小林は、△を出土する古墳は4C(半ば)以降が多いとする一方で、△は240年頃に
魏から戻ってきた使者が持ち帰ったとした。
この矛盾を解決するために、240年から少なくとも数十年は古墳に埋められることなく
伝世したと考えたんだな。まあご都合主義の妄想だが。

小林の頃は椿井大塚山古墳は4C後半〜末葉(380頃)とされていたので、こう考えるしかなかった。
その後に伝世という不都合を回避するために、椿井大塚山古墳を280年頃に繰り上げたのが
今の畿内説。まあ学説が劣化し続けるのが畿内説の専売特許だな。

椿井大塚山は380〜390年頃で良いし、△もこの頃に日本で作られたということでFAだな。