイシ に ジョドウシ が ついた だけ の ケイヨウ ドウシ は いらない が。 言語学では、格助詞は clitic と言われることが最近では多いのではないでしょうか。
日本語では「接語」などと訳されることが多いようです。接辞(affix)と語(後置詞)の中間といった単位です。
音形(とアクセント)が一定、あるいは規則的に変化するという点では、接辞よりも独立度が高く、
つねに他の自立語と一緒でないと発話できないという点では、語よりも独立度が低い。
そのような単位を接辞や語と分けて、「接語」と呼んでいます。
日本語の格助詞や副助詞は、この接語に近いのではないでしょうか。
ただし、日本語の格助詞、副助詞および「助動詞」などと呼ばれるものは、
文法理論や文法学説によって接辞と分類されたり、語(後置詞)と分類されたりします。
定説はない、というのが現状です。 >>150 モンゴル語やトルコ語でも語幹に続けて書いたり、分かち書きしたり、基準がはっきりしませんな。
英語で slow ly,look-ed などと書くことはないのにな。
>>151さん
そうですね。
言語学では表記(分かち書きしているかいないか)は接辞か語かを決める基準になりません。
表記には表記独自の伝統的な慣習があるからです。
モンゴル語やトルコ語の場合(よくは知らないんですが)語幹末によって、くっつくものも形が変わりますよね。
そういう場合は、語幹によって規定されるところが大きいので独立度が小さく、接辞とみなされるのが一般的なのではないでしょうか。
日本語の格助詞などは、モンゴル語派やテュルク語派の言語と違って、接辞というには独立度が高過ぎることから、
接語(あるいは語)とされることが多いのではないでしょうか。
(ただし、奥田靖雄らの教科研文法では、接辞扱いですね。そういう立場をとる研究者もいます。) ベトナム語のように、1つの名詞であっても音節ずつに分かち書きする習慣の言語だってあるからな。
ましてや語尾だけ分かち書きなんて、珍しくもなんともない。 >>152
トルコ語に代表されるアルタイ語っぽい言語にはいわゆる「母音調和」があるので、
日本語でいう「…ですか」の「か」の母音部分が五段活用みたいに変化しますね。
でもこれは、分かち書きが綴り上の便宜や慣習であるように発音上の便宜・慣習であって、
母音調和もまた、狭義の文法(統辞構造)とは独立と見なせるのでしょうかね。
分かち書きが綴り法であるのと同様に、母音調和は発音法と見なせますから。
これによって意味論に変化が起こるわけじゃありませんし。
たとえばスワヒリ語の場合、人称から時制からすべて接辞を動詞にくっつけて表現し、
母音調和はありませんから、接辞を日本語の助詞のように接語とも見なせるような気もします。
ただし名詞のクラスという概念があるので、その意味では接辞かもしれませんね。
エスペラント(語)の場合は、例えば動詞につく-i / -as / -is / -os / -usが単語によって
変化することはないので、このかぎりでは接語と見なせるようにも思えます。
しかしそれらが接続する動詞は語幹ということになっているので、
それを語幹と見なすか独立した語と見なすかによって意見が分かれてくると思います。 >>154さん
母音調和は、音韻論と形態論にまたがる現象であって、単なる発音法ではないと思います。
アクセントと同じで、母音調和の範囲がひとつの単語内だけにとどまるのか、もっと広い範囲にまでおよぶのかは言語によっていろいろであると思われます。
トルコ語に関していえば、《母音調和のおよぶ範囲が語である》という主張はおかしくはありません。
詳しいかたが書き込んでくださるといいのですが。
服部四郎が1950年に発表した「附属語と附属形式」という論文では、語と接辞を分ける基準が書いてあります。
簡単にいうと、次のようになります。
(1) いろいろな品詞の語につくことができるのは、語である。
(2) 二つの形式の間に自由に現れることができるものは語である。
(3) 位置をひっくり返すことができれば、どちらも語である。
この基準で行くと、スワヒリ語の動詞につく人称・数・時制をあらわす形式は接辞だろうし、
エスペラント語の動詞につく-i / -as / -is / -os / -usもおそらく接辞であろうと思われます。 ちなみに服部(1950) の基準で行くと、日本語の格助詞、副助詞は語(後置詞)ということになると思います。
(1) あいつにだけは話さないでくれ。
(2) あいつだけには話さないでくれ。
(3) 行くだけ行ってみよう。
(4) 単に美しいだけでは評価されない。
基準1と(2)(3)(4)から「だけ」が語であると認定されます。さらに、基準3と(1)(2)から「に」も語であると認められます。 >>155
レスありがとうございます。
音韻論と形態論にまたがる現象というのは具体的には例えば
どういうことをおっしゃっているんでしょうか?
母音調和それ自体は、分かち書き同様に、語や文の意味まで
なんら変化させてはいないと思うので・・・
やはりそれ自体の独立した慣習としてあるんじゃないでしょうか?
ちなみに、日本語の読点は、分かち書きと似た機能をもっていて、
それがあるかないかで文の意味を変える場合が稀にありますけれども。 >>157さん
私の理解ではトルコ語の母音調和は、母音(音素)が《前舌母音》e,i,ö,ü と《奥舌母音》a,ı,o,u に分かれていて、
ひとつの単語の内部には、前舌母音だけあるいは奥舌母音だけが現れるという現象です。
だから、接辞もひとつの機能に対して複数用意されていて、たとえば対格接尾辞は、
直前の母音がe,i なら i、a,ı なら ı、o,u なら u、ö,ü なら ü がつきます。
adam「人」なら adam-ı「その人を」となります。
これは、単に発音が違うのではなくて、形態が違うと考えます。
つまり、トルコ語では母音の音韻システムが接辞の形態に影響を与えているという意味で「音韻論と形態論にまたがる現象である」と書きました。 この音韻論と形態論にまたがる現象は、日本語にもあります。連濁です。
くつ(靴) → ながぐつ、かわぐつ、ぬのぐつ
さくら → おおしまざくら、やえざくら、やまざくら
/k/>/g/、/s/>/z/ への変化は発音の変化ではなくて、音素の変化です。
意味は変わっていないんですけど、機能が変わっています。
つまり、濁音になっていることによって、複合語になっていることがしめされているのです。
だから、「くつ」と「-ぐつ」、「さくら」と「-ざくら」は同じ形態素ではありますが、
形態は違います(「異形態」と呼びます)。 >>158
私は言語学の専門家じゃないので詳しくは分かりませんが、
音韻は発音上の分節、形態は綴り上の分節と理解してよろしいんでしょうか。
現代トルコ語は、例外はあるかもしれませんが、表音文字で発音されるとおりに綴られる言語だと思いますので、
その場合、発音の変化はそのまま綴り上の変化に反映されることになりますよね。
このことから、あえて言いますと、私が「発音」という場合、
木村さんのいう「音韻論と形態論にまたがる現象」のことを指していると言ってよいんじゃないかと思えます。
いずれにしても、トルコ語の母音調和(音韻論と形態論にまたがる現象)の原則(前舌母音と後舌母音が混在しない)は、
やはり意味とは独立の体系であって、それによって語や文の意味に変化を与えないんじゃないでしょうか。
日本語の「ますか」の「か」を表すトルコ語のm(iの上の点がない字), mu, mi, m(uの上に"がある字)という変化形がありますが、
これは日本語の動詞の何段活用とは違い、この変化によって意味上の違いは生じませんよね。
音韻や形態というより、むしろ純粋に音声学上・(前舌後舌という)生理学上の調和の問題であるようにすら思えます。 >>159
ええと、その、「発音」の変化と「音素」の変化の違いがちょっと分かりません。
母音調和の場合は、音素の変化とは言えないのでしょうか。
「意味」と「機能」の違いもちょっと分かりません。
意味が変わらず機能が変わるとはどういうことなんでしょう?
私が思いますに、日本語の連濁にみられる例えば「くつ」と「-ぐつ」、
「さくら」と「-ざくら」の間には、意味の上でも違いが生じているように思えます。
「くつ」の意味範囲と「ながぐつ」の「ぐつ」の意味範囲は合同にはならず、
後者の「ながぐつ」は起源においては複合化であっても一つの独立した単語になっています。
「ながいくつ」と「ながぐつ」はもはやイコールではないという理由によります。
私はそう考えているのですが、言語学者の間では受入れられない考えなのでしょうか。 >>160
音韻は音の分節、形態は意味を持った音連続の分節というべきでしょう。
表記は関係ありません。(音韻に即した表記というのはありますが。)
もし、音声学上、生理学上の要請であるのなら、世界中の言語に【同じ】母音調和があっていいはずですが、じっさいにはありません。
トルコ語のシステム内部において機能している現象なので、音韻・形態論的と申し上げました。
>>161
母音調和はもちろん音素が変わっているのですが、音素が変わることによって形態が違っています。
すみません。「連濁」の例は不適切でしたね。
もちろん、「くつ」と「ながぐつ」の「-ぐつ」は意味は同じではありません。
例えば、「らっぱ」「あらし」と発音してみて、「ら」の子音が微妙に違うことに気づくでしょうか。(舌を口の天井につけている時間が違います。)
また、「あさ」と「あおい」の「あ」の発音が違うことは分かりますか。
ふつう、日本語話者はこれらの違いを意識しません。どちらも同じ音素だからです。これは音声学上の違いです。
いっぽう、動物を数えるときに使う「匹」を数詞につけていくと、
いっぴき、にひき、さんびき、よんひき、ごひき、ろっぴき、ななひき、はっぴき、きゅうひき、じゅっぴき
となって「ひき」「びき」「ぴき」が現れますよね。
この /h/,/b/,/p/ は日本語では明らかに違う音素です。
このとき、機能が変わっているといいます。ここでいう「機能」というのは、現れる環境の違いとでも理解してください。
このことを>>161さんは「発音」の違いとおっしゃっているのかもしれませんね。いろいろジャーゴンを使ってしまって、すみませんでした。 >>162
横からすみません。
自分は>>161さんではありませんが、質問よろしいですか。
音素上は同じだけれども音声が違う例として「あさ」と「あおい」の「あ」を挙げられましたが、これらの違いはどのようなものでしょうか。
また、音声上の違いとは直接関係ないかもしれませんが、これらの単語は「朝」「麻」、「葵」「青い」のどれに当たるのでしょう。 >>163
ああ、すみません。「朝」と「青い」のつもりで書きました。
これは個人差や方言差があると思いますが、「あさ」のほうは舌の一番高い面が口の前のほうで、
「あおい」のほうは口の奥のほうです。連続して何度も発音すると違いが分かると思います。
ふと思ったんだけど、こういう話ってUTAUとかボーカロイドで記述することってできないかな? >>1 >>名詞や各単語はすべて支那語かサンスクリットからの転用
・・・ヤマト言葉を知らん人間のようだが、何人なんだ?
>>162
「らっぱ」と「あらし」とでラの舌を口の天井につけている時間が違うって
お前は何人だ?
時間が違うことによって音色がどう変わるんだ。
舌を口の天井につけている時間を問題にするなら
アクセントの違いによって母音の音色が変わることも問題にする必要があるし
北関東から東北方言のイやウの母音の音色が西日本のそれらと異なっているのは・・・ >>166
銭 sen→ぜに
絹 ken→きぬ
金 kin→カネ
目 mok→め
葱 gi→ねぎ
苗 myou→なえ
物 mot→もの
その他もろもろ >>167
>舌を口の天井につけている時間を問題にするなら
>アクセントの違いによって母音の音色が変わることも問題にする必要があるし
>北関東から東北方言のイやウの母音の音色が西日本のそれらと異なっているのは・・・
その通りです。音声学ではそれらをみな問題にします(記述・分析します)。
厳密にいえば、個人によって音声は違うし、同じ個人でも話すたびに違う音声になります。
音韻論では「らっぱ」「あらし」は、どちらも同じ「ら」だということになります。 >>167
>舌を口の天井につけている時間を問題にするなら
>アクセントの違いによって母音の音色が変わることも問題にする必要があるし
>北関東から東北方言のイやウの母音の音色が西日本のそれらと異なっているのは・・・
その通りです。音声学ではそれを問題にします(記述・分析します)。
音声は個人によっても違うし、同じ個人でも話すたびに違ってきます。
音韻論では、「らっぱ」も「あらし」も同じ「ら」だということになります。 >>162
> 音韻は音の分節、形態は意味を持った音連続の分節というべきでしょう。
この点がちょっと分からないです。「意味を持った音連続の分節」という点です。
母音調和は意味を持っていない、意味とは無関係である、と思うのですが。
とすれば、言語学上の定義からして「形態」ではありませんよね?
そう考えると、結局のところ、音韻と形態の違いがはっきり分からなくなります。
音韻=形態ではないのでしょうか?
「分節」という表現を私もここで使っていましたが、「分節」と一口に言っても、
音声の単なる認知というレベルでの識別と、意味に影響を与えるレベルでの識別があると思います。
例えば、日本語の「…です」を/desu/と発音する日本人と/des/と発音する日本人がいたとして、
我々日本人はこれらを方言の違いとして識別できますが、意味の違いとしては識別しません。
狭義の文法上の意味の違いとしては少なくとも識別しないはずですね。
言語学で「音韻」と言った場合、
音声の認知レベルの識別まで指しているのか、意味レベルでの識別まで指しているのか、
そこはどうなんでしょう?
>>162
> もし、音声学上、生理学上の要請であるのなら、世界中の言語に【同じ】母音調和があっていいはずですが、じっさいにはありません。
なんらの便宜性はべつの便宜性とのトレードオフの関係、天秤の関係にあるかもしれず、
鳥が飛ぶことの利便性を追求した結果、失った利便性があるかもしれませんし、
哺乳類が母胎と母乳で子育てをする利便性を追求した結果、失った利便性があるかもしれません。
ヒトが直立二足歩行のなんらかの利便性を追求した結果、失った利便性もあるでしょう。
しかし、翼をもって空を飛ぶことの利便性はたしかにありますし、
卵ではなく母胎で子を育てる利便性もたしかにあると思われまし、
おそらく、ヒトの直立二足歩行もなんらかの利便性があったのでしょう。
これらは自然選択のレベルでの多様性の話ではありますが、これらのことは自然界に
おいても「利便性=一様性」でないことを証明しているのではないかと思います。
人間の言語発音の生理学上の便宜性があったとしても、人間のオーラル言語すべてが
その生理的便宜性を優先して利用するとはかぎらないことは勿論でありまして、
そうした事実は母音調和に生理的便宜性があることの「反証ではない」と思うのです。
母音調和があらゆる人間の言語に存在しなくても、母音調和に生理学的に考えられる利便性に
由来しているのかもしれないということの反証にはならないのではないか、と。
この点がまず一つ前提として。
でもって、いかなる客観的利便性を優先的に利用するかどうかが文化的恣意性にかかわる
選択的・慣習的事実であることには異論がありません。
書き言葉における文化的恣意性の慣習にはそれ独自の自律的歴史が見出せる趣旨のことを
木村さんはお書きになっていましたが、私は、その同じことが話し言葉においてもありうる
と考えているということになります。母音調和もその例の一つになりはしないかと。
>>168
1ヒトツ、イチ、2フタツ、ニ、3ミッツ、サン、4ヨッツ、シ、
5イツツ、ゴ、6ムッツ、ロク、7ナナツ、シチ、8ヤッツ、ハチ
9ココノツ、キュウ、10トヲ、ジフ
>>171
(1) [desu]と[des]が違う音だと認知するのが音声のレベル
(2) どちらも日本語の「す/su/」だと認知するのが音韻のレベル
(3)「す」が文の中で使われて、違うものだと認知するのが形態(意味)のレベルです。
(鳥の)すが……
(調味料の)すが……
(この場合、英語の/-s/[-s][-z][-iz]が複数形を表す-sか三人称単数現在を表す-sかも「意味の違いを表」します。)
母音調和は(2)のレベルの現象なので音韻現象です。
そして、トルコ語で母音調和が【現れる】場所は語幹と接尾辞のあいだにおいてです。その意味では、母音調和は形態レベルに関係します。
つまり、母音調和の現象自体は音韻現象ですが、形態レベルにおいても現れます。
このような意味で「音韻論と形態論にまたがる現象」であると書きました。
>言語学で「音韻」と言った場合、
>音声の認知レベルの識別まで指しているのか、意味レベルでの識別まで指しているのか、
>そこはどうなんでしょう?
ふつうはうえの(2)のレベルを指しますね。音韻はそれ自体が意味をもつことはできませんが、意味を区別することはできます。
「かっぱ」と「らっぱ」の意味の違いは/k/と/r/の音素(音韻)の違いによります。 >>172
>母音調和があらゆる人間の言語に存在しなくても、母音調和に生理学的に考えられる利便性に
>由来しているのかもしれないということの反証にはならないのではないか、と。
まったくおっしゃる通りで軽率な書き込みでした。
ただひとつ言い分けさせてもらうならば、わたしは母音調和が音声学上・生理学上の要請ではない趣旨を書きましたが、
生理学上の要請に由来することまでは否定していません。
歴史的には生理学上の要請であっても、現在はそれが言語内化(=慣習化)してしまっていると考えます。
ですから、
>書き言葉における文化的恣意性の慣習にはそれ独自の自律的歴史が見出せる趣旨のことを
>木村さんはお書きになっていましたが、私は、その同じことが話し言葉においてもありうる
>と考えているということになります。母音調和もその例の一つになりはしないかと。
これには完全に同意します。
言語学ではこれを「発音法」とは呼ばずに「音韻(現象)」と呼ぶということです。 >>175
数詞なら
1 i- イチ
2 ar ニ n/r交替
3 san サン
4 su- シ
5 u- ゴ 「g」が中国では発音されなくなった
6 ryu- ロク
7 chi- シチ
8 pa- ハチ
だろ
>>178 右側はヤマト言葉ではない。漢語という。 >>178
バカめ
「五」の頭子音は中古音三十六字母で「疑=ng」母に属す。
gではなくngだ。
朝鮮人は語尾のngとnは区別するが語頭のngは発音できないというか
元代以降の北部中国人がngの発音をできなくなった。
半万年属国人の朝鮮人はそれに追随したのか本当に発音できないのかは知らない。 >>180でなぜ朝鮮の話が突然出てきたか知らんが、ハングル字母で語頭の無子音を表す記号がng音の記号だというのは本当の話だな。 >>181
ようするに頭子音ngの消失が北京語と朝鮮語で共通していて
北京語の直接のルーツはモンゴル王朝時代にあるということ。
日本語は中古(隋唐)漢字音の頭子音ngをgで代用している。
これは福建語と共通している。 助詞がないし名詞や動詞の変化が無いから英語や孤独な日本語とは別の意味で
孤立語なのさ。 日本語の格および係助詞、英語の前置詞、中国語の介詞はまったく別物なんでしょうか。 日本語は語順の規制が英語や中国語に比べて緩やかだ。
だから格助詞が無いと語と語の文法関係が曖昧になる。
中国語は日本語より語順の規則が厳格だ。
古代中国語では「彼」は「は」を包含するは3人称主格の代名詞
「其」は「の」を包含する3人称属格代名詞、「之」は「を」を包含する目的格代名詞だったが
六朝時代にはこれらの使い分けが乱れていった。
日本語文法で意味上の「補語Complement」というものはあるけど
中国語文法は述語動詞よりも後方にある副詞的修飾語を補語と呼んでいる。
日本語には中国語的意味の補語は無い。
中国語の介詞はその起源が他動詞で、介詞+名詞の句は元々動詞+賓語の
動賓構造だったが、動賓構造が複数繰り返されて意味の重点が後の方に偏ったため
前の方の介詞句が副詞的修飾語になったものだ。
「与(與)」は
@andを意味する接続詞、
論語「子罕言利与命与仁」http://kanbun.info/keibu/rongo0901.html
A「賜予」を意味する動詞。
孟嘗君列伝「貸銭者多不能与其息。」
B日本語の助詞「と」と同じような機能を持った介詞。
孟子離婁章句下「諸君子皆與驩言、孟子獨不與驩言」
http://suzumoto.s217.xrea.com/website/mencius/mencius08-28.html
松浦亜弥の歌の中国語訳で「与」が日本語の格助詞「と」や「に」の機能を果たしている。
つまり曾ての動詞が助詞化している。
http://mojim.com/twy102308x13x2.htm >>168
Hitotsu一,一,二Futatsu,二,三手套,太阳,四Yottsu,系统,
5 Itsutsu,徽标,Muttsu6,乐,7娜夏,多样性,8 Yeatts,蜂
Kokonotsu9日,圭,10 Towo,齐夫 >>186
言語学には接置詞(adposition)という用語がある。
これは前置詞と後置詞をひっくるめた概念。
日本語の格助詞は後置詞で、英語の前置詞、中国語の介詞(前置詞)とともに接置詞に含まれる。
中国語文法では後置詞「的」もよく介詞に数えられるが、これも接置詞。
接置詞は「格」が分離可能な独立した形態として現れたもの。
「格」とは「名詞の述語(節の中心となる動詞)に対する関わり方」を具体的に表す形態。
この「関わり方」には動作主(例・ガ)、対象(ヲ)、受け手(ニ)、出発点(カラ)などの種類があり、
意味役割、θ役割などという。
日本語の係助詞は「意味役割」とは異なる「情報構造」という文法的な機能を担っている。
したがってこれを接置詞に入れることはできない。
係助詞と格助詞が別物だという説明はよくあるのですが、
しかしながら係助詞が格助詞を消してしまう・省略してしまう現象が謎ですね。
他言語にもよくある現象なんでしょうか。 結果的に見れば「消した」ように見えるだろうけれど、日本語の格助詞は
ラテン語の格語尾などと違って元々義務的なものではなくゼロ表示(いわゆる「助詞の省略」)
が可能で、特に主格・対格などは口語でゼロ表示の頻度も高い。
(近代の文章語で格助詞が義務化したのは漢文訓読体の影響ではないかと考えられる。
すなわち漢文訓読では、一つ一つの名詞句に、原文にはない格助詞を付けることで「解釈」を
明確にしようとした結果、格助詞を多用するようになった)
そこへ情報構造の上で必要となった係助詞が割り込んで固定化したのだろう。
ここまでの事情は朝鮮語でもそっくり当てはまる。(漢文訓読ではなく
おそらく日本語の影響で文章語は格助詞を多用する) 消してしまう現象は分かるのですが、むしろそこで謎だと言っているのは
係助詞のほうが格助詞よりも優位だということなんですね。係助詞が格助詞に勝ってしまう。
係助詞のほうが情報伝達上重要だという合理的説明は可能なんでしょうか? 意味役割は中心的なもの(動作主、対象など)ほど動詞に対しては意味の上で無標であるため、
日本語の場合それを反映して中心的な格助詞(主格ガ、対格ヲ)は随意的(非表示が可能)で、
周辺的な意味役割(場所、道具、出発点)は動詞に対して有標な存在なので、
日本語の場合周辺的な格表示(地格・具格デ、奪格ヨリ)は表示が義務的になります。
情報構造を形態的手段ではなく語順の差で表す言語の場合、表示自体が行われないので
有標/無標の差は文型ごとの登場頻度によって判断するしかありません。
チェコ語などがその例で、情報構造を反映して語順は変わりますが、その事によって格表示は損なわれません。
これに対して日本語の場合、情報構造の差を係助詞の有無によって
表示・有標/非表示・無標という形で表します。そして係助詞の位置は格助詞と同じ名詞句の末尾です。
ここで格助詞と係助詞のバッティングという状況が生じ、格助詞のうち無標のものが消えるわけですね。
主題化が起こらなければ主題の係助詞ハは登場しない、つまり主題の係助詞ハは有標の存在です。
意味役割のうち動作主や対象は無標である、つまり主格ガや対格ヲは脱落可能です。
有標の主題化助詞が来るとき格助詞のうち無標のものを残す動機は相対的に薄れます。
つまり係助詞と格助詞の間の優先順位の問題ではなく、係助詞内部、格助詞内部の表示の
優先度の組み合わせによって起こる現象だと言えるでしょう。 >>189
>中国語文法では後置詞「的」もよく介詞に数えられるが、これも接置詞。
「的」が介詞って誰の説? 学者の名前を挙げてくれ。
「的」は「構造助詞」と呼ぶのが定説。 >>194
馬建忠の『馬氏文通』は「的」ではないが「之」を「介字」に入れているね。
王力も初期には似たようなことを言っていた。
馬氏文通の資料は論語、諸子、史記、漢書などの文言文だから
後置詞の「的」は論外。
結局>>189はうる覚えの寝言でOK 横レスだが「論外」の意味と「うる覚え」の形を確認しようね、っておれ釣られてる?
意地の張り合いや揚げ足の取り合いはそれくらいにしたまえ。
>>186の質問は「学校文法」と「言語普遍」との間の溝を埋められないかという問題意識だろう。
学校文法は先生がある特定の言語について生徒に説明して納得した気にさせるための物だが、
それ以上の目的を持ってはいない。ロシア語の「生格」や国語の「形容動詞」「連体詞」や朝鮮
語の「冠形詞」などがまさにそれ。他の様々な言語では結局「それが何であるのか」についての
質問に答えるようには出来ていない。それぞれ「属格」とか「ナ形容詞」とか「(変化しない)形容
詞」とか呼びかえることではじめて他の言語の文法概念にも通じる用語にもなる。>>189の質問
はそちらの方向を向いてはいるが、「係助詞」があくまで学校文法にとどまる用語であり言語普
遍に照らすと「それが何であるのか」についてまでは十分に答えていない。というか二つの言語
学用語のレベルの違いを意識して説明していない。>>194はシナ語の「構造助詞」が結局「何で
あるのか」という問題意識を共有せず、ただ学校文法を「定説」と称して挙げただけ。>>195は
「初期の王力」について例を挙げること。>>196-197はただの揚げ足取り。まあ「新しい日本語の
表記法を発明する」なんていうスレばかり乱立しているこの板の現状から見てまだましな方だが。
他の言語にも通用する概念になる必要はあるのか。
文法用語は言語ごとに、あるいは(文法の類似するゆえに)語派ごとに、
それぞれ別であってもいいのではないか?
学校文法を見下して酔っているだけにみえる。
目的が違うんだから体系が違うのは当たり前。
そもそもの質問が言語の枠を超えた概念を求めているんだからそれに答えてるだけだろ。
見下してるだの、ただの被害妄想。
個別言語に閉じこもりたいのなら外国語板で十分。
普遍文法学派的にはどう解釈されているんでしょうね? 女子だけの言語
オタ萌え文化の世界ではすでにそうなって >>1 **や***はすべて***か*******からの**で、
それを補うように**がある。***は**だけでなりたつ
***な**なのでは
ないだろうか? >>206
***のところに外国語の単語を入れていけば日本語完成? >>207 これは日本語が助詞だけで成り立つ言語ではないことを示している。 >>208
ありえない。
どんなに外来語を助詞でつないでも
動詞は日本語が必要になる。
キャッチ「する」
ゲット「する」
動詞を外来語だけで成り立たせるのは不可能 >>209
でもその「する」とか「だ・よ」は省略できるよね。
「あなたのハートをキャッチ(する/よ)!」とか「ポケ○ンゲット(したぜ/だぜ)!」とか。
だからそういった省略が前提とはいえ、外来語動詞単立が不可能とまでは言えないような。 >>211
感嘆文とか、気持ちのこもった文ならそういう省略もあるんでないの?
形容動詞の
お洒落だ/な とか ナイスだ/な
が感嘆文とかになると
お洒落!とかナイス!とかになるみたいにさ
その現象の動詞版がゲット!とかキャッチ!とか
専門的な勉強はしてないからお門違いの指摘かもしれんが
助詞と僅かな動詞(する、できる、等)の活用変化だけを覚えれば、
それなりに日本語っぽい文は組み立て可能じゃないか? >>214
する、できるの他に、していく、してくる等も含めれば、カ変、サ変を含めた日本語の動詞の活用を全部覚えないといけない。
「僅かな」とはとても思えないな。 接続助詞の「て」は連用形に接続するそうですが
「〜にて」という場合、「て」は連用形接続ではないと思うのですが。 >>216
「〜にて」は「〜にありて(あって)」「〜におきて(おいて)」「〜によりて(よって)」etc... から
動詞が省略されて一個の格助詞として独立したもの、と考えてくれたまい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています