【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか? 口約束?
証文みたいなの書かせてただろ?
それでも反故にするんだけど 亀山がそう遺言していただけ
分断を煽った伏見はおそらく北朝系歴代では一番の策士 父との約束を反古にした後宇多
しかし次は自分の約束が息子に反古にされる >>703
記録が乏しいからクズ行動が目立たなかっただけで実際は互角のようだぞ、どちらも大概だ。 実子と権力争いしてヌッコロしてしまう(まあ実行犯は直義なんだが)ようなのは天皇家では珍しい。
日本史全体で見ても戦国時代以外にはほとんどいない。まあ戦国時代に入ってからならば武田信玄とか複数の大名で例があるけどね 南朝は、いっそのこと新天地を求めて東南アジアにでも行けばよかったのに
そこで新王朝を開いていれば、世界史も変わってた せめて九州だろw
幕府も本土さえ対抗勢力がいなきゃ九州くらいくれてやれという気が起きたかもしれん >>707
それは何て鄭成功?
>>708
いやいやw
尊氏自身も九州へ敗走した後に巻き返して湊川で勝って京を制したんだから
「たかが九州」とは思うまい 大覚寺統の最大の弱点は弟系の再分派に歯止めが掛けられない事
それを問題にしたらそれこそ持明院統に譲らざるを得なくなる >>710
大覚寺統は後二条天皇とその嫡子邦良親王のように嫡流の早世があったせいだろう
持明院統は早世があまりいなかったために嫡流が力を持ち続けた 亀山が末子(後宇多の異母弟)を次期皇太子にしようとして後宇多と揉めたのは誰か死んだせいか?違うだろ 亀山が父である後嵯峨の二の徹を踏もうとしたんだよな
恒明は甥の後醍醐より大きく下
ある意味ではその存在のおかげで妥協案として後醍醐が即位できたわけだが >>712
恒明親王は結局即位していないので
分裂も何もしてないじゃないかw
恒明親王は母親が西園寺家なので
むしろこちらが嫡流だった 恒明親王の生母は伏見や後醍醐の中宮たちとは姉妹関係なんだよな
この辺りも政局にかなりの影響を与えた感じ 大覚寺統は真言宗系
持明院統は天台宗系
みな見落としているが宗派戦争の側面が
あったように思える >>718
持明院統の天皇の皇子が仁和寺(真言宗)御室になっているし
大覚寺統の天皇の皇子が延暦寺(天台宗)天台座主になっているので無関係 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
OZ8IT 最近また南北朝テーマの新書がいくつか出てたが前史部分に無かったな恒明親王 初代にあやかって○○流ではなく
○○統と呼ばれたのはなぜでしょう? わかんねーけど
流だと〜流の子孫はだんだん増えていくけど
統だとそうじゃないイメージじゃないの?
皇位継承とはほど遠くなった傍流の子孫は〜流にはなるけど、〜統にはならないみたいな? 岩波新書の最新刊によると亀山の遺志は恒明を大覚寺統の正嫡に据えろという意味だったとのこと
もっともあくまで生きていればこその院政で死んでしまえば秀吉の遺言と同様(ある意味ではその元祖)
そして次にはそれを破った後宇多自身にもそれが回ってくる >>723-724
〜統も〜系も〜流も〜派も〜家もぜんぶ同じだよ
ただ、二人以上天皇がいれば〜朝でもいい
〜家の場合はそういう「家名」という意味じゃなくて「〜〜の家筋」みたいな軽い意味
統も系も「すじ」ってこと、流も派も「枝分かれ」ってこと
枝分かれするからいろんな筋も生まれるわけで要するに同じこと
大覚寺統を大覚寺系、大覚寺家、大覚寺派、大覚寺流といったからって
別に大間違いというわけではない。ただの慣習だよ 持明院統は後光厳流が主流だったのに
結局残った皇統は崇光流という、なんだかな 崇光流3代貞成は
息子の彦仁王が即位しなかったら
親王にすらなれなかったろう だが、崇光の帰京時には後光厳続投か崇光復位かでもめてるぞ
普通なら復位を検討することすらあり得ないのに、だ >>728
西園寺家は鎌倉末期のキーマン
だからこそ建武の新政では真っ先にシメられたとも言えるが 明治期の皇族男子がたくさんいた時代、
最小公倍数的な先祖は貞成親王なんだよな
2人しか王子がいなかったのに、すごい とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
GOW 御花園帝の後、践祚しても即位できないほどの貧乏が待っていようとは 三種の神器は吉野に行く前に北朝に渡っている
(その証拠に南朝は奪い返しに行ってる)
後醍醐天皇が吉野に持っていったのは皇太子を立てる時に時に新旧の皇太子間で継承される皇太子の剣
それがなかった北朝は皇太子を立てられなかったはずだから、皇太子が存在しなかった期間に後の天皇が存在したはずもないということで
明治天皇は南北朝時代(皇太子の剣が南朝にあった期間)の南朝を正統とした。
でもまあ、南北朝時代三種の神器と皇太子の剣が別れてしまってわけだから真の意味での天皇は後醍醐天皇で止まってて
後醍醐天皇以降のどちらが正統かと言われるとどちらも正統ではないんではないかな
後小松天皇の時に全部揃ったけど後小松天皇が皇太子の時にはまだ皇太子の剣は南朝にあったから真の意味での天皇が再び登場したのは称光天皇からではないかな >>574
あの有名な湊川の前の軍議でも都を出るのを嫌がってたからな
結局もはや本物の天皇としては戻れなくなったが
正成ある限り安心されたい
逆に言えば
俺が死ねばお前も終わりだ なるほど、この当時の正当性は治天の承認や三種の神器ではなく、平安京を占領しているかどうかか。ちょっと納得 >>740 >>574
正成も湊川から逃げようと思えば逃げることが出来た。 >>742
庶民にも一番分かり易いからな
軍事力の優劣という点でも
だからこそ親房は三種の神器の重要性を強調しなければならなかった
この時の南朝の神器が本物だったかはともかく 利害の対立する奴が北朝についてるなら南朝につかざるをえんわな 自分の皇子の即位を見られずに死んだ土御門
自分の皇子が即位できないのを見せつけられて死んだ順徳 まあそのへんは承久の乱がなければ皇位に就いてないし なければずっと順徳系だったのな
後の御深草と違って土御門なら父の意に従いそうだが 親王って定員あったの?
両統あって勢力争いしてたら、どっちも高位高官ばらまきそう それにしてもどちらの土地が広いとか、人間臭くてつまらないことが原因で争ってんだな >>749
親王はともかく、摂関とかの高官(のいちぶ)は大覚寺統か持明院統かどちらか片方にだけ出仕して、統が変わると辞官する人も多かった気が >>719
天台か真言か どちからっていうと俺は天台。 だた負けてるんだな 天皇の血筋なんて、蘇我の時代から その時代の強い奴ー天皇
という交配だった 藤原も北条も同じ事をしているわけだし
家系図みたいなのを辿れば検証もし易い 話が酔っ払いみたいにそれるが
あとで光明を立てられる訳だし、両統迭立で交互に仲良くやっておけばよかったのかもな
どちらか正当か 学生のときは京都に残った北朝だと思っていたな >>2
血統で言うなら崇俊でとっくの昔に切れた
強くても血統、よって負けたが持明院統と思っていた(今は醍醐の方だと思ってる) 後醍醐のせいで醍醐も悪人っぽく響くな
迷惑な子孫だ >>755
後醍醐だって元々は中継ぎ担当なだけの傍流として登極してるから、その正統性は自ら武力で勝ち取ったもの
もとからの自明の正統性などは持ってなかったよ
甥が成人するまでの間だけ持明院統に皇位をもっていかれないようにすることしか望まれてなかったし、
その関係で後醍醐帝は実権を持たないで、後宇多上皇の院政が行われていた
争って勝ち残った点では持明院統と同じだよ 途中から親政に変わったのは院政を敷いていた後宇多の健康状態に起因するもので、後醍醐の後継は(後二条天皇の息子である)邦良親王とする既定路線を変更させてない
大覚寺統の正統は、後醍醐親政の前半ぐらいまでは間違いなく邦良親王で、それを破棄させて自分が正統を独占するために実力行使を続けたのが後醍醐帝
その果てに吉野へ行かざるを得なくなって、やがては子孫断絶。 尊氏と休戦した時に成良を天皇にしとけばよかったのに 邦良親王が成人するまであと何年かガマンできてたら分裂は回避できてたってか?
無理だろ。むしろ大覚寺統が消え去ってた可能性さえあるぞ 少なくとも後宇多系はかな
大覚寺統としてはまだ恒明という面倒な存在もしたし 北朝では光厳が弟の光明に対して院政を行使してるんだよな
それ以前の後伏見と花園もだがそれだけ嫡系への求心力は持明院統は高かった印象
それに対し大覚寺統は晩年の亀山の恒明への執着などが嫡系への求心力を相当に阻害していた 両統迭立なのに、両統とも嫡流だけでは皇位継承者が足りなかったって
不思議な感じだな どちらの統も内部で嫡流争いしてて、そのあおりで適切な候補者を選びにくくなってたんだよな
特に大覚寺統の内部での争いが激しい 大覚寺統の最終的な敗北はやはり分裂抗争がより激しかったという面も大きい
特に邦良親王が亡くjなった時点での後継選びで持明院統が候補を一人に絞れたに対し大覚寺統は三人もいたというのが凄い それにしても、こんな問題が鎌倉幕府の致命傷になるとはなあ 幕府としては分断状態が好ましいと考えていたんだろうが >>755
>血統で言うなら崇俊でとっくの昔に切れた
これ、どういう意味?欽明天皇の嫡子は敏達天皇じゃん 父親はその父の言い付け通りに弟に譲ったとの土御門なのが皮肉 >>176
この時に後醍醐が院政してりゃ全て丸く収まったんじゃ?光厳を退位させ後醍醐の実子を帝位に就けてれば。 花園の践祚の時に恒明を東宮にしときゃ南北朝分裂はなかったかもな。
てか恒明を立坊しなきゃ亀山院の素意に反するとずっと持明院統から攻撃されるだろう。 二統に分かれて皇位争いしてるだけで、天皇なんか生臭くてありがたくない
利用したい奴らの思惑次第だったのだろう 南北時代に世襲親王家という発想があったらすごいことになったろう 世襲親王家でもっとも古い伏見の宮家は南北朝時代後半に成立してるから、もうちょっとだけ、間に合ってないね 世襲宮家だった可能性が低い上、詳細すら分かってないヤツだよな>五辻宮 木寺宮も南北朝時代なかばごろまで初代の在世中だから、世襲されてはいなかった頃だろ >>780
とはいえ自分の都合のためなら廉子の皇子でも平気で見捨てる後醍醐
後村上がなんとか生き残れたのがむしろ奇跡なくらいで >>177
なんで後醍醐は重祚と言う形を取らなかったんだろう
700年後にWikipediaで
「男性天皇で重祚したのは史上初」
「2019年現在、重祚した最後の天皇である」
とか書かれると思うと俺ならワクワクするんだが。 先例無視の後醍醐でも重祚だけは受け入れられない何かがあったのだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています