【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
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南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか? 安徳天皇と後鳥羽天皇のどちらが正統かも定まっていないからねぇ
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真の思考停
(在位 2009年9月16日〜2010年6月8日)
民主朝の初代考停、言行不一致、虚言、脱税、
そして外交において巨大な負の遺産を築いた。 >>1
明治天皇が勅裁しているので、この問題は解決しています。 もともと後嵯峨天皇が亀山天皇を寵愛したことに端を発しているのだが、後深草天皇のどこが気に入らなかったのだろうか? >>6
後深草院は幼いころから病弱で、足腰の発育も遅く、長じても右側に傾く身体つきだったらしい。
一方亀山院は健康で聡明だったから、自然と両親の愛情や期待が弟の方に集中したんだとか。
余談ながらこの兄弟、後白河院の五世孫であるが、同時に、
今年の大河ドラマの主人公・平清盛、及びそのライバル・源義朝の五世孫でもある。 天子摂関御影では、他と比べて一回り小さく描かれてるよね>後深草 熊沢天皇を愛でる会
1月7日22:00開催
場所:日本史板 >>6
皇后腹の男子が複数いる場合、兄弟相続される例はよくある。
後嵯峨→亀山の兄弟継承はそれほど問題はない。
後嵯峨が亀山を優遇したと言われるのは、
亀山の皇太子に兄後深草の皇子ではなく弟亀山の皇子が立てられたことから。
しかし、皇太子に立った亀山皇子が皇后腹であったのに対し、
後深草の皇子はすべて身分の低い女官腹であったことから仕方がなかったともいう。
むしろ、後宇多と不和になった西園寺実兼が後深草の妾腹の皇子を担ぎ出して即位させ
自分の娘を中宮に立てたことから皇統が2つに割れた。 宮内庁では南朝が正統ってことになってるみたいだけど、なんでだっけ? 三種の神器を根拠にすると安徳→後鳥羽の正当性が否定されちゃうのがアレだな しかも御南朝が神璽を取り返したりもしてたし
まあ元の天皇や上皇、摂関のついた方が正統とされるのかな >>18
すぐに奪い返されたじゃないか。それに、三種の神器があっても前天皇の譲位、立太子または治天君の指名が
なければ天皇にはなれない。 >>10
伊勢斎宮のことかな?増鏡の記述に院との情事があったがかつてはこの院が亀山
とされていたがとはずがたりから実はこの院が後深草だとわかったんだよな。
>>20
いや、後深草が関係を結んだ伊勢斎宮とは別の姫宮と亀山院が関係があった。
「増鏡」で亀山上皇が関係を結んだとされるのは異母妹の懌子内親王(五条院)。
美貌の姫宮(後の五条院)のもとへ異母兄亀山上皇が通い、密かに姫宮を産ませ、
乳母に育てさせたとある。
一方、「とはずがたり」で後深草上皇が関係を結んだのが異母妹の元伊勢斎宮、ト子内親王。
二条の仲立ちで関係を結んだがすぐに仲は途絶えたらしい。
後深草も亀山も、それぞれ別々の異母妹と関係を持っていた。
父の後嵯峨からは有望と思われた亀山も晩年は可愛がっていた自分の子の恒明
を天皇にしようとしたり、息子の後宇多の嫁に手を出したりして大覚寺統にひびを
いれたり有害な存在になったんだよな。 >>23
恒明親王の母は権門(西園寺家)の出身で、もちろん西園寺家の希望があったからだろう。
後醍醐天皇が立太子できたのは母五辻忠子が亀山の愛妾になったからという説もある。
息子を即位させたい継子の希望によるものだったともされている。
後醍醐天皇が兄二条天皇の愛妾を自分の愛妾にしていたり、
後伏見天皇が父伏見天皇の愛妾を自分の愛妾にしていたり
この時代はそういう話が多い。 神皇正統記で後醍醐をdisり、手紙で後村上を幼稚呼ばわりする北畠親房は逆臣だよね。
江戸時代から昭和初期の政治状況が生んだ価値観だよ。>南朝は正統 南朝公家で唯一残った北畠阿野もさっさと北朝貴族になって後南朝弾圧
白河・菊池といった南朝方で勢力保持したものも北朝幕府にゴマすり初めて >>1
南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか?
単純に長幼の順でいうと持明院統(のちの北朝)。
しかし、正統な荘園(八条院領)承継の流れでいうと大覚寺統(のちの南朝)。
後嵯峨院の意思も、亀山以下の大覚寺統。
しかし、それで納得しない持明院統の後深草上皇が、
幕府に働きかけて「両統迭立」を実現させた、が事実。 後深草は、亀山の皇太子に世仁(後の後宇多)が指名された時、落胆して出家しようとした。
当時は後嵯峨上皇が生きていたからこの決定は絶対だった。ということで後深草自身には
そこまで強く自身の皇統にこだわりは無かったのが正解。
ではどうして出家も中止され、幕府を巻き込んだ騒動になったのか?
実は後深草に娘を入内させている西園寺家の意向が働いている。
娘の夫が院政を開けるか否かで、自身の生活が天と地ほど違ってくるから。
西園寺はこの時期武家伝奏だから、幕府に泣きつくアイディアを出したのは間違いない。 後嵯峨上皇の時代が朝廷が最後にきらめいた時だね。
1300年代に入ると荘園の浸食が進んで行く。
後嵯峨がきちんと「亀山に皇位と荘園を継がせる」と
明言していればその後の歴史は大きく変わっただろう。
時として人間を徹底して切り捨てることも必要だ。 後嵯峨は自分の責任じゃないとは言え簒奪者だから、
あまり強くは言えなかったんじゃないのかなあ。
天皇家の歴史は簒奪者の歴史でもある。
天武、光仁か桓武のどっちか、嵯峨(即位はしてたが事実上簒奪)、
光孝(望んでじゃないらしいが)、一条(これも本人の責任じゃない)……
これだけ長く続けば時々ごたごたがあるのはしょうがないけどね。 後嵯峨即位を決めたのは鎌倉幕府
後嵯峨が亀山の皇子を皇太子に定めながらも最終的には
幕府の判断にゆだねざるを得ず西園寺実兼が幕府を動かして
後深草の皇子を担ぎ出すと朝廷は何も言えず >>28
後嵯峨院の死去後大覚寺統(南朝)の後宇多(91代)まで皇位が行っていましたが、
1275年(建治元年)幕府の意向で、持明院統ののちの伏見(92代天皇)の立太子が決まりました。
このころ両統迭立時は、皇位そのものよりどの派から皇太子が出るか「立太子」の方が重要。
両派とも幕府の支持を得ようと、鎌倉まで競馬まがいの競走をしたらしいです。ww
>>29
極めて強いこだわりがあったから、抗議のために尊号返上や出家の意思表示を
したんでしょう?
こだわりがなかったなら、わざわざそんな行動はとらない。 >>29
後深草が出家しようとしたのは後宇多が皇太子に立った時ではなく
後宇多が即位したとき。
父後嵯峨院政期にはその存在は絶対的で後宇多が皇太子になっても
後深草は何の動きも見せず黙認していた。
父没後、弟の亀山が後宇多に譲位して院政をとる気配を見せると
兄である自分を治天にしないことに異議があるとして
出家の意思を鎌倉幕府に通達、初めてこれに抗議したってこと。 この辺りの事実関係を整理すると、
1259年後深草(持)強制退位・亀山(大)即位で両統分裂。
後宇多(大)立太子 1268年
後嵯峨院死去 1272年
後宇多(大)即位 1274年
伏見立太子 1275年 ←事実上の両統迭立の始り。
後宇多(大)退位・伏見(持)即位 1287年
持:持明院統のちの北朝
大:大覚寺統のちの南朝 を示す。 神戸市中央区の風呂谷部落は楠寺で切腹した
楠木正成の遺体に献花し、埋葬した功績により
後醍醐帝より摂津国内の花の専売を認められた由緒ある、部落です。
明治までその特権は続きました。
最後の弾佐衛門を生んだ、住吉部落とは婚姻を結ぶ事の多かった部落です。 >>28
どっちが正統っていうか南北朝分裂以前には
両統迭立の建前があるんだからどっちも正統でしょ。
どっちも皇位継承権を保持した皇族なんだから。
どっちが正統なのかって話になるのは光厳在位期間と
後醍醐の吉野遷幸以降だけじゃないの? >>38
その通りだと思う。
少なくとも光厳天皇在位時と光明天皇即位から後小松天皇までの
南北朝時代までは、その世の天皇は1人だったわけだし、 そういえば、博多の筥崎八幡宮に亀山上皇像を祀る社ができている
東公園にある像の原型になった木造像で
よみうりランドで公開されていたのを九州国立博物館で修理し
この度上皇と縁の深い場所ということで筥崎八幡宮で祀ることになったらしい
結構デカくて立派でしたわ
中共の力が増大する昨今何かしら思うものがあるな 顔貌は、南禅寺の法皇像を参考にして作られたと聞いたな
ttp://www.nanzen.net/about_image/rekishi_kameyama.jpg >>39
なにいってんだかわからんけど
特に後半へんだろ >>43
南北朝時代は南朝と北朝どれぞれに天皇がいて、天皇が2人いる状態
だから、どちらが「正統」とか?と言う議論になるだろうってことだろ。
それ以前は、2つの系統が交互に皇位継承しているにせよ。天皇が
1人しかいないから正統という話にならないと言うことだろう。 >>44
現存する北朝側公家の史料にも「南帝」という書き方があるから
二帝両立という認識でいたんだろう
絶対的にこちらが正統で生涯こちらにお付するという確固たる意志が
あったわけでもないってこと
官僚たちも時と場合により北朝についたり南朝についたりしてるしな 今の天皇が南朝系だから南朝を正統としたほうが合理的かな
明治維新の時に南朝系に摩り替えられている
薩長土肥の面々は南朝支持ばかり >>49
「天にニ日無く、地にニ帝無し」という言葉は中卒には難しいようだな。
話しを戻して、
荘園の継承でいうと八条院領の大覚寺統(南朝)、持明院統の長講堂領は後発。
三種の神器・保持でいうと南朝。これも祭政一致の中世社会では、意外と無視できない。
持明院統(北朝)は、幕府の後援を得たのが大きい。 当時の公家の日記では観応の頃にはもう南朝を朝廷とはみなさなくなっていたよ。
ぶっちゃけ南朝優位とかいっているのは神皇正統記の記事をを都合よく抽出した江戸以降の
国学者連中の仕業だろう。
無理に法則や正当性を定義したがるのは歴史研究の悪しき慣習というべきか。三種の神器も
院の指名も強引にこなして後光厳は即位したけどそれが原因で北から南に離反した人間なんて
公家に1人もいないじゃないか。
>>52
いや、観応の擾乱の時に足利尊氏が南朝後村上天皇に降伏して
北朝の上皇・天皇・皇太子が全員南朝に連行されてるんだが
それ以降も「園太暦」など当時の一級史料で南朝の天皇を
「南帝」と表現しているよ >>53
>それ以降も「園太暦」など当時の一級史料で南朝の天皇を「南帝」と表現しているよ
北朝天皇のことをどのように表現しているかで、南帝という表記の価値は大きく変わってくるよ。
もし北朝天皇を北帝などと書いてたのならともかく、
今上とか帝と書いてるのなら、南帝という表記は「正統ならざる地位」という意図を含むことになる。 >>54
「帝」という言葉自体が天皇を表すってことだよ。
東京は東の京と書くから首都ではない(京都が本当の都)、
みたいな屁理屈だな。 たとえば。「一天両帝」と記された場面では、南北朝並立というニュアンスで記されているわけで、
北朝正統という意図を読み取るのは、この語句だけからは不可能だ。
だが、南帝という語句に関しては、北朝正統という意図を読み取れないとは言えない。
むしろ、正統ではない天皇が存在していて不快、みたいな意図を読み取る余地すら否定できない。 >>56
後村上天皇が正統とされたときでも「南帝」だったんだから意味ないだろ。
後醍醐天皇が隠岐に流されていたとき、都の公家たちはこぞって「先帝」と書いた。
で、「先帝」と書いた都の公家たちは後醍醐が帰ってきて
「正統ではない天皇が存在していて不快」と思ったわけか?
そのときの都合でどうにでもなるって話。
逆に、南朝の天皇を将軍や先帝とかかずに現役の帝と書いているのが凄い。
隠岐にいる後醍醐を都の公家は完全に廃帝扱いしてたからな。 後村上天皇の御製を拝読したてまつれば吉野朝の正統性がわかろうぞ
四方の海波も静まる印とて三つの宝を身にぞ伝ふる
高御座帳かかげて橿原の宮の昔もしるき春かな >>58
先帝は先帝
形式上は、隠岐に流されていた間の後醍醐帝は廃帝/先帝で間違いない。
京都に戻って重祚したと解釈せざるを得ない。
後醍醐帝自身は退位した(させられた)事実を無かったことにして、
重祚ではないと強弁したけど、それは実体を伴っていない、いわばウソ。
まあ、公家社会では、あの重祚(名目上は重祚ではない)によって、
後醍醐帝が再び正式の天皇になってるから、「正統ではない天皇が存在していて不快」と思った公家はいないと思う。
>後村上天皇が正統とされたときでも「南帝」だったんだから
幕府が後村上天皇に帰順した際も、公家社会全体が南朝を受け入れたわけじゃないし。
というかむしろ、公家社会としては、京都を支配している方が正統って感覚では。
後村上帝は入京したっけ? >>52-53
北朝公家の南朝への離反は、皇位の正統性よりも自己の官職や所領を巡る争いに由来するから、それはあまり意味がないな。
>>33
競馬騒ぎは正中の変後 >>59
後村上以下の吉野在住の公家たちが京都に帰りたい和歌を詠んでるから
本音ではもう自分たちの負けでいいと思っていたよ。 >>64
それは勝って帰るつもりだったんだろ?
それじゃなければ、4回も(結果的には役に立たなかった)京都占領なんてやらないから。 >>61
北畠親房が元弘の乱の後醍醐同様官位や所領問題のちゃぶ台返しを強行しようとするから
正平一統は失敗した。(そもそも正平一統なんて歴史用語として存在している意味なんかないだろw)
公家社会(もっと言えば寺社勢力)としては京都支配もさることながら崩壊中の荘園支配を支えてくれる事が何よりも大事だろ。
南朝の機構では本所復活の徳政どころか、半済ですら無理だろう。
>>65
いや詠んでいるのは帰るのが絶望的な状況の時でまさに望郷そのものだから。
正平一統以外の占領は山名、細川など幕府内部の直義派や尊氏死後の権力抗争
ではぶられた連中がしているだけでもう南朝上層部は応仁の乱時に引っ張り出された
後南朝の末裔と変わらんレベルだよ。 >>64
和歌史方面の研究で、後醍醐・後村上の代には還京を切望して詠んだ歌が多いが、
長慶の代に入ると吉野を都として追認するような歌が現れる、という分析があったな。
君すめばここも雲居のよしの山なれてぞみつる花のさかりを(阿野実為) 南・北朝、特に南朝の存在意義がよくわかりません。
北朝には大方の公家も従っているし、幕府の後援もあります。南朝との差は歴然です。
それでも南朝は、南北朝合体(1392年)までそれなりの存在意義があったんですよね!?
はたまた「後南朝」なんてのもありました。このあたり、うまく説明できる方お願いします。
足利兄弟が喧嘩を始めたのがすべての元凶、と言うのは極端だが
喧嘩の原因が荘園の本所の権利回復をどうするかの方針にあることは確実。
蒙古襲来以前から弱肉強食の経済原理がまかり通るのが鎌倉中期の日本の
現実で荘園の所有者が流動化してそれまでの家格などの秩序が崩れだした。
武士でも公家でも庶流でも嫡流に取って代わろうとする下克上が珍しくなくなって
きた。分裂、抗争が当たり前の時代になったのだから担ぐためのシンボルも分裂しだした。
ついでに言うと応仁の乱以降は将軍も分裂したよ。 >>70
まずは自分たちの利益を尊重してくれる人間を担ごうとするし、
担がれた方も担ぎ手の利益を守ろうとする。
次に担がれた人間に自分たちの利益を守る力が無い時、少々怪しくても
自分たちの意になる人間に挿げ替えようとする。
最後には自分が直接政権を奪取する。
南北朝期は上で言う第二段階だった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています