稲村 ぼくは、経済的に見れば、あらゆる基礎的な条件は社会主義に向って進行している。これは森戸さんのそれを否認しないけれども、あらゆる社会現象というものは政治の上に集中的に表現されていく。これも事実なんだね。占い経済的な支配階級は、必然の形で社会主義へ向って資本主義の基礎が動いていくのを、これをどうしても食いとめよう、チェックしようとするために集中的政治権力を常に用いておる。
したがって、いかに経済的に最高に発達しても、これをチェックしている政治力というものを除去しない限り、日本は結局において大きな矛盾を蔵しつつも資本主義の段階を出ることができない。
ぼくはそう考える。それで質的転換をするためには、チェックするものを取除いてそうしてそれを推進する新しい政治権力というものが生まれなければならない。
従って革命ということは、森戸さんのおっしやったように、事実において経済的にそういう進行が長い間になされて、その矛盾が増大して行って、その増大した矛盾が社会主義の方向へいくということは、これは私は認めておるが、それは革命でなくて進化であり、進展だと思う。
革命という以上は一つの質的変化を表徴するものでなければならぬ。チェックしておるものを取除くことによって、質的に変化させる、その作用がなければレボリューションということは言えないと思う。
そういう意味において、革命とはすなわち政治革命によって表徴されなければならぬ。従って、経済的変革は、革命的要素を帯びる、そういうふうにぼくは解釈しておるのです。
この点はまだどっちの議論も議論する余地は十分あり得ると思うけれども、見解の相違といえば、見解の相違なんですね。

勝間田 それで問題の所在点をお二人にお話し願ったわけですが、今後は一回ずつ、お互いに対する批判をしてほしいと思うのですが。今稲村さんのおっしやったことについての森戸さんの批判をひとつお願いしたいと思います。

森戸 ぼくは社会革命あるいは社会主義革命と言われるものは、資本主義の社会主義への転換の過程であって、これを実現していく方法はいろいろ考えられる。
その方法のきわめて重要なものが政治であるということは疑いない。これはもう議論は一致しておるわけになります。
けれどもその政治のプロセスも、一体瞬間的に行われるのか、あるいは相当の長い期間によって行われるのか、その点はいろいろ違うと思うのです。
そこで私どもは、民主主義の下では、これはそういわゆる劇的な形で行われるのでないのではないかというような考え方を持っておるわけなんです。
政治的革命だって結局は政権が動いてゆき、また場合によってはそのうしろにある階級間の勢力の移動があるけれども、それは何と言いますか、場合によっては一詩的に現われ、多く暴力的に現われるのだが、そういう形をとらないで行われる可能性を持つというところに民主主義の意義がある。
社会主義を民主的に実現していく可能性、あるいは場合によっては可能性よりももっと強いプロバビリティーを強く持っておる。必然ということは社会生活には求めがたいことで、プロバビリティーというものをそこに置くのはそういう点にあるのではないかと思っておるわけです。
したがってまた、政治的な面から言っても、政治の一つの場面に、権力の獲得というか、それが集中されないで、中央の政治もあり、地方の政治もあり、また政治の面と並んで経済の面、文化の面等に新しく社会主義をつくろうという力が浸透して行く。
そういうことによって、それが同時に一瞬間に競合するということでなくして、それぞれの条件がありますから、条件が満たされるにしたがって実現されるという形で、並行的に、また互いに交錯しながら進んでいくという形が変革の過程である。
そういう意味で民主的な変革というものが一時的のものではなく、ある程度漸進的であり、段階的であり、したがってまたそれは建設的、平和的なものであるということになるのではないかとぼくは思っておるのです。
おそらく、稲村君の言われることも、それに反対ではなくて、そういうことが、あとから考えると、一つの瞬間的に、質から量へ、量から質への転化が行われた時期がどっかにあったに違いないということになるのではないかと思うのですが、どうですか。

勝間田 稲村さん、どうですか。