日本語は助詞だけの言語
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名詞や各単語はすべて支那語かサンスクリットからの転用で、
それを補うように助詞がある。日本語は助詞だけでなりたつ
不思議な言語なのでは
ないだろうか? >>160
音韻は音の分節、形態は意味を持った音連続の分節というべきでしょう。
表記は関係ありません。(音韻に即した表記というのはありますが。)
もし、音声学上、生理学上の要請であるのなら、世界中の言語に【同じ】母音調和があっていいはずですが、じっさいにはありません。
トルコ語のシステム内部において機能している現象なので、音韻・形態論的と申し上げました。
>>161
母音調和はもちろん音素が変わっているのですが、音素が変わることによって形態が違っています。
すみません。「連濁」の例は不適切でしたね。
もちろん、「くつ」と「ながぐつ」の「-ぐつ」は意味は同じではありません。
例えば、「らっぱ」「あらし」と発音してみて、「ら」の子音が微妙に違うことに気づくでしょうか。(舌を口の天井につけている時間が違います。)
また、「あさ」と「あおい」の「あ」の発音が違うことは分かりますか。
ふつう、日本語話者はこれらの違いを意識しません。どちらも同じ音素だからです。これは音声学上の違いです。
いっぽう、動物を数えるときに使う「匹」を数詞につけていくと、
いっぴき、にひき、さんびき、よんひき、ごひき、ろっぴき、ななひき、はっぴき、きゅうひき、じゅっぴき
となって「ひき」「びき」「ぴき」が現れますよね。
この /h/,/b/,/p/ は日本語では明らかに違う音素です。
このとき、機能が変わっているといいます。ここでいう「機能」というのは、現れる環境の違いとでも理解してください。
このことを>>161さんは「発音」の違いとおっしゃっているのかもしれませんね。いろいろジャーゴンを使ってしまって、すみませんでした。 >>162
横からすみません。
自分は>>161さんではありませんが、質問よろしいですか。
音素上は同じだけれども音声が違う例として「あさ」と「あおい」の「あ」を挙げられましたが、これらの違いはどのようなものでしょうか。
また、音声上の違いとは直接関係ないかもしれませんが、これらの単語は「朝」「麻」、「葵」「青い」のどれに当たるのでしょう。 >>163
ああ、すみません。「朝」と「青い」のつもりで書きました。
これは個人差や方言差があると思いますが、「あさ」のほうは舌の一番高い面が口の前のほうで、
「あおい」のほうは口の奥のほうです。連続して何度も発音すると違いが分かると思います。
ふと思ったんだけど、こういう話ってUTAUとかボーカロイドで記述することってできないかな? >>1 >>名詞や各単語はすべて支那語かサンスクリットからの転用
・・・ヤマト言葉を知らん人間のようだが、何人なんだ?
>>162
「らっぱ」と「あらし」とでラの舌を口の天井につけている時間が違うって
お前は何人だ?
時間が違うことによって音色がどう変わるんだ。
舌を口の天井につけている時間を問題にするなら
アクセントの違いによって母音の音色が変わることも問題にする必要があるし
北関東から東北方言のイやウの母音の音色が西日本のそれらと異なっているのは・・・ >>166
銭 sen→ぜに
絹 ken→きぬ
金 kin→カネ
目 mok→め
葱 gi→ねぎ
苗 myou→なえ
物 mot→もの
その他もろもろ >>167
>舌を口の天井につけている時間を問題にするなら
>アクセントの違いによって母音の音色が変わることも問題にする必要があるし
>北関東から東北方言のイやウの母音の音色が西日本のそれらと異なっているのは・・・
その通りです。音声学ではそれらをみな問題にします(記述・分析します)。
厳密にいえば、個人によって音声は違うし、同じ個人でも話すたびに違う音声になります。
音韻論では「らっぱ」「あらし」は、どちらも同じ「ら」だということになります。 >>167
>舌を口の天井につけている時間を問題にするなら
>アクセントの違いによって母音の音色が変わることも問題にする必要があるし
>北関東から東北方言のイやウの母音の音色が西日本のそれらと異なっているのは・・・
その通りです。音声学ではそれを問題にします(記述・分析します)。
音声は個人によっても違うし、同じ個人でも話すたびに違ってきます。
音韻論では、「らっぱ」も「あらし」も同じ「ら」だということになります。 >>162
> 音韻は音の分節、形態は意味を持った音連続の分節というべきでしょう。
この点がちょっと分からないです。「意味を持った音連続の分節」という点です。
母音調和は意味を持っていない、意味とは無関係である、と思うのですが。
とすれば、言語学上の定義からして「形態」ではありませんよね?
そう考えると、結局のところ、音韻と形態の違いがはっきり分からなくなります。
音韻=形態ではないのでしょうか?
「分節」という表現を私もここで使っていましたが、「分節」と一口に言っても、
音声の単なる認知というレベルでの識別と、意味に影響を与えるレベルでの識別があると思います。
例えば、日本語の「…です」を/desu/と発音する日本人と/des/と発音する日本人がいたとして、
我々日本人はこれらを方言の違いとして識別できますが、意味の違いとしては識別しません。
狭義の文法上の意味の違いとしては少なくとも識別しないはずですね。
言語学で「音韻」と言った場合、
音声の認知レベルの識別まで指しているのか、意味レベルでの識別まで指しているのか、
そこはどうなんでしょう?
>>162
> もし、音声学上、生理学上の要請であるのなら、世界中の言語に【同じ】母音調和があっていいはずですが、じっさいにはありません。
なんらの便宜性はべつの便宜性とのトレードオフの関係、天秤の関係にあるかもしれず、
鳥が飛ぶことの利便性を追求した結果、失った利便性があるかもしれませんし、
哺乳類が母胎と母乳で子育てをする利便性を追求した結果、失った利便性があるかもしれません。
ヒトが直立二足歩行のなんらかの利便性を追求した結果、失った利便性もあるでしょう。
しかし、翼をもって空を飛ぶことの利便性はたしかにありますし、
卵ではなく母胎で子を育てる利便性もたしかにあると思われまし、
おそらく、ヒトの直立二足歩行もなんらかの利便性があったのでしょう。
これらは自然選択のレベルでの多様性の話ではありますが、これらのことは自然界に
おいても「利便性=一様性」でないことを証明しているのではないかと思います。
人間の言語発音の生理学上の便宜性があったとしても、人間のオーラル言語すべてが
その生理的便宜性を優先して利用するとはかぎらないことは勿論でありまして、
そうした事実は母音調和に生理的便宜性があることの「反証ではない」と思うのです。
母音調和があらゆる人間の言語に存在しなくても、母音調和に生理学的に考えられる利便性に
由来しているのかもしれないということの反証にはならないのではないか、と。
この点がまず一つ前提として。
でもって、いかなる客観的利便性を優先的に利用するかどうかが文化的恣意性にかかわる
選択的・慣習的事実であることには異論がありません。
書き言葉における文化的恣意性の慣習にはそれ独自の自律的歴史が見出せる趣旨のことを
木村さんはお書きになっていましたが、私は、その同じことが話し言葉においてもありうる
と考えているということになります。母音調和もその例の一つになりはしないかと。
>>168
1ヒトツ、イチ、2フタツ、ニ、3ミッツ、サン、4ヨッツ、シ、
5イツツ、ゴ、6ムッツ、ロク、7ナナツ、シチ、8ヤッツ、ハチ
9ココノツ、キュウ、10トヲ、ジフ
>>171
(1) [desu]と[des]が違う音だと認知するのが音声のレベル
(2) どちらも日本語の「す/su/」だと認知するのが音韻のレベル
(3)「す」が文の中で使われて、違うものだと認知するのが形態(意味)のレベルです。
(鳥の)すが……
(調味料の)すが……
(この場合、英語の/-s/[-s][-z][-iz]が複数形を表す-sか三人称単数現在を表す-sかも「意味の違いを表」します。)
母音調和は(2)のレベルの現象なので音韻現象です。
そして、トルコ語で母音調和が【現れる】場所は語幹と接尾辞のあいだにおいてです。その意味では、母音調和は形態レベルに関係します。
つまり、母音調和の現象自体は音韻現象ですが、形態レベルにおいても現れます。
このような意味で「音韻論と形態論にまたがる現象」であると書きました。
>言語学で「音韻」と言った場合、
>音声の認知レベルの識別まで指しているのか、意味レベルでの識別まで指しているのか、
>そこはどうなんでしょう?
