【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
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南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか? 令和天皇の次の皇統は愛子(敬宮)統と秋篠宮統の両統迭立でいこう >>852
武力倒幕と持明院系統を皇統から外そうとした、後醍醐天皇は、むしろ覇道系の天皇
その覇道の結果、後亀山天皇を最後に大覚寺系統は、二度と皇統に復帰できないと言う
結末となった >>858
なるほど、後醍醐天皇は同じ大覚寺統で、兄の後二条天皇の皇子である
邦良親王にも皇位を渡したくなくて、自分の血統だけで皇位を独占したかった訳でしたか
やっぱり後醍醐天皇は覇道の天皇と言えるわ 出来れば廉子腹が良かったかもだがいざとなれば彼らを見捨てる事にも躊躇が無い
まあ自分と自分の血統が勝者になれなければ皇位も朝廷もどうなろうと構わなかったんだろうが 後醍醐は生前退位する今上にあの世で腹をたててるかもしれない 後醍醐はむしろ譲位後にも権力を保てる立場ではなかった >>858
その証拠に後醍醐流以外の大覚寺統は吉野に行かずに京にいたよな >>862
そりゃそうだろ。
吉野に逃げ込んだ結果、院政を支えるはずの八条院領荘園が解体してしまったんだからな。 というかそもそも天皇という地位にいる以外に権力の正統性を主張できない
血統的に天皇家全体だけでなく大覚寺統としての家長の資格が無いから 血統は別に問題はないだろ。あとは治天の承認も三種の神器もきちんと受け継いだ。
そして討幕したんだから自流の子孫を皇位に就けるのに何の問題もないぞ 後醍醐天皇のやり方が、自分の血統どころか大覚寺統まで
皇統から外される結果を招いた
そして持明院統の血統が皇統を独占する事なった 実父である後宇多上皇が後醍醐を皇太子にする際に、故・後二条天皇(後醍醐の異母兄)の皇子の邦良親王を次の皇太子にするよう命じているし、
幕府や持明院統関係者にもその承諾を取りつけている
そもそも後二条天皇の嫡男たる邦良親王ではなく後二条の庶弟を皇太子としたのは邦良親王が幼すぎたからにすぎず、大覚寺統の嫡流は邦良親王だった。
この段階では後醍醐天皇は庶流であり中継ぎであると誰もが認識していたんだ。
後醍醐帝はそれを不服として後宇多上皇の院政をやめさせたり、既定方針を守らせようとした幕府を倒したりして秩序を打破した覇王。 うん、別にそれでいいじゃん、幕府なくして建武政権になったんだから。それに後宇多も親父の亀山の遺言を反古にしてるだろ そして建武政権も倒れてそれも無効
後醍醐の子供たちに対する対応にはそうした子の親への裏切の連続も反映していたかもしれない 後醍醐天皇の諱は「仁」が付かないけど、何か訳ありなの? >>870
まあ亀山の遺言は恒明を将来立坊させろ止まりなんだよな
後宇多流が嫡流として確立しているあの時点でまだ幼い恒明を嫡流にしろとまでは要求できなかったわけで >>872
後醍醐天皇の親王達も「良」で「仁」が付かないけど
(例えば、護良親王)
何故なんだろうね 後鳥羽順徳仲恭後二条も「仁」がつかない
鎌倉時代はちらほらいる 時系列、例えば神代〜人皇〜という話など
そういうのがデタラメだからなんだよ
と言ってる人がいたでしょ、
超時空マクロス・・・そういうのと同じだとか 北朝の光明天皇が在位してなかった扱いなのに
どうして江戸時代の後水尾天皇の皇子が後光明天皇となるのか?
江戸時代の感覚では南朝こそ偽朝だったのか? そうだよ
少なくとも朝廷側では、過去の南朝は朝廷ではないと認定されていた ttps:// ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11967020427.html?frm=theme
そもそも後醍醐は本来天皇以前に親王にすらなれる人間じゃなかった
後宇多は尊治(後醍醐)の親王宣下を拒否するが絶対に親王になる野心の尊治は自分の生母すら使って祖父の亀山に取り入って
好色の亀山が生母を自分の後宮に取り込む形で親王宣下を下す
後醍醐が大覚寺滅亡の原因だって言う意見にはもちろん別に異論はないが
そもそもその後醍醐を皇位継承者にさせる行為をした亀山にもぶっちゃけ大きな原因が有る
正直言えば大覚寺は始祖の亀山自身が滅亡の原因と言い切ってもおかしくない >>877
南朝が正統は明治からだよ
江戸時代に新待賢門院がいた。阿野廉子も新待賢門院だが南朝はなかったことになってたから被ってても問題なかった >>881
三種の神器を持っていたのが南朝だったから 明治維新に際して南朝正統を採る水戸学の影響が大きかったから
明治天皇も自分を支えてくれた元勲達の思想信条を無下にできなかった >>883
その水戸学の創始者、光国が兄の頼重の子を後継ぎにしているのに
後醍醐天皇が、兄の後二条天皇の子や孫に継がせなかったのを
不忠に扱わないのも矛盾してるよね。 後醍醐と本来同じ役割を与えられていた北朝の花園が
きちんと裏方に徹してるからどうしても後醍醐の自己中さが目立つ
大覚寺統は持明院統と違って天皇経験者の連携が取れてないよね 上にあるように後醍醐の親王宣下に後宇多が反対していたことが事実なら、大覚寺統は亀ちゃんの時点で終わっていたということか >>883
黄門さんは南朝正統という意図はなく楠公を顕彰したんじゃないと聞いたことがあるけど。 >>872
>>874
後醍醐の父の後宇多の頃から子供に「仁」ではない字を当ててるな
後宇多皇子・治
後醍醐皇子・良
後村上皇子・成
長慶や後亀山はよく分からん
長慶皇子を泰と主張する人もいるがその辺りも分からん
亀山も途中までは仁だったけど後の方は関係無い字だったりするし
大覚寺はその時の天皇で息子の通字を変えてたみたいだし >>888
大日本史の骨格は光圀存命中に完成している
南朝の天皇を本編に書き、北朝の天皇を外伝のように設定して書いた それでも合体以後は旧北朝が正統で後南朝は無視
>>886
そもそも始祖の亀山が弟系だから弟系の統制が取り難い
そこを問題にしたらそれこそ亀山の正統性にも関わってくるし >>889
後二条天皇(邦治)の 息子は 邦○だけど
孫の世代は ○仁なり 曾孫は 邦○
大覚寺統は よくわからん命名してるよね。 本家とは異なる命名規則を使ったってことは、自分たちは分家だ、別家だと認識してたってことじゃないの >>897
醍醐〜村上〜円融〜 が皇統の本流になったけど
後醍醐〜後村上の次が 後円融じゃなく長慶なんだよね。
後円融は北朝第5代目にとられたのかな >>894
南朝正当という割には新田には男爵。楠木正季系の甲斐庄には爵位すら与えてないな。 政党王朝は南朝で、その南朝に尽くした新田一族である徳川は朝廷の中心ってのが
最初期の水戸学のスタンスだしね >>901
水戸学の源流は家康の系図詐称に端を発しており、
それが幕末動乱に繋がると考えると興味深い みなもと太郎『風雲児たち』
「若かりしころの水戸黄門が、『宋書』を読んで感動したことが、江戸幕府滅亡の原因となる」 光厳から後円融までの北朝の5人の天皇は歴代天皇に含まれていないが、南朝の後村上は97代、
長慶は98代、後亀山は99代に数えられてる
淡路廃帝(淳仁)や九条廃帝(仲恭)でさえ歴代にカウントしたのに、北朝の5帝が無視されてるのは
明治時代の7不思議の一つだな(残りの6つは知らん) そりゃ倒幕運動の思想的背景に南朝正統論が入ってるからな
その信仰ゆえに、北朝は偽帝ということにしなくてはならなかったんだよ あんまり後醍醐を崇める気にならない。
今に続く皇統は北朝の末裔なのだから。 北チョン南チョン
うるせーんだよオマエラ
ここは日本史板だぜ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 馬鹿は死んでも治らない、か。
せめて中国史を語るな位言って欲しかった。 >>905
それでも合体以後は正統だからな
系図的にも偽帝というより仮帝の扱い 合一までは南朝が正統だという主張自体が南朝による一方的な主張にすぎず、それを信じてるのは当時ですら一部にすぎなかった
むしろ北朝の主張である、南朝は一貫して賊であり偽帝であるという主張の方が、多少なりとも賛同が多かったし、そこまで極端な主張でなくとも南朝よりは北朝を支持する人が多数派だった 日本も中国も南朝が正当なのは現職のお上が南に逃亡したのがでかい。 中国の南北朝の時は、北から逃げて南で即位したんじゃないぞ
左遷でもともと南にいた皇族が勝手に離反して即位しただけで、正統性の度合いは蜀漢より少しましな程度
当初から正統性に疑念があったらしい 南朝の最大の正当化の根拠は現職優先という点
そしてそれまでの途中退位は強要だったから無効
それに最初の即位の時点では全体の合意が存在していた
ただしなった以上降りるかどうかは現職の勝手であり自由 >>912
有名な資治通鑑でも中国の南北朝は現役北宋の正当性を揺るがすデリケートな問題だぞ。日本の南北朝と度合いは同じ。 強要で退位した天皇が後醍醐より過去にはいなかったかのごとき詭弁だな、それ >>913
南朝の正統性主張の最大の根拠は三種の神器を持っているということだろ >>910
いやいや足利が武力で擁立したのが北朝だから
内心では比叡山も住吉大社も南都も南朝支持だよ >>916
南朝成立当初の状況を見れば神器保持の主張はウソで本物を持ってるのは北朝だった可能性が高い
南朝が神器を入手したのは正平一統のときで後醍醐ではなく後村上のときだろ だが歴史の定説は南朝による保持。
それを覆すのであれば証拠を添えて唱うるべし。 南朝を正統としてるのは歴史学じゃなくて政治問題によるものだぞ
学者は正統性に口出ししたがらないが、南朝正統と考える人はゼロに近い まあ異常なまでに自負心の強い後醍醐にしてみれば俺が持っていれば本物だくらいのつもりだったんだろうが つまるところ南北朝時代なんて結局は後醍醐という存在を肯定するか否定するかって事だけなんだよな 戦国時代、元禄時代みたいなサブタイトル的な区分だろ。 後醍醐は立ち位置的にヘンリー七世に近いか。
お後がよろしかったが。 まさに後醍醐の怨霊に振り回されたという感じの後世
その意味からすれば南朝正統はせめてもの鎮魂術といったところか
もちろん合体後の後南朝は無視で h ttps://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11967020427.html?frm=theme
この説から言わせりゃ始祖の亀山自身がそのまま滅亡の種を撒いたと言うのは別におかしくない
持明院が基本一本化でまとめようとしてるのに大覚寺はどんどん家を分裂させている
これは結果論的にも悪い方向にしかなっていない 後宇多「一本化したかったけど親父と息子が邪魔するんだもん(´・c_・`)」 後醍醐天皇の子孫で確実なのはいない、怪しげなものだけ。 持明院統も崇光流と後光厳流に危うく分裂しそうになったな。後小松はよくやったよ 後継者がいなかったのだから、どうしようもなかっただけ >>934
そして、あおりをくったのが一休さん
後光厳流で続投できる余地があるなら還俗して皇太弟になれるはずだったのにな >>930
それはおかしいだろ
亀山は別に後嵯峨みたいに曖昧な態度をとったわけじゃない
ちゃんと後継者を指名してから死んだんだから責任は無いよ >>937
後嵯峨には権限がなかった
出家予定で23歳まで元服もしていなかったが
四条天皇の夭折で急遽、鎌倉幕府に擁立された
だからどちらにするかは鎌倉幕府に委ねると言って死んだ
委ねられた執権・北条時宗が両統迭立にすると言った 権限がなかったってのは誤解や勘違いの類いだがな
承久の乱は幕府から見れば辛勝で朝廷から見れば圧倒的大敗
幕府側は承久の関係者の復員は絶対的に避けたい、トラウマものだったが、朝廷側はこれもトラウマもので関係者の復員は想定外
配流者の孫を即位させても配流の取り消し(帰京)は考えがたいし、かりに帰京させたとしても院政をすることなどあり得ないと思って、残留皇族のうちでもっとも世代数の近いものを登極させようと思ったが、
それが幕府側のトラウマ直撃して、幕府としては自らの存亡をかけてまで阻止しようとしたわけだ
この辺のすれ違い、認識のずれゆえに朝廷の権限が過小評価されてるだけ 時宗も一応は後嵯峨の後家にお伺いをたてたようだが。朝廷と幕府のコミュニケーションが上手くいってなかったのかな? 北条義時なんて天皇になれたはずなのに、相模守のままというのが理解できん 源氏から天皇になった人はいるが平氏から天皇になった人はいないからな 後南朝の宮たちの大多数は出家してるのに担ぎ出されてるけどな
つまり、無理なわけではなくて、ほかに候補がいなければ天皇になれるはずだと認識する人がそれなりに多く居たってことだろ 出家は無理とか言うけどそもそも天武も一旦出家したし レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。