もし弥生人が日本列島に来ていなかったら? 2
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0131名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/04/23(金) 12:49:48.05ID:JWJg64nM
Tracing population movements in ancient East Asia through the linguistics and archaeology of textile production
doi: https://doi.org/10.1017/ehs.2020.4

これまで、北東アジアの新石器・青銅器時代については、繊維生産の分析がまったく行われてこなかった。この状況を改善するために、本研究では、古代の繊維生産に関する言語および考古学的証拠を統合する。

言語/農業普及仮説は、世界の主要な語族の拡大は、初期の話者が農業を取り入れたからだという主張である。トランス・ユーラシア語族の農業語彙もその祖先に起因するとされており、これらの言語の普及が農業主導であったという主張を裏付けている。

トランス・ユーラシア語とは、従来のアルタイ語に代わる言葉で、Figure 1に示される言語の大グループを指す。このグループには、日本語族、朝鮮語族、ツングース語族、モンゴル語族、テュルク語族が含まれる。

Figure 1. The distribution and classification of the Transeurasian languages.
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200213105622005-0569:S2513843X20000043:S2513843X20000043_fig1.png

トランス・ユーラシア祖語 (proto-Transeurasian) は、文字記録には残っておらず、最古の文字資料とは数千年もの隔たりがある。トランス・ユーラシア諸語に見られる系統的な類似性を解きほぐすことで、この言語を再構築することが可能となる。この目的のために、紡錘車(糸つむぎの器具)の証拠を持つ34の遺跡を調べる。これらの遺跡の位置をFigure 2に示す。

Figure 2. Location of the archaeological sites reviewed in this study.
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200213105622005-0569:S2513843X20000043:S2513843X20000043_fig2.png

我々の目的は、これらの地域が、言語復元に現れている繊維技術を利用していたかどうかを調べることである。そのためには、雑穀 (millet) や麻 (hemp) の栽培、針 (needles) や錐 (awls)、紡錘車 (spindle whorls)、織機の重り (loom weights) の使用などのデータを比較分析することが必要である。繊維技術の伝播ルートを推測し、農業の伝播ルートとの相関関係を明らかにする。

トランス・ユーラシア祖語に、「切る」という動詞*giri-を復元することができる。この動詞から派生した古日本語や満州語の道具名詞は、いずれも布を切ることに特化した道具を意味しており、対応するテュルク語の動詞は、毛皮や布を切ることに特化していることから、この動詞は織物生産の領域で特に使われていたと考えられる。

トランス・ユーラシア祖語の繊維語彙は、テュルク語やモンゴル語ではしばしば失われているが、日本・韓国語ではよく保存されている。日流祖語・朝鮮祖語に共通の繊維語彙が3例ある。pJK *parʌ-「縫う」、pJK *pu-「紡ぐ、撚る(糸)」、pJK *pata-「織機で(布を)織る」、pJK *asa「麻」。

Robbeets (2017, 2020a) は、言語学による年代測定とトランス・ユーラシア語族の祖先ノードの位置を利用して、祖先言語と古代文化を関連付けた。Bayesian系統分析では、分離の発生時期をトランス・ユーラシア祖語は4700 BCE、アルタイ祖語は3293 BCE、テュルク・モンゴル祖語は1552 BCE,日流祖語・朝鮮祖語は1850 BCEと推定している。
0132名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/04/23(金) 12:51:32.42ID:JWJg64nM
Table 1. Selection of sites with textile technology in the Transeurasian linguistic region, specifying the simultaneous occurrence of millet or hemp cultivation and agricultural tools:
0 means ‘absent’, 1 means ‘present’ and ‘?’ marks uncertainty.
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トランス・ユーラシア言語圏における紡錘車の最古の証拠は、興隆華文化 (Xinglongwa) と招巴溝文化 (Zhaobagou) に遡る。Table 1は遺跡の概要を示したもので、雑穀の栽培、農具、麻の栽培、紡錘車、骨の針や錐の証拠があるかどうかを示している。0は「ない」 1は「ある」 ‘?’は不確定。

紡錘車の証拠は、紀元前3〜2千年頃の沿海州にも続いており、これらの遺跡は、Zaisanovka文化伝統の地域的な変種を表している。ほとんどの年代はca.と記されており、炭素年代測定が行われていないことを示している。Valentin-PeresheekとSiny Gai Aでは、円錐形、双円錐形、ディスク形の紡錘車の証拠が残っている。一般に、Siny Gaiの遺物群はValentin-Peresheekの遺物群よりもやや発達しているように見える。

韓国のPibong-liでは、草で編まれた袋が、木製の船の破片の近くで発見された。4670 ± 60 BCEで、この遺跡は、新石器時代初期に植物を使った織物が行われていたことを示している。日本に近いこの遺跡は、織物が伝播した場所なのかもしれない。初期 (1300-800 BCE) と中期Mumun (800-500 BCE) における出土状況から、韓国の青銅器時代には、ほぼすべての遺跡に紡錘車と重りが含まれていることがわかる。

日本で織布の証拠が最初に現れたのは、弥生時代 (900 BC-AD 300) の初期で、韓国から米や雑穀などの農業パッケージとともに、紡績や織布の技術がもたらされたと考えられている。弥生時代の紡錘車の多くは、装飾のない平らなディスク形である。円錐形の紡錘車は、弥生時代には見られないが、古墳時代 (AD 250–700) にはよく見られる。

Figure 3. Comparison of spinning and weaving technology in Neolithic and Bronze Age Northeast Asia.
(a) Conical ceramic spindle whorls. (b) Disk-like whorls. (c) Loom weights.
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Figure 3は、紡績・製織技術を比較したものである。北東アジアの地域で、(双)円錐形、ディスク形の紡錘車、織機の重りには大きな類似性があるように思われる。

ディスク形と(双)円錐状の分布には興味深いコントラストがある。ディスク形は、西遼河流域に集中しており、もっぱら遼東半島や日本に見られる。遼河下流域の上新楽遺跡 (Upper Xinle)、アムール川のYinggelin遺跡、沿海州南部のZaisanovka文化では、(双)円錐形が見られる。また、朝鮮半島の北東部や中東部では、ディスク形よりも数が多い。

このように、遼河流域からの繊維技術の伝播には、異なる2つのルートがあったことが示唆される。
0133名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/04/23(金) 12:52:38.92ID:JWJg64nM
紡錘車の証拠がある新石器・青銅器時代の文化は、農業の証拠を持つ傾向がある。Table 1にある遺跡の大部分は、雑穀の栽培や農耕具の証拠として肯定的なスコアを示している。

沿海州のValentin-Peresheek遺跡とSiny Gai遺跡は、植物遺物を検出するための土壌浮遊法がまだ適用されていない1960年代から1970年代に発掘されたものであるため、雑穀や麻を栽培していたことを示す考古学的証拠はないが、これらの遺跡が属するZaisanovka文化 は、ロシア極東における最初の農耕文化として知られている。

韓国の初期新石器時代の食糧生産に関する推論は、初期の遺跡であるAmsadongがほとんどを提供してきたが、Pibong-liでも炭化した雑穀の種子が確認されている。Osan-liは漁業に大きく依存しており、すり鉢やすりこぎとともにドングリの遺物があることから、野生植物の採取で補っていたことがわかるが、雑穀を栽培していた証拠はない。中後期Chulmun遺跡では、雑穀栽培の直接的な証拠はないものの、農耕具が発見されている。Tongsamdong遺跡ではアワやキビを栽培していた直接的な証拠がある。

繊維生産の証拠がある日本の遺跡の多くが、農業の証拠や、水田、環濠集落や柵列、木製や石製の農具、初期の青銅や鉄、鯉の養殖などの大陸的な文化的特徴を持つ弥生時代の重要な集落としてよく知られている。例えば、吉野ヶ里遺跡 (Saga) では、少なくとも6つの紡錘車と、麻と絹の両方で作られた11枚の布が見つかっている。

Figure 4. The dispersal of textile technology, agriculture and language across Northeast Asia.
Archaeological sites where (bi)conical whorls have been recovered in relatively high proportions are indicated in blue.
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200213105622005-0569:S2513843X20000043:S2513843X20000043_fig4.png

沿海州のBoisman (4825-2470 BCE) 、朝鮮半島の初期Chulmun (8000-6000 BCE) 、日本の縄文時代 (10000-900 BCE) のような農業以前の社会では、織物の証拠はなかったが、農業に移行すると紡錘車が現れる。

3000 BCE頃、雑穀農業が西遼河流域から沿海地方南部に伝わり、洪山文化 (Hongshan) のものに類似した円錐形やディスク形の紡錘車、織機の重りが、同じZaisanovka文化の文脈で伝わった。このルートは、Figure 4の地図では青で示される。

4000 BCE頃、雑穀農業は洪山文化 (Hongshan) から遼東半島に伝わり、3500 BCE頃には朝鮮半島に伝わった。900 BCEには、雑穀と稲を含む農業パッケージが日本に伝えられた。興隆華文化 (Xinglongwa) を思わせるディスク形の紡錘車や織機の重りは、遼東・朝鮮・日本の遺跡で、雑穀農業と同時期に現れている。このルートは、Figure 4の地図では赤で示される。

興味深いことに、地図上の赤と青の分散ルートは、言語的にも相関関係がある。トランス・ユーラシア祖語が西遼河流域に原郷を持ち、4700 BCE頃にアルタイ語の一体から分離した日流・朝鮮語派 (Japano-Koreanic) が遼東半島に定住し、その後数千年の間に朝鮮語と日流語に分離して現在の場所に移住したのである。一方、3300 BCE頃に分離したツングース語派は、沿海州南部に移動したが、これは円錐形の紡錘車の伝播を反映している。

北東アジアの集団移動を、織物生産に関する言語学と考古学で追跡した。その結果、中国東北部の遼河西岸地域が、新石器時代に雑穀農業だけでなく、紡績や織物のための言葉や道具の普及の中心地であったことがわかった。織物や農耕技術に関連してオーストロネシア語族が広まったというBuckley (2012) の研究結果に沿って、本研究は、織物生産や農耕などの普及パターンと、北東アジアにおけるトランス・ユーラシア語族の普及との間に類似性があることを示している。
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