>>28
後嵯峨院の死去後大覚寺統(南朝)の後宇多(91代)まで皇位が行っていましたが、
1275年(建治元年)幕府の意向で、持明院統ののちの伏見(92代天皇)の立太子が決まりました。

このころ両統迭立時は、皇位そのものよりどの派から皇太子が出るか「立太子」の方が重要。
両派とも幕府の支持を得ようと、鎌倉まで競馬まがいの競走をしたらしいです。ww