【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
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南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか? 花園の践祚の時に恒明を東宮にしときゃ南北朝分裂はなかったかもな。
てか恒明を立坊しなきゃ亀山院の素意に反するとずっと持明院統から攻撃されるだろう。 二統に分かれて皇位争いしてるだけで、天皇なんか生臭くてありがたくない
利用したい奴らの思惑次第だったのだろう 南北時代に世襲親王家という発想があったらすごいことになったろう 世襲親王家でもっとも古い伏見の宮家は南北朝時代後半に成立してるから、もうちょっとだけ、間に合ってないね 世襲宮家だった可能性が低い上、詳細すら分かってないヤツだよな>五辻宮 木寺宮も南北朝時代なかばごろまで初代の在世中だから、世襲されてはいなかった頃だろ >>780
とはいえ自分の都合のためなら廉子の皇子でも平気で見捨てる後醍醐
後村上がなんとか生き残れたのがむしろ奇跡なくらいで >>177
なんで後醍醐は重祚と言う形を取らなかったんだろう
700年後にWikipediaで
「男性天皇で重祚したのは史上初」
「2019年現在、重祚した最後の天皇である」
とか書かれると思うと俺ならワクワクするんだが。 先例無視の後醍醐でも重祚だけは受け入れられない何かがあったのだろう 破れて退位させられたこと自体を受け入れられなかったんだろ >>800
つまり後醍醐政権下と南朝内でだけ、光厳帝の在位を否定して後醍醐続投と認識してて
北朝や幕府では後醍醐帝は重祚と認識してたわけで、江戸時代後半になるまでは後醍醐帝は廃位の後に重祚と認定されてたわけだよな
明治維新のイデオロギー的な認定変更のまま訂正されずに今に至ってるだけで、
正しくは後醍醐帝は重祚してる 後醍醐→光明→後醍醐
でこののち南北朝で
北朝1光厳
南朝1後醍醐→2後村上
こういうことかな 持明院統と大覚寺統の初代の兄弟に鎌倉将軍がいるんだ、と最近気づいた
東朝・・・・ あるいは光厳即位の時点で南北分立の解釈か
とにかく明治維新の時点で後醍醐と明治天皇の双方を正統化させるために神器の所持をもって正統とするという解釈
よって明徳の和約が絶対視されるわけであり以後の後南朝も公式的には無視される 院政の流れが奇怪至極
亀山後宇多→後深草伏見→伏見後伏見→後宇多後二条→伏見花園→後宇多後醍醐
→南北朝に分裂
後宇多と伏見は院政やりすぎw >>798
先例だと自分の権力を正当化できない後醍醐 朕の新儀は後代の先例となる、などと言い放った後醍醐帝だが、肝心の後代の学者からは、あの時代は物狂いの沙汰が多かったから先例として不適切と断言されちゃったんだよね >>797
後醍醐という名前を変えたくなかったのでは >>811
諡号は死後に贈られるものなんだから、重祚したあとの名前を後醍醐にしてもらえばいいんじゃないの、なんでダメなの?
(重祚すると名前は2つになるけど、その名前は生前から付いてたわけではないはず……)
後醍醐という名前は本人の希望によって付けられた名前だけど、そう名付けるように遺言して付いた名前なんで、生前から呼ばれてたわけじゃないからね。 決めてたのは決めてたけど、法制度上、死後に贈るという形式は必要だったので、生前には「後醍醐という名前にする予定」に過ぎなかった
するってぇと、「醍醐は重祚してないから自分が重祚だと」って感じだった可能性? 伏見宮家の系統
https://ja.wikipedia.org/wiki/竹田宮
https://ja.wikipedia.org/wiki/北白川宮能久親王
竹田宮家の初代たる竹田宮恒久王の父親は北白川宮能久親王で、その父親は伏見宮邦家親王だ 現天皇家の祖先ではないにもかかわらず南朝が正統とされた、というべき >>819
後醍醐流は置いといて、恒明流や邦良流って続いたの?吉野じゃなくて京にいたようだけど 本来の理由は徳川が新田の系統を名乗っていた関係からで尊王とは関係ない 天皇家は血筋より継承が問題なんでね。
かりに南朝が正当でも南北朝合体時に後小松が継承した時点で北朝子孫が正統になった。 天皇家つーか日本のイエ制度はどこもそうだろ
皇室だと血統よりも三種神器と治天宣告が最重要 ちなみに朝廷側では南朝の正統性を一切認めてなくて、一貫して北朝天皇が正統であり続けたとしてきた、
少なくとも明治維新までは。 後醍醐と明治の双方を正統とするための論法なんだよな
明治維新は建武新政を範とする建前のため >>826
違いますがな。
後小松天皇が南朝の天皇位を継いだ時点では両統迭立の約束だった。
ところが約束が守られずに北朝の称光天皇が次の天皇になった時点で
南朝が正統ではなくなったのだよ。 >>831
迭立を条件として決めたのは義満で、北朝側は迭立を受諾してない。義満が当事者にことわりなく勝手に口約束しただけという認識。
むしろ合一より以前から一貫して南朝を朝敵とのみ認定しており、そちらの正統性を一切認めてない
後亀山を渋々上皇に任命したときだって、即位したことがない上皇というあつかいにした 明徳の和約は南朝と幕府が交渉してて北朝は蚊帳の外だったんだよな。後円融がブチキレてなかったかな? 合一後は、長講堂領荘園を北朝の取り分、国衙領を南朝の取り分にしたが
国衙領なんてとっくに崩壊してて、南朝は生活さえ困難に。 >>828
歴史上、新待賢門院が2人いるってことは江戸時代までは南朝はなかったことになっていたのか >>825
徳川は吉良の末流とでも名乗りゃ良かったのに。 >>834
ぶちギレたから、幕府が言った条件を全無視した
それでは面子がたたない幕府が頼んで、後亀山の上皇宣治だけは実現した
特に不満が強かったのが迭立の件 >>838
足利一門は時の権力者で家系を改竄するのが困難だったんじゃ?と推測 >>834 >>839
正平一統の前歴があるからな
足利尊氏が鎌倉へのがれた弟の直義を後顧の憂いなく討ちたいがために、
勝手に自分が擁立した北朝の天皇を廃止して、吉野の南朝の天皇を正しい天皇にしちゃったんだからww >>842
義満時代は従順というか、ひたすら「忍」の一字だったが、義満没後は逆襲に転じた。
義満に奪われた権限を一部取り返し、両朝迭立も反故にした。結構やり手だよ。 それが天皇家が永く続いた秘訣だ。 ex.昭和天皇とマッカーサー 正統な皇統の流れは、
後醍醐→光厳→後醍醐→光明→崇光→後村上→長慶→後亀山→後小松
だろう
神器の移動を基準としたものだが
後醍醐帝は吉野を脱出して南朝を開いた際には実は本物の神器を持ち出せてなかったと見ている
正平の一統で南朝に神器が接収されて正統が南朝に移ったのではなかろうか >>848
少なくとも北朝側では終始一貫して、南朝のことを反乱者と認定していてそこに正統性を欠片ほども認めてなかった
政権としての実効性も京都支配を堅持してるし、
逆に南朝の影響力は早期に低下してて、反乱を起こしたいヤツが口実として利用する以外のまともな影響力を持ってたのは数年だけだ >>851
北方さんの言葉を南北朝にあてはめると、
幕府が覇道で南朝が王道なんですよ。 少なくとも、南朝の主張するような形の正統性観念はそれ以前の日本に普及してなくて、南朝の存在そのものが異端だよな 令和天皇の次の皇統は愛子(敬宮)統と秋篠宮統の両統迭立でいこう >>852
武力倒幕と持明院系統を皇統から外そうとした、後醍醐天皇は、むしろ覇道系の天皇
その覇道の結果、後亀山天皇を最後に大覚寺系統は、二度と皇統に復帰できないと言う
結末となった >>858
なるほど、後醍醐天皇は同じ大覚寺統で、兄の後二条天皇の皇子である
邦良親王にも皇位を渡したくなくて、自分の血統だけで皇位を独占したかった訳でしたか
やっぱり後醍醐天皇は覇道の天皇と言えるわ 出来れば廉子腹が良かったかもだがいざとなれば彼らを見捨てる事にも躊躇が無い
まあ自分と自分の血統が勝者になれなければ皇位も朝廷もどうなろうと構わなかったんだろうが 後醍醐は生前退位する今上にあの世で腹をたててるかもしれない 後醍醐はむしろ譲位後にも権力を保てる立場ではなかった >>858
その証拠に後醍醐流以外の大覚寺統は吉野に行かずに京にいたよな >>862
そりゃそうだろ。
吉野に逃げ込んだ結果、院政を支えるはずの八条院領荘園が解体してしまったんだからな。 というかそもそも天皇という地位にいる以外に権力の正統性を主張できない
血統的に天皇家全体だけでなく大覚寺統としての家長の資格が無いから 血統は別に問題はないだろ。あとは治天の承認も三種の神器もきちんと受け継いだ。
そして討幕したんだから自流の子孫を皇位に就けるのに何の問題もないぞ 後醍醐天皇のやり方が、自分の血統どころか大覚寺統まで
皇統から外される結果を招いた
そして持明院統の血統が皇統を独占する事なった 実父である後宇多上皇が後醍醐を皇太子にする際に、故・後二条天皇(後醍醐の異母兄)の皇子の邦良親王を次の皇太子にするよう命じているし、
幕府や持明院統関係者にもその承諾を取りつけている
そもそも後二条天皇の嫡男たる邦良親王ではなく後二条の庶弟を皇太子としたのは邦良親王が幼すぎたからにすぎず、大覚寺統の嫡流は邦良親王だった。
この段階では後醍醐天皇は庶流であり中継ぎであると誰もが認識していたんだ。
後醍醐帝はそれを不服として後宇多上皇の院政をやめさせたり、既定方針を守らせようとした幕府を倒したりして秩序を打破した覇王。 うん、別にそれでいいじゃん、幕府なくして建武政権になったんだから。それに後宇多も親父の亀山の遺言を反古にしてるだろ そして建武政権も倒れてそれも無効
後醍醐の子供たちに対する対応にはそうした子の親への裏切の連続も反映していたかもしれない 後醍醐天皇の諱は「仁」が付かないけど、何か訳ありなの? >>870
まあ亀山の遺言は恒明を将来立坊させろ止まりなんだよな
後宇多流が嫡流として確立しているあの時点でまだ幼い恒明を嫡流にしろとまでは要求できなかったわけで >>872
後醍醐天皇の親王達も「良」で「仁」が付かないけど
(例えば、護良親王)
何故なんだろうね 後鳥羽順徳仲恭後二条も「仁」がつかない
鎌倉時代はちらほらいる 時系列、例えば神代〜人皇〜という話など
そういうのがデタラメだからなんだよ
と言ってる人がいたでしょ、
超時空マクロス・・・そういうのと同じだとか 北朝の光明天皇が在位してなかった扱いなのに
どうして江戸時代の後水尾天皇の皇子が後光明天皇となるのか?
江戸時代の感覚では南朝こそ偽朝だったのか? そうだよ
少なくとも朝廷側では、過去の南朝は朝廷ではないと認定されていた ttps:// ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11967020427.html?frm=theme
そもそも後醍醐は本来天皇以前に親王にすらなれる人間じゃなかった
後宇多は尊治(後醍醐)の親王宣下を拒否するが絶対に親王になる野心の尊治は自分の生母すら使って祖父の亀山に取り入って
好色の亀山が生母を自分の後宮に取り込む形で親王宣下を下す
後醍醐が大覚寺滅亡の原因だって言う意見にはもちろん別に異論はないが
そもそもその後醍醐を皇位継承者にさせる行為をした亀山にもぶっちゃけ大きな原因が有る
正直言えば大覚寺は始祖の亀山自身が滅亡の原因と言い切ってもおかしくない >>877
南朝が正統は明治からだよ
江戸時代に新待賢門院がいた。阿野廉子も新待賢門院だが南朝はなかったことになってたから被ってても問題なかった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています