南北朝時代を語れ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>135
皇統が実子に継がれたから満足、満足。てな感じだろう 後醍醐帝て建武の元号つかうあたり
光武帝の治世に憧れてたんだろうけど
結果的は王莽みたいになっちゃたな 神武にも天武にも被せてあるんではないか?
しかし、朝廷の繁栄の礎となったのは上宮太子にございます。
(-人-) >>137
王莽よりは、どっちかって言うと劉備のほうが少し近い気がする 出自血統の面で言えば、
後醍醐>尊氏>劉備 なんだよなあ。どっちになぞらえても、劉備よりは高貴の生まれ。
成果という面で言うなら、
尊氏>劉備>後醍醐 と言った方がいいんじゃないかな
劉備と後醍醐は逆か
尊氏は帝位に就いたわけじゃないけど(幕府の長であって、人臣たる征夷大将軍にすぎない)
それなりの期間にわたって安定する政権を打ち立てた。
後醍醐も政権は取ったけど、自分の一代の間すら保持しきれなかった。
劉備は帝位には就いたけど、天下を統一できなかったし、二代目のなかばで早くも消滅した
期間は短くとも数代にわたって存続できた点を重く見たら劉備より後醍醐の業績(出世度じゃなく、残した遺産の規模)の方が勝るとも言えるな >>141
室町幕府が「それなりの期間にわたって安定」?
もまえは何をいってるんだ >>100
あー、一休さんいいな。『少年徳川家康』とか歴史に題材とったもの
もっとたくさん作って欲しいわ この時代はピクニック気分で戦争してるよな
補給線なんてマジで考えてなさそう
北畠顕家なんて奥州から上洛して畿内で転戦してて草
しかも万単位の兵で >>145
顕家はかなり短期間で奥州から京にまで進撃しているから補給が苦しいのは
無理もない話だが、それ以上に問題化したのは守護による乱坊、横領など
戦争を理由にした組織的な行為が幕府内部の権力抗争につながった点で
特異と言えるだろう。 調べたけど、なんか後醍醐天皇って昭和天皇とは丸っきり正反対だな
あくまでの立憲君主に徹し、現実主義だった昭和天皇と比べて
自分が権力を握った政治を行うとして徹底抗戦した後醍醐天皇
そりゃ近代以降の天皇と
中世の天皇を比べれば違うのは当たり前なんだろうけど
仮にこの二人が親子関係で
第2次大戦を迎えていたら相当険悪な仲に成りそうなんだよな・・・
と言うか性格合わなさそう >>147
立憲君主に徹していたことが確認できるのは戦後の現憲法下だけだぞ
戦前戦中は立憲君主に徹していたってわけではない。まあ、政治権限自体は法律上はゼロに近いんだけど。 >>143
建武政権にくらぶれば、「それなり所でない期間にわたって安定」したと言える >>147
歌舞伎界の後醍醐天皇と昭和天皇は親子だな >>146
南朝だけで幾つ
【幕府】があったのやら そうでもないはず
北畠顕家が滞在した短期間を除けば、さほど差はない
顕家が西上したあと、こんどは幕府がわの斯波氏が勢力を伸ばしただろ
斯波氏の子孫は出羽の最上氏と陸奥の大崎氏。
もう少し経つと、こんどは鎌倉公方家の分かれの稲村公方・篠川公方が東北で勢力を伸ばし始めたことや、
この両公方家が滅んだ後、戦国時代には伊達氏などと争って大崎氏は滅亡してしまったが、それまではけっこう強い勢力だったしな。 鎌倉の奥州探題葛西氏といい
室町柵の上大崎氏といい
広すぎて守護がいない陸奥の国 >>153
そもそも「幕府」は左右近衛などの大将の家政機関の名称にすぎん。
統治機構なら幕府ではなく「公儀」と呼ぶべき。 >>156
出羽や陸奥の探題って他の地方だと守護を束ねる地方統率機関だよな
鎮西探題あらため九州探題と中国探題ってさ。
陸奥に関しては、室町時代末頃に伊達種宗だったか、陸奥守護職就任の例はある。
戦国時代ゆえの例外措置で間違いないな 他スレで聞いた内容なのですが、専門板があったのでこちらでもお願いします
南北朝に関して疑問があるのでお願いします
北朝第1代の光厳天皇がなぜ北朝第1代になるのか分かりません
南北朝とは同じ時代に天皇が二人存在した特異性を表すのだと思います
後醍醐天皇が存在するのに足利尊氏が光明天皇を擁立した、
あるいは光明天皇が擁立されたにも拘らず、後醍醐天皇が三種の神器を奉じて
自身の正統性を示した、つまり北朝第1代が光明天皇、南朝第1代が後醍醐天皇に
なるのではないでしょうか?
光厳天皇は後醍醐天皇が隠岐に流された後に鎌倉幕府の推戴によって即位、
この時は当時の慣習であった「両統迭立」によって、後醍醐天皇の次に
後醍醐天皇と違う系統の持明院統から光厳天皇が即位したわけで、
同時代に正統(だと主張する)天皇が並立したわけじゃないですよね
誰か解説を願います 南朝の創始者たる後醍醐帝が光厳の即位を無効としたのが契機かな?
南朝正統論によって歴代からはじき出されたという意味での最初が光厳だから。
南北朝時代が始まったのは明らかに光明からなんだけど、そうすると光厳の立場が宙に浮いてしまうって理屈じゃないかなあ。
それと、光厳の在位時期のことを、後醍醐帝は自分が一貫して帝位に即いたままだった、退位したことはないと強弁してるから、
光厳天皇在位時代も二人の天皇がいたことになってるしな。
ただ、隠岐配流時代に後醍醐帝が光厳は偽帝で正統な天皇は自分だと言い続けていたと認定するのは困難だと思うんだけどなあ。
(少なくとも、後醍醐帝が隠岐にいたときにも大覚寺統系の指揮系統が崩壊したわけではない……んだが、少なくとも後醍醐帝の手からは離れてるはず……) >>160
ありがとうございます
>>それと、光厳の在位時期のことを、後醍醐帝は自分が一貫して帝位に即いたままだった、
退位したことはないと強弁してるから、
他スレで質問した時もそのような返答を頂き、「なるほど」と思いましたが、
幕府といえども現役の天皇を島流しにするのは困難であり、上皇として流した、
あるいは島流しにされたことによって天皇で居続けることができなかった、
という解釈の方が合点が行くような気がします
ただ後醍醐天皇は隠岐から京都へ戻ってきた時もチョウソしていないので、
後醍醐天皇としては即位以降一度も廃位も譲位もしていないという意識
だったのでしょうね
南北朝の名前の発端は北朝(京都)と南朝(吉野)に同時に天皇が並立した
ことを指しているので北朝(京都:光厳天皇)と南朝(隠岐:後醍醐天皇)
の時代を含むとおかしいと思いますが、そうなると仰るように光厳天皇
だけが浮いてしまうので難しい問題ですね
ちなみに明治時代に南朝が正統とされた根拠は何だったんでしょうか?
三種の神器の他に何か根拠があったんでしょうか? 幕府とは、征夷大将軍の現地軍政を司る政庁を指す名称のことだから家政機関ではない。
たとえてみれば、GHQみたいなもの。 明治天皇は北朝なのになぜか南朝が正統になっているのが最大の謎 >>163南朝正当論なんて、太閤秀吉や家康の頃から言われてることだぞ
それで足利や近衛や細川が罰せられた試しはないし
翻って永享の乱の時 南朝はどっち派だったか言うと 喜連川藩主足利古河公方家祖 鎌倉公方足利持氏の傘下だしな >>161
>幕府といえども現役の天皇を島流しにするのは困難であり、上皇として流した、
>あるいは島流しにされたことによって天皇で居続けることができなかった、
>という解釈の方が合点が行くような気がします
幕府からの強圧で島流しになったんじゃなく、
先例に従って朝廷内部の決定で退位&島流しだろ。
ほんの百数十年前に倒幕の軍を起こして負けて退位・遠流の先例があるじゃん。
>ただ後醍醐天皇は隠岐から京都へ戻ってきた時もチョウソしていないので、
このあと何度も繰り返した、「明け渡した神器は偽物だ。オレは退位してなどいない!」の初回だっただけでしょ。
公的には退位してたのを、退位してないと強弁しただけと思う。
生涯で五回ぐらい? 退位してない詐欺を繰り返した人だからね。
>ちなみに明治時代に南朝が正統とされた根拠は何だったんでしょうか?
討幕運動の精神的支柱となってた学派の共通理解が南朝正統論だっただけで、論拠というよりかむしろ信仰に近いと思う
そもそも室町時代後半から江戸時代初期までは南朝正統論なんて誰も信じてなかったぐらいだから、物証とか論拠とかは実在しないだろうと思うよ。 >>165
ありがとうございます
>>先例に従って朝廷内部の決定で退位&島流しだろ。
形はそうでも、実際は幕府の圧力の影響は大きいと思います
>>ほんの百数十年前に倒幕の軍を起こして負けて退位・遠流の先例があるじゃん。
承久の乱?この時は負けて退位じゃなく、元から上皇が動いたんでは?
後醍醐天皇は何度か三種の神器のやり取りをしてますが、その時は現物3つを
やり取りしてたのですか?本物かどうかは別にして
仮に南朝が正統としても、北朝系の歴代天皇は神武以来の男系で繋がってるんですよね? >>166
>承久の乱?この時は負けて退位じゃなく、元から上皇が動いたんでは?
責任者である後鳥羽上皇だけじゃなく、天皇も退位した。三上皇配流だぞ >>163
明治天皇にとっては
ご先祖様たる北朝 < 偉大な先輩の後醍醐南朝 だったんだろう。
尊敬できない自分の親 < 尊敬する先輩 は現代社会の一般人においてもよくある事。 少なくとも明治時代前段の頃の明治天皇は純粋な傀儡で、自分の意思を通す余地はゼロに等しい状態だったんだぞ
つまり、南朝正統説を受け入れたのも天皇の意思とは無関係ってこと。
倒幕派たちによる押し付けに過ぎないのさ。 日本史をおさらいで読んでるんだが新田を破ったまで読破した
この後足利はどうなるんだ 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>163,>>169-170
明治天皇の裁定で南朝が正統に決まったっていわれれるけど
あれは別に正式に詔勅がでたわけではなく単なる閣議決定だぞ
そういえば最近も小泉だったか現職の総理大臣が
「女系天皇が今上陛下のご意志」だとかデマふかしたろ。
あれと大差ないと思われ。 >>171
太平記が岩波文庫から出てるぞ
新田義貞を破ったのが三巻の終わり間際
続き四巻は今月の発売だ 南朝って歴代天皇に数えるやつだろ
そんなこといったら神功皇后だって昔は神功天皇って呼んでたんだぞ 岩波太平記は期待したより注釈が薄くてがっかり
未完に終わった角川太平記の続編が欲しいわ 未完に終わった〜っても原本は
当時の足利将軍家が僧侶らを集め太平記を編纂させたもんだけどな これに対抗するものとしては北畠親房が関わった南朝正当記がある 神皇正統記?あれ後村上が即位したところで終わりやで 小学館「新編日本古典文学全集54〜58」の全4巻は一応全編現代語訳されている。
ハードカバーで一巻2.5センチぐらいの厚さなので通勤で読むというわけにはいかんが
本文が中段、訳文が下段で対訳は見やすくなっている。
ただし下段の1行文字数が本文に比べて著しく少ないので訳文だけ読み通すには
人によってはかなりストレスたまるかもしらん。
あと河出書房新社「日本文学全集8」が尾崎士郎の訳で出ている。
絶版だが日本の古本屋なんかで比較的手に入りやすいと思う。
ただし巻二十六の「妙吉侍者、進言のこと」の次の段で師直兄弟や直義がいきなり死んで
義詮が征夷大将軍に任ぜられたところで完結している。
田楽桟敷崩落以降の件はまったく出てこないので注意が必要。 小学館は天正本を底本としているので、いまいち扱いづらい。
流布本と区別して「天正本太平記」をタイトルとすべきだった。 神皇正統記、岩波文庫に入ってたような。
岩波文庫の太平記も長い絶版から立ち直って刊行途上だったっけ なに、南北朝時代が不人気の理由 2年目の後継スレってここなの? あのスレ最後に次スレ誘導張ったヤツはここに統合させたかったみたいだな
それがいやなら3スレ目たてて、ここに誘導貼ったらいいんじゃない?
そしたら、あの誘導は次スレ捜しのための仮の誘導だったことにできるかもよ あるいは「なぜ鎌倉時代、室町時代は地味で人気がないのか」というスレもある。
ここは南北朝時代について真面目に語り合う場だが、人気が出ない理由を語るのもいいんではないかな。 もうひとつ
南北朝時代を研究するスレ
ttp://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1305978417/ まあスレが乱立するのもあれだし、取り敢えずここを有効活用して、埋まってから建てるとかでもいいんじゃないかな ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>191
同趣旨でも、南北朝時代が2スレ目まで埋まりきったのと比べると、なお一層の不人気ぶりが泣けるな。さすが室町 室町、個人的には江戸なんかより面白いと思うんだけどなぁ… 戦国時代に突入してからは太田道灌→北条早雲→毛利元就→武田信玄→織田信長のコースで、
将軍家内の抗争なんかほとんど知られてないもんね。
足利義稙の本が出たのをちょっと読んだけど意外と面白そうなんだよな。 足利義稙の本ってあれかな、出版社はど忘れしたけどいろんな歴史上の人物(マイナーなのが多い)の伝記を刊行してるシリーズかな 戦国時代を、
斎藤妙椿→細川政元→木沢長政→三好長慶→明智光秀のコースで
語るのが本当の戦国通 と言える.
. >>198
中世武士選書、戎光祥出版だね。
南北朝時代では菊池武光、北畠顕家、新田三兄弟、高一族などがあって、どれもなかなか面白い。 >>200
あれ上杉定実とかあるからなw
貴重な出版社だよ、でも採算が心配 戦国しかも信長以降ばかりが売れてる中、鎌倉から戦国前期の武将を扱うのはすごいよな。
菊池武光はありがたかった。 てか鎌倉、室町が不人気の理由とかいうスレが立って範囲が拡大してるな
ぶっちゃけ俺は南北朝時代の話がしたいんだけどね 全国的にマイナーと言われる歴史上の人物の紀伝体って
複数出版されてても著者がほぼ同じってケースが多いのが難点
切り口とかスタンスが当然ながら同じになっちゃうんだよなあ >>199
戦国時代は地方史ごとの同時異空間をすべて網羅しないと真の戦国通とは言えんよ
甘い >>205
わかった。
尚円→蠣埼義広→種子島時堯→安東愛季→山田長政のコースで
語るのが、本当の戦国通と言える。 みなさんは南北朝・太平記関連の本を何冊持ってますか?
またお薦めの本があれば教えてください。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>207
「鎌倉・南北朝・室町」を知る本
日外アソシエーツ編集・発行 後南朝研究はもっと進んで欲しいな
あまり面白くないだろうけども >>211
でも資料はこれ以上出てこないのでないの?
後南朝関係の資料が今後出てくるとしたら、どういったところからなの?
熊沢天皇の子孫の家かネェww 母体は鎌倉御家人なのになんで京都に幕府を建てたのかが不思議 鎌倉時代の平頼綱や長崎円喜・高資への怨みが鎌倉幕府打倒の原動力になったのに
結局足利も外戚(上杉)vs御内人(高)となるのがなんとも >>214
名目上は、京都を敵対勢力におさえられたら敗北破滅だから
まあ、南朝との戦いの間に近畿在来勢力を配下におさめすぎて京都を離れるわけにいかなくなったとかだろ >>607
こいつは自演爺でしょ
具体的なこと聞かれると耳が遠くなる ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 だいたいどんな通史本でも観応の擾乱がはしょられすぎてて
建武の新政がはじまり失敗しました。
南北朝に分かれて尊氏が室町幕府を建てました。
直義と師直が争いました。
以下色々ありました。
話は義満まで飛びます。 >>220
古いものほど取り扱わない、新しいものは多少はベージを割いてる
という印象 太平記と名のついた本はほとんどが義満登場まで待たないよw
日本の歴史シリーズでようやく尊氏死後の南北朝争乱もある程度書いてるかな。 後光厳系が皇位をかっさらって長講堂領を接収した
よっぽど南朝や崇光系に大してコンプレックスがあったと見え
4代に渡って情緒不安定のキチガイが多いように感じるのだが >>213
後南朝は戦国時代にも活動しているんだから、その時代の文献があるだろ。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 >>215
今それ買って帰って来た。俺も読み始める。 なんか最近勢いがないから話題投下
後醍醐天皇って色々あれだけど非常に面白い天皇だよね
一人だけ生きてる時代が違うような 性格的には後鳥羽上皇も似てると思うんだが、後鳥羽上皇って負けたこと以外はほとんど知られてないのが難点だ 應永五年(一三九八)、崇光院の崩後、持明院統嫡流が傳領した長講堂領は
後小松院に沒收され、榮仁親王自身も足利義滿によって出家を強いられた。
皇位への望みを絶たれた親王は、一時、經濟的にも苦境に立たされたが
直仁親王[萩原殿]の遺領(室町院領)の一部を與えられ、また、舊領の
一部を還付され、主に伏見御所を居所とした。應永二十三年(一四一六)
には、室町院領・播磨國衙領を永代安堵すべしとの後小松院の院宣を賜わり
ここに、世襲宮家としての伏見宮の經濟的基盤が固められた。
いつしか御領の事どもさたありて、御百个日すぐれば、やがて
長講堂領・法金剛院領・熱田社領播磨国衙以下、ことごとく禁裏へ
めされぬ。あまりになさけなき次第、申せばさらなり。
しかれば忽に御牢篭のあひだ、親王やがて御出家あり。おほよそ長講堂
法金剛院領の事は、光厳院御置文に、親王践祚あらば直に御相続あるべし。
もし然ずば禁裏御管領あるべし。但末代両方御治天あらば、正統につきて
伏見殿の御子孫御管領あるべしよし申をかる。しかれども親王登極の
御せんどを遂られねば、力なき次第なり。
うーんこのクズ禁裏 >>227
後醍醐天皇って歴代天皇でも断トツの武闘派だね 自分で体鍛えて戦闘力付けたって点じゃ後鳥羽上皇も武闘派
安徳天皇が都落ちしたのと入れ替わりに即位した、もと幼少の天皇だっただけに、いろいろと思うところは多かったんだろうさ >>232
本人の戦闘力なら確実に後鳥羽だと思う
精神力なら後醍醐かな? 延喜の世を理想にとか言ってるけど実は中華王朝の統一者目指してるよね
諡号は後・醍醐より後・雄略がよかった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています