>>117
勅撰集の数で正統性への不安を推し量ることなどできないよw
後宇多天皇が和歌への造詣が深かったというだけで…
後嵯峨天皇の遺志が亀山天皇にあったことは大宮院も鎌倉幕府も認めるところで、
関東申次を世襲する西園寺家への配慮から幕府は持明院統の即位を認めたに過ぎない。
当時、鎌倉幕府は両統迭立を保証しており、大きな不安があったとは思えない。
持明院統へのライバル心は常にあっただろうが、
後宇多自身、後深草の后腹内親王を妻にするなど別の融合も見せている。