【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
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南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか? 懐良と違って吉野南朝との連携を欠いたんではないか、という意味じゃないの >>628
懷良と菊池は九州独立を目指したのでは? 南朝皇子は大なり小なりその傾向があったようだね。
一番メジャーなのが北関東の藤氏一揆でしょ。
興良親王を担いだとも言われてる。 >>629
吉野側の令旨と九州側の、それぞれの発給文書の照らし合わせ研究の結果から、かなり末期まで独立志向ではなく連携指向で動いていたと考えられるようになった模様 新田の北陸王朝は独自の年号使って半独立、
藤氏一揆は明らかに北畠に非協力的だったな。 九州の独自性は距離の問題もあるだろうな
ある程度の専行が認められなければ状況の変化に対応出来ないと 征西府からの発給文書について、吉野方の追認文書を欲しがるものが多かったり、
征西府を経由せずに直接に吉野と交渉したがるものがいたりして
割りと複雑だった模様 後村上は懐良を呼び戻して片腕として働かせようとしていたようだし、
決して二人の関係は悪くなかったと思う。
興良は後醍醐に迫害された護良の息子だから吉野に反発するのも当然、
新田も恒良も捨て駒扱いだから独立しようと考えても不思議ではないわな。 独立ってのがまずできない
鎌倉室町にかけては自分に正当性があるんだ〜!って在地の豪族らに味方になるよ〜に募集かけるスタイル
どこか陣所に腰掛けてどれだけ兵が集まるか?ってのも賭けなんだよ 自分の身内の兵数なんていいとこ300人くらいだぞ
武辺とか名前が売れてるとかで集まる兵の数がまったく違ってくる
木曽義仲なんてのも上洛したときの主力兵なんざ丹波兵が多かった
在地に行ったときは在地で兵を集めるんだよ >>637
足利尊氏全国で7000余。新田義貞越後新田党などをあわせて1500。 逆賊に神風吹いた多々良浜
さぞかし戦前は説明し辛かったろうな 638
全国ってか三河くらいしかいないだろ
三河で集めて上洛んとき一万てやってたが? >>640
北は陸奥から西は美作まで。丹波篠村で後醍醐方に叛いたんだが、丹波にも足利の拠点があった。 >>641
637さんが300とかいうから、新田のような貧乏御家人でも1500程集めてるぞと言いたかっただけ。
東関東系といっても義家流はほとんど尊氏に従って京都に行って、信濃源氏や佐竹とかの義光流が多かったんでは?山名とかは新田一族でも尊氏に従ってたんもんね。 足利新田の私兵といっても、 その多くの割合が、分家達の私兵だ
だから戦時においては本家が一方的に威張れるものではなく、
分家達の助力が必要だった >>644
新田も山名には相手にされず尊氏に従われ。岩松は信濃源氏を勧誘に行き別行動。
でも越後新田党は「本家の一大事」と里見が旗頭になり大館・大井田・田中・羽川と碓氷峠に馳せ参じる。 佐々木京極、土岐らの系統違い源氏も源氏の棟梁という概念での集合意識が多少はあったのかな >>642
丹波は母方の上杉じゃないかな
実際集まった中に細かい清和源氏系もいたかもしらんが それ自体がもう一つの幕府だった北条得宗家単体の動員力はどのくらいだったか 御内人って北条氏の家人ってことだろ
高一族は足利の家人だから、間違ってはいないがな
んで、徳川の家人は旗本・御家人と譜代大名だ >>651
徳川の御内人は長崎や高ほど権力ないみたい。 徳川の家人の筆頭とは要するに老中だぞ
長崎とか高より権限が少なく見えるか、お前さんには? >>653
ドラマで見た感じでは長崎円基は執権の金沢貞顕や赤橋守時をあごで使っていたし。
高師直も足利直義を追い落そうとしたりしていたぞ。 高氏没落の後は特権的な家人というのは無くなったんだよな
その意味でもあれは画期だった そういや室町時代は御内人で権力握る人少ないね
上杉のち日野のような嫁権力は鎌倉時代と同じく出てくる
侍所など官庁の官僚的なのも多少出てくる蜷川とか伊勢とか
満済は幕府組織的にはどこから出てきたんだろ 有力守護大名一族の一系を大名に一系を身内的な将軍直属権力へと
分断策として一族内の数人を色々な所に配属して本家争いをさせるみたいな政策だから
この一族は身内人だと単純に括るのが難しくなってる 鎌倉時代に御内人という特殊な身分が発生したのは、北条氏が実質的な
支配者であったにもかかわらず名義上の主君ではなかったからでしょ。
室町、江戸の両幕府にはそういうねじれはなかったから、そういう特殊な
身分も発生する余地がなかった。外様だろうと譜代だろうと徳川家の家人で
あることには違いないし。
敢えて比較するなら、藩政・幕政を壟断した家老・老中の家臣がそれかもしれないけど。
井伊大老家中の長野主膳とか。
>>651
外様大名だって徳川家の家人だぜ。 つっても、普代が従者的な立場に近いのに対して外様大名は家礼に近い立場だぞ、客人と部下の中間。 源将軍→執権→得宗の内管領とどんどん内側の実務層に実権が移ってく様はたしかに興味深いが
様相としては戦国時代の下克上と似たようなもんかも
平禅門や長崎が北条得宗を打倒しなかっただけ 正平一統の前の北米朝と幕府の間にはいろいろと悶着があったみたいだな >>663
室町時代の後期にも将軍→管領→三好→松永という同じような構図があったね。 長崎とかは滅んだあと得宗のもとに権力が戻ったけど、
三好松永のあとは管領に権力戻ってないんだよな 斯波も細川も畠山も
分裂してたり家臣に実権奪われてたりで
所領の実効支配ができてないし
幕府権力そのものが有名無実化してたからな >>667
でもまた長崎へ移った
北条貞時は平頼綱を滅ぼした後、
御内人を統率する内管領を北条一門の北条宗方を任じた
そして10年後の嘉元の乱で貞時が連署の北条時村を滅ぼすが、
北条氏庶流(大仏宗宣ら)の反発が強まり、鎌倉が騒然となる
貞時は父時宗の二月騒動に倣って、下手人11人を処刑して事を収めようとしたが、
収まらない。結局、北条宗方を斬り、平頼綱と同族の長崎高綱を後任の内管領に
任じ、大仏宗宣を後任の連署に任じたことで収束したが、貞時は統治意欲をなくして遊興にふけるようになった。また幕政の実権は長崎高綱が掌握するようになった。
ここからは史料がなくてもうそうだが、この一連の出来事で大仏氏ではなく、
長崎氏が幕政の実権をなぜ掌握できたのか?
それは貞時と北条氏庶流が対立した時に、長崎氏ら御内人が「動かなかった」からではないか。だから貞時は庶流に屈服せざるをえなかった。庶流も長崎氏のおかげで勝てた。だから長崎氏が幕政の実権を掌握できたのではないか。 まさに御内人自体が独自の勢力として確立していり感じですね
大河ドラマでもやってましたがまさに長崎氏がキングメーカーに 御内人の実像としては河内の楠木氏のような中小地頭などの悪党勢力をイメージしてる(正しいかどうかわからない)
田畑水利だけじゃなく各地の河川、港湾、街道などで得宗の名を利用して儲けてた層のボスとして長崎がいたんじゃないかと
そしてそれらは得宗権力崩壊後、南北朝どちから縁故が深い方を奉って各地での利権争いを継続していった感じ 北条って権力の大きさの割に儲けてないイメージ
んで楠氏って零細じゃなさそうなイメージ、ってか地頭じゃなくひょっとしたら御内人じゃないか? 畿内を活動地盤にしてる武士の大半が当時は商工系だったという説もあるがな
楠も赤松も特殊ではなくむしろ普通だとかで。 名和はよく言われてる通り日本海側で海運業に従事してた武装商人集団でしょ >>677
後醍醐を隠岐から脱出させたのは、阿波にいた新田の支族の岩松の流れをくむ海運業者と聞くが。
名和が海運業者なら名和の手でやったらいいのにと思うんだが。 名和には後醍醐を救出しに行く義務も義理もない
よって船を出す理由が全くないだけの話 海運するにしても自衛戦力がいるし
金貸して借金のカタとして土地や下司や地頭職などを持ってたりもするし
という感じじゃない
名和の実態について詳しく調べたことないわ 尊氏と直義の政治的態度の違いについてよく議論されるけど
尊氏はこういう層も含めた総合的な頭領を目指したのに対して
直義は源氏与党含めた関東武士と従来的支配者(貴族寺社など荘園領主)の正当権利しか認めなかった
と捉えてる 高野山、興福寺など権門領主の寺社が
薬屋、情報業、酒など食品産業、各種建築工匠などを兼ねた総合コングロマリットみたいな感じになってくのもこの時期 永代供養とかでまとまった寄付をもらっても、毎年の法事の度に資金は減って、しかし新しい収入は他の人の供養の分しかない
(荘園領主としての収入が別にあるけども)
なら、利殖で預かった財物を増やして年々の供養代に充てないと永代という言葉が嘘になってしまう
そのために寺院が利殖を行わなくてはならなくなったのだと聞いたとき、目から鱗が落ちた気がした >>683
そう言えば、2-3年前高野山財テク失敗してたな。 利子とか利息ってのは伝統的農耕社会の価値観では理解できない不労所得なので、
神仏の権威を背後にもって初めてできたんだ、って説も聞いたことある。
ユダヤ人みたいな被差別民だけが金融に携われた、てのとも通じるものがあるな。
聖なるものと賎なるものは紙一重ってことで。 楠木の観心寺も南朝として数代で敗れたわりに凄いお宝所蔵してるし
もうちょっと時代は下るが根来寺なんかもすごい堂舎がいくつも建ってて
企業としての当時の栄華を感じる 最初の徳政例を見ても当時の時点で貨幣経済化が相当に進んでいたのが分かる 為替が成立してたって言うもんななんでもありの信用のない時代に信用経済が成立してる二面性が面白い 茶道、華道や能のような現在につながってる文化は割とあるけど
現在にまで繋がってる(土倉馬借車借のような)資本ってあんま無いよね酒屋くらい?
京都や近江の質屋や薬屋などではあるんだろか 目に見えて金を持つと物理的な武力で潰されるからやない?
時代は少し下がるけど呂宋助左衛門みたいに 亀山は出来れば恒明を大覚寺統の正嫡にしたかったのか 治天と現役天皇が争ったときにどちらが優位かってトコを見せつけた事件だろうな
結果として現役優位(例外あり)って感じで落ち着いたってことだよな 大覚寺統の分断を狙ってか持明院統が亀山に加勢したのもポイント 口約束?
証文みたいなの書かせてただろ?
それでも反故にするんだけど 亀山がそう遺言していただけ
分断を煽った伏見はおそらく北朝系歴代では一番の策士 父との約束を反古にした後宇多
しかし次は自分の約束が息子に反古にされる >>703
記録が乏しいからクズ行動が目立たなかっただけで実際は互角のようだぞ、どちらも大概だ。 実子と権力争いしてヌッコロしてしまう(まあ実行犯は直義なんだが)ようなのは天皇家では珍しい。
日本史全体で見ても戦国時代以外にはほとんどいない。まあ戦国時代に入ってからならば武田信玄とか複数の大名で例があるけどね 南朝は、いっそのこと新天地を求めて東南アジアにでも行けばよかったのに
そこで新王朝を開いていれば、世界史も変わってた せめて九州だろw
幕府も本土さえ対抗勢力がいなきゃ九州くらいくれてやれという気が起きたかもしれん >>707
それは何て鄭成功?
>>708
いやいやw
尊氏自身も九州へ敗走した後に巻き返して湊川で勝って京を制したんだから
「たかが九州」とは思うまい 大覚寺統の最大の弱点は弟系の再分派に歯止めが掛けられない事
それを問題にしたらそれこそ持明院統に譲らざるを得なくなる >>710
大覚寺統は後二条天皇とその嫡子邦良親王のように嫡流の早世があったせいだろう
持明院統は早世があまりいなかったために嫡流が力を持ち続けた 亀山が末子(後宇多の異母弟)を次期皇太子にしようとして後宇多と揉めたのは誰か死んだせいか?違うだろ 亀山が父である後嵯峨の二の徹を踏もうとしたんだよな
恒明は甥の後醍醐より大きく下
ある意味ではその存在のおかげで妥協案として後醍醐が即位できたわけだが >>712
恒明親王は結局即位していないので
分裂も何もしてないじゃないかw
恒明親王は母親が西園寺家なので
むしろこちらが嫡流だった 恒明親王の生母は伏見や後醍醐の中宮たちとは姉妹関係なんだよな
この辺りも政局にかなりの影響を与えた感じ 大覚寺統は真言宗系
持明院統は天台宗系
みな見落としているが宗派戦争の側面が
あったように思える >>718
持明院統の天皇の皇子が仁和寺(真言宗)御室になっているし
大覚寺統の天皇の皇子が延暦寺(天台宗)天台座主になっているので無関係 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
OZ8IT 最近また南北朝テーマの新書がいくつか出てたが前史部分に無かったな恒明親王 初代にあやかって○○流ではなく
○○統と呼ばれたのはなぜでしょう? わかんねーけど
流だと〜流の子孫はだんだん増えていくけど
統だとそうじゃないイメージじゃないの?
皇位継承とはほど遠くなった傍流の子孫は〜流にはなるけど、〜統にはならないみたいな? 岩波新書の最新刊によると亀山の遺志は恒明を大覚寺統の正嫡に据えろという意味だったとのこと
もっともあくまで生きていればこその院政で死んでしまえば秀吉の遺言と同様(ある意味ではその元祖)
そして次にはそれを破った後宇多自身にもそれが回ってくる >>723-724
〜統も〜系も〜流も〜派も〜家もぜんぶ同じだよ
ただ、二人以上天皇がいれば〜朝でもいい
〜家の場合はそういう「家名」という意味じゃなくて「〜〜の家筋」みたいな軽い意味
統も系も「すじ」ってこと、流も派も「枝分かれ」ってこと
枝分かれするからいろんな筋も生まれるわけで要するに同じこと
大覚寺統を大覚寺系、大覚寺家、大覚寺派、大覚寺流といったからって
別に大間違いというわけではない。ただの慣習だよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています