【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
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南朝の最大の弱点である在京してない、できてない点が、
当時の人々の多くにとって最重要であったという事実は
南朝に正統性を認めない人が多数派だった事実と重なっている
少なくとも同時代人にとって、南朝正統説には説得力がなかったんだよ
賛同者がほとんどいなかった
自分の利害と対立する敵対者・ライバル等が北朝側にいるから対抗のために南朝に従ってるだけの、
南朝を利用するための支持者の方が主流だったぐらいでな。
南朝にしたがってる人々でさえ、南朝が正統だから従ってるというわけではなかった。 中世期における京の政治的絶対性について一番近いのは近世以降のパリかも
あのナポレオンですらパリを失った時点で政治的に終わったわけだし 南朝正統論者が殊更に三種の神器を強調するのもこの最大の弱点のためか 中世の中上級貴族の世界の狭さは異常
国司として地方に赴任することもなくなったし、熊野か明石あたりでもう
地の果てみたいに感じてたっぽい 吉野は今でも山奥に感じるからな
電車で行くだけで結構時間かかる
そんなもんがない昔ならなおのこと 今の国際情勢でもいえるよ
首都が陥落すれば、中央政府として認められなくなることが多い
イラクのサダムフセイン政府も首都バクダッド陥落で、
「政府」でなくなったとみなされた
アフガニスタンのタリバン政府も首都カブール陥落で、
「政府」でなくなったとみなされた 重慶に逃亡した国民政府は?
英米の支援がなく負けていれば当然ただの残党と歴史には残ったんだろうけど 国民政府は首都南京を失っても、
統治機関としての機能が重慶で残ってたからなあ
京都を「一時」失った足利幕府だって、
統治機関としての機能が残っていたことと似ている 当時の南京は現在の北京と比べても政治的に絶対的な都市ではない しかし中国の南北朝に比べると京都vs吉野では差がありすぎでしょ。
賀名生に移ってからはなおさらのことだ。 特に吉野が落とされた後はもはや北朝側に分裂が生じない限りもはや付け込む隙が無かったからな
その意味でも正平一統は最後のチャンスだった 洛陽長安程度の差じゃないもんなあ
あえていえば、平陽(三皇五帝の終わり近い堯帝の時代の都)と長安の差ぐらいか、辺鄙度や距離感的に。 薬子の変の時期にはまだ平城京は副都のような重みがあったしなあ それに平安京はまだ作られて間もなく平城京の方がある意味では上だったとも言えた 中国の南北朝は同じ文化圏において南北に別々の王朝があったというだけ
日本の南北朝は親族間の王位継承争いが長期化したようなもの 王朝の分裂とは違うけど源平時代初期の
頼朝(関東東海)
義仲(北信越)
平家(西日本)
これが日本史でもきれいに勢力圏が分裂してた数少ない例なんじゃないだろうか。
南北朝ったって中国みたいに北と南に国がわかれたのと違い、
日本各地で「オレは武家でオマエは宮」と入り乱れてたからな。 それは義経によって崩されてしまうんだよな
そしてそれは本人自身をも破滅させるわけで >>589
そのうち平城京に戻ると思ってる関係者がまだまだ少なくなかった時代だしな
難波京や恭仁京のごとく平安京も短期間で廃絶されると信じる根拠は、全くないわけではなかったし ある意味ではこの勝利によって平安京の最初の権威が出来たとも言える 東北地方の端まで日本の版図に入ったのが奥州藤原氏を滅ぼしたとき、
逆に言えば秀衡の領土の多くはまだ日本の版図ではなかった
といっても秀衡の領土の全体が日本の外だったわけでもない、
境界みたいな感じか 中国の三国時代に四番目の国、遼東公孫氏(燕国)があったみたいな感じかな 秀衡は正式な陸奥守なんだから
その勢力圏は日本の版図と言っても
差し支えないのでは? 599で書いた通り
真っ先に(蜀を滅ぼすより先に)滅ぼされた燕と
義仲や平家よりあと最後に滅ぼされた奥州藤原氏だと順番違いだけどさ 南朝(百済朝廷)と北朝(新羅朝廷)、どちらが正統な皇統なのか?
またはどっちもイヤ? また『天子神璽』の話をしているの?
もしかして聞いたこともない話だった? >>604
朝鮮三国時代は日本と支那の南北朝みたいな当時から正統性で争う歴史はないだろ。 三国志だと、
魏と蜀のどっちが正当性があるのかという論争はいまだにあるね
こういう結論が出るわけもない過去の歴史の名分を争う議論を「腐儒の論」と言います もともと正統は魏だったが、宋代の特殊な対外関係のもと、
宋と遼や金との関係性を投影した結果として、
蜀こそ正統という新しい発明がなされたんだよ 日本土人は新羅から出張してきた天皇のもと農奴にされ
この日本列島上で新羅の王族と百済の王族が争った
それを源平合戦とか南北朝時代とか呼んでいる
多分、自民と民進もチョン同士の争い ちなみに新羅の神話時代の王の一人は倭から渡海して新羅を制覇してる 東晋や南宋といった政権時代に正統論の方向が決まったんだよな
要するに自分たちと同じ立場だから
あと孔明が持て囃されたのは有能な忠臣を求める願望から 献帝には曹丕への禅譲を拒否する環境にない
だから献帝の譲位詔書を無効とする論も理解はできるよ
現代でも脅迫による契約は無効だ 但し献帝が生きている限り劉備の即位は認められない
だからその即位は献帝は殺されたという捏造を前提に行われている 暴力による強制が無効なのは近現代特有の例外で、古代中世なら有効だぞ
滅亡した旧王朝からあとを託されたわけでもないのに親族だからという理由だけで
亡命王朝をたてても、実際のところ、王朝としての連続性もないし、
同時代人の大半は正統の後継者とは認めてなかったんだよな、蜀漢も東晋も。 東晋の場合はまだ北の勢力が分裂状態だったためまだ正統を主張できたが >>617
有効無効をいうなら、天意を受けたといって勝手に帝位に即位するのも有効だわなw そもそも天命をうけたと言って勝手に即位するのが中国での基本であり本道なので、
亡命政権が抵抗を続けることの意味自体がない
正当性の根源が血筋ではなく天命にあるのだから。 確か比叡山での和議で新田の重臣が後醍醐を罵ったのもそこだった 下手に叱れば殺されなかったので皇太子の恒良を人質同然に渡して窮地を脱出
実質的には見捨て見殺しだった 皇子だけじゃなく神器も渡したんじゃなかったか
窮地を脱してすぐに偽神器と発表して義貞の怒りに油を注いだが だから北陸勢力については吉野の南朝とも違った独立勢力という見方もある 懐良と違って吉野南朝との連携を欠いたんではないか、という意味じゃないの >>628
懷良と菊池は九州独立を目指したのでは? 南朝皇子は大なり小なりその傾向があったようだね。
一番メジャーなのが北関東の藤氏一揆でしょ。
興良親王を担いだとも言われてる。 >>629
吉野側の令旨と九州側の、それぞれの発給文書の照らし合わせ研究の結果から、かなり末期まで独立志向ではなく連携指向で動いていたと考えられるようになった模様 新田の北陸王朝は独自の年号使って半独立、
藤氏一揆は明らかに北畠に非協力的だったな。 九州の独自性は距離の問題もあるだろうな
ある程度の専行が認められなければ状況の変化に対応出来ないと 征西府からの発給文書について、吉野方の追認文書を欲しがるものが多かったり、
征西府を経由せずに直接に吉野と交渉したがるものがいたりして
割りと複雑だった模様 後村上は懐良を呼び戻して片腕として働かせようとしていたようだし、
決して二人の関係は悪くなかったと思う。
興良は後醍醐に迫害された護良の息子だから吉野に反発するのも当然、
新田も恒良も捨て駒扱いだから独立しようと考えても不思議ではないわな。 独立ってのがまずできない
鎌倉室町にかけては自分に正当性があるんだ〜!って在地の豪族らに味方になるよ〜に募集かけるスタイル
どこか陣所に腰掛けてどれだけ兵が集まるか?ってのも賭けなんだよ 自分の身内の兵数なんていいとこ300人くらいだぞ
武辺とか名前が売れてるとかで集まる兵の数がまったく違ってくる
木曽義仲なんてのも上洛したときの主力兵なんざ丹波兵が多かった
在地に行ったときは在地で兵を集めるんだよ >>637
足利尊氏全国で7000余。新田義貞越後新田党などをあわせて1500。 逆賊に神風吹いた多々良浜
さぞかし戦前は説明し辛かったろうな 638
全国ってか三河くらいしかいないだろ
三河で集めて上洛んとき一万てやってたが? >>640
北は陸奥から西は美作まで。丹波篠村で後醍醐方に叛いたんだが、丹波にも足利の拠点があった。 >>641
637さんが300とかいうから、新田のような貧乏御家人でも1500程集めてるぞと言いたかっただけ。
東関東系といっても義家流はほとんど尊氏に従って京都に行って、信濃源氏や佐竹とかの義光流が多かったんでは?山名とかは新田一族でも尊氏に従ってたんもんね。 足利新田の私兵といっても、 その多くの割合が、分家達の私兵だ
だから戦時においては本家が一方的に威張れるものではなく、
分家達の助力が必要だった >>644
新田も山名には相手にされず尊氏に従われ。岩松は信濃源氏を勧誘に行き別行動。
でも越後新田党は「本家の一大事」と里見が旗頭になり大館・大井田・田中・羽川と碓氷峠に馳せ参じる。 佐々木京極、土岐らの系統違い源氏も源氏の棟梁という概念での集合意識が多少はあったのかな >>642
丹波は母方の上杉じゃないかな
実際集まった中に細かい清和源氏系もいたかもしらんが それ自体がもう一つの幕府だった北条得宗家単体の動員力はどのくらいだったか 御内人って北条氏の家人ってことだろ
高一族は足利の家人だから、間違ってはいないがな
んで、徳川の家人は旗本・御家人と譜代大名だ >>651
徳川の御内人は長崎や高ほど権力ないみたい。 徳川の家人の筆頭とは要するに老中だぞ
長崎とか高より権限が少なく見えるか、お前さんには? >>653
ドラマで見た感じでは長崎円基は執権の金沢貞顕や赤橋守時をあごで使っていたし。
高師直も足利直義を追い落そうとしたりしていたぞ。 高氏没落の後は特権的な家人というのは無くなったんだよな
その意味でもあれは画期だった そういや室町時代は御内人で権力握る人少ないね
上杉のち日野のような嫁権力は鎌倉時代と同じく出てくる
侍所など官庁の官僚的なのも多少出てくる蜷川とか伊勢とか
満済は幕府組織的にはどこから出てきたんだろ 有力守護大名一族の一系を大名に一系を身内的な将軍直属権力へと
分断策として一族内の数人を色々な所に配属して本家争いをさせるみたいな政策だから
この一族は身内人だと単純に括るのが難しくなってる 鎌倉時代に御内人という特殊な身分が発生したのは、北条氏が実質的な
支配者であったにもかかわらず名義上の主君ではなかったからでしょ。
室町、江戸の両幕府にはそういうねじれはなかったから、そういう特殊な
身分も発生する余地がなかった。外様だろうと譜代だろうと徳川家の家人で
あることには違いないし。
敢えて比較するなら、藩政・幕政を壟断した家老・老中の家臣がそれかもしれないけど。
井伊大老家中の長野主膳とか。
>>651
外様大名だって徳川家の家人だぜ。 つっても、普代が従者的な立場に近いのに対して外様大名は家礼に近い立場だぞ、客人と部下の中間。 源将軍→執権→得宗の内管領とどんどん内側の実務層に実権が移ってく様はたしかに興味深いが
様相としては戦国時代の下克上と似たようなもんかも
平禅門や長崎が北条得宗を打倒しなかっただけ 正平一統の前の北米朝と幕府の間にはいろいろと悶着があったみたいだな >>663
室町時代の後期にも将軍→管領→三好→松永という同じような構図があったね。 長崎とかは滅んだあと得宗のもとに権力が戻ったけど、
三好松永のあとは管領に権力戻ってないんだよな 斯波も細川も畠山も
分裂してたり家臣に実権奪われてたりで
所領の実効支配ができてないし
幕府権力そのものが有名無実化してたからな >>667
でもまた長崎へ移った
北条貞時は平頼綱を滅ぼした後、
御内人を統率する内管領を北条一門の北条宗方を任じた
そして10年後の嘉元の乱で貞時が連署の北条時村を滅ぼすが、
北条氏庶流(大仏宗宣ら)の反発が強まり、鎌倉が騒然となる
貞時は父時宗の二月騒動に倣って、下手人11人を処刑して事を収めようとしたが、
収まらない。結局、北条宗方を斬り、平頼綱と同族の長崎高綱を後任の内管領に
任じ、大仏宗宣を後任の連署に任じたことで収束したが、貞時は統治意欲をなくして遊興にふけるようになった。また幕政の実権は長崎高綱が掌握するようになった。
ここからは史料がなくてもうそうだが、この一連の出来事で大仏氏ではなく、
長崎氏が幕政の実権をなぜ掌握できたのか?
それは貞時と北条氏庶流が対立した時に、長崎氏ら御内人が「動かなかった」からではないか。だから貞時は庶流に屈服せざるをえなかった。庶流も長崎氏のおかげで勝てた。だから長崎氏が幕政の実権を掌握できたのではないか。 まさに御内人自体が独自の勢力として確立していり感じですね
大河ドラマでもやってましたがまさに長崎氏がキングメーカーに 御内人の実像としては河内の楠木氏のような中小地頭などの悪党勢力をイメージしてる(正しいかどうかわからない)
田畑水利だけじゃなく各地の河川、港湾、街道などで得宗の名を利用して儲けてた層のボスとして長崎がいたんじゃないかと
そしてそれらは得宗権力崩壊後、南北朝どちから縁故が深い方を奉って各地での利権争いを継続していった感じ 北条って権力の大きさの割に儲けてないイメージ
んで楠氏って零細じゃなさそうなイメージ、ってか地頭じゃなくひょっとしたら御内人じゃないか? 畿内を活動地盤にしてる武士の大半が当時は商工系だったという説もあるがな
楠も赤松も特殊ではなくむしろ普通だとかで。 名和はよく言われてる通り日本海側で海運業に従事してた武装商人集団でしょ >>677
後醍醐を隠岐から脱出させたのは、阿波にいた新田の支族の岩松の流れをくむ海運業者と聞くが。
名和が海運業者なら名和の手でやったらいいのにと思うんだが。 名和には後醍醐を救出しに行く義務も義理もない
よって船を出す理由が全くないだけの話 海運するにしても自衛戦力がいるし
金貸して借金のカタとして土地や下司や地頭職などを持ってたりもするし
という感じじゃない
名和の実態について詳しく調べたことないわ 尊氏と直義の政治的態度の違いについてよく議論されるけど
尊氏はこういう層も含めた総合的な頭領を目指したのに対して
直義は源氏与党含めた関東武士と従来的支配者(貴族寺社など荘園領主)の正当権利しか認めなかった
と捉えてる 高野山、興福寺など権門領主の寺社が
薬屋、情報業、酒など食品産業、各種建築工匠などを兼ねた総合コングロマリットみたいな感じになってくのもこの時期 永代供養とかでまとまった寄付をもらっても、毎年の法事の度に資金は減って、しかし新しい収入は他の人の供養の分しかない
(荘園領主としての収入が別にあるけども)
なら、利殖で預かった財物を増やして年々の供養代に充てないと永代という言葉が嘘になってしまう
そのために寺院が利殖を行わなくてはならなくなったのだと聞いたとき、目から鱗が落ちた気がした >>683
そう言えば、2-3年前高野山財テク失敗してたな。 利子とか利息ってのは伝統的農耕社会の価値観では理解できない不労所得なので、
神仏の権威を背後にもって初めてできたんだ、って説も聞いたことある。
ユダヤ人みたいな被差別民だけが金融に携われた、てのとも通じるものがあるな。
聖なるものと賎なるものは紙一重ってことで。 楠木の観心寺も南朝として数代で敗れたわりに凄いお宝所蔵してるし
もうちょっと時代は下るが根来寺なんかもすごい堂舎がいくつも建ってて
企業としての当時の栄華を感じる 最初の徳政例を見ても当時の時点で貨幣経済化が相当に進んでいたのが分かる 為替が成立してたって言うもんななんでもありの信用のない時代に信用経済が成立してる二面性が面白い 茶道、華道や能のような現在につながってる文化は割とあるけど
現在にまで繋がってる(土倉馬借車借のような)資本ってあんま無いよね酒屋くらい?
京都や近江の質屋や薬屋などではあるんだろか 目に見えて金を持つと物理的な武力で潰されるからやない?
時代は少し下がるけど呂宋助左衛門みたいに 亀山は出来れば恒明を大覚寺統の正嫡にしたかったのか 治天と現役天皇が争ったときにどちらが優位かってトコを見せつけた事件だろうな
結果として現役優位(例外あり)って感じで落ち着いたってことだよな 大覚寺統の分断を狙ってか持明院統が亀山に加勢したのもポイント 口約束?
証文みたいなの書かせてただろ?
それでも反故にするんだけど 亀山がそう遺言していただけ
分断を煽った伏見はおそらく北朝系歴代では一番の策士 父との約束を反古にした後宇多
しかし次は自分の約束が息子に反古にされる >>703
記録が乏しいからクズ行動が目立たなかっただけで実際は互角のようだぞ、どちらも大概だ。 実子と権力争いしてヌッコロしてしまう(まあ実行犯は直義なんだが)ようなのは天皇家では珍しい。
日本史全体で見ても戦国時代以外にはほとんどいない。まあ戦国時代に入ってからならば武田信玄とか複数の大名で例があるけどね 南朝は、いっそのこと新天地を求めて東南アジアにでも行けばよかったのに
そこで新王朝を開いていれば、世界史も変わってた せめて九州だろw
幕府も本土さえ対抗勢力がいなきゃ九州くらいくれてやれという気が起きたかもしれん >>707
それは何て鄭成功?
>>708
いやいやw
尊氏自身も九州へ敗走した後に巻き返して湊川で勝って京を制したんだから
「たかが九州」とは思うまい 大覚寺統の最大の弱点は弟系の再分派に歯止めが掛けられない事
それを問題にしたらそれこそ持明院統に譲らざるを得なくなる >>710
大覚寺統は後二条天皇とその嫡子邦良親王のように嫡流の早世があったせいだろう
持明院統は早世があまりいなかったために嫡流が力を持ち続けた 亀山が末子(後宇多の異母弟)を次期皇太子にしようとして後宇多と揉めたのは誰か死んだせいか?違うだろ 亀山が父である後嵯峨の二の徹を踏もうとしたんだよな
恒明は甥の後醍醐より大きく下
ある意味ではその存在のおかげで妥協案として後醍醐が即位できたわけだが >>712
恒明親王は結局即位していないので
分裂も何もしてないじゃないかw
恒明親王は母親が西園寺家なので
むしろこちらが嫡流だった 恒明親王の生母は伏見や後醍醐の中宮たちとは姉妹関係なんだよな
この辺りも政局にかなりの影響を与えた感じ 大覚寺統は真言宗系
持明院統は天台宗系
みな見落としているが宗派戦争の側面が
あったように思える >>718
持明院統の天皇の皇子が仁和寺(真言宗)御室になっているし
大覚寺統の天皇の皇子が延暦寺(天台宗)天台座主になっているので無関係 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
OZ8IT 最近また南北朝テーマの新書がいくつか出てたが前史部分に無かったな恒明親王 初代にあやかって○○流ではなく
○○統と呼ばれたのはなぜでしょう? わかんねーけど
流だと〜流の子孫はだんだん増えていくけど
統だとそうじゃないイメージじゃないの?
皇位継承とはほど遠くなった傍流の子孫は〜流にはなるけど、〜統にはならないみたいな? 岩波新書の最新刊によると亀山の遺志は恒明を大覚寺統の正嫡に据えろという意味だったとのこと
もっともあくまで生きていればこその院政で死んでしまえば秀吉の遺言と同様(ある意味ではその元祖)
そして次にはそれを破った後宇多自身にもそれが回ってくる >>723-724
〜統も〜系も〜流も〜派も〜家もぜんぶ同じだよ
ただ、二人以上天皇がいれば〜朝でもいい
〜家の場合はそういう「家名」という意味じゃなくて「〜〜の家筋」みたいな軽い意味
統も系も「すじ」ってこと、流も派も「枝分かれ」ってこと
枝分かれするからいろんな筋も生まれるわけで要するに同じこと
大覚寺統を大覚寺系、大覚寺家、大覚寺派、大覚寺流といったからって
別に大間違いというわけではない。ただの慣習だよ 持明院統は後光厳流が主流だったのに
結局残った皇統は崇光流という、なんだかな 崇光流3代貞成は
息子の彦仁王が即位しなかったら
親王にすらなれなかったろう だが、崇光の帰京時には後光厳続投か崇光復位かでもめてるぞ
普通なら復位を検討することすらあり得ないのに、だ >>728
西園寺家は鎌倉末期のキーマン
だからこそ建武の新政では真っ先にシメられたとも言えるが 明治期の皇族男子がたくさんいた時代、
最小公倍数的な先祖は貞成親王なんだよな
2人しか王子がいなかったのに、すごい とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
GOW 御花園帝の後、践祚しても即位できないほどの貧乏が待っていようとは 三種の神器は吉野に行く前に北朝に渡っている
(その証拠に南朝は奪い返しに行ってる)
後醍醐天皇が吉野に持っていったのは皇太子を立てる時に時に新旧の皇太子間で継承される皇太子の剣
それがなかった北朝は皇太子を立てられなかったはずだから、皇太子が存在しなかった期間に後の天皇が存在したはずもないということで
明治天皇は南北朝時代(皇太子の剣が南朝にあった期間)の南朝を正統とした。
でもまあ、南北朝時代三種の神器と皇太子の剣が別れてしまってわけだから真の意味での天皇は後醍醐天皇で止まってて
後醍醐天皇以降のどちらが正統かと言われるとどちらも正統ではないんではないかな
後小松天皇の時に全部揃ったけど後小松天皇が皇太子の時にはまだ皇太子の剣は南朝にあったから真の意味での天皇が再び登場したのは称光天皇からではないかな >>574
あの有名な湊川の前の軍議でも都を出るのを嫌がってたからな
結局もはや本物の天皇としては戻れなくなったが
正成ある限り安心されたい
逆に言えば
俺が死ねばお前も終わりだ なるほど、この当時の正当性は治天の承認や三種の神器ではなく、平安京を占領しているかどうかか。ちょっと納得 >>740 >>574
正成も湊川から逃げようと思えば逃げることが出来た。 >>742
庶民にも一番分かり易いからな
軍事力の優劣という点でも
だからこそ親房は三種の神器の重要性を強調しなければならなかった
この時の南朝の神器が本物だったかはともかく 利害の対立する奴が北朝についてるなら南朝につかざるをえんわな 自分の皇子の即位を見られずに死んだ土御門
自分の皇子が即位できないのを見せつけられて死んだ順徳 まあそのへんは承久の乱がなければ皇位に就いてないし なければずっと順徳系だったのな
後の御深草と違って土御門なら父の意に従いそうだが 親王って定員あったの?
両統あって勢力争いしてたら、どっちも高位高官ばらまきそう それにしてもどちらの土地が広いとか、人間臭くてつまらないことが原因で争ってんだな >>749
親王はともかく、摂関とかの高官(のいちぶ)は大覚寺統か持明院統かどちらか片方にだけ出仕して、統が変わると辞官する人も多かった気が >>719
天台か真言か どちからっていうと俺は天台。 だた負けてるんだな 天皇の血筋なんて、蘇我の時代から その時代の強い奴ー天皇
という交配だった 藤原も北条も同じ事をしているわけだし
家系図みたいなのを辿れば検証もし易い 話が酔っ払いみたいにそれるが
あとで光明を立てられる訳だし、両統迭立で交互に仲良くやっておけばよかったのかもな
どちらか正当か 学生のときは京都に残った北朝だと思っていたな >>2
血統で言うなら崇俊でとっくの昔に切れた
強くても血統、よって負けたが持明院統と思っていた(今は醍醐の方だと思ってる) 後醍醐のせいで醍醐も悪人っぽく響くな
迷惑な子孫だ >>755
後醍醐だって元々は中継ぎ担当なだけの傍流として登極してるから、その正統性は自ら武力で勝ち取ったもの
もとからの自明の正統性などは持ってなかったよ
甥が成人するまでの間だけ持明院統に皇位をもっていかれないようにすることしか望まれてなかったし、
その関係で後醍醐帝は実権を持たないで、後宇多上皇の院政が行われていた
争って勝ち残った点では持明院統と同じだよ 途中から親政に変わったのは院政を敷いていた後宇多の健康状態に起因するもので、後醍醐の後継は(後二条天皇の息子である)邦良親王とする既定路線を変更させてない
大覚寺統の正統は、後醍醐親政の前半ぐらいまでは間違いなく邦良親王で、それを破棄させて自分が正統を独占するために実力行使を続けたのが後醍醐帝
その果てに吉野へ行かざるを得なくなって、やがては子孫断絶。 尊氏と休戦した時に成良を天皇にしとけばよかったのに 邦良親王が成人するまであと何年かガマンできてたら分裂は回避できてたってか?
無理だろ。むしろ大覚寺統が消え去ってた可能性さえあるぞ 少なくとも後宇多系はかな
大覚寺統としてはまだ恒明という面倒な存在もしたし 北朝では光厳が弟の光明に対して院政を行使してるんだよな
それ以前の後伏見と花園もだがそれだけ嫡系への求心力は持明院統は高かった印象
それに対し大覚寺統は晩年の亀山の恒明への執着などが嫡系への求心力を相当に阻害していた 両統迭立なのに、両統とも嫡流だけでは皇位継承者が足りなかったって
不思議な感じだな どちらの統も内部で嫡流争いしてて、そのあおりで適切な候補者を選びにくくなってたんだよな
特に大覚寺統の内部での争いが激しい 大覚寺統の最終的な敗北はやはり分裂抗争がより激しかったという面も大きい
特に邦良親王が亡くjなった時点での後継選びで持明院統が候補を一人に絞れたに対し大覚寺統は三人もいたというのが凄い それにしても、こんな問題が鎌倉幕府の致命傷になるとはなあ 幕府としては分断状態が好ましいと考えていたんだろうが >>755
>血統で言うなら崇俊でとっくの昔に切れた
これ、どういう意味?欽明天皇の嫡子は敏達天皇じゃん 父親はその父の言い付け通りに弟に譲ったとの土御門なのが皮肉 >>176
この時に後醍醐が院政してりゃ全て丸く収まったんじゃ?光厳を退位させ後醍醐の実子を帝位に就けてれば。 花園の践祚の時に恒明を東宮にしときゃ南北朝分裂はなかったかもな。
てか恒明を立坊しなきゃ亀山院の素意に反するとずっと持明院統から攻撃されるだろう。 二統に分かれて皇位争いしてるだけで、天皇なんか生臭くてありがたくない
利用したい奴らの思惑次第だったのだろう 南北時代に世襲親王家という発想があったらすごいことになったろう 世襲親王家でもっとも古い伏見の宮家は南北朝時代後半に成立してるから、もうちょっとだけ、間に合ってないね 世襲宮家だった可能性が低い上、詳細すら分かってないヤツだよな>五辻宮 木寺宮も南北朝時代なかばごろまで初代の在世中だから、世襲されてはいなかった頃だろ >>780
とはいえ自分の都合のためなら廉子の皇子でも平気で見捨てる後醍醐
後村上がなんとか生き残れたのがむしろ奇跡なくらいで >>177
なんで後醍醐は重祚と言う形を取らなかったんだろう
700年後にWikipediaで
「男性天皇で重祚したのは史上初」
「2019年現在、重祚した最後の天皇である」
とか書かれると思うと俺ならワクワクするんだが。 先例無視の後醍醐でも重祚だけは受け入れられない何かがあったのだろう 破れて退位させられたこと自体を受け入れられなかったんだろ >>800
つまり後醍醐政権下と南朝内でだけ、光厳帝の在位を否定して後醍醐続投と認識してて
北朝や幕府では後醍醐帝は重祚と認識してたわけで、江戸時代後半になるまでは後醍醐帝は廃位の後に重祚と認定されてたわけだよな
明治維新のイデオロギー的な認定変更のまま訂正されずに今に至ってるだけで、
正しくは後醍醐帝は重祚してる 後醍醐→光明→後醍醐
でこののち南北朝で
北朝1光厳
南朝1後醍醐→2後村上
こういうことかな 持明院統と大覚寺統の初代の兄弟に鎌倉将軍がいるんだ、と最近気づいた
東朝・・・・ あるいは光厳即位の時点で南北分立の解釈か
とにかく明治維新の時点で後醍醐と明治天皇の双方を正統化させるために神器の所持をもって正統とするという解釈
よって明徳の和約が絶対視されるわけであり以後の後南朝も公式的には無視される 院政の流れが奇怪至極
亀山後宇多→後深草伏見→伏見後伏見→後宇多後二条→伏見花園→後宇多後醍醐
→南北朝に分裂
後宇多と伏見は院政やりすぎw >>798
先例だと自分の権力を正当化できない後醍醐 朕の新儀は後代の先例となる、などと言い放った後醍醐帝だが、肝心の後代の学者からは、あの時代は物狂いの沙汰が多かったから先例として不適切と断言されちゃったんだよね >>797
後醍醐という名前を変えたくなかったのでは >>811
諡号は死後に贈られるものなんだから、重祚したあとの名前を後醍醐にしてもらえばいいんじゃないの、なんでダメなの?
(重祚すると名前は2つになるけど、その名前は生前から付いてたわけではないはず……)
後醍醐という名前は本人の希望によって付けられた名前だけど、そう名付けるように遺言して付いた名前なんで、生前から呼ばれてたわけじゃないからね。 決めてたのは決めてたけど、法制度上、死後に贈るという形式は必要だったので、生前には「後醍醐という名前にする予定」に過ぎなかった
するってぇと、「醍醐は重祚してないから自分が重祚だと」って感じだった可能性? 伏見宮家の系統
https://ja.wikipedia.org/wiki/竹田宮
https://ja.wikipedia.org/wiki/北白川宮能久親王
竹田宮家の初代たる竹田宮恒久王の父親は北白川宮能久親王で、その父親は伏見宮邦家親王だ 現天皇家の祖先ではないにもかかわらず南朝が正統とされた、というべき >>819
後醍醐流は置いといて、恒明流や邦良流って続いたの?吉野じゃなくて京にいたようだけど 本来の理由は徳川が新田の系統を名乗っていた関係からで尊王とは関係ない 天皇家は血筋より継承が問題なんでね。
かりに南朝が正当でも南北朝合体時に後小松が継承した時点で北朝子孫が正統になった。 天皇家つーか日本のイエ制度はどこもそうだろ
皇室だと血統よりも三種神器と治天宣告が最重要 ちなみに朝廷側では南朝の正統性を一切認めてなくて、一貫して北朝天皇が正統であり続けたとしてきた、
少なくとも明治維新までは。 後醍醐と明治の双方を正統とするための論法なんだよな
明治維新は建武新政を範とする建前のため >>826
違いますがな。
後小松天皇が南朝の天皇位を継いだ時点では両統迭立の約束だった。
ところが約束が守られずに北朝の称光天皇が次の天皇になった時点で
南朝が正統ではなくなったのだよ。 >>831
迭立を条件として決めたのは義満で、北朝側は迭立を受諾してない。義満が当事者にことわりなく勝手に口約束しただけという認識。
むしろ合一より以前から一貫して南朝を朝敵とのみ認定しており、そちらの正統性を一切認めてない
後亀山を渋々上皇に任命したときだって、即位したことがない上皇というあつかいにした 明徳の和約は南朝と幕府が交渉してて北朝は蚊帳の外だったんだよな。後円融がブチキレてなかったかな? 合一後は、長講堂領荘園を北朝の取り分、国衙領を南朝の取り分にしたが
国衙領なんてとっくに崩壊してて、南朝は生活さえ困難に。 >>828
歴史上、新待賢門院が2人いるってことは江戸時代までは南朝はなかったことになっていたのか >>825
徳川は吉良の末流とでも名乗りゃ良かったのに。 >>834
ぶちギレたから、幕府が言った条件を全無視した
それでは面子がたたない幕府が頼んで、後亀山の上皇宣治だけは実現した
特に不満が強かったのが迭立の件 >>838
足利一門は時の権力者で家系を改竄するのが困難だったんじゃ?と推測 >>834 >>839
正平一統の前歴があるからな
足利尊氏が鎌倉へのがれた弟の直義を後顧の憂いなく討ちたいがために、
勝手に自分が擁立した北朝の天皇を廃止して、吉野の南朝の天皇を正しい天皇にしちゃったんだからww >>842
義満時代は従順というか、ひたすら「忍」の一字だったが、義満没後は逆襲に転じた。
義満に奪われた権限を一部取り返し、両朝迭立も反故にした。結構やり手だよ。 それが天皇家が永く続いた秘訣だ。 ex.昭和天皇とマッカーサー 正統な皇統の流れは、
後醍醐→光厳→後醍醐→光明→崇光→後村上→長慶→後亀山→後小松
だろう
神器の移動を基準としたものだが
後醍醐帝は吉野を脱出して南朝を開いた際には実は本物の神器を持ち出せてなかったと見ている
正平の一統で南朝に神器が接収されて正統が南朝に移ったのではなかろうか >>848
少なくとも北朝側では終始一貫して、南朝のことを反乱者と認定していてそこに正統性を欠片ほども認めてなかった
政権としての実効性も京都支配を堅持してるし、
逆に南朝の影響力は早期に低下してて、反乱を起こしたいヤツが口実として利用する以外のまともな影響力を持ってたのは数年だけだ >>851
北方さんの言葉を南北朝にあてはめると、
幕府が覇道で南朝が王道なんですよ。 少なくとも、南朝の主張するような形の正統性観念はそれ以前の日本に普及してなくて、南朝の存在そのものが異端だよな 令和天皇の次の皇統は愛子(敬宮)統と秋篠宮統の両統迭立でいこう >>852
武力倒幕と持明院系統を皇統から外そうとした、後醍醐天皇は、むしろ覇道系の天皇
その覇道の結果、後亀山天皇を最後に大覚寺系統は、二度と皇統に復帰できないと言う
結末となった >>858
なるほど、後醍醐天皇は同じ大覚寺統で、兄の後二条天皇の皇子である
邦良親王にも皇位を渡したくなくて、自分の血統だけで皇位を独占したかった訳でしたか
やっぱり後醍醐天皇は覇道の天皇と言えるわ 出来れば廉子腹が良かったかもだがいざとなれば彼らを見捨てる事にも躊躇が無い
まあ自分と自分の血統が勝者になれなければ皇位も朝廷もどうなろうと構わなかったんだろうが 後醍醐は生前退位する今上にあの世で腹をたててるかもしれない 後醍醐はむしろ譲位後にも権力を保てる立場ではなかった >>858
その証拠に後醍醐流以外の大覚寺統は吉野に行かずに京にいたよな >>862
そりゃそうだろ。
吉野に逃げ込んだ結果、院政を支えるはずの八条院領荘園が解体してしまったんだからな。 というかそもそも天皇という地位にいる以外に権力の正統性を主張できない
血統的に天皇家全体だけでなく大覚寺統としての家長の資格が無いから 血統は別に問題はないだろ。あとは治天の承認も三種の神器もきちんと受け継いだ。
そして討幕したんだから自流の子孫を皇位に就けるのに何の問題もないぞ 後醍醐天皇のやり方が、自分の血統どころか大覚寺統まで
皇統から外される結果を招いた
そして持明院統の血統が皇統を独占する事なった 実父である後宇多上皇が後醍醐を皇太子にする際に、故・後二条天皇(後醍醐の異母兄)の皇子の邦良親王を次の皇太子にするよう命じているし、
幕府や持明院統関係者にもその承諾を取りつけている
そもそも後二条天皇の嫡男たる邦良親王ではなく後二条の庶弟を皇太子としたのは邦良親王が幼すぎたからにすぎず、大覚寺統の嫡流は邦良親王だった。
この段階では後醍醐天皇は庶流であり中継ぎであると誰もが認識していたんだ。
後醍醐帝はそれを不服として後宇多上皇の院政をやめさせたり、既定方針を守らせようとした幕府を倒したりして秩序を打破した覇王。 うん、別にそれでいいじゃん、幕府なくして建武政権になったんだから。それに後宇多も親父の亀山の遺言を反古にしてるだろ そして建武政権も倒れてそれも無効
後醍醐の子供たちに対する対応にはそうした子の親への裏切の連続も反映していたかもしれない 後醍醐天皇の諱は「仁」が付かないけど、何か訳ありなの? >>870
まあ亀山の遺言は恒明を将来立坊させろ止まりなんだよな
後宇多流が嫡流として確立しているあの時点でまだ幼い恒明を嫡流にしろとまでは要求できなかったわけで >>872
後醍醐天皇の親王達も「良」で「仁」が付かないけど
(例えば、護良親王)
何故なんだろうね 後鳥羽順徳仲恭後二条も「仁」がつかない
鎌倉時代はちらほらいる 時系列、例えば神代〜人皇〜という話など
そういうのがデタラメだからなんだよ
と言ってる人がいたでしょ、
超時空マクロス・・・そういうのと同じだとか 北朝の光明天皇が在位してなかった扱いなのに
どうして江戸時代の後水尾天皇の皇子が後光明天皇となるのか?
江戸時代の感覚では南朝こそ偽朝だったのか? そうだよ
少なくとも朝廷側では、過去の南朝は朝廷ではないと認定されていた ttps:// ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11967020427.html?frm=theme
そもそも後醍醐は本来天皇以前に親王にすらなれる人間じゃなかった
後宇多は尊治(後醍醐)の親王宣下を拒否するが絶対に親王になる野心の尊治は自分の生母すら使って祖父の亀山に取り入って
好色の亀山が生母を自分の後宮に取り込む形で親王宣下を下す
後醍醐が大覚寺滅亡の原因だって言う意見にはもちろん別に異論はないが
そもそもその後醍醐を皇位継承者にさせる行為をした亀山にもぶっちゃけ大きな原因が有る
正直言えば大覚寺は始祖の亀山自身が滅亡の原因と言い切ってもおかしくない >>877
南朝が正統は明治からだよ
江戸時代に新待賢門院がいた。阿野廉子も新待賢門院だが南朝はなかったことになってたから被ってても問題なかった >>881
三種の神器を持っていたのが南朝だったから 明治維新に際して南朝正統を採る水戸学の影響が大きかったから
明治天皇も自分を支えてくれた元勲達の思想信条を無下にできなかった >>883
その水戸学の創始者、光国が兄の頼重の子を後継ぎにしているのに
後醍醐天皇が、兄の後二条天皇の子や孫に継がせなかったのを
不忠に扱わないのも矛盾してるよね。 後醍醐と本来同じ役割を与えられていた北朝の花園が
きちんと裏方に徹してるからどうしても後醍醐の自己中さが目立つ
大覚寺統は持明院統と違って天皇経験者の連携が取れてないよね 上にあるように後醍醐の親王宣下に後宇多が反対していたことが事実なら、大覚寺統は亀ちゃんの時点で終わっていたということか >>883
黄門さんは南朝正統という意図はなく楠公を顕彰したんじゃないと聞いたことがあるけど。 >>872
>>874
後醍醐の父の後宇多の頃から子供に「仁」ではない字を当ててるな
後宇多皇子・治
後醍醐皇子・良
後村上皇子・成
長慶や後亀山はよく分からん
長慶皇子を泰と主張する人もいるがその辺りも分からん
亀山も途中までは仁だったけど後の方は関係無い字だったりするし
大覚寺はその時の天皇で息子の通字を変えてたみたいだし >>888
大日本史の骨格は光圀存命中に完成している
南朝の天皇を本編に書き、北朝の天皇を外伝のように設定して書いた それでも合体以後は旧北朝が正統で後南朝は無視
>>886
そもそも始祖の亀山が弟系だから弟系の統制が取り難い
そこを問題にしたらそれこそ亀山の正統性にも関わってくるし >>889
後二条天皇(邦治)の 息子は 邦○だけど
孫の世代は ○仁なり 曾孫は 邦○
大覚寺統は よくわからん命名してるよね。 本家とは異なる命名規則を使ったってことは、自分たちは分家だ、別家だと認識してたってことじゃないの >>897
醍醐〜村上〜円融〜 が皇統の本流になったけど
後醍醐〜後村上の次が 後円融じゃなく長慶なんだよね。
後円融は北朝第5代目にとられたのかな >>894
南朝正当という割には新田には男爵。楠木正季系の甲斐庄には爵位すら与えてないな。 政党王朝は南朝で、その南朝に尽くした新田一族である徳川は朝廷の中心ってのが
最初期の水戸学のスタンスだしね >>901
水戸学の源流は家康の系図詐称に端を発しており、
それが幕末動乱に繋がると考えると興味深い みなもと太郎『風雲児たち』
「若かりしころの水戸黄門が、『宋書』を読んで感動したことが、江戸幕府滅亡の原因となる」 光厳から後円融までの北朝の5人の天皇は歴代天皇に含まれていないが、南朝の後村上は97代、
長慶は98代、後亀山は99代に数えられてる
淡路廃帝(淳仁)や九条廃帝(仲恭)でさえ歴代にカウントしたのに、北朝の5帝が無視されてるのは
明治時代の7不思議の一つだな(残りの6つは知らん) そりゃ倒幕運動の思想的背景に南朝正統論が入ってるからな
その信仰ゆえに、北朝は偽帝ということにしなくてはならなかったんだよ あんまり後醍醐を崇める気にならない。
今に続く皇統は北朝の末裔なのだから。 北チョン南チョン
うるせーんだよオマエラ
ここは日本史板だぜ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 馬鹿は死んでも治らない、か。
せめて中国史を語るな位言って欲しかった。 >>905
それでも合体以後は正統だからな
系図的にも偽帝というより仮帝の扱い 合一までは南朝が正統だという主張自体が南朝による一方的な主張にすぎず、それを信じてるのは当時ですら一部にすぎなかった
むしろ北朝の主張である、南朝は一貫して賊であり偽帝であるという主張の方が、多少なりとも賛同が多かったし、そこまで極端な主張でなくとも南朝よりは北朝を支持する人が多数派だった 日本も中国も南朝が正当なのは現職のお上が南に逃亡したのがでかい。 中国の南北朝の時は、北から逃げて南で即位したんじゃないぞ
左遷でもともと南にいた皇族が勝手に離反して即位しただけで、正統性の度合いは蜀漢より少しましな程度
当初から正統性に疑念があったらしい 南朝の最大の正当化の根拠は現職優先という点
そしてそれまでの途中退位は強要だったから無効
それに最初の即位の時点では全体の合意が存在していた
ただしなった以上降りるかどうかは現職の勝手であり自由 >>912
有名な資治通鑑でも中国の南北朝は現役北宋の正当性を揺るがすデリケートな問題だぞ。日本の南北朝と度合いは同じ。 強要で退位した天皇が後醍醐より過去にはいなかったかのごとき詭弁だな、それ >>913
南朝の正統性主張の最大の根拠は三種の神器を持っているということだろ >>910
いやいや足利が武力で擁立したのが北朝だから
内心では比叡山も住吉大社も南都も南朝支持だよ >>916
南朝成立当初の状況を見れば神器保持の主張はウソで本物を持ってるのは北朝だった可能性が高い
南朝が神器を入手したのは正平一統のときで後醍醐ではなく後村上のときだろ だが歴史の定説は南朝による保持。
それを覆すのであれば証拠を添えて唱うるべし。 南朝を正統としてるのは歴史学じゃなくて政治問題によるものだぞ
学者は正統性に口出ししたがらないが、南朝正統と考える人はゼロに近い まあ異常なまでに自負心の強い後醍醐にしてみれば俺が持っていれば本物だくらいのつもりだったんだろうが つまるところ南北朝時代なんて結局は後醍醐という存在を肯定するか否定するかって事だけなんだよな 戦国時代、元禄時代みたいなサブタイトル的な区分だろ。 後醍醐は立ち位置的にヘンリー七世に近いか。
お後がよろしかったが。 まさに後醍醐の怨霊に振り回されたという感じの後世
その意味からすれば南朝正統はせめてもの鎮魂術といったところか
もちろん合体後の後南朝は無視で h ttps://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11967020427.html?frm=theme
この説から言わせりゃ始祖の亀山自身がそのまま滅亡の種を撒いたと言うのは別におかしくない
持明院が基本一本化でまとめようとしてるのに大覚寺はどんどん家を分裂させている
これは結果論的にも悪い方向にしかなっていない 後宇多「一本化したかったけど親父と息子が邪魔するんだもん(´・c_・`)」 後醍醐天皇の子孫で確実なのはいない、怪しげなものだけ。 持明院統も崇光流と後光厳流に危うく分裂しそうになったな。後小松はよくやったよ 後継者がいなかったのだから、どうしようもなかっただけ >>934
そして、あおりをくったのが一休さん
後光厳流で続投できる余地があるなら還俗して皇太弟になれるはずだったのにな >>930
それはおかしいだろ
亀山は別に後嵯峨みたいに曖昧な態度をとったわけじゃない
ちゃんと後継者を指名してから死んだんだから責任は無いよ >>937
後嵯峨には権限がなかった
出家予定で23歳まで元服もしていなかったが
四条天皇の夭折で急遽、鎌倉幕府に擁立された
だからどちらにするかは鎌倉幕府に委ねると言って死んだ
委ねられた執権・北条時宗が両統迭立にすると言った 権限がなかったってのは誤解や勘違いの類いだがな
承久の乱は幕府から見れば辛勝で朝廷から見れば圧倒的大敗
幕府側は承久の関係者の復員は絶対的に避けたい、トラウマものだったが、朝廷側はこれもトラウマもので関係者の復員は想定外
配流者の孫を即位させても配流の取り消し(帰京)は考えがたいし、かりに帰京させたとしても院政をすることなどあり得ないと思って、残留皇族のうちでもっとも世代数の近いものを登極させようと思ったが、
それが幕府側のトラウマ直撃して、幕府としては自らの存亡をかけてまで阻止しようとしたわけだ
この辺のすれ違い、認識のずれゆえに朝廷の権限が過小評価されてるだけ 時宗も一応は後嵯峨の後家にお伺いをたてたようだが。朝廷と幕府のコミュニケーションが上手くいってなかったのかな? 北条義時なんて天皇になれたはずなのに、相模守のままというのが理解できん 源氏から天皇になった人はいるが平氏から天皇になった人はいないからな 後南朝の宮たちの大多数は出家してるのに担ぎ出されてるけどな
つまり、無理なわけではなくて、ほかに候補がいなければ天皇になれるはずだと認識する人がそれなりに多く居たってことだろ 出家は無理とか言うけどそもそも天武も一旦出家したし 源氏平氏に格の差はない
平安時代になると臣籍降下のときには基本的に源氏になる
桓武天皇の代で別れた(平城以後の天皇の子孫ではない)皇族が例外的に平安京からとって平氏となってるだけ 天皇を辞めさせたり、別のやつを呼んできて皇位に就けたり、上皇を流刑にする奴 及び
その子孫が四位・五位のままということは普通ありえない
普通、大臣くらいにはなるし、天皇になってもよかった それが右馬頭だのなんとか大夫だの
兼 相模守のままというのが解せぬ >>958
一世(天皇の子)賜姓は源、二世三世(孫、ひ孫)賜姓は平と
基本的に皇統に近い方が源氏、遠い方が平氏という決まりはあった
ただ清和源氏のように源氏二世賜姓が例外的にあったことも
ただ奥富 敬之の言うように平安遷都の熱狂がうすれた100年後には賜姓は源氏のみに >>942
親に取り入るのは上手いという亀山は隋の煬帝にも通じる点がありそう >>937
亀山の遺言は「恒明を立坊させろ」だけ
もちろん状況によっては大覚寺統の嫡流になる事への含みもあったんだろうが >>964
関東申次・西園寺公衡(恒明親王の伯父)が
亀山法皇崩後、亀山の遺勅であるといって恒明親王立坊の話を
鎌倉幕府に持ち込んだことは事実だが
孫の皇太子に息子を立てるなど皇統を混乱させかねず
西園寺家の強引さが全面に出た話だったはず >>940
それは違うな
朝廷や九条家は後鳥羽上皇を許して帰京させてもいいと思ってたが幕府に突っぱねられたし
承久の乱後、朝廷は次期皇位継承者についていちいち鎌倉幕府にお伺いを立てていたよ
しかし関東にいる鎌倉幕府は京にある朝廷の内情にそこまで詳しくないので
関東申次を世襲している西園寺家に情報伝達を一任していた
鎌倉時代に西園寺家が天皇の外戚として摂関家を凌ぐ巨大権力を手にしたのはそのため
実際、西園寺家があれこれ鎌倉幕府に吹き込んだことで皇位継承が覆っているし
それが皇位継承を余計にややこしくした 幕府にとっては、乱が辛勝(幕府主観)だったからこそ、承久の乱の責任者たる三上皇の復帰は絶対に避けたいことだよ
中でも後鳥羽は絶対に論外。
幕府の危惧としては、上皇が雪辱を期して復権する危険が少しでも出るようなことは許容し得なかった。
朝廷側の主観ではトラウマ級の大敗だったから関係者は帰京を許しても復権は有り得なかったんだろうけど、幕府はそうは思わなかった。
帰京を許せばきっと復権を果たし、再度の挙兵の果てに、こんどこそ倒幕を成し遂げるのではないかと強く恐れていた。
三上皇の内でも最高責任者である後鳥羽こそ、絶対に帰京させてはならない危険人物だったから、突っぱねるのが当然だよ。
三上皇問題なければ、幕府としては皇位継承に干渉したくなかった。
ただ、朝廷内での主導権争いで劣勢になった者が捲土重来を期して幕府の干渉を求めたので、関わらざるを得なくなっただけだ >>967
承久の乱の勝利者となった鎌倉幕府が三上皇の配流と仲恭天皇の廃位という皇位継承に首を突っ込んだことで
結果的に鎌倉時代を通じてすべての皇位継承は鎌倉幕府の承認が必要だという慣例になったんだよ
皇位継承に関わりたくないならまだ幼かった仲恭天皇の廃位などしなければよかった
後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒したのは倒さなければ両統迭立で持明院統に皇統を持っていかれるからで
鎌倉幕府が皇位継承に興味がないなら後醍醐も勝手にやらせてもらおうで終わった話 >>969
後醍醐天皇が鎌倉幕府を潰したら持明院統は黙っただろ
それが「建武の新政」
天皇は後醍醐、皇太子は後醍醐の皇子
持明院統は排除して後醍醐の子孫だけが皇統を継ぐことと決められた
持明院統は鎌倉幕府に変わる新たな武家政権・室町幕府を認めることで
武家政権に皇位継承に立ち入ってもらわなければ皇統の奪回などできなかった >>970
>後醍醐天皇が鎌倉幕府を潰したら
幕府を潰しただけじゃなくて持明院統の天皇を廃位したんだけど
武力で捕虜にした上での廃位だ。しかも、ただの廃位じゃなくて、皇位に即いたこと自体を無かったことにした。
かなり強硬な弾圧だよ、どう見ても強制的に黙らせてるとしか言えんだろ さすがにやりすぎたと思ったのか公家にツッコまれたかはわからないが光厳を太上天皇扱いにしたし。一応光厳は後醍醐の婿だからかな >>971>>973
どれも鎌倉幕府が皇統に口出ししていたことの査証だよ
幕府が口出ししてくれなきゃ後醍醐天皇が好き勝手できたんだし >>975
そもそも、幕府が口出ししないと内乱になりかねなかったから干渉した
最初の不本意な干渉となったのは、ちょうど猛虎襲来の直前交渉の時期だしな
蒙古の危機が去ったから勝手にしろと突き放して後二条を皇太子にたてさせず持明院統に任せてたら平和に終わってたんだ >>976
鎌倉幕府が口出しする前までは朝廷内で勝手にやってたこと
鎌倉幕府が「俺が皇位継承を決めてやるからなんでも言ってこい」
と口出ししだした >>978
幕府が皇位継承に干渉してたからだよ
干渉しなければ後嵯峨と大宮院の意思で亀山が正統となり両統迭立は起こってなかった >>982
後嵯峨の内意ってのが実在してたら混乱しなかった
なかったから混乱して、収拾の目処がたたなかったから幕府が呼び込まれたんだよ
幕府からは、嘘でもいいから内意があったことにするよう求められ、後嵯峨の内意なる代物がでっち上げられた 後嵯峨は治天の君指名に関してはあやふやだったのに
後鳥羽の法事権を修明門院から取り上げたり
公家には強気だよね >>984
内意は亀山
大宮院がそう証言している
ところが約束を反故にして鎌倉幕府が口出しした その証言は偽証だと、当時は広く信じられていた
少なくとも、多くの政敵が偽証だと信じて不満を明らかにしていた 亀山が治天に決まって後深草が怒りの出家。これで一件落着だったんだけど…。時の関東申次、西園寺なんとかが幕府によからぬことを吹き込んだと。この後に後宇多の次の皇太子が持明院統の伏見になった >>993
亀山が西園寺の后をスルーするから西園寺家から嫌われたんだよ
せめて洞院の后並とまではいかなくても
ある程度の扱いはすべきだった >>995
恒明親王母の昭訓門院は確かに西園寺実兼の娘だけど亀山晩年の后
亀山の扱いが冷たかったのは初期の頃の后の今出川院(実兼妹)
若い頃の亀山は洞院家の后、京極院ばかり寵愛していて今出川院にはその位に見合う扱いをしなくて
今出川院は父親の死を機に亀山の元を去った 西園寺実兼も必死だな。確か持明院統のほうにも中宮を入れてた気が。
権勢を保つには外戚で居続けなきゃならないんだな そもそも後深草も亀山も母大宮院が西園寺の人
元々今出川院は大宮院の養女格で入内しているから
西園寺の分家筋にあたる洞院と差がある扱いするというのは恥をかかせてるに等しかった このスレッドは1000を超えました。
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