X



【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001日本@名無史さん
垢版 |
2012/01/01(日) 17:58:16.35
南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか?
0075日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/16(月) 13:36:58.54
>>74
後二条天皇早世がターニングポイントでしょうな。
後二条の皇子がまだ幼かったために後宇多はやむなく後二条の弟後醍醐を
臨時的に即位させた(→後二条の系統に皇統を返す約束だった)。
しかし、本来大覚寺統の傍系であった後醍醐が持明院統はおろか
自分の兄である後二条の系統も無視してわが子に皇統を伝えようとしたことから
大混乱に陥った。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/16(月) 16:18:45.98
大覚寺統の方が有利だったってのは、単なる「従来イメージ」のような気がしなくはない。

むしろ、非主流派ゆえに色々と悪あがきする中で力を付けた気がする。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/16(月) 16:33:47.73
>>76
後嵯峨天皇は生前、後深草の系統を断ち切って
亀山を天皇に、その子後宇多を皇太子に定めて死んだので、
この時点では亀山の系統(大覚寺統)が正統だ。

しかし、亀山は西園寺家の后を冷遇したために西園寺家と不仲になった。
起死回生をかけた西園寺実兼が関東申次の座を利用して鎌倉幕府に図り、
後深草の庶子(伏見天皇)を皇太子に立て、自分の娘を伏見天皇の中宮に差し出した。
西園寺実兼の入れ知恵がなければそもそも持明院統は成立しなかった。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/16(月) 20:27:03.96
先日、河原町から南下して京都の街中をぶらついていたら、「長講堂」を発見した。
南北朝対立の遠因でもある史跡なんで、妙に感動してしまった。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/16(月) 21:12:49.93
>>78
長講堂って、元は今の京都御所にあった筈
京都御所の元になった里内裏の土御門東洞院殿の隣にあったのだが、
土御門東洞院殿が御所として固定化されたために室町時代初期に拡張工事が行われたために立ち退きになった筈。
土御門東洞院殿を御所として固定化したのは、光厳院だと言われているから、いろんな意味で北朝と縁が深い。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/17(火) 07:11:07.99
>>79
長講堂がもともとあった場所は六条西洞院だよ
もともとは後白河法皇の院御所六条殿の中に設けられた持仏堂
現在も後白河法皇の念持仏を所有
後白河法皇は六条殿で亡くなっている
豊臣秀吉が洛中改革をした際に現在の寺町通に移転した
土御門東洞院内裏(現在の京都御所)とは全く場所が違う
0081日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/18(水) 14:24:34.62
亀山院も最後には色ボケして、末子恒明親王を帝にしようとしたからな。
西園寺を宥めるためとはいえ、情けないことだ。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/18(水) 22:25:00.14
それも間違い、
1207年の火災で六条にあった長講堂が焼けた後に一時的に土御門東洞院殿の南隣の場所に移転して六条の長講堂が再建された後も当該地区の土地と建物は長講堂の所有だった。
1401年の火災後の土御門東洞院殿の再建の際に足利義満が長講堂から土地を接収して南側に土御門東洞院殿を拡張した。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/19(木) 07:49:47.61
>>81
晩年に寵愛した若い妃に色狂いして末子を天皇にするなんて
鳥羽上皇(第八皇子を即位させ近衛天皇とする)
後白河上皇(第六皇子を即位させ高倉天皇とする)など大勢いるじゃん
むしろ天皇家のお家芸
0085日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/19(木) 09:09:18.75
>>84
院政時代になって初めて出てきた例だよね。
上皇になってから生まれた子供は、本来天皇になれないはずなのに。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/19(木) 23:35:42.68
>>81,84
そもそも、両統迭立のきっかけを作った後嵯峨自身が。

そして同様の意図を持った亀山・後宇多は意図をくじかれて逼塞する。
大覚寺統の初代である亀山即位の例は、結局は引き継がれず、否定されたわけだよな。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/20(金) 06:56:00.83
>>86
後深草と亀山は同母兄弟で、かつ母は中宮だ。
ちょいと亀山の例とは異なるだろう。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/20(金) 08:47:53.66
>>86
亀山の母は後深草の母と同じで、後嵯峨晩年の子ではない。
中宮腹に男子が2人以上いた場合、兄弟相続するのは普通だよ。
亀山は弟の系統であったために即位は否定されたというが、そもそも弟の系統が残っている例も多い。

朱雀天皇(兄)・村上天皇(弟)・・・弟村上天皇の系統が残る
後一条天皇(兄)・後朱雀天皇(弟)・・・弟後朱雀天皇の系統が残る
崇徳天皇(兄)・後白河天皇(弟)・・・弟後白河天皇の系統が残る
0089日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/21(土) 19:39:54.56
>>75
そこが南朝を好きになれない理由の一つだな
後醍醐は後二条の木寺宮家に皇位を譲れば印象が変わってた
0090日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/21(土) 21:23:27.53
後宇多が後二条亡き後、後醍醐に帝位をまわしたのが大覚寺の運の尽き。
後醍醐が後二条の系統の皇子を養子に取ればまだよかったんだが、
院政を否定した以上この解決策も実行不可能。
突き詰めて言うと、大覚寺統後醍醐流vs持明院+その他大覚寺だったわけで、
それを五分の勝負に持ち込んだ後醍醐を立派と言うべきなのか???
0091日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/21(土) 23:33:17.84
>>90
後醍醐は武力で既成概念を打ち破った
これまでの天皇家の二朝分裂や兄弟の礼といった従来の枠から飛び出して
新王朝を打ち立てたに近かったんだと思う
自分が建武新王朝初代だから2代目は自分の子が就くで問題ない
まあ、兄の遺児が即位できなかった例というのは後醍醐以外にもあるしね
0092日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/22(日) 00:34:12.00
>>91
建武という年号を立てたのも、新王朝を意識してるのかもね。
後漢の劉秀も王家の一族だけど傍流でありながら天下を取った。
後醍醐の意識の中に劉秀が居たのは間違いあるまい。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/22(日) 01:40:22.43
>>90
後醍醐も後院を設置しているから、いずれ院政を構想していたことは確か。
ただ、建武政権が早期に崩壊したために譲位するタイミングを逃しただけ。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/22(日) 01:48:24.99
院政と言うのはあくまでも後継者を定めるのが最大の目的だからね
勿論、実権までを譲り渡すなんて論外。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/22(日) 05:32:44.57
>>93
延喜・天暦の時代を理想として生きたのだから、天皇親政を貫きたかったのでは?
0097日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/22(日) 11:52:49.14
>>96
天皇大権を阻害する摂関を排除する口実だから、
当然に院政も否定することになると思う。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/22(日) 12:51:55.49
院政は皇位と天皇家の家督が分裂した状態。
家督掌握者が、意中の親族に皇位だけを譲った状態が院政。
莫大な荘園を抱えていた頃は国家を動かす権力を持っていたが、朝廷の権威が落ち、武家政権に養われるようになるとその権限もコップの中の嵐みたいなものになった。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2012/05/16(水) 21:02:38.73
神戸の後醍醐天皇行在所
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。
境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、
明治後合併廃寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりました。
また〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されています。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2012/05/16(水) 23:47:30.04
>>98
そりゃ違うだろ。
家督は院のほう。
天皇が家督を保持していない状態が院政。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2012/10/14(日) 19:13:01.18
大覚寺統にしても長男筋は後醍醐天皇ではなく、
後醍醐天皇は執拗に彼等に干渉し長男筋を皇位につけないようにした。

だから大覚寺統でも長男の方は北朝方だった。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2012/10/15(月) 09:22:04.42
>>103
そもそも大覚寺統の始まり亀山天皇は第七皇子だぞ
ちなみに持明院統の始まり後深草天皇は第四皇子だが
どっちも長男系ではない
0105日本@名無史さん
垢版 |
2012/10/15(月) 10:46:36.66
>>103
後醍醐天皇の異母兄、後二条天皇の中宮は名門徳大寺家の出身だったが、
不仲のため別居しており、後二条天皇は徳大寺家からの支援を受けられなかった。
後二条天皇の遺児邦良・邦省親王は、典侍五辻宗子との子。
五辻宗子は後醍醐母五辻忠子の姪で、宗子の父は後二条天皇の在位中に死亡、
邦良・邦省親王は外戚の力も弱かった。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2012/10/15(月) 21:45:17.63
>>105
だが、邦良・邦省親王らは祖父である後宇多上皇の強いバックアップがあったぞ。
その対立で後醍醐帝に敗れたことで力を落とし、失意のうちに衰弱死したとまで...
0107日本@名無史さん
垢版 |
2012/10/15(月) 22:48:36.02
>>106
邦良親王はもともと虚弱体質
後宇多は邦良親王を大覚寺統正統と考えていたとも言われるが、
持明院統に対決しうる強い帝王が誕生するならば必ずしも後醍醐を否定していなかった。
後宇多は両統迭立の上限である10年を超えても退位しない後醍醐を咎めることもなく、
皇太子邦良親王(この時期、天皇も皇太子も大覚寺統だった)への攘位を強要することもないまま没している。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2012/10/16(火) 22:31:42.56
>>107
もうこの頃の後宇多は密教三昧で政治からは遠のいているから
なあ。なにより譲位がいやで討幕運動を起こしたことが後醍醐
の立場を一番良く説明している。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2012/10/17(水) 10:10:45.50
>>108
後醍醐が討幕活動してたときの皇太子は持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)
邦良親王に譲るのが嫌で討幕志したわけではない(邦良親王はすでに死亡)

日本の歴史上、天皇家が権力闘争して兄系から弟系になったことはいくらでもあるし
後醍醐だけが特殊だったとはいえない
0110日本@名無史さん
垢版 |
2012/10/17(水) 21:13:07.47
>>109
邦良だろうが、量仁だろうが、一旦譲位をしたら自己の子孫が皇位を継承する可能性が限りなく低くなると言う点では何ら変わりがない。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2012/10/17(水) 21:52:02.88
まあ後醍醐は譲位したはずの新田に同行した恒良の皇位をさらっと
否定しているから自分のことしか考えていないかも。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2012/10/17(水) 23:12:35.01
>>110
我が子継承を優先したという点では歴代すべての天皇がそうだろ
願いがかなったにしろ叶わなかったにしろ
皇統をたがえたという点では(当初予定されていた通りに皇位を継がせなかった)
白河天皇、桓武天皇、天智天皇、後一条天皇・・・たくさんいるぞ
傍系相続など天皇家では当然のことで自分の子に皇位を望まなかった天皇など一人もいなかった
0113日本@名無史さん
垢版 |
2012/10/18(木) 17:20:18.18
まあ、そうだな。

しかも、中世には幼少期に即位して、自分の意思に関係なく皇太子を決められてしまった(または譲位させられた)ために、
別の実子を後継者にしようと目論む天皇や治天は多かったよな。
鳥羽上皇(近衛を避けようとした)とかさ。

それが大覚寺統では特に顕著で、ほぼ全員が問題を抱えていたみたいだな。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2013/01/24(木) 02:30:21.68
だからさ、
「いつの時代もそうだった」みたいな大雑把な括りしたら学問にならんじゃんよ

自分のやりたいように出来るか出来ないかってのは100%か0%じゃなくて
その時代や環境によっていろいろ微妙なあわいが生じるだろ
そのグラデーションの中に差異があるわけで
0115日本@名無史さん
垢版 |
2013/01/24(木) 09:10:35.22
>>114
スレの流れ見てる?
「我が子継承を願った後醍醐は特殊で異常な天皇。そのせいで天皇家は分断。
だまって兄の子なり持明院統なりに帝位を譲るのが正常な天皇」
が正しいとはいえねえぞ?
後醍醐以前の持明院・大覚寺の各天皇の熾烈な帝位争いを
無視するのは無知な証拠。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2013/05/20(月) 15:38:38.72
>>68
ミヤコ(都)の語が面白い。
住めば都は冗談にせよ、ミヤコは天皇のいる空間のはず。
ところが後村上ほかの歌では、都は吉野や賀名生ではなく、明らかに京都を指している。
少なくとも後村上にとって、京都は帰るべき土地であり続けた。

今谷明先生は「中世の天皇は基本的に京都にいるもの」と喝破しておられた。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2013/05/20(月) 16:02:28.54
>>76
案外、大覚寺には正統性への不安があったのかも知れない。
鎌倉後期の勅撰集は、大覚寺が4、持明院が1だが、後宇多は2回も編ませている。
これは大覚寺統の不安が背景にあったかも知れない。

後光厳が2度も勅撰集を編ませたのも、崇光を押しのけて王位を継いだという不安があったかも…?

まあ二十一代集が新葉集を数に入れないことが何よりも北朝正統論を象徴してると思うのだが。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2013/05/20(月) 16:10:28.56
>>72-74
おそらく黙殺に近い扱いを受けていたと思われ。
江戸時代まで、京極流和歌は受けが良かったわけではない。
近代になって土岐善麿(哀果)が再評価するようになっても、一部識者の愛好の域を出ない。

「吉野朝の悲歌」とは言っても、後世の我々が勝手に望むような戦いの歌なんか無い。
和歌は、心を落ち着けるもの、神仏に祈るものではあっても、殺戮を賛美するようなものではなかった。

京極派も得意としたのは風景を詠むことで、その点では定家の流れ以外の何者でもなかった。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2013/05/20(月) 16:25:16.08
>>117
勅撰集の数で正統性への不安を推し量ることなどできないよw
後宇多天皇が和歌への造詣が深かったというだけで…
後嵯峨天皇の遺志が亀山天皇にあったことは大宮院も鎌倉幕府も認めるところで、
関東申次を世襲する西園寺家への配慮から幕府は持明院統の即位を認めたに過ぎない。
当時、鎌倉幕府は両統迭立を保証しており、大きな不安があったとは思えない。
持明院統へのライバル心は常にあっただろうが、
後宇多自身、後深草の后腹内親王を妻にするなど別の融合も見せている。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2013/05/20(月) 18:08:14.07
>>117-119
大覚寺統が自前の祭祀施設(ってなんじゃらほい)を持たなくて、
新規造営する必要があったとかいうし、
大覚寺統の成立当初には非主流派扱いだったと考えざるを得ないかな

その影響もあってか、建武政権は伝統破壊の新規政策が非常に多い
0121日本@名無史さん
垢版 |
2013/05/20(月) 18:36:27.48
>>119
持明院統と大覚寺統の関係は複雑怪奇だよね。
後醍醐皇女が光厳院と結婚していたり。

さすがに勅撰集は天皇の正統性の根拠とするほどのものではなかろうが、
南朝方の和歌が北朝の勅撰集に入れてもらえなかったであろうことも事実であり、
勅撰集の意外な性格が露呈した一件とは言える。

ちなみに、最後の勅撰集(南北合体後の唯一の勅撰集でもある)
『新続古今和歌集』には「後亀山院」の名で収録されており、院号は公認されていた。
長慶院は「よみひとしらず」として収録されていて、
長慶が北朝方にどう認識されていたかの指標とはなるかも。
長慶が長らく即位したかもハッキリしない帝だったことはご存知のとおり。
0122日本@名無史さん
垢版 |
2013/05/20(月) 21:42:01.78
>>121
>>117-119 は鎌倉時代後期の話でしょ。南北朝時代の話じゃない。
南北朝時代(後醍醐天皇が吉野に南朝を開いてから南北朝合一まで)には北朝の勅撰集に南朝が入らず
南朝の准勅撰和歌集「新葉和歌集」に北朝の歌が入らないのは当たり前のことで…
(そもそも住む土地柄・距離も離れており、同時に歌会などやっていない)
鎌倉時代には天皇は大覚寺統と持明院統一があっても、廷臣は基本はどちらの天皇にも仕えるので
大覚寺統よりの公家は持明院統天皇の勅撰和歌集に入らないとか(またはその逆とか)はない
0123日本@名無史さん
垢版 |
2013/05/20(月) 21:48:57.42
>>120
大覚寺統が設立時に作った自前の祭祀施設というのを聞いたことがないが、
史料を提示してくれるかい?
大覚寺統初代の亀山天皇は後嵯峨天皇の皇子で、後深草天皇の皇太弟に立ってから即位、
祭祀施設を作る必要などなかったはずだが?

亀山法皇や後宇多法皇が大覚寺で院政を取ったことを言っているのかい?
亀山・後宇多天皇は退位後、出家して法皇となり、大覚寺に住んだ。
大覚寺は平安時代に開かれ代々法親王が住職を勤めた門跡寺院。
独自の祭祀施設でもなんでもない。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2013/05/25(土) 14:52:58.56
古筆を見ていると 後深草院と亀山院では 身体が不健康で色好みと言われる兄後深草院の方が能筆って感じを受ける
写真の掲載数も多いし 子の伏見院が本朝一の能書帝と言われるし
0126日本@名無史さん
垢版 |
2013/06/04(火) 02:51:30.26
すでに現役の天皇と、その実子である皇太子が存在していて、
彼らの反対が通ったからだろ
0127日本@名無史さん
垢版 |
2013/06/18(火) 13:51:02.61
岩手県の座敷わらしの宿のご先祖が南朝の公家で後醍醐天皇の側近だった
万里小路藤房の子孫だという話を見たけどどうやって南朝の公家が岩手県で
暮らすことになったかちゃんと読むの忘れた
0128日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN
南朝を支えたのは名門の小石一族だと聞きました。
子孫の小石さんから直接聞いたのですが本当ですか?
0129日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN
その小石さんって家ではそういう伝承があってもおかしくない
って程度の話だろ
0130日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN
なるほど、源平の戦いでも小石一族が源氏を支えて勝ったみたいです。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN
(信憑性はともかくとして)
その手の祖先伝承を残してる家は少なくないんじゃないかって事だろうに...

130のレスによって、その家の祖先伝承の信憑性が大幅に低下したな
0134日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN
>>89
貴見のごとく、
木寺宮家が大覚寺統の正統なり!

ところで、戦国時代までなんとか 血脈を伝えてた
木寺宮家を 最終的に断絶させたのは 誰?

某・トンデモ(?)本では、松平氏みたいに書いてあったやうな???
0135日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN
>>134
だが、すんなりと木寺宮家に皇位を譲り渡すような人柄だったらそもそも倒幕なんて目論むはずがなかったとも言える
0136日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN
南北朝争乱が 現代の我々に 残してくれた

唯一の 恩恵とは ?

答:
    おかげで、少女マンガの傑作 『ガラスの仮面』が 生まれた^^
0137日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN
長子優先、親の遺言優先の視点からは、後醍醐は親不孝、兄不孝かも知れない。
しかし平安の昔から、天皇や上皇が親の遺志に反することを平気でやってたのも事実。

南朝正統論て結局、南朝びいきの人が無理矢理こじつけたものでしかないよね。
きわめてプロパガンダ性が強い。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN
だって、北畠親房すら、長子相続を正しいとしながら、後嵯峨以降はなかったことにしているし。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2013/12/26(木) 21:07:14.89
なんでゼロか100かって発想するかね

大覚寺統の論理において長子相続ってのは
相対的な正当性の根拠にはなるってだけで先帝の意志のほうが優先順位は高いだろ
だから別に長子相続が全面否定されてはいないわけで
長子相続が絶対的な正当性の唯一の根拠だったようにいうやつはあほなのか
0140日本@名無史さん
垢版 |
2013/12/26(木) 22:26:38.36
まーた北朝狂信者が発狂してるのか
血筋的には北朝の末裔である明治天皇がわざわざ南朝が正統だと宣言したという事の意味すら分かんないのかね
やれやれだぜ
0141日本@名無史さん
垢版 |
2013/12/27(金) 09:15:29.82
>>137
持明院統の初代、後深草天皇は第四皇子。
長子ではないよ。
鎌倉幕府の親王将軍となった宗尊親王が第一皇子で後深草の兄だから。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2013/12/28(土) 01:46:40.47
あげあし取り楽しいかね?w

宗尊親王は確かに生まれた順番しかみなければ長子ってことしかわからんだろ
確かに長子だよ。なんで天皇にならなかったのかよく調べてみ
0143日本@名無史さん
垢版 |
2013/12/28(土) 10:17:51.56
>>137>>142
自分の間違いを指摘されると揚げ足取り?
長子優先なら長子である宗尊親王と言っただけ
お前の言っていることが間違いなのであって長子優先ではなく嫡子優先だろ
しかも嫡子は父親の権限で決めることができる
同じ母親から生まれた兄弟であっても兄を廃嫡して弟に家督を譲るなんて
天皇家の歴史ではいくらでもある
よく調べてみ
0144日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/02(木) 03:26:15.97
だが、肝心の「先帝の遺志」ってのがな。

後嵯峨帝の遺志は明証のあるものはなく、当時から疑う人が少なくなかった

一方で、大覚寺統の諸帝で、末子を次期皇太子にしたいと明言のうえで根回しまでしておきながら、実子によって無視された例は多かった

遺志とやらの優先度が高いのであれば、先帝の遺言を反故にした大覚寺統の諸帝は不実を働いたことになるな
だが、その件で後世の人間から責められたわけではない。

先帝の遺志なんざ、その程度の物なのさ
0145日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/08(水) 16:20:43.31
>>144
だから、鎌倉幕府は大宮院に聞いてるよね
後深草・亀山両帝の実母であり後嵯峨の中宮であった大宮院が
後嵯峨の遺志は亀山にあったといったので亀山が正統になった

晩年に末子を帝にしようとした噂があるのは亀山だろ
ただしこれを聞いたと言っているのは亀山の末子恒明親王の叔父である西園寺公衡のみだった
女院の発言と親王外戚の発言は一緒にできない
当時院政をしいていた後宇多は亀山から何も聞いておらず反故にされた
0146日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/09(木) 02:28:53.14
そりゃあ、後二条の子孫に皇位を継承させる方針だったのだから聞いていても反故にするわな>後宇多
0148日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/11(土) 06:44:02.33
亀山院自身が、後宇多、伏見両院に話して了解を得たと
いう恒明親王宛書状を残していたのではなかったかな。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/16(木) 19:51:21.34
>>148
そういったものは残っていないはず
亀山の死後、後宇多と対立する西園寺公衡・昭訓門院が持明院統伏見上皇に近づき
恒明親王の立坊を条件に後二条の早期退位と富仁親王(花園天皇)の早期即位を了承
持明院統側から恒明親王の立坊を求める書状が幕府に送られたことはある
ただし後宇多がこの件を了承した記録は残ってないはず
0150日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/17(金) 15:34:55.31
宸翰英華 第一冊
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586902
の43号文書ってのが、148の内容だろ

文書を書き残した亀山院が後宇多の了承を得たと認識していたことはわかる
後宇多が本当に了承したかどうかを確定することはできないだろうがな。
騙してたとか、言葉巧みに誤魔化してたとかの可能性があるし。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/21(火) 13:35:17.13
>>150
当時は後二条天皇にまだ皇子がなかったので
後二条の次にはそれより幼い叔父恒明親王をというのはあり得たのだろうね
後宇多といえどもまだ孫が産まれていなかったのだから
弟を皇位に立てよという意見を無下にはできなかった

後二条に皇子があっても亀山がまだ恒明親王立坊にこだわったかは微妙だろう
後深草にすでに皇子がいるのに亀山皇子を立坊させた後嵯峨とは違う
0153日本@名無史さん
垢版 |
2014/03/25(火) 01:10:38.95
後鳥羽を後醍醐と入れ替えてたら少なくとも半世紀以上は続く
朝廷主導の安定政権ができてたと思うわ。後鳥羽の時であれば
むしろ朝廷有利だった。後鳥羽の根回しとか戦争指導がカスで
あっただけで。
後醍醐の時じゃもう手遅れ。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2014/03/28(金) 22:33:58.23
後醍醐帝前半(倒幕前)には、後醍醐帝のような強いリーダーシップを望む廷臣も少なくなかったが、
後鳥羽帝の頃の朝廷にはいなかっただろ

だから、もっと早期に見捨てられて終わってただけかもしれん。
つまり、承久の乱と大差ない結果に終わっただけで、どっちでもかわらんかったンじゃね。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2014/04/02(水) 10:34:53.79
>>153
朝廷を要因とするよりも幕府の方が問題ありすぎだろ。
政子の大見得も後醍醐の頃に言ったら、「何言ってんだこいつ。」だろ。

足利、新田に限らず、御内人の安東蓮聖もバックれるなど御家人の大量
反逆にあったのではどうしようもない。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2014/04/14(月) 01:09:21.70
>>144
観念上の正統性のことをいってるんだよ
もまえのいうような実態があったればこそ大覚寺統は
木寺宮、常盤井宮に分裂してるだろ
0157日本@名無史さん
垢版 |
2014/04/15(火) 02:40:48.79
>>156
概念上って言うと、後々まで存続しえた方が、存続した方の祖先が正統

漢王朝の正統を引き継いだと自称する蜀漢より、禅譲を受けたと称した魏の方が実際には正統だったのと同様、
中央を逐われて辺境に落ち延びた時点で亡命政権。

捲土重来して中央政権として復活できたならともかく、最後まで亡命政権に終わった以上、政権としての正統性なんてない。
というより、政権ですらない。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2014/04/27(日) 02:26:30.87
>>157
おまえが言ってんのは単に勝ったほうが正統っていう薄っぺらい話
そう思ってんなら最初からそう言えばよかったのに。
「概念」も糞もぜんぜん関係ないじゃんw
0159日本@名無史さん
垢版 |
2014/04/27(日) 13:47:38.34
正統の基本は「勝てば官軍」だぞ

この「ば」は仮定形ではなく已然形(過去形みたいなもの)であって、「勝ったから官軍」みたいな意味だろ

衰退消滅した亡命政権に正統性を見いだすようなのは、なんらかの自己投影による特殊意見。

北宋南宋の頃の中国人たちが、北方遊牧民の圧迫を受ける自分たちの境遇を蜀漢に投影して作り出した蜀漢正統説と同類


南朝/大覚寺統と同様な形で皇統を逐われた「元」正統なんて、他にも複数あったのに、
大覚寺統以外は全無視する恣意的な視点なんてゴミ同然
0160日本@名無史さん
垢版 |
2014/05/04(日) 21:11:09.22
何故か負けた方の南朝が正統だと後の天皇が宣言してしまうのが歴史
勝てば官軍(キリッ
0161日本@名無史さん
垢版 |
2014/05/15(木) 00:12:09.27
>>159
違うね。
もまえの言ってることはただの事実認定、
そんなアカラサマな物理条件なら「正統」という観念自体なくて済む。
そうじゃなくて正統とはまさに「勝てば官軍」の逆なんだよ
敗北したにもかかわらずそこで無に帰すことなく残されてしまった
精神的か道義的か文化的か心理的か何らかの不条理感を
救済し説明し納得するためにもちだされる概念が「正統」なんだよ
0162日本@名無史さん
垢版 |
2014/05/15(木) 00:25:26.58
正統争いをする連中は常に、自分こそが正統と標榜して、相応の理屈をつけるものだ。

それに、それらの理屈がどんなに正しいとしても、正しい理屈をつけた側が最後まで勝ち残ることはないしな。

それともなにか?
負けた側による自己憐憫の道具、オナヌーのことを正統とでも呼ぶのかね?
0163日本@名無史さん
垢版 |
2014/05/16(金) 01:05:15.98
>正統争いをする連中は常に、自分こそが正統と標榜して、相応の理屈をつけるもの

そうだな

>理屈がどんなに正しいとしても、正しい理屈をつけた側が最後まで勝ち残ることはない

そんな誰でも知ってることをわざわざ書いて、何か反論できてるような空気作り?

>負けた側による自己憐憫の道具、オナヌーのことを正統とでも呼ぶのかね?

そういうのももちろんあるだろうな
0164日本@名無史さん
垢版 |
2014/05/16(金) 02:03:01.88
勝ってる側は自分の正統性に理屈をつけることに必死にはならん
負けてるからこそ必死に理屈をこねるもんだ

だから逆説的に、一見して正しそうに見える方が負ける。


勝ってる方は、勝っていることそれ自体が正統性の根拠たりえるから、わざわざ理屈をつけようとまでは考えない。


南朝は、敗者だからこそ理屈にこだわらざるを得なく、
北朝は理屈をこねるまでもなく勝者だったから、自分の正統性を主張するための理屈を作ろうという意欲を持たなかった

後の人間が、両者の理屈を並べて比べたら、北朝側になんの主張も見えないのは当然だな。
だが、その理屈は正統性の根拠にはなりえんのだよ。

理屈と膏薬はどこへでも付く と言ってな、負けて消え去った敗北者であろうとも、その正統性を主張する理屈などいくらでも作れるぜ!
って程度の意味しかないんだよ。

敗者の自己憐憫の産物が、たまたま数百年後に発掘されて再利用されただけといった方がいい。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/18(木) 19:36:47.80
多くの武士にとっては武家政権のほうが良いいのだから
朝廷直属の軍隊つくらないかぎり
武家政権側が勝つだろうな
0166日本@名無史さん
垢版 |
2015/01/30(金) 00:59:47.01
後醍醐帝が天下とった時に一つに統一しておけばよかった
0167日本@名無史さん
垢版 |
2015/01/30(金) 03:01:59.51
>>166
いや、統一しようとしたでしょ
その施策があまり受け入れられずに反感買ってひっくり返されただけ。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2015/01/30(金) 17:23:09.49
光厳天皇と後村上天皇以降の南朝の天皇を天皇ではなかったことにすればスマートじゃないかな
0169日本@名無史さん
垢版 |
2015/01/30(金) 19:11:09.58
後醍醐天皇は光厳上皇の姉と結婚
光厳上皇は後醍醐天皇の皇女と結婚

で血統統一しようとした、後醍醐天皇は
0170日本@名無史さん
垢版 |
2015/01/30(金) 20:04:47.99
>>168
後醍醐帝が廃位され島流しされてた期間の天皇として実働してた光厳天皇を外すなんて論外で、
南朝正統論の色眼鏡が反映されてるだけだぞ

光厳を外すなら古代の弘文天皇とかも外さないと片手落ちだ
0171日本@名無史さん
垢版 |
2015/01/30(金) 20:07:36.48
それと、後村上天皇はごく短期間だけとは言え京都を制圧して崇光天皇たちを正解から放逐し吉野へ拉致したわけで、
この短期間に関して、天皇としての実働を認めるべきだとは思うわけよ。
それ以外の期間には天皇とは認められないけどな。
0172日本@名無史さん
垢版 |
2015/01/30(金) 23:28:26.03
>>170
光厳を外さないとなると後醍醐を無理やり重祚したことにしないといけなくなる
もしくは建武の新政を無視するか

やはり重祚した事実がない以上は光厳排除が妥当かなと思った
0173日本@名無史さん
垢版 |
2015/01/30(金) 23:35:52.94
それ以外の天皇については後小松が南朝の譲位を受けて改めて即位したわけではない以上、その皇位は誰から受け継いだものかというと
後光厳、後円融、崇光、光明とさかのぼるわけだよね

この流れが正統だと個人的に思う

弘文の即位は否定してもどちらでもいいや
0174日本@名無史さん
垢版 |
2015/01/30(金) 23:40:58.31
そしておそらく後醍醐が光明に渡した神器は本物だろうからね
神器のありかはどうでもいいが、後醍醐が光明に譲位したとするのが妥当

問題は
後醍醐→光厳→後醍醐→光明
後醍醐→光明
後醍醐→光厳→空位→光明
この中では光厳をなかったことにするのがいいかなと
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況