稲村 その点ぼくは、階級問題、民族問題とかいうものは、あらゆる問題がそうだけれども、
階級闘争は、われわれが一つの革命というものを考えれば、一つの階級から一つの階級への政権の移動なんです、
そうすれば、基本的な問題はやはり階級闘争なんですね。
それは何といったって、どんな形であろうが、資本家と休戦しようが、共同戦線を張ったって、これは究極的には革命を遂行するためだとすれば、
階級闘争の一歩前進のためだし、手をつないで共同戦線に立っても、それは階級闘争の一変形だと思う。
森戸さんの御意見だと、過去の輻湊した関係が存在するから、民族問題も国家主義問題もいろいろ起きて来る、それを無視してはいかぬ。これもそうである。
しかしこれは基本的な問題と並列した問題として収上げては、二律背反の問題、ただプラスしたという結果になりませんか、こういう危険がある。
この点はファシズムの誤謬がそこにあった。あらゆる問題を並列的にそれをプラスしたということになる。
ぼくらが民族問題をとらえる場合には、少くとも階級理論の建前からこれを統一しなければならぬ。階級理論に統一することが必要である。
民族論を階級理論と別個なものとして並列的に採用すると非常な危険性を持って来る。こういう考え方です。
そのために、日本のような戦争に敗けた現段階においては、民族発展の将来の担い手は労働階級であるというか、社会主義勢力である。
いわゆる階級的基盤の上に立つものがその担い手である。
そこに民族というものと階級というものとの調和というか、統一がはかられていく。
その建前からぼくは民族問題を取扱わなければならぬのじゃないか。
単に民主主義は民族の問題だというような考え方をすると、階級闘争を否認するようなかっこうになる。
一応、階級闘争というものを否認しないにしても、二律背反的なものをただ集めたというようなかっこうになる。
こういうかっこうを避けていかないと、これはもう知らず知らずの間にファシズムに−−その唱える人はファシズムではないにしても、それを聞いた大衆は、ファシズムとの間に区別がつかなくなる。
その点の一番よい例として、ナチズムとコミュニズムが、戦争直前に、片方にはアルバイト・フロントがあり、片方にはローテ・フロントがあった。
あの時代のドイツがそうで、あの時代のドイツは、民族主義というものを共産党が等閑にしておったためにナチスが抬頭して、大衆が引張られた。
そのために共産党はあわてて、無批判的に民族主義をとらえた。そうするとナチズムとコミュニズムとの区別がつかなくなった。
これはしばしば、その当時のドイツの通信などに見られた問題なんです。
ぼくはそういう混同を避けるために、われわれ独自の民族の扱い方を常にそういう階級的立場においてなさねばならぬ、こういうことになるので、ちょっと少し・・・。