久々にスライム国のおへやにlost派からの反論コメントがきた。

不失正鵠、的を外さない事と的を射抜く事には天地の差があります。
孔子が言ってるのは的を外さないやつは賢者に決まってると。外れるってことは自分自身が悪かったと反省させられる。だから弓は君子みたいなものだねという事。
一回的にまぐれ当たりしたからって賢者でも何でもないわけで、一回も外さないという所に意味がある。
「正鵠を得る」が誕生した頃の日本の弓術の精神もこれを共有しており、構えた段階で「的を得て」いれば矢は逸れない、自ずと中たると考えられていました。
これは現代に到るまで同じで、今でも弓道家は中てる為に矢を放っているのではなく、自らが「正鵠」と定めた精神的な的を捉える為に矢を放っています。
また「得る」とはうまく捉えるの意で、獲物を仕留めた後にも言いますが、仕留める前にしっかり目標を捉えた段階で「得た」となります。
平家物語でも、鵺を上手く捉えて射手が発する言葉は「射得たりや応」です。与一の放った矢が扇に中った事を第三者が見れば「射たり」となりますが、
与一本人は狙い通りで確信を持っていたでしょうから「得たり」と思ったことでしょう。