ふつうはうえの(2)のレベルを指しますね。音韻はそれ自体が意味をもつことはできませんが、意味を区別することはできます。
「かっぱ」と「らっぱ」の意味の違いは/k/と/r/の音素(音韻)の違いによります。 >>172
>母音調和があらゆる人間の言語に存在しなくても、母音調和に生理学的に考えられる利便性に
>由来しているのかもしれないということの反証にはならないのではないか、と。
まったくおっしゃる通りで軽率な書き込みでした。
ただひとつ言い分けさせてもらうならば、わたしは母音調和が音声学上・生理学上の要請ではない趣旨を書きましたが、
生理学上の要請に由来することまでは否定していません。
歴史的には生理学上の要請であっても、現在はそれが言語内化(=慣習化)してしまっていると考えます。
ですから、
>書き言葉における文化的恣意性の慣習にはそれ独自の自律的歴史が見出せる趣旨のことを
>木村さんはお書きになっていましたが、私は、その同じことが話し言葉においてもありうる
>と考えているということになります。母音調和もその例の一つになりはしないかと。
これには完全に同意します。
言語学ではこれを「発音法」とは呼ばずに「音韻(現象)」と呼ぶということです。 >>175
数詞なら
1 i- イチ
2 ar ニ n/r交替
3 san サン
4 su- シ
5 u- ゴ 「g」が中国では発音されなくなった
6 ryu- ロク
7 chi- シチ
8 pa- ハチ
だろ
>>178 右側はヤマト言葉ではない。漢語という。 >>178
バカめ
「五」の頭子音は中古音三十六字母で「疑=ng」母に属す。
gではなくngだ。
朝鮮人は語尾のngとnは区別するが語頭のngは発音できないというか
元代以降の北部中国人がngの発音をできなくなった。
半万年属国人の朝鮮人はそれに追随したのか本当に発音できないのかは知らない。 >>180でなぜ朝鮮の話が突然出てきたか知らんが、ハングル字母で語頭の無子音を表す記号がng音の記号だというのは本当の話だな。 >>181
ようするに頭子音ngの消失が北京語と朝鮮語で共通していて
北京語の直接のルーツはモンゴル王朝時代にあるということ。
日本語は中古(隋唐)漢字音の頭子音ngをgで代用している。
これは福建語と共通している。 助詞がないし名詞や動詞の変化が無いから英語や孤独な日本語とは別の意味で
孤立語なのさ。 日本語の格および係助詞、英語の前置詞、中国語の介詞はまったく別物なんでしょうか。 日本語は語順の規制が英語や中国語に比べて緩やかだ。
だから格助詞が無いと語と語の文法関係が曖昧になる。
中国語は日本語より語順の規則が厳格だ。
古代中国語では「彼」は「は」を包含するは3人称主格の代名詞
「其」は「の」を包含する3人称属格代名詞、「之」は「を」を包含する目的格代名詞だったが
六朝時代にはこれらの使い分けが乱れていった。
日本語文法で意味上の「補語Complement」というものはあるけど
中国語文法は述語動詞よりも後方にある副詞的修飾語を補語と呼んでいる。
日本語には中国語的意味の補語は無い。
中国語の介詞はその起源が他動詞で、介詞+名詞の句は元々動詞+賓語の
動賓構造だったが、動賓構造が複数繰り返されて意味の重点が後の方に偏ったため
前の方の介詞句が副詞的修飾語になったものだ。
「与(與)」は
@andを意味する接続詞、
論語「子罕言利与命与仁」http://kanbun.info/keibu/rongo0901.html
A「賜予」を意味する動詞。
孟嘗君列伝「貸銭者多不能与其息。」
B日本語の助詞「と」と同じような機能を持った介詞。
孟子離婁章句下「諸君子皆與驩言、孟子獨不與驩言」
http://suzumoto.s217.xrea.com/website/mencius/mencius08-28.html
松浦亜弥の歌の中国語訳で「与」が日本語の格助詞「と」や「に」の機能を果たしている。
つまり曾ての動詞が助詞化している。
http://mojim.com/twy102308x13x2.htm >>168
Hitotsu一,一,二Futatsu,二,三手套,太阳,四Yottsu,系统,
5 Itsutsu,徽标,Muttsu6,乐,7娜夏,多样性,8 Yeatts,蜂
Kokonotsu9日,圭,10 Towo,齐夫 >>186
言語学には接置詞(adposition)という用語がある。
これは前置詞と後置詞をひっくるめた概念。
日本語の格助詞は後置詞で、英語の前置詞、中国語の介詞(前置詞)とともに接置詞に含まれる。
中国語文法では後置詞「的」もよく介詞に数えられるが、これも接置詞。
接置詞は「格」が分離可能な独立した形態として現れたもの。
「格」とは「名詞の述語(節の中心となる動詞)に対する関わり方」を具体的に表す形態。
この「関わり方」には動作主(例・ガ)、対象(ヲ)、受け手(ニ)、出発点(カラ)などの種類があり、
意味役割、θ役割などという。
日本語の係助詞は「意味役割」とは異なる「情報構造」という文法的な機能を担っている。
したがってこれを接置詞に入れることはできない。
係助詞と格助詞が別物だという説明はよくあるのですが、
しかしながら係助詞が格助詞を消してしまう・省略してしまう現象が謎ですね。
他言語にもよくある現象なんでしょうか。 結果的に見れば「消した」ように見えるだろうけれど、日本語の格助詞は
ラテン語の格語尾などと違って元々義務的なものではなくゼロ表示(いわゆる「助詞の省略」)
が可能で、特に主格・対格などは口語でゼロ表示の頻度も高い。
(近代の文章語で格助詞が義務化したのは漢文訓読体の影響ではないかと考えられる。
すなわち漢文訓読では、一つ一つの名詞句に、原文にはない格助詞を付けることで「解釈」を
明確にしようとした結果、格助詞を多用するようになった)
そこへ情報構造の上で必要となった係助詞が割り込んで固定化したのだろう。
ここまでの事情は朝鮮語でもそっくり当てはまる。(漢文訓読ではなく
おそらく日本語の影響で文章語は格助詞を多用する) 消してしまう現象は分かるのですが、むしろそこで謎だと言っているのは
係助詞のほうが格助詞よりも優位だということなんですね。係助詞が格助詞に勝ってしまう。
係助詞のほうが情報伝達上重要だという合理的説明は可能なんでしょうか? 意味役割は中心的なもの(動作主、対象など)ほど動詞に対しては意味の上で無標であるため、
日本語の場合それを反映して中心的な格助詞(主格ガ、対格ヲ)は随意的(非表示が可能)で、
周辺的な意味役割(場所、道具、出発点)は動詞に対して有標な存在なので、
日本語の場合周辺的な格表示(地格・具格デ、奪格ヨリ)は表示が義務的になります。
情報構造を形態的手段ではなく語順の差で表す言語の場合、表示自体が行われないので
有標/無標の差は文型ごとの登場頻度によって判断するしかありません。
チェコ語などがその例で、情報構造を反映して語順は変わりますが、その事によって格表示は損なわれません。
これに対して日本語の場合、情報構造の差を係助詞の有無によって
表示・有標/非表示・無標という形で表します。そして係助詞の位置は格助詞と同じ名詞句の末尾です。
ここで格助詞と係助詞のバッティングという状況が生じ、格助詞のうち無標のものが消えるわけですね。
主題化が起こらなければ主題の係助詞ハは登場しない、つまり主題の係助詞ハは有標の存在です。
意味役割のうち動作主や対象は無標である、つまり主格ガや対格ヲは脱落可能です。
有標の主題化助詞が来るとき格助詞のうち無標のものを残す動機は相対的に薄れます。
つまり係助詞と格助詞の間の優先順位の問題ではなく、係助詞内部、格助詞内部の表示の
優先度の組み合わせによって起こる現象だと言えるでしょう。 >>189
>中国語文法では後置詞「的」もよく介詞に数えられるが、これも接置詞。
「的」が介詞って誰の説? 学者の名前を挙げてくれ。
「的」は「構造助詞」と呼ぶのが定説。 >>194
馬建忠の『馬氏文通』は「的」ではないが「之」を「介字」に入れているね。
王力も初期には似たようなことを言っていた。
馬氏文通の資料は論語、諸子、史記、漢書などの文言文だから
後置詞の「的」は論外。
結局>>189はうる覚えの寝言でOK 横レスだが「論外」の意味と「うる覚え」の形を確認しようね、っておれ釣られてる?
意地の張り合いや揚げ足の取り合いはそれくらいにしたまえ。
>>186の質問は「学校文法」と「言語普遍」との間の溝を埋められないかという問題意識だろう。
学校文法は先生がある特定の言語について生徒に説明して納得した気にさせるための物だが、
それ以上の目的を持ってはいない。ロシア語の「生格」や国語の「形容動詞」「連体詞」や朝鮮
語の「冠形詞」などがまさにそれ。他の様々な言語では結局「それが何であるのか」についての
質問に答えるようには出来ていない。それぞれ「属格」とか「ナ形容詞」とか「(変化しない)形容
詞」とか呼びかえることではじめて他の言語の文法概念にも通じる用語にもなる。>>189の質問
はそちらの方向を向いてはいるが、「係助詞」があくまで学校文法にとどまる用語であり言語普
遍に照らすと「それが何であるのか」についてまでは十分に答えていない。というか二つの言語
学用語のレベルの違いを意識して説明していない。>>194はシナ語の「構造助詞」が結局「何で
あるのか」という問題意識を共有せず、ただ学校文法を「定説」と称して挙げただけ。>>195は
「初期の王力」について例を挙げること。>>196-197はただの揚げ足取り。まあ「新しい日本語の
表記法を発明する」なんていうスレばかり乱立しているこの板の現状から見てまだましな方だが。
他の言語にも通用する概念になる必要はあるのか。
文法用語は言語ごとに、あるいは(文法の類似するゆえに)語派ごとに、
それぞれ別であってもいいのではないか?
学校文法を見下して酔っているだけにみえる。
目的が違うんだから体系が違うのは当たり前。
そもそもの質問が言語の枠を超えた概念を求めているんだからそれに答えてるだけだろ。
見下してるだの、ただの被害妄想。
個別言語に閉じこもりたいのなら外国語板で十分。
普遍文法学派的にはどう解釈されているんでしょうね? 女子だけの言語
オタ萌え文化の世界ではすでにそうなって >>1 **や***はすべて***か*******からの**で、
それを補うように**がある。***は**だけでなりたつ
***な**なのでは
ないだろうか? >>206
***のところに外国語の単語を入れていけば日本語完成? >>207 これは日本語が助詞だけで成り立つ言語ではないことを示している。 >>208
ありえない。
どんなに外来語を助詞でつないでも
動詞は日本語が必要になる。
キャッチ「する」
ゲット「する」
動詞を外来語だけで成り立たせるのは不可能 >>209
でもその「する」とか「だ・よ」は省略できるよね。
「あなたのハートをキャッチ(する/よ)!」とか「ポケ○ンゲット(したぜ/だぜ)!」とか。
だからそういった省略が前提とはいえ、外来語動詞単立が不可能とまでは言えないような。 >>211
感嘆文とか、気持ちのこもった文ならそういう省略もあるんでないの?
形容動詞の
お洒落だ/な とか ナイスだ/な
が感嘆文とかになると
お洒落!とかナイス!とかになるみたいにさ
その現象の動詞版がゲット!とかキャッチ!とか
専門的な勉強はしてないからお門違いの指摘かもしれんが
助詞と僅かな動詞(する、できる、等)の活用変化だけを覚えれば、
それなりに日本語っぽい文は組み立て可能じゃないか? >>214
する、できるの他に、していく、してくる等も含めれば、カ変、サ変を含めた日本語の動詞の活用を全部覚えないといけない。
「僅かな」とはとても思えないな。 接続助詞の「て」は連用形に接続するそうですが
「〜にて」という場合、「て」は連用形接続ではないと思うのですが。 >>216
「〜にて」は「〜にありて(あって)」「〜におきて(おいて)」「〜によりて(よって)」etc... から
動詞が省略されて一個の格助詞として独立したもの、と考えてくれたまい。 >>217
わかりました。
ありがとうございました。 >>1 名詞や各単語はすべてシナ語か日本語、英語からの転用で、
それを補うように助詞がある。朝鮮語は助詞だけでなりたつ
不思議な言語なのでは
ないだろうか? 外国由来の単語はある程度自由に導入できるルールにしてないと
中国語みたいに固有名詞で苦労するぞ >>220 シナの世界地図を見ると悲喜劇みたいなものだからな。
いろんな外国語をもっとちゃんとやればスレタイみたいなアホなことは言わない
>>220 シナの世界地図を見るとこいつら馬鹿か?と思うからな。
>>223は自分がバカだ。
シナ人は外国語地名には機械的に割り当て文字を用意して当てはめてるだけだ。
日本人がカタカナ使うのと同じ。 >>224 クイズ番組向けにはオモロイ表記やけどな。 >>227 の英語には sky やら ski やら skirt やらといった単語はもちろん、
do や can 、have といった基層語彙すら存在しないらしい。 英語がノルド語やゲルマン語の影響を受けてるのは
知ってるけど >>231 しかし日本の漢語なみにフランス語が入っているな。
ちなみにインドネシア語にはサンスクリット、トルコ語にはアラビア語が大量に入っているらしい。
>>231 ノルマン王朝時代の英国宮廷の公用語はフランス語で、英語は民衆がしゃべる土語扱いだったそうな。
>>234 ということはシナはまだ隠れ満州人が支配しているのかも知れんな。
満州人やモンゴル人訛りは極論だけど
北京語が遊牧民の影響を受けてるのは確かだよ ギ・キ・ヒがジ・チ・シになっちゃったのってモンゴル語の影響らしいね
おかげでペキンがペイチンになってる >>237 >>ギ・キ・ヒがジ・チ・シ
・・・モンゴル語の影響がなくても日本の方言内でもキミ>チミ、緊急>チンキュウ、ヒ>シになるものがあるがな。
>>238
チミは協和語を日本の方言だと言うアルか? >>237 モンゴル語では顔のことをチラというから日本語のツラの方言と言えるな。
夏目漱石『こころ』の後ろの方に
> もしKがその人であったなら、私はおそらく彼の前に赤面したでしょう。
というところがあります。
この『私はおそらく彼の前に赤面したでしょう』は
『私はおそらく彼の前で赤面したでしょう』と、どのようなニュアンス的な差が
あるのでしょうか?
>>245
意味上の違いは特に無いと想うけど、現代では「彼の前で〜」か「彼を前に〜」
の方が普通かな。「彼の前に〜」はやや旧い時代がかった印象がある。 私はおそらく彼の前に(おいて)赤面したでしょう
と補完して読んではダメですか? >>247
構わないよ。同様に「彼の前で(以て)〜」「彼を前に(して)〜」。 >>1はまあ極論だが、大枠においては当たっていなくもないな。日本語のアイデンティティは助詞くらいしかない。 >>249 語彙の70%が漢語という朝鮮語ほどではないがな。 >>249 何しろ朝鮮語を漢字ハングル交じりで書くと日本人にもだいたい分かるほどだからな。
確かに昔の読み物は助詞の使い方が現代と違う。
昭和期の映画なんかも違う。 >>229
影響も何も、英国人の主たる出身民族であるアングロサクソン族は
ゲルマン民族の一派だから、当然、ゲルマン語が基だろう
その後、フランスからフランス人化したノルマン人(ゲルマン民族の一派)が入ってきて
フランス語とその基層をなすラテン語が英語に大規模に侵入
ブリテン島の原住民であったケルト人の言葉も少し残っているだろうから,
これらのミックスが今の英語でしょう >>253 ところが英語に入ったケルト語語彙というものはほとんど無いと読んだ。
日本語に入った朝鮮語がほとんど無いのとパラレルな現象と言えるだろう。 ケルト語は人名には大きく寄与してるな。アングロサクソン由来の名より多いと思う
アングロサクソン由来はアルフレッドとエセルくらいか?それっぽくてもフランス語経由ってのが多いな
一方ケルト語由来だとブライアン、ブリジット、ケイン、アーサー、ドナルド、ニールなど。キリスト教関連の名前がケルト化してから英語に入ってきたのもあるし(ショーンなど)
もちろん古英語の命名の伝統がほぼ中世でとまったアングロサクソン系の名前と、千年以上にわたって英語に流入しているケルト系の名前とを比較するのは問題があるけど
でもこの浸透力は言語自体の活力と比較するとすごいと思う ケインはケルト語由来というより聖書由来だね。ブリジットやドナルドも聖人名だ。
ここに挙がっている名前の多くはやっとこ20世紀に入ってから英語圏で人気が出たもの。
おそらくキリスト教徒の多様化・形骸化、移民の増加、英語圏の拡大などが寄与しているんだろう。
アングロサクソンの伝統的な命名法は、両親の名前の一部を組み合わせるというもの。
アングロサクソン系の名前の多くは多様な文化の流入に伴い、こうした習慣と共に埋もれていった。 >>255 イングランドに残っているケルト語は地名と人名くらいだと読んだが、普通名詞などはほとんど無いらしいな。
ノルマン征服でフランス語が大量に入ったのとは対照的だ。
下手したらスペイン語内のバスク語や広東語内のタイ系の語彙より影響が少ないのかも
でも英語で犬を指すdogは他のゲルマン語にはない形だけど。ってどんどん日本語から逸れていく 語彙を伴う文化の入りこんだ時期とも関係があるだろうね。
古く入り込んだ文化的語彙には大抵固有語が当てられてしまっているが、
比較的新しい語については外来語をそのまま取り入れる場合が多い。
>>258
dog はもともと「筋肉質なワンちゃん」といった意味の言葉。
16世紀ごろにゲルマン語での一般的な犬 hound にとってかわったらしい。
今では他の言語に入り「イギリス犬」という意味の語になってる。 このスレを見て、やっぱりカナ、かなは見栄えが悪いと思った
日本語のTシャツとかがダサイと思うのは、字に統一感が無いからだろうな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています