【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
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>>718
持明院統の天皇の皇子が仁和寺(真言宗)御室になっているし
大覚寺統の天皇の皇子が延暦寺(天台宗)天台座主になっているので無関係 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
OZ8IT 最近また南北朝テーマの新書がいくつか出てたが前史部分に無かったな恒明親王 初代にあやかって○○流ではなく
○○統と呼ばれたのはなぜでしょう? わかんねーけど
流だと〜流の子孫はだんだん増えていくけど
統だとそうじゃないイメージじゃないの?
皇位継承とはほど遠くなった傍流の子孫は〜流にはなるけど、〜統にはならないみたいな? 岩波新書の最新刊によると亀山の遺志は恒明を大覚寺統の正嫡に据えろという意味だったとのこと
もっともあくまで生きていればこその院政で死んでしまえば秀吉の遺言と同様(ある意味ではその元祖)
そして次にはそれを破った後宇多自身にもそれが回ってくる >>723-724
〜統も〜系も〜流も〜派も〜家もぜんぶ同じだよ
ただ、二人以上天皇がいれば〜朝でもいい
〜家の場合はそういう「家名」という意味じゃなくて「〜〜の家筋」みたいな軽い意味
統も系も「すじ」ってこと、流も派も「枝分かれ」ってこと
枝分かれするからいろんな筋も生まれるわけで要するに同じこと
大覚寺統を大覚寺系、大覚寺家、大覚寺派、大覚寺流といったからって
別に大間違いというわけではない。ただの慣習だよ 持明院統は後光厳流が主流だったのに
結局残った皇統は崇光流という、なんだかな 崇光流3代貞成は
息子の彦仁王が即位しなかったら
親王にすらなれなかったろう だが、崇光の帰京時には後光厳続投か崇光復位かでもめてるぞ
普通なら復位を検討することすらあり得ないのに、だ >>728
西園寺家は鎌倉末期のキーマン
だからこそ建武の新政では真っ先にシメられたとも言えるが 明治期の皇族男子がたくさんいた時代、
最小公倍数的な先祖は貞成親王なんだよな
2人しか王子がいなかったのに、すごい とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
GOW 御花園帝の後、践祚しても即位できないほどの貧乏が待っていようとは 三種の神器は吉野に行く前に北朝に渡っている
(その証拠に南朝は奪い返しに行ってる)
後醍醐天皇が吉野に持っていったのは皇太子を立てる時に時に新旧の皇太子間で継承される皇太子の剣
それがなかった北朝は皇太子を立てられなかったはずだから、皇太子が存在しなかった期間に後の天皇が存在したはずもないということで
明治天皇は南北朝時代(皇太子の剣が南朝にあった期間)の南朝を正統とした。
でもまあ、南北朝時代三種の神器と皇太子の剣が別れてしまってわけだから真の意味での天皇は後醍醐天皇で止まってて
後醍醐天皇以降のどちらが正統かと言われるとどちらも正統ではないんではないかな
後小松天皇の時に全部揃ったけど後小松天皇が皇太子の時にはまだ皇太子の剣は南朝にあったから真の意味での天皇が再び登場したのは称光天皇からではないかな >>574
あの有名な湊川の前の軍議でも都を出るのを嫌がってたからな
結局もはや本物の天皇としては戻れなくなったが
正成ある限り安心されたい
逆に言えば
俺が死ねばお前も終わりだ なるほど、この当時の正当性は治天の承認や三種の神器ではなく、平安京を占領しているかどうかか。ちょっと納得 >>740 >>574
正成も湊川から逃げようと思えば逃げることが出来た。 >>742
庶民にも一番分かり易いからな
軍事力の優劣という点でも
だからこそ親房は三種の神器の重要性を強調しなければならなかった
この時の南朝の神器が本物だったかはともかく 利害の対立する奴が北朝についてるなら南朝につかざるをえんわな 自分の皇子の即位を見られずに死んだ土御門
自分の皇子が即位できないのを見せつけられて死んだ順徳 まあそのへんは承久の乱がなければ皇位に就いてないし なければずっと順徳系だったのな
後の御深草と違って土御門なら父の意に従いそうだが 親王って定員あったの?
両統あって勢力争いしてたら、どっちも高位高官ばらまきそう それにしてもどちらの土地が広いとか、人間臭くてつまらないことが原因で争ってんだな >>749
親王はともかく、摂関とかの高官(のいちぶ)は大覚寺統か持明院統かどちらか片方にだけ出仕して、統が変わると辞官する人も多かった気が >>719
天台か真言か どちからっていうと俺は天台。 だた負けてるんだな 天皇の血筋なんて、蘇我の時代から その時代の強い奴ー天皇
という交配だった 藤原も北条も同じ事をしているわけだし
家系図みたいなのを辿れば検証もし易い 話が酔っ払いみたいにそれるが
あとで光明を立てられる訳だし、両統迭立で交互に仲良くやっておけばよかったのかもな
どちらか正当か 学生のときは京都に残った北朝だと思っていたな >>2
血統で言うなら崇俊でとっくの昔に切れた
強くても血統、よって負けたが持明院統と思っていた(今は醍醐の方だと思ってる) 後醍醐のせいで醍醐も悪人っぽく響くな
迷惑な子孫だ >>755
後醍醐だって元々は中継ぎ担当なだけの傍流として登極してるから、その正統性は自ら武力で勝ち取ったもの
もとからの自明の正統性などは持ってなかったよ
甥が成人するまでの間だけ持明院統に皇位をもっていかれないようにすることしか望まれてなかったし、
その関係で後醍醐帝は実権を持たないで、後宇多上皇の院政が行われていた
争って勝ち残った点では持明院統と同じだよ 途中から親政に変わったのは院政を敷いていた後宇多の健康状態に起因するもので、後醍醐の後継は(後二条天皇の息子である)邦良親王とする既定路線を変更させてない
大覚寺統の正統は、後醍醐親政の前半ぐらいまでは間違いなく邦良親王で、それを破棄させて自分が正統を独占するために実力行使を続けたのが後醍醐帝
その果てに吉野へ行かざるを得なくなって、やがては子孫断絶。 尊氏と休戦した時に成良を天皇にしとけばよかったのに 邦良親王が成人するまであと何年かガマンできてたら分裂は回避できてたってか?
無理だろ。むしろ大覚寺統が消え去ってた可能性さえあるぞ 少なくとも後宇多系はかな
大覚寺統としてはまだ恒明という面倒な存在もしたし 北朝では光厳が弟の光明に対して院政を行使してるんだよな
それ以前の後伏見と花園もだがそれだけ嫡系への求心力は持明院統は高かった印象
それに対し大覚寺統は晩年の亀山の恒明への執着などが嫡系への求心力を相当に阻害していた 両統迭立なのに、両統とも嫡流だけでは皇位継承者が足りなかったって
不思議な感じだな どちらの統も内部で嫡流争いしてて、そのあおりで適切な候補者を選びにくくなってたんだよな
特に大覚寺統の内部での争いが激しい 大覚寺統の最終的な敗北はやはり分裂抗争がより激しかったという面も大きい
特に邦良親王が亡くjなった時点での後継選びで持明院統が候補を一人に絞れたに対し大覚寺統は三人もいたというのが凄い それにしても、こんな問題が鎌倉幕府の致命傷になるとはなあ 幕府としては分断状態が好ましいと考えていたんだろうが >>755
>血統で言うなら崇俊でとっくの昔に切れた
これ、どういう意味?欽明天皇の嫡子は敏達天皇じゃん 父親はその父の言い付け通りに弟に譲ったとの土御門なのが皮肉 >>176
この時に後醍醐が院政してりゃ全て丸く収まったんじゃ?光厳を退位させ後醍醐の実子を帝位に就けてれば。 花園の践祚の時に恒明を東宮にしときゃ南北朝分裂はなかったかもな。
てか恒明を立坊しなきゃ亀山院の素意に反するとずっと持明院統から攻撃されるだろう。 二統に分かれて皇位争いしてるだけで、天皇なんか生臭くてありがたくない
利用したい奴らの思惑次第だったのだろう 南北時代に世襲親王家という発想があったらすごいことになったろう 世襲親王家でもっとも古い伏見の宮家は南北朝時代後半に成立してるから、もうちょっとだけ、間に合ってないね 世襲宮家だった可能性が低い上、詳細すら分かってないヤツだよな>五辻宮 木寺宮も南北朝時代なかばごろまで初代の在世中だから、世襲されてはいなかった頃だろ >>780
とはいえ自分の都合のためなら廉子の皇子でも平気で見捨てる後醍醐
後村上がなんとか生き残れたのがむしろ奇跡なくらいで >>177
なんで後醍醐は重祚と言う形を取らなかったんだろう
700年後にWikipediaで
「男性天皇で重祚したのは史上初」
「2019年現在、重祚した最後の天皇である」
とか書かれると思うと俺ならワクワクするんだが。 先例無視の後醍醐でも重祚だけは受け入れられない何かがあったのだろう 破れて退位させられたこと自体を受け入れられなかったんだろ >>800
つまり後醍醐政権下と南朝内でだけ、光厳帝の在位を否定して後醍醐続投と認識してて
北朝や幕府では後醍醐帝は重祚と認識してたわけで、江戸時代後半になるまでは後醍醐帝は廃位の後に重祚と認定されてたわけだよな
明治維新のイデオロギー的な認定変更のまま訂正されずに今に至ってるだけで、
正しくは後醍醐帝は重祚してる 後醍醐→光明→後醍醐
でこののち南北朝で
北朝1光厳
南朝1後醍醐→2後村上
こういうことかな 持明院統と大覚寺統の初代の兄弟に鎌倉将軍がいるんだ、と最近気づいた
東朝・・・・ あるいは光厳即位の時点で南北分立の解釈か
とにかく明治維新の時点で後醍醐と明治天皇の双方を正統化させるために神器の所持をもって正統とするという解釈
よって明徳の和約が絶対視されるわけであり以後の後南朝も公式的には無視される 院政の流れが奇怪至極
亀山後宇多→後深草伏見→伏見後伏見→後宇多後二条→伏見花園→後宇多後醍醐
→南北朝に分裂
後宇多と伏見は院政やりすぎw >>798
先例だと自分の権力を正当化できない後醍醐 朕の新儀は後代の先例となる、などと言い放った後醍醐帝だが、肝心の後代の学者からは、あの時代は物狂いの沙汰が多かったから先例として不適切と断言されちゃったんだよね >>797
後醍醐という名前を変えたくなかったのでは >>811
諡号は死後に贈られるものなんだから、重祚したあとの名前を後醍醐にしてもらえばいいんじゃないの、なんでダメなの?
(重祚すると名前は2つになるけど、その名前は生前から付いてたわけではないはず……)
後醍醐という名前は本人の希望によって付けられた名前だけど、そう名付けるように遺言して付いた名前なんで、生前から呼ばれてたわけじゃないからね。 決めてたのは決めてたけど、法制度上、死後に贈るという形式は必要だったので、生前には「後醍醐という名前にする予定」に過ぎなかった
するってぇと、「醍醐は重祚してないから自分が重祚だと」って感じだった可能性? 伏見宮家の系統
https://ja.wikipedia.org/wiki/竹田宮
https://ja.wikipedia.org/wiki/北白川宮能久親王
竹田宮家の初代たる竹田宮恒久王の父親は北白川宮能久親王で、その父親は伏見宮邦家親王だ 現天皇家の祖先ではないにもかかわらず南朝が正統とされた、というべき >>819
後醍醐流は置いといて、恒明流や邦良流って続いたの?吉野じゃなくて京にいたようだけど 本来の理由は徳川が新田の系統を名乗っていた関係からで尊王とは関係ない 天皇家は血筋より継承が問題なんでね。
かりに南朝が正当でも南北朝合体時に後小松が継承した時点で北朝子孫が正統になった。 天皇家つーか日本のイエ制度はどこもそうだろ
皇室だと血統よりも三種神器と治天宣告が最重要 ちなみに朝廷側では南朝の正統性を一切認めてなくて、一貫して北朝天皇が正統であり続けたとしてきた、
少なくとも明治維新までは。 後醍醐と明治の双方を正統とするための論法なんだよな
明治維新は建武新政を範とする建前のため >>826
違いますがな。
後小松天皇が南朝の天皇位を継いだ時点では両統迭立の約束だった。
ところが約束が守られずに北朝の称光天皇が次の天皇になった時点で
南朝が正統ではなくなったのだよ。 >>831
迭立を条件として決めたのは義満で、北朝側は迭立を受諾してない。義満が当事者にことわりなく勝手に口約束しただけという認識。
むしろ合一より以前から一貫して南朝を朝敵とのみ認定しており、そちらの正統性を一切認めてない
後亀山を渋々上皇に任命したときだって、即位したことがない上皇というあつかいにした 明徳の和約は南朝と幕府が交渉してて北朝は蚊帳の外だったんだよな。後円融がブチキレてなかったかな? 合一後は、長講堂領荘園を北朝の取り分、国衙領を南朝の取り分にしたが
国衙領なんてとっくに崩壊してて、南朝は生活さえ困難に。 >>828
歴史上、新待賢門院が2人いるってことは江戸時代までは南朝はなかったことになっていたのか >>825
徳川は吉良の末流とでも名乗りゃ良かったのに。 >>834
ぶちギレたから、幕府が言った条件を全無視した
それでは面子がたたない幕府が頼んで、後亀山の上皇宣治だけは実現した
特に不満が強かったのが迭立の件 >>838
足利一門は時の権力者で家系を改竄するのが困難だったんじゃ?と推測 >>834 >>839
正平一統の前歴があるからな
足利尊氏が鎌倉へのがれた弟の直義を後顧の憂いなく討ちたいがために、
勝手に自分が擁立した北朝の天皇を廃止して、吉野の南朝の天皇を正しい天皇にしちゃったんだからww >>842
義満時代は従順というか、ひたすら「忍」の一字だったが、義満没後は逆襲に転じた。
義満に奪われた権限を一部取り返し、両朝迭立も反故にした。結構やり手だよ。 それが天皇家が永く続いた秘訣だ。 ex.昭和天皇とマッカーサー 正統な皇統の流れは、
後醍醐→光厳→後醍醐→光明→崇光→後村上→長慶→後亀山→後小松
だろう
神器の移動を基準としたものだが
後醍醐帝は吉野を脱出して南朝を開いた際には実は本物の神器を持ち出せてなかったと見ている
正平の一統で南朝に神器が接収されて正統が南朝に移ったのではなかろうか >>848
少なくとも北朝側では終始一貫して、南朝のことを反乱者と認定していてそこに正統性を欠片ほども認めてなかった
政権としての実効性も京都支配を堅持してるし、
逆に南朝の影響力は早期に低下してて、反乱を起こしたいヤツが口実として利用する以外のまともな影響力を持ってたのは数年だけだ >>851
北方さんの言葉を南北朝にあてはめると、
幕府が覇道で南朝が王道なんですよ。 少なくとも、南朝の主張するような形の正統性観念はそれ以前の日本に普及してなくて、南朝の存在そのものが異端だよな 令和天皇の次の皇統は愛子(敬宮)統と秋篠宮統の両統迭立でいこう >>852
武力倒幕と持明院系統を皇統から外そうとした、後醍醐天皇は、むしろ覇道系の天皇
その覇道の結果、後亀山天皇を最後に大覚寺系統は、二度と皇統に復帰できないと言う
結末となった >>858
なるほど、後醍醐天皇は同じ大覚寺統で、兄の後二条天皇の皇子である
邦良親王にも皇位を渡したくなくて、自分の血統だけで皇位を独占したかった訳でしたか
やっぱり後醍醐天皇は覇道の天皇と言えるわ 出来れば廉子腹が良かったかもだがいざとなれば彼らを見捨てる事にも躊躇が無い
まあ自分と自分の血統が勝者になれなければ皇位も朝廷もどうなろうと構わなかったんだろうが 後醍醐は生前退位する今上にあの世で腹をたててるかもしれない 後醍醐はむしろ譲位後にも権力を保てる立場ではなかった >>858
その証拠に後醍醐流以外の大覚寺統は吉野に行かずに京にいたよな >>862
そりゃそうだろ。
吉野に逃げ込んだ結果、院政を支えるはずの八条院領荘園が解体してしまったんだからな。 というかそもそも天皇という地位にいる以外に権力の正統性を主張できない
血統的に天皇家全体だけでなく大覚寺統としての家長の資格が無いから 血統は別に問題はないだろ。あとは治天の承認も三種の神器もきちんと受け継いだ。
そして討幕したんだから自流の子孫を皇位に就けるのに何の問題もないぞ 後醍醐天皇のやり方が、自分の血統どころか大覚寺統まで
皇統から外される結果を招いた
そして持明院統の血統が皇統を独占する事なった 実父である後宇多上皇が後醍醐を皇太子にする際に、故・後二条天皇(後醍醐の異母兄)の皇子の邦良親王を次の皇太子にするよう命じているし、
幕府や持明院統関係者にもその承諾を取りつけている
そもそも後二条天皇の嫡男たる邦良親王ではなく後二条の庶弟を皇太子としたのは邦良親王が幼すぎたからにすぎず、大覚寺統の嫡流は邦良親王だった。
この段階では後醍醐天皇は庶流であり中継ぎであると誰もが認識していたんだ。
後醍醐帝はそれを不服として後宇多上皇の院政をやめさせたり、既定方針を守らせようとした幕府を倒したりして秩序を打破した覇王。 うん、別にそれでいいじゃん、幕府なくして建武政権になったんだから。それに後宇多も親父の亀山の遺言を反古にしてるだろ そして建武政権も倒れてそれも無効
後醍醐の子供たちに対する対応にはそうした子の親への裏切の連続も反映していたかもしれない 後醍醐天皇の諱は「仁」が付かないけど、何か訳ありなの? >>870
まあ亀山の遺言は恒明を将来立坊させろ止まりなんだよな
後宇多流が嫡流として確立しているあの時点でまだ幼い恒明を嫡流にしろとまでは要求できなかったわけで >>872
後醍醐天皇の親王達も「良」で「仁」が付かないけど
(例えば、護良親王)
何故なんだろうね 後鳥羽順徳仲恭後二条も「仁」がつかない
鎌倉時代はちらほらいる 時系列、例えば神代〜人皇〜という話など
そういうのがデタラメだからなんだよ
と言ってる人がいたでしょ、
超時空マクロス・・・そういうのと同じだとか 北朝の光明天皇が在位してなかった扱いなのに
どうして江戸時代の後水尾天皇の皇子が後光明天皇となるのか?
江戸時代の感覚では南朝こそ偽朝だったのか? そうだよ
少なくとも朝廷側では、過去の南朝は朝廷ではないと認定されていた ttps:// ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11967020427.html?frm=theme
そもそも後醍醐は本来天皇以前に親王にすらなれる人間じゃなかった
後宇多は尊治(後醍醐)の親王宣下を拒否するが絶対に親王になる野心の尊治は自分の生母すら使って祖父の亀山に取り入って
好色の亀山が生母を自分の後宮に取り込む形で親王宣下を下す
後醍醐が大覚寺滅亡の原因だって言う意見にはもちろん別に異論はないが
そもそもその後醍醐を皇位継承者にさせる行為をした亀山にもぶっちゃけ大きな原因が有る
正直言えば大覚寺は始祖の亀山自身が滅亡の原因と言い切ってもおかしくない >>877
南朝が正統は明治からだよ
江戸時代に新待賢門院がいた。阿野廉子も新待賢門院だが南朝はなかったことになってたから被ってても問題なかった >>881
三種の神器を持っていたのが南朝だったから 明治維新に際して南朝正統を採る水戸学の影響が大きかったから
明治天皇も自分を支えてくれた元勲達の思想信条を無下にできなかった >>883
その水戸学の創始者、光国が兄の頼重の子を後継ぎにしているのに
後醍醐天皇が、兄の後二条天皇の子や孫に継がせなかったのを
不忠に扱わないのも矛盾してるよね。 後醍醐と本来同じ役割を与えられていた北朝の花園が
きちんと裏方に徹してるからどうしても後醍醐の自己中さが目立つ
大覚寺統は持明院統と違って天皇経験者の連携が取れてないよね 上にあるように後醍醐の親王宣下に後宇多が反対していたことが事実なら、大覚寺統は亀ちゃんの時点で終わっていたということか >>883
黄門さんは南朝正統という意図はなく楠公を顕彰したんじゃないと聞いたことがあるけど。 >>872
>>874
後醍醐の父の後宇多の頃から子供に「仁」ではない字を当ててるな
後宇多皇子・治
後醍醐皇子・良
後村上皇子・成
長慶や後亀山はよく分からん
長慶皇子を泰と主張する人もいるがその辺りも分からん
亀山も途中までは仁だったけど後の方は関係無い字だったりするし
大覚寺はその時の天皇で息子の通字を変えてたみたいだし >>888
大日本史の骨格は光圀存命中に完成している
南朝の天皇を本編に書き、北朝の天皇を外伝のように設定して書いた それでも合体以後は旧北朝が正統で後南朝は無視
>>886
そもそも始祖の亀山が弟系だから弟系の統制が取り難い
そこを問題にしたらそれこそ亀山の正統性にも関わってくるし >>889
後二条天皇(邦治)の 息子は 邦○だけど
孫の世代は ○仁なり 曾孫は 邦○
大覚寺統は よくわからん命名してるよね。 本家とは異なる命名規則を使ったってことは、自分たちは分家だ、別家だと認識してたってことじゃないの >>897
醍醐〜村上〜円融〜 が皇統の本流になったけど
後醍醐〜後村上の次が 後円融じゃなく長慶なんだよね。
後円融は北朝第5代目にとられたのかな >>894
南朝正当という割には新田には男爵。楠木正季系の甲斐庄には爵位すら与えてないな。 政党王朝は南朝で、その南朝に尽くした新田一族である徳川は朝廷の中心ってのが
最初期の水戸学のスタンスだしね >>901
水戸学の源流は家康の系図詐称に端を発しており、
それが幕末動乱に繋がると考えると興味深い みなもと太郎『風雲児たち』
「若かりしころの水戸黄門が、『宋書』を読んで感動したことが、江戸幕府滅亡の原因となる」 光厳から後円融までの北朝の5人の天皇は歴代天皇に含まれていないが、南朝の後村上は97代、
長慶は98代、後亀山は99代に数えられてる
淡路廃帝(淳仁)や九条廃帝(仲恭)でさえ歴代にカウントしたのに、北朝の5帝が無視されてるのは
明治時代の7不思議の一つだな(残りの6つは知らん) そりゃ倒幕運動の思想的背景に南朝正統論が入ってるからな
その信仰ゆえに、北朝は偽帝ということにしなくてはならなかったんだよ あんまり後醍醐を崇める気にならない。
今に続く皇統は北朝の末裔なのだから。 北チョン南チョン
うるせーんだよオマエラ
ここは日本史板だぜ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 馬鹿は死んでも治らない、か。
せめて中国史を語るな位言って欲しかった。 >>905
それでも合体以後は正統だからな
系図的にも偽帝というより仮帝の扱い 合一までは南朝が正統だという主張自体が南朝による一方的な主張にすぎず、それを信じてるのは当時ですら一部にすぎなかった
むしろ北朝の主張である、南朝は一貫して賊であり偽帝であるという主張の方が、多少なりとも賛同が多かったし、そこまで極端な主張でなくとも南朝よりは北朝を支持する人が多数派だった 日本も中国も南朝が正当なのは現職のお上が南に逃亡したのがでかい。 中国の南北朝の時は、北から逃げて南で即位したんじゃないぞ
左遷でもともと南にいた皇族が勝手に離反して即位しただけで、正統性の度合いは蜀漢より少しましな程度
当初から正統性に疑念があったらしい 南朝の最大の正当化の根拠は現職優先という点
そしてそれまでの途中退位は強要だったから無効
それに最初の即位の時点では全体の合意が存在していた
ただしなった以上降りるかどうかは現職の勝手であり自由 >>912
有名な資治通鑑でも中国の南北朝は現役北宋の正当性を揺るがすデリケートな問題だぞ。日本の南北朝と度合いは同じ。 強要で退位した天皇が後醍醐より過去にはいなかったかのごとき詭弁だな、それ >>913
南朝の正統性主張の最大の根拠は三種の神器を持っているということだろ >>910
いやいや足利が武力で擁立したのが北朝だから
内心では比叡山も住吉大社も南都も南朝支持だよ >>916
南朝成立当初の状況を見れば神器保持の主張はウソで本物を持ってるのは北朝だった可能性が高い
南朝が神器を入手したのは正平一統のときで後醍醐ではなく後村上のときだろ だが歴史の定説は南朝による保持。
それを覆すのであれば証拠を添えて唱うるべし。 南朝を正統としてるのは歴史学じゃなくて政治問題によるものだぞ
学者は正統性に口出ししたがらないが、南朝正統と考える人はゼロに近い まあ異常なまでに自負心の強い後醍醐にしてみれば俺が持っていれば本物だくらいのつもりだったんだろうが つまるところ南北朝時代なんて結局は後醍醐という存在を肯定するか否定するかって事だけなんだよな 戦国時代、元禄時代みたいなサブタイトル的な区分だろ。 後醍醐は立ち位置的にヘンリー七世に近いか。
お後がよろしかったが。 まさに後醍醐の怨霊に振り回されたという感じの後世
その意味からすれば南朝正統はせめてもの鎮魂術といったところか
もちろん合体後の後南朝は無視で h ttps://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11967020427.html?frm=theme
この説から言わせりゃ始祖の亀山自身がそのまま滅亡の種を撒いたと言うのは別におかしくない
持明院が基本一本化でまとめようとしてるのに大覚寺はどんどん家を分裂させている
これは結果論的にも悪い方向にしかなっていない 後宇多「一本化したかったけど親父と息子が邪魔するんだもん(´・c_・`)」 後醍醐天皇の子孫で確実なのはいない、怪しげなものだけ。 持明院統も崇光流と後光厳流に危うく分裂しそうになったな。後小松はよくやったよ 後継者がいなかったのだから、どうしようもなかっただけ >>934
そして、あおりをくったのが一休さん
後光厳流で続投できる余地があるなら還俗して皇太弟になれるはずだったのにな >>930
それはおかしいだろ
亀山は別に後嵯峨みたいに曖昧な態度をとったわけじゃない
ちゃんと後継者を指名してから死んだんだから責任は無いよ >>937
後嵯峨には権限がなかった
出家予定で23歳まで元服もしていなかったが
四条天皇の夭折で急遽、鎌倉幕府に擁立された
だからどちらにするかは鎌倉幕府に委ねると言って死んだ
委ねられた執権・北条時宗が両統迭立にすると言った 権限がなかったってのは誤解や勘違いの類いだがな
承久の乱は幕府から見れば辛勝で朝廷から見れば圧倒的大敗
幕府側は承久の関係者の復員は絶対的に避けたい、トラウマものだったが、朝廷側はこれもトラウマもので関係者の復員は想定外
配流者の孫を即位させても配流の取り消し(帰京)は考えがたいし、かりに帰京させたとしても院政をすることなどあり得ないと思って、残留皇族のうちでもっとも世代数の近いものを登極させようと思ったが、
それが幕府側のトラウマ直撃して、幕府としては自らの存亡をかけてまで阻止しようとしたわけだ
この辺のすれ違い、認識のずれゆえに朝廷の権限が過小評価されてるだけ 時宗も一応は後嵯峨の後家にお伺いをたてたようだが。朝廷と幕府のコミュニケーションが上手くいってなかったのかな? 北条義時なんて天皇になれたはずなのに、相模守のままというのが理解できん 源氏から天皇になった人はいるが平氏から天皇になった人はいないからな 後南朝の宮たちの大多数は出家してるのに担ぎ出されてるけどな
つまり、無理なわけではなくて、ほかに候補がいなければ天皇になれるはずだと認識する人がそれなりに多く居たってことだろ 出家は無理とか言うけどそもそも天武も一旦出家したし 源氏平氏に格の差はない
平安時代になると臣籍降下のときには基本的に源氏になる
桓武天皇の代で別れた(平城以後の天皇の子孫ではない)皇族が例外的に平安京からとって平氏となってるだけ 天皇を辞めさせたり、別のやつを呼んできて皇位に就けたり、上皇を流刑にする奴 及び
その子孫が四位・五位のままということは普通ありえない
普通、大臣くらいにはなるし、天皇になってもよかった それが右馬頭だのなんとか大夫だの
兼 相模守のままというのが解せぬ >>958
一世(天皇の子)賜姓は源、二世三世(孫、ひ孫)賜姓は平と
基本的に皇統に近い方が源氏、遠い方が平氏という決まりはあった
ただ清和源氏のように源氏二世賜姓が例外的にあったことも
ただ奥富 敬之の言うように平安遷都の熱狂がうすれた100年後には賜姓は源氏のみに >>942
親に取り入るのは上手いという亀山は隋の煬帝にも通じる点がありそう >>937
亀山の遺言は「恒明を立坊させろ」だけ
もちろん状況によっては大覚寺統の嫡流になる事への含みもあったんだろうが >>964
関東申次・西園寺公衡(恒明親王の伯父)が
亀山法皇崩後、亀山の遺勅であるといって恒明親王立坊の話を
鎌倉幕府に持ち込んだことは事実だが
孫の皇太子に息子を立てるなど皇統を混乱させかねず
西園寺家の強引さが全面に出た話だったはず >>940
それは違うな
朝廷や九条家は後鳥羽上皇を許して帰京させてもいいと思ってたが幕府に突っぱねられたし
承久の乱後、朝廷は次期皇位継承者についていちいち鎌倉幕府にお伺いを立てていたよ
しかし関東にいる鎌倉幕府は京にある朝廷の内情にそこまで詳しくないので
関東申次を世襲している西園寺家に情報伝達を一任していた
鎌倉時代に西園寺家が天皇の外戚として摂関家を凌ぐ巨大権力を手にしたのはそのため
実際、西園寺家があれこれ鎌倉幕府に吹き込んだことで皇位継承が覆っているし
それが皇位継承を余計にややこしくした 幕府にとっては、乱が辛勝(幕府主観)だったからこそ、承久の乱の責任者たる三上皇の復帰は絶対に避けたいことだよ
中でも後鳥羽は絶対に論外。
幕府の危惧としては、上皇が雪辱を期して復権する危険が少しでも出るようなことは許容し得なかった。
朝廷側の主観ではトラウマ級の大敗だったから関係者は帰京を許しても復権は有り得なかったんだろうけど、幕府はそうは思わなかった。
帰京を許せばきっと復権を果たし、再度の挙兵の果てに、こんどこそ倒幕を成し遂げるのではないかと強く恐れていた。
三上皇の内でも最高責任者である後鳥羽こそ、絶対に帰京させてはならない危険人物だったから、突っぱねるのが当然だよ。
三上皇問題なければ、幕府としては皇位継承に干渉したくなかった。
ただ、朝廷内での主導権争いで劣勢になった者が捲土重来を期して幕府の干渉を求めたので、関わらざるを得なくなっただけだ >>967
承久の乱の勝利者となった鎌倉幕府が三上皇の配流と仲恭天皇の廃位という皇位継承に首を突っ込んだことで
結果的に鎌倉時代を通じてすべての皇位継承は鎌倉幕府の承認が必要だという慣例になったんだよ
皇位継承に関わりたくないならまだ幼かった仲恭天皇の廃位などしなければよかった
後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒したのは倒さなければ両統迭立で持明院統に皇統を持っていかれるからで
鎌倉幕府が皇位継承に興味がないなら後醍醐も勝手にやらせてもらおうで終わった話 >>969
後醍醐天皇が鎌倉幕府を潰したら持明院統は黙っただろ
それが「建武の新政」
天皇は後醍醐、皇太子は後醍醐の皇子
持明院統は排除して後醍醐の子孫だけが皇統を継ぐことと決められた
持明院統は鎌倉幕府に変わる新たな武家政権・室町幕府を認めることで
武家政権に皇位継承に立ち入ってもらわなければ皇統の奪回などできなかった >>970
>後醍醐天皇が鎌倉幕府を潰したら
幕府を潰しただけじゃなくて持明院統の天皇を廃位したんだけど
武力で捕虜にした上での廃位だ。しかも、ただの廃位じゃなくて、皇位に即いたこと自体を無かったことにした。
かなり強硬な弾圧だよ、どう見ても強制的に黙らせてるとしか言えんだろ さすがにやりすぎたと思ったのか公家にツッコまれたかはわからないが光厳を太上天皇扱いにしたし。一応光厳は後醍醐の婿だからかな >>971>>973
どれも鎌倉幕府が皇統に口出ししていたことの査証だよ
幕府が口出ししてくれなきゃ後醍醐天皇が好き勝手できたんだし >>975
そもそも、幕府が口出ししないと内乱になりかねなかったから干渉した
最初の不本意な干渉となったのは、ちょうど猛虎襲来の直前交渉の時期だしな
蒙古の危機が去ったから勝手にしろと突き放して後二条を皇太子にたてさせず持明院統に任せてたら平和に終わってたんだ >>976
鎌倉幕府が口出しする前までは朝廷内で勝手にやってたこと
鎌倉幕府が「俺が皇位継承を決めてやるからなんでも言ってこい」
と口出ししだした >>978
幕府が皇位継承に干渉してたからだよ
干渉しなければ後嵯峨と大宮院の意思で亀山が正統となり両統迭立は起こってなかった >>982
後嵯峨の内意ってのが実在してたら混乱しなかった
なかったから混乱して、収拾の目処がたたなかったから幕府が呼び込まれたんだよ
幕府からは、嘘でもいいから内意があったことにするよう求められ、後嵯峨の内意なる代物がでっち上げられた 後嵯峨は治天の君指名に関してはあやふやだったのに
後鳥羽の法事権を修明門院から取り上げたり
公家には強気だよね >>984
内意は亀山
大宮院がそう証言している
ところが約束を反故にして鎌倉幕府が口出しした その証言は偽証だと、当時は広く信じられていた
少なくとも、多くの政敵が偽証だと信じて不満を明らかにしていた 亀山が治天に決まって後深草が怒りの出家。これで一件落着だったんだけど…。時の関東申次、西園寺なんとかが幕府によからぬことを吹き込んだと。この後に後宇多の次の皇太子が持明院統の伏見になった >>993
亀山が西園寺の后をスルーするから西園寺家から嫌われたんだよ
せめて洞院の后並とまではいかなくても
ある程度の扱いはすべきだった >>995
恒明親王母の昭訓門院は確かに西園寺実兼の娘だけど亀山晩年の后
亀山の扱いが冷たかったのは初期の頃の后の今出川院(実兼妹)
若い頃の亀山は洞院家の后、京極院ばかり寵愛していて今出川院にはその位に見合う扱いをしなくて
今出川院は父親の死を機に亀山の元を去った 西園寺実兼も必死だな。確か持明院統のほうにも中宮を入れてた気が。
権勢を保つには外戚で居続けなきゃならないんだな そもそも後深草も亀山も母大宮院が西園寺の人
元々今出川院は大宮院の養女格で入内しているから
西園寺の分家筋にあたる洞院と差がある扱いするというのは恥をかかせてるに等しかった このスレッドは1000を超えました。
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