三角縁神獣鏡は誰が作った?4
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http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1019561007/
≪から3を作りました≫
三角縁神獣鏡の製作地はどこでしょうか?
魏だとする説には以下の問題が指摘されています。
@中国で出土しない
A文様の一部が中国にない
B百枚をはるかに越えた
C尚方でない
日本製だとする説の問題は
@はっきり国産と判明している鏡と製造技術に差がありすぎる
A日本人に銘文が書けたとは思えない
など
皆さんはどうお考えですか? 中国と同等の工業技術を持つ日本近隣国家と言えば大韓しか無いやろ 中国で倭専用として製作
百枚が実数かどうか分からないし一回のみとは限らない この問題が紛糾するのは邪馬台国所在説のせい
中国製となれば九州説は吹っ飛ぶ 古墳に収められた鏡には、最初から割れていたものが含まれている。
銅鐸と同じように、葬式の時に鳴らす楽器として使われたものもあるから、
その区別を付けるのがまず先だろう。
鏡の縁が一定の形をしていると、いい音で鳴るんだよな。 三角縁神獣鏡
【定義】
前期古墳から多く発掘され、既に数百面を数える。
縁の断面が△形を呈する。漢末〜三国期の中国では紹興(浙江省)近辺を除き見られないデザイン。
鏡背の内区に神獣が鋳出(半肉彫)され、外区には鋸歯紋などを配置、面径は概ね20センチ以上で、非実用的な大型鏡。
【特徴】
魏の年号を銘文中に含むものもあるが、内区(神獣像部分)のデザインには、長江付近をで流行した平縁鏡、画文帯鏡のものを踏襲している。
ただし、平縁、斜縁等の神獣鏡自体は、魏の本拠である華北や楽老地方でも出土例は多い。
【鏡影】 http://www.sen-oku.or.jp/test/collection/col02/003.html >>1
>A日本人に銘文が書けたとは思えない
これ、どうか?と思うw 銘文を書くぐらい誰でもできるw
銘文を書くことが、難しい原子力の技術を持つぐらい大変なことなのか?ってw
なんつーか、日本の考古学って、その辺の幼稚な発想が多い。 >>9
> >A日本人に銘文が書けたとは思えない
>
> これ、どうか?と思うw 銘文を書くぐらい誰でもできるw
青銅鏡を鋳造する能力と漢文を書く能力は別物だからね。
青銅製品の製造技術は、弥生時代の早期からほぼ全国に広まっているが、
漢字と言うか、文字の記録については、弥生時代は未だ黎明期以前。
三角縁神獣鏡がオール国産だとか言ってるのはアホくらいだから
相手にしたらダメだよ。
三角縁神獣鏡は舶載鏡が4段階、倣製鏡が2段階に様式別に
部類分けされ、倣製の国産鏡が出てくるのは313年の楽浪郡滅亡後に
舶載鏡の輸入がストップしてからだよ。
初期段階の舶載三角縁神獣鏡は卑弥呼が朝貢した景初3年に
画文帯神獣鏡等を参考にして大陸で作られたとみてほぼ間違いない。 倭国首脳部はわざわざ魏までいって朝貢したんだ。
言葉が解れば文字も読めたし書くこともできただろう。
常識で考えろ。
>>12
根拠がまったくないじゃんw
「間違いない」って感想いわれても >>12
それって、「まず舶載有りき」な方々が、舶載説前提で、3世紀中のわずか数十年に押し込めた編年だからね。
「分類」としては使えても、「編年」としては使えないよ。 三角縁神獣鏡の件に関してはもう邪馬台国関連スレで
何回も説明して疲れたんでそっちみればわかるw
>>16
見たけど君の主観的な感想だけでしたよw
あれくらいの論証ていうかお話しで疲れたの?
どこみたのか知らんけど、もう何度も国産派と舶載派で
何スレにも渡って争いが続いてきたんで、さすがにこのネタは
そろそろうんざりしてきてるとこだよ。
まあ簡単に言うと三角縁神獣鏡が国産で呉の鏡職人が作ったものだと
いうのはありえない。呉の鏡職人が渡来して長期間定住して
鏡の大量生産を行った考古学的痕跡などどこにも微塵もありゃしないよ。 >>18
△鏡が中国で作られた考古学的痕跡もどこにもないよw >>19
もうそのネタも何度も繰り返し出たネタだわww
まだぶり返すのか。
中国産の根拠は太田南古墳群で発見された青竜3年(235年)の方格規矩四神鏡の存在。
鈕孔を長方形につくることや、外区文様の外周に突線を加える手法は
漢鏡や3世紀の呉には見られないにたいして、三角縁神獣鏡には
普遍的に確認できることから、三角縁神獣鏡も魏鏡の可能性が高い。
また銘も同じ「銅出徐州」が入っており、中でも河北省県出土の、
方格規矩四神鏡の、「吾作明鏡甚独奇、保子宜孫富無誓」銘は、
静岡県磐田市松林山古墳の三角縁神獣鏡の銘文と一字一句一致するところか、
独特でくせのある筆跡まで一致することから、方格規矩四神鏡を魏鏡と
考えるなら、三角縁神獣鏡も魏鏡と考えるしかない。
大正時代の古鏡研究の第一人者であった富岡謙蔵氏が最初に分類した三角縁神獣鏡群には、
斜縁二神二獣鏡や画像鏡も含まれており、斜縁二神二獣鏡の斜縁に注目しこれを
梅原末治が平縁神獣鏡に含め、三角縁神獣鏡と峻別したのが今の基準となっている。
山東省騰州市から出土した、斜縁二神二獣鏡は愛知県の犬山市東之宮古墳の三角縁神獣鏡と、
図像表現や構成が酷似し、同じ工房で製作された可能性が極めて高い。
少なくとも三角縁神獣鏡
>>20
中国由来の技法で作ったことしか言えてないが。 王仲殊氏によって、国産鏡だということになったのでは? >>18
生産拠点は新たな設備投資のいらない中国のどこか
まあ高い価値で売れたんだよ
鏡職人にとってはウハウハ
倭国の価値物大量と交換したと考えられます
ある意味まがいものなのにね 埴輪にれば当時のジャップの文明レヴェルが極めて低いことがわかるであろう
その未開ジャップに銅鏡制作は絶対に無理 >>29
いいえ
中国で見つからない=国産に違いない
で、思考が停止したままの国産説の方が宗教に近いといえます >>30
そうだ、そうだ!
700対0だろうが、1000億対0だろうが、関係ない。
舶載に違いないという強い信念こそが重要なんだ! 当時の畿内が記銘の三角縁神獣鏡作れたなら、邪馬台国は大和で決まりじゃん。
漢字を読み書きできるということは中国文明を受け入れてるわけで。文字での伝承があったなら
記紀の内容も多少の真実味がある。 まるで魏が受注生産してたような話だな
まったく古代ってやつは霧の中
当時の日本に銅鏡を作る技術力があったとは思えない
恐らく百済あたりで大量生産されたものを
輸入したのであろう 輝ける銅鐸文化を忘れてないかい?
ありゃ、日本独特の日本の制作技術 >>36とか>>38で分かるように技術的な視点を深く考えようとしない連中が国産説の指示者の実態なわけ
だから本職の研究者の間では技術的な視点での検証が進んだ舶載説が優勢になっているのだよ そうだ、そうだ!
当時の日本人にはそんな技術があるわけがない。
日本で何億枚出土しようが中国製だ! 鏡の製造技術くらいあっただろう。
鉄も持っていない近畿地方でさえ銅鐸を作れたんだから。 三角縁神獸鏡と同等レベルの鏡の工房跡とか日本にあるの? 大型銅鐸と三角縁は単に青銅を鋳造するという行為のみが共通する程度のつながりしかない訳だが 文献ではなく、物象が残っているのだから解明されるべき重要事項
だが、中国自身がこれは当方のものではないと言っている
一方、日本にとってもそのデザインは日本の趣味から隔たっている
これは、本当に謎だ
中国・日本以外という選択肢は無いように思えるが
もちろん、半島は全く関係ない
20cm以下の銅鏡は中国製のほうが技術レベルは高い
超大型鏡は中国では出土しないので技術レベルの比較はできない
三角縁神獣鏡の相当数は鈕の穴がつぶれていて紐が通せないか、穴が開いている場合でも鋳放しの状態
で技術レベル以前の問題 >相当数は鈕の穴がつぶれていて紐が通せないか、
相当数というが、出土鏡のうち何%くらいか具体的な数字は示せるかね?
>穴が開いている場合でも鋳放しの状態で技術レベル以前の問題
それは最後の研磨作業を省略しているのであって鋳造の技術とは関係ない
あと、研究者たちは大きさのみで技術論を語っているのでないからね >>48
>何%くらいか
例外的だと考えるなら自分で調べてここに書いたらいい
>最後の研磨作業を省略しているのであって
最終工程まで完了する目的で製作されていない鏡で技術レベルの比較はできない
>研究者たちは
仿製か舶載については研究者により見解は分かれる
>大きさのみで技術論を語っている
誰も言ってない サイズが極端に違う鏡で技術レベルの比較はできないといっている
三角縁神獣鏡の多くに現れる特有の線キズは二層式鋳型の使用で微細な凸面キズが再現できる(鈴木勉氏)
これらの線キズは魏晋鏡にはない
また、中国においても技術レベルに大きな差があり、地域的に多様で拙劣な鏡もあるので
従来の、拙劣であるから仿製とはいえない(森下章司氏) 国内で鋳型が出てるからね。
畿内よりだと土の鋳型、九州よりだと石彫の鋳型が多い。
中国では土の鋳型が多い。
ちなみに九州では、小型銅鐸や剣の鋳型も、
石彫のものが出土されているので、石彫が好きだね。
古い鋳型技術がそのまま発展した魔改造っぽい。
土鋳型も出てないわけじゃないし。 自分から相当数とかいっといてどのくらいの割合か聞かれたら自分で調べろって……
狂ってるな 自国で製造するより
植民地の奴隷を使ったほうが
コストがかからないので
宗主国である百済が倭人奴隷を使い
日本で製造していたのであろう チョンは日本の歴史に口出さんでいいから母国の心配でもしとけ
魏の文献に載っている邪馬台国やらヒミコよりも(日本の文献に無い)
日本で時を超えて実際に多数(数百)全国で出土している
三角縁神獣鏡(中国に無い)のほうがより研究課題にふさわしいと思う
鏡と太陽、天照大御神には深い関係がありそうなだけに
>>49
>中国においても技術レベルに大きな差があり、地域的に多様で拙劣な鏡もあるので
>従来の、拙劣であるから仿製とはいえない(森下章司氏)
これ、これまで仿製鏡と考えられていた古墳時代前期後半から中期に見られる鏡のことを念頭に置いた発言だよ
この流れで車崎氏による三角縁全舶載説が登場しているのですが、理解できていますか?
>>55
うん。私のレスの内容を何か取り違えてませんか? 三角縁に舶載鏡があるという立場だと、黒塚古墳はどう解釈するの?
一方、三角縁は全部国産だとしても、
黒塚でずっと重要視されている画文帯は魏の鏡とは言えないし。
この辺はどうなっとるのかさっぱりわからんのだが、
考古学的には、倭人伝のことはきっぱり忘れるのがよいと思う。
古代史的にはなにか回答を見つけないとまずいのだろうが。 >>48
> >穴が開いている場合でも鋳放しの状態で技術レベル以前の問題
>
> それは最後の研磨作業を省略しているのであって鋳造の技術とは関係ない
研磨もしてない鏡を、魏が邪馬台国に送ったと考えているわけ?
バリが残っているのは全て国産で葬具というのが素直な解釈だと思うが。
もちろん棺の中でバリ付きの鏡が非常に重要視されていると
考えないと仕方のない位置に配置されていたら、また話は変わってくると思うが。 ジャップは未開やから本来廃棄処分にするような不良品をくれてやっただけやろ ただ最初期の三角縁には鋳流したままのものはないだな。
時代が下るといい加減になっていっている。
時代が早く舶載の可能性が高いものほどまとも。 黒塚では画文帯の方が珍重されていて、ホケノの画文帯とそっくり。
ホケノ→箸墓→黒塚だから、画文帯が卑弥呼の鏡でいいんじゃないの?
ホケノは6世紀の堂の後古墳より後に築造されたことがすでに判明しているだろ。
不都合な事実を無視しないのが学問の基本的な前提だよ。 と、不都合な事実に目を背けまくっている九州説信者が申しております 天理大学の学生の調査で、ホケノが作られた時に、
堂ノ後の周濠が、埋めたり壊されたりしている可能性があると
発表されたことを言っているのだろうけど、
さすがにこの件だけでホケノを6世紀に持ってくるのは無理。
他の証拠が揃ってるんで。
ただ周濠の増築や墳丘再整備の問題をきちんと考えないといけないのは確かだけど。
>>62
今のところ画文帯は楽浪郡の鏡と考えられてるのをどう解釈するか。 >>66
画文帯同向式のほぼ全部が同型だろ、ほぼ全部が日本で出土。
例外が楽浪郡の1枚のみ。
普通にあれは日本製。
楽浪の日本が朝鮮に進出したときに持ち込まれたものだろう。
朝鮮にも前方後円墳を作るくらいに進出したんだから、鏡も出るだろ。 画文帯同向式は500年前後のものも多い。
ホケノだけが古いと考えるより、ホケノも同時期と考える方が自然じゃないのか?
同向式は紀年鏡にも多いんだよね。
△の紀年鏡は全部同向式、画文帯の紀年鏡も全部同向式で内部のデザインは丸写し。
日本で絵のパッチワークをしたと考えるのが普通の知能のある生物だろ。 >ホケノだけが古いと考えるより、ホケノも同時期と考える方が自然じゃないのか?
誰も「ホケノだけが古い」などとは考えていない >>69
椿井大塚山、西求女塚も500年頃にしちゃうのかい? 最も遅く見積もるの想定しても、
A.D.300年前後だよね。 去年週刊誌に中国製で決定、ての出てたじゃん。
唐の文献に昔魏の時代に倭のリクエストにより文を外して鏡を作ってあげたって。
文とは飾りの意味らしい。
直接日本とは関係のないマイナーな文献で、日本史の研究者は目が届かないのを読んでて発見したんだって。 週刊誌に載ったのなら間違いないね
週刊誌は国際的にも最も信頼できる資料ですからね 特注品なんだから中国から出土するわけがない。
日本で1億枚出土しようが中国製に決まっている。 纏向1類(前) 弥生X様式土器 後漢193年冷夏凶作 。
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)
纏向2類(中)
纏向2類(後)
纏向3類(前) 庄内3式期末 ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡・鉄器 埴輪(穴あき壺)
倭人伝 邪馬台国官、伊支馬 都市牛利
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)
纏向4類(前)
纏向4類(中)
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に勅使の如きを置き女王国(九州)の北部に置いた1大卒を監督する、1大卒は諸国を
検察し、諸国はそれを畏れ憚る。
纏向4類(後)箸中山(最初の大王墓)・燈籠山、布留0の指標、(260±10年程度)
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
考古: 北部九州に纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱 《秋津遺跡》
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、 特鋳説は、せめて他の地域でも同じ部類の特鋳があったことを示さないと単なる妄説。
そもそも特鋳なのに邪馬台国の名前が入らないなんてことがありうるのか? 上にある新潮の記事ってのは、
> 昔、魏は倭国に酬(はなむけ)するに、銅鏡の鉗文を止め、漢は単于に遣(おく)るに
> 犀毘綺袷(さいびきごう)を過ごさず。並びに一介の使、将に万里の恩とす。
こんな文が、晩唐に成立したとみられる「全唐文」に見つかったという話。
画文帯からガラリと絵柄(文=紋)が変わってきているから、
画文帯が魏の鏡なのではないか?
福永も三角縁は楽浪郡の工人の手によると言っている。
つまり画文帯と同じ人達が作ってる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています