【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
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南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか? 持明院統は後光厳流が主流だったのに
結局残った皇統は崇光流という、なんだかな 崇光流3代貞成は
息子の彦仁王が即位しなかったら
親王にすらなれなかったろう だが、崇光の帰京時には後光厳続投か崇光復位かでもめてるぞ
普通なら復位を検討することすらあり得ないのに、だ >>728
西園寺家は鎌倉末期のキーマン
だからこそ建武の新政では真っ先にシメられたとも言えるが 明治期の皇族男子がたくさんいた時代、
最小公倍数的な先祖は貞成親王なんだよな
2人しか王子がいなかったのに、すごい とても簡単な稼ぐことができるホームページ
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GOW 御花園帝の後、践祚しても即位できないほどの貧乏が待っていようとは 三種の神器は吉野に行く前に北朝に渡っている
(その証拠に南朝は奪い返しに行ってる)
後醍醐天皇が吉野に持っていったのは皇太子を立てる時に時に新旧の皇太子間で継承される皇太子の剣
それがなかった北朝は皇太子を立てられなかったはずだから、皇太子が存在しなかった期間に後の天皇が存在したはずもないということで
明治天皇は南北朝時代(皇太子の剣が南朝にあった期間)の南朝を正統とした。
でもまあ、南北朝時代三種の神器と皇太子の剣が別れてしまってわけだから真の意味での天皇は後醍醐天皇で止まってて
後醍醐天皇以降のどちらが正統かと言われるとどちらも正統ではないんではないかな
後小松天皇の時に全部揃ったけど後小松天皇が皇太子の時にはまだ皇太子の剣は南朝にあったから真の意味での天皇が再び登場したのは称光天皇からではないかな >>574
あの有名な湊川の前の軍議でも都を出るのを嫌がってたからな
結局もはや本物の天皇としては戻れなくなったが
正成ある限り安心されたい
逆に言えば
俺が死ねばお前も終わりだ なるほど、この当時の正当性は治天の承認や三種の神器ではなく、平安京を占領しているかどうかか。ちょっと納得 >>740 >>574
正成も湊川から逃げようと思えば逃げることが出来た。 >>742
庶民にも一番分かり易いからな
軍事力の優劣という点でも
だからこそ親房は三種の神器の重要性を強調しなければならなかった
この時の南朝の神器が本物だったかはともかく 利害の対立する奴が北朝についてるなら南朝につかざるをえんわな 自分の皇子の即位を見られずに死んだ土御門
自分の皇子が即位できないのを見せつけられて死んだ順徳 まあそのへんは承久の乱がなければ皇位に就いてないし なければずっと順徳系だったのな
後の御深草と違って土御門なら父の意に従いそうだが 親王って定員あったの?
両統あって勢力争いしてたら、どっちも高位高官ばらまきそう それにしてもどちらの土地が広いとか、人間臭くてつまらないことが原因で争ってんだな >>749
親王はともかく、摂関とかの高官(のいちぶ)は大覚寺統か持明院統かどちらか片方にだけ出仕して、統が変わると辞官する人も多かった気が >>719
天台か真言か どちからっていうと俺は天台。 だた負けてるんだな 天皇の血筋なんて、蘇我の時代から その時代の強い奴ー天皇
という交配だった 藤原も北条も同じ事をしているわけだし
家系図みたいなのを辿れば検証もし易い 話が酔っ払いみたいにそれるが
あとで光明を立てられる訳だし、両統迭立で交互に仲良くやっておけばよかったのかもな
どちらか正当か 学生のときは京都に残った北朝だと思っていたな >>2
血統で言うなら崇俊でとっくの昔に切れた
強くても血統、よって負けたが持明院統と思っていた(今は醍醐の方だと思ってる) 後醍醐のせいで醍醐も悪人っぽく響くな
迷惑な子孫だ >>755
後醍醐だって元々は中継ぎ担当なだけの傍流として登極してるから、その正統性は自ら武力で勝ち取ったもの
もとからの自明の正統性などは持ってなかったよ
甥が成人するまでの間だけ持明院統に皇位をもっていかれないようにすることしか望まれてなかったし、
その関係で後醍醐帝は実権を持たないで、後宇多上皇の院政が行われていた
争って勝ち残った点では持明院統と同じだよ 途中から親政に変わったのは院政を敷いていた後宇多の健康状態に起因するもので、後醍醐の後継は(後二条天皇の息子である)邦良親王とする既定路線を変更させてない
大覚寺統の正統は、後醍醐親政の前半ぐらいまでは間違いなく邦良親王で、それを破棄させて自分が正統を独占するために実力行使を続けたのが後醍醐帝
その果てに吉野へ行かざるを得なくなって、やがては子孫断絶。 尊氏と休戦した時に成良を天皇にしとけばよかったのに 邦良親王が成人するまであと何年かガマンできてたら分裂は回避できてたってか?
無理だろ。むしろ大覚寺統が消え去ってた可能性さえあるぞ 少なくとも後宇多系はかな
大覚寺統としてはまだ恒明という面倒な存在もしたし 北朝では光厳が弟の光明に対して院政を行使してるんだよな
それ以前の後伏見と花園もだがそれだけ嫡系への求心力は持明院統は高かった印象
それに対し大覚寺統は晩年の亀山の恒明への執着などが嫡系への求心力を相当に阻害していた 両統迭立なのに、両統とも嫡流だけでは皇位継承者が足りなかったって
不思議な感じだな どちらの統も内部で嫡流争いしてて、そのあおりで適切な候補者を選びにくくなってたんだよな
特に大覚寺統の内部での争いが激しい 大覚寺統の最終的な敗北はやはり分裂抗争がより激しかったという面も大きい
特に邦良親王が亡くjなった時点での後継選びで持明院統が候補を一人に絞れたに対し大覚寺統は三人もいたというのが凄い それにしても、こんな問題が鎌倉幕府の致命傷になるとはなあ 幕府としては分断状態が好ましいと考えていたんだろうが >>755
>血統で言うなら崇俊でとっくの昔に切れた
これ、どういう意味?欽明天皇の嫡子は敏達天皇じゃん 父親はその父の言い付け通りに弟に譲ったとの土御門なのが皮肉 >>176
この時に後醍醐が院政してりゃ全て丸く収まったんじゃ?光厳を退位させ後醍醐の実子を帝位に就けてれば。 花園の践祚の時に恒明を東宮にしときゃ南北朝分裂はなかったかもな。
てか恒明を立坊しなきゃ亀山院の素意に反するとずっと持明院統から攻撃されるだろう。 二統に分かれて皇位争いしてるだけで、天皇なんか生臭くてありがたくない
利用したい奴らの思惑次第だったのだろう 南北時代に世襲親王家という発想があったらすごいことになったろう 世襲親王家でもっとも古い伏見の宮家は南北朝時代後半に成立してるから、もうちょっとだけ、間に合ってないね 世襲宮家だった可能性が低い上、詳細すら分かってないヤツだよな>五辻宮 木寺宮も南北朝時代なかばごろまで初代の在世中だから、世襲されてはいなかった頃だろ >>780
とはいえ自分の都合のためなら廉子の皇子でも平気で見捨てる後醍醐
後村上がなんとか生き残れたのがむしろ奇跡なくらいで >>177
なんで後醍醐は重祚と言う形を取らなかったんだろう
700年後にWikipediaで
「男性天皇で重祚したのは史上初」
「2019年現在、重祚した最後の天皇である」
とか書かれると思うと俺ならワクワクするんだが。 先例無視の後醍醐でも重祚だけは受け入れられない何かがあったのだろう 破れて退位させられたこと自体を受け入れられなかったんだろ >>800
つまり後醍醐政権下と南朝内でだけ、光厳帝の在位を否定して後醍醐続投と認識してて
北朝や幕府では後醍醐帝は重祚と認識してたわけで、江戸時代後半になるまでは後醍醐帝は廃位の後に重祚と認定されてたわけだよな
明治維新のイデオロギー的な認定変更のまま訂正されずに今に至ってるだけで、
正しくは後醍醐帝は重祚してる 後醍醐→光明→後醍醐
でこののち南北朝で
北朝1光厳
南朝1後醍醐→2後村上
こういうことかな 持明院統と大覚寺統の初代の兄弟に鎌倉将軍がいるんだ、と最近気づいた
東朝・・・・ あるいは光厳即位の時点で南北分立の解釈か
とにかく明治維新の時点で後醍醐と明治天皇の双方を正統化させるために神器の所持をもって正統とするという解釈
よって明徳の和約が絶対視されるわけであり以後の後南朝も公式的には無視される 院政の流れが奇怪至極
亀山後宇多→後深草伏見→伏見後伏見→後宇多後二条→伏見花園→後宇多後醍醐
→南北朝に分裂
後宇多と伏見は院政やりすぎw >>798
先例だと自分の権力を正当化できない後醍醐 朕の新儀は後代の先例となる、などと言い放った後醍醐帝だが、肝心の後代の学者からは、あの時代は物狂いの沙汰が多かったから先例として不適切と断言されちゃったんだよね >>797
後醍醐という名前を変えたくなかったのでは >>811
諡号は死後に贈られるものなんだから、重祚したあとの名前を後醍醐にしてもらえばいいんじゃないの、なんでダメなの?
(重祚すると名前は2つになるけど、その名前は生前から付いてたわけではないはず……)
後醍醐という名前は本人の希望によって付けられた名前だけど、そう名付けるように遺言して付いた名前なんで、生前から呼ばれてたわけじゃないからね。 決めてたのは決めてたけど、法制度上、死後に贈るという形式は必要だったので、生前には「後醍醐という名前にする予定」に過ぎなかった
するってぇと、「醍醐は重祚してないから自分が重祚だと」って感じだった可能性? 伏見宮家の系統
https://ja.wikipedia.org/wiki/竹田宮
https://ja.wikipedia.org/wiki/北白川宮能久親王
竹田宮家の初代たる竹田宮恒久王の父親は北白川宮能久親王で、その父親は伏見宮邦家親王だ 現天皇家の祖先ではないにもかかわらず南朝が正統とされた、というべき >>819
後醍醐流は置いといて、恒明流や邦良流って続いたの?吉野じゃなくて京にいたようだけど 本来の理由は徳川が新田の系統を名乗っていた関係からで尊王とは関係ない 天皇家は血筋より継承が問題なんでね。
かりに南朝が正当でも南北朝合体時に後小松が継承した時点で北朝子孫が正統になった。 天皇家つーか日本のイエ制度はどこもそうだろ
皇室だと血統よりも三種神器と治天宣告が最重要 ちなみに朝廷側では南朝の正統性を一切認めてなくて、一貫して北朝天皇が正統であり続けたとしてきた、
少なくとも明治維新までは。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています