【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか? まーた北朝狂信者が発狂してるのか
血筋的には北朝の末裔である明治天皇がわざわざ南朝が正統だと宣言したという事の意味すら分かんないのかね
やれやれだぜ >>137
持明院統の初代、後深草天皇は第四皇子。
長子ではないよ。
鎌倉幕府の親王将軍となった宗尊親王が第一皇子で後深草の兄だから。 あげあし取り楽しいかね?w
宗尊親王は確かに生まれた順番しかみなければ長子ってことしかわからんだろ
確かに長子だよ。なんで天皇にならなかったのかよく調べてみ >>137 =>>142
自分の間違いを指摘されると揚げ足取り?
長子優先なら長子である宗尊親王と言っただけ
お前の言っていることが間違いなのであって長子優先ではなく嫡子優先だろ
しかも嫡子は父親の権限で決めることができる
同じ母親から生まれた兄弟であっても兄を廃嫡して弟に家督を譲るなんて
天皇家の歴史ではいくらでもある
よく調べてみ だが、肝心の「先帝の遺志」ってのがな。
後嵯峨帝の遺志は明証のあるものはなく、当時から疑う人が少なくなかった
一方で、大覚寺統の諸帝で、末子を次期皇太子にしたいと明言のうえで根回しまでしておきながら、実子によって無視された例は多かった
遺志とやらの優先度が高いのであれば、先帝の遺言を反故にした大覚寺統の諸帝は不実を働いたことになるな
だが、その件で後世の人間から責められたわけではない。
先帝の遺志なんざ、その程度の物なのさ >>144
だから、鎌倉幕府は大宮院に聞いてるよね
後深草・亀山両帝の実母であり後嵯峨の中宮であった大宮院が
後嵯峨の遺志は亀山にあったといったので亀山が正統になった
晩年に末子を帝にしようとした噂があるのは亀山だろ
ただしこれを聞いたと言っているのは亀山の末子恒明親王の叔父である西園寺公衡のみだった
女院の発言と親王外戚の発言は一緒にできない
当時院政をしいていた後宇多は亀山から何も聞いておらず反故にされた そりゃあ、後二条の子孫に皇位を継承させる方針だったのだから聞いていても反故にするわな>後宇多 >>145
聞いていなかったとは考えにくい内容の史料も有るぞ 亀山院自身が、後宇多、伏見両院に話して了解を得たと
いう恒明親王宛書状を残していたのではなかったかな。 >>148
そういったものは残っていないはず
亀山の死後、後宇多と対立する西園寺公衡・昭訓門院が持明院統伏見上皇に近づき
恒明親王の立坊を条件に後二条の早期退位と富仁親王(花園天皇)の早期即位を了承
持明院統側から恒明親王の立坊を求める書状が幕府に送られたことはある
ただし後宇多がこの件を了承した記録は残ってないはず 宸翰英華 第一冊
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586902
の43号文書ってのが、148の内容だろ
文書を書き残した亀山院が後宇多の了承を得たと認識していたことはわかる
後宇多が本当に了承したかどうかを確定することはできないだろうがな。
騙してたとか、言葉巧みに誤魔化してたとかの可能性があるし。 >>150
当時は後二条天皇にまだ皇子がなかったので
後二条の次にはそれより幼い叔父恒明親王をというのはあり得たのだろうね
後宇多といえどもまだ孫が産まれていなかったのだから
弟を皇位に立てよという意見を無下にはできなかった
後二条に皇子があっても亀山がまだ恒明親王立坊にこだわったかは微妙だろう
後深草にすでに皇子がいるのに亀山皇子を立坊させた後嵯峨とは違う 後鳥羽を後醍醐と入れ替えてたら少なくとも半世紀以上は続く
朝廷主導の安定政権ができてたと思うわ。後鳥羽の時であれば
むしろ朝廷有利だった。後鳥羽の根回しとか戦争指導がカスで
あっただけで。
後醍醐の時じゃもう手遅れ。 後醍醐帝前半(倒幕前)には、後醍醐帝のような強いリーダーシップを望む廷臣も少なくなかったが、
後鳥羽帝の頃の朝廷にはいなかっただろ
だから、もっと早期に見捨てられて終わってただけかもしれん。
つまり、承久の乱と大差ない結果に終わっただけで、どっちでもかわらんかったンじゃね。 >>153
朝廷を要因とするよりも幕府の方が問題ありすぎだろ。
政子の大見得も後醍醐の頃に言ったら、「何言ってんだこいつ。」だろ。
足利、新田に限らず、御内人の安東蓮聖もバックれるなど御家人の大量
反逆にあったのではどうしようもない。 >>144
観念上の正統性のことをいってるんだよ
もまえのいうような実態があったればこそ大覚寺統は
木寺宮、常盤井宮に分裂してるだろ >>156
概念上って言うと、後々まで存続しえた方が、存続した方の祖先が正統
漢王朝の正統を引き継いだと自称する蜀漢より、禅譲を受けたと称した魏の方が実際には正統だったのと同様、
中央を逐われて辺境に落ち延びた時点で亡命政権。
捲土重来して中央政権として復活できたならともかく、最後まで亡命政権に終わった以上、政権としての正統性なんてない。
というより、政権ですらない。 >>157
おまえが言ってんのは単に勝ったほうが正統っていう薄っぺらい話
そう思ってんなら最初からそう言えばよかったのに。
「概念」も糞もぜんぜん関係ないじゃんw 正統の基本は「勝てば官軍」だぞ
この「ば」は仮定形ではなく已然形(過去形みたいなもの)であって、「勝ったから官軍」みたいな意味だろ
衰退消滅した亡命政権に正統性を見いだすようなのは、なんらかの自己投影による特殊意見。
北宋南宋の頃の中国人たちが、北方遊牧民の圧迫を受ける自分たちの境遇を蜀漢に投影して作り出した蜀漢正統説と同類
南朝/大覚寺統と同様な形で皇統を逐われた「元」正統なんて、他にも複数あったのに、
大覚寺統以外は全無視する恣意的な視点なんてゴミ同然 何故か負けた方の南朝が正統だと後の天皇が宣言してしまうのが歴史
勝てば官軍(キリッ >>159
違うね。
もまえの言ってることはただの事実認定、
そんなアカラサマな物理条件なら「正統」という観念自体なくて済む。
そうじゃなくて正統とはまさに「勝てば官軍」の逆なんだよ
敗北したにもかかわらずそこで無に帰すことなく残されてしまった
精神的か道義的か文化的か心理的か何らかの不条理感を
救済し説明し納得するためにもちだされる概念が「正統」なんだよ 正統争いをする連中は常に、自分こそが正統と標榜して、相応の理屈をつけるものだ。
それに、それらの理屈がどんなに正しいとしても、正しい理屈をつけた側が最後まで勝ち残ることはないしな。
それともなにか?
負けた側による自己憐憫の道具、オナヌーのことを正統とでも呼ぶのかね? >正統争いをする連中は常に、自分こそが正統と標榜して、相応の理屈をつけるもの
そうだな
>理屈がどんなに正しいとしても、正しい理屈をつけた側が最後まで勝ち残ることはない
そんな誰でも知ってることをわざわざ書いて、何か反論できてるような空気作り?
>負けた側による自己憐憫の道具、オナヌーのことを正統とでも呼ぶのかね?
そういうのももちろんあるだろうな 勝ってる側は自分の正統性に理屈をつけることに必死にはならん
負けてるからこそ必死に理屈をこねるもんだ
だから逆説的に、一見して正しそうに見える方が負ける。
勝ってる方は、勝っていることそれ自体が正統性の根拠たりえるから、わざわざ理屈をつけようとまでは考えない。
南朝は、敗者だからこそ理屈にこだわらざるを得なく、
北朝は理屈をこねるまでもなく勝者だったから、自分の正統性を主張するための理屈を作ろうという意欲を持たなかった
後の人間が、両者の理屈を並べて比べたら、北朝側になんの主張も見えないのは当然だな。
だが、その理屈は正統性の根拠にはなりえんのだよ。
理屈と膏薬はどこへでも付く と言ってな、負けて消え去った敗北者であろうとも、その正統性を主張する理屈などいくらでも作れるぜ!
って程度の意味しかないんだよ。
敗者の自己憐憫の産物が、たまたま数百年後に発掘されて再利用されただけといった方がいい。 多くの武士にとっては武家政権のほうが良いいのだから
朝廷直属の軍隊つくらないかぎり
武家政権側が勝つだろうな 後醍醐帝が天下とった時に一つに統一しておけばよかった >>166
いや、統一しようとしたでしょ
その施策があまり受け入れられずに反感買ってひっくり返されただけ。 光厳天皇と後村上天皇以降の南朝の天皇を天皇ではなかったことにすればスマートじゃないかな 後醍醐天皇は光厳上皇の姉と結婚
光厳上皇は後醍醐天皇の皇女と結婚
で血統統一しようとした、後醍醐天皇は >>168
後醍醐帝が廃位され島流しされてた期間の天皇として実働してた光厳天皇を外すなんて論外で、
南朝正統論の色眼鏡が反映されてるだけだぞ
光厳を外すなら古代の弘文天皇とかも外さないと片手落ちだ それと、後村上天皇はごく短期間だけとは言え京都を制圧して崇光天皇たちを正解から放逐し吉野へ拉致したわけで、
この短期間に関して、天皇としての実働を認めるべきだとは思うわけよ。
それ以外の期間には天皇とは認められないけどな。 >>170
光厳を外さないとなると後醍醐を無理やり重祚したことにしないといけなくなる
もしくは建武の新政を無視するか
やはり重祚した事実がない以上は光厳排除が妥当かなと思った それ以外の天皇については後小松が南朝の譲位を受けて改めて即位したわけではない以上、その皇位は誰から受け継いだものかというと
後光厳、後円融、崇光、光明とさかのぼるわけだよね
この流れが正統だと個人的に思う
弘文の即位は否定してもどちらでもいいや そしておそらく後醍醐が光明に渡した神器は本物だろうからね
神器のありかはどうでもいいが、後醍醐が光明に譲位したとするのが妥当
問題は
後醍醐→光厳→後醍醐→光明
後醍醐→光明
後醍醐→光厳→空位→光明
この中では光厳をなかったことにするのがいいかなと >>172
事実上は重祚じゃん、重祚じゃないと自称してるだけで。 全部読まんとレスしてた、すまん
>>174
朝廷を動かしてた実態としては後醍醐重祚以外は全て実態に合わない
幕府と戦って敗れた後醍醐は、幕府軍を恐れる朝廷の要人たちによって廃位されて遠流に処され、
当時皇太子だった光厳が即位して朝廷を主導したが、まもなく後醍醐派の勝利によって光厳廃位となったのが実態
この際に、正式な手続きをせず、自分は退位していなかったと強弁して光厳即位の事実そのものを無かったことにしたところから周辺事情が混沌と化していったんだろ
光厳が朝廷を主導していた時期に後醍醐が帝位を保持し得ていなかった事実を無視してはいけないよ。と宮内庁には言いたい >>172
重祚した事実を無理やり否定しようとしても意味ないぞ。 >>178
手続きはしてないだろ
光厳時代の公家とかを政界追放したりもしてるし、かなり無道な人 (鎌倉)幕府軍に負けて遠流に処された際には、退位の手続きをさせられていなかった可能性なんて無いだろ
それを、何の手続きも踏まずに、(自分が幕府軍に負けてから今までの人事は)全部無効と宣言して一方的に反故にしたんだろ >>181
後醍醐、後村上の頃には摂関家や西園寺家が兄弟で
それぞれ南朝と北朝に分かれるなど拮抗していた時期もある
公家社会を敵に回していたわけではない >>182
吉野側の公家は少数派だろ
南北両朝に別れた公家はいくつもあるけど、それは各家の継承争いが原因の場合が多いので、
北朝で居場所がなくてしかたなく吉野に行った人の方が多いわけ。
一家一門をあげて吉野側についた公家は、かなり少ない。
ましてや、朝廷の実務を動かす官人で吉野に行った人なんてほとんどいない。
公家社会を動かしていた人々の大多数は北朝支持だったわけで。(といっても、その基準が在京か亡命政府かという点に求められた場合のが多いんだろうけど)
少なくとも、後醍醐の政権運営が多くの公家に批判されたのは間違いない。
南朝の重鎮たる北畠親房も政権批判を書物として残したぐらいに多く、後醍醐に対する批判があった。 >>183
そんなことはない
摂家筆頭の近衛家や西園寺家では
当代の関白が後醍醐天皇に従って南朝入りしている
北朝方の公家だって光厳上皇や足利尊氏を褒めてはいない
園太暦を読むとどちらが都に取って代わるか分からない状況下で
都に残った公家たちが南朝を「南帝」と呼びその後も敬意を表していたことが分かる
親房は後醍醐天皇批判をしているわけではない え、親房は後醍醐天皇の政策の多くに対して批判と愚痴を書き残したじゃん 親房は原理主義者で頭が固く、そのせいで3上皇+萩原前坊を拉致したのに講和に失敗した。
これほど南朝に有利な交渉材料は無かったのに、西園寺寧子を担がれて全部パー。 >>187
少なくとも観応年間には開祖の後醍醐は死んでいた。
親房が現実路線に転換しても何の問題も無かった。
後醍醐は皇位を子孫が独占継承することと引換に、
政治を武家に委ねていれば時代に合った安定した社会が作れただろう。 >>188
足利の娘を中宮に立てて武家におもねる必要があっただろうがなあ
尊氏は娘の鶴王を崇光天皇の中宮に立てようとしていた
娘が若死にして実現しなかったが朝廷に文句言って
死後に崇光院后として従一位とと頼子という諱を与えてもらった
公家が「無位の人にいきなり従一位は先例がない」と言ってもお構いなし 鎌倉幕府→大姫入内工作
足利幕府→鶴王入内工作
徳川幕府→和子入内工作
幕府の創設者は娘の入内を指向するようです。 今は正統は、南朝だけです、自分の家系も南朝に奉公してた時期もあったみたいですが(800年以上前)、戦後しばらくまでは、高知県からまで行商人を装った密偵(ほぼそうだと思う)が来てました(実家は東北)、しばらく奉公もしてないので、今は見捨てられたみたいです。
カンのおもむくまま、独学で勉強したため、少しは、からくりが分かるつもりです(かなり複雑で普通の人にはまずわかりません)。
その奥深さに驚くと共に、真の日本の支配層には尊敬します。 >>193
あなたが信じる国は七百人近く前に滅亡して歴史から消え去りました
あなたが「どこにも存在しない国」の国民だというのであれば、
実在国家「日本国」の国民ではありません。 800年以上前に「南朝」につかえていたのか。どこの国の南朝だろうね。 800年前が1215年、鎌倉幕府が1186年ごろに成立してから30年ぐらい、承久の乱が1221年で、その6年前。
討幕準備を始めつつあった後鳥羽上皇の様々な行動にたいして幕府がまだ個別に対応してて動きのほとんどが水面下だった頃か
それより昔の南朝?
言われてみれば、すごく意味不明だ。中国の南北朝時代には、日本はまだ先史時代だしなあ 安徳天皇の系譜なら可能性はあるな。
薩摩に逃れたのを南朝と呼んだか? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まあ結局のとこ、天罰が下って滅亡して、子孫もいないわけだしな。
それでも100年ほどはゴキブリのごとく、しぶとい抵抗を続けてはいたけども。 今の天皇は北朝の血筋。
その北朝を否定する事は天皇制廃止を主張するに等しい。
今から南朝の天皇を即位させろとでも言うのか? 南朝正統論は天皇制廃止を目論む者に利用されてるのが実情。
今の天皇は正統じゃないから天皇位を剥奪すべきだと。
天皇制の存続を求めるなら明治政権の決定を覆して北朝を
正統と国会で決議して今上天皇の口から公表する必要がある。 安徳天皇は平資盛らに伴われて硫黄島に逃れた。
現地で天寿を全うし、崩御したのは1244年だったという。 >>207
偽神器しかもってなかった南朝が正統って太平記史観乙
空箱しかもってなかったのは後期北朝(後光厳〜)
南朝も正平の御一統までは偽神器しかもってなかった 9割以上、馬鹿の集まりの2ちゃんねるって聞きますが、ここもそうですか。 は?
俺は別に学者じゃないけど? そしてここは学界じゃないんですけど?
学者は正統性って概念をしっててもそれを価値基準にはしないから
左翼学者でも定年退職したら天皇から勲章もらって喜んでんだろ
別にそれはそれでいいと思うけど。
>>209の発言は俺だけど
それは>>207のツッコミに乗ってやっただけだw >>205 でも、北朝正統論になると、楠木正成の贈正一位はつじつまが
合わなくなるぞ。どうするのだろう? >>214
「一応北朝を正統にするけど南朝も王朝として認める。
楠木や新田などは南北朝の争いの犠牲者として尊重する。
南朝側人物への贈位等も従来通りとする。」で良い。 >>215 正成が贈正一位だけど、尊氏が贈従一位。いまさら、贈っても何だし、
正成の格下げもおかしい。北朝の大忠臣の尊氏の処遇をどうする? >>216
求心力のないヘボ政府こそが、そういう風に過去の人物に位階の追贈とかをやって人気取りするんだよね、
としか言いようがない。
今は、その種の位階追贈はしない。バカは無視しとけってな感じかと >>218 政治家の没後贈位については、関係者は気にしているが。 >>220 やはり、官位が逆転しているのはおかしい。尊氏に太上天皇にしておけば
いい。あと、北朝と南朝との差は北朝にインフレ贈官位をすればよい。 >>222
皇室領の荘園を分割して持明院統にも大覚寺統にも十分な規模の領地を持たせたから、
両統迭立なんてのが始まったんだよ
亀山を跡継ぎにしたかったなら、後深草にあれほど大きな領地を渡さなかったはずなんだ >>224
それゆえに北条から乗り換えて倒幕に走ったんだろ、筋が通ってるじゃん
中先代の乱の時には、自分自身の存亡にかかわる件だから、後醍醐の命令に従うわけにいかなかっただけ
それ以後、何度も関係修復を求めた尊氏に対し、降服以外認めないとか無茶ばかりいって対決姿勢を崩さなかった後醍醐の強硬姿勢がなかったら、大覚寺統が滅び去ることはなかっただろうにな。
後醍醐帝の子孫が滅亡した原因は後醍醐帝の失策に帰結する >>151
亀山院は恒明をゴリ押ししようとして結局自分の系統を混乱の上に断絶させる結果となった
もっとも恒明の系統を嫡流にしろという意味かまでは曖昧だが 傍流の傍流たるところは分裂を再生産する点
その意味でも大覚寺統は傍流の典型 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった どうして南北朝関連でも恒明親王に触れる書籍が少ないのかが不思議
彼の存在を踏まえてこそあの時代も一層劇的になるのに >>231
1つには、この時代を特に注目する人の多くが後醍醐正統説のイデオロギー汚染されてて実態を正しく見れてないとかでは?
研究者の本では、そういうのは少ないと思うんだけど、この時代を特に研究してる人が研究者の中には少ないんじゃないかと
森先生以外の本を読んだ記憶がないぐらいにレア? なるべくしてなったという解釈をしたい後醍醐信者としては妥協の産物だなどと思いたくもないわけか >>233
鎌倉時代末頃の足利氏って、たしかに本貫地は足利荘だけど、一族の多くは鎌倉で生まれ、鎌倉で生活してるわけだし、
足利氏の領地である諸国の荘園は極めて多数あり、その大国は代官を派遣するだけで、そこに自ら足を運ぶことは少ない状態。
足利一門の有力者たちの中には、足利の地に赴いたことのある人はいなかったんじゃない?
それに経済的には、足利一門の領有する荘園全体のうちに占める足利荘の比重は1%にも満たないわけだろ。
足利氏の当主たちにとっての足利荘の意味は、天皇家における三種の神器とかと大差ない、シンボル的な役割だったんじゃないかなあ。
足利氏傍流の家の多くが苗字の地としてる三河を筆頭に、美濃とか尾張、近江、あと丹波あたりとかの所領の方が、
少なくとも財政の面では足利氏にとって重要だったんじゃないかな。 とにかく母親の件もあって後宇多としてはあくまで恒明に皇位が渡らないための後醍醐の起用だったはず
ただし立坊以後の後醍醐が急速に力を付けてしまい後宇多系としての大勢を掌握してしまったのが計算違いだったか 公家たちの支持が割れたから長引いたんじゃないか、何を言ってるんだ。
公家たちの支持が一方に集中してたら幕府が口を挟む前に皇統が一本化されてたのに、割れて争い続けたから両統迭立になっちゃった。
そういう形で、持明院統支持の公家グループが確立された状態だったから、
後宇多(当時)上皇と対立した恒明親王は持明院統支持の公家グループを味方につけようとしたりして、第三極になったりもした。
(大覚寺統にとっての)状況を混迷化させていったんだよね
大覚寺統側の在位期間が長くなって苛ついていた持明院統側としても、大覚寺統側の早期退陣(譲位)を実現するための味方として、
恒明親王をそれなりに遇したわけで。
状況が混迷して行くにつれて大覚寺統支持の公家内でも票が割れていったし。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています