【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
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南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか? >>497
両統それぞれが家産を別個に継承するなど、明らかに別々の家に別れてたように見えるが。
それどころか、少なからぬ貴族が片方にだけ仕えるようになるなど、
家なりの規模で別家に別れてると思う >>503
明け渡した神器は偽物だ本物は今も自分が持ち続けてるなどと強弁しはしたが、
実際のところ吉野に逃げる前に神器を奪われてるのがほんとのところだろ まあ後醍醐の本音としては俺が持ってるから本物なんだなんだろうな
価値があるのは神器じゃなくて俺自身なんだと >>503
>>504
万世一系ウィルスに脳が冒されるとこうなる、という典型のような症状ですね。お薬はきちんと飲んで養生してくださいね。
はい次の方どーぞ この時代はウジからイエへ社会組織の基底が移っていった時代だと言われているけど、天皇家もその例外ではなかったということかなあ。
王氏というウジから持明院家や大覚寺家というイエが分化していったと考えると理解しやすい。 確かに後醍醐は後宇多との約定を破ったが後宇多もまた恒明についての亀山との約定を破ってるからな
これこそ先例と 後醍醐期の諸々の新制度新政策も亀山後宇多からの継承、延長のものが多いって研究も出たし、
奇抜は奇抜だけど突出・孤立してるわけではないみたいだよね
むしろ大覚寺統の全体が奇抜だったかもしれない もっとも後宇多にしてみれば自分の場合はあくまで本来の大覚寺統の嫡流を守るためで恣意的な分裂につながる親父や息子の身勝手とは違うと言いたいだろうが 『ザ・モモタロウ』という漫画も同じ
凄い人(不明)が、
出家したところを狙ったというような物語 謎の存在 しゅてんどるふ?
殺されたのか、
殺されていないのか、わからないけど
名を出せないので、
仮名と言うか、伏せられていたという話とか 後宇多の院政停止は自分の意思か
それとも後醍醐からの強要か >>508
持明院統に譲り渡したのは後醍醐天皇じゃないよ?わかってる?
後醍醐天皇は自分の息子に譲り、息子はその息子に譲ってる。それはわかってる? >>519
後醍醐帝が吉野に逃げる前、幽閉(?)のときに神器を取り上げられてて、
あとで吉野に到着した後醍醐が明け渡した神器は偽物で本物は吉野まで持ってきたと嘘の宣伝をした 正平一統でわざわざ北朝の神器を取り上げたのが怪しい 正統の宣伝、自分の正しさを強硬に主張する様子。
南朝はまさに「弱い犬が吠えたてる」ようなものだよな >>526
歴代天皇の一覧みたことある?
北朝の天皇は天皇には入れられてないよ。
もしかして、南朝と北朝を間違えて覚えてる? >>522
神器を渡したのは、後醍醐天皇じゃなくて、
後醍醐天皇から4代めの後亀山天皇なんだけど。
後醍醐天皇が崩御した後、半世紀以上も経ってからのこと。
なんで後醍醐天皇が明け渡したって言い張ってるの? 比叡山で降伏した時に渡したのが本物という説も
これこそ無駄死にさせられた正成の祟りかも >>527
南朝正統説は明治維新派の旗標みたいなもんで、
それが敗戦まで引きずられてたからな
以後も南朝正統説の誤りをただすものがいないまま踏襲されただけ
南朝こそ正統と信じてるのは今は一部の宗教家だけだ >>529
幽閉されて神器を明け渡したあとで、
あれは偽物だ本物は俺が持ってると、
三度か四度ばかり偽神器を渡した前科もち後醍醐の嘘八百も知らないの? >>532
それなら、なぜ、後醍醐天皇の孫である後亀山天皇から神器を譲り受けるまでの
北朝の天皇たちは歴代天皇の中に入れられていないの?
後亀山天皇が継承し、後小松天皇に譲り渡した神器が本物だったからでしょ?
だからこそ、元北朝天皇である後小松天皇は、1392年に歴代天皇としての即位したと言われているんでしょ。
歴代天皇と呼ばれる人たちこそが本当の天皇です。これ常識じゃない? 南朝正統論による歴代設定でも北朝系は準皇統的に扱われてるんだよな
そして合一後の後南朝は徹底無視 >>535
南朝も北朝も、後亀山天皇が神器を後小松天皇に渡した時点でなくなったんだよ。
ちなみに、たくさんいる天皇の皇子たち(皇位継承候補)のうち、実際に天皇になるのは一人いるかいないか。それ以外の皇子はそのまま無視される。
それは神武天皇の時からずっと変わらない。
そして、ほとんどの親王宣下を受けた皇位継承候補の皇子たちの子や孫、子孫たちは誰も天皇にはならない。
これを「無視された」というのですか?
自らの子、孫、ひ孫、玄孫と、5代も続けて皇位を受け継がせた天皇なんて歴史上ほとんどいません。 皇位以前に後南朝という存在その物が無視されたという事
南朝正統論者といってもそのほとんどは合一後の彼らの存在と活動については触れようとしない
それこそ面倒な厄介物みたいに >>534 南朝正統論が強まったから明治天皇がそう決めただけで、
それまでは北朝の天皇が正当な歴代天皇だったよw
神器云々をいうなら何が本物か偽物かなんてわからん
例えば正平一統(1352年)で 南朝軍が一時京都を占拠した時に、
確保した北朝の三種の神器が本物なら、
後醍醐天皇が1336年に花山院で足利に渡した三種の神器は本物であったということであり、
1336年から1348年まで北朝で天皇だった光明天皇は、
本物の三種の神器を有する正当な天皇だったということになる 神器を持ってなかったはずがない光厳天皇が、なぜか歴代の方ではなく北朝初代に入れられてるのを見ても、
基準は神器の有無ではないと分かるだろ 少なくとも合一までは南朝が正統だったと主張するために神器の所持が後付けで重視された感じ
その辺りが曖昧な後醍醐期については現職優先を適用で >>509
後醍醐の主観を歴史の客観と同一視することが許容しうるのは後醍醐が京都で権力を握っていた期間だけだろ
それ以後、つまり南北朝に入ってからは、後醍醐の主観は歴史の客観とは別に扱わねばならない。 南北朝論争の客観ってのは結局はそうした後醍醐を肯定するか否定するかなんだよな
贔屓する向きは正成戦死にしても坊門のせいにして後醍醐の決断責任を無視しているが 当事者(要人)の主観を無制限に受け入れてたら客観なんて成立しないんだよ
後醍醐帝やら親房やら要人の主観は横に置いて当時の世情を考えていかないと客観なんてできない 客観なんて所詮は主観の集合体
主観の入らない報道などもありえない
この場合は後醍醐の主観を他の主観が受け入れるかどうかの問題
それを正当化するための理屈や論理など後からいくらでも作られるし御都合的に取捨選択できる >>539
つまり、神器のあるなしを問わず、先帝から正式に立太子されたり攘夷を受けたりして
即位した天皇が本物ということ?
光厳天皇は神器を持っていても、正式な即位じゃなかったから偽物だということですか? その辺りが曖昧かつ御都合主義的になったのはやはり後鳥羽天皇の即位からか というより、武家政権との摩擦が原因じゃない?
後鳥羽天皇の即位のごたごたも、平家政権のせいだし、
仲恭天皇を廃したり、後醍醐天皇を朝廷から追い出したり、突然、明の皇帝を君主として
冊封を受けたり、皇室を統制して将軍を権現(神)としたり、
武家政権が帝の地位を左右するようになったのがすべての元凶だと思う。 >>545
神器を安徳天皇一行(というか平家)に持ち去られ、先帝安徳から譲位を受けたわけでもない後鳥羽天皇だが、本物の天皇だろ
先帝が京都にいない点がすごく重視されたことがうかがい知れる
単に京都から去って西国(福原など)に行ったというだけの理由で、神器を保持しているにもかかわらず欠格/廃帝あつかいされちゃった安徳の先例と比べてみよう >>547
武家の台頭という時代の流れを受容できないこと自体が時代錯誤な欠格者という意味でもある
時代の流れを読めなかった後鳥羽を激しく批判した意見書(のようなもの)も残ってるわけだろ。 神器の所有を重要視すると後鳥羽天皇はどうなんだってなるわな
やはり号一時に後小松天皇があらためて即位したのではないこと
後亀山天皇は不登極帝の扱いを受けたことをもって
北朝こそが正統とすべき 大多数の天皇が武家と折り合いをつけてうまく付き合ったなかで、
どうしても折り合いをつけることができなかった少数派の天皇を批判すると、なぜ天皇制批判になってしまうのかね?
大多数の天皇たちと違う特殊な天皇を、特殊な人ですね異端児ですかと言ってるだけだろ >>551
少なくとも当時の北朝はそういうスタンスをとってたし、
そのスタンスに異論を唱えるのは後南朝支持者の一部ぐらいで少数派だよな どんな理屈で天皇制を否定しようと、中臣鎌足の指導の下、この日本という名の独立国を
建設したのは、皇極天皇とその皇子たち。
そしてその子孫が、朝廷を守り抜くことで、折に触れ統治権や主権が脅かされても、この
日本という国家の独立が守られてきた。
もちろん、皇極天皇の先祖は神武天皇までさかのぼる歴代の大王たち。
我が国が誇る皇室の歴史は、そのままこの日本国の歴史です。 後鳥羽天皇の場合は在京と共に後白河法皇の存在が大きかったんだよな
すなわち院政による皇位起動の先例でありこの有効が認められていたからこそ親房は神器だけでなく二上皇の拉致まで必要だったわけで >>556
存命の上皇たち全員(2名)のみならず皇太子も連れ去る必要があったんだよな
そこまでして北朝の存続を妨げようとしたのに、そのあとで即位した後光厳天皇の
即位要件の不備を問題視する声は、南朝側が期待するよりも小さくて、
予想外に北朝が安定していたんだよな
このときにはたしか、後高倉上皇に次ぐ二人目の、天皇未経験の上皇がたてられたんだよな
そしてこれらの先例踏襲とかいう名目で、後亀山を三人目の「天皇に即位してない上皇」とすることで、
北朝がわの主張である「南朝は偽帝」説と合一条件の後亀山を上皇にする件を両立させようとした 後光厳天皇の即位は継体天皇の先例により群臣による推挙の形をとった
広義門院はあくまで持明院統の家督を代行しただけでは >>554
光厳天皇や後光厳天皇をふくめ北朝は、その「皇極天皇の子孫」であり、正統の皇室ですよ 北朝の天皇たちは便宜上足利氏に担がれただけで、
尊氏などは北朝なんてどうでもいいと思っていただろうな。 そりゃあ、後醍醐との対抗上の理由で仕方なく足利と手を組んだだけだろうしな
もともと光厳上皇が自発的に使者を派遣して尊氏と接触しようとしたのが最初だし。 皇位継承で最も重要なことは、先帝から正式に立太子されるか攘夷を受けて即位すると
いうことだろうね。
正式に即位したのであれば、その天皇の皇子が天皇になるか、その弟が天皇になるか、
その甥や姪が天皇になるか、その従弟や従弟の孫が天皇になるか、そういったことは
問題にならない。
平城天皇や淳和天皇、朱雀天皇、花山天皇、歴史上、自分の子や孫やその子孫を即位させること
なく終わった天皇は山ほどいる。後亀山天皇だけではない。
むしろ、自分の子、孫、曾孫、玄孫と即位させた天皇のほうが珍しい(摂関政治などで
朝廷が他氏に管理されてたような時代でもなければ)。
後醍醐天皇は、歴代天皇の中ではそれを実現した幸運な天皇だ。 >>562
それが必要条件だとすると、後鳥羽院とかどうなるって話になる。 先帝安徳は皇太子を定めてないし誰にも譲位してない、
むしろ壇之浦で入水するまで天皇として現役のつもりだったはずだ
そんな安徳が京を去ってすぐ即位した後鳥羽は、あれの論に従えば偽帝ということになってしまうもんな
安徳は最後まで後鳥羽に譲位してないまま死んだから、あれの論に従えば後鳥羽以後のすべての天皇が偽帝となってしまう それ以前に三種の神器が揃ってない…
何人かの皇子を法皇が膝にのせて、怖がって泣いた御子とにこっと笑った御子がいるんだよね
笑ったほうが、後鳥羽です 一生の分かれ目だな だからこそ後白河の院政なんだよな
皮肉にも後鳥羽こそが後白河が自分の意思と力だけで即位させた最初の天皇だったわけで >>565
源氏の反乱により、天皇が御遺志を示す前に殺されてしまったのです。
継体天皇、舒明天皇、孝徳天皇、元明天皇なども、立太子する前に先帝が崩御したので、
立太子や攘夷を経ずに即位した。
内乱の際など、緊急時にはそういったことがよくあります。
先帝からの攘夷や立太子(遺言によるものであっても)がある場合は、それを他のものが
覆すことはありえない。
継体天皇も、舒明天皇も、後鳥羽天皇も、後醍醐天皇も皇室が正統と認めている天皇です。 >>568
西の平氏の元に安徳天皇が存在するうちから京都には後鳥羽天皇がいたが、平家支持者たち以外は後鳥羽天皇の方を正統と見なしていて、安徳帝のことは廃帝と認識していたってこと。
安徳帝の御意志云々というなら、それまでの時期の後鳥羽帝はどういう立場なのかという問題点は、けっして無視してはいけないよ 臨機ないし非常の措置ってのがポイントなんだよな
それによって大抵の先例無視は黙認される 安徳・後鳥羽の先例はいわば在京こそが三種の神器を超える最強のアドバンテージになったという事なんだよな
すなわち京自身が第四にして他を遥かに超える絶対最強の神器
分かりやすさとしても完璧で 京都という存在の大きさを指摘した御説は断然支持するものですが、
南朝の天皇は京都にいらっしゃらなかったわけでして。
そこがこのスレで一番ネックになるところですね。 南朝の最大の弱点である在京してない、できてない点が、
当時の人々の多くにとって最重要であったという事実は
南朝に正統性を認めない人が多数派だった事実と重なっている
少なくとも同時代人にとって、南朝正統説には説得力がなかったんだよ
賛同者がほとんどいなかった
自分の利害と対立する敵対者・ライバル等が北朝側にいるから対抗のために南朝に従ってるだけの、
南朝を利用するための支持者の方が主流だったぐらいでな。
南朝にしたがってる人々でさえ、南朝が正統だから従ってるというわけではなかった。 中世期における京の政治的絶対性について一番近いのは近世以降のパリかも
あのナポレオンですらパリを失った時点で政治的に終わったわけだし 南朝正統論者が殊更に三種の神器を強調するのもこの最大の弱点のためか 中世の中上級貴族の世界の狭さは異常
国司として地方に赴任することもなくなったし、熊野か明石あたりでもう
地の果てみたいに感じてたっぽい 吉野は今でも山奥に感じるからな
電車で行くだけで結構時間かかる
そんなもんがない昔ならなおのこと 今の国際情勢でもいえるよ
首都が陥落すれば、中央政府として認められなくなることが多い
イラクのサダムフセイン政府も首都バクダッド陥落で、
「政府」でなくなったとみなされた
アフガニスタンのタリバン政府も首都カブール陥落で、
「政府」でなくなったとみなされた 重慶に逃亡した国民政府は?
英米の支援がなく負けていれば当然ただの残党と歴史には残ったんだろうけど 国民政府は首都南京を失っても、
統治機関としての機能が重慶で残ってたからなあ
京都を「一時」失った足利幕府だって、
統治機関としての機能が残っていたことと似ている 当時の南京は現在の北京と比べても政治的に絶対的な都市ではない しかし中国の南北朝に比べると京都vs吉野では差がありすぎでしょ。
賀名生に移ってからはなおさらのことだ。 特に吉野が落とされた後はもはや北朝側に分裂が生じない限りもはや付け込む隙が無かったからな
その意味でも正平一統は最後のチャンスだった 洛陽長安程度の差じゃないもんなあ
あえていえば、平陽(三皇五帝の終わり近い堯帝の時代の都)と長安の差ぐらいか、辺鄙度や距離感的に。 薬子の変の時期にはまだ平城京は副都のような重みがあったしなあ それに平安京はまだ作られて間もなく平城京の方がある意味では上だったとも言えた 中国の南北朝は同じ文化圏において南北に別々の王朝があったというだけ
日本の南北朝は親族間の王位継承争いが長期化したようなもの 王朝の分裂とは違うけど源平時代初期の
頼朝(関東東海)
義仲(北信越)
平家(西日本)
これが日本史でもきれいに勢力圏が分裂してた数少ない例なんじゃないだろうか。
南北朝ったって中国みたいに北と南に国がわかれたのと違い、
日本各地で「オレは武家でオマエは宮」と入り乱れてたからな。 それは義経によって崩されてしまうんだよな
そしてそれは本人自身をも破滅させるわけで >>589
そのうち平城京に戻ると思ってる関係者がまだまだ少なくなかった時代だしな
難波京や恭仁京のごとく平安京も短期間で廃絶されると信じる根拠は、全くないわけではなかったし ある意味ではこの勝利によって平安京の最初の権威が出来たとも言える 東北地方の端まで日本の版図に入ったのが奥州藤原氏を滅ぼしたとき、
逆に言えば秀衡の領土の多くはまだ日本の版図ではなかった
といっても秀衡の領土の全体が日本の外だったわけでもない、
境界みたいな感じか 中国の三国時代に四番目の国、遼東公孫氏(燕国)があったみたいな感じかな 秀衡は正式な陸奥守なんだから
その勢力圏は日本の版図と言っても
差し支えないのでは? 599で書いた通り
真っ先に(蜀を滅ぼすより先に)滅ぼされた燕と
義仲や平家よりあと最後に滅ぼされた奥州藤原氏だと順番違いだけどさ 南朝(百済朝廷)と北朝(新羅朝廷)、どちらが正統な皇統なのか?
またはどっちもイヤ? また『天子神璽』の話をしているの?
もしかして聞いたこともない話だった? >>604
朝鮮三国時代は日本と支那の南北朝みたいな当時から正統性で争う歴史はないだろ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています