院政について語ろう
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摂関政治を打破し、その後300年にわたり続いた院政について語るスレです。
白河院政から武家の台頭、鎌倉開幕を経て南北朝時代までをのんびり語りましょう。 会社組織に例えてみよう。
社長を退いて会長になっても大きな発言権を有する理由、
それは大株主だからだ。
株を手放してたら発言権はないし、そもそも会長にもなれない。
つまり、大株主→会長=大荘園主→治天の君 >>365
もの凄く浅薄というか表層的すぎる
院政は偶然の産物ではなく当時の政治課題が摂関政治では解決できなくなって
より強力な問題処理能力を持った政治が待望された結果、皇族主導による政治が
行われるようになったのである
ただ、後三条以降の治天上皇が無能で角栄の後半みたいなバカ政治になってしまったという 結果的に白河院に権力が集中してしまったのが先例になった感じだよな
その本格化はむしろ鳥羽時代になってからか >>369
もの凄く浅薄というか表層的なのはお前
院政が開始されたのは後鳥羽天皇の時
当時、天皇は5歳
関白は若年な上、天皇と外戚関係になく政治の主導権が取れなかった
結果、白河上皇が院政を執ることになった
そもそも摂関政治が衰退したのは摂関家が固定したことにより
幼年の摂関が出るようになったことと天皇との外戚関係が無関係になったこと
藤原道長時代には上皇に出番はなかった >>369
一理あると思うが、結局院政でも懸案を「解決」できず、
朝廷も院も武家に政権を奪われてしまった
藤原摂関政治で「解決」できないなら、
天皇大権で藤原摂関家を追放するなりすればよかったのだ
皇室と藤原氏の血縁が何重にも結び付いた馴れ合いのために、
強権的なことができず、中途半端に屋上屋を架した感がある >>373
藤原摂関家を追放しても別の姻戚がはびこるだけだろう
武家だって、源氏における北条氏、足利氏における日野氏のように
外戚が力を持ち政治介入した
徳川時代は正室腹の将軍が3代家光以外存在せず
他は旗本やら八百屋やら庶民に近い出身の側室にばかり産ませた
天皇も庶民の娘と結婚するならだが そもそも徳川15代のうち、父が将軍なのは、秀忠、家光、家綱、綱吉、家継、家重、家治、家慶、家定の9人だけ。
つまり、9人中1人しか正室(御台所)腹がいないという話。
それ以外の6人(家康、家宣、吉宗、家斉、家茂、慶喜)のうち、家康と慶喜は正室腹。
なので、御台所にこだわらないなら、15人中3人は正室腹。 >>374
藤原氏の場合はその姻戚関係が何代も何百年も皇室と結びつき、
まさに皇室に絡まった「藤」の蔓状態となって、ほどけなかったんだよ
だから院政という中途半端な形になった >>376
古代中世には母方の出自も重要だった
古い時代には両親ともに皇族でなければ天皇になれなかったし
奈良時代以降は母方が藤原氏であることが重視された
血統は父方のみ受け継ぐから
借り腹に過ぎない母方は滅ぼしてしまえばいい
という絶対的男系主義は戦後の考え方
天皇家が母方を否定したのは戦後
民間出身の美智子妃を迎えた時に初めて
母方の血筋は問わないということになった 皇室に血縁関係で絡まっていた蘇我氏を滅ぼしたではないか 訂正
滅ぼされたのは蘇我宗家であって、蘇我氏ではない。 >>378
中大兄皇子の母は王女。
当たり前だが母方を滅ぼしたわけではない。
それどころか蘇我傍系の蘇我山田石川麻呂の娘を娶り
蘇我氏系の補強すらしている。
(この間に生まれたのが持統天皇。男子は早世したが
生きていれば天皇になれていた) >中大兄皇子の母は王女。
王女どころか、皇極・斉明天皇だがな 後三条天皇は荘園整理令を出した時、
それが院政時代のブートストラップとなることを見越していたんだろうか、
それとも律令制を立て直しするつもりだったんだろうか。
俺は後者だと思っているのだが。
しかし荘園側がまた公田となって国司の好き勝手になることを好まず
摂関家・寺領から院領荘園となる道を選んだ、と。 経済基盤が荘園に移った事が最大の要因なんだよな
白河時代はまだそこまで決定的でなかったらしいが鳥羽時代に院領荘園の基盤が整備される 後三条天皇の荘園整理令による仕分けに貴族寺社は唯々諾々と従ったのだろうか。
だとすると藤原摂関家が天下を縦にしていたというのは本当なんだろうか。 >>385
当時も今も同じ
政治家の方々は、ちゃんと法令に従ってコンプライアンスを順守しているでしょ
度々寄付してくる支持者の「お友達」を贔屓して優遇することなく、
まして官僚に「忖度」するよう圧力をかけることもなく、
会計帳簿も明らかにして適切に納税しているよ >>371
物凄く浅薄な意見で乙というしかない
院政は突然始まったのではなく前史というべきものがある
関白の藤原頼通は無能で決断力のない人物だった
道長が生きてるうちは道長に相談し、道長の死後は実資に相談しないと何も決められなかった
当時、荘園整理問題と園城寺の戒壇設立問題という政治的に難しい問題があって
頼通は天皇にこの問題の決定を丸投げしてしまったのだ
天皇は困ったが摂関政治のグダグダ話し合い政治では決着がつけられないのも理解していた
そのため宮廷では強力な政策決定能力を持った皇族主導の政治が望まれた
そこで天皇は次の次の天皇には、皇太子の弟で英明な後三条を指名した
皇太子に娘を嫁がせていた頼通は将来、娘が生むであろう子供を次の次にしてほしいと抗議したが
関白のくせに政治問題を丸投げする無能無責任な頼通に公卿も天皇もムカついていたので無視され
後の即位した後三条は期待通りに延久の荘園整理令を出して荘園公領問題を裁き、園城寺には
時期尚早として慰撫策を施し戒壇設立を拒否した
後三条は上皇になってすぐに死んだのだが、とにかく院政は摂関政治に代わって、
皇族によるより強力な政策遂行能力を持った政治体制として発足したのだ >>387
物凄く浅薄な意見で乙というしかない
藤原頼道は無能ではない
実資は藤原道長のことも馬鹿だと言っており
(馬鹿酔いした道長が阿呆みたいに自画自賛した望月の歌を記録したのは実資)
年若い頼道が素直に実資に相談してくることを高く評価している
最初に荘園整理令を出したのは後三条天皇ではなく頼道が関白の時代である
後三条天皇が皇太弟に立ったのはわずか12歳の時であり
政治能力を期待してのものではない
母が三条天皇の内親王で血筋が良かったために頼道も無視できなかったからだ
後朱雀・後冷泉天皇は頼道の甥であり、天皇が叔父頼道にむかついていたという
事実はまったくない
院政が発生したのは摂関家が天皇との血縁を持たなくなったためだ
道長の息子たち(頼道、教道、頼宗)は娘を入内させたが
血筋が濃すぎたためか全く皇子が誕生しなかった
頼道以降も優秀な摂関はでているのに全く知らないようだ >院政が発生したのは摂関家が天皇との血縁を持たなくなったためだ
それ違うんでないの?
荘園整理令で口分田に仕分けされたが領主達は口分田となるのを拒み、
天皇家に寄進しようとしたけど、天皇のままでは律令制度化でそれを受け取れないので
退位して上皇となって寄進を受け取り始めた。
それが新たな権力の淵源となって院政の始まりになる。 >>388
2ちゃんによくある反論のための反論、という感じで下らないが、一応反論しておくと
>藤原頼道は無能ではない
有能だったという証拠を出せないので無能
>最初に荘園整理令を出したのは後三条天皇ではなく−
当時の荘園整理令は実施が地方の国衙で行われていたのであり、後三条の時のような
中央政府の記録荘園券契所による強力な権威を持っていなかったため、すぐグタグタになった
>後三条天皇が皇太弟に立ったのは−
血筋がよかったとしても必ずしも天皇にする必要性はない
摂関家の血筋でない皇子を敢えて立てたのは摂関政治では重要問題を解決できないから
もうお前のところには政治の実権を任せないぞ、という天皇の意思によるものである
>院政が発生したのは摂関家が天皇との血縁を持たなくなったためだ
全く意味が解らない、天皇親政でも、奈良時代のような官僚制でもよかっただろう
藤原氏の女性の生んだ天皇はそれ以降も出たのにどうして摂関政治に戻せなかったの? >藤原氏の女性の生んだ天皇はそれ以降も出たのにどうして摂関政治に戻せなかったの?
院領荘園が摂関家荘園を圧倒するまでに増大したからだろう 政治家が有能か無能か結論を出すのは難しい
俺は石原都政は無能だったと思うが、有能だという奴もいるし 中国の王朝政治だったら、
外戚の門閥が強大化しているなら、三族まとめて粛清して荘園(食邑)も没収し、
別の貴族を重用していただろう
あるいは大化の改新のように、藤原の氏長者を宮廷で成敗して、
公地公民制の詔勅を下して、一気にすべての土地と人民を一元的に朝廷
が支配する形にす方法もあったが、それは真似できなかった
結局、平安朝の朝廷はそこまで踏み込んだ荒療治はできなかった
だから藤原摂関家の摂関職はそのままにし、藤原氏の荘園も基本的にそのままにしたうえで、
院政を展開して朝廷の主導権を院が奪取し、院が藤原摂関家を越える荘園を手に入れることで、藤原摂関家をそのまま残しつつ、それを院が凌駕するという日本独自のやり方になった >>391
2ちゃんによくある反論のための反論、という感じで下らないが、一応反論しておくと
>有能だったという証拠を出せないので無能
無能だったという証拠を出せないので有能
最初の能荘園整理令を出したのは頼道だという文字がアスペなので読めませんか?
>当時の荘園整理令は実施が地方の国衙で行われていたのであり
無知すぎる
頼道は中央の命令で荘園整理令を出しているので勉強してください
>血筋がよかったとしても必ずしも天皇にする必要性はない
>摂関家の血筋でない皇子を敢えて立てたのは摂関政治では重要問題を解決できないから
>もうお前のところには政治の実権を任せないぞ、という天皇の意思によるものである
後三条天皇の母親は道長の外孫で入内に際しては頼道が入内準備をしている
藤原氏を母に持つ親王はこの時代もう他におらず次点として
藤原氏を外祖父に持つ親王である後三条が選ばれた
勉強しろ、マジで
>全く意味が解らない、天皇親政でも、奈良時代のような官僚制でもよかっただろう
>藤原氏の女性の生んだ天皇はそれ以降も出たのにどうして摂関政治に戻せなかったの?
院政は必ず行われなければならないわけではなく
天皇親政はそれ以降も普通にあっただろ
白河院政は後鳥羽天皇が5歳という幼年で即位した為発生したものだと書いたのに
また都合の悪いことは意図的に読み落とすw
堀河天皇は藤原摂関家の養女を母としていたので摂関政治に戻った
鎌倉以降は力を持つ者が摂関になるのではなく公家の家格が家系によって固定
天皇との血縁に関わらず摂関はそれなりに発言力を持った >無能だったという証拠を出せないので有能
無能だった証拠は出してる
頼通は当時の重要問題を解決できずに天皇に丸投げしているのだからどう見ても無能
都合の悪い部分を読み飛ばさないでね
>頼道は中央の命令で荘園整理令を出しているので勉強してください
荘園整理令を出したら全部一緒なのか?後三条の荘園整理令がなんで特筆されるのかも
わかっていないのはお粗末だ
頼通の時代の長久の荘園整理令は大荘園主だった摂関家などの荘園には手を一切触れなかったし
実施が地方で行われたため、地方の国衙とずぶずぶな有力武士にも効果が薄かった
荘園主でない天皇が主導し、中央に設けた記録荘園券契所で一括して行ったことが重要だった
>後三条天皇の母親は道長の外孫で入内に際しては頼道が入内準備をしている
頼通は後三条の後継者決定にははっきり抵抗を示している
頼通は皇太子(後の後冷泉)に嫁がせた娘に期待していたため(結果的には子は出来なかったが)
当時の頼通が自分の意思で次善の策として後三条を自分で選んだ事実はない
>白河院政は後鳥羽天皇が5歳という幼年で即位した為発生
後鳥羽でなくて鳥羽だろう
それはともかく、幼い天皇の即位はそれまでもいくらであったし、それは理由になってない
摂関政治の限界を感じて否定した後朱雀以降の天皇家の意思が天皇家の年輩の家長による政治となった
あなたの物言いはすごく表面的で下らない
>堀河天皇は藤原摂関家の養女を母としていたので摂関政治に戻った
戻っていません。あなたは摂関政治が何であるかもわかっていない。
もっと勉強してください
あと、頼通を頼道と書かないでね、2レス続けて書くと本当に馬鹿にしか見えないから 横レスだが、頼道とか表記してる奴に
勉強しろ、マジで
とか言われたくないwwww 政治的な評価って、評価者によって異なる多面的であるのが当然なので、「⚪⚪は無能だ。なぜならば××だからだ」「⚪⚪は有能だ、なぜならば△△だからだ」が同時に成り立ちうる。
こんなの大学で学ぶ政治学のイロハですらないと思うが。
上の二人、どっちもどっちだよ。汚い言葉遣いやらオウム返しやら。 藤原頼通が無能なら何十年もよく一の上やってたよね
頼通が関白引退してずーっと後に院政が始まっているのに
「頼道が関白をやってる頃から、院政をやろうやろうと天皇家内で話し合っていた」
って何をもって行ってるんだろう
だいたい天皇と上皇って仲が良かったわけでも何でもなく対立してたことが多いのに
院政は摂関家をぶっ潰すために天皇家が編み出した方法だったってw
後の時代のことを教科書で呼んだから知ったかぶって
次代をさかのぼってタイムマシーン上の話をする奴がいつも日本史板に現れるね >>399
頼通が有能とか無能とかスレ違いだし本筋に関係ないだろ
なんでそこに拘るのかわからない
摂関政治で問題が無ければ天皇も文句言わなかっただろう
でも実際に大きな問題が持ち上がった時に、合議制の摂関政治では何も決められず
関白頼通が(本来のトップである)天皇に問題を丸投げしてきたのを見て
天皇も公卿も決定力を持った天皇(家)の政治を待望したわけだ
その結果が後三条、白河の親政と、その後の院政となった
別に摂関家を潰そうという訳ではない(実際に潰してない)
強力な政治決定能力のある体制を朝廷全体が欲して、それが院政という形になった
なんで天皇親政の形でなく院政になったのかというと、自分にもよくわからない
おそらく最初に院政で強権をふるった白河上皇を見て後代の上皇が体制を模倣したのだと思う
やがて制度として治天上皇の指名が天皇即位に必須となって、院政は幕末まで続いた >なんで天皇親政の形でなく院政になったのかというと、自分にもよくわからない
上で頻繁に書かれているけど、
後三条天皇の荘園整理令により口分田に戻ったはずの土地の領主が
やはり荘園のままの方がいい、と、寄進先を探したら天皇家しかなかったが、
天皇が天皇位のままでは寄進を受けられないので、退位して自由の身に
なって受け取ったということ。
その結果上皇はとてつもなく巨大な荘園主となって権力も付いてきたわけで。 >>401
上皇が巨大な荘園主になったという事実は本当にあったのか
新しい権力者として院に荘園寄進が集中してもおかしくはないが、あまり聞いたことがない
また、本で調べたところ、上皇が次の天皇を決める制度にしたことで皇位の継承が安定化し
特に自分の直系子孫や気に入った皇子を天皇にできたことが大きかったらしい
少なくとも白河はそうであった 二大院領荘園群「八条院領」「長講堂領」で検索してみてください。 皇位継承が不安定だが故に、保元の乱、平治の乱、大覚寺統・持明院統の
分裂なんてのが起きたんだろうが >>403
だからその2つぐらいしか思いつかない、日本中の荘園を手に入れたようなものではないし
>>404
皇位継承が法的に安定化したわけではない、治天上皇の意向で決まるというだけ
だから治天上皇が死ぬと一気に不透明になり、保元の乱も鳥羽上皇の死によって起こった
平治の乱は清盛と義朝のただの私闘で皇位に関係がない
皇統分裂も、後嵯峨上皇が次の治天上皇を決めずに死んだためあのようになった 再来年には今上が上皇様になられて院政を開始される。
憲法は天皇の権限を制約したが、上皇についての規定はないからやりたい放題できそう。院宣を下してほしい。 森友の地下に本当にゴミがあるのかどうか、
公開で調べるように院宣下してください >>401
公領=口分田と思っている時点で根本的なことが理解できてないしお話にならない
ちなみに延久の荘園整理令のとき口分田は存在しない 土地を口分するには戸籍が必要となる
しかし租庸調の負担を逃れるために偽装申告が相次いで戸籍が使い物にならなくなったため藤原時平の時代に
伊勢で行われたのを最後に田地の口分は行われていない
天皇家は寄進を受けられないというのもいったい何を根拠にしているのか
皇室領荘園も知らんのか
職の体系の頂点が一体誰であるのか理解していれば出てこない言葉だ 平成上皇出家して平成法皇にグレードアップしてほしい 古本屋で、朝日選書「待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄」を見つけて買った。
¥500+税
https://bookmeter.com/books/436232」
これを源平合戦ファンを自称する友人に見せた。
友人「なにそれ?」
・・・ほんとにファンなのかよ!?w 法制上院政をやれたとして、体力が漲ってなければ無理。
そもそも体力の限界だから引退したい、というのが理由だったし。 >>419
上皇の正式名称は太上天皇であって
律令に太上天皇の規定はある 律令には、天皇、太上天皇の権限を制約する規定はなかったが、天皇は、関白、大臣、征夷大将軍以下の百官を任命しているので、その権限により天皇大権行使に制約が加わるが(一種の制限君主)、上皇には百官の任命責任がないから、絶対君主として振る舞える。
公家諸法度は天皇について、「天子諸芸能之事、第一御学問也」として制約を加えたが上皇についての規定はないから、上皇は制外の地位となる。 律令では天皇と太上天皇はともに政治に当たることとされていたんだよ
どちらにも統治権があった
これは「大宝律令」が編纂された時期に
祖母の持統太上天皇と孫の文武天皇が共同統治していたことによる 懐かしい。このスレまだ残っていたのか。完走するまで10年がかりだな。 >>423
輸入元の中国の律令に太上皇の規定があったかどうか。
唐の時代に太宗李世民が父の高祖を幽閉して帝位についた例があるけどね。
このケースでは共同統治なんてとんでもない話。いかに大宝律令が日本式にアレンジされたか分かる。 待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄 (朝日選書 (281))
https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=2200
https://bookmeter.com/books/436232
この本を古本屋で見つけて半分ほど読み終えた。
が、しばしば戻りながら・・・
大河ドラマ「平清盛」の前にこれを読んでたらなー・・・ >>426
30年以上前の本で昔から日本史板ではなじみの本だが
崇徳天皇の出生日を基準に璋子の生理周期を計算し
璋子は生理が来ると宮中へ入り鳥羽天皇とのセックスを拒否
生理が終わってセックス可能になると里へ帰り白河法皇とセックスをしていた
(よって鳥羽天皇の種ではない)と断言している
男が書いただけあって生理周期には一日の狂いもない
出産予定日には一日の狂いもないという前提なので
信憑性に疑問符 >>425
日本史板で「律令」といえば日本の律令
中国の律令の話も
江戸時代の公家諸法度の話も
全部一緒くたにしてぐちゃぐちゃに書きすぎ >>427
すいませんねー
しがない田舎もんなんで 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
ZU97I 生前譲位はむしろ継承が不安定な場合に起こり易い
まさに目の黒い内にって >>431
ただ80過ぎてらっしゃるから、既に長命ではないかと。 上皇職だの上皇后だの退位の礼だの官邸の事務屋のネーミングセンスは最悪だな。
院庁、皇太后、譲国の儀のままでいいのに。
アベのオレ流ネーミングだとしたら最悪すぎる。 平成院が長男さん次男さんより長生きしたら、次男さんの子どもが若くして帝位に就いて院政をお敷きあそばすかも!? 院庁にして、別当、判官代、院蔵人を置くべき。
上皇后は、皇太后位がお気に召さないとかなんとか。 >>436
上皇は明治以前にはあった呼び方だから変だとは思わないが
上皇后は日本の歴史上なかった呼び方
昭和天皇の皇后(良子皇后)も昭和天皇がなくなった後は
皇太后と呼ばれていたし皇太后のほうが馴染みが深いのに 歴史上も、天皇が太上天皇となった場合は、皇后は太上皇后と呼ばれていたのである。 >>441
夫である天皇が退位して上皇になったら夫が生きていてもその正妃は皇太后
新しい天皇の正妃が皇后(中宮)となり前の天皇の正妃の称号は皇太后とされた
美智子妃は未亡人になったら上皇后から皇太后に改称するのか?
そういうわけじゃないだろ >>442
聖武太上天皇-光明皇太后だしそんな呼び名ないよ
皇太后という言葉ができる前は
天皇の生母を皇太夫人と呼んだが >>438
あまり言うことではないが今3人ともお亡くなりになると摂政は誰? >>447
清盛は孫の安徳天皇を即位させて
院政を行う治天の君は後白河法皇ではなく娘婿の高倉上皇に変えただけ >>445
内親王というだけでは女院にはならない
天皇の后、生母、准母になった場合のみ >>450
明治時代に上皇、摂政、関白が否定された
天皇は死ぬまで在位、摂政関白はおかず天皇親政のみ
天皇は大日本帝国軍の総帥権を握る軍人であるため女帝は禁止
はこの時に決定した なぜ今上帝は皇太子を摂政にして国事を任せなかったのだろうか。昭和帝は今上帝を摂政にしていたはずだが >>452
それについては天ちゃんが勅語で言及しているので熟読すべし
「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。
また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。
しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,
生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,
これまでにも見られたように,社会が停滞し,
国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。
更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,
重い殯もがりの行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,
その後喪儀そうぎに関連する行事が,1年間続きます。
その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,
行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に
置かれざるを得ません。
こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,
胸に去来することもあります。」
http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12 院政史上唯一院政を停止したのは後醍醐天皇のみだな。その代償として朝廷は二つに割れ、天下は大乱となった >>455
皇統は後醍醐のずっと前から持明院統と大覚寺統に分かれていたよ
後醍醐は院政を停止し皇統を自分のもとに統一した
しかし娘婿の光厳上皇が足利尊氏のもとへ走り錦の御旗を渡して
後醍醐追討令を発令
足利尊氏は光厳上皇の院政、光厳上皇の弟光明天皇を即位させて征夷大将軍となり
南北朝に分裂 皇統は分かれてたけど両統迭立で何とか凌いでただろ。南北朝に分裂したのは後醍醐帝の時だ。院政廃止、天皇親政はブレなかった 停止も何も後醍醐天皇の時には院政を行うべき上皇がいなかったわけで。
んで後二条天皇の皇太子・邦良親王にいずれ皇位を譲るはずだったのを
自系統に固定させてしまったため、南朝自体がのちに分裂の危機に。 >>457
皇統が2つに分かれることを承認した北条時宗に責任がある
後醍醐は自分のほうが正統だといっただけ
同様に光厳が正統なのは自分だと言ったから南北朝に分断 >>459
後醍醐天皇が一方的に後宇多の権限を奪って院政停止させたわけではない
後宇多はこの前年に直系曾孫(二条天皇の皇孫王)が誕生したことに満足し
大覚寺統の跡取り問題は解消したことを機に引退した
すでに出家して大覚寺に籠っていたし >>460
承認したって、治天の君の遺言通りにどうぞってだけだろ。時宗が分断したようなミスリードするなよ。元寇の対応で忙殺されてたんだから 時宗としては蒙古襲来に集中したいので、
皇統を分断させて内紛起こさせて、
朝廷が団結して鎌倉に介入する事態を防ぎたかったのだろう 朝廷のほうから皇位継承どうしたらいいか幕府に尋ねる始末
原因をつくったのは後嵯峨だからね >>462
違うぞ
治天の君であった後嵯峨上皇が死んだあとで
後深草上皇と亀山上皇の2人の上皇のどちらが治天の君になるかをもめた
後嵯峨上皇の后・大宮院が後嵯峨上皇の希望は亀山上皇でした
と幕府に言ったので治天の君の希望通り亀山治天で行くかと思いきや
鎌倉申次・西園寺実兼は亀山に入内させた自分の妹と亀山の仲が悪かったので
亀山をさっさと辞めさせたく後深草の皇子と自分の娘を婚約させて
時宗にこっちを正統にしてくれと言った
じゃあ、両方が10年ずつ治天の君やればいいじゃんということにしたのは北条時宗
後嵯峨上皇が後深草と亀山に10年ずつ治天の君をやれと遺言して死んで
時宗が治天の君の言う通りにどうぞと承認を与えたわけじゃない >>464
承久の乱以降、天皇の即位には鎌倉幕府の承認が必要だった
後嵯峨天皇自身、23歳まで元服もせず童形で間もなく出家といわれていたのに
鎌倉幕府の指名で思いがけず即位した >>461
経過はともかく、後宇多が隠居して後醍醐が親政を始めたのは事実じゃん
院政は停止してる、これは厳然とした事実 後醍醐帝の時は院政をやる上皇がいなかったという理屈は通用しない
後醍醐は延喜・天暦の御代に還り天皇親政に戻すべしと宣言している ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています