南北朝時代を語れ
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>>236
まあ後宇多天皇の後に後醍醐天皇が来てたり、後村上天皇が続いてたりしてるのとか見るに、あそこら辺のは自分の正当性を主張する為にしてたんだろうな 天皇の諡号は通常は死後に追贈される。後宇多という名前を付けたのは後醍醐帝だろうさ
で、後醍醐という名前は後醍醐帝が生前から、自ら選んでいた諡号
そのあたり、後醍醐帝の思想というか意思が形になって残されてるんだろうな 宇多-醍醐-朱雀-村上と続くけど、後朱雀は既に存在していたから使えない
そう見ると後宇多-後醍醐-後村上と綺麗に繋がってる 庶家の白河結城は南朝方として大出世したけど
下総の本家結城はどうやって戦国時代まで生き抜いたんやろか >>241
下総の結城家は結城合戦で義教に滅ぼされたのでは? 義政の代になって鎌倉公方を再興したときごろか、
鎌倉公方が結城氏の遺児を取り立てて結城氏を再興した いやまあ戦国までと書いたのは悪かった謝るが
それより下総の本家は北朝側だったとか直義方だったとか終始鎌倉出張勢力に付いてたとかそういう動静を知りたかった というのも南北朝時代は混沌な印象はあれど
戦国時代とは違いまだ一族内で勢力を隔てるような動きはあんま見られない血縁観念が強かったように思えるが
結城は片方がゴリゴリの南朝方で片方なんか知らんけどは生き残った とはいえ、一族の中で惣領の座を巡って争うとかの分裂は広く見られるようになってきてるんだよな
相手が北朝側についてるからしかたなく南朝側につくとかいう形で(またはその逆)騒乱を深化させてた フルタテが新説に基づく忠臣蔵の実況て番組やってたけどなかなか面白かった
高師直と塩冶判官が一瞬だけ出てきたが南北朝の知名度が限りなくゼロに近いから話を広げられないんだろう 赤穂浪士たちが討入した季節って、12月半ばではあるけど立春の直前だよ
西暦換算で1月末だった 隠れキーマンの恒明親王について触れる向きが少ないのが惜しい 足利義詮が遺言で楠木正行の墓の傍らで眠らせ給えってかなり感動的な話なのに
ぜんぜん話題にならないね 集英社新書3月 神田千里『宣教師と『太平記』 シリーズ〈本と日本史〉4』
「戦国時代、訪日宣教師はみな『太平記』を読んでいた。
それは、この書物が当時の日本人の百科事典であり、絶大な人気を誇っていたためだった。
『太平記』受容を通して時代を分析した、革新的一冊。」
南北朝時代を描く本ではなく、南北朝時代を『太平記』を通じて知った戦国時代人の「歴史認識」から戦国時代を描き出す本。 ネトウヨのリアル知人の元英語教員が南北朝時代の意味すら知らないことにびっくりした
便乗ネトウヨはこんなのばっかりなのかな そもそもネトウヨは日本人じゃないからw
んでそいつらに南北朝の知識がある奴が稀にいると、
歴史の話よりも今の硬質に話題を持っていくという特徴もある。 >>257
>そもそもネトウヨは日本人じゃないからw
老婆も言っていたような なぜ老婆は詳しいんだろう
右翼だったか、ネット右翼のことだと思う
・朝鮮人みたいな奴だな
このような事を言っていたよ ネトウヨは北朝鮮系。祖国ではキムジョンイルに忠誠を誓うのが愛国だったから、
日本に来てもそのつもりで安倍晋三(つーか誰でもいいが総理大臣)に忠誠を誓うのが愛国だと思ってる。
老婆が見てきたのは戦時中の自称愛国者で戦争強硬派だけど自分は何もしなかったジジイたちを指していると思われ。 「右翼 朝鮮人」
検索してみると、そのようになっているでしょ?
老婆は、なんで知っているんだろう なんでもいいわ
スレ違いだから右翼の話は該当するスレでやれ 蘇我が物部を滅ぼし
天智天皇に蘇我が滅ぼされ
天武天皇が兄天智天皇を滅ぼし
藤原一族に天武天皇が滅ぼされ
院政が藤原を滅ぼし
平氏に天皇が滅ぼされ
源氏が平氏を滅ぼし
北条に源氏が滅ぼされ
足利が北条を滅ぼし
後醍醐に足利が滅ぼされ
南北朝 52年か53年しかなかった時代だよね
南朝が勝ってたら 日本の歴史はもっと良くなっていたかも
少なくとも雅子ゃ愛子はいなかったw 建武国家を標榜する連中が勝って良くなるわけないじゃん
戦前国家懐古のネトウヨかよ
愛子はいなかったかもしれんが雅子はいたかもしらん
あんたはいなかったかも >>264
スレチながらレスすると、蘇我氏は物部氏自体を滅ぼしたわけではない。
物部守屋とその関係者を倒して物部氏を蘇我氏の陣営に組み込んだだけだ
乙巳の変でも(天智天皇じゃなく孝徳天皇が主体だが)蘇我氏は滅んでない。
蝦夷・入鹿親子らは滅ぼされたが、蘇我氏そのものは存続していて、壬申の乱の頃にも大臣を出している。
蘇我氏にしろ物部氏にしろ、壬申の乱が起きるまでは相応の勢力を維持し続け、生き延びてるんだよ。
同様に。
院政が始まっても藤原氏はずっと生き続けてるし、平氏が天皇家を滅ぼしたなんてデタラメの極み。
まあ、全部デタラメってことだ
西園寺寧子をはじめて知った
大河ドラマに 出番がおばあちゃんでは無理か あー、ドラマティックだし半期もの大河とかで取り上げてくれると楽しいかもしれない
ほら、前に一回あったじゃん。半年ものと9ヶ月もの2期で2年3作のとき。
宮内庁が天皇を大河ドラマに使ってほしくないのかもなあ
南北朝時代をはじめ皇族の地位低下とかの時代を知らせ広めたら
崇敬が薄まるとか考えてるのかも 質問なんですが、足利尊氏の逆賊評価って著しく不当だと思うんですが、戦前や右翼はなぜ足利尊氏
についてそういう評価をしなければならなかったのでしょうか 尊氏は南北ともに手のひら反ししたけど、どの面さげてってどちらの朝廷も言わなかったの? >>272
後醍醐天皇を裏切ったのは尊氏としては仕方なかったことだと思う
でも後醍醐天皇に対抗するために「錦の御旗」として自分が擁立した光厳上皇や光明上皇たち(北朝)を
正平6年(1351年)に南朝に降伏したときに南朝に引き渡したのは逆賊扱いされても文句言えないんじゃないかな
光厳上皇・光明上皇・崇光上皇と直仁親王は南朝のもとで何年も軟禁されていたんだし
一般的には後醍醐天皇に対する逆賊として見ているんだろうけどね そんな昔の話を今の皇族が問題にするとも思えないけど、
いずれにしても南朝正統論で騒ぐ奴のせいで南北朝時代が語りにくいのは事実。 だよな
騒ぐのは皇族じゃなく一部の南朝正統論者だけだ
現皇族の祖先を皇位から遠ざけようと(詳しく言えば廃位しようと)頑張っていた、祖先たち(北朝の天皇たち)から見て逆賊である人々を尊崇するという、
むしろ敵対的な人々なんだよな。
なぜか宮内庁にも、その手の逆賊信奉者が紛れ込んでるらしいのが気になるが。 昭和十二年文部省の国体の本義も、いわゆる皇国史観の平泉澄も、
戦後国体護持の為に神社本庁作った葦津珍彦も南朝正当の立場だが もちろんそうだよ
皇統を絶やしたいんだ、とかアホなことを言う奴が居るからね 水戸学や国学の系統の宗教家たち以外で南朝正統論者っているのかね? うん、江戸時代以後のことはすべてスレチだよな
とうぜん、近世・近現代に展開された正閏論もスレチとなり 正平一統が破れ第二次八幡合戦が終わった後の流れを詳しく読める本があるといいな。
建武の新政から新田義貞戦死までが詳しく紹介されてるのに、
いくらワンサイドとはいえ九州以外の南朝の戦いもあるだろうに。 南朝全史でもそれなりには扱ってるけど、詳しくというほど詳しくはないな
現状、他にもっと詳しい本とかは、あるかどうかすら不明? 正平のあとに三度の京都侵攻があったから、それを掘り下げた書籍読みたいな。 >>271
関係ないけどWikipedia日本語版の日本三大悪妖怪は流石にアレだと思ったわ
酒呑童子と玉藻前のページに「日本三大悪妖怪である(出典元なし)」と書かれる→いつの間にか崇徳上皇を加えて日本三大悪妖怪のページが出来る
→Wikipediaをコピペして本に載る→それを読んで一般に広まる→ゲームや漫画を通じて海外にまで拡散
史実を元にドラマにするのはそこまで問題ないとは思うけど
こうやって悪妖怪とか捏造されて拡散されるのは嫌がりそう >>291
「北畠親房は顕家の父」と言ってるのと同じくらい説得力がありすぎ 何か、南北朝関連の読本が何冊か出され始めたな
応仁の乱の次は南北朝を推していくつもりか?
いずれも後南朝は見事にスルーされてたけど 俺が足利尊氏なら、後醍醐天皇が崩御したら、
天龍寺なんぞ建立せずに、大軍で吉野を攻め落とし、
後村上天皇を何が何でも捕える
あの時点なら南朝の畿内における確かな軍事力なんて北畠親房ぐらいだ
絶好の機会だった 北畠親房も宗良親王も吉野から東国を平然と往復してたりして、
沿道の幕府軍は何をしてたんだといつも思うわ 中国の南北朝は領土の地図があって
わかりやすいが
日本の南北朝で領土の地図を見たことがない 領土地図を描けるほど勢力が安定してないし面積的に圧倒的な差があるからなあ
南朝の領土が少なすぎることを明白にしてしまうと反発するやつが出るんじゃないの? 日本のどのあたりに誰がいて南か北か、くらいの地図はあるが。
勢力圏は線引きが難しいだろうな。 国単位じゃなく荘園単位、領地単位で南北に別れてるから図示するのも難しいよな
しかも寝返りも多く、特定の時期を区切らないと図示の意味をなさないし。(つか勢力地図の多くは何年時点の勢力分布で書いてるから普通だけど) 日本の南北朝は、天皇が2人いたっていうだけ
欧州でいえば、ローマとアヴィニョンに教皇がいたような状況だ
中国の南北朝は、国全体が南と北に分かれてたわけで、意味が違いすぎる 天皇が2人いたのは、両統迭立の話がまとまらなくなったのが原因 鎌倉幕府の終わりごろには「両統迭立(りょうとうてつりつ)」という出来事がありました。
後嵯峨上皇は後継者を指名せずに亡くなったため、後深草上皇の流れを汲む「持明院統」と、亀山上皇の流れを汲む「大覚寺統」の二つに皇統が分裂してしまいます。
両者は皇位をめぐって争いましたが、その最終決定は幕府に委ねられました。
このとき幕府は、両党からほぼ交互に天皇を出す、両統迭立という妥協案を取りました。
しかし、この案に不満を持ったのが、天皇中心の政治を取り戻そうとした後醍醐天皇でした。
幕府の決定によれば、後醍醐天皇の皇子は皇太子に選ばれないということになります。
これを一つのきっかけにして、後醍醐天皇の討幕への動きが始まりました。 13世紀半ばには、京都・朝廷でも皇位継承権を巡る大きな問題が起こっていましたが、
その原因を作ったのは兄弟間で皇位相続をさせた第88代・後嵯峨天皇(在位1242-1246)でした。
後嵯峨天皇(邦仁親王)は、承久の乱(1221)に関係していた順徳天皇の系統を嫌った
3代執権・北条泰時によって天皇に擁立されたのですが、
在位4年で第89代・後深草天皇(在位1246-1259)に譲位して院政を行います。 このまま後深草天皇の子どもへと直系男子の系譜によって皇位が継承されていれば内部対立の問題は起きなかったのですが、
1259年に後嵯峨上皇は後深草天皇に『同母弟・亀山天皇(恒仁親王)への譲位』を強く迫りました。
この時には朝廷の政治(院政)は鎌倉幕府の強い影響下にありましたが、
第89代・後深草天皇と第90代・亀山天皇(在位1259-1274)は同じ母親から生まれた兄弟であり、
亀山天皇以降に皇位継承権を巡る対立が深まりこれが南北朝の遠因となります。
後嵯峨天皇(上皇)は、1252年に第三皇子・宗尊親王(むねたかしんのう)を鎌倉に皇族将軍として送っており、
崩御する間際には皇位と上皇位(治天の君)の決定権を幕府に委託していました。 東海林直人のゴロテマ日本史
持明院統と大覚寺統の覚え方◇
ゴロ]ボクは幸福かつ長寿命が/課題なんや
(北朝・後深草天皇・長講堂領・持明院統)(亀山天皇・大覚寺統・南朝・八条院領)
[句意]不幸で長生きしてもつまらない。ボクには幸福でしかも長生きが、課題なんや、という句。紛らわしい正誤問題では、一方だけ完璧で良いので、まず「課題なんや」を覚えることがオススメ。 解決済の質問
後深草天皇→持明院統
亀山天皇→大覚寺統
これのいい覚え方、または覚えやすいエピソードを教えてください。 ベストアンサーに選ばれた回答
後深草寿命がながい、亀山大不覚、とか。ちょっと古くてごめんなさい。 皇室御領の双璧は八条院領(鳥羽天皇の皇女八条院ワ子内親王)と長講堂領(後白河天皇皇女の宣陽門院覲子内親王)です。
前者は約230か所、後者は約180か所あります。
持明院統は長講堂領を、大覚寺統は八条院領を継承しました。
その他の所領を合わせると、両統の所領は拮抗しますが、やや大覚寺統が多かったようです。 もともと、皇室の荘園が2系統に分かれていたのがよくなかった。
荘園を兄弟で別々に相続したおかげで、深刻化相続争いが起きてしまった。
弟には、金銭で相続させればよかったのに。 >>302
キリスト教は確立期に五本山というの?5つの教会が並立する体制ができていて、ローマ教会はそのうちのひとつに過ぎなかっただろ
まあ、5つのうち3つは早期にキリスト教圏から離脱したが。
そんな中で総本山を自称したローマ教会は唯一性の面で多少の問題があったんだよ
まあ、残るひとつが正教会として、なかば別宗派のごとくになってたし、
カトリックの本山としては唯一ではあったのだが。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
KPVN9 >>306
その上さらに後には亀山がゴリ押しして自統の内部を更に分裂させてしまう 一休さんの活動全盛期って義満時代じゃなく義政時代じゃないの? >>315
>>316
一休宗純(1394−1481)
安国寺に入門したのが6歳で金閣寺の創建が1397年だから義満の時代が子供で正しい
変わり者ではあったが将軍相手にトンチ問答などありえない話 1481年って応仁の乱が終わったあとだよね、長生きだなあ 作家の海音寺潮五郎氏は著書「悪人列伝」の足利義満の章において、
後小松天皇は実は義満の子ではないか、と推測しておられる。
そして一休は後小松天皇の御落胤とされている(宮内庁公認)わけだから、
もしかしたら義満と一休は血の繋がった実の祖父と孫だった・・かも 架空の人物だね、wikipediaにも簡略な紹介がある
https://ja.wikipedia.org/wiki/越前局
の中段、フィクション の項 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
UME 後醍醐とかいう時代錯誤の基地外がいなければ、鎌倉幕府滅亡後はどうなってたんだろうか 後醍醐がいなければ鎌倉幕府がもう何十年かは長続きしてるだろ 南北朝の熱い男の叫び!
それがバンデットだ!!
「勇んで三振 後醍醐天皇」(1334年 建武の新政)
子供ながらに失礼だと思ったわ・・・
https://pbs.twimg.com/media/DKWn7wPVoAAVPy5.jpg >>323
少なくとも室町幕府は成立しなかっただろうな
第二の鎌倉幕府が成立してた可能性ならある K | 2019年2月 3日 22:12 | 返信
それを言うなら、皇位継承の「空白の一日」も問題ですよ。
かつて神社新報は、「天皇退位の翌日に新天皇が即位する」との観測記事が
マスコミに流れた際にその一日の時間差を問題視し、『その間に皇位の空白(空位)
を生ずることになるから、それは断じて避けなければならない』と紙面で指摘しました。
記事ではさらに『御譲位と御践祚(即位)は、同日「直ちに」一連のものとして
おこなはれるのが当然であらう。』と強調しています。(平成29年11月13日・5面)
昭和天皇崩御の時は間髪を入れず、即日三種の神器の継承にあたる
「剣璽等継承の儀」が行われています。そしてそれは宮内庁のHPでも
「皇位を継承されたあかし」とか「ご即位直後の剣璽等継承の儀」と表現されていて、
1日の空白もなく瞬時に即位したことがうかがえます。
今回は悠々と翌日に継承の儀ですよね。誰がそんなこと決めたんですかね。
そしてその間、三種の神器は誰のものなんですか?
神社新報もその後この件に関しては沈黙してるみたいだし、不思議ですね。
江川の時みたいに、国民があっと驚く何かが起きるんですかね。
http://my.shadowcity.jp/2019/02/post-14714.html#comment-153895
空白の一日に秋篠宮が即位を宣言して、京阪奈京に脱出し、二人の天皇が
並立するのかも。秋篠宮は京阪奈京で政府を樹立、米軍基地による脅迫が無い
ことから、反米政策・反新自由主義政策を遂行可能で、国民の拍手喝采を
浴びて東京の政府が崩壊するというシナリオを考えた。 >>323
そもそも鎌倉幕府が滅亡してない
後醍醐は鎌倉幕府の寿命を五十年以上は縮めたはず 英政府と野党の協議決裂=EU離脱、首相早期退陣も:時事ドットコム
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019051701133&g=int
英国のEU離脱、全裸で抗議=女性学者らの訴えが物議:時事ドットコム
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019021800157&g=int
Brexit
http://vnbateman.com/brexit.html
前英外相の妹、生放送でセミヌードに ブレグジットで【動画】 - Sputnik 日本
https://jp.sputniknews.com/life/201902175931129/
EU離脱で合意が出来ると、英国海外領土のタックスヘイブンに隠匿された欧州王族などの
簿外資産に課税されることになる。それで国際金融資本の金融覇権が終わる。
その時点で、愛子内親王を女帝にして欧州王族の婿取りをさせて日本を彼らが乗っ取り、
米国の次の寄生先にするというシナリオに従ったふりをする必要もなくなり、今上天皇退位
で秋篠宮が奈良で即位となるだろう。一時的に二人の天皇が並立するとしても、そのような
例は過去に多数ある。南北朝時代が有名だが、安徳天皇と後鳥羽天皇が最初の例だ。
弘文天皇もあてはまるかもしれない。安徳天皇は三種の神器とともに壇ノ浦で女官に
抱かれて入水したことで有名だが、そのため後鳥羽天皇は三種の神器なしに即位している。
また、即位期間が2年間重複している。
「波の下にも都がございます」という祖母の言葉とともに海に沈んだ安徳天皇。
「徳」の文字は間違いなく悲劇的な最期を遂げた天皇や有力皇族(聖徳太子)の鎮魂と
悪霊封じが目的であろう。今上天皇は徳仁親王として「徳」の字を名に持っている。 >>1
南北朝鮮のことなんて語りたくねーよ
糞チョンwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 北朝鮮と南朝鮮で南北朝(鮮)ってか
しょーもないネタではあるな 図書館で「南北朝」を検索ワードにしたら、確かに「南北朝鮮」がひっかかった。 世界的に言って、南北朝みたいな南北の争いってだいたい北が勝って統一されると言うが、
さすがに朝鮮半島は例外だろうと以前は思っていた
が、最近はまた微妙になってきたなあ そりゃ検索では引っかかるだろうけど
「南北朝」なんて小学生でも知ってるワードだろうと 中朝事実について語ってると「シナチョンがどーしたって?」とネトウヨがw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています