【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
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南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか? >>398
呉第五と立川流のかかわりは有名だけど、実は直接的な史料はなかったりする
真言立川流とかかわりが深いとされていた文観を護持僧にしていたから、類推でそう言われてるだけで
まぁその文観自身も立川流と本当にかかわりがあったのかも確証がないんだけどね
文観に関してもそれっぽい史料が、高野山の衆徒が文観を口汚く批判したものぐらいしかないし 「太平記」に、後醍醐天皇たちが倒幕計画を話し合った時に、
烏帽子を脱いで髷を解いて、裸同然になって、これまた
裸同然の少女たちをたくさん侍らせて乱痴気騒ぎをした
ということがあります。
エロいね 謀略の中身としては鹿ヶ谷と大して変わらないだろうな 「建武の新政」って、元寇で鎌倉幕府の権威が失墜して
その結果として成立した(実現した)って聞いたんだけど
それで合ってるの?素人質問ですまん。 さすがにそれは正しくない
幕府が倒れたことと元寇の影響とが関係するとこまでだけあってる
だが元寇の以前も以後も、幕府の権威が朝廷を上回ったことがあるわけではないし 朝廷は幕府に軽んじられてはいたよね。
餓死した天皇いなかったっけ?幕府に無視されて。
なまぐさい後醍醐天皇はちょっとね。
やっぱり白拍子といっしょに歌の本作っているのが気楽でいいよね。 元寇から後醍醐天皇の倒幕運動まで何年の開きがあるかわからん奴がいるようだな。
もしかして元寇の時に後醍醐がすでにいたと思っていないかね。 1.元寇の対策のために、それまでは幕府の指揮権に浴さなかった独立の(というか、朝廷の下というか)勢力の方が多かったところ、
幕府麾下でない全国の過半数に及ぶ武士や加持祈祷を行う自社への命令等まで幕府の影響が及ぶようになって権限が拡大した
ところが、それらすべての勢力を適正に保護・統制するほどの能力を幕府が持ち合わせてなくて、幕府の限界が露呈することになった
2.元寇対策の関係で朝廷内の重篤な派閥争いに対して強硬な処断を行えず、敗者をなだめて将来的復権を期待させる形に持っていく必要が生じた。
その結果が両統迭立の始まりであり、それをズルズルと続けた結果が後醍醐出現の原因となった
どっちも元寇の影響じゃん じゃあ江戸幕府が倒れたのは寛政の時代にロシアが来たからでいいね 風が吹けば桶屋が儲かる、程度の密接とは言えない程度の関係があるって言っただけなのになんでそんな執拗に否定したがるんだよお前ら。 鎌倉政権のうち元寇はおおよそで2/3くらいのところ。
元寇からまだまだ持ちこたえているんだからこれが鎌倉政権の弱体化のきっかけではあるが、
決してそれが全てであるとは言えないだろう。
江戸幕府にとっての天明の大飢饉くらいの位置でしかない。 >>414
それがすべて、みたいなこと誰も言ってない
あえていうなら、405に怪しい与太話を吹き込んだらしい知人とかいう人ぐらいだろ >>406
天皇の代替わりと人選を幕府にお伺い立ててなかったっけ 朝廷と幕府の不幸なスレ違いの結果だと思うけど、朝廷から幕府に働きかけて皇位継承に関わらせてたんだよな
承久の乱で倒幕を主導した3上皇の復帰を強く恐れる幕府が、
最も有力だった忠成王(仲恭天皇の異母弟)の即位は実父たる順徳上皇の復帰に直結するとみて恐怖して、
幕府自身の存亡をかけてでも阻止しようとしたんだよな
そのときの幕府の強硬な働きかけが朝廷内で(特に後嵯峨天皇らの中に)トラウマとして残ったことで、
幕府が皇位継承に関与する下地ができた
それ以後は基本的には、朝廷内で解決できない揉め事になったときか、劣勢な側が乾坤一擲で幕府を説得して支持を求めるかした場合にしか、
基本的には幕府からの干渉はないはずだよ。
といっても、後嵯峨没後幕末までの皇位継承のすべてで幕府が関わってる気がするけどw >>421
さっきのNHKのニュースでは、東大寺燃えてるみたいです。 >>420
土御門上皇という名はやはり通親の子ではないのかという暗示か とにかく後嵯峨が明確な後継者指名をしなかったのが大きい 上皇になってからの時代に、里内裏の場所で○○殿などと呼ばれて、
その呼び名がそのまま上皇としての名前になるパターンか、土御門帝って。
安倍氏末裔の土御門の苗字は、もっとあとになってつけられたものだから、
土御門帝の名前の来歴には関係ないね。
でも別系統の土御門氏の名前はすでに存在してたっけ?記憶がない 問題の通親は村上源氏
とにかく当時としては順徳系が後鳥羽の嫡系と認められていた模様 過去に在位していた元天皇との血縁が近いほどいい(直系が大前提なのはもちろんだが、世代が近いほどいい)
として皇位継承候補の皇子をピックアップして、同じ代なら在位期間が新しい天皇の子孫の方がいいとピックアップしたら自動的に順徳の子孫になっただけだろ
嫡系かどうかを考慮してたかどうかは不明。
で、順徳の子孫だと、当時まだ存命の順徳を帰京させる公算が高いと認識してたし(だって、儒教的なものも含め、赦免しない理由がないはずだと考えられたわけだから。)
なし崩し的に順徳の院政が始まる可能性があると、幕府側は恐怖していたはずだよ
こんどこそ倒幕が現実のものとなるのではないかという恐怖から順徳排斥に動いたはずだ。 明治時代に
吉野遷都が教科書にのらなかったのはなぜですか? 吉野遷都なんてなかったからさ
ぶっちゃけ南朝正統説の立場から見ても行宮に過ぎない吉野には遷都してなどいないんだからさ
遷都と言うからには造都して、吉野を皇都として整備したことになっちゃうよ
そんな整備された都など吉野には作られたことがない。 持明院統と大覚寺統にはそれぞれ当主的な存在はいたの? 福原も遷都じゃないんだけど、それでも吉野と違って最小限度ながら都市っぽかったんじゃなかったっけ?
>>439
いた
それぞれの当主(みたいなの)のうち、自派の天皇を出してる側が治天だ。 >>440
福原は遷都だよ
安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇、みな清盛が連れて行った
当然、整備された都城制の都などなかったわけだが 宮は移ったが都を作ってないんだから美也子が移ったとは言えないだろ
新都を造営してないのに遷都とは呼べないよ 遷都は天皇の遷都の詔が必須なのでは? 古代はようしらんけど藤原京〜平安京はあったでしょ。間違ってたらスマン。
ちなみに明治の場合は東京遷都と言わず「東京奠都」て言うよね。あれは遷都の詔が無かったからでしょ。
東京奠都
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A5%A0%E9%83%BD >>443
では、福原は何だったのか?
行幸かい? >>443
なんだよ、その理屈はw
じゃあ、明治2年の東京遷都も遷都とはいえないというのか?
江戸には都城制の都はなかったからね
江戸城とそれを取り囲むように大名や旗本たちの武家屋敷があっただけ >>448
遷都を示す詔や勅やその他の行政文書を出さなかったからなあ
とはいえ、政府を支える行政官を完備した点、福原や吉野の不完全さとは隔絶してる
文武百官を整備した東京政府は遷都の条件を満たしてるではないか 遷都に詔が必要というルールが現在まで生きているとは限らんだろ
次の遷都のときに詔が出れば、東京へは遷都ではなかったとなるけど いや、首都を東京に移す又は東京を首都と定める旨の太政官符も法律も政令も何も出されたことがないって事だよ
東京が首都であることを前提として何かを定める法律とかはたくさんあるようなんだけど、奇妙なことだ。 東京が首都であることが奇妙なんじゃない。
首都を東京都定める法律なり布告なりが存在しないことが、それなのにいつの間にか東京が首都であることが明示されているかのように扱われるようになったことが奇妙なんだ。
いつそれが確定したのか分からない。奇妙じゃないか。 室町院領の伝領がどうなっているのか非常に分かりにくい
宗尊親王が早死にしたのが皇統分裂にとどめをさしたのではないだろうか 吉野や五條はあくまでも仮の皇居で、南朝は京都奪還を目標としていたからな。
都を移そうとした福原とは違うと思う。 南朝の行宮の中でも、有力寺社が存在した
吉野や住吉、河内天野などは理解できるが、
何もない賀名生だけは理由がよく分からない 負けて逃げ延びた先なだけじゃん
辺鄙で追撃しにくいトコに逃げ込んだ、それが賀名生 南朝の生き残りたちが吉野に逃げるんだけど、具体的にはどんな生活してたんだろう?そういう死霊はまったくないんでしょう?
誰が世話をして、誰が金を出して、どんなところに住んで、どんな人とXXしてたんだろう? 賀名生がいくら辺境とはいえ幕府が本気出せば攻め込めたでしょ
放置したのはそれなりの理由があったんだろうな >>259 : こんどは男朝と女朝で分裂か。
ありえない
仮に女朝になったとしたら、その時点で天皇家は天皇家ではなくなる。
たとえ天皇家を名乗ったとしても有名無実のただの家として存続するのみ。 >>462
どうにか平和的に(笑)降伏させて両統迭立に持っていきたいという非現実的な目標を持っていたらしく、
武力での殲滅だけはやりたがらなかったらしい。アホなことだが。 >>463
アホウヨw
じゃあフランク王国以来のサリカ法を廃して女子相続を採用したオランダデンマークノルウェーベルギールクセンブルクで王位についてる奴らは何なんだ?ありゃ王家じゃないのかw >>465
横レス失礼ですが、日本語をきちんと理解してからレスした方がよろしいですよ。
>何なんだ?ありゃ王家じゃないのかw
>>465
横レス失礼ですが、日本語をきちんと理解してからレスした方がよろしいですよ。
>何なんだ?ありゃ王家じゃないのかw
>>463が書いていますよね?
>たとえ天皇家を名乗ったとしても有名無実のただの家として存続するのみ。
と。だから>>465があげられた国々は勝手に名乗ってるだけの、何の価値も無い家という事でしょう。念のため
に言っておきますが、どういう価値観が良いか? って事を論じてるわけではありませんよ? 彼、>>463の言葉
の意味合いを理解した上で投稿したほうが良いと言っているだけですから。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 宗尊親王が早く死にすぎたのもねえ
北条に暗殺されたんじゃないか >>470
ありうると思う
蒙古襲来という国難を前にして、
名越に接近する反得宗家の前将軍の存在が邪魔だった
結局、文永の役の2か月前になくなった 得宗家という呼び方自体が本来は嫡流家ではないというニュアンスを暗示させ権力的な強さと共に権威的な弱さをも匂わせている
亀山や後醍醐が目指したのはまさに自流を皇室内の得宗家とする事だったか 亀山として明確に恒明を自分の正嫡としたかったのが本音だったろうが流石にそこまでは公言出来なかったという感じ
とにかく将来での可能性は作ろうといったところか 伏見宮家ができた原因は正平一統のときの南朝がわの行動にある 神器を持ってるのが正統に決まってるでしょうが。
そもそも、大覚寺統というのは、兄である御深草天皇とケンカして絶縁状態になった
亀山天皇の孫(後醍醐天皇)とつづく3代の天皇が大覚寺という寺を支援していたというだけのことであって、
連綿と続いた皇統には何の影響もありません。
兄弟げんかがひ孫の代まで続いてしまい、互いが支援する寺の名を借りて競い合ったというだけの話です。 わかりやすく言うと日本列島、
この島が形作られたときから、住んでいる人なの?
それとも渡って来た人なの?
精神病患者が言うには、
島が出来たときからの住人だという話 それと中華思想、天子でしょ
『天子神璽』
あと、ふなっしー?船氏など? 専門家に聞いたほうが良いと思う
タケミカヅチ・・・天皇家=藤原氏とか、
よくわからない話 >>480
大覚寺というお寺を支援した亀山天皇の皇子たちのことであり、今の皇統と別の皇統などではありません。
亀山天皇に譲位した後深草天皇の皇子が持明院というお寺を支持したのと比較して、大覚寺統と呼ばれますが、
後深草天皇は、正式に亀山天皇に譲位していて何も問題はありません。
あえて言うなら、後醍醐天皇が、父上皇との約束を破って地位にしがみついてしまったことで、
他の皇子たちとケンカした状態が4代もつづいたことくらいですが、
ちゃんとお孫さんの代で仲直りして(うわべだけですが)、皇統をつなげることができたので、めでたしめでたしです。
ちなみに、大覚寺統の天皇たちも、持明院統の天皇たちも、どちらも今上天皇のご先祖天皇の皇子たちです。 それで?神代と言うのは?
頭の病院には行ってきたの? 実際は、お前の事なんて知らないんだけど?
このような人ばかり 神器に政治的比重を置いたのは南朝派
何故なら血統的には劣勢なのが明白だったためで後醍醐が最後まで天皇であり続けた一因でもある >>484
現皇室は持明院統の天皇の子孫ではあるが大覚寺統の天皇の子孫ではない
現皇室の祖先の親戚でしかないよ
皇統分裂後の大覚寺統の子孫から持明院統の方に合流するような婚姻はない。
それに、後醍醐帝が隠岐や吉野にいた時期には神器を持ってない。
渡した神器は偽物で本物は自分の手元にあると嘘を言っただけだよ
正平一統のときに京都占領に乗じて神器を入手するまでは、
吉野には本物の神器はなかったんだよ まあ後醍醐としては神器でなく自分自身に一番の価値があるというのが本音だったんだろうが >>489
後醍醐天皇の論としては、 神器は武家に脅されて盗まれただけで譲位詔書は無効なり
神器の所有権は朕にあり、皇位も朕にあり ということだろうな
今の法律でも脅迫による契約は無効、盗まれても所有権は被害者のものにありとなるはず
だから筋は通ってるよ
もっとも建武の新政は失敗したんだから、おとなしく足利に政権委任しとけば天下「太平」
になったのにと思うが 武力行使を禁止してる現代だから違法なだけで、
自力救済原則の中世には武力行使は合法なのにな むしろ自力で守れない奴こそが悪い
だからこそ非力でも自力で戦っていた南朝が一目おかれていたとも言える >>491
後醍醐天皇は神器を奪われることなく最後の最後まで守り抜いて、ちゃんと皇子に
伝えてから崩御したのだからそんなふうに思うはずはないでしょ。何を言っているの? >>489
持明院統も大覚寺統も等しく今上天皇の先祖の天皇たちだよ。
北朝は、足利によって一時的に形式上おかれただけであって、皇統には数えられていない。
神器はちゃんと正式に今上天皇まで受け継がれてきた。
4代前の天皇兄弟のケンカのせいで、4代もあいたけど、
孝徳天皇も3代あいた即位だし、継体天皇は5代あいている。
何代あいても男系を守ってさえいれば今のところ問題はない。 そもそも持明院統とか大覚寺統というものが実際に存在したわけではなく、
御嵯峨天皇の皇子二人が喧嘩をして一時期それぞれ持明院という寺と大覚寺という寺を支援した
だけの話です。
今上天皇は、持明院統の子孫というわけではなく、天皇家の子孫なんです。 東京行幸、つまり二都構想とは全く違い、
難波宮への遷都は、645年の孝徳天皇の詔に基づくものであり、正当な遷都です。
ただ、孝徳天皇は姉らの改革に協力させられただけで、まったく実験もなく、
それゆえその都は完成と同時に用済みとなり、再び姉の宮に遷都されました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています