雄略天皇
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>>4
> 南朝の皇族虐殺の風潮に感化された
それは違うと思う。邪魔なやつは消そうとするタイプだろ。 南朝ではなく北朝と接近したほうが良かったような気がするが。 雄略ほどの人物なら
北朝パワー >>>>>> 南朝パワー
であることは把握していたと思うのだが、なんとかならなかったのか? 意味が分からない。
雄略はおのれの権力に執着するあまり、
人材を枯渇させたマヌケだから君主としては三流だと思う
当時の北魏は漢人の文人を虐殺しまくった太武帝の孫の時代で
ここから三代続けて幼帝が即位してるけど
パワーあるといえるかな? 半島から渡ってきた漢人系知識人の質がこの時代はまだ悪いから仕方ない >>10
> 当時の北魏は漢人の文人を虐殺しまくった太武帝の孫の時代で
> ここから三代続けて幼帝が即位してるけど
> パワーあるといえるかな?
それでも南朝よりは強かったのではないだろうか? 整理しよう
当時の同盟国は百済で敵対する高句麗は北魏に朝貢している
北魏としては宋と高句麗に挟撃されるのを嫌うので
百済王の長ったらしい上表文を貰っても高句麗の南下政策は黙認するわけです
北魏も国内に不安要素が皆無ではないので南朝を併合するほどパワーもない
一方宋は皇族同士の殺し合いが盛んで、かつ豪族の貴族化が激しく軍事力が低いというよりは
戦略的指導体制に不備があるため、北伐とかは一流の武将にも反対される始末で強行しても失敗します
要は南朝は軍事的には当てにならないが北朝は戦略的に味方にならない
詰んだ状態なわけです >>15
> 要は南朝は軍事的には当てにならないが北朝は戦略的に味方にならない
そうなんだが、南朝と組むより北朝と組むほうがマシだったのではないだろうか?
北朝と組む事は朝貢国の序列で高句麗の下位になる事を意味する。
当然と高句麗へは自由に遠征できないし戦略的に袋小路、
雄略の拡張路線とは合わない。
北朝から高句麗に有利な条件での講和や
紛争地帯を高句麗に王として封じる事が想定され、
倭は苦しい対応を迫られる。
だったら南朝に賭けてみようじゃないかって事でしょ 雄略としては百済に良いようにされてる現状は納得いかないよな
百済の力の源が帯方の漢人であるのは間違いないけど
それに対抗する手段が整わないうちに時間だけが過ぎていった気配がある
倭国は漢人にとってまだまだ魅力的な国ではなかったということが
60年後の仏教伝来に繋がったんじゃないかな 雄略って聞いて思いだすのは、万葉集の最初の歌。
女の子をナンパしている和歌。
ほのぼのしているけど、自信溢れているなあ〜って感じ。
これより古い和歌ってありますか? 雄略が狩りをしていると、アブが襲ってきてトンボが
助けた話って何を暗示しているのだろうか。 仁徳天皇稜は実は雄略の墓という説もあるぞ。
故・黒岩重吾さんが唱えていた。 真陵は岡ミサンザイ古墳だろな。
大山古墳こそ倭王武=ワカタケル大王=雄略にふさわしいとか、
仲津山以降の290m超級の五大墓が「倭の五王墓」で、最後の土師ニサンザイが武=雄略陵だとか、
作家や学者は「雄略陵は河内丹比にあり」の伝承を無視して好き勝手なことを言っているが、
たぶんハズレだろう。
>>25
岡ミサンザイだと丹比という表現は使わないんじゃなかろうか
>>32
古代の郡境はきちっと確定してないんじゃない?
葛井寺の檀家には丹比郡の人も多かったらしいし、
「三代実録」にも河内国丹比郡の人として葛井氏の人物が複数出てくる。
近世では、北域の太田や小山・津堂あたりは「丹北郡」だったようだし、
だいだい「岡ミサンザイ」の「岡村」じたいが「丹南郡」に配されてる。
だから、岡ミサンザイが在丹比郡ではない、とは言い切れないよ。 >葛井寺の檀家には丹比郡の人も多かったらしい
→近世以降の話をされてもな…
>「三代実録」にも河内国丹比郡の人として葛井氏の人物が複数出てくる
→隣接地域だから住んでいてもおかしくないしな…
>だいだい「岡ミサンザイ」の「岡村」じたいが「丹南郡」に配されてる
→近代の話をされてもな…
ホント、言い切れないものだな… 大仙古墳は仁徳稜ではなく雄略稜って説があったらしいが。 >大仙古墳は仁徳稜ではなく雄略稜って説があったらしいが。
どうだろうな
雄略自身は権力を集めてたみたいだが
大王家内部の後継者争い、連合してる豪族との抗争で権力基盤はかなり脆弱化
死後一気に中央権力は弱体化
後継者とされてる皇統も存在感が希薄(武烈の話などどう見ても作文)
再構築されたのは継体以降
死後あれほどの古墳を造る余力はあったかな? >>49
古墳は死後埋葬されるものだけど、死後につくるものとは限らない >>50
始皇帝も生前から墳墓つくっていたからな。
雄略も生前から作っていたと思う。 >>53
それもあるだろうが、やはり後継者の能力不足だろ。
お飾りでは済まない程
ヤマトはまだまだ脆弱だったのかな >>55
当時は幼帝とか傀儡王は無理でしょ。そこそこの能力がなければ倭王は務まらない時代。 雄略の頃には
後世まで続いてる豪族がでてきてるけど
そのあたりの協力があっても難しかったのだろうか
畿内での豪族間の綱引きか
畿内は問題なく吉備や東海、九州など他の地方との力関係なのか 雄略の死の直後に、吉備系王子がクーデターを起こして大蔵を占拠したが失敗している。
これには吉備の水軍も呼応しようとしたが、間に合わなかった。 >>58
当時は国家を運営する官僚制度もしょぼかったろうし
大王にそこそこの個人的能力がないと国家の運営がキツカッタと推測。 雄略天皇の死後、吉備氏と星川皇子が反乱を起こしたがあっさり鎮圧されている。このとき、最も功があったのが大伴室屋。
こうした事からして、清寧天皇は無能でも指導力が無いわけでもない。豪族達の忠誠心もゆるぎないと思うのだが。
もちろん、雄略と比較して指導力が落ちるのは当然としても、雄略時代にすでに吉備氏の勢力はそがれていたし、
地方に対する優位は進んでいた。畿内政権は磐石になっていたのではないか?清寧以降、皇位継承はさらに不安定になったが
それに乗じた反乱は無かったのだから。
ただ、大伴や物部などの発言力が増して大王(天皇)を中心とした集団指導体制に近い形になったかもしれない。
スターリンの死後、トロイカ体制だったり田中角栄が倒れて以降、田中派(竹下派)が「金・竹・小」の集団指導型になったように、
強大な権力者の後は集団指導体制になりやすい。
>>61
中央の豪族達は忠誠心で雄略死後の体制を支えたというよりも
そのほうが自分たちの利益になるから支えたということもあるのではないだろうか。
>>62
確かに「忠誠心」は言い過ぎですね。清寧以降の大王をかつぐ理由を限定した表現になってしまいますものね。
「豪族達の支持が揺らぐことは無かった」程度の表現の方が適切でしょうね。
ご指摘ありがとうございました。
清寧、顕宗、仁賢、武烈は架空の大王だろうな。
実際にはワカタケル=雄略が死んだあと、実質的に空位状態になってたんだろう。 >>64
> 実際にはワカタケル=雄略が死んだあと、実質的に空位状態になってたんだろう。
空位ってわけにはいかんから、誰かを大王に担いでいたとは思うんだが。 雄略と聞いて思い出すのは処女に対して一晩で7回やったって記事だな。
まあ2回目以降は処女とは言えないが。 なんかこんな風な問答があったような(うろ覚え)。
あの女は一晩で孕んでしまったが本当に処女だったのか?
陛下、孕みやすい女は男の褌に触れただけでも孕むと申します。
で、陛下はその晩に何回おやりになったので?
7回だ。
それでは無理もございません。
これが「正史」だからね。 当時の医学知識からして笑うことはできん。
現代の理系の大学生ならニュートンが解けなかった問題を解くことが出来るが、だからといって
ニュートンより頭が良いわけでも偉大なわけでもない。 雄略は明治天皇と同じく、ザ・グレートを冠するに相応しい天皇さんだと思う。 日本史上、重要な天皇であることはまちがいない。
日本と中国の史書、考古学資料がぴたりと一致する最初の天皇だからな。
宮内省には閨中方と言う役職があり、皇族方のセックスの補助をする。
閨中方の一人は妃殿下を抱え揚げ、もう一人は殿下を抱え揚げ、
太鼓の音に合わせて「どーん!」「ひとーつき!」
「どーん!」「ふたーつき!」と叫びながらちんこを出し入れさせる。
さらに「朕はもういくぞよ!」と殿下が叫んだら、
「どんどんどんどん」と太鼓の乱れ打ちが始まり、イッたと同時に花火があがる。 色々有ったとしても雄略の時代は日本史の画期だな
・金石文などから漢字、暦が支配階級には使われたことが分かる
・後世の文献だが万葉集の巻頭の一首、日本霊異記の最初の説話など ヤマトタケルの話は、雄略の事績を遡らせて英雄譚に仕立てたものという説もある >>82
ヤマトタケルは前半と後半ではキャラクターが違いすぎる。 >>82
ありえないと思う。ヤマトタケルは皇位を継げずに死んでしまっているんだし、
雄略は日本全国を駆け回って戦をしていたわけじゃない。せいぜい吉備や伊勢の反乱を潰したくらいだ。
ヤマトタケルは、当人そのものが実在したか、あるいは優秀な武人であったのもかかわらず、皇位を継げずに早死にして惜しまれた人物が
ヤマト王権の全国制覇の時代(4世紀頃)に実在しモデルとなったのだろう。
地方毎に派遣された皇子の武勇伝が合成された存在
その中には現在の血筋に繋がる方もいた 雄略って武だとしたら、なんたら将軍になった時に中国からなんか貰ったの?
印鑑や鏡なら墓掘ればでてくるの?
貰った奴を家来に配ったりとかして、稲荷山古墳みたいなとこからその一部とか発掘されたりしないの? >>93
座布団13枚^^
祟り? あるかもよ^^ >>80
「嗚呼、射精寸前」男悶絶。「口内発射可?」
「不可」女曰。「貴殿射精場所即我膣内」
女舌技停止。萎縮物即硬直、聳立。先端、先走汁有。
「騎乗可?」女訊。男頷了解。
女、硬直物添手、潤滑繁茂地帯誘導。
「嗚呼」女悶。「我膣内、巨大硬直物挿入完了」
女下半身躍動開始。一、二、三・・・
「嗚呼」男短声。「謝罪」
女呆然、運動停止。「貴殿既射精!?」
「汝舌技巧妙故。御免」
「最低!! 三擦半男!!」女絶叫。「亀頭鍛錬不足!!
貴殿包茎手術経験者!?」
「何故汝知其事実??」
男墓穴。
以後、男、性交時避妊具二重着用 市辺押歯王を狩りに誘って殺したから、謀略大王のイメージがある模様。
王族を殺しすぎて結局全滅しちゃうんだよね。 >>105
徳川家光が御三家や親藩大名を皆殺しにしたので江戸幕府は3代で終わりました。 当時の王位継承には厳格な決まりがあったようで、
異母兄弟がいくらいてもダメだったみたい。
だからこそ市辺を殺したことが命とりになった。 記紀や姓氏録でも記されてる皇別氏族は
・応神以前(神話伝説の範疇)
・継体以降(実録)
のみ
仁徳〜武烈間がすっぽり抜けてる
さすがに極端すぎるので継体朝成立以降抹殺されたか? 平群氏も葛城氏も雄略天皇に滅ぼされた。当時の王権が有力臣下によって代執行されていた事実の裏付けである。
蘇我氏はこの方式を継承したに過ぎない。結局昔から日本は「象徴天皇制」の国で、それを崩そうとするとおかしくなる。 >>112
>結局昔から日本は「象徴天皇制」の国で、それを崩そうとするとおかしくなる。
例外はあるぞ。白河天皇とか後三条天皇。 本当に好き勝手できたのは、白河と鳥羽くらいじゃん?
後期院政は武家に実権を握られたし。結局王権を強めるには
王族の粛清が近道だが、同時に王族が弱くなるわけで。 >>114
ゴダイゴは?・・・ああ単なる基地外でしたか 神武から元正までの漢風諡号は奈良時代に淡海三船が定めたと言われてるが
(大方漢風かぶれの藤原仲麻呂あたりの命だろうが)
当然単なる好字でなく何らかの意味を持たせてるはずだが・・・ 意味を持たせる根拠は記紀だから事実に合致していると言えない。 古事記は偽書だよ
平安初期多人長による
(ただし史料は多氏に伝わる古伝(原古事記はあったかもしれない)) 古事記偽書説をときどきあちこちのスレに書き込む人がいるけど
専用のスレを立てたほうがいいんじゃないか? 太安万侶の墓誌が出ているが、おまいさんのいう偽書とはどういう意味なんだ?
偽書=来歴を偽った書(内容の事ではない)
記序の内容を裏付ける史料はない(つまり自称)
太安万侶の墓誌に古事記の話はない
(太安万侶の実在と古事記の編纂者という話は全然別) 同時代史料はもちろん、日本書紀にも続日本紀にも古事記編纂の記事がない。
万葉集に「古事記」からの引用があるが、テキストが現古事記と一致しない。
安萬侶は極位極官が従四位下民部卿であり、勅命で国史編纂の最高責任者に
任じられるような人物ではない。氏長になったのさえ、古事記献上の年とされる
和銅五年より4年後だ。稗田阿礼に至っては名前字体がどの文献にも登場しない。 允恭天皇もそれなりに業績を遺したんだろうが、忘却されたのか。 倭の五王の根本史料である南朝宋書には珍(反正?)と済(允恭?)の血縁関係が記されていない
両者の和風諡号の異同から見て想像を働かせる余地あり 「明史」も、義持を義満の世子と記しているが
義持と義教の関係は記されていない
外交政策の変化から見て想像を働かせる余地あり 中国の書物に続柄が示されていないくらいで「血縁関係なし」なんて主張する藤間生大の主張はアホらしい。
だいたい中国の書物にどの程度の信用性があるというのか?
現代においても、クレムリンや北京政府内部の権力闘争の実態、政治的序列、後継者問題などを把握することは困難なのに、
当時の中国のCIA以上の諜報機関が日本で活動していたというのか?バカがw
秀吉の時代に明の使節が来たときですら、各武将に与えた明の官位は、小西行長の方が
徳川家康より上だったりする。明は日本の政治構造を全く理解していなかった。
>>135
> 中国の書物に続柄が示されていないくらいで「血縁関係なし」なんて主張する藤間生大の主張はアホらしい。
同感だ。
ただし「血縁関係はあったが、薄かった」可能性が濃いようにも思う。 >中国の書物に続柄が示されていないくらいで「血縁関係なし」なんて主張する藤間生大の主張はアホらしい。
こういう人たちって、とにかく「万世一系」を短くしたいんだよねw
初期の大和王権は、連合政権で血縁にとらわれない大王の選定をされていたとか。ろくな根拠もないのに。
吉備、尾張、葛城などから大王が出た証拠でもあんのかよwせいぜい后だけだろw
履中、反正、允恭で不思議な点は、以下の通り
・日本書紀で生年が記されていない
・在位年数が、履中、反正が5,6年足らずなのに允恭が40年以上。三人とも母親が同じなのだからそれほど年の差はないはずなのに、
なぜ允恭の在位年数だけがやけに長いのか?
・允恭は病弱でよく歩けず、しかも無理な治療でますます悪くした。だから即位を辞退したのに群臣達は即位を願い、
后の必死の説得でようやく即位を決意した。仁徳天皇の子では大草香皇子もいたのに、また履中、反正にも子はいたはずなのに
なぜ病弱な反正だったのか?
これらの点から見ても、学者と称する連中の主張する「大和王権においては、連合政権であり、大王の選定においては、
政治・軍事指導者としての資質が重視され血縁はそれほど重視されなかった」などという説はバカらしいことがわかる。
むしろ允恭には、「資質」など問題にならないくらいの強力な「正当性」があったのではないかと考えられるのだ。 ちょっと妄想を書くのであしからず
王(君)、臣、連が大和朝廷における身分・職能を表してるとすれば
指導部たる「大」が付くそれは大臣、大連のごとく大王も複数の家柄が有ったとしてもおかしくはない
(祭祀を担う以上制約は有りそうだが)
継体以前から一系と断じるのは疑問の余地が有る(実在性が?なのは論外だが) ちょっと単純化しすぎでしょうな。
王(君主)と臣(家臣)とは対義的なもので、ふつうは一人の君主に多くの家臣という構図。
多くの王家(「王・君」姓)が存在してたとしたら、大勢いる「臣」姓の者はいったい誰がどの王家の「臣」なのか、
なんて話になってきて、あまり現実的とは思われない。
「君」姓の豪族には、それこそ一小国の王にも準えられるような者もいるが、
歴史上取りたてて活躍したわけでもないほんの地方豪族もいたりする。
一方で、かなり有力な地方豪族が必ずしも「君」姓に与っているわけでもない。
つまり倭国における「君」姓の諸豪族は、一小国の君主というよりは、
やはり「記紀」等から類推されるとおり、そのほとんどは崇神以降に分かれた大王家の分枝と見て良いだろうと思う。 「きみ」、「おみ」、「むらじ」とも和語
原義はきみ、おみは高貴な人
むらじは団体長の意味
君(王)、臣・連の字を当てはめたのは君臣関係ができた6世紀後半以降 つまり、獲加多支鹵大王とか乎獲居臣とかは、
オオキミとかオミとかではなかったろうってことね。 >>137
允恭の場合、病身ではあったが有能だった可能性もある。 >>145
当時の有能とは戦闘能力とイコールではないか?軍事政権だからね。
大軍を指揮出来なければ大王が務まらないと見る。倭王武の上表文に
「我が先祖は自ら甲冑を佩き敵を平定した」とあるのが証拠だ。
病身で長期政権が維持できるとはとても思えない。
また別の見方も出来る。允恭の頃には国内平定もほぼ終わり、宮殿を
荘重にして引き籠っていれば大王が務まったという考え方。こうしてみれば、
履中、反正が短期間の在位で終わった理由が推測される。それは戦没である。 >>146
> 当時の有能とは戦闘能力とイコールではないか?軍事政権だからね。
いや、允恭の頃は「有力な中央豪族や地方の土豪をコントロールする政治手腕」のほうが大事だったと思う。
軍事行動は大伴氏でも派遣してやらせればよかったんだし。
それに病身で自分は戦陣に出なくても、戦略的な能力があったということも考えられる。
源頼朝は後半は戦場に出なかったが天下をとった。 >>147
記紀の記述が全て正しい仮定で考えると、
允恭期に大王家の力が諸豪族を凌駕したことが分かる。
病弱、長期政権、没後の政権移行にも混乱はない。
雄略の諸施策も允恭時代の蓄積に裏打ちされているのだろう。
允恭は漢の文帝や景帝の役割を果たしたようだ。
允恭は内政の能力とか大王家の権威を高める能力はあったように思うね。 確かに允恭天皇の事跡を見ると指導力はあったようだ。
・氏姓を偽るものが多かったため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯を実施する。
(血統が重要視されていた証拠。また允恭が諸豪族から「おまえがいうな」といわれない正当性をもっていたということ)
・玉田宿禰を誅殺する。
(外戚である葛城の有力者を排除できた)
しかし、指導力は認められても謎は残る。
・上記のような允恭の指導力が発揮されるのは、新羅から医者を招聘して病気の治療をした後とされている。
即位前は頼りなかったことに変わりはない。 即位前は病弱を理由に再三辞退して空位が続いた。しかし、
それに乗じた後継者争いの反乱は起こっていない。
・履中、反正ともに暗殺の記録はない。にもかかわらず同母兄弟にしては在位年数が違いすぎる。
(雄略、武列を「大悪」、安康を「不倫略奪愛の末にガキに寝首をかかれる」などと遠慮のない記述をしている以上、
履中、反正が暗殺されたならそのように記述がされるはず。それがない以上、病死と考えるべき)
同母兄弟なら年の差にも限度があるだろう。しかも母親は、仁徳よりもだいぶ前に死んでいる。
>>150
>
> ・履中、反正ともに暗殺の記録はない。にもかかわらず同母兄弟にしては在位年数が違いすぎる。
実際には「同母」ではなかったんだろうね。 >>151
日本書紀だと末弟允恭と長兄履中の年が離れすぎている
(同母なのに兄弟で40歳も年が離れている)が
古事記だと履中の在位年が繰り下がり
履中と允恭の年齢差は17歳で同母でもありえなくない
倭の五王の記述から古事記のほうが年代が合う 矮王讃の崩御は430年代ごろとされる。
讃が履中天皇とするとほぼピタリですな。 倭の五王に関しては、漢字の音韻の解明でほぼ分かる。
このことから、倭の五王は、実は倭の六王だったのでは?
という説も出てくる。
とくに、西暦500年以降の倭王武は、
西暦479年の倭王武とは、別人の可能性がある。 履中天皇六年(乙巳四〇五) 悲哉。吾兄王何處去耶。この話は、前年404年 帯方界での敗戦で行方不明
者捜索の話である。
義煕九年[413]『是歳、高句麗、倭國、及西南夷銅頭大師、竝獻方物』(晉書安帝紀)高句麗と倭国は和平協定
を結び、百済・新羅は高句麗の属国となる。
允恭天皇三年(甲寅四一四)春正月辛酉朔。遺使求良醫於新羅。医者に対する態度から、新羅は高句麗の
傘下であることを認めている。であるならば、允恭は倭王賛。
允恭天皇二四年(乙亥四三五)夏六月。御膳羹汁凝以作氷。天皇異之卜其所由。卜者曰。有内亂。
ここで記事は途絶え、その後の倭王とは重ならない。
雄略天皇五年(辛丑四六一)六月丙戌朔。孕婦果如加須利君言。於筑紫各羅嶋産兒。仍名此兒曰嶋君。
この記事は、墓碑で確認できるから動かない。
継体天皇二五年(辛亥五三一)冬十二月庚子《五》◆冬十二月丙申朔庚子。葬于藍野陵。〈或本云。天皇廿八
年歳次甲寅崩。而此云。廿五年歳次辛亥崩者。取百濟本記爲文。其文云。大歳辛亥三月。師進至于安羅營乞。
是月。高麗弑其王安。又聞。日本天皇及太子皇子倶崩薨。由此而。辛亥之歳當廿五年矣。後勘校者知之也。〉
欽明天皇二年(五四一)四月◆夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
欽明天皇も動かない。
問題は、倭王と継体の死に齟齬があること。
河内の巨大古墳が2系統をあらわすならば、任那の主体である金官伽耶の亡命まで続くとみてよい。
>>160
>倭の五王に関しては、漢字の音韻の解明でほぼ分かる。
すっげー >>160
> とくに、西暦500年以降の倭王武は、
> 西暦479年の倭王武とは、別人の可能性がある。
ヤマトタケルも前半と後半では、性格がまったく違うな。
その当時の和風諡号と、
その当時の中国の漢字の音韻から判断すると
倭の五王が誰なのか?わかる。
しかしながら、倭王武に関しては、西暦500年以前と以降では
同じ倭王武でも別人の可能性がある。
西暦479年の倭王武は、雄略天皇の可能性が高いが
西暦500年代の倭王武は、清寧天皇の可能性がある。 倭王武以降のは向こうの連中が記録をにぎやかにするために
勝手に与えたものだ
ゆえに雄略以降日本は朝貢していない 倭の五王の通交は南宋のみ(578年の記事が最後)
武の579年(南斉書)、502年(梁書)の任官記事は建国時の一方的総花的なもので
こちらの内情とは無関係 訂正
×578年→○478年
×579年→○479年 皇統に関する私見をいえば
・大和政権の成立は3世紀末(但し範囲は畿内及びその周辺、伝説の崇神・垂仁(個人としての実在は不明だが)の時代)
・その後の景行、成務、日本武尊、仲哀、神功、応神はより神話的で特定個人の事跡とは思えない
(関東から九州北部(朝鮮半島南部まで?)に勢力を広めたのは間違いないだろうが)
・それ以降は細かいエピソードを無視すれば大王として実在 崇神は実在したと思う。少なくてもモデルとなる人物はいたと思う。
ただし業績は創作されているかもしれないが。 現在の天皇家の直接の祖先は継体だろう。
崇神の実在性云々はともかく、
血統が受け継がれているという蓋然性に欠ける。
確かに継体は応神の五世孫と言われ前の天皇である武烈とも血縁関係があると言われているが本当かどうかは分からないね それを一生涯掛けての研究テーマとしてください。
学士院会員を目指して。 雄略もっと言えば仁徳から彼までは大王としての実在は確実だと思う
それ以降は政権内部の混乱で(有力豪族の主導権争い)皆が一致して推戴出来る大王が不在
混乱に乗じて地方有力豪族も離反
さすがにこの状勢はまずいと妥協がなり一致して傍系王族の継体を推戴・・・
傍系王族と書いたが応神の子とされる若野毛二俣王あたりにヒントが有るのでは? ご勝手に研究して、どうぞ
・・・おそらく何も得られぬまま終わるだろうがね >>175
>皆が一致して推戴出来る大王が不在
大王位は空位だったのか、それとも誰か(弘文天皇のような存在)が即位していたが継体に追われたのか? >>177
平群真鳥が大王になろうとした伝えが有るくらいだから実質的に空位では?
ならば追う追わないなど問題外
(少なくても武烈紀の記述は漢籍の引き写しで作文と断じるざるを得ない) 空位とか根拠だせよ
現に雄略死後も大王は立てられてるだろ
・・・まさか清寧天皇から武列まで架空の人物だった!とは言うまいな?
それこそ証拠出せよって話になるぞ
345 名前:世界@名無史さん [sage] 投稿日:2011/10/28(金) 23:30
永楽帝みたいに、明らかに正統性を有していた同族から無理やり位を簒奪して、簒奪者の家系が
メインになってしまったという事例はこのほかにどのようなものがありますか?
中国以外でも結構です。
346 名前:世界@名無史さん [sage] 投稿日:2011/10/28(金) 23:40
アケメネス朝
ダレイオス1世がカンビュセスやスメルディスを暗殺し簒奪した疑惑がある
347 名前:世界@名無史さん [sage] 投稿日:2011/10/28(金) 23:43
織田信長
守護も守護代もけ落とした
実例は日本でも海外でも無数にあるのでは
348 名前:世界@名無史さん [sage] 投稿日:2011/10/28(金) 23:44
>>345
継体天皇があるじゃないか?
382 名前:世界@名無史さん [sage] 投稿日:2011/10/30(日) 06:49
>>345
日本。
明らかかどうかしらんが、
南朝を正統の扱いにしてるのに、血統としては北朝。
>>179
そんなに力むな
典拠になるのは記紀と乏しい考古学(金石文など)の成果しか無いし
せいぜい断片を繋ぎ合わせて合理的と考えられる推定を書いてるだけ(当然主観も入ってる)
主観でいえば清寧、武烈は架空(顕宗も?)
飯豊、仁賢は実在 だから、「空位」というなら飯豊の在位期間が
いってみれば本当の天皇の空位なわけじゃんよ。
やたら天皇を架空認定する説は問題外。 まあそうだな>>181の説はちと理解に苦しむな
あと
>やたら天皇を架空認定する説は問題外
これには同意する 清寧紀、武烈紀を読めば無条件に実在とは言い切れない
(血縁関係記事、仁賢・顕宗発見記事以外は漢籍をなぞった作文)
そもそもこの期間に大和朝廷を構成する豪族が一致して認める大王がいたのかが疑問 今回はこのスレに関係していた
素晴らしい方々に矢が当たりましたw
今回のシレンは逃亡です
はたしてドコまで貴方の家族は逃げられるのか?
というシレンです
この場でなにをいっても無駄です
さぁー
貴方の妻は
貴方の子供はどうなるのか?
貴方は彼らを救えるのか?
私たちは安心して下さい
映像で記録するため
そばにいますが
お前みたいな屑嬲りゴロシだ!
みたいな親切な人達です・・
では・・ゲームを・・おたのしみください・・ >>187
おまえに限らず架空説いうやつは破綻してる。団塊全共闘の左翼史観。
>漢籍をなぞった作文
古事記もか?w
>この期間に大和朝廷を構成する豪族が一致して認める大王がいたのかが疑問
だからこそ内乱の記録がちゃんとあるじゃん。
清寧は謎の早世。武烈は専横する権臣をクーデターで排除せねばならなかった。
記紀には歴代天皇が代々安穏にマンセーされてましたなんて書いてないがね。 欠史八代あたりを架空認定するなら分かるが流石に5世紀後半の天皇を架空認定するのは無理があるな
>>186
飯豊は本当っぽいな。
仁賢は7割の確率で実在と見た。 >>192
飯豊の次が仁賢、顕宗、武烈を飛ばして継体という線は?
継体が越前から攻め上って樟葉で何年もうろうろしている間
大和に大王がいなかったというのはおかしいでしょ 清寧、顕宗、仁賢、武烈は架空の大王だろうな。
実際にはワカタケル=雄略が死んだあと、実質的に空位状態になってたんだろう。 欠史8代は実在だよ。
ただ大和朝廷なるものの首長ではない。
全国に統一王権を樹立する前の、一地方政権時代の歴代首長たち。つまりプレ大和時代の大王たちのこと。
>>195
ほぼ同意したい(願望もあるかも)
これ以前の岩戸隠れの神話とか神武東遷なども何らかの史的背景有ったのではと考えるので・・・
欠史8代の諡や系譜はそのまま信じることは出来ないが
后妃の出身氏族等の記載には簡単には無視できない内容が有ると思う >>194
清寧は実在では?
吉備氏を外戚とする清寧の異母弟にあたる二皇子が粛清されたというのは史実っぽい。
病弱な清寧が生涯未婚で没した後処女王飯豊が登位→継体を大和に受け入れるか豪族たちが反対あり
ってところだと思う
継体が清寧〜飯豊の頃から大王またはその継承者を主張していたとしよう。
その後の天皇は反継体派によって押し立てられたことになる。
武烈のあとも継体受け入れを反継体派の排除または説得に時間が
かかったのかも知れない。 >>195
欠史八代は実在していたとは思うけど
自分が思うに、その時代にはすでに近畿王権は
全国規模の王権になっていたと思うよ。
では、何が真実に近いのかというと
欠史八代に比定される天皇たちは、
当時の近畿王権の正統な倭王の地位にいなかったのでは?ということ。
おそらく、神武皇統とは別に、正式に倭王の地位にいた王統があった。
それが、ニニギ命の兄の後胤である尾張氏の先祖たち。
後世で似ている例としては、南北朝時代ね。
南朝の天皇たちは、江戸時代なんかでは、ただの親王号で呼ばれていた。
少なくとも、平安時代
京都朝廷は、尾張氏の傍系である海部氏に対して
欠史八代と同時代の尾張氏・海部氏の当主の記述を削除するように
要求しているぐらいだしね。
ちなみに、卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命(欠史八代の中に出てくる皇族の女性)ならば
欠史八代は、魏志倭人伝でいう倭国大乱と同じ時期になる。 >>200>>201
お前、ホントに「そこらじゅう」というか「見境なく」というか
荒らしまくっているな。スレの趣旨などお構いなしに。
いい加減にしろ。馬鹿w
神話スレでも立ち上げてそこで言いたいほうだいしてろ。そして出てくるな。
>>202
おまえも、そこらじゅでストーカーしているだろうw? 仁賢はいたのは確か
そうじゃないと手白香皇女は誰の子になるんだってことになる
話変わるが雄略ってぶっちゃけ皇統の危機作った元凶
もう少し叩かれてもよかった 倭の五王は、讃・珍の系統と済・興・武の系統の二つの王家に別れていて、
まだ完全な世襲王権とは言い難い状況だった。
倭王武こと雄略(ワカタケル)が、讃系のイチヘノオシハ王を滅ぼしたのは、
そういう二王家並立の状況が背景にあったのではないか? >>205
手白香皇女は母方の祖父とされる雄略天皇の皇女としても
年齢的にはおかしくない(継体天皇と釣り合うってこと)。
それだけで仁賢実在とはいえない。 実在の事だが・・・
雄略と継体の間の大王が問題だ
系譜上それに相当する人物が実在という以前に
そもそも大和政権を構成する豪族が一致して推戴する大王がいたのか?
(紀記述によれば大化前代には必須の慣行) オホト王の即位で一悶着があったのなら、オケ・ヲケの二王も同様だろう。
この二王が仮に実在だとしても、譲り合いの説話の真相は両勢力の抗争だと思う。
だから、ワカタケル大王没後の畿内は、事実上大王が不在だったのでは?
さすがに武烈は架空だろう。
オハツセノワカササギなんて、雄略と仁徳のおくりなのパッチワークだしw 実在 ホムタワケ、イザホワケ、ミヅハワケ、ワクゴノスクネ、アナホ、ワカタケル
架空 オオササギ(ホムタワケと同一人物)、シラカ、オケ、ヲケ、ワカササギ 漢風諡号で考えるから駄目なんだろう?
和風諡号で考えたら、別に架空の人物とは思わない。
ニニギ命から歴代の天皇にあたる人物はいたと思う。
ただし、後世、その人物に
○○天皇という漢風諡号をつけたから
後世の人間が混乱する羽目になっている。 >>209
武烈を架空にする意味が分からない。
まあ、武烈天皇という漢風諡号は、記紀が編纂されて数十年経過した
時代につけられた名前だけど。 >武烈を架空にする意味が分からない。
まあそれに相当する人物はいたかもしれないが
武烈紀の記述は漢籍のなぞりで架空
(系譜関係は除く) >>211
> オホシ(オケの本名)は実在したんじゃないかな
この人の実在率は6割と見たね。 億計天皇、諱大脚(仁賢紀冒頭)
紀の中で注目出来る箇所だな
諱として記されているのは歴代天皇でも相当後代まで無い(神武は除く)
これから何か推測したいのだが・・・ 確かに身体的特徴に基づくと思しき命名が多い
ホムタ・ミヅハワケ・オシハ・シラカ・オホシ >>218
それらの名は諱(本名)とはされていない
だからこそ仁賢紀に注目してるのだが
私見では欽明の母の父としての実在の協調のため >>219
雄略の頃は、まだ「朝廷」なんて御大層なものではなくて、
畿内や地方の豪族たちのゆるい連合政権にすぎなかったんでしょ。
しかも、讃・珍の王家と済・興・武の王家の二王家並立だったし。 >>221
> 雄略の頃は、まだ「朝廷」なんて御大層なものではなくて、
> 畿内や地方の豪族たちのゆるい連合政権にすぎなかったんでしょ。
しかし雄略が死ぬ頃には連合政権ではなく、大王家のパワーが突出していた。
>>214
あってるのは代数というか1人いた程度の情報だろうね。
業績も子もなく早世しただけだろうし。 そんなことより
自分の家族を
心配したほうがイイ
娘でも息子でも
喜ぶ
家のメンバーがいくから 雄略の事績と伝えられてるのは
・同族を滅ぼしてまでの権力集中
・いわば同盟関係に近い臣姓豪族(吉備氏を含む)をいわば譜代の連姓豪族を使っての抑圧
取り敢えずは成功したが彼自身の政治的能力に負う所が多く(大王が絶対という制度は確立していない)
死後が混乱したとしても不思議ではない >>225
中国(南朝)に使いの者を送った。
結論から言うと、南朝ではなく北朝に送ったほうが良かったような気もするが…。 ともあれ九州と関東からワカタケルと読める金石文が出土た事実は
歴史解明を大きく前進させた >>226
宿敵高句麗の仲間っぽくていやだったんだろ。北朝。 >>232
でも地理的に離れている上に軍事力が弱い南朝に使いを送っても、いざというとき役に立たない。
卑弥呼も呉ではなく、魏に使いを送っている。 >>233
南北まっぷたつというわけではなく、山東省まで南朝だったからね。
南朝沿岸も高句麗沿岸も経由せずに北朝にはいけなかったんじゃ
ないだろうか。
あと、高句麗が北朝から冊封されていたら、うまくいかないかも。
なお、知り合い(知ったかオヤジだからあまり信じてはいないのだが)が、
倭の五王の外交は、百済の斡旋によるもので、自主外交じゃないと言って
いた。 >>235
何だ、O山誠1の弟子もたいしたことないな >>233
どうも山東半島を支配していた王朝を中国の正統王朝だと思っていた節があるよな
あそこが遣唐使以前の中国との交渉の玄関口だったんだろうか >>237
雄略は安東大将軍でもあったからね。
ちなみに吉田茂は安東に駐在していたことがあったはず。 允恭=済のときに安東将軍から安東大将軍に昇格している。
雄略=武は最初から安東大将軍。のち鎮東大将軍、征東(大)将軍に進んでいる。
開府儀同三司にはなれなかったが。 >>234
> 南北まっぷたつというわけではなく、山東省まで南朝だったからね。
> 南朝沿岸も高句麗沿岸も経由せずに北朝にはいけなかったんじゃ
> ないだろうか。
> あと、高句麗が北朝から冊封されていたら、うまくいかないかも。
意外と重要な指摘。
【核実験】東トルキスタン問題PR動画(日本語版1)【ウイグル弾圧】
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm2890065
中国共産党は東トルキスタンに酷い事したよね。(´・ω・`)
この問題を知らない人はを是非知ってほしい。 倭の五王こと、ヤマトの大王たちは倭国王には冊封されたが、
郡王やら郡公、さらには柱国や開府儀同三司にはなれなかった。
五王のときの将軍号は、高句麗や百済より格下だった。
厩戸王以降にいたっては倭国王の称号すらもらえなかった。
不名誉なこと、はなはだしい。 ここにも
カモがいるみたいな感じ
というか
いれぐいで女が食える
みたいなのできましたw 家族を拉致
本人は無視
家族は幼女をふくめ強姦
本人は無視
家族は風俗に流れてもらう
>>226-241
倭国が北朝を相手にせず南朝と通じてたのは曹魏以来の関係を重んじたから。
魏は親魏倭王の印綬に黄幢までくれたし後々まで景初年号入りの鏡が作られてるから
よほど当時の倭人に(中国人から評価されたってことで)ウケたんだろう。
魏→晋→宋っていう禅譲による正統性の継承を理解してたんだよ。
西晋が瓦解して東晋ができるまでの間、楽浪郡を守るのは倭国の役割だという
(黄幢もってるから官軍意識がある)自意識があってもおかしくないのに、
それが高句麗に奪われたんだから倭国はかなり高句麗が不快な存在だったろう。
楽浪郡をとりかえせという過激派もいたはずだ。
ただ建前と戦術は別。必要なら非公式外交で北魏だろうが
なんだろうが交流はしたはず。
民間でも漢服(あやはとり)呉服(くれはとり)あるから
民間交易はやってたろうし
対高句麗戦では慕容部=燕と連携した形跡もなくもないからね 『宋書』倭国伝 478年 雄略天皇、
中国に送った使者の大和朝廷の説明。
「東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」 倭の五王こと、ヤマトの大王たちは倭国王には冊封されたが、
郡王やら郡公、さらには柱国や開府儀同三司にはなれなかった。
五王のときの将軍号は、高句麗や百済より格下だった。
厩戸王以降にいたっては倭国王の称号すらもらえなかった。
不名誉なこと、はなはだしい。 >厩戸王以降にいたっては倭国王の称号すらもらえなかった。
日本国内では、一応そういうことになっているが、
唐の時代、唐から日本の天皇あてに下された勅書には、
「日本国王・主明楽美御徳(すめらみこと)に勅す」って書いてあるから、
実際には、やっぱり冊封されてたんじゃないの? >厩戸王、聖徳太子は册封を拒否した。
国交を結び、交易を盛んにし、隋の文物、制度を学ぶ。
それが朝貢貿易とみなされても、册封は受けない、
という確固とした方針があったから。
だから、有名な日の出る国の天子より日の没する国の天子へ
と中国の史書にも記されることになった。
隋の煬帝はそれを見て、今後無礼な蛮族の書など朕に見せるな、
とも記録にある。
唐の時代は一応册封体勢に入ったが、
唐側も遠路はるばるごくさま、日本は遠いから二十年に一度遣唐使を派遣すればいい、
それに倭という国号から日本に変えるのも大目に見るよ。
蛮族などほ我が国に無断で国号を決めるなどあってはいかんことだが、
それもいいでしょう。
日本、OK。
後代の歴史家も雄略天皇の扱いは困ったのだろう。
もちろん日本書紀を記述した歴史家グループのことで、
今のなんちゃら歴史研究者ではない。
万葉集の最初も雄略天皇の歌とされ、
国内外である意味で画期となるなる天皇であったことは間違いない。
粛正につぐ粛正で王権を強くするとともに、
また多くの王族をも排除してしまった。
大王であるとともに悪王。
ユニークで面白い天皇であるのは間違いないし、
それなりに評価はされていても、
血族を絶やす原因になったことが、また評価を難しくしている。
中華思想は真ん中が中心。
近いほど位が高く、中心から遠いほど低い扱い。
これが中華思想。
日本の位は低くなってるのは半島ではなく、中国の事情。
西暦300年-600年あたり百済も新羅も日本に朝貢してた。 弥生時代末期の北部九州、博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)の
邪馬台国に国を譲る。これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、「和」国は分裂。卑弥呼はその最中に急死する。
【分裂した「和」国から「大和」国へ】
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向 ・→神武東征≡瀬戸内海⊇≡「大和」
....................隅国(鹿児島)
卑弥呼の跡を継いだ筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隅国(隼人)との三つ巴で
肥後狗奴国 (後の熊襲)を滅ぼし、「和」国を再統一する。
中国大陸では西晋が滅亡、五胡十六国の内乱状態となり、その戦乱に巻き込まれるリスクを減らし、国内統一に専念するため、
神武は男系祖先の本拠地・投馬国(日向)から船出し、首都を博多から大和へ東遷。「大王」に即位し、「大和」朝廷を樹立した。
※記紀が投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
(投馬国王と台与の末裔である)大王家の系図操作。漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は建国の功績を消され出雲に祀られる。 -大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=♂投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=♀邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島へ軍事介入で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=♂投馬(日向)系大王
※
-継体・安閑・宣化=日向系大王。継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王。筑紫系大臣、蘇我氏による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」へ
-天智・弘文=日向系大王。「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」。両系和解の記紀編纂(日向系イリ三輪王朝の活躍>筑紫系ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇。筑紫系天皇の平城京から本拠地・近江(琵琶湖)近くの平安京に遷都
一白
大王…「天皇」には「大王」という文字が隠れているyo! それだけではない。
皇という字は王に「白」の被せて新羅の王ということが分かる。
更に、大ではなく「天」としたことで「太白」つまり金星信仰が隠されている。
つまり、天皇は、道鏡の影響を受けた新羅からの渡来人だということが分かる。
日本にはかなり古くから原始道教の祭祀は入ってきていたと思う。 倭の五王は
讃(仁徳)→珍(反正)→済(允恭)→興(安康)→武(雄略)でオケ?オワケ? 讃とはもちろん四国の讃岐
仁徳天皇は瀬戸内海や大阪湾を支配していた海賊。
呉の王の末裔だろう
日本に讃岐うどんを齎したのも仁徳。(の一派)
歴史を食文化から考えるとわかりやすい。
>>266
雄略は息子3人いたからまさか絶えると思ってなかったんだろ
しかし雄略が死ぬと吉備の大豪族吉備氏を外戚としていた皇子2人を
畿内豪族たちが殺してしまった(皇子のほうが謀反を起こしたことになっているが)
残った唯一の皇子清寧天皇は畿内豪族を母方に持っていたが虚弱体質で生涯未婚
内乱で息子殺されて滅んだに近いだろ(ただし、娘のほうの血は残った) >>264
> 日本に讃岐うどんを齎したのも仁徳。(の一派)
民明書房「饂飩と蕎麦を食べれば古代史がわかる」にもそう書いてあったな。 >>247
>対高句麗戦では慕容部=燕と連携した形跡・・・・・・・
何処にそんな形跡が残っているのですか? 飯豊女王の諡号が大成経では「清貞天皇」になってるのは有名だと思うけど
清貞でなく「清了天皇」ってのは出典なにかわかる人いませんか? 雄略は倭王武ではないね。
ワカタケルは若い武で、武王の弟分。 倭王家と天皇家は、徳川将軍家と御三家みたいなもの。 >>274
武=タケルってむすびつきは訓読みが定まってからの後世の話
当時そういう発想があったとは思われないねー ヤマトタケルは熊襲から名前を献上された。
少し気になるw >>277
と思い込むからいけない。
訓読みなら倭の五王はちょっと興味ある結果。
ホムタワケ→ほむ・ほめる→讃
ミヅハワケ→みづ→瑞≒珍・弥
アサヅマワクゴ→あさ→浅≒済
アナホ→あな→穴≒興
ワカタケル→たけ・たける→武 何で一文字になるんだよ
タラシヒコを多と書くようなもんだろ。 名前が似てるのは、天皇は倭王の子分だったから。
ワケ、ワクゴ、ワカがついてる。 五王の名前が中国風なのは中国人だったから。
古代ローマのエトルリア人王の頃みたいに中国人王朝だったのかもしれない。 天下を治めると称したワカタケルが
南朝家臣の武と同一のわけない。 名前が似ているからといって武王=雄略天皇とは決められない。
武王は父や兄と同じ「倭国王」を自称したが宋から認められず、卑弥呼と同じ「倭王」とされた。
卑弥呼は名前の似た狗奴国王「卑弥弓呼」と対立し、倭人を統一できなかった女王である。
武王も名前の似た「ワカタケル」と対立していたと考えられる。
ワカタケルは471年以前に「治天下大王」と名乗っており、
478年に宋に朝貢した武王と同一人物とは考えられない。 ワケは別。
子とか子孫の意味。
ワカの若、雅に同じ。 中国の冊封から解き放たれた治天下大王・若猛=雄略天皇 倭王武は477年即位。
471年以前にいたワカタケルとは完全に別人。 >>234
> >>233
> 南北まっぷたつというわけではなく、山東省まで南朝だったからね。
> 南朝沿岸も高句麗沿岸も経由せずに北朝にはいけなかったんじゃ
> ないだろうか。
あー、なるほど 金錯銘鉄剣の辛亥の年とは531年の可能性も大いにある。 「倭の五王」は「倭の七王」だった!〜隠れていた2人の倭王〜
413年/421年/425年「賛/讃」…仁徳
430年★「倭国王」…履中
438年「珍」…反正
443年/451年「済」…允恭
460年/462年「倭国/興」…安康
477年/478年「武」@…雄略
502年※「武」A…武烈
★430年の「倭国王」は履中。 → 438年「讃の弟珍立つ」
430年に朝貢した「倭国王」が「讃」ではなく、「讃」の子で、
その8年後の438年に「珍」が朝貢した時に、倭国の使臣が「先代の弟」と説明したとすると、
台与以来約150年ぶりに朝貢してきた倭王「讃」のイメージが強烈だった中国側にしてみれば、
名前不明で影の薄い先代「倭国王」の弟ではなく、先々代「讃」の弟と記録してしまった可能性がある。
つまり【父「讃」→「倭国王」/「珍」兄弟】ならば【父(仁徳)→(履中/反正)兄弟】となり、大和朝廷の天皇系譜と合致する。
※倭王「武」は2人いた。
502年梁の「武」帝が征東大将軍に進号した倭王「武」が、477年/478年の倭王「武」(興の弟)とは別人で、
雄略(幼武)の孫の武烈とすれば、雄略の没年489年や、雄略没後の大混乱(24年間の朝貢中断)とも整合する。
ゆえに
@讃(仁徳)→A倭国王(履中)→B珍(反正)→C済(允恭)→D興(安康)→E武1(雄略)→F武2(武烈)
「倭の七王」となる。 河内王朝(応神〜武烈)の家系図
T世代 応神
├─────────────┐
U世代 仁徳 @稚野毛二派皇子
├──┬──┐ │
V世代 履中 / 反正 / 允恭 A意富富杼王
│ ├─┐ │
W世代 市辺押磐 安康/雄略 B乎非王
├─┬─┐ ┌─┴─┐ │
X世代 飯豊/仁賢/顕宗 清寧/春日大娘 C彦主人王
└──┬──┬──┘ │
Y世代 武烈/手白香皇女┬D継体┬尾張目子媛
. │ ┌┴┐
欽明 安閑/宣化 >>297
GJ!
「讃」が仁徳なら、七支刀を贈られた倭王「旨」は神功皇后、倭王武の上表文にある祖「禰(でい)」は応神と見て誤りなかろう
>神功52(372)年に百済王から七支刀一振り、七子鏡一面、及び種々の重宝の献上記事
これで日本史ブラックアウト(停電中)は邪馬台国最後の朝貢266年〜七支刀369年までの約100年間に絞られる
宮殿/陵墓位置の記載のみで、これと言った功績がなく、実在の疑わしい欠史八代を除けば、この100年間は
【祟神→垂仁→景行→成務→仲哀】の五王の時代に相当し、1人平均たったの20年!実年代化に弾みが付くだろう! 三輪王朝(祟神〜仲哀)の家系図
開化
├─────────────┐
T世代 祟神 @彦坐王
│ │
U世代 垂仁 A山代大筒木真若王
│ │
V世代 景行 B迦邇米雷王
┌┴────┬───┐ │
W世代 五百城入彦 成務/日本武尊 C息長宿禰王
│ │ │
X世代 品陀真若王 仲哀 ┬D神功
│ │
仲姫─────┬────応神
仁徳 >>299
台与(235〜?)と祟神(?〜318)の関係が日本古代史最大の謎。
これが判れば邪馬台国と大和朝廷の関係も同時に明らかになる。
魏志倭人伝によると卑弥呼没後の混乱の末、邪馬台国女王に即位した248年に13歳だった台与は235年生まれで、
古事記によると祟神の没年は318年だから、83年間の開きとなり、母子(娘婿)関係の可能性が高い。
祖母と孫(孫娘の婿)の関係も否定できないが、その場合、台与の子供が誰なのか?が新たな問題となる(神武か?)。 >>301
邪馬台国東遷説だな。結局はそうなるな。 「空白の4世紀」実年代化チラ裏…古事記の没年情報(※神功389年のみ日本書紀)
★三輪(佐紀)朝 cf.仏カペー朝
10祟神(〜318年)…四道将軍派遣300年頃?
11垂仁(情報なし)…〜330年頃?
12景行(情報なし)…〜342年頃?日本武尊東征340年頃?
13成務(〜355年)
14仲哀(〜362年)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘七支刀→「神功52年」372年献上)
★河内朝 cf.仏ヴァロワ朝
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)
18反正(〜437年)…「珍」(438年)←没後朝貢?
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年) 辛亥(471)年銘「獲加多支鹵大王」稲荷山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
★近江朝 cf.仏ブルボン朝
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮) 倭の五王は、九州王朝の磐井一族だろ。大和に内緒でこっそり中国と交易していたんだよ。 >>306
何を疑うのかは知らんが、3世紀から四世紀にかけて、ヤマトに巨大古墳を
作った勢力があったことは事実だ。 新資料が発見されないと推理に推理を重ねることになる。
古墳の発掘を地道に進めないとね
天皇陵はデリケートだけど進めてほしいな 古墳は範囲を確認する調査をしっかりやって保全しとけばいい。
開発に伴う行政発掘をしっかりやることだよ。無くなっちゃうんだから。 天皇陵も規模の小さいやつでないと盗掘済みで何も出てこないだろ。ゴッドハンドは除くとして。 あの毎日新聞の二人は勲章でないとおかしいんじゃないの。あれまで、優秀な石器の研究者は結構しんどい思いをしてた。 5世紀末〜6世紀初頭築造の伝・仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)が真の雄略陵で桶? >>316
埴輪がない古墳だな。
なぜ埴輪がないのだろう? 黒岩重吾さんが「仁徳天皇陵=実際は雄略の墓」説をとなえていたが
これはどうなのだろう? 最近の考古学の年代観では、大仙陵は5世紀第2四半期中心に築造とのこと。
よって可能性は低し。 そろそろ韓国にある前方後円墳から、”ワカタケル大王…”って感じの象眼入りの剣とか出ないものかな。 継体天皇スレッドに鋭い書き込みが
↓
20 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2013/11/21(木) 23:17:41.95
今日山の辺の道を歩いてきたけど
奥さんと何十kmもはなれて眠ってんの
21 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2013/11/21(木) 23:19:00.06
↑何であんなに離れてるの?
って事です >>301
トヨは崇神の父、開化の妃、丹波竹野媛。
別名、天豊姫、大倭姫
幼名がトヨだったんだろう。 あんなにやっといて何故子供が少ないのか
実はもっといたけど雄略死後に殺されてるんじゃないの >>324
ありうるが、いまとなっては確かめようがない。 5世紀は讃系の王家と済系の王家の2王家が並立してたと考えれば、
イチヘノオシハ王の殺害や牛飼いの2王子の説話も理解できるな。
5世紀は、まだヤマト王権内で有力氏族での盟主=大王の座が持ち回りで、
世襲王権は確立していなかったと見るべき。
まがりなりにも世襲王権が確立するのは6世紀中頃の欽明大王から。
それは欽明大王の「天国排開広庭(アメクニオシハルキヒロニハ)」という、
王朝の始祖にふさわしい諡号が証明している。 >>301
開化の妃の竹野姫じゃないかな。
開化の妃は、尾張一族というかホアカリ一族の娘が3人いる。
崇神も孝元もそれ以外もそうなんだけど、ホアカリ族の娘が非常に多い。
孝昭、孝安でホアカリ族の一氏族を乗っ取ったんじゃないかな。
というか、王の娘を貰って婿入りして分家したというか。 _. ‐''"^``丶、
,r'" `ヽ、
,r'" `';i,
,i;'´ 二  ̄ ‐ -- ';i, ジャムリン容疑者の人相
,i;' ‐ -- ';i,
,i;' _ -‐- -‐- 、 ';i,
i;' /‐''" ̄`  ̄`ヽ\ i;i 特徴@ 頭頂部がハゲてる
n __ _...._ i;h
| | : = <●\ ∠●>-=: i| | 特徴A 後頭部もハゲてる
ト|: ` ̄  ̄´ : | |
l」: / ヽ lノ 特徴B 全体的にハゲてる
l (__ __)ヽ l
l ( ';';';';`ー'´;';';';',';
l: . r‐===‐ 、';i /
∧:: : . ヽ士土±ノ : . : :/
/{ \;: . `二二二´. : ::/ト 、__
/\二\ ヽ、;';';';';';';';';';';'/ `iニヽ ヽニヽ
/ \ニニ\ ヽ`二二二´ / |ニヽ \ニ\
/三\ \ニニ\ ヽ i ノニニヽ \ニニ\ >>321
ワカタケルが新羅の王だったのではなく、
新羅人がワカタケル大王だったんだよ。 >>319
なら尚更大仙陵が雄略の墓の可能性が・・・
金錯銘鉄剣の出た埼玉稲荷山古墳の造営は5世紀後半ということだが
大仙陵古墳を4分の1に縮小すると稲荷山古墳の形に近くなるそだ。
稲荷山古墳の被葬者はワカタケルに重用されていて、それが自慢の
ようだったからワカタケルの墓に似せて自分の墓を作らせたと考え
ることも出来る。 稲荷山鉄剣のワカタケルは雄略天皇じゃないだろ。九州の武王でしょ。
九州の武王が、一生懸命中国と交易したり日本列島で朝鮮半島で勢力拡大しているときに、
身内を殺しまくって、顰蹙を買っていた。村娘にナンパした和歌を詠んだり、お山の大将全開で生きていたんだよ。 5世紀後半にはヤマト王権が関東にまで及んでいたと証明されれば
「ワカタケル」は大長谷若建命のことだろうが
確定していない現状では「ワカタケル」が大長谷若建命のことか
単に若大将ていどの意味か判別出来ていない
願望を証拠とか幼稚園児だな。 前方後円墳なんだから影響があったのは確かじゃないの http://long.2chan.tv/jlab-long/s/long1396518449658.jpg
http://long.2chan.tv/jlab-long/s/long1396518704406.jpg
やっほー俺ら神に選ばれし民イケメン在日コリアンでーす
毎日チョッパリ女ナンパしエッチなこといっぱいしてますwww
チョッパリ女激マズだけど、そこが在日の悲しいところだネwww
お前らチョッパリ男は一生家でシコってろwww
帰化ももうしたんでこれからもよろしくねチョッパリの皆さんwww 金錯銘鉄剣には持ち主の乎獲居臣の先祖7代の名が書いてあるのだが
始祖の「オホヒコ」の子から乎獲居の親と祖父以外は皆「ワケ、スクネ」
が付いている。そして乎獲居はというと「臣」なんだよね。
乎獲居の親と祖父は称号が付いていないが、雄略天皇の父親允恭天皇
の時に、諸氏族の氏姓の乱れを正すため盟神探湯なんかしてるから
このとき称号を剥奪されたのかもしれない。そして雄略天皇の時に
名誉回復して乎獲居に「臣」が付いたのかもしれない。
金錯銘鉄剣には「オホヒコ」「ワケ、スクネ」「臣」とヤマト政権と
関連する単語がいくつか出てきてるんだよね。
「オホヒコ」の孫の「テヨカリワケ」だが阿倍氏の始祖「大毘古命」の孫
「豊韓別命」と名前がそっくりという話もある。 乎獲居が記紀に登場してたら面白いなと改めて記紀を読み直してみると日本書紀の方に
>唯所愛寵、史部身狹村主・檜隈民使博コ等。
なんて記述があった。
史部となっているが「ムサ」=武蔵?、「ヒノクマ」=肥の熊、に通ずる?
っていうのが面白い。
この二人何回か呉の国へ派遣されていたり外国人技術者集団を纏めていたりするから
金錯銘鉄剣や銀錯銘大刀を作れる立場にあったんだよね。
そうだったら面白いなっと。 >>332
古墳は基本的に皇統の血筋の人が葬られているんだよ。
オオヒコの子孫ということになれば、皇統の血筋ということになる。
蘇我や物部や葛城はいかに権力を持っていても古墳は作っていない。
王政の国家なんだから王族だけが古墳を作るのは当たり前。 >>341
え?じゃあ何百とある古墳みんな皇統に属する人の墓だというつもり? >>341
>古墳は基本的に皇統の血筋の人が葬られ・・・・・・・・・・・
用語の意味を理解して使えよ。皇統でなく王統だね。ヤマト王権建国
以前の列島各地の弥生期古墳の被葬者が、全て天皇家の祖先なんて
ありえないぞ。 >>327
5世紀にもなって王権が一つの家に固定してなかったとかありえないから。
5世紀以後に王権が複数の家で持ちまわされた例を出してみろよ。 神武天皇は南九州に「天孫降臨」し、海路で奈良に「東征」した
ここが肝だよね
みんな歴史教科書の刷り込みによって無意識的な盲点があって
それは日本の古代史には中国と韓国しか登場しないっていう思い込み
天皇は、ポリネシアンだよ
正確に言えば後にポリネシアンと呼ばれる東南アジアからカヌーに乗って太平洋に出た海洋民族
それが天皇のルーツ
だから南九州に降り立ったんだし、南九州から陸ルートではなく海ルートで奈良に行ったわけ
天皇一派ってのは騎馬技術より海洋技術に長けた一派だったってこと
天皇が天孫降臨した時代に中国北部や韓国の民族が日本に来ることはありえないんだよ
だって彼らは陸の民であり騎馬技術はあっても海洋技術はないから
古事記によると神武天皇の身長は3メートル以上あると
これはもちろん神話ならではの誇張表現なんだけど
つまりは大男だったってことだよ
そりゃそうだ
日本人がどんぐり食ってる間、天皇一派は毎日魚(動物性たんぱく質)を食べてカヌーこいでたんだもん
そりゃ日本人からしたらとんでもないガチムチの大男に見えただろう >>345 天皇は雲南・チベット〜福建から南西諸島沿いに九州へと来た稲作民の一部が
朝鮮半島南部に渡りこれが先行のポリネシア系漁民や北方系狩猟民と混淆して豪族国家群を形成していた所
中国系や騎馬民族系の圧力を受ける様になり時に戦い時に結ぶ内に圧力側の文物も取り入れた者の一であり
結局は半島から追い落とされる形で日本列島に出戻りした者である
つまり出戻り組の幾つかが日本列島に展開していた神武の筋の一と判明したので日本列島組と全面抗争には至らず
それらの内で高い技術力や軍事力を持っていた豪族は高い地位を得る事もでき
後代に権威付けの為に遡って神武皇統が語られる際に支配者列伝にざっくり一系統の血統者として加えられた
が正しいと思う >>346
なぜ半島にこだわる。
長々と書いてるけど、その根拠が全くない文章。
345は少なくとも、南九州に天孫降臨したって神話をもとに組み立ててるのがわかるが。 >>345
> 天皇が天孫降臨した時代に中国北部や韓国の民族が日本に来ることはありえないんだよ
> だって彼らは陸の民であり騎馬技術はあっても海洋技術はないから
任那→対馬→壱岐→九州北部 とやってくれば、
航海技術としては難しくないはず。 >>345
>南九州から陸ルートではなく海ルートで奈良に行った
当時は長距離の陸路はないに等しいと思う。 >>266
雄略天皇暗殺死亡説発見。
[321] 邇波言壱直伝 2007/11/08 11:50
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・倭継{継体天皇・傲慢で、
私が治めてみせると豪語。異母兄弟の武が、弓矢で暗殺されもがり宮で、
彼の妻親族に見間違われ怒りもがリ宮を倒す人物である。}を息子安共々
暗殺し、武の子幼武を大王に立て信頼を得る、垂見の子は馬背で、
息長真手又の名蘇我稲目と記紀。
天皇家のルーツを考えてみませんか
http://thebbs.fc2.com/thread/23011?start=320&end=419 >>345
>東南アジアからカヌーに乗って・・・・・・・・・・・・・・・・
>それが天皇のルーツ
>だから南九州に降り立った・・・・・・・・・・・・・・
以下の「古事記」記事とは、どう整合させるのかね?
-----------------------------------------------------------------------------------
『竺紫の日向の高千穂の久士布流多氣に天降りまさしめき・・・・「此地は
韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。
故、此地は甚吉き地。」と・・・・・・・・・・・・
-----------------------------------------------------------------------------------
降臨したニニギ自身が降臨地が韓國に対向した好適地と云っておる。海洋民に
山岳頂上に飛来降下する発想があるのかね。
これらの点から天皇家の先祖は、朝鮮半島経由で北部九州に上陸した山岳聖地
信仰を有する北方アジア出身民とされておるのだがね。
突飛な発想公表の前に、記紀等の古代史の基本文献記事を理解したまえ。 >>353
古事記には、朝鮮半島もしくはそこにある国を韓国と読んだ例はないよ。
日本書紀には、同じ文脈で「膂宍の 空国(そししのむなくに)」とでてくるんだから、
古事記の韓国は、むなくにと同じ意味での空国(からくに)だろう。
また、残念ながら、天孫降臨譚は北方アジアだけにみられるものではなく、東南アジアの海洋民にも見られる。
特に、インドネシアのブギスやマカッサルは、天孫の血統に基づく双系階級社会だ。 ブギスの天孫降臨譚を記した叙事詩「La Galigo」は世界記録遺産なんだが、
その登録理由の一つとして世界最長の叙事詩というのがあるから、ちゃんとした日本語訳は未だできていないようだ。
La Galigoの研究が進めば、漢文資料に頼りがちな日本神話研究も豊かになるだろうな。 >>353
>海洋民に山岳頂上に飛来降下する発想があるのかね。
海洋民といえども、霊峰みたいな感じがする山に畏敬の念を持つことは当たり前にあるだろ。 >>345
>中国北部や韓国の民族が日本に来ることはありえないんだよ
>だって彼らは陸の民であり騎馬技術はあっても海洋技術は・・・・・・・・・・・・・
自らにその技術がなくとも征服した民族に命じればよいだけだ。
航行渡海のための造船も操船も。
遊牧民出自の元朝が、高麗や南宋遺民に命じて越南や日本に海路侵攻したように。
当時の朝鮮半島住民が陸上民ばかりというのも誤りだ。沿海部には、
海洋民が居住し漁撈はむろん対岸との交易活動を行っていた。 朝鮮出兵前に秀吉から出頭要請があったときの断り文句が、朝鮮王府は対馬海峡をわたる航海技術がない、だもんね。
その後の通信使も日本が迎えに行ってやってたし。
対馬海峡は距離の割に難所で、あそこを有史以来支配してきたのが倭人だ。
ほとんどの渡来人ってのは、勝手に漂着したんじゃなくて、倭人に運んでもらって初めて、日本列島の地を踏めるんだよ。 ポリネシアか
女性の俗権力が強い代わりに、宗教権力が弱いんだよな
だから神殿(ヘイアウ)は女人禁制で、祭祀は男がやる
日本の古代の女性天皇も、政治はやるが、祭祀は摂政に任せる点で似ている
ただ日本の場合、斎宮がいるからな… 後、古代日本とポリネシアで似ているのは、
王城を持たず、王が交代するたびに外戚の家の近くに新しい宮殿を立てる所かな マカッサル人は「戦う以外は寝ている」といわれる好戦的な民族で、人国記にでてくる薩摩人のようだ。 「優秀な造船技術」と大注目された加耶時代の船、日本製だった。
http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2014/01/08/0901000000AKR20140108144400005.HTML
聯合ニュース(韓国語) 2014.1.8
金海出土の4世紀の伽耶船、倭で作ったかもしれない
金官伽耶の首都である慶尚南道金海市で2012年に発掘された4世紀頃の木製の伽耶船は保存処理の結果、日本列島と中国南側で大規模に育つ楠と唯一日本列島だけに自生する杉を材料としてつくられたことが分かった。
したがって、船舶自体を日本で建造した可能性があるという分析が出ている。
埋蔵文化財調査機関である嶺南文化財研究院(院長パク・スンギュ)は、別の文化財調査機関である東洋文物研究院(院長パク・ウォンチョル)
が2012年に金海市鳳凰洞119-9番地の遺跡で収拾した伽耶時代の船の部材に対する保存処理を最近完了したとして、その過程で明らかになった事実を8日、発表した。
特に樹種の分析の結果、船の部材に使われた木は楠と杉の2種類と明らかになった。
楠は暖帯性の樹種で中国と日本でたくさん育つ。 韓半島でも南海岸の一部の地方と済州道で自生するが、船舶を建造するほど大きくは育たない。
加えてくさびに使われた木は世界的に1属1種だけが存在する日本産固有の樹種であり、古代日本で船舶建造によく利用された杉と明らかになった。
したがって嶺南文化財研究院員は「この船が当時には倭と称した日本で建造された可能性がある」と話した。
発掘団である東洋文物研究院のキム・カプチン調査チーム長は「樹種が日本産やそのような可能性があると明らかになったとしても、
直ちにこの船が日本産とは断定することはできない」としながら「杉だけでも現在は韓半島に自生していないが、
鬱陵島のようなところからはあったという報告もあり、調査団は様々な可能性を残して保存しておこうと思う」と付け加えた。
保存処理を完了した船の部材は長さ390cm、幅32?60cm、厚さ2?3cmの大型木製遺物で、前面には一部に模様とくさびおよびくさび溝が存在する。
一方の端の部分は他の部材と結合することができるように加工された状態であり、裏面には結球部2か所が確認された。 研究員はこのような特徴から伽耶および他の三国時代の船形土器と比較してみる時、発掘当時には船の隔壁と推定された船の部材は船の前部測板上段部に該当すると推定した。
また、一方の先の部分は他の部材と結合することができるように加工した点から見る時、このような部材が最低2?3個以上さらに結びついたと推定されると付け加えた。
調査団は「現在残った船の部材の長さが約4mであるから実際の船は長さが最低8?15m以上だったものとみられる」と話した。
この船の部材が発見された金海市鳳凰洞遺跡は伽耶時代当時には南海岸を前に置いて、鳳凰台陵の間に位置した港の役割をした所と推定される。
一方、船の部材に対する放射性炭素年代測定の結果、AD 3?4世紀と明らかになったことによって、
この船はこれとほぼ同じ時期に築造された金海市大成洞古墳群88号出土の倭系遺物である波形青銅器がどのような方式で入ってきたのかを推定させると同時に、
金官伽耶が当時、日本列島と海上を介しての活発な交流を示す画期的な証拠と評価される。
元ニュース
海上王国加耶の実体を証明する画期的な発見と大注目されていた
http://article.joins.com/news/article/article.asp?total_id=8563988
中央日報=ノーカットニュース(韓国語) 2012.6.25
慶尚南道金海市で4〜5世紀の加耶時代の船が初めて発掘された。加耶時代の船が実物で確認されたのは今回が初めてであり、船体とともに櫓と錨と推定される石も一緒に出土した。
今回出土した船は、新石器時代の飛鳳里遺跡の船以降、国内で2番目に古い船で、加耶の優秀な船舶製造技術を見ることができ、海上王国加耶の実体を証明する画期的な資料と評価される。
特に、三国遺事に金首露(キム・スロ)王妃の許黄玉(ホ・フォンオク)がインドのアユタ国から船に乗ってきたという記録があり、関連性を置いて学界の注目を集めるものと見られる。
金海市関係者は「三国遺事と駕洛国記には首露王妃許黄玉がインドのアユタ国から乗って来た船の船頭が15人で、総搭乗者が35人程度だと記録されており、
今回発掘された船の推定規模と概ね似ているものと推定され、関心を集めるものと見られる」と話した。 日本神話とポリネシア神話で、あらすじが似ているものもある。 近代の神話学者がフィールドワーク中に話したことが、再び訪れた時に神話になっていたという話もあるので、
神話単体で民族の動向を語るのは危うい。
しかし、神話だけでなく言語自体、多大にAN語の語彙を借用してるから、オーストロネシアの影響を大きく受けたことは間違いないだろう。
考古学的には、朝鮮半島の方が関連があるようにみえるんだろうけど、
物より情報の方が遠くまで運べるからね。
物だけでは、一面的なものしか見えない。 祭事(神事)だと「火祭り」系はポリネシアっぽいね。 仮に皇室の遠祖がポリネシア系だとして。
ポリネシアのどのへんから日本にやってきたのだろう?
海流の図を見たが、ボルネオ島かマレー半島東岸なら
海流に乗っかれば日本にやってこれそうだが。 367
一万年位前はオーストラリアから日本まで陸続きだから徒歩でもこれる インドネシアからマレーにきて中国を北上して樺太方面から南下 >>365
>多大にAN語の語彙を借用・・・・・・・・・・・・・・・
どういう語々が、AN語由来だと? >>366
「鞍馬の火祭り」,「肱川の火祭り」のどういうところが、ポリネシアっぽいと? >>354
>古事記の韓国は、むなくにと同じ意味での空国(からくに)だろう・・・・・・・・・・・・・
「膂宍の空国」=瘠せた荒蕪地を、ニニギ一行が「此地は甚吉き地。」>>353と
云ったというのかね?
膂宍地評言から農耕民と透け見える天孫族が、膂宍地を甚吉き地という
わけがなかろう。 てか、皇室や畿内の上層部にポリネシアっぽいとこなんかあるか >>372
「膂宍の空国」の用例は、日本書紀しかないから、痩せた荒れ地って解釈は、あくまで現代人の想像にすぎない。
対抗勢力がいない土地(いわゆるクニがない土地)って意味の可能性もある。 >>373
>>359 >>360
俺は、ポリネシアより天孫降臨神話があるスラウェシの方が似てると思うが。 苦しそうだなw
半島だの今さらほざいてればてめえらの命取りになるからな >>374
>痩せた荒れ地って解釈は、あくまで現代人の想像・・・・・・・・・・・・・
そうかねえ。水稲農耕民にとって火山灰土壌のシラス大地は、水稲が
育たず膂宍地という評に符合するがねえ。
先住民がいても非農耕採集民なら生業地が競合しないから、
必ずしも先住民=対抗勢力ではないし。 >火山灰土壌のシラス大地は、水稲が育たず膂宍地
ここは同意。
ただ、稲ではなく、雑穀なら育つのではなかったか? 雄略天皇w
「勇ましい」という意味だけの言葉をつけただけ
存在すら非常に怪しい、捏造と言っても過言じゃないほど信憑性に乏しい天皇 獲加多支鹵大王は稚手白大王=欽明の可能性もあるよね >>382
いまどき余程の左翼学者でも雄略の存在否定するやつはいないけどねw
おまえの珍説はおそらく左翼の世界でもどうでもいいと思われてるよ 以前から欽明の実名が不明というのがひっかかってたが、
ワカタシロ大王ってのは盲点だったな。 5世紀は讃系の王家と済系の王家の2王家が並立してたと考えれば、
イチヘノオシハ王の殺害や牛飼いの2王子の説話も理解できるな。
5世紀は、まだヤマト王権内で有力氏族での盟主=大王の座が持ち回りで、
世襲王権は確立していなかったと見るべき。
まがりなりにも世襲王権が確立するのは6世紀中頃の欽明大王から。
それは欽明大王の「天国排開広庭(アメクニオシハルキヒロニハ)」という、
王朝の始祖にふさわしい諡号が証明している。 2王家が並立は天智天武の時代も続いていた
かなり後の世まで続いていたと思われる
持明院統と大覚寺統はその名残 もともと世襲王権じゃなかった説とか、マルクス史観を共有できてない世代には全然通じないよね 細川→三好→信長→(光秀)→秀吉→家康の政権交代を見たら、
世襲王権など後世になっても脆弱なことは明かだろう。 葛城→大伴→物部→蘇我→藤原→平→源の政権交代を見たら、
世襲王権など後世になっても脆弱なことは明かだろう。 金石文では大彦の子がタカリのスクネ、孫がテミカリワケ
文献上は大彦の子が健沼河別、孫に豊韓別
金石文のテミカリワケが豊韓別なら、タカリのスクネはタカラのスクネ(宝宿禰)と読むべきとなるが
紀紀ではタカリのスクネを建沼河別、即ちタケルのスクネとしている
何処かで読み違えがあったのかもしれない ヤマトタケル伝説はオウスの命に
建沼河別(タケルの沼河別、タケルの宿禰)
雄略(大泊瀬のワカタケル)
武内宿禰(タケルの内宿禰)
がごっちゃになってくっついてるような感じ >>394
おそらくタケルの『ル』は助詞『の』の古語 オオヒルメの『ル』と同じ
多加利足尼 タカ『リ』スクネ
獲加多支鹵大王 ワカタキ『ロ』大王 (オ『ロ』チ カミ『ロ』ギ カム『ロ』ミ)
幼武尊 ワカタケ『ル』ミコト
武内宿禰 タケ『ル』ウチスクネ (弟 甘美内宿禰 ウマシウチスクネ) 獲 カク、クヮク
加 カ
多 タ
支 シ、キ
鹵 ロ、ル
大
王
クヮクカタキル大王 クヮクカタキル大王と読んだのを
ワカタケル大王と読みかえた人は誰? 獲
日本語発音で
漢音 カク(クヮク)
呉音 ワク
とあるものがあるが
漢字の字書には呉音 ワク
が載っておらず
使用例も無いのは何故? >>398
もう使わなくなった発音だからかね
獲加がクァケなら獲居をワケと読まずクァケと読まなきゃならなくなるし、獲加はワカで良いんでない? 母は古代→中世→現代でパパ→ファファ→ハハと発音が変化した
幼武も古代はワカタキロと発音したのかもしれない 居これもコ、キョとしか読まんはずだがケ?
獲居ならワカキョかワカコだろ?
ワケとは??? 居これもコ、キョとしか読まんはずだがケ?
獲居ならワクキョかワクコだろ?
ワケとは???
呉音で統一するなら
獲居はワクコだな。 呉音で読むと
獲 ワク
加 ケ
多 タ
支 シ、ギ
鹵 ル
大
王
漢音で読むと
獲 カク
加 カ
多 タ
支 シ、キ
鹵 ロ
大
王
ワカタケル大王は漢音と呉音がゴチャ混ぜだ
読むとしたら
ワクケタギル大王、ワクケタシル大王
カクカタキロ大王、カクカタシロ大王
の4つの内のどれかだな。 呉音で読むと ワクケタギル大王 か ワクケタシル大王
ワクケ 若
タギル 武
ワカタケルは相当苦しいな。
>>407その学者の根拠を知りたいな。 学者も結構思い付きでいい加減なこと書いてるからな。 正確にはワクじゃなくてwakだから
wakkaで子音が落ちてwakaになるんだろ 鉄剣の文字をテキトーに読んでワカタケルと言い、雄略とか言う天皇と当てはめてるキチガイwwww 本当にそう、それと最近知ったんだけど
wktk→ワクテカ ワクワクテカテカ
ずっとワカタケルの略だと思っていたのに残念だよ 1.ワカタキロ大王は雄略天皇のことである
当時の日本語は四母音でありエ行の発音は存在しなかったので、雄略存命時はワカタケルの発音はワカタキロだった
雄略代の漢字音は呉音とは異なった発音で、稚加多支鹵と書いてワカタケルと読んだ
ワカタケル大王の口伝があり、獲加多支鹵大王の発音を史官が勝手に類推した
2.ワカタシラ大王は欽明天皇のことであるが、紀記編纂時に誤って雄略天皇のこととされた 褌一丁で女相撲を催させた大王が実在した証拠があるというだけで日本は古代からHENTAIの名に恥じない国だったのだというロマンを感じるwwwwwwwwww >>409が良いこといった
>>398-408
漢字の音読みが呉音と漢音しかないと思ってる時点で素人
他にも「古音」「和音」あり(どちらも推古遺文での音読み、古音と倭音でも系統が違う)
呉音は奈良時代に受容された日本訛りであって
四世紀五世紀に使われてた音読みではない
さらにそれらとは別個に各時代の中国漢字の音価についての研究もある 稲荷山の鉄剣の発見の以前と以後で雄略天皇のあつかいは変わった?
当時のこと良く知らんので教えてくれるとありがたい。 >>221
雄略天皇は、当時の有力な王族出身ではなかった。
”当時の有力な皇位継承者がオシサカ氏、草香部氏、物部氏であり、
それらの皇子が排されて雄略が王位に・・・・・・・・・・・・・”
起源考 日本古代史 倭の五王
ttp://kodai4.net/moromoro/kusaka01.html >>360
>古代日本とポリネシアで似ているのは、
> 王城を持たず、王が交代するたびに外戚の家の近くに新しい宮殿を立てる所かな
なるほど 自分の先代の年代をどんどん遡らせてふかした張本人
しかも突然ワカタケルとか名乗るせいでむちゃくちゃにしやがった。 >>418
その見方は面白いと思う
雄略が書紀の言う通り、在位の長い允恭の皇后所生の皇子なら
允恭在位中に有力な妃を迎えて子供ができていたはず
でも書紀の中で、雄略が有力な妃を迎えたことが伺えるのは、安康即位以後
安康、雄略は允恭の実子ではない、少なくとも皇后所生の子ではないのではないか? >>420
日本書紀の編纂者は、神功皇后=卑弥呼と思っていたふしがあり
そのため、書紀では神功皇后の時代は120年遡らせているらしい
そのため、応神〜継体までの時代、天皇の在位を不自然に引き延ばしてるのでは
允恭の42年とかも、本来はもっと短いはず
木梨軽皇子事件のあった24年くらいが、本来の在位期間ではないか? 星川皇子たちを生んだ吉備稚媛は、同族の吉備上道臣の娘という説のほかに
葛城氏の玉田宿禰の娘という異説がある(この場合、名は毛媛みたいだが)
この異説を採用した場合、円大臣からは妹、韓媛からは叔母にあたるけど
韓媛とプロフィールが被るというか、交錯する
韓媛と稚媛は本当は同一人物なのでは?
葛城氏の女性が吉備田狭と結婚した場合、吉備に嫁いでいくわけでなく
通い婚だったのでは、吉備田狭が大和を訪れたときに、葛城の娘の元に通い
子供を設ける
が、男はいずれ本拠地に帰る、葛城の娘との間は切れるともなく切れ
娘は、実家で子供を育てる
そこへ、雄略が通うようになって、雄略の子を産む
子供は父親が違っても、母親の実家で一緒に育つ
雄略が死んだとき、皇子「清寧」はまだ二十歳前だった(書紀の記述を信じるなら)
そして、対立しそうなライバルは雄略が片っ端から殺したが、撃ち漏らした遺児がいた
「仁賢」「顕宗」は、雄略が亡くなった時点では、おそらく三十前後
「清寧」より年上、当然、待ったをかける
大蔵に立てこもって、焼き討ちにされたのは「清寧」ではなかったのか?
「仁賢」「顕宗」は「清寧」を放伐して即位したのではないのか? 貴人の遺体を焼くのは暴挙なので天皇に行わないし
焼かれた者は天皇として記されない。
せいぜい宮号だけを残すのみ
暴挙を行うと嫁は来ない近臣も娘を出さない。 星川皇子は貴人じゃないの?
てか、皇太子でも先帝が亡くなったら
即、天皇になるとも限らないのでは?
まだ、天皇になってない、もしくは天皇が焼かれるなど
あってはならないことだから、架空の星川皇子をでっち上げたのでは? >>422
いや、神武天皇の即位を結果はやめた結果、
卑弥呼の時代がそれくらいに該当してしまい
あわてて神功皇后を創作したのだろう
実際には崇神朝あたりが3世紀半ばに該当するとみられる
(神と妻と崇められた大叔母の百襲媛が神がかりになって
崇神の治世をサポート)
さすがに生涯未婚だった卑弥呼と
応神天皇母の神功皇后は違いすぎる さすが2ch。
古代の言葉の文理も風習や価値観関係なく自己の創作に当て嵌めたいなら
知恵も知識も不要だからなぁ。 >>421
> 安康、雄略は允恭の実子ではない、少なくとも皇后所生の子ではないのではないか?
雄略は王族であったが、傍流であったと思う。 >>425
> 星川皇子は貴人じゃないの?
貴人ではあったが、警戒されていた貴人だろう。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>421
雄略は晩年に生まれたから允恭天皇崩御の頃にはまだ子供なんじゃないの? >>432
子供?20歳前後じゃないかな?
日本書紀では允恭天皇7年生まれの36歳になるけど。
雄略が生れたころ允恭が浮気で皇后に嫉妬された話は
たぶん允恭が即位する前の個人のエピソードでないかと。
実際には允恭天皇の在位期間は短かく、
雄略天皇は允恭が即位する前の誕生でないかと。
履中・反正・允恭の在位年数の合計が短ければ
雄略が伯父である履中天皇の皇后を、とまではいかなくても
祖父仁徳天皇の末の皇女で妙齢の女性を娶ることは不可能ではないかも?
でもそうなると応神天皇即位から仁徳天皇崩御までの期間はかなり長い
とでもしないと話の整合性がとれなくなりそう。 雄略が吉備稚媛を後宮に入れたとき
稚媛には既に兄君、弟君という子供二人がいて、
弟君には妻がいたわけだから、彼ら兄弟が16〜19歳ぐらいとすれば、
彼女は34〜35歳ぐらいだったと思われる。
これで雄略の皇子二人を産むとなると不可能ではないが高齢出産だな。
童女君に子供を産ませた話からロリコンかと思えば
美人だったら年増のおばさんもOKだったんだな。 >>433
允恭が倭の五王の済だとしたら、在位期間は
長く見積もっても24年というところだね
書紀では允恭24年に木梨軽太子のスキャンダルが起きて
允恭42年に允恭が亡くなって、廃太子が成敗されたことになっている
実際は、允恭24年に允恭は亡くなって
皇族間で抗争が起きて、皇太子や有力皇族が殺され、
抗争の勝者の安康が即位したのではないかな >>434
雄略が即位する前の市辺押磐皇子を殺した頃には既に稚媛は妃になっていたと思われる。
億計・弘計が播磨の国に逃げるのも長期間隠れるのも大和王権内部に居る吉備系の手引きがないと
現実的に無理な上
播磨の国の領有
吉備→稚媛・星川皇子→大和王権接収
なので、億計・弘計は吉備系の稚媛及び星川周辺が匿った可能性が高く、市辺押磐皇子や億計・弘計は
稚媛や星川らと交流があったと思われる。
また、飯豊皇女が神託して億計・弘計が発見された事になっているが、億計・弘計の姉である飯豊皇女には
秘かに伝えられていたと見るほうが現実的 >>436
雄略は父の允恭か兄の安康の生きていた頃に
稚媛のところに通っていたと?
天皇個人にまつわる話が天皇即位後の話にされる
ことってよくあることなのかな?
焼打ちにされたのが清寧だとしたら(>>423)
稚媛や星川皇子はその後も生きてたかもってことだよね。 >>436>>437
仁賢、顕宗と吉備の関係も気になっているんだけど
吉備は上道氏と下道氏の二系統あって
この二系統が必ずしも、一心同体とは限らないのではないか、と思う
雄略は田狭の属する上道氏を後押しして
下道氏を抑える政策を取っていたのではないか、て見方をする説もあり
葛城氏も玉田宿禰系と葦田宿禰系と二系統ある
雄略の妃になった韓媛は、玉田宿禰系
履中系と姻戚関係結んでいるのは、葦田宿禰系
仁賢、顕宗をかくまったのは下道氏系統なのではないかな 面倒臭い馬鹿が居たもんだ。
チョン並のウリナラ妄想か? >>436
>億計・弘計の姉である飯豊皇女には秘かに伝えられていたと見るほうが現実的
そう思うね。暮らしている場所までは教えなくても、生存していることは伝えていたと思う。 >>436
星川皇子は、書紀の通りなら、雄略七年以降の生まれになるが
実際は、雄略が即位前から、「稚媛」の元に通っていたなら
彼女は大和に住んでいたことになる?
或いは、即位前の雄略が吉備まで通ったのか?
「稚媛」の出自は、吉備上道氏か?
それとも異説として紹介された葛城氏の出身か?
葛城氏の娘説に惹かれるものを感じる 実在しない人でしょ?雄略天皇なんて。
あと珍とか武なんて日本人の名前じゃないよ。 雄略は古文書及び出土遺跡等から実在が確認された事になってるよ 雄略天皇の実在を疑うやつは左翼系の学者にすらいないだろw
>>444はただ暇つぶしに煽りにきた反日ブサヨじゃないの? 「雄略天皇なんていない、ワカタケルならいた」とか
くだらない屁理屈いいだすんじゃね? 百済の皇太子を人質にとった雄略なんか居なかったはずニダ!
宋が征東将軍に任命した雄略とかチョッパリの捏造に違いないニダ! こうですか↓
「雄略天皇とは百済王だったニダ、誇らしいニダ。ホルホル」 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった アントン大将軍、征東大将軍に進号されたのは倭王武であって雄略天皇ではない。
雄略なら雄略とハッキリ書かれるでしょ?一文字だけっておかしいわ。 >>452
まぁ、あなたは普通に勉強したほうがいいよ
いろいろわかってきたらまた2chにきたらいいよ 雄略天皇はネタ豊富なのにこのスレはいまいち盛り上がらんな 盛り上がりそうで盛り上がらないスレはいくつもある。
足利義教スレとか。 雄略って名前がいいよね!
いかにも中二全開みたいな 息子のシラカも良い感じで中二というか腐向けだぜ
白髪の王子様や! 自分の娘の腹裂いて石詰め込む悪徳王や、
恐怖なのか病気なのか白髪になって即位しても寝たきりで嫁も貰えなかったのが中二? >>459
おまえは雄略と武烈の区別つけてから出なおせ。
清寧天皇は白髪だけど寝たきりじゃないぞ
日本書紀を読んだ上で煽らないとアホしか釣れないぞw
>>460,>>457
雄略と書いても読みが「たけのり」なら普通だな
則武(のりたけ)って苗字で仇名が「のりたま」ってやつならいたけど >>461
> おまえは雄略と武烈の区別つけてから出なおせ。
お前が区別付いていない。皇女の腹を割いて石が出て来た記述があるのは雄略
> アホしか釣れないぞw
腹痛ぇwまさにアホが釣れた証明してんのか?
お前は百万回読み直して来い。
ドヤッ!と書いてアホの自己紹介になってしまう程のアホのお前は
百万回読み直してようやく普通の人間の理解に達するであろう。
いやぁ流石2ch、独りで勝手にアホ晒して幸せそうで何より。 応神天皇や雄略天皇を倭の五王のいずれかに当てる説は有名だが、
それにはまずそれらの天皇の正確な生存年代・在位期間を算定する
必要がある。日本書紀は神功皇后を卑弥呼とトヨに当て4世紀後期の
百済王の記事を干支二運繰り上げているが、神功皇后や応神天皇の
生存年代を繰り上げ一世代の寿命を延ばした分が影響し、仁徳天皇
とその子、孫、ひ孫…と実年代とのズレがかなり出ていたはず。
当時の平均寿命からすれば、古事記の仁徳天皇83歳、履中天皇64歳
(履中天皇が本当に60代まで生きたのなら弟へ皇位継承されていくはずがない。
履中が若死にで皇子が幼かったから弟の反正、允恭が跡を継いだのだ。)、
允恭天皇78歳、安康天皇56歳も30年ほど水増しした年齢と見てよい。
(允恭天皇の死後、安康と戦い自殺したという木梨軽皇子が60歳とは思えまい。)
安康天皇が30歳未満で亡くなったとすると、6歳ほど年下であろう弟の
雄略天皇は在位23年、42〜44歳の若死にでないかと思われる。 安康・雄略は家系図で見ると敏達・用明・崇峻・推古の
四天皇の高祖父の世代だから、年齢で100歳程度の違いのはず。
日本書紀による雄略天皇の在位期間、西暦456年〜479年は実際より
20年ぐらい繰り上げていて、天皇は5世紀末〜6世紀初頭ぐらいまで
生きていたと思われる。没年齢も62歳でなく42歳だとするなら、
この天皇が生まれたのは西暦418年頃でなく450年代末〜460年前後
という計算になる。おそらく履中天皇の皇子の市辺押磐皇子は祖父仁徳天皇の
晩年に、允恭天皇の皇子たちも仁徳の存命中から生まれていたはずだが、
雄略が生れた頃には仁徳は亡くなっていたと思われる。
雄略が西暦500年前後まで生きていたとすると、この直後に継体天皇が登場する
ことになる。しかし継体が大和に迎え入れられるまで20年かかっているので
清寧〜武烈の記事はこの間の出来事と思われる。王朝が並立していたのだろうか? 雄略天皇の年齢
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage621.htm
それでちょうどよいサイトがあった。
おおかた在位年数一桁代以外の天皇は在位20年と見なしている
のかなと思えるが…。これによると
雄略天皇の生没年は西暦463年〜506年、在位は484年〜506年である。
仁徳天皇が亡くなった年は日本書紀の西暦399年に丁度60年を足した
西暦459年。継体天皇の在位年数は一説に28年だが、これは雄略天皇
の後に即位した清寧・顕宗・仁賢・武烈の在位年数の合計に等しい。
この方によると、継体天皇は即位していない、ないし武烈天皇と
ともに8年ほど共立されたのではないかと見ている。 なおサイト主の方は、安康天皇の年齢のところで倭の五王に
ついて言及し、倭王武=雄略天皇説について
それで違いないはずなのだが…と言いながら、王の年代が合わず、
王たちの消息から推し量れる在位期間も一致しないことなど
について今後の研究課題とされてるようだ。 倭王武=雄略天皇 ってのは、普通にそうだろうと思う。 >>469
それは思い込みが過ぎるぞ
あくまで「可能性がある」くらいに思っておかないと 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 元々継体が追尊だって自白してるに等しい書き方だろう ↑追尊もなにも、諡号ってのはそもそもそういうもんだが? 獲加多支歯大王
ワカタケルオオキミ
第21代 雄略天皇 子毛予 美子餅 福下予 みぶくしもち
この岡に菜摘ます児 家聞かな 名のらさめ
空満 大和の国は おしなべて 我こそ居れ
敷なべて 我こそ居ませ
我こそ告さめ 家をも名をも・・ >>460
>俺も息子に雄略とか名付けたい・・・・・・・・・・・・・・・
俺も息子にって、「雄略」が父帝允恭天皇の命名でなく後代人による
諡号だとも知らぬ浅学無学ものが、学問板に出入りしておるようだ。 2ちゃんねるは今日もサーバーダウンすると思うので、
避難所のリンク集を貼っておくよ。
↓
避難先の外部板
ここでは2ちゃんねる各板が鯖落ち等により一時的に利用できなく
なった際にも利用できる、外部サイトにある避難所またはその一覧を
紹介する
http://info.2ch.net/?curid=1660 >>477
雄略と書いて「たけのり」と読ませればよい
雄略という熟語自体は普通の漢語だから、諡号以外に使えないわけではないよ 実際に雄略(たけのり)君とか居たらドキュンネームだろ >>477は雄略って漢語が諡号以外に使っちゃいけないと勘違いしてるんじゃないのか? 倭の五王のうち少なくとも二人は大和の大王ではないのではないか?
仁徳天皇の死後大和朝廷は一旦分裂し、朝鮮半島への領土主張は九州の地方政権が行っていたと考えられる 南朝皇室=朝鮮系??? 安倍や皇太子のチョン顔疑惑ついに解明か!?
鬼塚秀昭の最大の業績は、天皇家の真実を明確に世に公開したことである
すでに司馬遼太郎が孝明天皇を殺したのは伊藤博文と井上馨と明言していたので抵抗はなかったが、
このとき朝敵だった南朝、楠木正成像がなぜ皇居にあったのか謎が瞬時に解けた
https://twitter.com/tok aiama/status/709293268593299456
田布施は長州閥と呼ばれる日本を動かすリーダーを輩出した地域で、驚くべきことに日本共産党創立者の多くも田布施周辺から出ている
これに対抗するように鹿児島県加世田周辺からも、たくさんの政治家を輩出している
いずれも「朝鮮部落」と称される在日系が極度に多い地域であることに注意するべき
https://twitter.com/tok aiama/status/709883890790338560
秀吉時代に朝鮮から大量に陶工移民があった場所は瀬戸・唐津のような有名地より田布施以外、苗代川・加世田など鹿児島県北西部である
これらの町には朝鮮統治時代にも多数の朝鮮民が押し寄せて独自のコミュニティを作りだした
小泉家もここの出身で、田布施とともに多数の政治家を輩出している
https://twitter.com/tok aiama/status/709883174659051520 「瀬戸内海を航行できるようになったのは、五世紀「雄略天皇」の時期だ」
「風待」港を造り、澪標(みおつくし)を完全に整備しないと航行できなかった。
そして「それ」が整備されたのは、雄略天皇の在位がいつ頃からかの議論は別にして五世紀頃であった。 他国の船が畿内の港に寄港できなかっただけです。
吉備国の船はとっくに瀬戸内航海してるから星川の乱の時に援軍を軍船で送った。 >>494
>吉備国の船はとっくに瀬戸内航海してるから星川の乱の時に援軍を軍船で送った。
そりゃ、星川の乱は雄略天皇の時だからね。当然と言えば当然。 http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku241.htm
このページに書いてある『先代旧事本紀』「国造本紀」に登場する国々の数
雄略天皇の代まで足し合わせたら丁度55+66=121か国
「東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国」という上奏文にぴったりだ
すごすぎる 本物黒酒(@honest_kuroki)さん | Twitter
https://twitter.com/honest_kuroki 実は名前が深く検討されてきてなかったりする。
「雄略」とは何か。英雄を略したと言うことなのか?
そこで想起されるのがヤマトタケルの存在。どっちがモデルで実在か
というより、どちらも創作ではないのだろうか。
当時の大和王家の勢力範囲や直轄領がどこまでの範囲だったのか。
雄略が、事績通りの大王であったなら、わずか20数年の後になんで
皇統断絶の憂き目を見たのだろうか?
本当にそんな巨大な版図を実力で制圧していったとは考えられないく
らいすぐに滅んでしまった。
別に大王家が厳として存在し、その統治下でせいぜい顔見せ旅行とか、
大王家からの指令である程度東国を征服していったとか、そんな感じ
じゃないかな。
だから、雄略なんて名前詐欺で、その真の意味は「英雄的歴史を略し
、中国記録の「武王」っぽく捏造した」。これだね。
例えば、そんな巨大な軍事力が大和にあったら、いくら継体が優秀な
軍事部門を持っていたとしても、簡単に後継者になれるわけがない。
それが、さほど苦労せず いやー
古事記の中の人からものすごく憎まれてるっぽいんで
どうやら大和へは武力で侵略してきたってのはわかるわーww 「雄略」って名前のイメージだけで、合理的な理由も無しに「武」と比定する
日本の古代史学者→ただのアマチュア。 バカじゃねーの?
勉強しなおしてこい
「雄略」は奈良時代の歴史家が付けた諡で
当時の名前は「ワカタケル」じゃんよ
よーするに倭王武(タケル)ってこった 日本書紀執筆当時の人間が当時史実として認識していたのは雄略からなんだよ。
それより前の記は日本の史書を書いた後になって、日本列島内外の時代もわからない
有象無象の逸話伝承をつなぎ合わせた先史扱い。
日本書紀当時の日本列島内諸豪族の権原を保証するために前者は必要だった。
つまり万世一系の物語になったのは、大王家の一貫性・正統性を強調したいが
ためというより、むしろ諸豪族との仮想的な血盟を示すためのもの。
これにより大王は天皇になり豪族は貴族となる。 稲荷山の鉄剣が発見される前ってどんな評価だったんだろ
昔は非実在説があったらしいが本当なんだろうか ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 「瀬戸内海を航行できるようになったのは、五世紀「雄略天皇」の時期だ」
「風待」港を造り、澪標(みおつくし)を完全に整備しないと航行できなかった。
そして「それ」が整備されたのは、雄略天皇の在位がいつ頃からかの議論は別にして五世紀頃であった。 獲加多支歯大王
ワカタケルオオキミ
第21代 雄略天皇 子毛予 美子餅 福下予 みぶくしもち
この岡に菜摘ます児 家聞かな 名のらさめ
空満 大和の国は おしなべて 我こそ居れ
敷なべて 我こそ居ませ
我こそ告さめ 家をも名をも・・・ 516に目弱王の変を鎮圧し、市辺を殺して実権掌握。
このとき10歳のスッピンであったという。
520に墨入れて正式に天皇即位。
この時、市辺の2王子が発見され吉備王朝に保護される。
526に倭国の征夷大将軍・継体がケツもちで
顕宗が即位して西播王朝が成立。
537に顕宗の代将・仁賢の特殊部隊が葛城山系に侵入し雄略を暗殺。
538には仁賢が軍隊を率いて大和に討ち入り、
雄略の一族を皆殺しにした。
高鷲の雄略陵の凌辱は、市辺事件の報復と
大和侵略戦争大義成就の儀式であると同時に
雄略が531に倭国王とその一門を殺したこと
に対する国家的な処罰である。
ちなみに、顕宗の親衛隊が平群氏で、仁賢の親衛隊が蘇我氏。 >>67 :雄略と聞いて思い出すのは処女に対して一晩で7回やったって記事だな。
まあ2回目以降は処女とは言えないが。
俺が天皇なら井上あさひを召し出して一晩で10回やるだろうな! 雄略の墓が円墳ってのは何考えて宮内庁は比定したんだろうな
倭の五王の時代は大型前方後円墳が主流なのに >>514
江戸前期から認識されてたからそれに引っ張られたんだろうな 阿波の鳴門市撫養町木津(きず)に「雄略天皇」及び「天智天皇」の王都が在りました。
往古、古津上山(こずかみやま)•古津神浦と呼ばれ、阿波第一の名勝と称えられた古代の泊(とまり)が現在の鳴門市撫養町木津(きず)
木津上山の金比羅権現及び、その別当寺である長谷寺周辺が「雄略天皇こと大泊瀬幼武(おおはつせわかたけのすめらみこと)」の「長谷(はせ)の朝倉宮」及び、天智天皇の「淡海の大津宮」なのです。 @阿波 >>516
そうなると宮内庁って素人以下ということに
間違った天皇陵指定しておいて祭祀もくそもないよなぁ
さっさと調査許可しろよな
宝物関係はなくなってても土器や埴輪、錆びついた鉄剣あたりは残ってる可能性があるし 雄略天皇≠獲加多支鹵大王≠倭王武
雄略天皇=獲加多支鹵大王=倭王武
(雄略天皇=獲加多支鹵大王)≠倭王武
(獲加多支鹵大王=倭王武)≠雄略天皇
(雄略天皇=倭王武)≠獲加多支鹵大王
どれ? >>518
宮内庁は天皇陵は神が眠る神聖なものであるとして
研究者の立ち入りもほとんど認めてないのに
積極的に墓を暴くわけないじゃん 宮内庁なんて別に要らないんだよな
こんなのセコムにでも警備任せた方がよほど安い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています