【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
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南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか? 尊氏と休戦した時に成良を天皇にしとけばよかったのに 邦良親王が成人するまであと何年かガマンできてたら分裂は回避できてたってか?
無理だろ。むしろ大覚寺統が消え去ってた可能性さえあるぞ 少なくとも後宇多系はかな
大覚寺統としてはまだ恒明という面倒な存在もしたし 北朝では光厳が弟の光明に対して院政を行使してるんだよな
それ以前の後伏見と花園もだがそれだけ嫡系への求心力は持明院統は高かった印象
それに対し大覚寺統は晩年の亀山の恒明への執着などが嫡系への求心力を相当に阻害していた 両統迭立なのに、両統とも嫡流だけでは皇位継承者が足りなかったって
不思議な感じだな どちらの統も内部で嫡流争いしてて、そのあおりで適切な候補者を選びにくくなってたんだよな
特に大覚寺統の内部での争いが激しい 大覚寺統の最終的な敗北はやはり分裂抗争がより激しかったという面も大きい
特に邦良親王が亡くjなった時点での後継選びで持明院統が候補を一人に絞れたに対し大覚寺統は三人もいたというのが凄い それにしても、こんな問題が鎌倉幕府の致命傷になるとはなあ 幕府としては分断状態が好ましいと考えていたんだろうが >>755
>血統で言うなら崇俊でとっくの昔に切れた
これ、どういう意味?欽明天皇の嫡子は敏達天皇じゃん 父親はその父の言い付け通りに弟に譲ったとの土御門なのが皮肉 >>176
この時に後醍醐が院政してりゃ全て丸く収まったんじゃ?光厳を退位させ後醍醐の実子を帝位に就けてれば。 花園の践祚の時に恒明を東宮にしときゃ南北朝分裂はなかったかもな。
てか恒明を立坊しなきゃ亀山院の素意に反するとずっと持明院統から攻撃されるだろう。 二統に分かれて皇位争いしてるだけで、天皇なんか生臭くてありがたくない
利用したい奴らの思惑次第だったのだろう 南北時代に世襲親王家という発想があったらすごいことになったろう 世襲親王家でもっとも古い伏見の宮家は南北朝時代後半に成立してるから、もうちょっとだけ、間に合ってないね 世襲宮家だった可能性が低い上、詳細すら分かってないヤツだよな>五辻宮 木寺宮も南北朝時代なかばごろまで初代の在世中だから、世襲されてはいなかった頃だろ >>780
とはいえ自分の都合のためなら廉子の皇子でも平気で見捨てる後醍醐
後村上がなんとか生き残れたのがむしろ奇跡なくらいで >>177
なんで後醍醐は重祚と言う形を取らなかったんだろう
700年後にWikipediaで
「男性天皇で重祚したのは史上初」
「2019年現在、重祚した最後の天皇である」
とか書かれると思うと俺ならワクワクするんだが。 先例無視の後醍醐でも重祚だけは受け入れられない何かがあったのだろう 破れて退位させられたこと自体を受け入れられなかったんだろ >>800
つまり後醍醐政権下と南朝内でだけ、光厳帝の在位を否定して後醍醐続投と認識してて
北朝や幕府では後醍醐帝は重祚と認識してたわけで、江戸時代後半になるまでは後醍醐帝は廃位の後に重祚と認定されてたわけだよな
明治維新のイデオロギー的な認定変更のまま訂正されずに今に至ってるだけで、
正しくは後醍醐帝は重祚してる 後醍醐→光明→後醍醐
でこののち南北朝で
北朝1光厳
南朝1後醍醐→2後村上
こういうことかな 持明院統と大覚寺統の初代の兄弟に鎌倉将軍がいるんだ、と最近気づいた
東朝・・・・ あるいは光厳即位の時点で南北分立の解釈か
とにかく明治維新の時点で後醍醐と明治天皇の双方を正統化させるために神器の所持をもって正統とするという解釈
よって明徳の和約が絶対視されるわけであり以後の後南朝も公式的には無視される 院政の流れが奇怪至極
亀山後宇多→後深草伏見→伏見後伏見→後宇多後二条→伏見花園→後宇多後醍醐
→南北朝に分裂
後宇多と伏見は院政やりすぎw >>798
先例だと自分の権力を正当化できない後醍醐 朕の新儀は後代の先例となる、などと言い放った後醍醐帝だが、肝心の後代の学者からは、あの時代は物狂いの沙汰が多かったから先例として不適切と断言されちゃったんだよね >>797
後醍醐という名前を変えたくなかったのでは >>811
諡号は死後に贈られるものなんだから、重祚したあとの名前を後醍醐にしてもらえばいいんじゃないの、なんでダメなの?
(重祚すると名前は2つになるけど、その名前は生前から付いてたわけではないはず……)
後醍醐という名前は本人の希望によって付けられた名前だけど、そう名付けるように遺言して付いた名前なんで、生前から呼ばれてたわけじゃないからね。 決めてたのは決めてたけど、法制度上、死後に贈るという形式は必要だったので、生前には「後醍醐という名前にする予定」に過ぎなかった
するってぇと、「醍醐は重祚してないから自分が重祚だと」って感じだった可能性? 伏見宮家の系統
https://ja.wikipedia.org/wiki/竹田宮
https://ja.wikipedia.org/wiki/北白川宮能久親王
竹田宮家の初代たる竹田宮恒久王の父親は北白川宮能久親王で、その父親は伏見宮邦家親王だ 現天皇家の祖先ではないにもかかわらず南朝が正統とされた、というべき >>819
後醍醐流は置いといて、恒明流や邦良流って続いたの?吉野じゃなくて京にいたようだけど 本来の理由は徳川が新田の系統を名乗っていた関係からで尊王とは関係ない 天皇家は血筋より継承が問題なんでね。
かりに南朝が正当でも南北朝合体時に後小松が継承した時点で北朝子孫が正統になった。 天皇家つーか日本のイエ制度はどこもそうだろ
皇室だと血統よりも三種神器と治天宣告が最重要 ちなみに朝廷側では南朝の正統性を一切認めてなくて、一貫して北朝天皇が正統であり続けたとしてきた、
少なくとも明治維新までは。 後醍醐と明治の双方を正統とするための論法なんだよな
明治維新は建武新政を範とする建前のため >>826
違いますがな。
後小松天皇が南朝の天皇位を継いだ時点では両統迭立の約束だった。
ところが約束が守られずに北朝の称光天皇が次の天皇になった時点で
南朝が正統ではなくなったのだよ。 >>831
迭立を条件として決めたのは義満で、北朝側は迭立を受諾してない。義満が当事者にことわりなく勝手に口約束しただけという認識。
むしろ合一より以前から一貫して南朝を朝敵とのみ認定しており、そちらの正統性を一切認めてない
後亀山を渋々上皇に任命したときだって、即位したことがない上皇というあつかいにした 明徳の和約は南朝と幕府が交渉してて北朝は蚊帳の外だったんだよな。後円融がブチキレてなかったかな? 合一後は、長講堂領荘園を北朝の取り分、国衙領を南朝の取り分にしたが
国衙領なんてとっくに崩壊してて、南朝は生活さえ困難に。 >>828
歴史上、新待賢門院が2人いるってことは江戸時代までは南朝はなかったことになっていたのか >>825
徳川は吉良の末流とでも名乗りゃ良かったのに。 >>834
ぶちギレたから、幕府が言った条件を全無視した
それでは面子がたたない幕府が頼んで、後亀山の上皇宣治だけは実現した
特に不満が強かったのが迭立の件 >>838
足利一門は時の権力者で家系を改竄するのが困難だったんじゃ?と推測 >>834 >>839
正平一統の前歴があるからな
足利尊氏が鎌倉へのがれた弟の直義を後顧の憂いなく討ちたいがために、
勝手に自分が擁立した北朝の天皇を廃止して、吉野の南朝の天皇を正しい天皇にしちゃったんだからww >>842
義満時代は従順というか、ひたすら「忍」の一字だったが、義満没後は逆襲に転じた。
義満に奪われた権限を一部取り返し、両朝迭立も反故にした。結構やり手だよ。 それが天皇家が永く続いた秘訣だ。 ex.昭和天皇とマッカーサー 正統な皇統の流れは、
後醍醐→光厳→後醍醐→光明→崇光→後村上→長慶→後亀山→後小松
だろう
神器の移動を基準としたものだが
後醍醐帝は吉野を脱出して南朝を開いた際には実は本物の神器を持ち出せてなかったと見ている
正平の一統で南朝に神器が接収されて正統が南朝に移ったのではなかろうか >>848
少なくとも北朝側では終始一貫して、南朝のことを反乱者と認定していてそこに正統性を欠片ほども認めてなかった
政権としての実効性も京都支配を堅持してるし、
逆に南朝の影響力は早期に低下してて、反乱を起こしたいヤツが口実として利用する以外のまともな影響力を持ってたのは数年だけだ >>851
北方さんの言葉を南北朝にあてはめると、
幕府が覇道で南朝が王道なんですよ。 少なくとも、南朝の主張するような形の正統性観念はそれ以前の日本に普及してなくて、南朝の存在そのものが異端だよな 令和天皇の次の皇統は愛子(敬宮)統と秋篠宮統の両統迭立でいこう >>852
武力倒幕と持明院系統を皇統から外そうとした、後醍醐天皇は、むしろ覇道系の天皇
その覇道の結果、後亀山天皇を最後に大覚寺系統は、二度と皇統に復帰できないと言う
結末となった >>858
なるほど、後醍醐天皇は同じ大覚寺統で、兄の後二条天皇の皇子である
邦良親王にも皇位を渡したくなくて、自分の血統だけで皇位を独占したかった訳でしたか
やっぱり後醍醐天皇は覇道の天皇と言えるわ 出来れば廉子腹が良かったかもだがいざとなれば彼らを見捨てる事にも躊躇が無い
まあ自分と自分の血統が勝者になれなければ皇位も朝廷もどうなろうと構わなかったんだろうが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています