【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
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南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか? >>18
すぐに奪い返されたじゃないか。それに、三種の神器があっても前天皇の譲位、立太子または治天君の指名が
なければ天皇にはなれない。 >>10
伊勢斎宮のことかな?増鏡の記述に院との情事があったがかつてはこの院が亀山
とされていたがとはずがたりから実はこの院が後深草だとわかったんだよな。
>>20
いや、後深草が関係を結んだ伊勢斎宮とは別の姫宮と亀山院が関係があった。
「増鏡」で亀山上皇が関係を結んだとされるのは異母妹の懌子内親王(五条院)。
美貌の姫宮(後の五条院)のもとへ異母兄亀山上皇が通い、密かに姫宮を産ませ、
乳母に育てさせたとある。
一方、「とはずがたり」で後深草上皇が関係を結んだのが異母妹の元伊勢斎宮、ト子内親王。
二条の仲立ちで関係を結んだがすぐに仲は途絶えたらしい。
後深草も亀山も、それぞれ別々の異母妹と関係を持っていた。
父の後嵯峨からは有望と思われた亀山も晩年は可愛がっていた自分の子の恒明
を天皇にしようとしたり、息子の後宇多の嫁に手を出したりして大覚寺統にひびを
いれたり有害な存在になったんだよな。 >>23
恒明親王の母は権門(西園寺家)の出身で、もちろん西園寺家の希望があったからだろう。
後醍醐天皇が立太子できたのは母五辻忠子が亀山の愛妾になったからという説もある。
息子を即位させたい継子の希望によるものだったともされている。
後醍醐天皇が兄二条天皇の愛妾を自分の愛妾にしていたり、
後伏見天皇が父伏見天皇の愛妾を自分の愛妾にしていたり
この時代はそういう話が多い。 神皇正統記で後醍醐をdisり、手紙で後村上を幼稚呼ばわりする北畠親房は逆臣だよね。
江戸時代から昭和初期の政治状況が生んだ価値観だよ。>南朝は正統 南朝公家で唯一残った北畠阿野もさっさと北朝貴族になって後南朝弾圧
白河・菊池といった南朝方で勢力保持したものも北朝幕府にゴマすり初めて >>1
南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか?
単純に長幼の順でいうと持明院統(のちの北朝)。
しかし、正統な荘園(八条院領)承継の流れでいうと大覚寺統(のちの南朝)。
後嵯峨院の意思も、亀山以下の大覚寺統。
しかし、それで納得しない持明院統の後深草上皇が、
幕府に働きかけて「両統迭立」を実現させた、が事実。 後深草は、亀山の皇太子に世仁(後の後宇多)が指名された時、落胆して出家しようとした。
当時は後嵯峨上皇が生きていたからこの決定は絶対だった。ということで後深草自身には
そこまで強く自身の皇統にこだわりは無かったのが正解。
ではどうして出家も中止され、幕府を巻き込んだ騒動になったのか?
実は後深草に娘を入内させている西園寺家の意向が働いている。
娘の夫が院政を開けるか否かで、自身の生活が天と地ほど違ってくるから。
西園寺はこの時期武家伝奏だから、幕府に泣きつくアイディアを出したのは間違いない。 後嵯峨上皇の時代が朝廷が最後にきらめいた時だね。
1300年代に入ると荘園の浸食が進んで行く。
後嵯峨がきちんと「亀山に皇位と荘園を継がせる」と
明言していればその後の歴史は大きく変わっただろう。
時として人間を徹底して切り捨てることも必要だ。 後嵯峨は自分の責任じゃないとは言え簒奪者だから、
あまり強くは言えなかったんじゃないのかなあ。
天皇家の歴史は簒奪者の歴史でもある。
天武、光仁か桓武のどっちか、嵯峨(即位はしてたが事実上簒奪)、
光孝(望んでじゃないらしいが)、一条(これも本人の責任じゃない)……
これだけ長く続けば時々ごたごたがあるのはしょうがないけどね。 後嵯峨即位を決めたのは鎌倉幕府
後嵯峨が亀山の皇子を皇太子に定めながらも最終的には
幕府の判断にゆだねざるを得ず西園寺実兼が幕府を動かして
後深草の皇子を担ぎ出すと朝廷は何も言えず >>28
後嵯峨院の死去後大覚寺統(南朝)の後宇多(91代)まで皇位が行っていましたが、
1275年(建治元年)幕府の意向で、持明院統ののちの伏見(92代天皇)の立太子が決まりました。
このころ両統迭立時は、皇位そのものよりどの派から皇太子が出るか「立太子」の方が重要。
両派とも幕府の支持を得ようと、鎌倉まで競馬まがいの競走をしたらしいです。ww
>>29
極めて強いこだわりがあったから、抗議のために尊号返上や出家の意思表示を
したんでしょう?
こだわりがなかったなら、わざわざそんな行動はとらない。 >>29
後深草が出家しようとしたのは後宇多が皇太子に立った時ではなく
後宇多が即位したとき。
父後嵯峨院政期にはその存在は絶対的で後宇多が皇太子になっても
後深草は何の動きも見せず黙認していた。
父没後、弟の亀山が後宇多に譲位して院政をとる気配を見せると
兄である自分を治天にしないことに異議があるとして
出家の意思を鎌倉幕府に通達、初めてこれに抗議したってこと。 この辺りの事実関係を整理すると、
1259年後深草(持)強制退位・亀山(大)即位で両統分裂。
後宇多(大)立太子 1268年
後嵯峨院死去 1272年
後宇多(大)即位 1274年
伏見立太子 1275年 ←事実上の両統迭立の始り。
後宇多(大)退位・伏見(持)即位 1287年
持:持明院統のちの北朝
大:大覚寺統のちの南朝 を示す。 神戸市中央区の風呂谷部落は楠寺で切腹した
楠木正成の遺体に献花し、埋葬した功績により
後醍醐帝より摂津国内の花の専売を認められた由緒ある、部落です。
明治までその特権は続きました。
最後の弾佐衛門を生んだ、住吉部落とは婚姻を結ぶ事の多かった部落です。 >>28
どっちが正統っていうか南北朝分裂以前には
両統迭立の建前があるんだからどっちも正統でしょ。
どっちも皇位継承権を保持した皇族なんだから。
どっちが正統なのかって話になるのは光厳在位期間と
後醍醐の吉野遷幸以降だけじゃないの? >>38
その通りだと思う。
少なくとも光厳天皇在位時と光明天皇即位から後小松天皇までの
南北朝時代までは、その世の天皇は1人だったわけだし、 そういえば、博多の筥崎八幡宮に亀山上皇像を祀る社ができている
東公園にある像の原型になった木造像で
よみうりランドで公開されていたのを九州国立博物館で修理し
この度上皇と縁の深い場所ということで筥崎八幡宮で祀ることになったらしい
結構デカくて立派でしたわ
中共の力が増大する昨今何かしら思うものがあるな 顔貌は、南禅寺の法皇像を参考にして作られたと聞いたな
ttp://www.nanzen.net/about_image/rekishi_kameyama.jpg >>39
なにいってんだかわからんけど
特に後半へんだろ >>43
南北朝時代は南朝と北朝どれぞれに天皇がいて、天皇が2人いる状態
だから、どちらが「正統」とか?と言う議論になるだろうってことだろ。
それ以前は、2つの系統が交互に皇位継承しているにせよ。天皇が
1人しかいないから正統という話にならないと言うことだろう。 >>44
現存する北朝側公家の史料にも「南帝」という書き方があるから
二帝両立という認識でいたんだろう
絶対的にこちらが正統で生涯こちらにお付するという確固たる意志が
あったわけでもないってこと
官僚たちも時と場合により北朝についたり南朝についたりしてるしな 今の天皇が南朝系だから南朝を正統としたほうが合理的かな
明治維新の時に南朝系に摩り替えられている
薩長土肥の面々は南朝支持ばかり >>49
「天にニ日無く、地にニ帝無し」という言葉は中卒には難しいようだな。
話しを戻して、
荘園の継承でいうと八条院領の大覚寺統(南朝)、持明院統の長講堂領は後発。
三種の神器・保持でいうと南朝。これも祭政一致の中世社会では、意外と無視できない。
持明院統(北朝)は、幕府の後援を得たのが大きい。 当時の公家の日記では観応の頃にはもう南朝を朝廷とはみなさなくなっていたよ。
ぶっちゃけ南朝優位とかいっているのは神皇正統記の記事をを都合よく抽出した江戸以降の
国学者連中の仕業だろう。
無理に法則や正当性を定義したがるのは歴史研究の悪しき慣習というべきか。三種の神器も
院の指名も強引にこなして後光厳は即位したけどそれが原因で北から南に離反した人間なんて
公家に1人もいないじゃないか。
>>52
いや、観応の擾乱の時に足利尊氏が南朝後村上天皇に降伏して
北朝の上皇・天皇・皇太子が全員南朝に連行されてるんだが
それ以降も「園太暦」など当時の一級史料で南朝の天皇を
「南帝」と表現しているよ >>53
>それ以降も「園太暦」など当時の一級史料で南朝の天皇を「南帝」と表現しているよ
北朝天皇のことをどのように表現しているかで、南帝という表記の価値は大きく変わってくるよ。
もし北朝天皇を北帝などと書いてたのならともかく、
今上とか帝と書いてるのなら、南帝という表記は「正統ならざる地位」という意図を含むことになる。 >>54
「帝」という言葉自体が天皇を表すってことだよ。
東京は東の京と書くから首都ではない(京都が本当の都)、
みたいな屁理屈だな。 たとえば。「一天両帝」と記された場面では、南北朝並立というニュアンスで記されているわけで、
北朝正統という意図を読み取るのは、この語句だけからは不可能だ。
だが、南帝という語句に関しては、北朝正統という意図を読み取れないとは言えない。
むしろ、正統ではない天皇が存在していて不快、みたいな意図を読み取る余地すら否定できない。 >>56
後村上天皇が正統とされたときでも「南帝」だったんだから意味ないだろ。
後醍醐天皇が隠岐に流されていたとき、都の公家たちはこぞって「先帝」と書いた。
で、「先帝」と書いた都の公家たちは後醍醐が帰ってきて
「正統ではない天皇が存在していて不快」と思ったわけか?
そのときの都合でどうにでもなるって話。
逆に、南朝の天皇を将軍や先帝とかかずに現役の帝と書いているのが凄い。
隠岐にいる後醍醐を都の公家は完全に廃帝扱いしてたからな。 後村上天皇の御製を拝読したてまつれば吉野朝の正統性がわかろうぞ
四方の海波も静まる印とて三つの宝を身にぞ伝ふる
高御座帳かかげて橿原の宮の昔もしるき春かな >>58
先帝は先帝
形式上は、隠岐に流されていた間の後醍醐帝は廃帝/先帝で間違いない。
京都に戻って重祚したと解釈せざるを得ない。
後醍醐帝自身は退位した(させられた)事実を無かったことにして、
重祚ではないと強弁したけど、それは実体を伴っていない、いわばウソ。
まあ、公家社会では、あの重祚(名目上は重祚ではない)によって、
後醍醐帝が再び正式の天皇になってるから、「正統ではない天皇が存在していて不快」と思った公家はいないと思う。
>後村上天皇が正統とされたときでも「南帝」だったんだから
幕府が後村上天皇に帰順した際も、公家社会全体が南朝を受け入れたわけじゃないし。
というかむしろ、公家社会としては、京都を支配している方が正統って感覚では。
後村上帝は入京したっけ? >>52-53
北朝公家の南朝への離反は、皇位の正統性よりも自己の官職や所領を巡る争いに由来するから、それはあまり意味がないな。
>>33
競馬騒ぎは正中の変後 >>59
後村上以下の吉野在住の公家たちが京都に帰りたい和歌を詠んでるから
本音ではもう自分たちの負けでいいと思っていたよ。 >>64
それは勝って帰るつもりだったんだろ?
それじゃなければ、4回も(結果的には役に立たなかった)京都占領なんてやらないから。 >>61
北畠親房が元弘の乱の後醍醐同様官位や所領問題のちゃぶ台返しを強行しようとするから
正平一統は失敗した。(そもそも正平一統なんて歴史用語として存在している意味なんかないだろw)
公家社会(もっと言えば寺社勢力)としては京都支配もさることながら崩壊中の荘園支配を支えてくれる事が何よりも大事だろ。
南朝の機構では本所復活の徳政どころか、半済ですら無理だろう。
>>65
いや詠んでいるのは帰るのが絶望的な状況の時でまさに望郷そのものだから。
正平一統以外の占領は山名、細川など幕府内部の直義派や尊氏死後の権力抗争
ではぶられた連中がしているだけでもう南朝上層部は応仁の乱時に引っ張り出された
後南朝の末裔と変わらんレベルだよ。 >>64
和歌史方面の研究で、後醍醐・後村上の代には還京を切望して詠んだ歌が多いが、
長慶の代に入ると吉野を都として追認するような歌が現れる、という分析があったな。
君すめばここも雲居のよしの山なれてぞみつる花のさかりを(阿野実為) 南・北朝、特に南朝の存在意義がよくわかりません。
北朝には大方の公家も従っているし、幕府の後援もあります。南朝との差は歴然です。
それでも南朝は、南北朝合体(1392年)までそれなりの存在意義があったんですよね!?
はたまた「後南朝」なんてのもありました。このあたり、うまく説明できる方お願いします。
足利兄弟が喧嘩を始めたのがすべての元凶、と言うのは極端だが
喧嘩の原因が荘園の本所の権利回復をどうするかの方針にあることは確実。
蒙古襲来以前から弱肉強食の経済原理がまかり通るのが鎌倉中期の日本の
現実で荘園の所有者が流動化してそれまでの家格などの秩序が崩れだした。
武士でも公家でも庶流でも嫡流に取って代わろうとする下克上が珍しくなくなって
きた。分裂、抗争が当たり前の時代になったのだから担ぐためのシンボルも分裂しだした。
ついでに言うと応仁の乱以降は将軍も分裂したよ。 >>70
まずは自分たちの利益を尊重してくれる人間を担ごうとするし、
担がれた方も担ぎ手の利益を守ろうとする。
次に担がれた人間に自分たちの利益を守る力が無い時、少々怪しくても
自分たちの意になる人間に挿げ替えようとする。
最後には自分が直接政権を奪取する。
南北朝期は上で言う第二段階だった。 持明院統と二条派、大覚寺統と京極派の組み合わせなら
面白かっただろうにね。 「吉野朝の悲歌」が京極派調で詠まれていたら新葉集は日本文学史上に
得意な地位を占めていただろう。 二条派のほうがオーソドックスかつ優勢だったように大覚寺統の方が
本来有利だったのに・・・なぜこうなった。
権力亡者の後醍醐のせいか、女狂いに走った亀山のせいか、
密教にはまって院政を止めてしまった後宇多のせいか。
>>74
後二条天皇早世がターニングポイントでしょうな。
後二条の皇子がまだ幼かったために後宇多はやむなく後二条の弟後醍醐を
臨時的に即位させた(→後二条の系統に皇統を返す約束だった)。
しかし、本来大覚寺統の傍系であった後醍醐が持明院統はおろか
自分の兄である後二条の系統も無視してわが子に皇統を伝えようとしたことから
大混乱に陥った。 大覚寺統の方が有利だったってのは、単なる「従来イメージ」のような気がしなくはない。
むしろ、非主流派ゆえに色々と悪あがきする中で力を付けた気がする。 >>76
後嵯峨天皇は生前、後深草の系統を断ち切って
亀山を天皇に、その子後宇多を皇太子に定めて死んだので、
この時点では亀山の系統(大覚寺統)が正統だ。
しかし、亀山は西園寺家の后を冷遇したために西園寺家と不仲になった。
起死回生をかけた西園寺実兼が関東申次の座を利用して鎌倉幕府に図り、
後深草の庶子(伏見天皇)を皇太子に立て、自分の娘を伏見天皇の中宮に差し出した。
西園寺実兼の入れ知恵がなければそもそも持明院統は成立しなかった。 先日、河原町から南下して京都の街中をぶらついていたら、「長講堂」を発見した。
南北朝対立の遠因でもある史跡なんで、妙に感動してしまった。 >>78
長講堂って、元は今の京都御所にあった筈
京都御所の元になった里内裏の土御門東洞院殿の隣にあったのだが、
土御門東洞院殿が御所として固定化されたために室町時代初期に拡張工事が行われたために立ち退きになった筈。
土御門東洞院殿を御所として固定化したのは、光厳院だと言われているから、いろんな意味で北朝と縁が深い。 >>79
長講堂がもともとあった場所は六条西洞院だよ
もともとは後白河法皇の院御所六条殿の中に設けられた持仏堂
現在も後白河法皇の念持仏を所有
後白河法皇は六条殿で亡くなっている
豊臣秀吉が洛中改革をした際に現在の寺町通に移転した
土御門東洞院内裏(現在の京都御所)とは全く場所が違う 亀山院も最後には色ボケして、末子恒明親王を帝にしようとしたからな。
西園寺を宥めるためとはいえ、情けないことだ。 それも間違い、
1207年の火災で六条にあった長講堂が焼けた後に一時的に土御門東洞院殿の南隣の場所に移転して六条の長講堂が再建された後も当該地区の土地と建物は長講堂の所有だった。
1401年の火災後の土御門東洞院殿の再建の際に足利義満が長講堂から土地を接収して南側に土御門東洞院殿を拡張した。 >>81
晩年に寵愛した若い妃に色狂いして末子を天皇にするなんて
鳥羽上皇(第八皇子を即位させ近衛天皇とする)
後白河上皇(第六皇子を即位させ高倉天皇とする)など大勢いるじゃん
むしろ天皇家のお家芸 >>84
院政時代になって初めて出てきた例だよね。
上皇になってから生まれた子供は、本来天皇になれないはずなのに。 >>81,84
そもそも、両統迭立のきっかけを作った後嵯峨自身が。
そして同様の意図を持った亀山・後宇多は意図をくじかれて逼塞する。
大覚寺統の初代である亀山即位の例は、結局は引き継がれず、否定されたわけだよな。
>>86
後深草と亀山は同母兄弟で、かつ母は中宮だ。
ちょいと亀山の例とは異なるだろう。 >>86
亀山の母は後深草の母と同じで、後嵯峨晩年の子ではない。
中宮腹に男子が2人以上いた場合、兄弟相続するのは普通だよ。
亀山は弟の系統であったために即位は否定されたというが、そもそも弟の系統が残っている例も多い。
朱雀天皇(兄)・村上天皇(弟)・・・弟村上天皇の系統が残る
後一条天皇(兄)・後朱雀天皇(弟)・・・弟後朱雀天皇の系統が残る
崇徳天皇(兄)・後白河天皇(弟)・・・弟後白河天皇の系統が残る >>75
そこが南朝を好きになれない理由の一つだな
後醍醐は後二条の木寺宮家に皇位を譲れば印象が変わってた 後宇多が後二条亡き後、後醍醐に帝位をまわしたのが大覚寺の運の尽き。
後醍醐が後二条の系統の皇子を養子に取ればまだよかったんだが、
院政を否定した以上この解決策も実行不可能。
突き詰めて言うと、大覚寺統後醍醐流vs持明院+その他大覚寺だったわけで、
それを五分の勝負に持ち込んだ後醍醐を立派と言うべきなのか??? >>90
後醍醐は武力で既成概念を打ち破った
これまでの天皇家の二朝分裂や兄弟の礼といった従来の枠から飛び出して
新王朝を打ち立てたに近かったんだと思う
自分が建武新王朝初代だから2代目は自分の子が就くで問題ない
まあ、兄の遺児が即位できなかった例というのは後醍醐以外にもあるしね >>91
建武という年号を立てたのも、新王朝を意識してるのかもね。
後漢の劉秀も王家の一族だけど傍流でありながら天下を取った。
後醍醐の意識の中に劉秀が居たのは間違いあるまい。 >>90
後醍醐も後院を設置しているから、いずれ院政を構想していたことは確か。
ただ、建武政権が早期に崩壊したために譲位するタイミングを逃しただけ。 院政と言うのはあくまでも後継者を定めるのが最大の目的だからね
勿論、実権までを譲り渡すなんて論外。 >>93
延喜・天暦の時代を理想として生きたのだから、天皇親政を貫きたかったのでは?
>>95
そもそも延喜・天暦は自己正当化のための主張だと思うけど >>96
天皇大権を阻害する摂関を排除する口実だから、
当然に院政も否定することになると思う。 院政は皇位と天皇家の家督が分裂した状態。
家督掌握者が、意中の親族に皇位だけを譲った状態が院政。
莫大な荘園を抱えていた頃は国家を動かす権力を持っていたが、朝廷の権威が落ち、武家政権に養われるようになるとその権限もコップの中の嵐みたいなものになった。 神戸の後醍醐天皇行在所
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。
境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、
明治後合併廃寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりました。
また〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されています。 >>98
そりゃ違うだろ。
家督は院のほう。
天皇が家督を保持していない状態が院政。 >>100
>家督は院
>>98も同じこと書いてると思うが? 大覚寺統にしても長男筋は後醍醐天皇ではなく、
後醍醐天皇は執拗に彼等に干渉し長男筋を皇位につけないようにした。
だから大覚寺統でも長男の方は北朝方だった。 >>103
そもそも大覚寺統の始まり亀山天皇は第七皇子だぞ
ちなみに持明院統の始まり後深草天皇は第四皇子だが
どっちも長男系ではない >>103
後醍醐天皇の異母兄、後二条天皇の中宮は名門徳大寺家の出身だったが、
不仲のため別居しており、後二条天皇は徳大寺家からの支援を受けられなかった。
後二条天皇の遺児邦良・邦省親王は、典侍五辻宗子との子。
五辻宗子は後醍醐母五辻忠子の姪で、宗子の父は後二条天皇の在位中に死亡、
邦良・邦省親王は外戚の力も弱かった。 >>105
だが、邦良・邦省親王らは祖父である後宇多上皇の強いバックアップがあったぞ。
その対立で後醍醐帝に敗れたことで力を落とし、失意のうちに衰弱死したとまで... >>106
邦良親王はもともと虚弱体質
後宇多は邦良親王を大覚寺統正統と考えていたとも言われるが、
持明院統に対決しうる強い帝王が誕生するならば必ずしも後醍醐を否定していなかった。
後宇多は両統迭立の上限である10年を超えても退位しない後醍醐を咎めることもなく、
皇太子邦良親王(この時期、天皇も皇太子も大覚寺統だった)への攘位を強要することもないまま没している。 >>107
もうこの頃の後宇多は密教三昧で政治からは遠のいているから
なあ。なにより譲位がいやで討幕運動を起こしたことが後醍醐
の立場を一番良く説明している。 >>108
後醍醐が討幕活動してたときの皇太子は持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)
邦良親王に譲るのが嫌で討幕志したわけではない(邦良親王はすでに死亡)
日本の歴史上、天皇家が権力闘争して兄系から弟系になったことはいくらでもあるし
後醍醐だけが特殊だったとはいえない >>109
邦良だろうが、量仁だろうが、一旦譲位をしたら自己の子孫が皇位を継承する可能性が限りなく低くなると言う点では何ら変わりがない。 まあ後醍醐は譲位したはずの新田に同行した恒良の皇位をさらっと
否定しているから自分のことしか考えていないかも。 >>110
我が子継承を優先したという点では歴代すべての天皇がそうだろ
願いがかなったにしろ叶わなかったにしろ
皇統をたがえたという点では(当初予定されていた通りに皇位を継がせなかった)
白河天皇、桓武天皇、天智天皇、後一条天皇・・・たくさんいるぞ
傍系相続など天皇家では当然のことで自分の子に皇位を望まなかった天皇など一人もいなかった まあ、そうだな。
しかも、中世には幼少期に即位して、自分の意思に関係なく皇太子を決められてしまった(または譲位させられた)ために、
別の実子を後継者にしようと目論む天皇や治天は多かったよな。
鳥羽上皇(近衛を避けようとした)とかさ。
それが大覚寺統では特に顕著で、ほぼ全員が問題を抱えていたみたいだな。
だからさ、
「いつの時代もそうだった」みたいな大雑把な括りしたら学問にならんじゃんよ
自分のやりたいように出来るか出来ないかってのは100%か0%じゃなくて
その時代や環境によっていろいろ微妙なあわいが生じるだろ
そのグラデーションの中に差異があるわけで >>114
スレの流れ見てる?
「我が子継承を願った後醍醐は特殊で異常な天皇。そのせいで天皇家は分断。
だまって兄の子なり持明院統なりに帝位を譲るのが正常な天皇」
が正しいとはいえねえぞ?
後醍醐以前の持明院・大覚寺の各天皇の熾烈な帝位争いを
無視するのは無知な証拠。 >>68
ミヤコ(都)の語が面白い。
住めば都は冗談にせよ、ミヤコは天皇のいる空間のはず。
ところが後村上ほかの歌では、都は吉野や賀名生ではなく、明らかに京都を指している。
少なくとも後村上にとって、京都は帰るべき土地であり続けた。
今谷明先生は「中世の天皇は基本的に京都にいるもの」と喝破しておられた。 >>76
案外、大覚寺には正統性への不安があったのかも知れない。
鎌倉後期の勅撰集は、大覚寺が4、持明院が1だが、後宇多は2回も編ませている。
これは大覚寺統の不安が背景にあったかも知れない。
後光厳が2度も勅撰集を編ませたのも、崇光を押しのけて王位を継いだという不安があったかも…?
まあ二十一代集が新葉集を数に入れないことが何よりも北朝正統論を象徴してると思うのだが。 >>72-74
おそらく黙殺に近い扱いを受けていたと思われ。
江戸時代まで、京極流和歌は受けが良かったわけではない。
近代になって土岐善麿(哀果)が再評価するようになっても、一部識者の愛好の域を出ない。
「吉野朝の悲歌」とは言っても、後世の我々が勝手に望むような戦いの歌なんか無い。
和歌は、心を落ち着けるもの、神仏に祈るものではあっても、殺戮を賛美するようなものではなかった。
京極派も得意としたのは風景を詠むことで、その点では定家の流れ以外の何者でもなかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています